から ゆき さん。 「からゆきさん=海外売春婦」像を打ち消す(上)

口之津(長崎県南島原市)

から ゆき さん

相当な財産を蓄えて帰って来た「からゆきさん」が建てた家=1972年、熊本・天草下島 「からゆきさん」という言葉をどのくらいの人が知っているだろう。 明治から昭和初期にかけて日本全国から海外に出稼ぎに行った人たちのことだ。 とくに九州の島原半島(長崎県)や天草諸島(熊本県)の出身者が多かったとされている。 この「からゆきさん」という言葉にこだわり続ける人たちがいる。 熊本県天草市大浜町の女性史研究家、大久保美喜子さん(64)と同市五和町の絵本作家、永田有実さん(56)が昨年、自費出版した2冊の絵本の主題は「からゆきさん」。 大久保さんは「天草に生まれて育った女性として、歴史を通して、からゆきさんの真実を子どもたちに伝えたい」との思いを強く抱き続ける。 絵本は、大久保さんのからゆきさん探しの旅をつづった「からゆきに想(おも)いをはせて」(A5判、35ページ)と、小学生以下向けの「気まぐれカラス」(A5判、31ページ)の2冊。 絵本では、貧しさのために学校に通えず、故郷の天草からシンガポールなどに出稼ぎに行かねばならなかった子どもたちとして、からゆきさんを描いた。 「からゆきさん」は「故郷が少女たちを愛し、少女たちもそれを享受した奥深い言葉だ」などとしている。 1972年に出版された作家、山崎朋子さんの「サンダカン八番娼館」は、大宅壮一ノンフィクション賞受賞し、ベストセラーとなった。 「サンダカン八番娼館 望郷」(熊井啓監督)として映画化もされている。 この「サンダカン八番娼館」の中で山崎さんは「からゆきさん」を「外国人に肉体を鬻(ひさ)いだ海外売春婦を意味している」と書き、そのイメージが世間一般に広まった。 大久保さんは「サンダカン八番娼館」がベストセラーとして多くの人に読まれた結果、「からゆきさんイコール海外売春婦」というイメージが一気に広がり、「言葉の意味が誤って世間に認知されてしまった」と主張する。 大久保さんは1991年ごろから二十数年にわたり、からゆきさんが過ごした家や墓地などが残るインドやアフリカなどの11カ国を訪れ、真実に迫ろうと調査を続けた。 ・・・ (残り:約1163文字/本文:約2062文字).

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からゆきさん

から ゆき さん

サンダカン八番娼婦館 からゆきさんの生きた場所 > > サンダカン八番娼館 からゆきさんの生きた場所 サンダカン八番娼館 からゆきさんの生きた場所 サンダカン八番娼館 からゆきさんの生きた場所 サンダカン八番娼館 コタキナバル滞在中、時間があればサンダカンへ行きたいと思っていました。 ノンフィクション作家・山崎朋子のを読んでから、からゆきさんの生きた場所を見てみたかったのです。 からゆきさん(唐行きさん)とは からゆきさん(唐行きさん)は九州で使われていた言葉で、19世紀後半、主に東アジア・東南アジアに渡って、 娼婦として働いた日本人女性のことを指す(「唐」は、広く「外国」を意味する)。 女性たちは長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身が多く、海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。 () からゆきさんの多くは、貧しい家庭の娘たちでした。 からゆきさん達は、 女衒(ぜげん)と呼ばれる人身売買の仲介業に密航させられて日本を出ます。 その費用は、彼女たちの借金となりました。 500円(今の500万円ほど)で親から買い取られ、出国費用は、彼女たちの借金だなんてひどすぎますよね。 サンダカン(Sandakan)は、マレーシア・サバ州にある都市でコタキナバルに次ぐ第二の商業都市。 日本人墓地 サンダカンで亡くなったからゆきさんを含む日本の人々が葬られている日本人墓地です。 商事会社の駐在員 木全徳三さんが、山崎朋子著者の作品を読んで墓地探しをしたそうです。 植物が生い茂り、日本人墓地をなかなか見つけられない中、華人系墓地の手入れに来ていた華人系住民の老人に出会い、 「日本人の墓は見たことないが、この山の上の方に、コンクリートで作った箱のようなものがある」 という情報から、この日本人墓地を見つけました。 「コンクリートで作った箱のようなものとは、木下クニさんが、墓の近くへ小屋を建ててセメントで水溜めを造り、桶で山から水を引いて、いつ誰かが手ぶらで墓参りに行っても困らぬようにしたというものでした。 」 ( より) 中国人のカラフルな墓地を見ながら進んで行くと、南国を思わせる深紅のハイビスカスが咲く日本人墓地と書かれた門が見えてきます。 「ひと足外へ出ればいつでも花が咲いとるけん、取って来て、あき瓶に水入れて挿しとった。 天草と違うて南洋じゃけん、真っ赤な花が多かったと。 」 (より) その後、本当にこの先にあるのだろうかという細い山道をたどり、 中国人墓地とは打って変わって、 地味にひっそりと佇む日本人墓地が現れました。 4段め中央の一番背の高い碑が、木下クニさんが身元の分からぬ日本人のために、私費を投じて建てた「無縁法界之霊」。 どなたかお墓参りにいらっしゃった方がいるらしく、お花が添えられていました。 木下クニさんのお墓は、無残にも倒れていました。 老朽化なのでしょうか?それとも心無い誰かの仕業!?・・・ 「からゆきさんたちの墓が100基あるいはそれ以上もあるはずなのに見当たらない。 3段めに有るか無しかの土地の隆起。 このわずかな隆起が、わたしたちの求めるからゆきさんの墓の痕跡なのだ。 」 (より) 日本人墓地に墓を建ててもらったからゆきさんは、多くはないと思われます。 無縁からゆきさんの墓をはじめ、 すべてのお墓が日本に背を向けて建っていたと本には書かれていましたが、 幼い時にからゆきさんたちが日本を離れ、お金のために遠い外国まで船で連れてこられ、初めて上陸した港の向こうの日本、目に見える美しいサンダカン湾をただ見ていたかっただけのような気がします。 この向きが反対の山の方向だと、とても不自然に感じました。 「サンダカンの海は、底の底まで透きとおってな、それはそれは美しか。 うちらは天草ではいっぺんも、海にはいったことはな無か。 子どみじゃというても何やかんや働いて忙しかったけんでな。 」 (より) それに、この著者は個人的に好きではないです。 ごめんなさい。 自分は研究者で身分を隠して取材していて、おサキさんに正体を明かすときとか、自分の顔の傷には深く触れず、人の不幸ばかりを上から見ているような、嫌らしさを感じてしまった。 しかも資料を得るために、よその家から写真を勝手に盗んで、その後、きっと彼らは自分のしたことを理解してくれると思うって、なんという身勝手な考えなんでしょう!と思った内容の本でした。 サンダカン八番娼館の今 おサキさんたちが働いていた八番娼館のあった場所は、現在、薬屋さんになっていました。 この場所は、インフォメーションセンターで、ある日本人の方が、丁寧に場所を書いてくれていたのですぐ分かりました。 「普段は、昼間は暇でな、寝転んだり遊んだりしておるが、夕方になると、紅おしろいばつけて、店の前に腰掛け持って行って、おもてば通る男ばつかまえるとたい。 」 (より) サンダカンの肉骨茶をランチに食べてみました。 肉だけではなく海鮮バクテーもあります。 「南洋さん来たこつば不幸せじゃとは思わんじゃった。 朝、昼、晩と白か飯の食えたもんな。 おかずには、魚さえ膳にのぼったと。 」 (より) 261:2009年3月.

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台湾人「19世紀の日本の娼婦『からゆきさん』が美しいけど悲しすぎる」

から ゆき さん

先日、島原と天草に訪問。 都道府県の区割を見るだけでは長崎県と熊本県に別れているものの、歴史的にはキリシタン弾圧やら島原・天草の乱などを経験してきたり、明治時代にはかなり貧しかった地域で人々が出稼ぎに行ったり、島原と天草は色々近い関係にある。 この地域を先日ようやく訪れる事が出来た。 天草の鬼池港から島鉄フェリーに乗って島原半島南部の口之津へ。 この口之津という所、江戸時代には南蛮船渡来の歴史があり、さらに明治時代には三井三池炭鉱の石炭積出港として栄えていた土地。 最近になって市町村合併で南島原市の一部になっている。 港に入る直前、左手に「口之津歴史民俗資料館」と看板が掲げられた洋館が見える。 フェリー乗り場から湾内をぐるっと回って資料館へ。 当然ながら口之津の歴史について扱われているのだが、主に明治時代の日本社会の裏側あたりの結構エグい展示物が見られるオススメスポット。 入館料200円を払いさっさと中に入りましょう。 明治32(1899)年に長崎税関口之津支庁として建てられた洋館が国から払い下げられ、資料館の一部に使われている。 「口之津税関跡」と書かれた石碑が建物の前に立っていた。 さすが貫禄のある建物です。 口之津が最も栄えていたのが明治時代半ば頃。 長崎県と言えば軍艦島(端島)でも知られる通り炭鉱開発がお盛んだった地域で、三菱財閥が端島や高島を開発していた。 それに三井財閥も対抗して開発していたのが福岡県大牟田にある三池炭鉱。 しかし当時の三池には小型船しか接岸できなかったため、三池炭鉱で採れた石炭は有明海の出口であるここ口之津で大型貨物船に移し替えていた。 口之津から運び出された石炭は上海向けに輸出されていたのだ。 中継港として沢山の労働者が住み、この小さな港に最盛期には12000人もの人口があったらしい。 しかし明治41(1908)年に三池港が新しく開港すると、口之津は急激に寂れていった。 資料館内に別館として「与論館」という建物がある。 与論と言えば鹿児島県最南端で、沖縄の方が全然近いよというあの島だ。 明治30(1897)年頃の口之津はとにかく労働者不足で、その供給源を南西諸島に求めていたところ、台風災害で深刻な飢饉に見舞われていた当時の与論島民が生活の糧を求めてとりわけ多く移住してきた。 口之津にあった貯炭場の労働者として暮らしていた与論島民の長屋(与論長屋跡)が与論館の内部に再現されている。 若干小奇麗に作られてるけど実際はかなり壮絶な住まいだったろうな。 言葉や文化の違いから与論島民は差別されたりもしながら過酷な重労働に従事してきたそうで。 それでも移住してきた与論島民はここに第二の故郷を作る覚悟で生きていたのだ。 さらに明治末期に三池港が開港すると口之津を離れて三池炭鉱のあった大牟田・荒尾周辺に再移住するようになった。 そんな与論島だが先日訪問した時に見てきたのが島で最も海抜が高い城跡にある地主神社の一角に建てられた口之津移住開拓民之碑。 約750人の与論島民を率いて自ら移住した当時の村長・上野應介翁を讃える石碑もある。 移住者はその後10年間で1200人余りとなり、この小さな島を飢饉から救ったのだ。 口之津と与論の関係は今も続いていて、南島原市と与論町が姉妹都市だったり双方の学校の交流イベントなど色々やってるらしい。 旧長崎税関跡(長崎県文化財)の建物の中も昔の生活用具なんかとともに税関時代の建物の名残りが留められていて素晴らしい。 最盛期の口之津港は長崎港に凌ぐ輸出高を誇っていた時代もあったのだ。 石炭が「黒いダイヤ」と呼ばれていた時代な訳だし、当時は凄かったんだろうな。 エリアから記事を探す• 110• 104• 117•

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