目に見えている壁は根性で乗り越えられるが、人の心にできた見えない壁を乗り越えるには勇気が要るのである。 小高雄二は端正な二枚目だが演技が硬直気味なので今ひとつ印象に残りにくい。 貧乏な自動車修理工の三郎・ 小高雄二は禁煙までして金をため新品のワゴン車を購入する。 新車をおまけ価格で売ってくれたディーラー・ 佐野浅夫や修理工場の先輩・ 垂水吾郎も感心するほどまじめな三郎であった。 新潟で看護婦をしている恋人、とし江・ 芦川いづみを新車でお迎えに行く三郎は途中、食堂でドカ食いしてスタミナ十分。 徹夜で三国峠を越え、待ち合わせ場所の新潟駅の手前にある村にさしかかった三郎は真夜中に白いコートを着た若い男を便乗させた。 ど田舎に似つかわしくない都会っ子風のその男は天神橋の手前で下車する。 何の疑いも抱かず駅を目指していた三郎は突如、警官たちに車を停車させられ連行されてしまうのだった。 わけのわからない状況に大暴れの三郎。 実はその夜、その村の郵便局を営む谷川家の当主、徳蔵が脳天を鉈でカチ割られて即死、一緒に寝ていた女房の民子も重症、手提げ金庫から15万円が消失していたのだった。 犯行推定時刻にたまたま郵便局の前を車で通り過ぎた三郎に強盗殺人の容疑がかけられている。 おまけにアタマ割られて呆然としている民子が三郎めがけて「犯人はこの男だ!」と叫び、同居していた長男の元嫁でいまは後家さんの咲子・ 渡辺美佐子が裏口に逃げる男の足音を聞いたと証言したために、物証と目撃証言のみで三郎は逮捕されてしまう。 大手柄をあげたのは村の駐在所勤務の森山巡査・ 長門裕之で、本署の警部・ 西村晃、署長・ 清水将夫からも褒められていい気分。 裁判に備え圧倒的に不利な三郎の弁護を依頼すべく、新潟からとし江がかけつけ、心優しい署長の紹介で、風体はダサいが有能な弁護士、鮫島・ 芦田伸介のもとへ向かう。 とし江の、三郎を信じる気持ちに感動した鮫島は弁護を引き受ける。 その頃、森山は三郎の公判を傍聴していた。 あんなに一生懸命働いて手に入れた三郎のワゴン車が証拠物件として雨ざらしにされパンクまでしていたのを見て、なんとなく三郎が人殺しとは思えなくなっていたのであった。 傍聴席にはなぜか咲子がいた。 鮫島に連れられて入ったうどん屋でとし江を見た森山は「心象シロ」を確信した。 森山は咲子に惚れていたが彼女は再婚して佐渡島にいるという。 咲子は村に来ていた石工・ 神山繁と夫婦になっていたがどうも二人の態度が怪しい。 森山はますます三郎の無罪を信じて一人で再捜査を開始、そしてついに天神橋のたもとで挙動不審のコートの男を発見する。 後を追う森山、汽車に乗って東京へ向かった男を上野駅近傍のホテルで見失い、万事休すと思いきや、彼はホテルの一室で頭を割られて死んでいた。 1台の車を手に入れるために必死で働いてこれから結婚するぞ!っていう人間が行きがけの駄賃のように人を殺すだろうか?物証はあるけど不十分、現場にいた被害者の証言、それも脳天割られた直後のばあさんの証言一本にすがった捜査ってどうよ?そして事件当夜、犯行推定時刻に自動車のエンジン音を聞いていた石工の親方・ 松本染升と一緒にいたのは森山であった。 どう考えても犯行は時間的に無理なのでは?というわけで事件は詳細な実地検証を行うことになった。 地道な検証に判事・ 信欣三は民子の証言の証拠能力を覆すヒントを見つけ出す。 そして、第一発見者であったはずの咲子が実は、納屋で石工といちゃいちゃしてたところへ偶然、犯人が姿を見せたため実は顔を目撃していたことを告白し、三郎の無実は立証される。 いきなり咲子が「嫁ぎ先で邪魔にされてさびしかったのよおお」と語りはじめたときは「おいおい、そんなのどうでもいいだろ?」と思ったが、よそ者=三郎=不審者という田舎ヤな部分のダメ押し。 実地検証に同行したとし江に「人殺しの情婦」呼ばわりの上に卵を投げつけた近隣住民に対してマジギレしたのは森山であった。 出世もなにもなげうって三郎ととし江のためにガンバッタ長門裕之、すげーかっこいいぞ! 新品のワゴンがいよいよ廃車寸前となったところで真犯人逮捕の光明がさし、そこへ大粒の雨が降ってきてホコリだらけの車体がみるみるうちに洗われていく。 この自動車の使い方が実に気が利いている。 最初、東京を出発したときは抜けるような青空、事件に巻き込まれる予感を示す真っ暗な峠の道、そして無罪となった二人が近隣住民に向けて高らかなクラクションを鳴らしながら村を去るときにはまた青空(白黒だけど)である。 やっぱ映画は絵が語らないとダメだわね。
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ビタースイートな恋愛小説。 作者がとらドラで有名な竹宮ゆゆこ。 作者のストーリーテラーとしての才能を感じさせる一冊だと思う。 読み始めてからラストまでストーリーから目が離せなくなるり、少しだけ読んで寝るつもりが深夜までかけて読み終えてしまった。 ストーリー展開に無駄な部分がなく、読んでてあきるところが存在しない。 ストーリーは、主人公の濱田清澄(主人公というかヒーローと呼んだ方がいい気がする。 本人もそれを志向しているし、彼の行動もそれにふさわしいものなので)が全校集会で一人の一年生女子高生 蔵元玻璃が酷いいじめにあっているのを見て看過できず助けることから始まるラブストーリー。 背筋の凍るような酷いいじめにあっていた少女は、心を閉ざしておりその振る舞いは他人からは、異質に見え頭がおかしいと思われていた。 唯一、清澄だけが彼女に助けの手を差し伸べ、彼女を理解しようと努める。 彼は最初正義感からそうしていたのだが、彼女に対する気持ちに気づいていく。 また、ヒロインの玻璃が清澄の優しさに触れることにより、固く閉ざしていた心を少しづつ開いていき、それにつれどんどん魅力的で可愛らしい少女に変わっていく様の描写が素晴らしく良かった。 いじめの問題も解決し始めて幸せになるかと思われた二人だが、玻璃は、いじめよりさらに深刻な問題を抱えていたのだった。 ほんと面白い小説だと思う。 ストーリーにも少し仕掛けがあってラストで冒頭のシーンの意味が分かりちょっとびっくりさせられる。 そのままでも傑作だったのに、終盤にとんでもない背負投げをかましてれるお陰で大・傑作となっている。 ヒーローになりたい清澄と彼が救おうとする玻璃。 玻璃の指すUFOが何かはすぐに分かる。 同時にそのUFOの姿の巨大さと悍ましさもだ。 清澄の願いよ、届けという中で襲い来るは絶望。 そして、クライマックスを迎えたところで頭に浮かぶ「?」に続く「!」の嵐。 これ何か意味があるのか、むしろ誰が誰かを混乱させるだけではというのはその通りで、これは誰であってもいいのだ。 清澄でも玻璃でも母さんでも息子でも。 誰もが抱えるUFOという名の後悔・罪悪・敵。 そして、消え去った後の光、星空、愛である。 残酷で瑞々しく神々しい話だった。 ライトノベル出身の作者の一般文芸での2作目かな。 ちょっと思い込みが強くてテンション高めの主人公はいつも通り。 でも、物語の設定はいつもよりかなりきつい。 イジメと家庭内暴力、そして殺人という確かにこれはラノベではちょっと書くのが難しい話だね。 でも、ノリはあくまでいつも通り。 そこに、ゆゆこ先生のある種の矜持を見るようだ。 これはいわば、古今東西にあまねく存在する男の子が女の子を助け出す話。 そして普通の男の子がその女の子のヒーローになる話だ。 うん、もちろん好きですよ、そういうの。 今回の主人公は作者の主人公としては珍しく(笑)それほど空回りしない。 空回りするには状況が悲惨すぎたのだろう。 途中、物語の先がどうにも破滅に進みそうでドキドキとした苦しさを感じた。 それだけに、この結末にはほっとした。 完璧なハッピィエンドではないけれど。 ちなみにラストで、物語の構造というか、誰が誰のことを話していたのかというネタバレがされるんだけど、これいるかなあというのが正直な感想。 単に後日談として語ればいいような気がする。 とは言え、辛い物語の先にたどり着いたこのなんとも幸せな読後感は、本当に良かったと思う。 初めて読んだ竹宮ゆゆこの作品。 大好きな作家、伊坂幸太郎が帯を書いていたので手に取った。 初めて読んだ「ライトノベル」のジャンル。 軽快な掛け合いは面白い部分もあったのだが、どうしても一人一人の人間が軽いように感じてしまった。 主人公が「ヒーロー」になりたいという理由も良くわからず、イマイチ感情移入はできず。 また、「最後の一文でのどんでん返し」的な展開を期待したいたのだが、そこまでの驚きでも無かったという感じ。 良くある学生恋愛ものの小説で、ラストの展開は「イニシエーションラブ」の劣化版という印象。 わざわざ読まなくても良いと思う。 個人的に、ライトノベルは合わないのかもしれない… <印象に残った言葉> ・ 今年度だけでも俺たちは、置かれた場所で咲いてみたり、嫌われる勇気を持ってみたり、魔法の片付けでときめいてみたり、瞑想、断食、もっと最新のわけわからないことまで、色々やらされた。 (P11 俺) ・誰かを嫌ったり恐れたりすることぐらい、人間ならば当たり前にある。 その対象がかぶることもあるだろう。 でも、だからって、どうしてそれが総攻撃の合図になる。 無関係を保つだけじゃすまない理由はなんだ。 気にくわないものが世界に存在すること自体が許せないのか。 いじめなんてする連中は、それほどまでに傲慢に世界のすべてを思い通りにしたいのか。 (P40 清澄).
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*今日の日記はメンタル系です。 苦手な方、暗示にかかりやすい方は読まないでください。 『青が散る』は宮本輝の長編小説。 もうひとつ、この日記に登場する『春の嵐』はヘルマン・ヘッセの小説です。 この二つのタイトルの始め一文字をとると「青春」になるのか、 そう思うとなんだか可笑しかった。 <*以下ネタバレあり> なんだか無性に読みたくなった。 それが、宮本輝の小説だというのは覚えていたが、どの小説かまでは覚えていなかった。 私が診療内科に通いはじめた頃のことだったと思う。 ある日、妹がこんなことを言った。 「精神異常は遺伝するっていう説があってね、そのことを知って発狂した人の話を読んだことがある」 その話を聞いたとき、ニュースか何かで見た実話なのだろうと思った。 浪人生の頃から、私には、ある日突然無性に本が読みたくなることがある。 そうなると、数冊の文庫本を買い込んで、2,3日家に篭って朝から晩まで本ばかり読むのだ。 1年程前にその波が来た時、私は妹の部屋から宮本輝の本を数冊拝借した。 (数年前、妹に『星々の悲しみ』を勧められて以来、宮本輝の小説が好きになったからだ。 ) そしてその中に、妹が先日語ったエピソードとそっくりな部分を見つけたのである。 私はここ数日、理由のない不安に襲われていた。 母の布団に潜り込んで、それをどう説明すればいいのか悩んだ。 「具合の悪い状態なんて、いつまでも続くわけないんだから。 そういうのは、いつかはちゃんと治るんだから。 」 母はそう言った。 私の堪え難いまでの「漠然とした不安」の中には、「一生このままだったらどうしよう」という思いが含まれていたのだ。 今の私は果てしなく無気力である。 やる気がないので、希望もない。 かつて思い描いた夢は、苦戦の末に希望とは遠いところに落ち着いた就職と、なさけない現状を思うと、手の届かない遥か彼方へと消えていった。 なさけない現状を心の不調のせいにするのは己の弱さだと思いつつも、「いつかは治るんだ、そうすれば私はここから脱することができるのだ」、そう思いでもしなければ砕けそうな自分がいる。 私は、はじめ、甘く見過ぎていた。 卒業して、就職するまでには、月に一度の通院とも、パキシルとも、おさらばできると思っていた。 「お母さんはどれくらいかかったの?」 母ははじめ、私が診療内科に通うことに反対だった。 「遊びに来たの?」 20年以上前、診察を受けに来た母に、ある診療内科の医者はそんなことを言ったそうだ。 その話を聞き、私は初めて母にそういう時期があったことを知ったのである。 「看護学校を辞めるころから…結婚したころにはもう良かったから……5年くらいかな」 母の知り合いに頭痛持ちの人がいるという。 毎日薬を飲まなければならないくらい、酷いのだそうだ。 明るくて、元気で、とてもそんな風には見えない。 みんな、何かしらあるのよ。 それでも頑張っている人はいるのよ。 母はそう言った。 あと4年もこんな状態が続くのだろうか… 私にとっては、頭痛だとか動悸だとか吐き気だとかより、突然襲ってくる不安と無気力のほうが、堪え難いことなのだ。 私の場合、気力が充実しているときは、風邪は気合いで治ったし、ある程度の頭痛なら薬なしでも我慢できるのだから。 そん 「安斎克己」 AM 06:09 そんなことを考えていたら、宮本輝のあの小説が無性に読みたくなったのだ。 妹の部屋に行き、部屋にあった宮本輝の小説を全て持って来た。 タイトルを見て、中をパラパラとめくって行くうちに、自分の探していたのは『青が散る』だと気付いた。 安斎克己はこの小説の登場人物である。 この小説は主人公の椎名燎平が新設大学の門をくぐるところから始まる。 その大学にテニス部を作ろうとする学生、金子に誘われ、燎平もテニス部に関わることになる。 安斎は関西ジュニアのチャンピオンという経歴を持ちながら、テニスの強い大学ではなく、その新設大学に入学していた。 彼はテニスを辞めていた。 彼がテニスを辞めた理由を要約すると、以下のようである。 貴金属店を経営していた彼の祖父は46歳の時重い精神病になり、数年後カミソリで手首を切って死んだ。 彼の父は入り婿で、学生時代テニスの選手であった。 彼は克己が小学生の頃から、テニスの英才教育をはじめた。 彼が高校一年の時、一番上の兄がノイローゼを患い、その後首を吊った。 二年後の夏、二番目の兄が自殺か事故か判らない形で海に浮いていた。 彼は図書館に行き、精神病理の本を読みあさる。 そして、その病気の遺伝の確率が非常に高いことを知る。 その二ヶ月後の試合中「発狂する」という不安が彼を襲った。 それは死ぬことより恐ろしいことに思われた。 彼は燎平達と出会ってから一度入院する。 退院後、金子と燎平に強引に誘われ、安斎は再びテニスをはじめる。 ブランクがあったものの、彼は徐々に調子を上げていく。 しかし、ある日試合中に再発するのだ。 その後彼は自宅で療養する。 燎平にアドバイスをしたりしている。 しかしある日、ノートの切れ端に「こわい」と書き残し、自分の部屋で首を吊るのだ。 小説は基本的にフィクションである。 だが、小説家達は小説を書くにあたり、何らかの下調べをしたり自分が過去に見聞きした話を元にしたりしているのではなかろうか。 作中の安斎の台詞にこんなものがある。 「とにかく、お袋に逢いとうて逢いとうて……。 それ以来、その変な病気が治りかけてくると、必ずお袋に、ただもうひたすら逢いたいと思うようになってしもた」 (燎平には、その言葉の底に、何かとてつもない哀しい意味が含まれていたように思えたと書かれている) これを読んだとき、私にも思いあたる節があった。 私は子供の頃からほとんどホームシックにかかったことなどなかったが、心を病んで以来、ときおり母に抱き着くようになったのである… また、こんな台詞もある。 「俺も、泣きたいくらい、夏子が好きや。 こんな病気がなかったら、俺は絶対に夏子を自分のものにしてみせるんや。 (略)そやけど、もうあかん」 心の病が登場する小説は多い。 それらの全てが事実に基づいているわけではないだろう。 しかし、読んでいてひやっとすることがあることも事実だ。 『ノルウェーの森』の登場人物の自殺した姉と自分に類似点を見つけ、恐くなったことがある。 安斎が高三のとき、図書館で知った内容は、事実に基づくものなのだろうか。 ならば、私のこんな状況も、あと数年続くのだろうか…… 『車輪の下』の結末と『春の嵐』 PM 06:30 (*『車輪の下』『春の嵐』共にヘッセの小説。 それは、私がその頃ひそかな自殺願望を抱いていたことも少なからず関係あるに違いないのだが、私はこう、考えたのである。 彼はほろ酔い加減でほのかな恋心に心踊らせながら、マヌケとも哀れとも思われる事故で命を落とした。 彼は、「良い気分」のときに、自分でもそれと気付く間もなく死んでしまったのだ。 私はまず、その点--彼が自決に対する自責の念とも、迫り来る死への恐怖も感じることなく逝った点--において羨ましいと思った。 彼はあの時点では自殺願望など全く抱いてなかったように思われたが、生きていればそのうち酷く苦しむことになるだろうと感じた。 私は自分が自堕落になる前の小学生くらいの時分に死んでしまっていれば、この苦しみを味わうことも、親を苦しめることもなかったのに…と思ったことがある。 死ぬときに「いい人生だった」と思えるのが「幸福な生であり人生」なのではなかろうか、そう感じたことがある。 すると、益々彼の死が理想的なものの様に感じられた。 しかし、私のそのような印象は、ヘッセの意図したところから外れているに違いないと思った。 『車輪の下』の主人公はヘッセ自身の少年期と被るところがあり、あの物語はヘッセ自身に対する戒めであり、若者達に対する「車輪の下じきになるな」という警鐘だったのではないか、と思ったのだ。 (残念ながら、私がこの本に出会ったのは「車輪の下敷き」になった後であった。 )であるとするなら、あの結末は主人公に対する罰でなくてはならないのである。 数年のちに『春の嵐』に出会い、やっぱりあれはひとつのハッピーエンドだという気がした。 そう感じたことは覚えていたが、そう感じた理由は忘れてしまった。 『青が散る』を読み返す前、私はこんな理由で『春の嵐』を読み返していた。 この小説は大好きで、何度も繰り返し読んでいるのに、この「理由」だけはいつも忘れてしまうのだ… (余談:クーンの恋心と彼のオペラが創りあげられていく様、ゲルトルートとムオトの恋愛の部分がたまらなく好きだ。。 ) 問題の箇所は、かなり最後の方だった。 [彼をあわれむ気にはなれなかった。 彼の死は生よりらくだったのだ] ただ、この本は死への憧れをむやみに煽ったりはしない。 その理由が、ようやく分かった。 この本のラストは次のようである。 [ムオトの言ったことは正しい。 人は年をとると、青年時代より満足している。 だが、それだからといって、私は青年時代をとがめようとは思わない。 なぜなら、青春はすべての夢の中で輝かしい歌のようにひびいて来、青春が現実であったときよりも、いまは一段と清純な調子で響くのだから。 ] 4年なんてもしかしたらあっと言う間かもしれない。 「年取ると時間が経つのがはやいよね~」そう先日友人にぼやいていたのは、他でもない自分。 数年前、自分の自殺を阻止するために「奨学金と親に出してもらった学費を返すまでは死なない」と決めた。 昔から、自殺するなら、自分が生きていた痕跡を全て消して、はじめからこの世に存在しなかったかのように去りたい、と思っていた。 すると、借金を残すわけには行かないのである。 その当たり前の決意は、親がさほどうるさく取り立てるはずもない学費までを「借金」.
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