こんにちは。 競輪大好きめんぼう()です。 競輪、面白くなってきましたか? 最初は、良く分からなくてもやっているうちに覚えるものです。 そして、競輪の魅力に気がつくはずです。 競輪の魅力が分かってきたら、今度は過去の選手のことを知りたくなりますよね? 最近の選手の話ばかりでも良いんですが、やっぱり過去の伝説の有名選手などを知っていると仲間から一目置かれます。 ですので、競輪を始めたばかりのあなたは過去の有名選手を知っておく必要があります。 まぁ、一般常識的な選手ばかりですのであなたも聞いたことあるかもしれません。 今日は、そんな伝説の有名選手・有名レースを集めてみました。 ぜひ、参考にしてみてください。 もくじ• 中野浩一(なかのこういち) 中野浩一選手は、僕が競輪を始めた頃にはすでに引退していました。 しかし、このビックネームは今現在でも健在で、競輪と言えば中野浩一だと言われています。 そんな、伝説の選手、中野浩一さんどれぐらい凄かったのでしょう?• 世界選手権個人スプリント10連覇達成!• 賞金王6回(歴代最多)• 紫綬褒章受賞• 獲得賞金総額は13億1916万2077円 輝かしい経歴です。 先程も言いましたが、僕が競輪を始めた頃にはもうすでに引退していましたので、実際の走りは知りません。 しかし、そうとう強かったのが伺えます。 また、中野浩一選手は競輪がまだ世の中に浸透していない頃、世界に日本人が出るのが珍しかった頃活躍されたので、パイオニア的存在でもありました。 滝澤正光(たきざわまさみつ) この滝澤選手も名前を良く聞きますよね。 中野浩一選手と同一世代を生きました。 お互いライバルでした。 滝澤正光選手はどれだけ強かったのでしょう?• 競輪グランプリ2回制覇!• 年間賞金王4回• 2457走中787勝。 優勝回数150回。 生涯獲得賞金は17億5644万円• しかも、鬼のように強い! 神山選手が1着、2着に来なければ必ず大穴になっていました。 そんな神山選手の経歴は、• 競輪グランプリ最多出場• 生涯獲得賞金額(2015年12月27日現在27億円超) - 現役・引退含め最高額• 842勝(2016年12月27日現在)• 通算獲得賞金額が競輪史上初の25億円を突破• 自転車学校を首席で卒業 う~ん、強い強い! 神山選手、今は 49歳ですが今でも強いですもんね。 でも、実は神山選手、すべてのレースを取っているんですが、競輪グランプリだけ優勝がありません。 一番多く出場しているにも関わらずです。 それだけ、競輪グランプリで優勝するって難しいんですね。 今でも優勝狙っているそうですよ! スポンサーリンク 吉岡稔真(よしおかとしまさ) 吉岡選手は記憶に新しいですね~。 F1高速捲り! 強かった強かった! 東の横綱が神山雄一郎選手で西の横綱が吉岡稔真選手でした。 通算成績1279戦中586勝! なんと、生涯 45%の確率で1着! すごくないですか? 吉岡選手の捲りはすごすぎて、7,8,9番手から捲るんですね。 普通なら絶対届かない距離。 それをF1高速回転で捲り上げる! 見ていて気持ち良かったです。 吉岡選手の番手は、「 優勝に一番近くて、一番遠い場所」と呼ばれていました。 これは、吉岡選手の捲りは決まるのですが、番手がついていけないというのを意味しています。 それでけ、吉岡選手の捲りは凄かったです。 経歴は、• 生涯獲得賞金16億8866万4299円• 競輪グランプリ2度優勝• S級最多連勝(18連勝) - 1994年• 優勝回数 106• 年間賞金王3回.
次の
競輪の魅力を世間に広く知らせた中野浩一選手 1970年代から80年代にかけて、世界選手権の個人スプリントで10連覇を達成した中野浩一は、1955年、福岡県久留米市の出身です。 高校時代までは陸上競技の短距離選手で、国体にも出場しましたが、肉離れを起こして大学進学をあきらめました。 高校卒業後、プロゴルフの選手になろうと考えていましたが、 だった父の勧めで、日本競輪学校に進みました。 1975年に、20歳でデビューしました。 競輪学校時代、どうしても勝てなかったライバルを倒すことを目標に頑張り、いきなり18戦無敗を記録しました。 さらに、デビューから約1年で、当時の最上位だった「A級1班」に上りつめ、「九州のハヤブサ」と呼ばれるようになりました。 デビュー翌年、初めて世界選手権の個人スプリントに挑戦し、4位に入賞しました。 しかし、帰国後のインタビューが、3位入賞した選手にばかり集中し、悔しい思いをした中野は、幼年は必ず優勝すると誓い、1977年の世界選手権で本当に優勝。 以来、10連覇を記録しました。 1980年には、日本のプロスポーツ選手として、初めて年収1億円を突破します。 当時は、 や にも年収1億円の選手はおらず、日本中の話題になりました。 国内でも、「浩一ダッシュ」と呼ばれた猛烈な追い込みで無敵でした。 そのため、個人では中野に対抗できないと考えられ、2~4人で連携して戦う戦法が用いられるようになりました。 これが、現在の主戦法である「ライン」のきっかけになりました。 1992年、37歳で現役引退しました。 生涯獲得賞金額は13億2764万677円でした。 また、引退後は、 としても活動していました。 その強さから「横綱」と呼ばれる神山雄一郎選手 アトランタ五輪とシドニー五輪にも出場した神山雄一郎は、1968年、栃木県小山市に生まれました。 生家が自転車屋で、父親はサイクリングの愛好家でした。 小学生になると、父に連れられてサイクリングに出かけるようになりました。 幼少の頃から運動能力が高かった神山は、小学生で、片道50キロの道のりを日帰りで往復したり、野宿しながら1日200キロを走破することもできたといいます。 高校生になると、自転車部のある作新学院に進学。 自宅から約40キロの道のりをトレーニングも兼ね、片道1時間かけて自転車で通いました。 部活動での厳しい練習にも耐え、3年生でインターハイと国体の1000mで優勝しました。 高校卒業時、神山は進路に迷います。 プロの競輪選手になるか、アマチュアとして競技を続け、オリンピックに出場するかです。 1985年当時のオリンピックは、アマチュア選手しか出場できませんでした。 高校3年の12月、神山は、父親に連れられて立川競輪で開催されたKEIRINグランプリを観戦しました。 そこで競輪の華やかさに魅せられ、競輪選手になることを決意しました。 日本競輪学校の入学試験は、インターハイと国体優勝選手として優遇されました。 入学後も抜群の成績で、首席で卒業しました。 1988年4月にデビューし、デビュー当日に初勝利をあげました。 そして、わずか7ヵ月で、最高位のS級1班に昇格しました。 その後もトップ としての地位を保ち、その強さから「横綱」と呼ばれたほどでした。 1996年のアトランタ五輪から、プロも出場できるようにルールが改正されました。 ところが、選考会で十文字貴信に敗れ、いったん出場の途は閉ざされました。 しかし、日本に代表枠が回ってきて、改めて選考会に勝った神山が代表に選ばれました。 結果は、1回戦敗退でした。 続く2000年のシドニー五輪にも出場して、チームスプリントでは5位入賞を果たしましたが、個人戦ではまたもや初戦敗退でした。 それでも国内では「横綱」として君臨。 1990年代から2000年代にかけて、競輪界の顔として活躍しました。 40歳をすぎた2015年現在も、現役選手として活躍しています。
次の
競輪の魅力を世間に広く知らせた中野浩一選手 1970年代から80年代にかけて、世界選手権の個人スプリントで10連覇を達成した中野浩一は、1955年、福岡県久留米市の出身です。 高校時代までは陸上競技の短距離選手で、国体にも出場しましたが、肉離れを起こして大学進学をあきらめました。 高校卒業後、プロゴルフの選手になろうと考えていましたが、 だった父の勧めで、日本競輪学校に進みました。 1975年に、20歳でデビューしました。 競輪学校時代、どうしても勝てなかったライバルを倒すことを目標に頑張り、いきなり18戦無敗を記録しました。 さらに、デビューから約1年で、当時の最上位だった「A級1班」に上りつめ、「九州のハヤブサ」と呼ばれるようになりました。 デビュー翌年、初めて世界選手権の個人スプリントに挑戦し、4位に入賞しました。 しかし、帰国後のインタビューが、3位入賞した選手にばかり集中し、悔しい思いをした中野は、幼年は必ず優勝すると誓い、1977年の世界選手権で本当に優勝。 以来、10連覇を記録しました。 1980年には、日本のプロスポーツ選手として、初めて年収1億円を突破します。 当時は、 や にも年収1億円の選手はおらず、日本中の話題になりました。 国内でも、「浩一ダッシュ」と呼ばれた猛烈な追い込みで無敵でした。 そのため、個人では中野に対抗できないと考えられ、2~4人で連携して戦う戦法が用いられるようになりました。 これが、現在の主戦法である「ライン」のきっかけになりました。 1992年、37歳で現役引退しました。 生涯獲得賞金額は13億2764万677円でした。 また、引退後は、 としても活動していました。 その強さから「横綱」と呼ばれる神山雄一郎選手 アトランタ五輪とシドニー五輪にも出場した神山雄一郎は、1968年、栃木県小山市に生まれました。 生家が自転車屋で、父親はサイクリングの愛好家でした。 小学生になると、父に連れられてサイクリングに出かけるようになりました。 幼少の頃から運動能力が高かった神山は、小学生で、片道50キロの道のりを日帰りで往復したり、野宿しながら1日200キロを走破することもできたといいます。 高校生になると、自転車部のある作新学院に進学。 自宅から約40キロの道のりをトレーニングも兼ね、片道1時間かけて自転車で通いました。 部活動での厳しい練習にも耐え、3年生でインターハイと国体の1000mで優勝しました。 高校卒業時、神山は進路に迷います。 プロの競輪選手になるか、アマチュアとして競技を続け、オリンピックに出場するかです。 1985年当時のオリンピックは、アマチュア選手しか出場できませんでした。 高校3年の12月、神山は、父親に連れられて立川競輪で開催されたKEIRINグランプリを観戦しました。 そこで競輪の華やかさに魅せられ、競輪選手になることを決意しました。 日本競輪学校の入学試験は、インターハイと国体優勝選手として優遇されました。 入学後も抜群の成績で、首席で卒業しました。 1988年4月にデビューし、デビュー当日に初勝利をあげました。 そして、わずか7ヵ月で、最高位のS級1班に昇格しました。 その後もトップ としての地位を保ち、その強さから「横綱」と呼ばれたほどでした。 1996年のアトランタ五輪から、プロも出場できるようにルールが改正されました。 ところが、選考会で十文字貴信に敗れ、いったん出場の途は閉ざされました。 しかし、日本に代表枠が回ってきて、改めて選考会に勝った神山が代表に選ばれました。 結果は、1回戦敗退でした。 続く2000年のシドニー五輪にも出場して、チームスプリントでは5位入賞を果たしましたが、個人戦ではまたもや初戦敗退でした。 それでも国内では「横綱」として君臨。 1990年代から2000年代にかけて、競輪界の顔として活躍しました。 40歳をすぎた2015年現在も、現役選手として活躍しています。
次の