麒麟 が くる 土岐。 麒麟がくる【土岐頼芸の父・土岐政房】大河ドラマ麒麟がくる以前の美濃、土岐氏、斎藤氏の関係に迫る②

【土岐頼芸とは】「麒麟がくる」で大活躍!!人物像や経歴をわかりやすく解説!

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俳優の矢野聖人(28)がNHK大河ドラマ「麒麟がくる」(日曜後8・00)第2話(26日)で大河ドラマ初出演を果たすことが25日、分かった。 美濃の若き守護で、斎藤道三(本木雅弘)の娘・帰蝶(川口春奈)の最初の夫・土岐頼純役。 矢野は「『麒麟がくる』に出演が決まった時、うれしかったのはもちろんなのですが、長年続いている大河ドラマに出演できるという喜びの方が大きかったです」と笑みをこぼした。 俳優の長谷川博己(42)が主演を務める大河ドラマ59作目。 第29作「太平記」を手掛けた名手・池端俊策氏(74)のオリジナル脚本で、智将・明智光秀を大河初の主役に据え、その謎めいた半生にスポットを照らす。 物語は1540年代、まだ多くの英傑たちが「英傑以前」だった時代から始まり、それぞれの誕生を丹念に描く。 19日の初回視聴率は19・1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。 大河ドラマの初回19%超えは2016年「真田丸」19・9%以来4年ぶりの好発進となった。 矢野は2010年に「ホリプロ50周年事業 身毒丸オーディション」グランプリに輝き、芸能界入り。 ドラマ「リーガル・ハイ」「ラジエーションハウス~放射線科の診断レポート~」などに出演、幅広く活躍している。 矢野は「時代劇という自分にとってあまり馴染みのないジャンルでお芝居をさせていただくのに、自分の力が最大限発揮できるか不安な部分もありましたが、スタッフの皆さまにサポートしていただき、素敵なシーンが出来上がったと思っております!」と手応え。 頼純の感情の変化に伴った表情に是非、視聴者の皆さまには注目していただきたいです!」と呼び掛けた。

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麒麟がくる【土岐の鷹】土岐頼芸が描いた鷹の絵は実在するか?土岐一族の鷹の絵を紹介!

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画像:応仁の乱 wikipedia 斎藤利政の権勢に 怯 おび える守護の土岐氏、守護代は守護が任命する代官なのにみっともないですね?でも、実は守護代の斎藤氏の権勢に怯えるのは何も、頼芸一人ではありません。 というより、守護の土岐氏は室町後期から、代々守護代の斎藤氏のお陰で国主になったようなものでした。 時代は麒麟がくるの舞台である戦国後期から90年ほど遡ります。 当時の美濃守護は 土岐持益 ときもちます と言いましたが、後継ぎの嫡男の 持兼 もちかね が早死にした為に持益は孫の亀寿丸を後継ぎにしようとします。 しかし、これに守護代の斎藤利永が反対し、名門 一色義遠 いっしきよしとう の子の 一色成頼 いっしきなりより を擁立して戦い、康正二年(1456年)敗れた持益は隠居させられました。 そうです!応仁の乱以前から、美濃では守護代が守護を破るという下克上が頻発している土地だったのです。 かくして 斎藤利永 さいとうとしなが が擁立した一色成頼が守護となり、11代守護土岐成頼と名乗ります。 とはいえ、成頼は斎藤利永に擁立されたようなものであり、実権はほとんどありませんでした。 応仁の乱守護斎藤氏の独壇場 応仁元年(1467年)応仁の乱が勃発します。 土岐成頼は西軍の山名氏に与し、8000騎を率いて京都に帯陣して戦います。 一方で本国の美濃は、実質的な守護代の 斎藤妙椿 さいとうみょうちん が守備、美濃国内で東軍の細川勝元に属した富島氏や長江氏が斎藤氏に襲い掛かり内乱状態になります。 しかし、越前の 朝倉孝景 あさくらたかかげ に匹敵する戦上手で知られた斎藤妙椿は、富島氏と長江氏を打ち破った上に、どさくさに紛れて東軍に味方している幕府奉公衆、公家、寺社の荘園や 国衙領 こくがりょう を奪い取り、勢力は尾張、伊勢、近江、飛騨まで拡大します。 これでは、国内にいない成頼の威信は低下する一方で、全くの妙椿の言いなりであり妙椿は西軍のキーマンとして振る舞いました。 なーんだ、、頼芸とさして変わらないじゃないかと思った方、まさしくその通りで土岐氏は守護代の斎藤氏に頭が上らないのです。 応仁の乱が終ると、実に11年ぶりに、成頼は西軍の名目上の総大将だった 足利義視 あしかがよしみ と息子の 義材 よしき の二人を 庇護 ひご しつつ革手城に帰国します。 守護代斎藤氏同士の争いでも成頼動けず・・ 文明十二年(1480年)絶大な権勢を振るった斎藤妙椿が死去します。 すると、妙椿の兄であった守護代 斎藤利藤 さいとうとしふじ と、異母弟で妙椿の養子に入った 斎藤妙純 さいとうみょうじゅん が後継者の地位を巡って美濃文明の乱を争います。 戦いは、斎藤妙純が勝利し、斎藤利藤は近江に逃げていき幕府の保護下に入りました。 ところが、この間、土岐成頼は特になにもする事がなく傍観していたので、守護代斎藤氏の力を削ぐ事は出来ませんでした。 ばかりか、成頼は、自ら土岐氏の権勢を下げるような行動に出ます。 明応三年(1494年)四男の元頼を溺愛した成頼は、後継者と定めていた正房を廃嫡して元頼を守護にしようとしたのです。 成頼は、小守護代の 石丸利光 いしまるとしみつ に元頼を擁立させ、政房を擁立する守護代斎藤妙純と対立します。 当初は成頼が妙純と戦うものの説き伏せて和解が成立しますが、翌明応四年再び戦争となり、成頼は妙純に敗北。 成頼は敗走して家督を政房に譲り、隠居、元頼は石丸利光と抗戦を続けるも明応五年に敗れて自害しました。 なにやってんだよ、成頼、、kawausoも思わず舌打ちです。 斎藤妙純戦死・・でも、政房は? 斎藤妙純の擁立で、美濃守護の地位についた12代土岐政房ですが、思わぬチャンスがやってきます。 明応五年(1497年1月)斎藤妙純が近江出兵中に、 土一揆 どいっき の軍勢に襲われて長男もろとも戦死したのです。 嫡男が死んだ斎藤氏では、幼少の孫、 斎藤利良 さいとうとしなが に家督を継がせ、次男三男に後見させます。 さあ、美濃の実権を取り戻すチャンスと思いきや、政房は父に自分がやられた愚行を、性懲りもなく繰り返しました。 嫡男の頼武を差し置いて次男の頼芸を後継ぎにしてしまったのです。 怒った頼武は、またしても守護代、斎藤利良の支援を受けて逆襲し、永正十六年(1519年)に頼芸を追い払い守護に就任します。 しかし、翌年には頼芸が盛り返し、頼武は窮地に陥りますが、その頃に守護の政房が死去しました。 これを契機に頼武は、越前朝倉氏の支援を受けて、再び頼芸を追い出して実力で美濃守護になります。 勝つ事は勝ちましたが、守護代斎藤氏の力を借りたのには違いなく、結局頼武も守護代斎藤氏の 傀儡 かいらい でした。 本当に何代も進歩がないと言うか、、仲が悪いだけというか・・ 守護斎藤氏は没落しマムシ二代が台頭 しかし、守護になった頼武の天下も長くは続きませんでした。 斎藤氏の庶流の 長井長弘 ながいながひろ と、その家臣である初代道三、 松波庄五郎 まつなみしょうごろう が頭角を現し、享禄三年(1530年)には頼武を越前に追放し、頼芸を守護に据えたのです。 これにより、守護代斎藤氏の権勢は決定的に没落し庶流の長井氏が台頭してきますが、その配下の松波庄五郎が守護の頼芸に近づいていき、長井氏を 讒言 ざんげん し一族を皆殺しにして、息子に長井氏の家督を継がせます。 これが「麒麟がくる」に登場する二代目の道三である 長井規秀 ながいのりひで です。 やがて、長井規秀は没落した守護斎藤氏の家督を継いで、 斎藤利政 さいとうとしまさ になったのです。 頼武は、その後も朝倉氏の支援を受けながら、美濃守護の地位奪還を図りますが、果たせずに死去。 その遺志は、息子の頼純に引き継がれ、朝倉氏、織田氏の援助を受けつつ、頼芸、斎藤利政との間で戦争が繰り返されます。 そこで斎藤利政は頼純と和睦し頼芸を一度隠居させ、頼純を守護に据えて娘の帰蝶を輿入れさせました。 ところが、頼純は守護になって、一年足らずで急死します。 死因は不明ですが、斎藤利政による毒殺説も有力です。 そんなこんなで頼純がいなくなり、美濃守護の地位が不安定になったので、斎藤利政は、一度、隠居させた土岐頼芸に守護職に就いてくれと命令しているのです。 麒麟がくるライターkawausoの独り言 土岐頼芸は、祖父である成頼を尊敬し、代々の守護が描いてきた鷹の絵を描いているのですが、ぶっちゃけ偉大な祖父の時代から土岐氏は守護斎藤氏に頼り擁立され、一族で喧嘩ばかりで、少しも権力が取り戻せないトホホな一族なのです。 関連記事: 関連記事:.

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【麒麟がくる相関図】土岐家と斎藤家・明智家など美濃の関係を解説!年表についても

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スポンサーリンク 土岐の鷹 土岐一族と土岐の鷹 美濃国で守護の地位にあった土岐氏一族は武家でありながら代々、和歌・連歌・漢詩・猿楽・絵画などの文化文芸に造詣を深めていました。 このため、土岐一族からは幾つもの書画を書き残す人物が輩出され、特に一族が好んで描いた鷹の絵は「土岐の鷹」として代々伝えられていきました。 土岐一族の中で「土岐の鷹」を得意とした者には、土岐頼忠、土岐頼芸(富景、洞文?)、土岐頼高が挙げられ、全員が武人画家として評価されています。 頼忠が描いた土岐の鷹、「蒼鷹の図」は雅号である「衲正筆」の文字が光によって浮かび上がる隠し落款となっている大変珍しいものです。 一族の中で特に秀でていたとされる頼芸の描いた鷹の絵は珍重され、土岐頼芸の名が「土岐の鷹」の代名詞のようになっています。 また、土岐氏系図上で確認できませんが、同時期に鷹の絵を得意とした一族の画家・土岐冨景、土岐洞文は、頼芸と同一人物と推定されています。 頼芸作としては瑞浪市の開元院所蔵の「鷹の図」、千葉県夷隅町郷土博物館所蔵の「鷹の図」が残っています。 さらに同一人物とされる富景作として「鷹の図」も東京国立博物館に所蔵されています。 頼次はその後、豊臣秀吉に馬廻として仕えたあと、さらに徳川家康に仕えて関ヶ原の戦いに従軍し、徳川幕府が開かれると旗本になりました。 土岐頼高は頼次の次男として生まれ、尾張藩徳川家に仕えて「鷹の図」を残しました。 これまで土岐一族が描いてきた「土岐の鷹」とは全く画風が異なり、鷹の表情が穏やかになっていると感じるのは戦のなくなった江戸時代の時代背景が影響していると考えられます。 出典:.

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