内容 [ ] 12巻からなる本書の全ページ数はおよそ3500にもおよび、出生からまでのカサノヴァの生涯が語られている。 また18世紀当時のヨーロッパの風俗や事件が活写されているが、性的描写が多く含まれているため、後世においても出版に当たってはたびたびの対象や処分となることがあった。 手稿の歴史 [ ] 老いたカサノヴァは、深い病に伏せっていたに本書冒頭の数章を起稿したと伝えられている。 1794年、カサノヴァは ()と知り合い、友情を育んだ。 この公爵がカサノヴァの回想録を読みたいと所望したため、カサノヴァはリーニュ公に渡す前に原稿を推敲することに決めた。 原稿の少なくとも最初の3分冊を読んだリーニュ公は、この回想録を出版して年金代わりに原稿料を手にするため、の編集者に打診してはどうかと提案した。 カサノヴァは手稿の刊行を承知したが、提案とは別のつてを頼ることとした。 1797年、カサノヴァは内閣の大臣マルコリーニ・ディ・ファノに出版の手助けを求めた。 カサノヴァはドゥックスで孤独な晩年を過ごしていた。 1798年死期を悟ったカサノヴァは、自分の最期を看取ってもらうため、ドレスデンに住んでいた家族たちを呼び寄せた。 カサノヴァの姪の夫にあたるカルロ・アンジョリーニが急遽ドレスデンからドゥックスを訪れた。 カサノヴァの死後、カルロは原稿を携えてドレスデンへ戻った。 カルロ本人は1808年に死去し、原稿はその娘カミラの手に渡った。 の真っ只中であった当時の情勢では、過去の時代の人物の回想録を出版できる見込みはなかった。 戦争の趨勢を決した(1813年)ののち、原稿のことをまだ覚えていたマルコリーニがカミラの後見人に2500での譲渡を申し出たが、提示額が安すぎるとの理由でこの提案は断られた。 ところが数年後に大規模なが起こり、カミラの家庭も家計が傾いたため、カミラは兄弟のカルロに即刻この原稿を売りに出すよう頼み込んだ。 その後1821年に、原稿は編集者の(の編纂によって知られる)に売却される。 ブロックハウス社は、ヴィルヘルム・フォン・シュッツに原稿の訳を依頼した。 翻訳の抄録と第1巻が刊行されたのはの初頭である。 ブロックハウスとシュッツの共同作業は第5巻刊行後の1824年に終わり、それ以降の巻は別の人物によって翻訳されているが、この訳者が誰であったのかは知られていない。 ドイツ語版の成功を受けて、フランスの編集者トゥールナションが版の刊行を決意した。 トゥールナションはオリジナルの原稿を入手できなかったので、そのフランス語版はドイツ語版からの重訳である。 このテキストは、訳出の過程で多くの箇所が削除されている。 この海賊判の出版に対応するため、ブロックハウスはフランス語原典の第2版を出すことを決め、編集改訂に当たったのはジャン・ラフォルグ(1772年 - 1852年)なる人物だが、ラフォルグの担当した版は、性的な描写の削除だけでなく、カサノヴァ自身の宗教的・政治的見解まで改竄するという、極めて信頼に値しないものであった。 これらのフランス語版は1826年から1838年にかけ版を重ね、いずれの版も売れ行きはよく、やがてドイツ語版を元にした別の重訳によるフランス語版が新たに海賊出版された。 当時、ドイツ語版はそれほど広くフランスには流通していなかったため、この版は翻訳者が自ら考え出して追加されたくだりが含まれていると伝えられている。 からまでに刊行された回想録の諸版はすべて、これらの版のいずれかを底本としたものである。 はこれらの不正確な版の一つを用いて英訳を試み、に発表した。 英語圏では、これが長らく普及版とされていた。 オリジナル手稿は、1945年6月までにあったブロックハウス社の本社に保管されていたが、ライプツィヒへの激しい爆撃が始まる直前にの新本社へ移された。 、ブロックハウス社とフランス人編集者プロンの共同作業によって、初めて原稿のオリジナル版が陽の目を見ることとなった。 窪田般彌の全訳は、自筆原稿を元にしたブロックハウス版で、1968年~69年に(全6巻、画家の挿画入り)で出版された。 抜粋訳が出版された以外は、長らく品切状態が続いたが、訳者が再度改訂し1995年~96年に(全12巻)で出されたが、ほぼ初版のみで品切となった。 主な日本語訳 [ ]• 『カザノヴァ回想録』の題で、訳( 全7巻、訳者急逝で未完) 訳( 全4巻/版 全8巻で再刊) 訳( 全6巻/新装版 全12巻)。 前者は装画・箱入。 第1巻 少女たちの誘惑• 第2巻 恋と賭博の修業• 第3巻 パリの社交界• 第4巻 修道女と大脱獄• 第5巻 魔術師の野望• 第6巻 ヨーロッパ放浪• 第7巻 占星術とぺてん師• 第8巻 仮装舞踏会• 第9巻 ロンドンの娼婦• 第10巻 性と愛の哲学• 第11巻 永遠の麗しき女性• 第12巻 最後の色事師 なお初訳は1926年刊の『カザノヴァ情史』(国際文献刊行会) 関連項目 [ ]• ・ 外部リンク [ ]• (アーサー・マッケンによる1894年の英語版)• (アーサー・マッケンによる1894年の英語版に、アーサー・シモンズの発見した章を加えた増補版)• (ラフォルグによるフランス語訳の1880年版)• (英語).
次のカサノヴァの人生:前半の成功 ジャコモ・カサノヴァは1925年にベネチア共和国で生まれました。 母は女優で、他に4人の弟妹がいました。 当時としては運よく大学に行かせてもらい法学の勉強をします。 1700年代に大学に行くと言うことは超エリートの教育を受けたと言うことです。 子供の頃はとても冴えない子だったそうですが、学校に行きだすとだんだんと才能を発揮しはじめ優秀な学生として卒業しました。 大学を卒業後は法学士、神学士、音楽家と次々と職業を変えます。 理由は本人の一つの職業にかけるやる気のなさと何でもできるというあやふやな気持ち、そして若さゆえの傍若無人さからトラブルを招いたためでした。 数年後人生最初の幸運に遭遇します。 ベネチアの有名貴族が発作で死にそうになった時適切な処置をして助けたのです。 その貴族は子供もいなく、カサノヴァを気に入ったため養子のように世話をすることになります。 その貴族は貴族階級の生活方法やマナーを教え、小遣いまでくれるようになったのです。 若い彼は享楽都市ベネチアで人生を楽しみます。 しかし必ずしも万人受けすることばかりではありませんでした。 無責任な性格が災いして何度もトラブルを招きます。 そして彼自身は記憶にない罪でベネチアの牢に入れられます。 しかし難攻不落と言われたベネチアの牢から逃げ出し、ヨーロッパ中の噂になり超有名人になるのです。 でもベネチアの法律を破って逃げ出した訳ですからベネチアには帰れなくなり、その後はヨーロッパを放浪して歩く人生になります。 その後フランスに行き、フランス語を勉強。 フランスの上流社会の人たちと付き合いを始めます。 フランスのルイ15世にもその夫人にも会っていることが記されています。 ルイ15世は年上の夫人との熱が冷めた後、さまざまな女性達と遊びますが、それらのことも詳しく記載されています。 また当時のフランスの上流社会の倫理観も破綻していてかなり乱れたものだったようです。 そんなヨーロッパ上流階級の生活も詳しく記されています。 しばらくフランス生活をしている間にフランスで第二の幸運をつかみます。 フランス国営の宝くじの発案者になり巨万の富を築くのです。 しかしここまでが彼の人生の最高潮でした。 後は下り坂になります。 下り坂になった原因はギャンブルです。 せっかくつかんだ富をギャンブルで全て失ってしまうのです。 カサノヴァの人生:後半の苦闘 その後はヨーロッパ中を放浪し、再起をかけます。 時には劇作家になったり、時には俳優になったり、時にはスパイとして生きてゆきます。 頭が良くてセンスが良いので何をやってもかなりの高水準の成果を残すことができる才人でした。 そしてベネチアには帰ることができないこともあり成功を求めてヨーロッパ中を放浪して回ります。 彼は有名人ですからいろんな伝を使って各地の上流階級の人たちに会うことはできます。 当時のヨーロッパ各国の王様やロシアのエカテリーナ二世にも会っています。 再起を図って長年努力をするのですが結局上手く行かず老年を迎えます。 そして最後はヨーロッパの田舎の貴族に雇われて住み込みの図書館の司書としての人生を最後を迎えるようになるのです。 この司書としての生活は非常に惨めなものだったらしいです。 一応衣食住は保証されているものの、田舎過ぎて周りにいる人たちが彼が人生をかけて得てきた社交的な価値を認めてくれる人がほとんどいなかったからです。 当時のヨーロッパの田舎ですから多分文字を読める人たちすらあまりいなかったと思われます。 そんな惨めな生活をしていた彼にある貴族から自叙伝を書かないかと持ちかけられたのです。 そして彼は人生最後の日々を自叙伝を書くことだけに使いました。 10年間の間彼は自分の人生の軌跡を微に入り細に入り書いて書いて書きまくりました。 老年の現実の惨めさを忘れるため過去の楽しかったことを思い出しながら自分の人生を紙の上に書き留めました。 しかし人生最後までの自叙伝と銘打っていますが、最後の10年間程は転落の一方の人生だったため思い出すのも辛いため書いてはいません。 自叙伝の行く末 長年かけて書いた自叙伝は結局彼が生きている間に出版社に売ることができませんでした。 売る前に彼は亡くなってしまいます。 そして自叙伝の原稿はカサノヴァの甥が相続しました。 しかし甥の時代には売却ができませんでした。 その後甥の子孫が二束三文でドイツの出版社に売り渡します。 原稿を手に入れた出版社は彼の自叙伝の各所をはしょったり、適当に削除したり、加筆したりしてドイツ語版を出版しました。 これはかなりのベストセラーになります。 そのベストセラーをみてフランス語の海賊版が出回ります。 それに対応してドイツの出版社がフランス人の翻訳者を雇って出版。 しかしこの翻訳者は各所を削除したり自分の意見を入れたりして原作とは少し違うものになっていました。 その後元の原稿が初めて完全出版されたのは1960年です。
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< カサノバあらすじ・ストーリー> カーニバルに沸き立つ18世紀中盤のヴェネチア。 カサノバ(ドナルド・サザーランド)は、マッダレーナ(マルガレート・クレメンティ)という尼僧からの手紙を受け取る。 海を嵐の中帰るカサノバは、邪悪な書物を保持した罪で、宗教裁判所の審問官に逮捕され、入牢を余儀なくされる。 牢でカサノバは、伯爵夫人ジゼルダ(ダニエラ・ガッティ)や、お針娘のアンナマリア(クラリッサ・ロール)との一時を回想する。 カサノバは牢を脱獄しパリに行き、神秘的な人々とデュルフェ候爵夫人(シセリー・ブラウン)のサロンで出会う。 更にスイスのべルンに行き、ドレスデンで彼を愛さない母親と会い別れる。 中華圏やイスラム圏の大帝国に挟まれ、青息吐息だったのだ。 文化的にも魔女狩りあり、風呂は入らない、排泄物は道に捨てる、あげくの果てにコレラが大流行するなどという、どこかどす黒い、澱んだ、悪夢的な社会だったのである。 実際この解釈はさほど間違っていないと思っているのだが、実は、この暗黒ヨーロッパのイメージを持った理由の大半はこの映画の仕業のようにも思う。 この映画のビジュアルの見事さゆえに、それ以外の中世の絵が浮かばないのである。 そんなこの作品は18世紀のヨーロッパを生きた実在の人物、性豪として知られる「カサノバ」を題材にしたモノだ。 ジャコモ・カサノヴァ(Giacomo Casanova、1725年4月2日 - 1798年6月4日)は、ヴェネツィア出身の術策家(aventurier)であり作家。 その女性遍歴によって広く知られている。 彼の自伝『我が生涯の物語』Histoire de Ma Vie(邦題『カザノヴァ回想録』)によれば、彼は生涯に1,000人の女性とベッドを共にしたという。 彼の最大の才能はベッドの上で発揮されたが、同時代人にとってのカサノヴァはそれ以外の面でも傑出した存在だった。 オーストリアの大政治家シャルル・ド・リーニュはカサノヴァを彼の知りえたうち最も興味深い存在であると評し「この世界に彼(カサノヴァ)が有能さを発揮できない事柄はない」とまで言っている。 またランベルク伯爵は「その知識の該博さ、知性、想像力に比肩しうる者はほとんどない」と記している。 カサノヴァがその生涯にわたる遍歴において知遇を得た人物には、教皇クレメンス13世、エカチェリーナ2世、フリードリヒ大王(カサノヴァの美貌に関してコメントを残している)、ポンパドゥール夫人、クレビヨン(カサノヴァにフランス語を教えたともいう)、ヴォルテール、ベンジャミン・フランクリンなどがいる。 彼はまたモーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』初演(1787年)に列席しており、また同オペラでロレンツォ・ダ・ポンテの台本に最後の筆を入れたのではないか、との説も唱えられている。 Wikipediaより引用 こんな稀代の色事師カサノバのエロチックな人生を、この映画はドーミエの絵をさらに俗っぽく、暗く、厚塗りしたようなイメージ、で中世ヨーロッパを濃厚に描くのである。 誰でもこの映画を見てもらえば、例えばマスカレードや、怪しげな宮廷風景、サーカスなどの映像イメージの原型が、この映画に在ることを納得してもらえると思う。 映画「カサノバ」カーニバルシーン また、このフェリーニの「映像魔術」の強烈さは、凡百のミュージックビデオがはだしで逃げ出すほどの濃厚さで、それが2時間半続く。 老若美醜を超えて全ての女性に奉仕することを喜びとするカサノバをドナルド・サザーランドがマッタリと演じ、それをニーノ・ロータのミステリアスな音楽が盛り上げる。 正直言って、物語は無いと思ったほうが良い。 ストーリーはこの監督にとって、新たなビジュアルイメージの展開上のキッカケのようなモノで、映像こそがこの映画の全てだと思っている。 右フェデリコ・フェリーニ その、こってりドロドロの高カロリービジュアルこそ、フェリーニが描きたかった「映画の中核」だと信じている。 そんなこの映画のビジュアルは、全てイタリア・チネチッタ・スタジオで撮られた濃密な人工美の構築により、やはり芸術の域に達していると思う。 そもそも、このフェリーニという人はビジュアルイメージの天才で、『魂のジュリエッタ』などを見れば、モダンな美から、古典的な絵画イメージまで、派手で豪華な表現からシンプルで抽象的な形まで、あらゆるスタイルを完全に手中にしているのが分かる。 「魂のジュリエッタ」予告 ところが「フェリーニの映像魔術」と呼ばれる、そのビジュアル・イメージは後半になればなるほど、この映画のように下世話で俗っぽく下品でエログロの度が高くなっていくのが、不思議だった。 しかしある日、その理由が分かったような気がした。 実はフェリーニと同時代に、イタリアの産んだもう一人の天才「ルキノ・ビスコンティ」監督がいたことによるのではないかと閃いたのである。 ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti, 1906年11月2日 - 1976年3月17日) は、イタリアの映画監督、脚本家、舞台演出家、貴族 伯爵。 映画監督・プロデューサーのウベルト・パゾリーニは大甥。 1906年11月2日、イタリア王国ミラノで生まれた。 実家はイタリアの貴族ヴィスコンティ家の傍流で、父は北イタリア有数の貴族モドローネ公爵であり、ヴィスコンティは14世紀に建てられた城で、幼少期から芸術に親しんで育った。 1936年にはココ・シャネルの紹介でジャン・ルノワールと出会い、アシスタントとしてルノワールの映画製作に携わった。 (Wikipediaより引用) ヴィスコンティの描く高踏的な美は、貴族階級に生を受けた、その伝統の上に築かれた圧倒的な力を持っていた。 その芸術性は何代にも渡って伝承され得て初めて可能となった美である。 基本・基礎から違うと言うべきであって、たまたま芸術的才能を持って生まれた個人が対抗するには、あまりにも遠く高いところに在る美だ。 当ブログのビスコンティー映画レビュー.
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