2019年7月17日放送のニッポン放送系のラジオ番組『佐久間宣行のオールナイトニッポン0 ZERO 』 毎週水 27:00-28:30 にて、テレビ東京プロデューサーの佐久間宣行が、「テレビ業界一のイケメン」三宅優樹ディレクターについて語っていた。 リスナーメール:先日の『三四郎のオールナイトニッポン』の相田さんが、スタジオの隅で佐久間さんがスマホをイジって勃起していたと言っていました。 佐久間宣行:ちょっと待ってくれよ、ちょっと待ってくれ 笑 リスナーメール:「クズだ、クズだ」とは思っていましたが、私は本当にこんな人がいるんだと逆に感心してしまいました。 もう二度とテレ東は見ません。 さようなら。 佐久間宣行:いや、違う違う。 俺、聞いたよこれ。 ちょっと待って、この話させて。 先週、聞いたのよ、『三四郎のオールナイトニッポン』ね。 そしたら、まぁ家で仕事しながら『三四郎のオールナイトニッポン』聞いてたら、相田がフリートークで『青春高校』の話をしてたのね。 『青春高校』で、生放送が終わった後の夜7時ぐらいから、放課後ライブってのやってるのね。 テレビ塔のスタジオでライブやってるんだけど、そこに相田が生徒が辞めた後抜けた、ダンスボーカル部のセンターやってたの。 なんだけど、生徒が揃ってきたから新しくダンスボーカル部を作り直すから、相田はその日で卒業だったの。 だから、放課後ライブ出ます、と。 普通は出ないなんだけど、出てくれて。 で、演出の三宅 の提案で、サプライズで生徒たちが踊る前に、手紙を読むみたいなコーナーがあったの。 それで生徒たちが泣く、みたいな。 そういう瞬間があって。 で、その演出の三宅って奴が、ちょっと話が横に逸れちゃうんだけど、テレビ界一のイケメンなのよ 笑 これ、マジで 笑 本当にね、これだけはいつか言おうと思ったんだけど、俺が知ってる業界の人の中で、ダントツのイケメンなのね、三宅っていうのがマジで。 三宅「秋元康さんという天才の意見を、佐久間宣行という天才が解釈しながら作っている番組ということで、僕みたいな凡人はポカンとしちゃうこともけっこうあるんですけど 笑 」/「クラス内恋愛が発覚したら生放送でイジります 笑 」【「青春高校3年C組」演出・三宅優樹】 — てれびのスキマ/戸部田 誠 u5u タッパもあって、おしゃれで、シュッとしてて。 後輩のADとして入ってきた瞬間、「うわ、カッコイイ」って思ったの。 それなのに、そのイケメンの三宅が、自分で考えたサプライズの演出なのに、自分で泣いちゃったと。 で、なんていい奴なんだみたいなことを相田が言ってたの。 三宅上げしてたのね。 で、元バンドマンで超イケメンなのにベースやってんだよね。 ギターヴォーカルでいいのに…多分、ギターヴォーカルの奴がやりたいって言ったんだろうね。 三宅はやっぱベース選ぶのよ。 そういういいところもあるの。 でも、バンドで一番人気 笑 あと、N. Hoolywoodしか着ないの。 めちゃくちゃオシャレ。 俺、アイツと昔、メシ食いに行ったんだけど、アイツただの白の普通のTシャツだったのね。 なのに、メシ食い終わって店から出てきたら、店の店主から走ってきて。 「俺のラジオ聴いてる人かな?」とかと思ったら違って。 「その白のTシャツのカッティング、凄くないですか。 そのTシャツ、どこで買ったか教えてもらえませんか?」って。 俺のラジオのリスナーなわけないじゃん 笑 それぐらいもうオシャレだし、カッコイイのよ。 画像検索して出てくるかな。 でも、やっパッて見た瞬間に思うよ。 「うわ、イケメン」って言うと思う 笑 イケメン過ぎて笑っちゃうディレクターがいんのよ 笑 その三宅は置いといて…その三宅がワンワン泣いてんのに、奥で佐久間がスマホをイジってた。 で、「アイツのことだから多分、エゴサーチして勃起してんだろ」って 笑 失礼にもほどがあるよね 笑 エゴサーチすることはあるけど、俺、エゴサーチで勃起したことねぇから 笑.
次の被爆経験、イサム・ノグチと五月革命 1938年、広島県広島市生まれの三宅一生は7歳の時に被爆していましたが、長らく自身の被爆経験を世間に語りませんでした。 「自分も長くは生きられないだろうから、30歳か40歳までにできることをやろう。 原爆を言い訳にしない。 高校卒業後は東京の多摩美術大学図案科で学び、在学中にファッションクリエイションの登竜門である 装苑賞を2回受賞し頭角を現します。 1963年に大学を卒業後、初コレクション「布と石の詩」は大好評。 1965年、オートクチュールを学ぶためにパリに渡り、 ジバンシィなど2つのメゾンでアシスタントを務めた後、1968年に パリの五月革命に遭遇します。 政権下にあったフランスは経済発展が衰え始めた時期で、経済優先主義が生み出した格差社会に対して不満を抱いていた左翼の大学生たちが、パリ大学ナンテール校を占拠してしまいます。 そして、学校を閉鎖した政府に怒った学生が警官隊と衝突し、大学生を応援した労働者や市民がデモに参加したことから五月革命が始まりました。 このとき、三宅は限られた富裕層のために衣服を作るオートクチュールではなく、 より多くの人々のための服作りをすることを決意したのだとか。 監督作『』(2017年)では五月革命の雰囲気を味わうことができます。 本作は映画監督の『中国女』(1967年)でヒロインに抜擢され、のちに2番目の妻となったの自伝的小説を映画化したもので、ゴダールと彼女が革命に傾倒していく様子がコミカルに描かれており、若きゴダールを形成したパリの社会や恋愛模様が興味深い作品です。 そして、1973年、パリ・プレタポルテのコレクションで世界に衝撃を与えた「 1枚の布」というコンセプトーー。 つまり、 身体と布の間にできる空間が生み出すシルエットと、「動くと肌に触れる布の感触を楽しめる」心地のよさをデザインした衣服を、「1枚の布」から立体的に造形するーー。 プリーツとは、20世紀初頭にマリアーノ・フォルトゥーニがヴェニスで発明した技術で、プリーツが加工された生地を裁断して衣服が作られるのが通常のプロセスですが、「イッセイ ミヤケ」は、 衣服の形に裁断・縫製した後でプリーツをかける「製品プリーツ」という技法を発明。 なお、「製品プリーツ」は、プリーツ加工による布の収縮率をあらかじめ計算して、裁断・縫製を施さなくてはいけないので、最終的なサイズの2. 5倍から3倍の大きさの布を加工して、想定したデザインを創りだす必要があります。 それには、 緻密にプログラミングされたプリーツマシーン、 布の特性を知り尽くした職人技術、加えて、 デザインの感性が必要。 つまり、「プリーツ プリーズ」は、「 テクノロジーと人の枠」が働きあうことで生まれたクリエイションなのです。 その名のとおり、 この衣服を身につけると、その軽さ、着心地のよさ、動きやすさに驚かされます。 細身の衣服なのに着用すると身体のラインに沿い、細めの人はふっくらと、太めの人はスリムに見えるシルエットが素晴らしく、コンパクトに畳んでもシワにならず、水洗いもできるという機能性も高いもの。 さらに、「プリーツ プリーズ」が画期的な点は、ひとつのブランドとして、プリーツ技術を日々進化させ、継続的に新しい衣服を発売しているところ。 、、、やら豪華キャストによるギャグタッチの演技や演出がダークなコメディですが、さりげなく、ファッション業界が起こす競争社会、産業公害や消費文化へのアンチテーゼが潜んだ傑作。 映画には、80年代から90年代の代表的なデザイナー、、らとともに三宅一生も出演しています。 映画のラストは「ファッションとはどの服を着るのかではなく、自分が何を求めるのか」という印象的なセリフで締めくくられ、 「イッセイ ミヤケ」のコレクションが、あたかもその問いかけに答えるかのように登場。 身体を覆うことから始まったとも言える人間の歴史において、いまや、天候や環境から身体を守る以上の意味がある衣服。 ファッションとはなんなのかーー。 そんなことを考えさせられる作品です。 ジョブズの天才的な才能とダークな人間性の両方を映し出した本作はアップルの創生期を理解する作品には仕上がっていますが、ジョブズの人物像には賛否両論があります。 作中にも登場する、 黒のタートルネック、 リーバイス501、 グレーのニューバランス991という有名なジョブズのスタイル。 あの タートルネックは実は「 イッセイ ミヤケ」だということをご存知でしたか? ジョブズが「イッセイ ミヤケ」を着用し始めたのは、ソニーの会社訪問がきっかけなのだとか。 1980年代のある日、ジョブズがソニーの会社に見学に行ったときに、社員が制服を着ているのを見て驚き、当時の会長だった盛田昭夫氏にその理由を尋ねてみたところ、第二次世界大戦後の日本は貧しく会社の制服が喜ばれたこと、その上、制服が会社と社員の結びつきにつながったことを聞いたそう。 そのときのソニーの制服が「イッセイ ミヤケ」で、ジョブズもアップル社員の制服としてベストを作りましたが、アップルの社員には制服が受け入られなかったのだとか。 代わりにジョブズは三宅一生自身が着ていた タートルネックを自分用にオーダーしました。 「イッセイ ミヤケ」の当時のクリエイティブディレクターだった滝沢直己氏が来日したジョブズを採寸し、タートルネックを数百枚送ったところ、「これは違う」と 全て返品されてしまったのだそう!生地の密度がオリジナルと僅かに違っていたからです。 映画で描写されたジョブズの妥協を許さない美学がこの逸話にもうかがえます。 、、……世界のハイブランドは創業デザイナーの死後に後継者を指名してきたのに、現役で活躍できる三宅が若いデザイナーにブランドを継承したのはなぜなのかーー。 「イッセイ ミヤケ」3人目のクリエイティブディレクターだった藤原大は「 ブランドとして創業した三宅のスピリッツを伝えていくこと、それをまた、後継者に引き継いでいくことが自分の役割だ」と語りました。 ファッション工科大学(FIT)を卒業後、「シャネル」「資生堂アメリカ」のマーケティング部勤務を経てライターに。 アメリカ在住経験や映画に登場するファッションから作品を読み解くのが好き。 Twitter: sakuya kono Instagram: sakuyawriter.
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三宅デタガリ恵介は、本名「三宅恵介」というフジテレビの元プロディーサーである。 人物の来歴 三宅ディレクターは、1949年生まれで、1980年代は、30代と言う働き盛りの遊び盛りの年齢でした。 また、そのあだ名「三宅デタガリ恵介」の由来にもなりますが、取材やロケでも目立つためにと、赤いシャツやセーターを着たり、裏方の筈なのに、オレたちひょうきん族では、他のディレクターとレコードまで発売しています。 実家が花柳流の家系でもあり、芸能に関しては、人一倍の興味と見て貰いと言う気持ちが強い人なのでしょう。 デタガリエピソード 当時、オレたちひょうきん族を見ていると本当に色々な場面で見きれていました。 そして、そのままレコードデビューをするのですが、この流れは、とんねるずの「野猿」にも通じますが、本来の裏方が表に出て、思い出作りをするパターンと異なり、三宅ディレクターは本当にただただ、映りたかったのではないのではと思える部分があります。 有名な「懺悔室」ですが、神父役は、横澤さんから三宅ディレクターに引き継がれました。 その後 オレたちひょうきん族では、ハチャメチャでしたが、それ以外では手堅い仕事ぶりの様です。 他のディレクターが現場から離れる中、生涯現場で演出をしていたプロディーサーだった様です。 何故か、インタビュアーもしていますが、やはりデタガリな部分は変わらない様です。 思い出 オレたちひょうきん族だけではなく、その後の番組としては、明石家さんまと仕事をする事が多かった様に思います。 オレたちひょうきん族以降もビートたけし、明石家さんま、島田伸助などの番組は、どうしても見ていましたが、ところどころで三宅ディレクターが見え隠れしていました。 特に、特番の「明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー」では、名前も姿もよく見かけます。 やはり、「赤」の衣装が目立ちます。
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