[生]1890. 島根,安来 [没]1966. 京都 陶芸家。 1914年東京高等工業学校窯業科を卒業,京都陶磁器試験所に勤務,同所でと知り合った。 1920年京都五条坂に鐘渓窯を築いて独立。 1923年頃までは中国,朝鮮の古陶磁の手法を追った作品が多かったが,1925年頃から古民芸品の美に目ざめて,浜田庄司,とともに民芸運動を起こした。 同時に日本やイギリスの古民芸品の美を自己の制作にも生かし,素朴でたくましい形態と多彩な釉法の奔放な駆使とによって,日常の用途にあてるを次々に発表。 第2次世界大戦後は,機械製作と手仕事の,泥刷毛目の手法,三彩打薬などを工夫。 主要作品『青磁せん血文花へい せいじせんけつもんかへい 』 1924 ,『鉄絵辰砂 しんしゃ 草花丸文壺』 1937年パリ万国博覧会でグランプリ受賞 ,『花文菱形扁壺』 1957年ミラノのトリエンナーレでグランプリ受賞 ,『打薬扁壺』 1962。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 陶芸作家。 島根県安来 やすぎ の生まれ。 東京高等工業学校窯業科を卒業して京都市立陶磁器試験所に入り、ここで浜田庄司 しょうじ を知る。 1920年(大正9)に京都市五条坂に開窯し、翌年の個展において大いに注目された。 初め中国・朝鮮の古陶磁の技法に倣ったが、反省し、24年に浜田の仲介を受けて柳宗悦 むねよし を知り、いわゆる民芸へと傾斜していった。 以後、浜田と民芸派陶工の双璧 そうへき をなし、翌年民芸美術館の設立運動が具体化すると参加し、その作陶成果は29年(昭和4)に東京・高島屋での個展で発表された。 黒褐釉 ゆう 、鉄絵、辰砂 しんしゃ 、染付、白化粧土、低火度な鉛釉などを使って奔放自在な草花や動物文を表した重厚な日常器皿がそのねらうところであり、民芸の具体像を完成させた。
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[生]1890. 島根,安来 [没]1966. 京都 陶芸家。 1914年東京高等工業学校窯業科を卒業,京都陶磁器試験所に勤務,同所でと知り合った。 1920年京都五条坂に鐘渓窯を築いて独立。 1923年頃までは中国,朝鮮の古陶磁の手法を追った作品が多かったが,1925年頃から古民芸品の美に目ざめて,浜田庄司,とともに民芸運動を起こした。 同時に日本やイギリスの古民芸品の美を自己の制作にも生かし,素朴でたくましい形態と多彩な釉法の奔放な駆使とによって,日常の用途にあてるを次々に発表。 第2次世界大戦後は,機械製作と手仕事の,泥刷毛目の手法,三彩打薬などを工夫。 主要作品『青磁せん血文花へい せいじせんけつもんかへい 』 1924 ,『鉄絵辰砂 しんしゃ 草花丸文壺』 1937年パリ万国博覧会でグランプリ受賞 ,『花文菱形扁壺』 1957年ミラノのトリエンナーレでグランプリ受賞 ,『打薬扁壺』 1962。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 陶芸作家。 島根県安来 やすぎ の生まれ。 東京高等工業学校窯業科を卒業して京都市立陶磁器試験所に入り、ここで浜田庄司 しょうじ を知る。 1920年(大正9)に京都市五条坂に開窯し、翌年の個展において大いに注目された。 初め中国・朝鮮の古陶磁の技法に倣ったが、反省し、24年に浜田の仲介を受けて柳宗悦 むねよし を知り、いわゆる民芸へと傾斜していった。 以後、浜田と民芸派陶工の双璧 そうへき をなし、翌年民芸美術館の設立運動が具体化すると参加し、その作陶成果は29年(昭和4)に東京・高島屋での個展で発表された。 黒褐釉 ゆう 、鉄絵、辰砂 しんしゃ 、染付、白化粧土、低火度な鉛釉などを使って奔放自在な草花や動物文を表した重厚な日常器皿がそのねらうところであり、民芸の具体像を完成させた。
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学校での研究 [ ] 当時の安来町(現在の)の大工の家に生まれる。 松江中学(現)を経て、、東京高等工業学校(現)へ入学する。 寛次郎には師と仰ぐ者がなく、師弟関係を重んじるの世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となる。 東京高等工業学校では、陶芸家のの指導を受けたほか、の科学的研究を行った。 1914年、東京高等工業学校卒業後は、京都市陶磁器試験場 に入所し、東京高等工業学校の後輩でもあるとともに1万種以上のの研究や、中国陶磁など過去の陶磁の模倣や研究も行った。 、五代の技術的顧問を務めていた縁で・五条坂にあった彼の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名づけ自らの作品制作を開始する。 同年、京都のの娘・つねと結婚する。 華麗な作風からの転換 [ ] 、「創作陶磁展覧会」を東京と大阪ので開催した。 このとき東京高島屋の宣伝部長であったと知り合い、生涯にわたり親交をもつ。 高島屋での陶磁展では、・の陶磁の名作に倣い、科学的研究の成果を取り入れた超絶技巧の華やかな作品を発表、新人にして名人と一躍注目を浴びた。 しかしやがて世評に反し、自身の制作に悩むようになる。 創作陶磁展覧会と同時期にの集めたの陶磁展「朝鮮民族美術展」を展観し、無名の陶工が作り出す簡素で美しい作品に感銘を受ける。 、から帰国した濱田庄司に現地で収集した雑器・を見せられ、濱田から柳を紹介されその民芸理論に深く共感し実用的な陶器制作を新たな目標とした。 民芸運動、日用の美へ [ ] 河井寬次郎記念館 、柳、濱田とともに日本民芸美術館設立趣意書を発表。 古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「」に深く関わるようになる。 、、らとも合流し、に長い沈黙を破って開いた高島屋の個展では、古典から日用の器へと路線を変更した。 寛次郎は各地を訪れ、手仕事の制作現場や、日本や朝鮮やイギリスの器から受けた影響をもとに、実用的で簡素な造形に釉薬の技術を生かし、美しい発色の器を次々と生み出して再び注目を浴びた。 この時期以降、寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようになる。 で五条坂の自宅が損壊したことを契機に、故郷の民家の形をもとに、の形に対応するかのような構造をした新しい自宅兼仕事場を自ら設計し、大工である実家とも協力してに完成させた。 この自宅兼仕事場が現在の河井寬次郎記念館になっている。 同じ年、川勝堅一の計らいで「鉄辰砂草花図壷」がでグランプリを受賞する。 より奔放な作風へ [ ] 後、世界の民族芸術に関心を深めた寛次郎は木彫の制作も開始する。 陶の造形も日用の器から簡素ながら奔放な造形へと変化を遂げた。 材料の入手が困難であった戦時中より詩、詞の創作を始め、には寛次郎の詞「火の誓い」をの板画で制作。 随筆「いのちの窓」を陶土に刻んだ陶板を完成させる。 老境にいたり深い思慮を重ねた文章を多数残した時期だったが、壷や皿などの陶の作品は、荒々しい素地で用途にとらわれない自在な形状に、のように釉薬を刷毛で打ちつけるような作品を残している。 またあらゆる釉薬や造形を試し、その創作意欲が生涯枯れることはなかった。 を辞退する。 、会員などへの推挙もあったが、同様に辞退している。 には川勝堅一の計らいで「白地草花絵扁壷」が、国際工芸展グランプリを受賞するも、無位無冠の陶工とし晩年まで創作活動を行いに76歳で没した。 著書 [ ]• 『六十年前の今』 東峰書房、1964年、新版1990年• 抜粋版『近代浪漫派文庫28 河井寛次郎/』、2004年• 『いのちの窓』 東峰書房、1975年、新版1990年• 『炉辺歓話』 東峰書房、1978年、新版1990年• 『陶技始末』 、1981年• 『手で考え足で思う』 文化出版局、1981年• 『火の誓い』 、1996年• 『蝶が飛ぶ葉っぱが飛ぶ』 講談社文芸文庫、2006年• 新版『いのちの窓』河井寛次郎記念館監修、、2007年 参考および関連文献 [ ]• 河井須也子 『不忘の記(わすれじのき) 河井寛次郎と縁の人々』 青幻舎、2009年• 『陶工 河井寛次郎』 、1994年• 『河井寛次郎の宇宙』 河井寛次郎記念館編、〈講談社カルチャーブックス〉、1998年• 新装版・河井寛次郎記念館編、、2014年• 『河井寛次郎作品集 - 所蔵 川勝コレクション』 編、東方出版、2005年• 『河井寛次郎 炎の造形展 図録』 、2007年• 『柳宗悦・河井寛次郎・濱田庄司の民芸なくらし』 丸山茂樹( 2015年)• 志賀直邦 『民藝の歴史』 〈〉、2016年 脚注 [ ] []• 物故者記事. 1967年. 2019年9月8日時点のよりアーカイブ。 2019年9月9日閲覧。 河井寬次郎記念館. 2015年2月5日閲覧。 足立美術館. 2019年12月8日閲覧。 1903年より前は京都市陶磁器試験所。 asahi. com 2010年2月17日. 2011年3月8日閲覧。 および 佐藤一信「 」 『愛知県陶磁資料館研究紀要』第15号、2010年3月、 43-54頁。 関連項目 [ ]• - 河井作品の収集家• - 弟子()• - 弟子(陶芸家)• - 助手(陶芸家)• - 甥(陶芸家)• - (旧、宇賀荘村)にあるの元 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (公式ホームページ)•
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