その主人公は、新一万円札の顔としても注目される「渋沢栄一」です。 「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、約500もの企業を育て、同時に約600の社会公共事業にも関わりました。 晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補にも2度選ばれています。 幕末から明治へ。 時代の大渦に翻弄され挫折を繰り返しながらも、青天を衝くかのように高い志を持って未来を切り開きました。 「緻密な計算」と「人への誠意」を武器に、近代日本のあるべき姿を追い続けた渋沢は、生涯青春の人でした。 2021年、若き心で挑戦を続けた男・渋沢栄一との出会いにご期待ください。 【番組のみどころ】 渋沢栄一の人生は、決して順風満帆ではありませんでした。 意外に知られていませんが、実はやることなすこと裏目に出てばかり。 波瀾万丈です。 田舎の農民に生まれ、倒幕の志士を目指したのにまるで正反対の幕臣に。 すると幕府がつぶれて失業武士に。 さらには意に反して明治新政府に仕官することとなり、いざ政治の世界で大暴れしたあと、33歳でようやく辞表を出して民間人へと転身! ここから実業家として、怒濤 どとう の民間改革が始まります。 銀行、保険、製紙、紡績、鉄道、海運、ガス、電気……、世の中に必要なものを次々と生み出し、近代日本の礎を築きました。 一貫性のない生き方のように見えて、その道は、幼き頃より学び続けた「論語」の精神に貫かれていました。 信念のため、たとえ形を変えてでも逆境を乗り越え、確かなものを築いた生きざまは実にエネルギッシュです。 少子高齢化が進み、人口減少に拍車がかかる日本。 右肩上がりの成長が期待できない時代に、私たちはどう歩むべきなのか……。 逆境の中でこそ力を発揮した渋沢栄一の人生を見つめることで、私たちの生きるヒントがきっと見つかるはずです。 【青天を衝け・ドラマのあらすじ】 官尊民卑なんて、くそくらえ。 百姓からの脱却を決意! 渋沢栄一は、藍染めの原料となる藍玉づくりと養蚕を営む百姓の家に生まれた。 頭の回転は早いが、大人や権力にものおじしないやんちゃ坊主に育つ。 商才に長けた父・市郎右衛門の背中に学び、栄一は商売の面白さに目覚めていった。 しかし17歳の頃、人生を変える最初の事件が起こる。 御用金を取り立てる代官に刃向かい、理不尽に罵倒されたのだ。 栄一は、官尊民卑がはびこる幕府の身分制度に怒りを覚え、決意する。 「虐げられる百姓のままでは終われない。 武士になる!」。 目指せ、攘夷の志士! ところが計画中止、追われる身へ……。 栄一は、従兄 いとこ の惇忠 じゅんちゅう や喜作と共に、尊皇攘夷に傾倒していく。 栄一らは江戸に出入りして同志を集め、ある暴挙を企てた。 高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き討ちするという一大攘夷計画だ。 ところが、京の情勢に通じた惇忠の弟・長七郎の猛反対にあい、実行前夜にしてあえなく断念。 逆に幕府に追われる立場となり、喜作と共に京へ逃げる。 そんな彼らに助け船を出したのは、一橋慶喜の側近・平岡円四郎だ。 一橋家の家臣となるか、幕府に捕らわれて死ぬか、という二者択一を迫られる。 心ならずも幕臣に。 パリ行きが人生を開く! 栄一は持ち前の商才で一橋家の財政改革に手腕を発揮し、慶喜の信頼を得る。 ところが、慶喜が将軍を継承したことで、倒幕を目指すどころか幕臣になってしまった。 失意の栄一に、またとない転機が訪れる。 パリ万国博覧会の随員に選ばれたのだ。 産業発展めざましいフランスに渡った栄一は、「株式会社」と「バンク」の仕組みを知り、さらに官と民が平等である社会に大きな衝撃を受ける。 「攘夷なんてとんでもない。 民間が力を発揮する西洋の国づくりを日本も吸収すべきだ!」。 そんな折、日本から大政奉還の知らせが届き、無念の帰国へ……。 まさかの新政府入りで、続々改革。 33歳でいよいよ民間へ。 帰国後、様変わりした日本に衝撃を受ける栄一。 約260年続いていた徳川の時代はすでに終わり、惇忠や喜作は「彰義隊 しょうぎたい 」を結成。 戊辰戦争、そして函館戦争と新政府軍との戦闘を続けていた。 栄一は、静岡で隠棲 いんせい する慶喜と再会し、身をやつした姿に涙する。 そして、民間に身を置きながら、慶喜をそばで支えることを決意した。 しかし突然、明治新政府から大蔵省への仕官を命じられて上京。 「改正掛 かいせいがかり 」を立ち上げ、租税・鉄道・貨幣制度など次々と改革を推し進めること3年半。 栄一はある決意を胸に辞表を提出した。 この時、33歳。 いよいよ、栄一の目指す民間改革が始まるのだった……! 【作・大森美香さんからのメッセージ】 ずっと「幕末ドラマを今までにない目線で描けないか」と、考えておりました。 そこで渋沢さんです。 近代の実業家として有名な渋沢栄一さんですが、そうなる以前は埼玉深谷の【農民】、またある時は農作物を売る【商人】、またある時は【尊王攘夷の志士】、またある時は将軍に仕える【幕臣(武士)】として、幕末から新時代の荒波を生き抜いた貴重な方です。 2015年の連続テレビ小説『あさが来た』では渋沢さんを、主人公を導く【銀行の神様】として描かせていただきましたが、今度は神様ではない、青空を衝く勢いで時代を駆け抜けた、血気盛んな人間味あふれる一人の男として、カッコいい面も、そうでない面も、丁寧に描いて行けたらと思っています。 渋沢さんの奥様、千代さんをはじめ、家族や親戚、主君や同志、職場の先輩後輩にも、魅力的な人物がたくさん登場します。 彼らの生きていた時代が、そのまま百数十年経った令和の今と繋がっていると感じられるような臨場感あふれるドラマを、毎週お届け出来るように、吉沢さんやスタッフ、キャストの皆様と駆け抜けたいと思います。 2021年、どうぞよろしくお願いいたします。 【大森美香さんのプロフィール】 福岡県生まれ。 テレビ局勤務を経て、脚本家になる。 2005年「不機嫌なジーン」で第23回向田邦子賞を史上最年少で受賞。 脚本家のほか、映画監督や小説家としても活躍。 NHKでは、連続テレビ小説「風のハルカ」「あさが来た」の他、多数の脚本を手がける。 2016年「あさが来た」で第24回橋田賞を受賞。 2017年「眩 くらら 〜北斎の娘〜」は文化庁芸術祭大賞や東京ドラマアウォードグランプリなどを受賞した。 大河ドラマの執筆は今回が初。 【主演・吉沢亮さんのプロフィール】 1994年生まれ、東京都出身。 特技は剣道で二段の腕前。 「仮面ライダーフォーゼ」シリーズで注目を浴び、その後数々のテレビドラマ・映画に出演。 「リバーズ・エッジ」で第42回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。 2019年の映画「キングダム」では、若き王・嬴政と奴隷の少年・漂の二役を熱演。 連続テレビ小説「なつぞら」では、ヒロインの幼なじみ・天陽役が大反響を呼んだ。 大河ドラマへの出演は今作が初めてとなる。 【制作統括・菓子浩からのメッセージ】 皆さんは、渋沢栄一と聞いてどんなイメージが浮かびますか? 「雲の上の経済人」「順風満帆な成功者」、あるいはもっと単純に「お札の人」という答えが返ってくるかもしれません。 でも、実はそれだけじゃないんです。 なぜかいつも苦境に立たされ、倒れそうになりながらも踏ん張って確かな成果を残していく。 まるで「おきあがりこぼし」のような人生でした。 その最大の武器は「誠意」。 頼まれるとどこにでも飛んで行って力を貸す。 その人柄が人を引きつけ、数々の偉業を成し遂げたのです。 そんな愛すべき人物を、「青春」というキーワードでみずみずしく描きたいと考えています。 脚本の大森さんは、上質なエンターテイメントを作り上げる名手。 そして、主演の吉沢さんは、硬軟自在な演技で魅せる実力派。 骨太な人間ドラマが生まれると確信しています。 2021年、エネルギッシュでチャーミングな渋沢栄一と一緒に、激動の幕末・明治を旅しましょう! 「青天を衝け」どうぞご期待ください! 【渋沢栄一 しぶさわ・えいいち って?】 渋沢栄一は1840(天保11)年、武蔵国榛沢 はんざわ 郡血洗島 ちあらいじま 村(現:埼玉県深谷市)の百姓の家に生まれた。 幼い頃から家業である藍玉の製造・販売や養蚕を手伝い、商才を磨く。 農民から攘夷の志士を目指し、一橋家の家臣から幕臣、明治新政府への仕官を経て、実業家に転身。 幕臣として渡ったパリ時代に、株式会社(後に合本組織と命名)やバンクの仕組みを学び、帰国後に合本組織「商法会所」を立ち上げ、日本初の銀行「第一国立銀行」の設立に尽力した。 生涯で約500の企業の育成に関わり、女子教育の普及など約600もの社会公共事業に貢献。 また、徳川慶喜には生涯忠義を尽くし、晩年には伝記を編纂 さん するなど慶喜の名誉回復に務めた。 享年91。 【タイトル「青天を衝け」について】 若き栄一が、藍玉を売るため信州に旅したとき、険しい内山峡で詠んだ漢詩の一節からとりました。 「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」 (青空をつきさす勢いで肘をまくって登り、白雲をつきぬける気力で手に唾して進む) 逆境に負けることなく突き進んだ栄一の人生とも重なります。 【放送予定】2021年1月から 【制作統括】菓子浩 福岡利武 【プロデューサー】板垣麻衣子 【演出】黒崎博 渡辺哲也ほか 新着記事• Javascriptを有効にしてください。 カテゴリーから選ぶ 開く• 月別から選ぶ 2020年 開く• 2019年 開く• 2018年 開く• 2017年 開く• 2016年 開く• 2015年 開く• 2014年 開く• 2013年 開く• 2012年 開く• 2011年 開く• 2010年 開く• 2009年 開く• 2008年 開く• 2007年 開く• 2006年 開く• 2005年 開く• 2004年 開く• 2003年 開く•
次の
興譲館と渋沢栄一 ミナクルネ2019 2021年 大河ドラマ NHK大河ドラマの2021年版が発表されました。 題名は「晴天を衝け」 主人公は日本資本主義の父「渋沢栄一」です。 まずはNHK様のHPより。 その主人公は、新一万円札の顔としても注目される「渋沢栄一」です。 「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、約500もの企業を育て、同時に約600の社会公共事業にも関わりました。 晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補にも2度選ばれています。 幕末から明治へ。 時代の大渦に翻弄され挫折を繰り返しながらも、 青天を衝くかのように高い志を持って未来を切り開きました。 「緻密な計算」と「人への誠意」を武器に、近代日本のあるべき姿を追い続けた渋沢は、生涯青春の人でした。 2021年、若き心で挑戦を続けた男・渋沢栄一との出会いにご期待ください。 ここの所、大河ドラマは出演者の不祥事が続いていますので 無事に制作・放送出来ますようにお祈り申し上げます。 何故管理人が大河ドラマの宣伝をするかというと 先日お伝えした「北条五代」より先に地元に関連が。 新聞記事より少しご紹介。 市のPRやブランド価値向上が狙いで、 15日に市地場産業振興センター(同市七日市町)で設立総会を開く。 渋沢は500社の設立に関わるなど「日本資本主義の父」と称され、 24年度発行の新一万円札の肖像画に選ばれている。 井原市にも縁があり、 興譲館高(同市西江原町)の初代館長・阪谷朗廬(1822〜81年)と親交を深めて 同高校門に掲げた扁額(へんがく)「興譲館」の文字をしたためたほか、 市内で鉄道やバスを走らせていた旧井笠鉄道の株主でもあった。 組織の名前は「大河ドラマ『青天を衝(つ)け』渋沢栄一ゆかりの地PR活動実行委」で、 市観光協会、市文化協会、興譲館高、井原鉄道などの代表者15人で構成。 ロケ誘致を目指したり、渋沢と井原との関わりをアピールしたりする。 発足記念講演会での資料の一部を。 拡大します。 この校門と奥に見える講堂は「岡山県史跡」です。 講堂でも激論を戦わせたのでしょうか??? 歴史とはすごい物です。 もしロケが実現しましたら 報告いたします。 おまけコーナー 年末恒例の『ミナクルネ』です。 1年に1回、CANON-G1スノークロス仕様の出番です。 2019年はペットボトルイルミネーションと、ハート形の竹細工です。 今年も見事でした。
次の
概説 [ ] 末期に(身分)から()に取り立てられ、では、大蔵少輔事務取扱となり、・の下で財政政策を行った。 退官後は実業家に転じ、や、といった多種多様な会社の設立・経営に関わり、第3代舎長(現・)を務めた他、(現・)、(現・ の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。 また、を通じた経営哲学でも広く知られている。 令和6年(2024年)より新紙幣の顔となる。 また、令和3年(2021年)に渋沢栄一を主人公とした『』が放送される予定。 経歴 [ ] 誕生 [ ] 11年(1840年)2月13日、血洗島村(現血洗島)に父・(1810年 - 1871年) 、母・エイの長男として生まれた。 幼名は栄二郎。 のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎を名乗る。 は従兄にあたる。 渋沢家はの製造販売とを兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。 原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。 栄二郎も、父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、を仕入れる作業も行った。 14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的なに繋がったといわれる。 尊攘派志士から、徳川慶喜の家臣・幕臣へ [ ] 一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄のの許に通い、や「」を学ぶ。 は、よりを学んだ。 19歳の時(1858年)には惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、元年(1861年)に江戸に出ての門下生となる。 またのの道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。 その影響から文久3年(1863年)に尊皇攘夷の思想に目覚め、を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてる。 しかし、惇忠の弟・(従兄弟)の懸命な説得により中止する。 親族に累が及ばぬよう父よりを受けた体裁を取ってに出るが、(文久3年(1863年))直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・の推挙によりに仕えることになる。 仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。 主君の慶喜が将軍となったこと(慶応2年(1866年)-慶応3年(1867年))に伴ってとなった。 その頃京都のの、と共に合い、禁裡番士を勤め京都に駐在して居て薩摩と通じている疑惑のあった大沢源次郎の捕縛に協力する。 で行われる(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・(後の11代当主)の随員として格付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。 を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。 各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、社会を見て感銘を受ける。 ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは、の長男で通訳として同行していたである。 帰国後もその交友は続き、アレクサンダーは弟のと共に後に明治政府に勤めた渋沢に対して設立など度々協力をするようになる。 なお フランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から支配調役となり、その後奉行支配調役に転じている。 パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、(1868年10月19日)にから帰国の途につき、同年(12月16日)にに帰国した。 大蔵省出仕〜実業家時代 [ ] 大蔵省時代 帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、より出仕することを命ぜられるも、慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受した。 その後、フランスで学んだ制度を実践することや、新政府からの拝借金返済のために、明治2年(1869年)1月に静岡で商法会所を設立した。 ところがに説得され、10月にはに入省することとなる。 大蔵としては(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、の制定や制定に携わった。 1872年にはの頭に就任。 ドイツで印刷された(通称ゲルマン紙幣)を取り扱ったが贋札事件の発生も少なくなかった。 編成を巡って、や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)にと共に退官した。 明治8年(1875年)、を設立する。 退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(のちのならびに、現・)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。 また、第一国立銀行だけでなく、など多くの設立を指導した。 第一国立銀行ほか、、、(現・、)、(現・)、(現・)、、、、、(現・)、(現・)、、、、など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。 1887年ころには、渋沢を慕う経営者や管理職が集まるが組織され、昭和初期には数千名の会員を数えた。 「」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案。 成功はしなかったが、これが現在のとの起源となった。 渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「」と呼ばれたこともあったが、これは死後の財産争いを防止するために便宜的に化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。 昭和6年(1931年) 死去。 享年92。 人物 [ ] 社会貢献活動 [ ] 渋沢と青い目の人形 渋沢は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院(現在の)の院長を務めたほか、、、予防協会の設立などに携わり財団法人初代、財団法人初代理事長、環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。 開戦の前年にあたる明治36年(1903年)、対印貿易の重要性を認識していた渋沢は、らとともにの設立に携わり 、第3代会長をつとめた。 後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。 当時は実学教育に関する意識が薄く、実業教育が行われていなかったが、渋沢は教育にも力を入れと共に(現)、と大倉商業学校(現)の設立に協力したほか、二松學舍(現)の第3代舎長に就任した。 (創立者・)の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ(創立者・)への寄付金の取り纏めに関わった。 また、男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、、らと共にを設立、・の設立に携わった。 1924年(大正13年)3月7日、ポール・クローデル駐日大使と協力して日仏会館を発足させた。 また、 1927年2月19日、日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形()と日本人形()を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。 1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務めを募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。 なお渋沢は1926年と1927年のの候補にもなっている。 帝国議会議事録 政治活動 [ ] 明治22年(1889年)から同37年(1904年)の15年間に渡り、会議員を務め、区会議長にも選出され、深川の発展の為に尽くした。 また、この間にに出馬の意思表明をしなかったものの東京5区(、深川区)にて94票を獲得、有効票とされ次点となった。 1890年9月29日には議員に勅選され 、同年12月15日の第1回貴族院に出席したが、以降は出席せずに翌年1891年10月29日 に辞任した。 1901年5月16日にはが降ったから真っ先に大蔵大臣として入閣を求められたが、これも辞退している。 断られた井上は渋沢が蔵相でなければ組閣の自信がないとして直ちに大命を拝辞、井上内閣は幻に終わっている。 道徳経済合一説 [ ] 大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。 幼少期に学んだ『』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。 『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。 事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。 そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。 幕末に栄一と同じ観点からのにあたった・の門人で、「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じたと知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。 栄一は、三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。 天譴論 [ ] 関東大震災後の日本の言論界には、世間の風潮が利己的、放漫になった時、自然が天譴として大災害を起こし改革を促す、と解釈した「天譴論」が流行したが、その口火を切ったのは渋沢だった。 「天譴」は腐敗したや近代産業文明を批判し、平等や自然回帰を賛美するとなったが、不自然さや偽善性を感じた人も少なくなかった。 主唱者だった渋沢も「天譴だと言う人は、本当にこれを天譴と思って居るのではないかも知れませぬから」と苦言を呈するようになった。 エピソード [ ] 2024年度発行予定の一万円札見本• 日本を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として()の肖像の候補者として何度も選ばれ、(1963年11月1日発行開始)では肖像候補として最終選考にまで残ったが、当時は偽造防止のため肖像には髭のある人物を使っていたことから、髭のない渋沢を採用することは難しく採用されることはなかった。 この際に作成されたはで展示されている。 後に偽造防止の技術が向上し髭の無い女性も使えるようになったこともあり、2024年度上半期に執行予定されている紙幣改定によりに、渋沢の肖像が採用されることになった。 1902年から1904年にかけてで発行された初期の第一銀行券の1円、5円、10円券には当時の経営者だった渋沢の肖像が描かれていた。 ちなみに、この第一銀行券を「一国の紙幣が日本の民間銀行の銀行券を使用しているのはいかがなものか」と韓国独自の(後の)へと切り替えたのは時代の伊藤博文である。 出身のでは、栄一の命月の11月が「渋沢栄一記念月間」に指定され、毎年イベントが催されている。 埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行した『さいたま郷土かるた』の「に」の項目は「日本の産業育てた渋沢翁」となっており、、と並ぶ埼玉を代表する偉人として、3人札(役札:3枚そろえると10点)に選出されている。 また『彩の国21世紀郷土かるた』の「え」の項目は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっている。 これは深谷が栄一の故郷の深谷の特産品であることと、が埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。 現在埼玉県では渋沢の功績にちなみ、健全な企業活動と社会貢献活動に取り組んでいる全国の企業経営者に「」を授与している。 栄典 [ ] 位階• 1870年(明治3年) -• 1870年(明治3年) -• 1871年(明治4年) -• 1871年(明治4年) -• 1872年(明治5年) -• 1888年(明治21年)5月15日 -• 1900年(明治33年)6月20日 -• 1909年(明治42年)6月30日 -• 1919年(大正8年)7月10日 -• 1929年(昭和4年)7月15日 -• 1931年(昭和6年)11月10日 - 爵位• 1900年(明治33年)5月9日 -• 1920年(大正9年)9月8日 - 勲章等• 1888年(明治21年)5月31日 -• 1892年(明治25年)7月19日 - (民間人初の叙勲)• 1902年(明治35年)2月22日 -• 1911年(明治44年)8月24日 -• 1915年(大正4年)11月10日 - 、• 1928年(昭和3年)11月10日 -• 1930年(昭和5年)5月21日 - 飾版 12月5日 - 外国勲章佩用允許• 1889年(明治22年)6月8日 - :王冠第三等勲章• 1915年(大正4年)5月3日 - :一等嘉禾章 賞杯等• 1877年(明治10年)4月27日 -• 1878年(明治11年)4月30日 - 銀盃一個 8月 - 銀盃一個• 1879年(明治12年)12月 - 銀盃一個• 1880年(明治13年)4月 - 銀盃一個 12月 - ・銀盃一個• 1881年(明治14年)3月 - 銀盃一個 9月 - 銀盃一個• 1885年(明治18年)10月13日 -• 1886年(明治19年)12月7日 - 木杯一組 12月24日 - 木杯一組・木杯一個• 1887年(明治20年)12月20日 - 木杯一個• 1888年(明治21年)5月31日 - 木杯一組・木杯一個• 1890年(明治23年)3月27日 - 木杯一個 4月3日 - 銀盃一組 12月15日 - 木杯一個• 1891年(明治24年)7月8日 - 木杯一組 11月30日 - 木杯一組• 1892年(明治25年)3月11日 - 木杯一組 6月15日 - 木杯一個• 1893年(明治26年)6月6日 - 木杯一組• 1894年(明治27年)4月13日 - 木杯一組 4月17日 - 木杯一組• 1895年(明治28年)3月1日 - 木杯一個• 1896年(明治29年)3月2日 -• 1897年(明治30年)6月1日 - 銀盃一個• 1899年(明治32年)10月24日 - 12月6日 - 銀盃一組 12月19日 - 木杯一組• 1910年(明治43年)1月21日 - 系譜 [ ]• 江戸末期、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。 このため、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」「新屋敷」などと呼んで区別した。 栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主二代目(の子である初代の子)の三男としてうまれたが、「中ノ家」に養子にはいったのである。 年間の「中ノ家」は小農にすぎなかったが、栄一がうまれるころになると村の中で二番目の財産家となっていた。 栄一が故郷を出てからは妹の貞子が「中ノ家」を守り、須永家よりをむかえ4代目とした。 貞子・市郎夫妻の長男は初代総長となった。 栄一は渋沢家の分家「中ノ家」の出だが、本家「東ノ家」からはのが出ている。 栄一はの妹・千代と結婚したが、千代は1882年(明治15年)に死去し、翌年に伊藤兼子と再婚した。 兼子の父は出身の大富豪・で、画家のは八兵衛の実弟、作家のは甥にあたる。 左から3人目は長男の。 (1931年9月6日) 妻• 千代(1841年 - 1882年) - 歌子、琴子、の母。 で死亡。 の妹であり、栄一とは従兄妹同士。 兼子 - 、、愛子、の母。 兼子はの金子御用達であった油堀の伊勢八()の娘で婿を取って家を継いだが、実家が没落し、夫と離縁した。 になるためにの口入れ屋に頼んだところ、渋沢の妾口の話が持ち上がり、後添えとなった。 奇しくも当時の渋沢の家は兼子の実家が没落時に手放したものだったという。 子 庶子を含めると多数の子女がいたが、嫡出の7人の子女とその配偶者およびその子女によって渋沢同族会が結成された。 長女:歌子(1863年 - 1932年) - 法学者のに嫁ぐ。 著書に『穂積歌子日記』。 二女:琴子(1870年 - 1925年) - 大蔵大臣、理事長となったに嫁ぐ。 長男: (1872年 - 1942年) - 会長、妻は公家華族伯爵の娘敦子。 渋沢家嫡男であったが廃嫡となり長男敬三が栄一嫡孫となる。 理由は諸説あり定かでは無い。 新橋の芸者・玉蝶との遊蕩を理由との説 もあるが、事業家というより感性豊かな芸術家肌で蒲柳の質を心配されたためとも伝わる。 三男:(1888年 - 1942年) - 副社長。 石川島飛行機製作所初代社長。 三女:愛子(1890年 -? ) - 会長、頭取、理事長となったに嫁ぐ。 四男:(1893年 - 1984年) - 会長、取締役会長。 庶子:ふみ - 母は大内くに(1853年 -? 東洋生命社長となったに嫁ぐ。 次郎は栄一の妻千代の兄の子。 庶子:照子(? - 1927年) - 母は大内くに。 富士製紙社長となったに嫁ぐ。 平三郎は栄一の妻千代の姉の子。 庶子:(1893年 -? ) - 東京印刷社長・の養子になり、のち教授。 栄一の長女歌子の夫の弟の次女と結婚。 庶子:(1908年 - 1985年) -頭取。 養子:(1847年 - 1868年) - 栄一の妻千代の弟。 で新政府軍に敗れて自決。 - 歌子の長男。 法学者、最高裁判事。 - 歌子の四男。 殖産局長から朝鮮商工会議所会頭。 のち参議院議員。 - 篤二の長男。 、民俗学者、澁澤同族社長、取締役、副頭取、日銀総裁、大蔵大臣。 父・の廃嫡後に祖父・栄一より後継者に指名される。 - 篤二の次男。 貿易商。 監査役、妻は音楽教育家の妹。 - 篤二の三男。 鮫島純子 - 正雄の次女。 鮫島員重(の曽孫、の子)の妻。 『祖父・渋沢栄一に学んだこと』『なにがあっても、ありがとう』など著書あり。 - 愛子の三男。 足利銀行監査役。 - 愛子の七男。 味の素常務。 - 秀雄の長男。 演奏者、音楽家。 - 秀雄の三女。 小説家。 - ふみの長男。 実業家、教育者。 - ふみの次男。 法哲学者。 - ふみの三男。 社会学者。 妻は哲学者の娘。 - ふみの四男。 指揮者、作曲家。 - NPO法人樹木環境ネットワーク協会専務理事。 - 敬三の長男。 渋沢栄一記念財団理事長、理事長、顧問。 - 銀行家、エコノミスト、思想家、翻訳家。 - 西洋史学者。 - 国文学者。 - 古美術商、レストラン経営者。 久留都茂子 - 東京女学館短期大学学長。 - 経済学者。 - 作曲家。 - 指揮者。 河野典子 - 駐ロシア特命全権大使の妻。 - 競馬評論家。 - 会計学者。 (渋沢家・尾高家の遠戚)の婿養子。 「」、「」、および「」も参照 渋沢栄一が登場する作品 [ ]• 主人公• (テレビドラマ、、1978年、演:)• (テレビドラマ、原作、、1982年、演:)• (、、2021年、演:)• その他• 第13話「富の足音」(テレビドラマ、NHK、1964年、演:)• (テレビドラマ、大佛次郎原作、、1971年、演:)• (、NHK、1980年、演:)• (の小説、1988年に映画化、演:)• (映画、2007年、演:)• (映画、2010年、演:)• (のミュージカル、の漫画『猛き黄金の国』が原作、演:)• (、NHK、2015年、演:) 関連文献 [ ] 史料 [ ]• 『渋沢栄一伝記資料集』〈第1 - 58巻〉(渋沢栄一伝記史料刊行会、1955年 - 1965年)• 『渋沢栄一伝記資料集』〈別巻第1 - 10巻〉(渋沢青淵記念財団竜門社、1966年 - 1971年)• 『渋沢栄一滞仏日記』〈日本史籍協会叢書〉(日本史籍協会、1928年) 主な著書 [ ]• 『渋沢栄一全集』(全6巻) 、1930年• 『青淵百話』 同文舘、1931年• 『雨夜譚 渋沢栄一自伝』(校注、、1984年)• 『論語と算盤』(梶山彬編) 、1985年/、2008年 ほか再刊• 『論語講義』((全7巻)、1977年)• 『渋沢百訓 論語・人生・経営』 角川ソフィア文庫、2010年 伝記・評伝研究 [ ]• 『渋沢栄一伝』 、1939年、復刊1986年ほか• 『渋沢栄一』 渋沢青淵記念財団竜門社、1951年• 『渋沢栄一』(時事通信社、1965年)。 新装版『澁澤榮一』2019年• 『父 渋沢栄一』(実業之日本社(上下)、1959年)。 新装・全1巻、2019年• 『明治を耕した話 父・渋沢栄一』(青蛙房、1977年)。 他にも改訂再刊を含めた著作がある。 『渋沢栄一、パリ万博へ』 、1995年• 鮫島純子 『祖父・渋沢栄一に学んだこと』 文藝春秋、2010年• 『渋沢栄一』 〈〉、新装版1989年• 『渋沢栄一』 、1991年• 『渋沢栄一 近代の創造』 PHP研究所、1987年/祥伝社、2009年• 続編『渋沢栄一 日本の経営哲学を確立した男』 さくら舎、2018年• 『渋沢栄一 I 算盤篇』、『- II 論語篇』、、2011年/(上下)、2013年 「サン=シモン主義者 渋沢栄一」-『』で1999年8月号から長期連載。 長らく未刊であった。 『渋沢栄一の経世済民思想』 、2002年• 『渋沢栄一 「道徳」と経済のあいだ』 日本経済評論社〈評伝・日本の経済思想〉、2008年• 『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』 、2011年• 編著『原典でよむ渋沢栄一のメッセージ』、2014年• 『渋沢家三代』 、1998年• 泉三郎『青年・渋沢栄一の欧州体験』、2011年• 編著『渋沢栄一 日本近代の扉を開いた財界リーダー』、2016年 歴史小説 [ ]• 『激流 渋沢栄一の若き日』 未知谷(新版)、2009年• 『』 (上下)、改版2003年• 『幕府 パリで戦う』 、1994年• 『渋沢栄一 人間の礎』 〈人物文庫〉、1998年• 『小説 渋沢栄一』 新版・(全2巻)、2007年• 『渋沢栄一 財界のフロンティア』新装復刊・春陽堂書店、2019年 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 2020年4月13日閲覧。 渋沢栄一著の『論語と算盤』、初版は大正5年(1916年)• ライブドアニュース. 2019年9月9日閲覧。 筆記、渋沢栄一 談、『渋沢栄一自叙伝』、渋沢翁頌徳会、1938年、生立ちのころ(1頁)。 - 渋沢栄一記念財団。 島田昌和、文教大学大学紀要、2000• 産経新聞 産経新聞社. 2008年9月28日• 『官報』第2182号、明治23年10月6日。 『官報』第2503号、明治24年10月31日。 - 渋沢栄一記念財団。 渋沢栄一『論語と算盤』()( 2008年10月25日)、22頁。 渋沢栄一『論語と算盤』()( 2008年10月25日)、49頁(一部の漢字を現代語風にひらがなに改めて引用)。 『帝都復興の時代:関東大震災以後』中央公論新社 、2011年、 pp. 114-120. 日本語 HTML プレスリリース , , 2019年4月9日 , 2019年4月9日閲覧。 産経ニュース. 産業経済新聞社. 2019年4月9日. 2019年4月9日閲覧。 多田井喜生「朝鮮銀行」PHP新書• A10112538500• 『官報』第1475号「叙任及辞令」1888年6月1日。 官報7804号 明治42年7月1日• 官報2080号 大正8年7月11日• 官報857号 昭和4年11月6日• 官報1462号 昭和6年11月12日• 「」 Ref. A10112538500• 渋沢栄一伝記資料 57巻 p219• 『官報』第2719号「叙任及辞令」1892年7月21日。 『官報』第5589号「叙任及辞令」1902年2月24日。 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。 『官報』第1016号「彙報 - 褒章」1930年5月22日。 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。 『官報』第1782号「叙任及辞令」1889年6月10日。 『官報』第825号「叙任及辞令」1915年5月5日。 『官報』第7977号「叙任及辞令」1910年1月28日。 、1921• 政策研究大学院大学• 著『渋沢家三代』文集新書 [ ]• 青弓社、2010-08-26• NHK 2019年9月9日. 2019年9月9日閲覧。 関連項目 [ ] 旧三田綱町邸(渋沢公園内)• - 渋沢公園内に旧渋沢邸が移築保存されていた。 当初深川福住に建てられ、三田綱町を経て現地へ移築保存された。 - 渋沢栄一を慕い、その理念に共鳴した経済人の会員制組織。 現在は渋沢栄一記念財団• - 渋沢栄一の生涯と事績に関する博物館。 現存する旧本邸の建物(晩香廬、青淵文庫)を公開。 - 本来の意味での財閥では無かったが、戦後の財閥解体で指定を受けることとなった。 渋沢栄一創業の東証一部上場企業• - 生誕地の深谷市北部にある。 - 渋沢栄一の喜寿を記念し第一銀行行員が行員運動施設である清和園内に建設したもの。 深谷市に移築保存されている。 - 公が祭神。 建てられる際に渋沢も支援している。 - 戦前建てられていた渋沢栄一の銅像の作者。 - 渋沢の旧三田綱町邸の近くに本邸があった()。 実業家でもある。 最後の藩主。 - に置かれている瀧川辨三の彰功碑を揮毫。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 - 近代日本人の肖像• 朝日日本歴史人物事典『』 -•
次の