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昭和最後の芸人の死 平成8年 1996 1月、大阪摂津市。 ある一人の男が、自宅で短くも太く濃い波乱の人生に幕を閉じました。 彼は死の前夜酒を飲み、長年の深酒に肝臓が悲鳴を上げたアルコール性肝硬変でした。 「あんた、これ以上飲んだら死ぬで」 と医者に通告されていた中の深酒。 ほぼ自殺そのものでした。 その男の名は 横山やすし。 本名は木村雄二。 非常にクセのあった、しかしどこか愛された、空前絶後の破滅型芸人でした。 昭和に生き、戦後昭和に彗星の如くあらわれ、そのピークを笑いで支え、そして昭和の終わりを見届けつつ消えていった芸人、横山やすし。 彼の人生もまた昭和史として取り上げるべき材料でしょう。 あの時、あなたはヒーローだった 昭和60年代以降生まれの人には、西川きよしを知っていても、横山やすしという名前を聞いたことがないかもしれません。 「やすしきよし」 (以下「やすきよ」)という漫才も、聞いたことすらないかもしれません。 しかし、昭和40年代以前生まれの、特に関西に生まれた人は、「やすきよ」は絶頂を極めた漫才コンビとして記憶に強く残っているはず。 そして、漫才100年の歴史上最強のコンビとして、現在でも伝説として語り継がれています。 かく言う私も、「やすきよ」の漫才をリアルタイムで見ていた世代です。 まだ幼かったので思想や哲学が入り込むことはなかったのですが、この年になり振り返ると、あれは漫才ではなく、「漫才という名の歴史の一部」を見ていたのだなと。 「やすきよ」とは何か-漫才史最強のコンビ ここで、「やすきよ」について説明しておく必要があります。 「そんなん知っとるわい」 という方は、簡単に流してもらうだけで結構です。 「やすきよ」は、天才漫才師と呼ばれながら泣かず飛ばすだった「横山やすし」と、新喜劇の役者ながら目が出なかった「西川きよし」との漫才コンビでした。 昭和41年にデビューした彼らは、瞬く間に漫才界のスター街道を爆走、漫才師として頂点を極めます。 ブレーキが壊れたスポーツカーやすしに、生真面目一筋のトラックきよしという凸凹コンビのやりとりが客にウケました。 トヨタのハイブリッドカーのキャッチフレーズに、 HYBRID SYNERGY DRIVE という言葉があります。 これは電気とガソリンという、全く異なる2つのものが相互作用し、別のものを生み出すというニュアンスがあります。 「やすきよ」の漫才はこの漫才版。 やすし・きよしという真逆の性格の人間がシナジーを起こし、笑いというエネルギーを発生させた HYBRID SYNERGY MANZAI だったと、リアルタイムで見た人間として感じます。 当時の吉本興業の芸人は、野球に例えて エースの 桂三枝(現6代桂文枝)、 キャッチャー笑福亭仁鶴。 代打の切り札月亭可朝。 そして、 3番4番がやすしきよしと表現されていました。 彼らは当時の吉本の稼ぎ頭で、テレビのチャンネルをひねれば誰かが画面に出ている、テレビに出ない日はないというほど大人気でした。 今の吉本なら、エースは明石家さんま、3番4番はダウンタウンの二人、キャッチャーは…さて誰やろ?といったとこでしょうかね。 島田紳助がいれば、間違いなく彼のポジションだったのですが。 やすしのトラブル第一号ときよしの成長 しかし、人気絶頂だった昭和45年 1970 、やすしは無免許運転の上、タクシー運転手に暴行を加えるトラブルを起こし、執行猶予付きの有罪判決を受けます。 執行猶予期間(2年)の間やすしは芸能活動を自粛、「やすきよ」もこれまでかと解散の危機を迎えました。 やすし謹慎中の間、きよしはがむしゃらに働きました。 いや、働かざるを得ませんでした。 それは何故か。 やすしを待つということもありましたが、本人いわく月賦(ローン)で家電から家まで購入し、返済期間も「いつでもいいよ」と借りたお金が、やすしの自粛と「やすきよ」コンビ解散の噂が立つやいなや、手のひら変えて返済を迫ってきたそうです。 現実的な理由ですが、これは一家の長として働かざるをえない。 しかし、これがとんだ怪我の功名となります。 数年後、自粛期間が終了しコンビ復活となったのですが、「やすきよ」の本領はここからでした。 デビュー当初の「やすきよ」は、天才やすしが漫才ド素人のきよしを引っ張っていくスタイルでした。 漫才はふつう、 「ボケ担当」 「ツッコミ担当」と役割が固定されています。 ボケ担当がツッコミをすることは、あまりありません。 しかし、「やすきよ」はそれが変幻自在。 やすしがボケたかと思ったら、数秒後にきよしがボケる。 このボケ・ツッコミが瞬時に入れ替わるのが「やすきよ」漫才の真骨頂であり、我々はそんな「やすきよ」漫才をずっと見てきました。 これは実はやすし謹慎明け後のスタイル。 「鈍カメ」がパワーアップし、「天才ウサギ」について行けるようになったからこそ出来た芸だったのです。 ガンダムに例えると、ニュータイプ横山やすしのオールレンジ攻撃に全く歯が立たなかったジムのパイロット候補生西川きよしが、努力を重ねた末、やすしのファンネルをやすやすとかわせるようになったという感じでしょう。 彼らは1980年代の漫才ブームの波にも乗り、名実ともに日本一の漫才師となりました。 これが、 「やすきよ」の第二次絶頂期。 この時の収入は 年5億円以上… 月給7000万の時もあったそうです。 私がテレビで「やすきよ」の漫才を見ては大笑いしていたのは、この頃でした。 やすしの放漫ときよしの決別 順風満帆に見えたこの凸凹コンビも、やはり凸凹だけにいったん亀裂が入ると止まりません。 やすしはこの頃から趣味のモーターボートにのめりこみ、仕事も空ける(サボる)ようになります。 「俺は趣味 (モーターボート)のために仕事 (漫才師)やっとんや」 という発言まで飛び出し、芸人にしてはあまりに真面目かつ現実的なきよしは危機感を抱きます。 そして1986年、 きよしは参議院議員選挙に出馬を表明。 知名度抜群の彼はダントツの投票数を得てトップ当選を果たします。 この時、やすしは相方を「裏切り者!」とテレビで罵倒していましたが、それには理由があります。 きよしは政界進出のことを、相方の前に吉本興業に相談していました。 次に家族。 やすしの優先順位はその下でした。 社会人としては至って筋が通っているのですが、社会のルールなどへったくれの、生粋の芸人やすしには知ったことではありません。 「なんで真っ先にワシに相談せーへんかったんや!相方であるワシにいちばん相談せなあかんのとちゃうんか!!」 やすしには、それが腹立たしくてたまらなかったのです。 やすしの師匠でもある故横山ノックも先に政界に進出しており、師匠と相方、どちらも自分から離れていった…その寂しさを紛らわすため、酒の量が増えていきました。 やっさんと親しい人や元マネージャーも、あれがやすしの歯車を狂わせたと述べています。 だからといって、きよしを責めるのは筋違いだと私は思います。 文が長くなってしまうので省略しますが、ただ言えるのは、もし私がきよしの立場だったら、彼と同じ道を取るだろうなと。 きよしの政界進出で、「やすきよ」は活動休止状態となりました。
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長男の一八は少年院。 父のは自宅謹慎中のなか、私は取材を兼ねて大阪の自宅を訪ねていた。 意に反して朝から喫茶店でビールを飲み終えると、タクシーで連れて行かれたのが梅田界隈にある居酒屋だった。 やっさん馴染みの店もランチタイムの最中。 通された奥の個室に入ると聞きつけたのか、それとも呼び出されたのか、続々とボート仲間らが駆け付ける。 昼から酒盛りが始まった。 昼飲みは大阪では珍しくない。 盛り上がる仲間との話を聞いているしかない。 時折、「オマエも飲んでるか」と声はかけてくれる。 すでにご機嫌。 やっさんとの飲み方を多少は心得ている私は長丁場を覚悟。 少しずつ飲む量を減らした。
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