狩野永徳の掛け軸はどこで売るべきか ここでは、最初に買取相場や査定情報を述べていくのではなく、狩野永徳の掛け軸に関して述べていく。 掛け軸を売る前に、その掛け軸が どれくらいの価値があるのか、また作者がどのような人物なのかをしっかり押さえておいたほうがいいだろう。 価値を把握しておくことは掛け軸の買取で大事なポイントだ。 狩野永徳は、安土桃山時代に活躍した狩野派の絵師 狩野永徳は、安土桃山時代に活躍した狩野派の絵師である。 この 狩野派のなかでも代表的な画人である。 日本美術史上もっとも著名な画人の1人であることも有名だ。 この狩野派は日本絵画のなかで非常に評価が高く、また 価値の高い作品が多い。 その狩野派のなかでも芸術性が高く評価されている狩野永徳の作品の価値は非常に高いので覚えておこう。 もちろん、掛け軸の買取において高額査定が期待できる画家として有名だ。 多くの業者で買い取られている では、狩野永徳の掛け軸はどこで売れるのだろうか。 調べてみると、 骨董屋・ 質屋などで積極的に買い取られていた。 掛け軸は骨董品になるため、骨董品や美術品を扱っている業者で売れるだろう。 また、この狩野永徳の掛け軸は 高額査定対象にしている業者は多いようだ。 それだけ狩野永徳の作品は高額で売れる可能性が高いということなので押さえておこう。 ただ、人気のある掛け軸や高額査定が見込める掛け軸を売る場合は、できるだけ慎重に売ったほうがいい。 また、骨董品はアートオークションなどでもよく出品されている。 高額で売れることがあるのでオークションも検討するといい。 だが、オークションでは売れる金額も変動し、利用のハードルも高いだろう。 安定した金額で売りたいなら業者買取を利用して売るほうがいいだろう。 掛け軸の査定情報 では、次に掛け軸の査定情報について述べていく。 掛け軸を売るとき、どのようなポイントは査定額に影響してるのか知っておいたほうがいい。 事前に査定ポイントを知っておけば、査定での減額に対処もできるので押さえておくべきだ。 掛け軸の査定では良い状態を保つのが基本 掛け軸の査定では状態に注意しておこう。 なぜなら、掛け軸の状態は買取において 厳しく査定されるからだ。 状態が悪いとされた場合、掛け軸の作品価値を損ねてしまっていると評価され、査定額は 減額となるだろう。 骨董品となると状態の良さで販売額も大きく変わるので厳しく査定するのである。 また、業者の信頼にも繋がるポイントでもあるのだ。 なかには 状態が悪すぎると買取不可になることも少なくないので注意しておこう。 それくらい状態は掛け軸の査定では大事なポイントなのである。 では、どのような状態が減額になるのか述べると、湿気による シワ、 カビ、 たわみ、また、経年劣化による 破れ、 ヤニ、 穴、 日焼け、 シミの状態は減額対象になるのでしっかり売るまえに確認しておこう。 掛け軸を高く売りたいならば、定期的にメンテナンスや手入れなどをして、劣化しないように気を配りできるだけ、良い保管状態を保つようにしよう。 また、状態が悪く、掛け軸を修復した場合、その 修復作業の質もシビアに査定される。 状態が悪くなってしまったときは、修復ができる業者があるので、そのような業者であれば状態が少し悪くても、比較的高く売れるので探してみるといい。 付属品にも一定の価値がある 掛け軸の査定では付属品にも価値ある。 もし、掛け軸の付属品があるなら、その付属品もまとめて売ることで査定額は上乗せになるので忘れないようにすべきだ。 つまり、 付属品の有無も査定額に大きく影響するということだ。 高額で売れるものは市場において、偽物や模倣品が多く、掛け軸の付属品は本物を証明するものとして重宝されているので、一定の価値があるのだ。 掛け軸を入れる 箱や 書物などは一緒に売るようにしよう。 また、その付属品のなかでも、 共箱という本人のサインや印がある桐箱の価値は非常に高いだろう。 鑑定書や保証書もあるなら一緒に売るべき 付属品ではないが、 鑑定書や 保証書があるのなら、そのような書類も忘れずに一緒に売るほうがいいだろう。 上記でも述べたように高額で売れる骨董品は、市場で贋作が多いため、このような鑑定書や保証書は 信頼できる書類として価値があるのである。 鑑定書や保証書も買取査定で高く評価されるので、押さえておくべきポイントだ。 鑑定書や保証書があるだけで、査定額は 数千〜数万違う場合もあるようだ。 狩野永徳の掛け軸の買取相場 ここで最後に、狩野永徳の掛け軸の買取相場について述べていく。 何かを売るとき、どれくらいの金額で売れるのか、事前に調べておくことは非常に大事なので、この機会にしっかり押さえておこう。 明確な相場はわからないので数十万〜数百万円を目安に ここで、狩野永徳も掛け軸の買取相場を述べていきたいが、多くの業者が狩野永徳の掛け軸の買取実績や買取金額を公開していないため、相場はわからない。 というよりも、 骨董品の買取相場を掴むのは難しいようだ。 だが、上記でも述べたように、狩野永徳の作品は非常に評価が高く、買取市場においても人気が高い。 なので高額査定は期待していいだろう。 基本的に有名画家や作家の掛け軸が本物の場合、数十万〜数百万円で売れることが多い傾向にあるようだ。 なかには 希少価値が付き、数千万円の査定額となることもある。 では、狩野永徳の掛け軸はどれくらいの金額を目安にしたらいいかということだが、目安としては 数十万〜数百万円の査定額を基準にするといいだろう。 この金額を目安に考えると損することなく売れることができるだろう。 業者のリサーチをしっかりすべき 上記で狩野永徳の掛け軸の明確な相場はわからないが、ある程度の目安を付けて売るほうがいいと述べた。 このように、実物を実際に査定してみないと価値がわからないモノを売るときは慎重になるべきだ。 狩野永徳の掛け軸を高額査定対象の掛け軸として積極的に謳っている業者は多いが、 業者によって売れる金額に差があるだろう。 なかには、買い叩く業者もあるので注意しよう。 相場がわからないのであれば、狩野永徳の掛け軸を売るとき、必ずいくつかの業者で査定をしてもらい、各業者で提示された査定額をしっかり 比較検討をしてから売るほうがいい。 掛け軸の買取ではこの業者選びが非常に重要なポイントになるだろう。 自分でしっかりリサーチをして信頼のできる業者で狩野永徳の掛け軸を売るようにしよう。 まとめ ここまで、本コラムでは狩野永徳の掛け軸の買取相場や査定情報をテーマにいくつかの情報やポイントを紹介してきた。 ここで取り上げた狩野永徳の掛け軸は 非常に価値が高いモノで、コレクターも多く人気の掛け軸であるため、売るときは安く売ってしまったり、買い叩かれたりしないように、入念なリサーチを心がけよう。 掛け軸の買取では、とくにどの業者で掛け軸を売るのかで、買取金額は大きく変わるので、 必ず複数の業者へ査定依頼を申し込むようにしよう。 また、当サイト「ヒカカク」では多くの買取業者の口コミや評価、買取実績など調べることができるので、上手く活用して、掛け軸の買取に役立てほしい。
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概要 [ ] 永徳はの息子で、の孫にあたる。 永徳は法号で名は源四郎、諱は州信(くにのぶ)。 狩野派の棟梁として、という天下人に仕え、、などの障壁画を制作した。 永徳が力を振るったこれらの代表的な事績は建物とともに滅びてしまったものが多く、真筆とされる現存作品は比較的少ない。 永徳といえば『唐獅子図』や『檜図』のような雄大なスケールの豪快な作品(大画)がよく知られるが、細部を緻密に描写した「細画」もよくしたとされる(『』)。 現存する代表作の1つである上杉本『』は、彼が細密描写に秀でていたことを示している。 生涯 [ ] 12年()、松栄の長男としてで 生まれる。 最初に永徳の事績が記録に現れるのはの日記『』の天文21年()の条で、この日に狩野法眼(元信)が孫を連れて将軍・に拝謁したことが記録されており、この「孫」が当時10歳(数え年)の永徳と推定されている。 また、の筆頭であるとも関係が深く、10-11年(-)には(さきひさ)邸の障壁画を描いている(『言継卿記』)。 2年()の招きで、、、らと共にを経由しに下向(『中江周琳宛宗固書状』)し、の障壁画を描いた(『大友興廃記』)。 天正4-7年(-)には、弟のに家屋敷を譲った後に、に障壁画を描き(『』)、天正11年()には、天正14年()にはの障壁画を担当するなどやをはじめとする権力者に重く用いられた。 天正17年()にはのの障壁画を担当し、天正18年()にはの障壁画を描いた。 同年9月、永徳はの天井画の龍図を制作中に病気になり、ほどなく死去した。 48(満47歳没)。 戒名は聴受院殿永徳法眼高信日意大居士。 墓所は。 死因は、現代風に言えばかともいわれている。 なお、東福寺法堂の天井画は永徳の下絵を元に弟子のが完成させたが現存しない。 子に、がいる。 代表作 [ ]• 聚光院障壁画() - ・ 聚光院方丈障壁画のうち花鳥図聚光院はの塔頭で、永徳は方丈の障壁画を父松栄と共に描いた。 永徳が担当したのは『花鳥図』16面および『琴棋書画図』8面から成る。 制作年代については従来聚光院創建の年である永禄9年()、24歳の若書きの作品とされていたが、画風の検討や方丈自体の建立年代の見直しから、かなり後の天正11年()とする説もある。 18年()より順次複製が制作され、オリジナルはにされる。 (国宝) - 京都の中心部(洛中)と郊外(洛外)を鳥瞰的に描いた洛中洛外図の代表作、天正2年()に織田信長がに贈ったものとされる。 歴史資料としても貴重で、この屏風に描かれた人物の数は約2,500人という。 この屏風については描かれた都市景観から、制作年代についてさまざまに議論されてきた。 屏風に描かれた景観年代を天文16年()のものと見なす説など、景観年代については諸説あるが、1561年に造られた三好義興邸の冠木門が描かれていることも指摘されている。 - 唐獅子図天正10年()に秀吉がを聞きつけ畿内に戻るため、で急遽結んだ講和の際、その証としてに贈った陣屋屏風との伝承がある。 しかし、それを裏付けるは一切ない。 近年では、224. 3cmと本間屏風としては異例な大きさで、画面に複数見られる切り詰め部分から元は更に大きな作品だったと見られることから、元は本丸表御殿やなど、秀吉関係の城郭殿舎の大広間を飾る障壁画だったとする説もある。 期にに献上された。 画面右下に(永徳の孫)による「狩野永徳法印筆」との紙中極めがある。 後に永徳のひ孫に当たるが左隻を補作している。 『特別展覧会 狩野永徳』(平成19年()、京都国立博物館)においては以下の作品を永徳作としている。 大方丈障壁画() - 京都市・ 狩野派による共作。 天正14 - 19年( - )頃。 内、群仙図が永徳筆ではないかと言われる。 (国宝) - 伝永徳筆。 天正18年()?。 家旧蔵。 元は八条宮邸の障壁画であったと伝えられ、八条宮家の後身である桂宮に伝来し、明治14年()宮家廃絶後はに移管され、更にから東京国立博物館に移管された。 経年劣化による絵の具剥落や亀裂拡大の危険、襖を屏風に改装したことによって生じた各扇間の図様の不連続を解消すべく、2012年10月から2014年3月にかけて全面的な修理が施された。 修理までは八曲一隻だったが、四曲一双に改められた。 許由巣父図(許由)• (きょゆうそうほず)(重要文化財) - 東京国立博物館 伝永徳筆。 2幅からなる紙本墨画。 (重要文化財) - 伝永徳筆。 元はの塔頭の障壁画であったと伝えられる。 洛外名所遊楽図屏風 四曲一双 - 個人蔵。 平成17年()7月、京都の古物商で発見された(平成18年(2006年) 報道)。 落款等はないが上杉本洛中洛外図と描写法が良く似ており、上杉本より少し前の作か。 花鳥図押絵貼屏風 六曲一双 - 個人蔵。 中屏風に縦50cm弱、横35cm強の紙に、極彩色の花鳥画が12枚貼り合わされている。 永徳の基準印で、上杉本洛中洛外図と同じ「州信」円廓壺形印が捺されており印影も美しい事や、『本朝画史』に記された「細画」によく合致することから、永徳の若描きだと考えられる。 梔子に小禽図(墨画) - 京都国立博物館(2007年の「特別展覧会 狩野永徳」開催時点では個人蔵)• 老莱子図 - 山口・菊屋家住宅保存会• 二十四孝図屏風 六曲一双 - ら四僧賛• 四季山水図 六曲一双 - 伝永徳筆(左隻のみ、右隻は狩野元信筆)• 渡唐天神図 - ・ 賛• 柿本人麻呂図 - 賛• 旧日光院客殿障壁画 - アルカンシェール美術財団(ハラミュージアムアーク保管)• 織田信長像 - 絹本著色。 かつては大徳寺塔頭の総見院所蔵。 名古屋市の総見寺に狩野常信による本画像の模写が残り、その署名に永徳画に倣った旨が記されていることや、信長画像としてよく知られ、「兄に似て荒し」と評された弟画の本より本作の方が優れているとする意見が強い 事から、永徳筆の可能性が高い。 ただし、眼や鼻、口などの各部の描写は像全体の迫真性と比べ画一的で、息子の筆「豊臣秀吉像画稿」(蔵)の描写に近い。 本紙料絹に多数の折れや亀裂が発生し、絵の具の剥離・剥落が見られたことから、2008年9月から翌年10月にかけて解体修理が行われ、幾つかの発見があった。 一つは画像裏側の裏彩色 に表側と大きく異なる彩色や表現が多くされている事である。 表側のは薄藍色の一色だが、裏彩色においては、扇子を持つ右手側は、左手側は表側の肩衣袴と同系統の薄茶色に塗られ、いわゆる片身替わりで表される。 衣服に施されたの模様は、裏側の方が意匠が大きく、間隔を開けてゆったりと配置されている。 刀は表側は一本だが、裏面は・の二振りが表され、も裏面のほうが大きく幅も広く描かれる。 容貌は、裏彩色は口髭の端が上向きで、顎がやや細い、などの違いが見られる等、総じて裏側のほうが派手で威厳ある姿で描かれている。 裏彩色は表側の彩色を補完するための技法であり、本図のように大きな食い違いが見られるのは異例である。 一般に肖像画制作は、草稿の段階で絵師と注文主の間で入念な打ち合わせが行われたのち本画制作に移るため、このような大幅な描き直しはまず起らない。 裏彩色の剥落部分から覗く表側の彩色は現状の表側とは異なっており、元は表側も裏側と同じ信長像が描かれていたことは確実である。 二つ目は軸木の墨書から、天正12年()5月に表装され、17年()12月に改装された とわかり、制作時期がほぼ特定できる点である。 の研究員である山本英男は、天正12年5月は信長三回忌の直前である事と、先述した像に加えた大幅な改変、当時秀吉はで多忙で、喪主を信長と深い関わりある女性(のか? )が代行していた事情を考えると、一度鍋や永徳らの協議の末に完成を見た信長像に、法要の実質的な施主である豊臣秀吉が何らかの理由でクレームをつけ、急遽描き直させたと考えられるとしている。 しかし、においては同年にへ向けて発っており 、最初に戦場を離れたのは大坂に一時帰投した~である。 即ち、開戦から表装がなされた同年5月までは一貫して領内を不在にしている。 『特別展覧会 狩野永徳』以後に永徳作品として紹介された作品。 松に叭々鳥・柳に白鷺図屏風 六曲一双 紙本墨画 - 蔵 旧蔵で、長い間売立目録でしか存在が知られていなかった作品。 作品を観察すると、画家の非凡な個性と若々しい意気込みが感じられる反面、経験不足からくる描写の未熟さが画面に垣間見られる事から、永徳の比較的若書きの作で、聚光院障壁画の数年前の作品だと考えられる。 瀟湘八景図 一幅 紙本墨画 - 個人蔵(九州国立博物館寄託、黒田侯爵家旧蔵 ) 現存しない作品 [ ]• 障壁画 - 天正4年(1576年)• 障壁画 - 天正13年()• 障壁画 - 天正15年()• 障壁画 - 天正16年() 天瑞寺は大徳寺内に秀吉が創建したものだが明治7年()、廃寺になった際、建物とともに障壁画も失われたとされる。 所在不明の作品 [ ]• 安土城之図 - 天正9年()以前 天正9年(1581年)、が安土を訪れた宣教師・に贈った安土城之図屏風は、「日本で最も優れた職人」「画筆を動かすのに最も巧なる画工」といた史料の記述から永徳筆と考えられている。 この屏風は安土城下や京で展示され、後にの手によって渡欧しにて()に献納された。 教皇は住居と執務室を結ぶ廊下に屏風絵を飾ったといわれるが、教皇の死後に屏風は行方不明となった。 59年()にはが、平成17年()には(現・)がそれぞれバチカンを調査したがいずれも発見には至らなかった。 画像 [ ] 洛中洛外図屏風 [ ]• 八曲一隻のままでは第4扇目と第5扇目の間で檜の枝に大きなズレが解消せず、修理後は変形を抑えるため下地骨自体を丈夫にするため屏風自体がより重く厚くなり、作品の移動や取り扱いがより困難になるなどの問題がある。 元々の状態に近い襖4面に戻すのも検討されたが、上下の画面がどの程度切り取られていたかは不明で必ずしも当初の姿とは言えず、保管時の安全性を確保できる収納方法が無く、屏風装の方がはるかに保存性が高いという理由から見送られた。 そこで、おそらく過去に一度もこの形態だったことがないという弱点はあるものの、総合的には最も保存や取り扱いが良く、図様の不連続も解消される四曲一双に改められた(神庭信幸 「国宝「檜図屏風」修理を巡る諸課題と保存修理環境の構築」『MUSEUM』No. 654「《特集》 国宝 檜図屏風 平成の大修理」、2015年2月15日、p. 20)• この肖像を初めて紹介した 『肖像画の視線 源頼朝像から浮世絵まで』(、1996年)以来、しばしば繰り返される。 絹の色が透ける性質を利用し、絵絹の裏から彩色することで、混色が難しい日本の岩絵具で淡い色合いを出し、表側の彩色を補完する技法。 また、裏から塗ることで、表側の絵の具とかみ合って吸着力を高め、剥落を抑える働きもする。 享保17年は信長150回忌の翌年にあたり、法要で用いたことが改装の契機となったと見られる。 谷口央は3月11日時点で近江国坂本にあったとする。 前者は 『』、後者はダニエルロ・バルトリ編 『イエズス会史』。 ただし、は『』天正八年八月十三日条に「けん七郎にかかせて」とあることから、同じ通称である父の松栄が描いたとする(『信長権力と朝廷 第二版』 岩田書院、2002年、174-177頁)。 また、松栄の三男で永徳の弟に当たる絵師に、「狩野源七郎」と呼ばれた絵師がいた可能性がある(『本朝画史』。 『丹青若木集』では「源三郎」と記載)事から、この源七郎が描いた可能性もある( 「南禅寺本坊大方丈障壁画の様式および筆者について」『国華』 903号、1967年。 後に『辻惟雄集 第3巻 障壁画と狩野派』 2013年に収録、p. 134)。 なお、永徳筆とする研究者は、この『御湯殿上日記』の記述を「源四郎」の誤記と考えている(図録『狩野永徳』、2007年、19頁)。 出典 [ ]• 『狩野五家譜』(図録『狩野永徳』、2007年、297頁)。 文化庁 文化遺産データベース• 川本桂子 『狩野永徳』 新潮社、1997年。 「狩野永徳筆 花鳥図押絵貼屏風」『』第1302号、2004年4月20日、pp. 20-29。 図録『狩野永徳』、2007年、262頁。 , p. , pp. 94-95. 辻惟雄 「狩野永徳筆 松に叭々鳥・柳に白鷺図屏風」『国華』 1356号、2008年。 後に『辻惟雄集 第3巻 障壁画と狩野派』 2013年に収録、pp. 195-209。 なお、同論文では「」(静岡県立美術館蔵)を、永徳の瑞々しい感覚のこもった初期作だと指摘している。 「特集 狩野派の世界2009」展(平成21年()、)。 参考文献 [ ]• 松木寛 『御用絵師狩野家の血と力』 、平成6年()• 小澤弘、川嶋将生 『図説上杉本洛中洛外図屏風を見る』、、平成6年(1994年)• 『狩野派絵画史』、吉川弘文館、平成7年()• 川本桂子 『狩野永徳』 、平成9年()• 『狩野永徳の青春時代洛外名所遊楽図屏風』 小学館、平成19年(2007年)• 並木誠士 『絵画の変 日本美術の絢爛たる開花』、、平成21年()• 成澤勝嗣 『もっと知りたい 狩野永徳と』 、平成24年(2012年) 展覧会図録• 『都の形象 洛中・洛外の世界』、、平成6年(1994年)• 『狩野永徳』、京都国立博物館、平成19年(2007年) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。
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織田信長 「上杉本洛中洛外図屏風」は、天正2年 1574年 に織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝えられ、以後米沢藩上杉家に伝来したという由来を持ちます。 平成7年に国宝に指定されました。 筆者は桃山時代を代表する画家・狩野永徳 かのうえいとく です。 京の都を一望し、洛中 市中 と洛外 郊外 の四季と、そこに暮らす人々の生活風俗を描き込んだものです。 上杉本と呼ばれるこの上杉家伝来の屏風は、数ある洛中洛外図の中でも初期に属するもので、豪華に、そして細やかに描かれています。 およそ2500人もの人物が、老若男女、身分、職業を問わず描かれており、さらに動物、植物、名所、祭など多くの要素を合せ持っています。 保存状態も良好で、日本美術を代表する作品とされています。 上杉博物館では、はもとより、企画展、講演会、ワークショップなどでも、より詳しくご紹介していきます。 牛車 洛洛百景 タッチパネル画面のボタンを指で押しながら、 洛中洛外図のより詳しい解説を見る事ができます 館内限定。 洛中洛外図の世界 大型スクリーンに映し出される解説映像で、洛中洛外図に描かれた京の町や人々の活き活きとした暮らしぶりを見ることができます。 空からの眺めではなく、人の視点から見た町の様子は、より分かりやすく身近に感じられます。 人物は、実際に屏風に登場する人々がもとになっています。 【屏風豆知識】屏風は、もともと室内で風や視線をさえぎるための仕切りとして使われた、可動式の調度品のひとつでした。 室町時代初期には、左右一双で一組とする形式「六曲一双」が確立し、その後の屏風の主流となりました。 左右は、それぞれ左隻 させき と右隻 うせき と言い、六曲の場合、右から一扇、二扇~六扇と数えていきます。 江戸時代になると、軍記物語を絵画化した「合戦図屏風」も多く作られるようになりました 川中島合戦図屏風など。 洛中洛外図屏風をもっと詳しくお知りになりたい方は当館図録をどうぞ。
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