音の強弱を簡単に弾き分けられることから、「フォルテピアノ」と呼ばれていました。 ベートーベンの時代のは、音量や音域が改良され、彼は、その音域に合わせたピアノの作品をつくり、また、メトロノームを使い曲のテンポを示したのも、ベートーベンが最初ではないか?と言われています 歴史上に、たくさんの偉大な音楽家がでてきましたが、ベートーベンはみつかりましたか? 古典派音楽あたりに出てきましたね。 世界は、アメリカの独立宣言(1776年)・フランス革命(1789年)・ナポレオン即位(1804年)の時代です。 まさに西洋は変革の時代。 古典派音楽 古典派音楽が主流だったのは、1750年~1820年ごろ。 このころ、交響曲や重奏曲などの器楽ジャンルが1770年ウィーンで大きく発展しました。 「交響曲の父」と言われていた、 ハイドン(1732年生)。 彼は、生涯で100曲以上の交響曲を作りました。 その後、 モーツァルト (1756年生)や ベートーベン (1770年生)が活躍します。 この3人は、 「ウィーン古典派3巨匠」と呼ばれる作曲家たちです。 変革の時代 世界は、アメリカの独立宣言(1776年)・フランス革命(1789年)・ナポレオン即位(1804年)の時代です。 まさに西洋は変革の時代。 ヴィヴァルディ やバッハ などが活躍したバロック時代は、音楽家は、教会音楽を作ったり、宮廷で依頼をうけて、演奏するなどがおもでした。 音楽家も形式的な音楽ばかりではなく、作りたい音楽を作る時代へと変わっていったのです。 改革の時代を生きたベートーベンは、難聴にもまけず、時代と自分の人生とをみごとに調和させた作曲をし続け、「楽聖」のなに恥ない活躍をつづけました。 9曲の交響曲、32曲のピアノ・ソナタ・16曲の弦楽四重奏曲など、数多くの曲を残した偉大な音楽家です。 中1 次女画 とにかく・・・すごい迫力に間違いはない(笑) そして、私もかく!と小3 三女。 ベートーベンは、なぜか、なんとなく雰囲気はある。 が、手をつないでいるのは、猫娘です。。 その下は、違う写真を見て書いた ベートーベン。
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ベートーヴェン 年譜 - ベートーヴェン 楽譜 1770年 12月16日 ベートーヴェンはドイツのボンに生まれている。 父は宮廷に仕えるテノール歌手だったが、彼はアルコール依存症であり、そのせいもあってか人格的に問題があったとされる。 父は飲んだくれ、そして裕福とはいえない一家の精神的な支えは母のマリア・マグダレーナであった。 1774年 4歳の時からピアノを教えられる。 1776年 6歳の時にはケルンで演奏会を開いた。 1781年 正式な音楽教育はこの11歳当時から受ける。 14歳頃からの彼はオルガン奏者として家計を助けてもいる。 1787年3月 ウィーン旅行に出る。 1786年 ウィーン旅行期間中に、モーツァルトに会う。 1787年5月 ウィーン旅行から戻る。 1787年 7月17日 母が亡くなる。 彼は一家の大黒柱として働かなくてはならない立場となる。 1792年7月 ボンを訪れたハイドンと出会う。 1792年 11月10日 ウィーンに移り住む。 1792年 ウィーンでハイドンに教えを受ける。 1792年 12月18日 父ヨーハン亡くなる。 ウィーンでの彼は、その抜きん出た才能をいかんなく発揮し、貴族社会に多くのパトロン、金銭的な支援者を見出していった。 1794年作曲 ピアノ・ソナタ第1番ヘ短調 Op. 2-1 1795年作曲 ピアノ・ソナタ第2番イ長調 Op. 2-2 1795年作曲 ピアノ・ソナタ第3番ハ長調 Op. 2-3 1795年作曲 1794年作曲 1795年作曲 1796年作曲 ピアノ・ソナタ第20番ト長調 Op. 49-2 1797年作曲 ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調 Op. 7 1797年作曲 ピアノ・ソナタ第5番ハ短調 Op. 10-1 1797年作曲 ピアノ・ソナタ第6番ヘ長調 Op. 10-2 1798年 耳の病は28歳頃から彼に重い陰を落とし、しだいに深刻化していった。 1798年作曲 ピアノ・ソナタ第7番ニ長調 Op. 10-3 1798年作曲 1798年作曲 ピアノ・ソナタ第19番ト短調 Op. 49-1 1799年作曲 ピアノ・ソナタ第9番ホ長調 Op. 14-1 1799年作曲 ピアノ・ソナタ第10番ト長調 Op. 14-2 1800年作曲 交響曲第1番ハ長調 Op. 21 1800年作曲 ピアノ・ソナタ第11番変ロ長調 Op. 22 1801年作曲 「葬送」ピアノ・ソナタ第12番変イ長調 Op. 26 1801年 ピアノを教えていた伯爵令嬢(ジュリエッタ・グイチアルディ)に捧げたピアノ・ソナタ「月光」が完成。 1801年作曲 ピアノ・ソナタ第13番変ホ長調 Op. 27-1 1801年 1801年作曲 「田園」ピアノ・ソナタ第15番ニ長調 Op. 28 30代のベートーヴェンは、自殺すら考えた病と闘いならが、音楽家として極めて高い評価を受け「古典派」の中心人物として揺るぎ無い地位に就くまでになった。 1802年出版 『ピアノ・ソナタ集』「幻想曲風ソナタ」Op. 27 1802年作曲 ピアノ・ソナタ第16番ト長調 Op. 31-1 1802年作曲 1802年作曲 1802年作曲 1802年作曲 1802年作曲 1802年作曲 1802年作曲 1802年作曲 1802年作曲 交響曲第2番ニ長調 Op. 36 1802年作曲 1804年作曲 ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 Op. 31-3 1804年作曲 「ワルトシュタイン」ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 Op. 53 1804年作曲 ピアノ・ソナタ第22番ヘ長調 Op. 54 1804年作曲 「英雄」交響曲第3番変ホ長調 Op. 55 1804年 ナポレオンの偉業をきっかけとした交響曲「英雄」が完成。 1805年作曲 1806年作曲 交響曲第4番変ロ長調 Op. 60 1808年作曲 「運命」交響曲第5番ハ短調 Op. 67 1808年作曲 「田園」交響曲第6番ヘ長調 Op. 68 1809年作曲 「テレーゼ」ピアノ・ソナタ第24番嬰ヘ長調 Op. 78 1809年作曲 1810年 1810年作曲 1812年作曲 交響曲第7番イ長調 Op. 92 1812年作曲 交響曲第8番ヘ長調 Op. 93 1814年作曲 ピアノ・ソナタ第27番ホ短調 Op. 90 1816年作曲 ピアノ・ソナタ第28番イ長調 Op. 101 1819年作曲 「ハンマークラヴィーア」ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調 Op. 106 1820年作曲 ピアノ・ソナタ第30番ホ長調 Op. 109 この頃から健康状態が悪化する。 1821年作曲 ピアノ・ソナタ第31番変イ長調 Op. 110 1822年作曲 ピアノ・ソナタ第32番ハ短調 Op. 111 1822年作曲 1822年作曲 1822年作曲 1822年作曲 1822年作曲 1822年作曲 1822年作曲 1822年作曲 1824年 1824年作曲 1824年5月 交響曲第9番ニ短調「合唱付き」5月7日初演、ケルントナートーア劇場で大成功を収める。 1827年 3月26日午後5時45分56歳で死去。 「諸君、喝采を。 喜劇は終った」という最期の言葉も有名。 1867年出版 バガテル「エリーゼのために」イ短調 WoO. 59 57件 85件 28件 ベートーヴェン ヨーロッパ・クラシック音楽を代表する大作曲家。 有名な、耳が聞えなくなるという音楽家にとって重大な病ほか、様々な苦難を押しのけるように歴史に残る名作を残した人物である。 ベートーヴェンは に生まれている。 父は宮廷に仕えるテノール歌手だったが、彼はアルコール依存症であり、そのせいもあってか人格的に問題があったとされる。 父は飲んだくれ、そして裕福とはいえない一家の精神的な支えは母のマリア・マグダレーナであった。 他の大作家と同じように、ベートーヴェンの才能の開花は早かった。 しかし4歳の時からピアノを教えられ、6歳の時にはケルンで演奏会を開いたベートーヴェンではあったが、正規の学校教育は11歳までで、正式な音楽教育はこの11歳当時から受けるという状態だった。 14歳頃からの彼はオルガン奏者として家計を助けてもいる。 16歳の時、 に教えを受ける。 17歳の時、母が亡くなる。 彼は一家の大黒柱として働かなくてはならない立場となる。 気難しかったとされるベートーヴェンの性格は、このような家庭環境が大きく反映されているという説がある。 22歳の時、ウィーンでハイドンに教えを受ける。 ウィーンでの彼は、その抜きん出た才能をいかんなく発揮し、貴族社会に多くのパトロン、金銭的な支援者を見出していった。 しかし、耳の病は28歳頃から彼に重い陰を落とし、しだいに深刻化していった。 このような悩みの中で作られたというが初期を代表するピアノ・ソナタ「悲愴」(1799年)である。 1801年、ピアノを教えていた伯爵令嬢(ジュリエッタ・グイチアルディ)に捧げたピアノ・ソナタ「 」が完成。 1804年、ナポレオンの偉業をきっかけとした交響曲「英雄」が完成。 30代のベートーヴェンは、自殺すら考えた病と闘いながら、音楽家として極めて高い評価を受け「古典派」の中心人物として揺るぎ無い地位に就くまでになった。 ベートーヴェンの「栄光と苦悩」という関係は、これで止むことはなかった。 一時は心酔したナポレオンが掲げた理想の破綻に加え、ベートーヴェンの経済的基盤の揺らぎ、弟の死亡、ベートーヴェンが実子として引き取った甥っ子の自殺未遂と、次々にその身に降りかかる不幸。 それを乗り越えて、「交響曲第5番 運命」「交響曲第6番 田園」「交響曲第9番」といった大作、あるいは「 」などの名作を作り続けたというのは、ケタ外れの創作意欲であり才能であった。 1827年、56歳で死去。 「諸君、喝采を。 喜劇は終った」という最期の言葉も有名。
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幼少期 神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで、父ヨハンと宮廷料理人の娘である母・マリアとの間に 長男として誕生しました。 父親も宮廷に仕えるテノール歌手でしたが音楽能力も人格的にも持ち合わせていませんでした。 ベートーベン一家の経済を支えていたのは、ベルギー出身のバス歌手で宮廷楽長に昇進していた祖父でした。 しかし、祖父が3歳の時に亡くなってしまい、祖父の人望や経済力をあてにしていた一家は、途方にくれます。 さらに、父ヨハンは、亡父の後任として宮廷楽長に任命されると思っていましたが、別の人物に決まると怒りと不満を酒を飲むことで紛らわし、わずかな残りの家族のお金も酒代となっていく日々・・・ そのころ、すでに有名になっているザルツブルグの神童(神様のこどものように才能がある)モーツァルトの話を耳にするようになった父は、ベートーベンに音楽の才能があると気づくと、考えられない程のスパルタ教育で音楽を教え始めます。 ときには暴力を伴うほどの教え方だったと言いますが。 本当は、7歳だったのを父が見栄をはって、「6歳だ」といってコンサートをしたという話が残っていますね。 6歳で天才ピアニストだといわれていたモーツァルトを常に意識していたのです。 父の口癖は、「モーツァルトのように!」 いつも、ベートーベンにそう言っていたそうです。 師に恵まれ、作曲のすばらしさを知る その後11歳の時、良い先生に恵まれ、( 恩師ネーフェ)ピアノの他にオルガン、ヴァイオリン、ヴィオラなどを習い、作曲のすばらしさを教えてもらいます。 14歳で宮廷のオルガン弾きになり、初めてお給料をいただきます。 1787年(16歳)憧れの「音楽の都」ウィーンへ音楽旅行に行きますが、到着するかしないか、父より「母、危篤」の知らせが入り、急いで家へ帰ることになります。 母が亡くなった後も、お酒ばかりのんでいる父は職も失ってしまいます。 ベートーベンは、小さい弟の世話をしながら、一生懸命音楽に励み、一家を支えました。 音楽家ハイドンとの出会い 「ウィーンへ」 21歳になったころ、 古典派音楽で有名な作曲家ハイドンと出会います。 ベートーベンの才能を認めたハイドンが、作曲を教えてくれることになり、 生まれ故郷のボンを離れて、ウィーンへ移り住みます。 たくさんの友達や宮廷楽団の仲間、ピアノを教えた貴族の姉妹など、ウィーンへ旅立つ前には 心のこもったお別れの会が何度も開かれたようです。 人望が厚かったんですね。 リヒノウスキー侯爵のお屋敷をでて、オペラの作曲をするために劇場の2階に弟と住むこともありました。 沢山の音楽家や貴族と演奏会を通じて知り合い、ときには、リヒニウスキー侯爵と長い旅に出かけ、その途中も曲をつくり、ベルリンで出会った国王に音楽を聴いていただくなど、たくさんの機会と運に恵まれます。 たくさんの名曲 1798年 ベートーベンが耳に異常を感じ始めた頃に作曲されたといわれているピアノ・ソナタ「 悲愴」 1801年(31歳) ピアノソナタ「 月光」を愛する女性に捧げました。 1804年(34歳) 「 交響曲第三番 英雄」を作曲 ナポレオンを尊敬していたベートーベンは、 ナポレオンのためにこの曲を書き上げました。 が、ナポレオンが皇帝になったときき、権力がほしかったのか!と激怒し、 「ボナパルト」と題名をつけていた表紙を破り、「 英雄(エロイカ)」に名を書きかえました。 1808年(38歳)「 交響曲第五番 運命」「 第六番 田園」を発表 1809年 ピアノ協奏曲第5番<皇帝> 子供を4人も抱えた未亡人との恋の破局からうまれた曲「 情熱」「 運命」 1810年 バガテルイ短調 「エリーゼのために」 1811年 トルコ行進曲(アテネの廃墟から) オーストリアのウィーンに移り住んでからも、ピアノの改良が進み、鍵盤の数も増え、力強い音がだせるように進化してきました。 ピアノが得意だったベートーベンは、生涯にわたって ピアノ・ソナタを作曲しました。 9曲の交響曲、32曲のピアノ・ソナタ・16曲の弦楽四重奏曲など、数多くの曲を残し、56歳で亡くなりました。 耳がきこえない たくさんの作曲をしたベートーベンですが、20代頃から音楽家としては大変な病に侵されてしまいます。 「耳がだんだん聞こえなくなってしまう」ことでした。 30代頃には、全く聞こえなくなり、弟たちにあてた「遺書」のようにもとれる手紙が残っています。 (ハイリゲンシュタットの遺書) それだけ、精神的にもつらく、追い詰められた時期だったのでしょう。 自殺したいくらいつらいが、自分の果たすべきことがやりとげられていないうちには死ねない。 という内容の文面があります。 しかし、ポストに投函されることなく、ベートーベンが亡くなった後、机の引き出しの奥から発見されました。 辛い時期を強い精神力で乗り越えたベートーベンは、その後耳が全く聞こえなくなってもたくさんの名曲を作りました。 「 交響曲第9番」が初めて演奏されたときには、観客の大きな拍手が聞こえず、譜面をみていたベートーベン。 歌手の一人がベートーベンに気づかせてくれたという話があります。 大観衆の自分に向けられた大きな拍手。 沢山の試練を乗り越えてきたベートーベンの心にどう響いたのでしょうか。 さいごに 「ベートーベン」について調べていくうちに、ベートーベンは、ひどくカンシャクもちで 気があらかったという話がでてきます。 そのせいで、恋人とも恩師であるハイドンとも離れることになり、友達も少なかったのではないか? という話もありますが、そうであったとしても、ベートーベンが天才でありながら、凄まじい努力をし、自分の運命に翻弄されながらも、あきらめない強い心と希望を信じ歩み続けた音楽家としての道。 そういうものに触れたくて ベートーベンの歩みを辿って、まとめてみました。 ベートーベンの曲は、学生時代に学校で音楽鑑賞するところも 多いと思いますが、私(わんこ)も作曲家の暮らしやおいたちをしっかり知った今、 もう一度聞きなおしたいと思います。 長女が中学2年生、3学期 学期末テストにベートーベンが出題されていたのを見つけましたので 次のページに貼っておきますね。
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