yasuさん、こんばんは。 おぼろげな記憶をたどってみたのですが、確か最後の「燃え尽きたぜ~」の前のコマで、段平と西が O. もし失神していたのであれば、あそこまで大仰に驚くことはないはずです。 何しろホセが白髪になるほどの大激闘だったのですから。 と、たったこれだけの根拠ですが、ジョーは死んだと見るべきでしょう。 ただし、これはあくまでも理屈だけで考えた場合です。 なお、以前テレビ朝日で放映していた「驚きももの木20世紀」では、梶原一騎は段平に「お前はボクシングには負けたがケンカには勝った」と言わせており、それを不満に感じたちばてつやが梶原に許可を得てラスト・シーンを変えた。 その際、どこかの回でジョーが「真白な灰になるまで戦いたい」という意味のセリフを口にしていたのをちばが思い出し、アシスタント全員と最初から単行本を読み返したというエピソードを紹介していました。 こんにちは。 エンディングについては、 梶原一騎氏(原作者)とちばてつや氏(作画者)の間で、相当な激論が展開されたらしいです。 #この後、ジョーがどこかの街に一人たたずみ、どこかへと去っていく、だったと思うんですが、ちょっと記憶がいい加減です。 2)このエンディングに対してちば氏が猛反発し、最終的に「原作を無視した」形で、あのエンディングが生まれた。 解釈については「自信あり」、エンディングの真相については、記憶があいまいなので「自信なし」です。 参考になれば幸いです。 A ベストアンサー No. 4です。 余談ですが・・・ 原作の「侍ジャイアンツ」はアニメのように明るくありません。 好きだった女性・・・名前は理香だったかな? 彼女は親の借金の為に、銀行の頭取の息子と結婚します。 番場蛮は、巨人のV10の為に自ら進んで連投して、最後の一休を投げた瞬間に心臓麻痺で死にます。 立ち往生というやつです。 ちなみに巨人の星の星飛雄馬も最初の予定では、大リーグボール三号の投げすぎで死ぬ予定になっていたそうです。 しかし、ギリギリになって変更されたようですよ。 そう言えば原作のタイガーマスクの伊達直人も交通事故で死んでいましたね。 こう考えると、梶原作品は原作で死んで、アニメで修正されるというパターンかな?.
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カーロス戦後、一足先に泪橋に帰って宴会の支度をしていた山谷メンバー(段平、西、紀子、子供たち)でしたが、ジョーがなかなか帰ってきません。 待ちくたびれる頃、車の止まる音が。 「やっとジョーが来た」とサチはドアのほうへ駆けていきますが、ドアの外に立っていたのは、葉子でした。 葉子ひとり。 ジョーは、葉子の車で帰ってくるはずだったのに… 葉子は、矢吹くんは旅立った。 止めたけれども行ってしまったと告げます。 葉子から段平へジョーの手紙が渡されます。 また旅に出る。 理由はない。 自分は世界チャンピオンという柄ではない。 縁があったらまた会おう。 ジョーは新たなあしたを探しに行きました。 該当箇所 コミック:該当箇所なし アニメ1:第79話「燃えろ 遠く輝ける明日よ!! 」 アニメ2:該当箇所なし コミックの掲載箇所としているのはKCコミックでのページです。 原作とアニメの相違点 アニメ1最終話です。 原作と原作のラストまでをカバーするアニメ2は、まだ続くので、ココでジョーがいなくなることは、ありません。 「あしたのジョー」は、この後、より文学的な色彩を強め、ジョーは、ただ燃え尽きることだけを望むようになります。 ここから先の物語があるからこそ、「あしたのジョー」は特別な作品なのだと思います。 原作がこういう結末だったら、現在まで読み継がれる傑作にはなっていなかったでしょう。 ですが… この形で終わるのも悪くはないと言いますか… カーロスとの対戦を終え、葉子と力石の話をして、その後ジョーがやることって、どこかへ旅立つのが一番自然な気がします。 「あしたのジョー」には、おそらく製作者も意図していなかったもうひとつのテーマがあるように思います。 発光するジョーと、ジョーが放つ光を浴びていたいだけの段平 という構図から見えてくるものが。 眩しい人には誰もが惹かれ、眺め続けていたくなりますが、他人を照らし続ける義務のある人などいません。 光源は、今日どこかへ行ってしまうかもしれないし、死んでしまうかもしれません。 未来を照らせるのは、自分が発する光だけ。 矢吹チルドレンたるドヤ街の子供たちには、絶対にジョー側の人間に、自ら発光する人間になって欲しいと思います。
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あしたのジョー最終回で矢吹丈が死んだのか、 それとも燃え尽きただけで生きているのか、 ちばてつや先生が改めて曖昧なコメントで見解を発表しましたが、 あの体制と表情で矢吹丈が死んでるとは、どうしても私は思えないんですよね。 矢吹丈の生死については、 ファンの間で何十年も討論されている事(現在進行形)なので、 ちばてつや先生が決めた事なら、 別にジョーが生きていても誰も文句は言わないと思います。 ちばてつや先生がお元気な今のうちに、 思いきって《ジョーが生きてる》事にして、 『その後の矢吹丈』を描いて、 あしたのジョーを完結してくれたら、 再び昭和の漫画が話題になって、 新旧あしたのジョー発行部数も伸びると私は思いますけど、 皆さんどう思いますか? 宮本武蔵だって『巌流島の決闘』の後の物語も、 『その後の武蔵』という感じで小説になったり、 映像化されたじゃないですか。 『その後の矢吹丈』があっても良いと思いませんか? 補足最初の回答者さんへ、 《あしたのジョー2》の最終回は原作漫画の最終回でもあります。 私が言ってるのは、 もちろん、『ホセ・メンドーサとの死闘の後』の事です。 まさか、ここまで説明しなければいけないとは思ってませんでした(汗)。 あのラストにおいて、ジョーが死んだか?生きているか?って言う事が、そんなに重要な事なのでしょうか? あの手のラストの生死が不明で終わった物語の解釈については、その判断は読者一人一人に委ねられるべきである・・・と自分は思います。 絵の描写的に明らかに生きているだとか、後年ちば氏が生存を肯定しただとか・・・そんなのは些末な事であり、それを根拠に生存説を力いっぱい力説すべき事でもありません。 個人的には「あしたのジョー」という物語は、「矢吹丈が燃え尽きて真っ白になって、ジョーというボクサーの物語が終わった」 =矢吹丈の人生が終わった・・・という意味ではない であり、それ以上でもそれ以下でもありません。 あんなにも切なく美しいラストを飾って終わった物語に、その続きは不要です。 生死云々以前に蛇足もいいところです。 また「あしたのジョー」という漫画は、導入部の展開とあのラストこそ、ちば氏の独自の創作の賜物ではありますが・・・だからと言って、原作者である故・梶原一騎 高森朝雄 氏の貢献が小さかった訳ではありませんし、その功績を無視出来ません。 「あしたのジョー」と言うのは、ちば氏と梶原氏がお互いに切磋琢磨仕合い或いは、ちばイズムと梶原イズムが衝突仕合い、凌ぎを削り合った末に生まれた作品なのです。 よって梶原一騎氏亡き今となっては、梶原氏抜きにして「あしたのジョー」のその後の物語など到底有り得ないのです。 いや、そもそも仮に梶原氏が存命であったとしても、続編は有り得ないワケですけど・・・ 有終の美を飾って終わったのに安易に続編をやってしまったら、「新巨人の星」の二の舞になるだけです。 とゆーコトで、以上のような理由により「あしたのジョー」の物語に、あれ以降の「あしたの物語」は不要なのだ、と自分は考えております。 ジョーが死んでないにしても、もうボクサーとしては燃え尽きちゃったわけですから、ボクサーでないジョーの日常を描いても何の魅力もないと思います。 私のイメージでは、命をとりとめたもののカーロス・リベラのように廃人になったジョー、そんなジョーを甲斐甲斐しく介護する葉子。 漫画にする意味はありません。 それに原作者の高森朝雄 梶原一騎 先生もお亡くなりになった今、ちば先生はそんな愚かなことはなさらないと思います。 補足ですが、梶原氏が亡くなってから、ちば氏はあちこちで「『あしたのジョー』のヒットの功績は自分にある」みたいなことをおっしゃっているらしいけど、死人に口無しですからね。 相手が生きている間に言わなかったことを死んでから言うのは卑怯だと思いますよ。
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