この軍記は非常に曖昧な謀反の風聞を粛清の口実としながらも、秀次がこのような憂き目にあったのはその暴虐な行いに原因があったという、「因果歴然の天道思想」 に則って事件を描くことで、むしろ天然自然の道理である 天道を説くことに重点を置いたところに特徴があるが、これでは秀次の滅亡を勝者の論理で正当化したのと変わらない。 謀反説はその後の他書においては讒言説へと発展するわけであるが、完全には無くならず、殺生関白の悪名はほぼそのまま残った。 一方で、『太閤さま軍記のうち』は「天道の恐ろしき次第なり」で片付けてしまったので、結局のところ何も解明されず、どのような理由によって粛清されたのかという 真相の部分は曖昧なままとされてきた。 よって現在でも断片的な説明となる幾つかの仮説が存在するのみである。 謀反説とその否定 謀反説は当時から世間では懐疑的に見られていた。 『言経卿記』の記述によれば(文禄4年)7月8日「関白殿ト太閤ト去三日ヨリ不和也、此間種々雑説有之、今日殿下伏見御出也」、13日「昨日殿下禅定於高野山御腹被云々、言語道断也、御謀反必定由風聞也」 とあり、山科言経は謀反は単なる噂にすぎないのにそれで切腹とは言語道断だと怒っていて、「不可説」と説明できない事態の展開に憤慨していた。 『御湯殿上日記』にも、7月8日、「今朝関白殿へ太閤より御使いありて。 謀反とやらんの沙汰御入候て、太閤機嫌悪く御断り候まてとて、関白殿高野へ尾登りのよし申」、7月16日「関白殿昨日十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申。 無実ゆえかくの事候由申すなり」 と書かれ、秀次は謀反の疑いで高野山に入ったが、無実であったので切腹になったのであろうと端的に説明する。 『川角太閤記』では「御謀反は毛頭おぼしめし寄りなき事、後々、只今までも御座なく候と、承り候。 太閤様御分別には、御存命の時さへ、か様に乱りに 御行 ( おてだて )の義候は、御他界後は、義理五常も御そむきなさるべきこと必定と、おぼしめされ候故、半分も大きりも、右の様子は、御りんきと相聞こえ申し候事」として、冤罪であったと断言しつつも、秀次の素行の悪さを憂いて将来の禍根を断ったのであろうと秀吉の意思を説明する。 『』では「関白秀次太閤江頃日御謀反の企露之由あって、七月八日関白聚楽第退出、即出家於高野山、同十五日腹を切御、秀次若君二人、一二歳の孩児、近習女房餘輩、渡洛中切捨らる、誠は秀次逆心之儀虚言と云へ共、行跡不穏便飢故、治部少依讒言如此、」と、謀反を明確に否定しつつも、それを石田三成讒言説へと展開している。 『太閤さま軍記のうち』では木村常陸介と粟野木工頭が「陰謀をさしはさみ」と秀次を唆したというものの、何れの話においても漏れ聞こえてきたという謀反の風聞そのものについて少しも具体的ではなく、鹿狩夜興で武装していたことが野心の表れと咎められたというぐらいで、謀反の実体を書いた物はなかった。 それどころか多くの書物では疑われた謀反はなかったと否定されたのである。 秀次の罪状 そもそも本当に謀反を起こしたのであれば切腹は許されず、斬首や磔などもっと重い刑罰が科されることが常識であった。 よって秀次は謀反によって死を賜ったわけではないと解釈するのは自然で、は1987年から翌年にかけて『国史学』と『國學院雑誌』上で、前述の『御湯殿上日記』7月16日の記述「御腹切らせられ候よし申。 むしち(無実)ゆえかくの事候由申すなり」を根拠にして、謀反では無罪になったから切腹になったのであり、謀反の疑いが晴れなければ磔になったのではないかと主張した。 この解釈に小和田哲男は(2002年頃)賛同したが 、その後、宮本本人が自説の文法解釈上の誤りを認めて、むしち(無実=古語で「誠意がない」の意)、すなわち不誠実な対応を咎められた故の自刃であったという新説を2010年に提起している。 なお宮本は秀次失脚の原因として、の病の際に、その主治医をしていたを自宅によびよせた一件が、天皇診脈を怠ることになり、秀次には秦宗巴という侍医がすでに存在していただけに関白の地位の乱用を問われる越権行為と判断され失脚、切腹につながったのではないかと指摘している。 これがいわゆる天脈拝診怠業事件である。 『太閤さま軍記のうち』ですら列挙される罪状のなかに謀反の文字はなく、忘恩・無慈悲・悪業の三点 が責められたに過ぎない。 つまり謀反の企ては存在せず、嫌疑が晴れたにもかかわらず切腹させられたということなのである。 断罪した側がどのように事件を説明したかというと、『吉川家文書』の中に7月10日付で秀吉と奉行衆がそれぞれ吉川広家に送った2通の手紙が残っているが、この中では高野山に秀次が送られた理由を「相届かざる子細(不相届子細)」や「不慮之御覚悟」があったとする。 のみで、具体的な内容は明記されず、口実すら記さない、言うのは憚られるという状態であった。 小和田哲男は、「不相届子細」は秀吉が「秀次は自分の思い通りにならなくなってきた」と考えていたことであるとし、斎木一馬 の論文を思い起こして、謀反などはなく、これは専制政治が起した悲劇で、独裁者秀吉には秀次を粛清するのに理由など必要としなかったことを示唆する。 宣教師は、1592年11月1日付の書簡で、すでに秀吉と秀次の不和から「何事か起こるべしと予想」 していたが、『』の第三十八章では、秀次は「(老関白から)多大な妄想と空中の楼閣(と思える)書状 を受理したが、ほとんど意に介することなく、かねてより賢明であったから、すでに得ているものを、そのように不確実で疑わしいものと交換しようとは思わなかった。 彼は幾つか皮肉を交えた言葉を口外したものの、叔父(老関白)との折り合いを保つために、胸襟を開くこともなく自制していた」 と書き、老いて誇大妄想に陥った秀吉と、賢明で思慮深い秀次の人物像とを対比して描き出した。 フロイスは「この若者(孫七郎殿)は叔父(秀吉)とは全く異なって」 いたと評していて(後述する悪行はあったとするものの)暴君は秀次ではなくて秀吉そのひとであったという立場をとっている。 一方で、39名もの眷族が皆殺しとなったのであるから、谷口克広はやはり罪状は秀吉に対する謀反であったのは確かであるという。 それでも谷口も謀反そのものはなかったと否定し、溺愛説を取っているが 、秀次が切腹したにもかかわらず、眷族にまで罰が及ぶというのは確かにちぐはぐであり、依然として謎は残る。 フロイスは、これは太閤が「残酷絶頂に至り」「その憎悪は甚だ強く、その意思は悪魔の如く、関白に係有る一切のものを根絶」しようと決心したからであるとし、秀吉の狂気の表れとして説明する。 他方、は、別の観点で新説を発表して、無罪である秀次が腹を切ったのは、命令によってではなく潔白を訴えた秀次自らの決断であったとし、「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図に反し秀次が自ら腹を切った」と主張した。 秀次が腹を切った青巌寺は、大政所の菩提寺として秀吉が寄進した寺院であり、神聖な場所を汚されたと思った秀吉は逆に激怒して、秀次の妻子を皆殺しに及んだと説明する。 矢部は、太閤記の『秀次に謀反の動きがあった』という記述も、「事態収拾のために秀吉と三成らが作り上げた後付けの公式見解だったのではないか」と推測している。 年間に成立したとされる『川角太閤記』は、秀吉の側室であったが病を得たため暇を出され親元に帰されていたの娘である一の台を、秀次が見初めて、晴季に請うて秀吉には黙って継室としたが、石田三成の讒言でそれを知った秀吉が嫉妬に狂って罪状をでっち上げ処断したとする話を載せている。 『甫庵太閤記』では、7月5日に石田三成が、1年前に毛利輝元と秀次が交わした誓紙を今になって咎めて、(秀次には謀反心は)「聊以(いささかもって)なかりし」ものの、反逆者の行為に似ていると別の嫌疑を取り上げて言い掛かりをつけてくる。 同記は「秀次公讒言にあひ給ひし」は天罰であったという論調であるが、讒言者を石田三成と増田長盛の2名としている。 木村重茲(木村常陸介)の役回りが変わって、彼は秀吉の重臣・の嫡男として本来なら豊臣家の執政となるべき立場であったが三成にその地位を奪われた者であり、両者の対立関係を描くことで、三成に陰謀に関与する動機を与えている。 三成は、関白の宿老として将来のある常陸介を陥れようとしていて、木村家に内偵を入れて見張り、讒言の口実を伺っており、三成による讒言という構造がはっきりしている。 木村重茲はもはや忠臣として扱われ、物語の中心は、石田三成と秀次の宿老衆とのせめぎ合いであり、田中吉政が三成の謀略によって讒言に協力するように迫られて、吉政が日々子細な報告を繰り返すうちに情報を集めて、三成は「御謀反はうたがいなく候」と秀吉に報告するに至る。 三成はさらにを使者として秀次をおびき出そうとする。 重茲は追い詰められたからにはいっそ謀反を起そうと提案するが、粟野秀用が反対して、秀次は弁解に伏見に向かうが、すべてが筒抜けの状態であったからまんまと捕らわれてしまうという展開である。 これが『武功夜話』(成立年代不明だが江戸中期以後)になると、田中吉政の役回りが前野長康に替わっている。 ここでは前野家が主人公だが、これまで不明だった謀反とされた内容がさらに具体的に加筆された。 それによるとそもそもの発端はが秀吉に直接訴え出たことであり、秀元が聚楽第に来た際に連判状を示されて秀次への忠節を誓うように催促されたのを、謀反の疑いとして注進したが、連判状には前野景定(出雲守)の名前もあったのだと言う。 そこで6月末、前野長康と木村重茲が伏見に召還されて石田三成・増田長盛・の審問を受け、両名はそれぞれ秀次の所業を弁護するが、連判状の存在を突き付けられて観念して、聚楽第に急行して秀次に恭順の意を諭すことになる。 連判状がなぜ謀反と繋がるのか疑問に思うわけであるが、これについては弁明する秀次に「この書物は別儀相無く、余への忠義の心を相確かめるため、家来ども始め諸上に書物に連署墨付け願いたる事、太閤殿下に聊かも他意これなし、如何様に殿下に讒言候哉」と言わせて、奉行衆が秀吉と秀次の間が引き裂いたことだとして描かれている。 ここまで詳しく書いたが、これらの資料ごとの相違からも考察できるように、石田三成讒言説については「秀次の粛清は何者かの陰謀の結果であろう、そしてそれはきっと石田三成に違いない」という、後世の人の憶測と考えられる。 主体的に三成が動いたということがわかるような史料は存在せず、三成による讒言があったことを示す史料もない。 また、上記の例に挙げた後世に書かれた「」はもとよりフィクションを多く含んでいると考えられている。 事件後に、使者となって関わった奉行衆がそれぞれ加増されているという史実はあるものの、秀次旧家臣らの中にも加増を受けているものも存在することなどから、「三成ら奉行衆は秀吉の命を遂行したに過ぎない」というのが現在は有力な説で、や小和田哲男などは讒言説を否定し、石田三成は「秀次追い落としの首謀者ではなかった」 としている。 悪逆説・悪行説 謀反の嫌疑が「虚共実共終にしれず」という状態にもかかわらず、家老衆が自害した後に、秀次の乱行・悪行が再び断罪の材料とされるのは、ほぼすべての軍記物・太閤記の書物で共通する内容である。 悪業として列挙されるのは、およそ下記の4点であるが、宣教師の記録にある不徳についても記す。 なお、『太閤さま軍記のうち』が死の原因(あるいは天道に背く所業)とするのは、稽古で人を撃ち殺したり辻斬りなどをしたことではなく、比叡山の禁制破りと北野で座頭を殺したことで、天道思想と現代人の道徳観念とにはかなりの落差があることには注意が必要である。 一方、宣教師フロイスは、秀吉の方がより残忍で人倫に外れた暴君であると書いており 、秀次の悪しき慣習を指摘しつつもそれは残念な欠点と言っているだけで多くの美徳を讃えてもいて、粛清の原因としてはを書いて太閤と関白の不和によって起こったとする。 人斬りも5つ挙げられた口実の1つ にされたに過ぎない。 『』より「秀次公戯れに往来の男女を討殺し給ふ図」(画) 秀次の乱行・悪行 「御稽古」 秀次は習い事が好きで、『』によると馬術は荒木元清から、射術は京都より片岡家次やら6名の弓術家を招いて、その術を試していた。 『続本朝通鑑』によると、秀次は剣術も好み、しばしば能伎者を召してそれを見ると、木刀を用いずに白刃を用いてこれを試してみた。 それで傷を負ったり、悪くすると死ぬ者もいたので、相手をさせられる用人の中にはこれを苦にして逃げ去る者も少なくなかったという。 太田牛一の『』(『太閤さま軍記のうち』と同じ記述)によると、鉄砲御稽古と称して北野辺りに出て行っては見かけた農民を鉄砲で撃ち殺し、あるいは御弓御稽古と称して射貫遊びをするからと言って往来の人を捕まえさせてこれを射ち、また力自慢と称してはをするから斬る相手を探してこいと言い、往来の人に因縁をつけさせてを行った。 数百名は斬ったが、これを「関白千人斬り」だとして吹聴し、小姓ら若輩の者がこれを真似て辻斬りを行ったが咎めなかったという。 千人斬りに関しては、天正14年(1586年)に宇喜多次郎九郎が大坂で、文禄2年(1593年)にが山科で、それぞれ多数の人間を殺害した容疑で逮捕されており、前者は自害、後者は改易させられたという。 特に津田信任は秀吉の城持ち家臣であり、他者の犯罪が秀次の話としてすり替わった可能性はあり、太田牛一が「よその科をも関白殿におわせられ」 と書いたこともこれらを指していたとも考えられる。 また辻斬りは後に徳川幕府が積極的な取り締まりに乗り出す必要があったほど、桃山時代から江戸時代初期にかけて流行しており、珍しいことではなかった ものの、さすがに秀次ほどの人物が辻斬りを行えば、太田牛一以外にもそれを書き留める者がいたはずであり、史料記録が他に皆無であることから信憑性には当然疑念が生じる。 小林千草は著書の中で、秀次が秀吉の数百本所持していた名刀の鑑定を任されており、名刀鑑定体制の中で試し斬りを行っていたのではないか、という仮説を述べている。 「」も参照 「院の中」 文禄2年(1593年)正月5日、が77歳で崩御されたが、関白という地位にもかかわらず、精進潔斎をせずに16日にはを食した。 諒闇の喪に服す期間(=1年間)にもかかわらず、郊外に出て遊興した。 6月7日にはを召して平家物語を5、6段語らせた。 7月18日には聚楽第で相撲を興行し、以後もしばしば興行した。 『甫庵太閤記』によれば崩御7日も経たないのに鹿狩りをしたという。 この鹿狩りが殺生関白の落首の話に続くわけであるが、『言経卿記』によれば秀次が鹿狩りを行ったのは文禄3年(1594年)9月11日のことで喪は既に開けていたとされ、事実ではないという。 また秀吉が文禄2年2月に鷹狩りをしたという記録があり、喪が明けないうちに狩りをしたのは秀次ではなく秀吉であったという説もある。 「の禁を犯す」 『甫庵太閤記』によれば、秀次は女房らを連れて女人禁制の比叡山に登山して一昼夜の遊宴を催した。 日中は終日狩りをして、日没後も徹夜で夜興引きを行い、殺生が禁止されている聖地の山で鹿・猿・狸・狐・鳥類と大量の獲物を獲った。 山の衆が以来この山は殺生禁断女人結界であると抗議したが、聞き入れなかった。 また『太閤さま軍記のうち』によれば、秀次一行はに馬をつないだり、鹿狩りを止めようとした僧侶たちがためていた塩酢の器に獲った鹿肉などをつっこむという悪さもしたといい、またこれらが(同記では何年のことか不明)6月8日の出来事であったとして、ちょうど月違いの7月8日に高野山に入ることになったのは「因果歴然」であるとする。 『甫庵太閤記』ではこれを文禄2年(1593年)の6月8日のこととしているが、『言経卿記』によればその日は秀次は聚楽第にいたことがわかっており、少なくとも日付は間違いであったことは確認されている。 「でを殺害」 『甫庵太閤記』によれば、北野天神に行った際に1人の盲人(座頭)が杖をついているのに遭遇した秀次は、酒を飲ませてやると騙して手を引かせて、その右腕を斬り落してしまった。 その盲人は周囲に助けを求めて「ならず者め、人殺し」「勇気ある人は助けてくれ」などと叫んだが、(秀次の家老)から盲人でも助かりたいと思うのかと尋ねられたので、殺生関白がこの辺りで辻斬りを行っていたという話を思い出して、自らが悪業の犠牲になるのかと嘆きつつも、「我が首を取って殺生関白の名を後代まで成さしめよ」と罵り、なぶり斬られたと云う。 また『太閤さま軍記のうち』によれば、これが(同様に何年かは不明)6月15日の出来事であったとして月違いの7月15日に秀次は自害したことから、「天道恐ろしき事」として結んでいる。 フロイス指摘「秀次の一大不徳」 『日本西教史』によれば、秀次には「人を殺すを嗜む野蛮の醜行」があり、罪人が処刑される際には自ら処刑人を務めるのが常であったという。 関白の居館の一里ほど先の高地に刑場が設けられ、周囲に土塀を築き、中央に大きなを置いて罪人をこれに寝かせて切り刻んで楽しんだり、あるいは立たせて両段に裂下ろしたりし、最も快楽としたのは罪人の四肢を一つずつ切断することで、恰も鳥獣を裁くのと同じようなやり方で人間を解剖したと云う。 また最も惨酷な振る舞いは妊婦の胎を剖い見たことであったと云う。 フロイス(=フロヱー)は秀次切腹という日本での一大事を受けて1595年中に書簡を書いたとしているので、少なくとも当時すでに流布していた悪評なのであろう。 ここでは割愛しているが、前述の人間を生きる標的として弓や鉄砲で撃ち殺した話も含まれていた。 またこの話は、微妙な違いはあるものの、他の宣教師の書物にも繰り返し引用され、ルイス・デ・グスマンの『東方伝道史』やの『モンタヌス日本誌』 にも同様の内容が登場するが、これらは別々の証言というより、フロイスの書簡記事が転載されていったものである。 ただしフロイスの原典を見れば、斬っていたのはあくまでも「 死罪の者」であり、描写の内容は、特殊な刑場は「土壇場」を指し、処刑の様子は「」のような方法を指していると思われる。 日本刀の試し切りに人体を用いていたことも併せて、これらの刑罰や習慣は江戸時代の日本にもあったもので、宣教師の目から見た当時の日本人の異習に過ぎず、フロイスの記述は史料的価値は高いものの、必ずしも秀次の残虐性を示す証拠や特異な奇習とまでは言えないことには留意すべきである。 殺生関白について 「 さるほどに、院の御所崩御と申すに、鹿狩りを御沙汰候。 法儀も政道も正しからざるあひだ、天下の政務を知ること、ほどあるべからずと、京わらんべ笑つて、落書にていわく、 院の御所にたむけのための狩りなればこれをせつせう関白といふ と、かように書きつけ、立てをきさぶらひし。 しかしながら落首が実際にあったかどうかは不明であり、は他に出典を見いだせず、句も後世の作ではないかという説もある。 専門家の評価 殺生関白、つまり秀次暴君論の評価については、現在、専門家の間でも意見が分かれている。 戦前の歴史学者は、概ね秀次の性行および態度に不良な面があったという説を受け入れていた。 などは太閤記をそのまま信用し、秀吉の家族の研究でも業績を残した渡辺世祐も粛清の原因の一つとして上げて、秀吉の愛情が秀頼に移った上に、秀次は暴戻にして関白としてあるまじき行動が多かったがゆえに身を滅ぼしたとしている。 しかしその後の研究で史料分析が進むと、太田牛一の『太閤さま軍記のうち』以前には、秀次の暴虐・乱行を記した史料が一つも存在しないことが複数の歴史学者に指摘されて明らかになった。 以後の史料は太田牛一の著作の影響を強く受けたものと考えられたので。 、江戸時代に成立した史料は内容の信憑性が疑問視され 、史実性について再考がなされるようになった。 、院の諒闇や比叡山の禁を犯した話については、期日が不明であったり、他に矛盾する史料があったりして、すでに疑議が上がっている。 秀次は公家と親しくし、古典教養の豊かな文化人であったことから、宮中のしきたりを敢えて破ったという話にはそもそも不自然さがあることも指摘される。 稽古で人を殺したり、北野天神で盲人を殺したということなどは、太田牛一ですらその後に「よその科をも関白殿におわせられ」 と他人の犯罪が秀次の悪行・乱行として濡れ衣がきせられたかもしれないと示唆しており、最初から実際にあった事なのか、ただの流言飛語なのかはっきりしない記述であった。 これが具体的な内容に加筆されて秀次の所業とされたのは後世になってからであった。 またルイス・フロイスの日本年報での弓鉄砲の稽古で人を殺した話の箇所は「或時はまた果報拙き者どもを生きたる的となして、矢又は鉄砲を以て射殺したり」 という一行のみで、彼の主旨はや、といったローマ皇帝との対比にあった。 同時代人であるフロイスが秀次を自ら人殺すを好む青年として描いたことは歴史証言として一定の価値を持つが、全体の論調としては秀次に同情的に記述されている。 また多くの歴史学者は当時の宣教師たちがどのようにして情報を得ていたのかわからないとしており、情報の出所について疑念も残っていて、僅かだが意味不明の箇所もあることから、巷説・風説を集めて書いたものであるという説もある。 最も強く秀次暴君論を否定する小和田哲男は、殺生関白を説明するために多くの逸話は創作されて追加されたものであるとして 、殺生関白の史実性を明確に否定する。 谷口克広は秀次の非行そのものは否定しないながらも、天道思想による因果応報の考えによってそれが針小棒大に語られている可能性を指摘する。 確執説 秀次の死は、どのような所業が理由であれ、一度出家した者に切腹を要求する事自体当時としても考えられないことであった。 また武家とはいえ、関白はの後見人としてと敬称される地位であり、その関白秀次が朝廷の外で失脚したのみならず早々に切腹を申し付けられて梟首にまでなったこと、一族郎党までも尽く処刑されたことは、公家社会に衝撃を与えた。 秀次の痕跡すら消し去ろうというような苛烈な仕置には明らかに秀吉の強い意志が感じられ、当然のことながら二人の間に根深い確執があったことが考えられた。 ルイス・フロイスは1595年中に秀次の死という一大事をヨーロッパに伝えたが、その際に独自の分析から事件は太閤と関白との不和から起こったものであるとして原因を三つ挙げている。 これは文禄4年という最も早い時期に出された説であるが、フロイスは秀吉が三人の甥(秀次・秀勝・秀保)に天下を分け与えたことを述べた上で、そのいずれもが相次いで亡くなったことを指摘し、秀吉は天下を譲り渡したもののその実権を渡す気は無く、支配権を巡る争いがあったことを第一の理由として述べた。 第二の理由としては秀次が再三促されながらも朝鮮出兵に出陣しなかったことを挙げ、日本を領すれば事足りると考える秀次が外征に対して内心不満を持っていたと述べた。 第三の理由としては実子・秀頼の誕生を挙げ、秀吉は秀頼を秀次の婿養子とするという妥協策を発表したものの、その本意は秀次に関白の地位を諦めさせることにあったとし、これらのわだかまりから発した不和と不信が数年の間に高じ、後の事件につながったというのが彼の解釈であった。 フロイスが提示した原因はそれぞれ後世の歴史学者が主張した説とも符合するところもある。 は秀吉と秀次政権との間に統治権の対立があったと主張しており、秀次切腹事件によって育っていた新体制が壊されたことが、結果的には豊臣政権そのものの崩壊へと繋がることになったとも言う。 太閤と関白の権力闘争が秀次失脚の要因として、蒲生氏郷遺領相続問題に結びつけたの説もある。 ただこの朝尾説は、宮本義己により政策の決定権を有する太閤と、自主権を備えずに太閤の忠実な執行機関でしかない関白では同格形態での権力闘争は成立しないと反論されている。 そして秀吉が我が子を可愛く思う余りに、秀頼の誕生によって甥の秀次が疎ましくなったが、関白職を明け渡すことに応じなかったため、口実を設けてこれを除いたという説は、従来より通説(溺愛説)として語られてきた。 またこの溺愛説には、秀吉の意思というものと、淀殿の介入を示唆する石田三成讒言説と合わさったものとがある。 1192-1196• 1196-1198• 1207-1221• 1224-1229• 1229-1231• 1231-1232• 1242• 1242-1246• 1246• 1252-1255• 1261-1265• 1265-1267• 1267-1268• 1269-1273• 1273-1274• 1279-1287• 1287-1289• 1289-1291• 1291-1293• 1293-1296• 1296-1298• 1301-1305• 1305-1308• 1311-1313• 1313-1315• 1315-1316• 1316-1319• 1319-1323• 1323-1325• 1325-1327• 1327-1330• 1330• 1330-1333 南北朝時代• 1601-1604• 1605-1606• 1606-1609• 1609-1612• 1612-1615• 1615-1619• 1619-1623• 1623-1629• 1629• 1647-1651• 1652-1653• 1653-1663• 1668-1682• 1682-1687• 1689-1690• 1690-1703• 1703-1707• 1707-1709• 1716-1722• 1722-1726• 1726-1736• 1736-1737• 1737-1747• 1747• 1755-1757• 1757-1762• 1772-1778• 1778-1779• 1785-1787• 1787-1791• 1791-1795• 1795-1814• 1814-1823• 1823-1856• 1856-1862• 1862-1863• 1863-1864• 1864-1867• (により廃止).
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実際に犬猿の仲は本当なのか? 「犬猿の仲」という言葉を調べてみて、まず思ったことは、「人間の決めつけが多いじゃないか!」ということ。 猟での出来事の話も、よく考えてみれば「そりゃ喧嘩するのも当たり前」なんて思えるようなエピソードなような…。 西遊記や干支の話も想像上の話だし、豊臣秀吉と前田利家の話に至っては肝心の犬と猿自体は出てきません。 まあ、全ての説が正しい由来であるとは限りませんが…。 しかし、だからといって、「犬と猿は仲が良いのか」と考えれば、全てがそうではないと思います。 でも、犬と猿は仲良くなれると思います。 例えば、昔の志村動物園の人気コーナー、『パン君とジェームズのおつかい』。 パン君はチンパンジーですが、大きく見れば猿の仲間ですよね。 私から見ても、パン君とジェームズはとても仲の良い関係に見えました。 猿はとても縄張り意識の強い動物だそうですが、仲間だと認められれば良い関係を築けるのかも。 反対に犬も、昔から人間と長く共に暮らすことで、親和性が養われてきました。 そんな互いの性格が良い方向に組み合わされば、犬と猿もとても良い関係を築けるのかもしれません。 なかなか面白いまとめでした。 確かに昔から「犬猿の仲」というと、とても仲の悪いことだと思っています。 どの説もなるほど!と納得できるものが多かったですが、それと同時に仲が悪いというのとはちょっと違う気もしてきました。 犬と仲が悪いとされている動物が猿なのは日本くらいですね。 海外では犬と敵対する対象は猫になっています。 fight like cats and dogs 意味合いは同じだと思います。 昔話では、犬は勇敢な生き物の象徴になることが多いですし、猿は知恵、知識の象徴になることが多いです。 犬は勇敢であるが故に戦いの場では向かって行きやすく、逆に猿はその知恵を生かしむやみに前へ出ない性格もあったと予想されます。 その真逆の性格からもソリが合わない、という意味合いでもあったのかなと思います。 実際に犬と猿は仲が悪いわけではなく、人間の干支の戌年と申年も仲が悪いわけではないですよね。 日本語の由来を調べていくと犬が登場することわざも数ありますが、どれも面白い逸話があるので、物語を作ってもらえるほど犬は昔から人の生活に密着していたのだろうなと思います。 昔からあることわざで、当たり前のように意味は理解していましたが由来や本当のところは・・という部分にはまったく目がいっていませんでした。 犬と猿をモチーフにいろいろな説があるんですね。 私は犬と猿で一番最初に桃太郎を思い出してしまいました。 これは仲良く鬼退治をしたお話ですが、桃太郎を介して犬と猿(きじも)はお互いに仲間と認識していたのかもしれませんね。 にしても、こんなにも一般的に今もよく使われることわざは少ない気がします。 犬も猿も本能的な部分では群れ意識があるので違う動物として敵対するのもわかります。 ですが特別にその種族が嫌いというわけではないですよね、きっと。 志村動物園のように、楽しい交流がこれからたくさん見られると嬉しいです。 犬と猿の仲が悪いとされている由来としては干支の話が代表的です。 よって、犬猿の仲という諺の由来は干支の順番の話が最もポピュラーな為、現在まで伝わっていると解釈していました。 しかし、犬と猿の性質や生活習慣の違いから犬猿の仲と言われているという事を知り、「成る程な」と感じられました。 私は犬と仲が悪いのは猫だと思っていたので、犬と猿の仲が悪いのではないか、と考える事はありませんでした。 しかし、私達より昔の時代を生きた人達から見たら、犬と猿の相性は最悪だった事を表してるのではないかと考えられました。 現在では動物番組でも特集が組まれる為、たとえ異なる動物同士でも仲良しで微笑ましい一面がクローズアップされています。 ですが、本来の動物の性質や性格などを考慮すると人間の視点では仲が良さそうに見えても本当は馬が合わない動物同士であるのかもしれません。 したがって、一概に諺の通りという訳ではありませんが、諺で言われている事が全く嘘ではないという事も考えられます。 とても面白く読ませていただきました。 私は干支のお話と桃太郎のお話の関係性が好きです 神様のところにたどり着く間の両社の競い合いを想像してみました 下の道を走っていく犬に対して猿は木から木へと渡っていけるので猿は上から犬を見下ろして、下の犬はケンケンと吠える、まじめに一直線に進む犬に対して猿は要領よくその場の機転で攻め方を変える 人間社会でも同じようなことが常に起こっていますよね 犬にしてみれば、こっちは正方向でまじめにコツコツやってるのにと面白くない事でしょう 私は干支説から行くと鳥タイプなので双方にまあまあと仲裁する苦悩は痛いほどわかります。 それぞれがそれぞれの立場を尊重する、大切なことですですよね。 犬猿の仲はどちらかというと、調子よく要領のいい猿に対して、まじめで忠誠心に熱い一途な犬の憤りのようなものを感じずにはいられません。 この記事を読んでいくとある意味人間の誤解によるものなのかなと面白かったです。 ただ、後半にあるように、確かに猿も犬も仲間意識、家族意識は強いかもしれませね。 守ろう!助けよう!みたいな、素敵なことなのに、なぜか人間には犬猿の仲なんて言葉を作られてしまいかわいそう。。 いやごめんなさい。 しかも、最近テレビ等ではよく、イヌと猿のたわむれる番組を目にします。 生まれた頃から一緒にいるからなのか、楽しそうに遊んだりお出かけしたり、、、助けたり助けられたり。 まだ犬慣れしていないウチの子にレンタル犬を借り、林の中をのんびりお散歩していたところ、何やら空から爆音と共にヘリコプターが降りてきたではありませんか。 なんとそこに乗っていたのは日光猿軍団でした!テレビで良くお見かけする座長と共に猿達がピョコピョコ次から次へと現れ、あたりは一瞬ざわつきましたが、猿達は慣れたもの。 リュックを背負い、まるでピクニック気分です。 そのうちレンタル犬達?が借り出され、犬猿共に仲良く触れ合っていました。 ここの犬達が良い子なのか、猿達がしつけがなっているのか、はたまたその両方か、全く目からウロコの光景でした。 犬猿の仲についての由来はたくさんあるんですね!わたしもTVでつい先日、畑を荒らすサル対策のために犬を飼っているという地域の取材を見ました。 そこでの説明は犬の吠える声の周波数がサルがあまり得意としないという理由でした。 実際に犬を番犬変わりにすることで被害が減っているそうです。 ただこれもお互い家族を守っているというだけで、犬猿の仲だからという訳でも無さそうですが。 よく動物番組ではサルと犬が仲良くしている姿か流れてますし、一度家族となると犬も吠えることはあまりなさそうなのでやっぱりお互いの役割を果たしているだけのように思います。 そもそも人間もサルなので本当に犬猿の仲ならば一緒に過ごせないですよね(笑).
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ゴルフ場のコロナ対策はどうなっているのか? 極端な対策を実施するコースもあれば、無関心なコースもあるようだ。 おそらく全くの無関心ではないのだろうが、「感染者が出たらそのとき考える」と対策を後回しにする理由は、何をしたらいいのかわからないからだろう。 対策を何もしていないゴルフ場から見たら、やり過ぎだと思われるかもしれないが、初めに神奈川県の相模CCの対策を例にあげる。 次に、感染者がゴルフ場を利用していた茨城県のワンウェイGCの対策を紹介する。 保健所の指導で行われた対策は目から鱗のはず。 最後に、従業員から感染者を出してしまった茨城県のイーグルポイントGCの現状をみる。 さらに、対策そのものが第1段階から第2段階に突入している関東地区のゴルフ場の様子を各ゴルフ場のHPで確認する。 3月23日、神奈川県の相模CCでは、お風呂に入れない代わりに、プレー費から1,100円の割引をすると発表した。 その2日後、 25日(夜8時)小池東京都知事が記者会見を開き、都民に週末の外出自粛を呼びかけ、翌26日には、神奈川、千葉、埼玉の3県に対し、都内に不要不急の移動をしないよう求めた。 sagamicc. pdf 週末のゴルフ場のクローズを決めた。 しかも、「不要不急」の政府見解を次のように明記している。 しかし、ゴルフ場で働く従業員にとっては、リモートワークができない「仕事」であり、 簡単に趣味とか、レクリエーションで済ませてもらっては困るのだ。 たかが「ゴルフ」と非難を浴びそうだが、そこが職場の従業員には死活問題である。 日本には(推定)2300コースものゴルフ場がある。 言い方は悪いが、私もゴルフ場で飯を食っている1人として簡単にクローズされてはたまらない、というのが本音である。 相模の週末クローズは同業者から見ても、 まさか!の出来事だった。 (すくなくとも私は) 2. ワンウェイGCの対策 以前、感染者がゴルフ場を利用していたことがわかった茨城県のワンウェイGCでは、保健所の指導のもとハウス内の消毒や従業員への対策(感染者との接触者は自宅待機、従業員は検温など)、また利用者への対策(受付で検温など)を強化し、レストランを閉鎖して営業を続けていたが、3月16日からレストランを再開し、「新型コロナウイルス経過観察報告の終了と現在の状況について」次のような報告をしている。 感染者がゴルフ場を利用していたが、同伴プレーヤーにも、従業員にも2週間の経過観察を経た上で、感染していなかったことが証明された。 感染者が出たわけではなく、感染者が利用していたというだけで、Yahoo! ニュースで拡散され、ホームページはサーバーがダウンした。 では、ワンウェイGCが保健所から連絡を受けて取った対策とは? 感染者を出すことなく、レストランも営業再開したゴルフ場に学ぶべきことは多い。 以下、ワンウェイGCのコロナ対策 HPより 【重要なお知らせ】新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けた当社の取り組みについて(2020. 何を実施したらよいかよくわからないというゴルフ場は、1つでも2つでも真似することから始めてもらいたい。 尚、体温などを記入する「健康観察シート」はネットで容易に入手できる。 「健康観察シート」で検索すれば様々なシートがヒットする。 だいたいどれも似たような内容なので各自で内容を調整すればよい。 イーグルポイントGC 3月25日、茨城県のイーグルポイントGCでは従業員の感染を発表した。 当初は3日間のクローズで営業再開を目指していたが、 26日に営業自粛延長を発表した。 同 GCのHPによると、 「接触者全員のPCR検査を実施することができず、全従業員の新型コロナウイルス陰性が確認できないため、当該感染者が自宅療養を始めてから2週間が経過する4月3日迄の間、営業自粛を延長させていただきます。 」 現在、4月4日の営業再開を目指している。 対策の第1段階と、第2段階の違い 現在、関東地区のゴルフ場のコロナ対策は第2段階に突入している。 2月下旬に各ゴルフ場が次々に打ち出したコロナ対策は、従業員がマスクをすることがあります、といった利用者にやや配慮した言い方だったものが、3月26日現在、従業員のマスク着用を義務化するコースも増えてきた。 東京都の桜ヶ丘GCでは、対策の第1段階を2月27日にHPでUPしたあと、3月6日にもう一段階踏み込んだ内容を発表した。 しかし、検温などは対策に含まれておらず、第2段階の対策としてはやや弱い。 そもそも第2段階の対策をゴルフ場が講じ始めた時期は3月10日前後からで、東京都が自粛延期を決めたあと追従する形で始められている場合が多いようだ。 第1段階のコロナ対策では、従業員のうがい、手洗い、消毒液の設置、マスク着用などが挙げられた。 来場者には、具合が悪いときはスタッフまで、と案内しているものの、本当に具合が悪い人はゴルフ場には来ないだろうし、途中で具合が悪くなったらプレーを止めるだけだ。 第2段階の対策では、受付(フロント)で来場者の体温を測定し、37度〜37. 5度の熱がある人にはプレーを遠慮して頂く。 従業員も「健康観察シート」に測定した体温の記入や体調の記録をしていくことや、マスク着用を義務づけている場合が多い。 埼玉県の東京GCでは、サーモグラフィーを設置し来場者の検温と浴室の使用禁止を発表した。 tokyogolfclub. pdf 第2段階の特徴としては、検温と浴室使用禁止が挙げられるが、まだ関東地区のゴルフ場でも実施しているコースは少ない。 これから4月にかけてコロナ対策にこれらを加えるコースは増えると予測される。 HP上の調査では、関東七倶楽部のうち、東京、相模、小金井、鷹之台の4倶楽部が従業員の検温を実施している。 (関東七倶楽部とは、戦前からある所謂名門ゴルフ場と呼ばれるコース。 残りは、霞ヶ関、我孫子、程ケ谷。 ) ところで、関西地区のゴルフ場の対策はどうなっているのだろうか?いくつか、関西のゴルフ場のHPをチェックしてみたが、2月下旬の第1段階の対策のままであまり変化が見られない。 関東地区に比べて危機意識の差が出ているようにも感じる。 (以下、西宮と茨木のコロナ対策) 西宮CCのHPより(2020. pdf 茨木GCのHPより(2020. pdf 関西地区も、HPには書かないだけでゴルフ場内においてはそれなりにコロナ対策を行なっている可能性もある。 しかし、HPで案内することでゴルフ場の本気度もわかるので、ここはひとつ、HPにコロナ対策を案内することは利用者のためにも怠らずにUPして欲しい。 実際いまは、20年前の「HPは作ればいい」という時代ではない。 HPは作るのは当たり前、効果的に活用してこそ意味がある。 関東地区では、第2段階の対策に書き換えるゴルフ場が増えている。 小金井CCのHPより(2020. takanodaicc. pdf 5. まとめ コロナ予防対策は、危機意識をもってやれることはなんでもやることが大事。 ゴルフ場の利用者を守るためにも、働く従業員の雇用と健康を守るためにも、感染者が出てから考えようでは遅い。 検温のための体温計は、非接触型体温計を使うとよい。 (品切れで購入できない場合が多い) ゴルフ場で過ごす時間の大半は屋外であるが、プレーヤーの動線を考えて、同じものを触らないよう注意が必要。 (スコアカードや鉛筆) ゴルフネットワークによるとヨーロッパのゴルフ場の閉鎖について次のように書いている。 golfnetwork. 」 ヨーロッパのゴルフ場閉鎖の現状は日本よりもはるかに深刻な状態。 アメリカでもゴルフ場の閉鎖が一部で始まっている。 日本のゴルフ場も慎重に行動してもらいたい。
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