ティック クアン ドック。 ティエンムー寺の安らかなスペースを体験

ベトナム人僧侶が抗議で世界に衝撃を与える

ティック クアン ドック

それまでの戦場カメラマンはある程度安全な場所から、俯瞰的に撮影するスタイルが主でしたが、 キャパは実際に戦闘の最前線に突入していって、目の前の容赦ない緊迫した戦争の現場をレンズに収めていくスタイルで世界に衝撃を与えました。 キャパの写真で最も有名なものが、スペイン内戦で共和軍側の兵士が撃たれて倒れる瞬間を描いたこの一枚。 キャパが共和軍の兵士と共に塹壕から飛び出した瞬間、一緒にいた兵がフランコ軍の機関銃に撃たれ崩れ落ちる瞬間をレンズに収めました。 この写真は世界中に衝撃を与え、以降の戦争写真の概念すら変えてしまいました。 1970年代になると、この写真は果たして本当に撃たれた瞬間を撮影したものなのかの疑問が提示され、これは実際には戦場の写真ではない自作自演のものであるという検証がなされました。 この写真の真偽については様々な議論があり、「自作自演説」「戦場ではあるが死んだ瞬間ではなく転んでいるだけ説」、さらにはこれを撮影したのはキャパではなく恋人のゲルダ・タローであるという説もあります。 大学卒業後にカメラマンになり、中国大陸・太平洋戦線・欧州戦線を移動し戦場をカメラに収め続けました。 1941年にはフィリピンで日本軍の捕虜になり、1年間の拘留を経験。 釈放された後は欧州戦線を撮影した後、歴史的なマッカーサーのフィリピン再上陸の様子をカメラに収めることに成功しました。 この写真は1938年から始まった日本軍による重慶爆撃を受けて市民がパニックになり、お互い押したり踏んだりして死亡した人の様子とされています。 日本軍による中国への侵略とそこで行われた残虐な行為は、アメリカの雑誌や新聞で数多く報道されていましたが、この写真はアメリカ人に中国への同情と日本への敵意を強く印象付けることになりました。 「ガンジーと糸車」 1932年 マーガレット・バーク=ホワイト(1904-1971) インド独立の英雄ガンジーのイメージを形成した歴史的写真 「糸車」は人々がガンジーを想起する重要なアイコンとなっています。 現在のインドの国旗にも糸車が描かれ、インドの国の成立そのものに大きな影響を与えています。 このガンジーと糸車の写真を撮影したのが、アメリカの女性写真家でLIFE誌のカメラマン、マーガレット・バーク=ホワイト。 この写真は1932〜1933年にインドのプネにあるイエラブタ刑務所にガンジーが収監されていた時に撮影したもの。 ガンジーは、インドがイギリス産の綿製品に支配されていることに抵抗し、 インド人自身の手で綿製品を作りイギリスの経済独占を打破することを主張。 そしてそれを彼自身が実践してみせたのでした。 この写真はしばらくは発表されませんでしたが、ガンジーが暗殺されて以降に急速に広まり、非暴力非服従の聖人的なイメージを併せもって広がっていったのでした。 「USSホーネットの上を飛ぶSBC2C-3」 1945年 チャールズ・カーリー(1907-1981) Credit :Lieutenant Commander Charles Kerlee, USNR. Sourse: Official U. Navy photo from 現場に張り付いていないと取れない臨場感のある写真 戦場カメラマン、チャーリズ・カーリーはもともと映画業界の出身で、第二次世界大戦の勃発で従軍カメラマンとなり、もっとも成功した商業カメラマンとなりました。 彼は空母USSヨークタウン(CV-10)に乗り込み、海の男たちの様子をレンズに収め続け、太平洋戦争の終了まで撮影を続けました。 この写真はUSSホーネットの上を旋回する航空機から撮影したもの。 その臨場感のある写真はまるで映画の一場面のようです。 「国会議事堂に翻るソ連旗」 1945年 エフゲニー・ハルデイ(1917-1997) 歴史的なソ連軍によるベルリン制圧の瞬間 ウクライナ出身でソ連軍従軍カメラマンであったエフゲニー・ハルデイは1945年5月2日にソ連軍兵士がベルリンの国会議事堂にソ連旗を翻す歴史的な瞬間を撮影。 それは共産主義のファシズムに対する勝利のアイコンとなりました。 エフゲニー・ハルデイは4年間母国の戦争を相棒のライカに収め続け、とうとう戦争のクライマックスとして宿敵ナチスのお膝元であるベルリンに到着。 5月2日の2日前にヒトラーは自殺をしていましたが、ドイツ軍の抵抗は未だ激しく、完全な制圧はできていな状態でした。 エフゲニー・ハルデイは3人の兵士に呼びかけ、崩れたベルリンの国会議事堂に登って、ソ連旗を掲げるように指示。 そうして撮影したのが、この有名な写真です。 「ナチ党行進の中のヒトラー」 1934年 ハイリンヒ・ホフマン(1885-1957) ナチスの代表的プロパガンダ写真 ナチスのカメラマン、ハインリヒ・ホフマンは1920年にナチ党に加入し、ヒトラーに随行しナチスのプロパガンダのための写真を200万枚以上撮影しました。 荘厳で大げさな舞台演出は、ドイツ民族の復活とナチスの支配を象徴するもので、その世界観をホフマンやレニ・リーフェンシュータルといった若い芸術家たちが新たな感性のもとでメディア演出していきました。 この写真は1934年9月30日より始まったビュッケベルグ収穫祭の模様で、当時の熱狂が伝わってきます。 「硫黄島の星条旗」 1945年 ジョー・ローゼンタール(1911-2006) アメリカの勝利の象徴 1945年2月から始まった硫黄島の戦いで、 アメリカ軍が島南西の摺鉢山のてっぺんに立てた星条旗の写真はあまりにも有名です。 この写真は太平洋戦争最大の激戦となった硫黄島の戦いのみならず、アメリカ軍の太平洋戦争全体の勝利の象徴となるのですが、この写真は1ヶ月以上続いた戦いのほんの序盤に撮影されたものです。 戦闘序盤は島で一番高所の摺鉢山の攻防が繰り広げられ、頂上の側は星条旗と日章旗がコロコロ変わる激戦となったのですが、AP通信のジョー・ローゼンタールは5名の海兵たちと共に巨大なスピード・グラフィックカメラを担いで頂上に登り、星条旗の掲揚の一連の流れをカメラに収めました。 この写真はピューリツァー賞を受賞しただけでなく、郵便切手にもなったし、アメリカの海兵隊記念碑のモチーフにもなりました。 「悲しみ」 1942年 ディミトリ・バルターマンツ(1912-1990) あまりにもショッキングなためしばらく隠された写真 ウクライナ出身の写真家ディミトリ・バルターマンツは、大祖国戦争(独ソ戦)を中心に有名な写真を数多く残しました。 彼の代表作の一つが、1942年にクリミアで撮影されたこの写真。 2ヶ月ほどクリミアはナチスによって占領され、その際に支配下のユダヤ人、女性・老人・子どもが容赦なく殺害されました。 遺族らが殺害現場を訪れた際に撮影されたのがこの一枚。 この写真はあまりにもショッキングなため、しばらく公開が見送られていましたが、1960年代以降に大戦のメモリーとして公開され、世界中で反響となりました。 「勝利のキス」 1945年 アルフレッド・アイゼンスタット(1898-1995) 第二次世界大戦終了の喜びを表す象徴的な写真 LIFE誌のカメラマン、アルフレッド・アインセットは、日本が降伏し第二次世界大戦が終わったというニュースを聞き、ニューヨークのマンハッタンで喜びに沸く人々を撮影していました。 すると、 目の前で歩いていた海兵が、たまたま目があった看護師の女性に背中を傾けてディープキスをした。 すかさず彼はこれをファインダーに収めました。 この写真は第二次世界大戦の終了と人々の喜び、そして新たな自由な世界の幕開けを予感させるエポックメイキングな写真となったのです。 「戦争の恐怖」 1972年 ニック・ウト(1951-) ベトナム戦争の残虐さを全世界に示した歴史的写真 ベトナム系アメリカ人でAP通信の写真家ニック・ウトは、サイゴン(現ホーチミン)から北西に約25マイル離れたトラン・バン村の外で取材していました。 そのとき南ベトナム空軍が誤って村にナパーム弾を落としてしまった。 村から幹線道路へ村人たちが逃げ出してきて、その中には多数の子どもたちが混ざっており、中に裸の女の子も混じっていました。 ナパーム弾は極めて高温度で燃焼する兵器で、直接球に当たらなくても、その周辺にいる人は高温度で焼け出されます。 この少女もあまりの高温度で服を投げ出し逃げてきました。 ニック・ウトはそれに気づき、彼女の体に水をかけてあげました。 しかし全身火傷をしており重症で、すぐに彼はアメリカ軍の病院に移し治療を施しました。 この写真はベトナム戦争がいかに民間人を巻き込んだ残虐なものであるか、そして南ベトナム軍が腐敗し規律のない軍隊であるかを世界に喧伝し、反戦運動の象徴になっていきました。 PR 11. 「リーチング・アウト」1966年 ラリー・バローズ(1926-1971) Credit: The LIFE Magazine Collection, 2005 構図やストーリーがよく練られたバローズの写真 イギリス出身の写真家ラリー・バローズは、LIFE誌の写真家としてコンゴ・レバノン・キプロス・イラクなど数多くの戦場で活動しましたが、もっとも有名なシリーズがベトナム戦争での作品。 この写真はベトナム戦争で展開されたプレイリー作戦の最中に、 頭に包帯を巻いた海兵隊下士官が、地面に倒れている仲間に手を差し出す場面を撮影したものです。 バローズの写真は、豪胆に前線に突入して本能でチャンスを捕まえるものではなく、慎重に構図やシナリオを計画し、長期間の観察によって撮影された劇画チックなものです。 そのため、一枚の写真を撮影するのに数日かかることもありました。 直感的で本能的な作品ではありませんが、理性的に用意されたその写真は効果的で印象的なシーンを多く提供しました。 「地雷を踏んだらサヨウナラ」で有名な一ノ瀬泰造のように、取材中に命を落とす者も数多くいました。 「安全への逃避」を撮影した沢田教一もその一人です。 沢田は1961年にUPI通信東京支社に入社し、本人の強い希望でUPIの特派員としてベトナム入りし戦争の様子をカメラに収め続けました。 沢田の無鉄砲っぷりは有名で、アメリカ軍部隊を撮影するために地雷原に踏み込んだり、クメールルージュの捕虜になり釈放された翌日にまた撮影に及んだりと、死を恐れていないかのような撮影活動で数多くの傑作を撮影しました。 代表作「安全への逃避」は、 ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)側の村がアメリカ軍の爆撃を受けている時、村から逃げてきた女性たちが川を歩いて逃げてくる様子を撮影しました。 この写真によって沢田はピューリツァー賞を受賞しました。 しかし1970年にカンボジアを取材中に強盗の襲撃にあい、金品を奪われ殺害されました。 「路上での処刑」 1968年 エディー・アダムス(1933-2004) 腐敗した南ベトナム政権を象徴する写真 AP通信の写真家エディー・アダムスは1968年2月1日、北ベトナム人民軍がテト攻撃を開始し、怒涛のように南下しベトナム各都市が陥落し焦燥と混乱に満ちていたサイゴン(現ホーチミン)の街を取材していました。 警察長官グエン・ゴック・ロアンは、街に紛れた共産側ゲリラであるベトコン(南ベトナム民族戦線)のゲリラを捕らえ、すぐさま38口径のピストルでその頭部を撃ち抜いた。 この時の行動を、グエン・ゴック・ロアンは「ためられば、義務を果たさなければ、奴らは決して従わないんだ」と述べ、武力で抑え込むことの正当性を主張しましたが、この写真は公開されるや世界中で反ベトナム戦争への反響を与え、南ベトナム政府が容疑者を裁判なく殺害する野蛮で腐敗した政府であるというイメージを広げました。 この写真をピューリツァー賞を受賞し、戦争の矛盾と残虐さを示す写真として永久に語り継がれる作品となりました。 「焼身自殺」1963年 マルコム・ブラウン(1931-2011) アメリカ政府の対ベトナム戦略すら変えてしまった写真 アメリカのAP通信社の写真家だったマルコム・ブラウンは、南ベトナムのゴ・ディン・ジェム大統領の仏教勢力への弾圧政策への一部世論の反発から、何かしら極端な抗議活動が行われるのではないかという予想をしていました。 1963年6月、仏教僧ティック・クアン・ドックはサイゴンのアメリカ大使館前で、支援者を前にしてガソリンを被って蓮華座のまま焼身自殺をしてみせ、世界中の度肝を抜きました。 マルコム・ブラウンはその決定的な写真を捕らえ、ティック・クアン・ドックは自殺を始めた数秒前から始め一部始終を撮影しました。 この写真はピューリツァー賞を獲得。 アメリカ社会にゴ・ディン・ジェム政権の腐敗さを白日のもとに晒し、ケネディ大統領はゴ・ディン・ジェムとの関係を見直さざるを得なったのでした。 「英雄的ゲリラ」 1960年 アルベルト・コルダ(1928-2001) 反権力・反帝国主義の象徴となったアイコニックな写真 1960年3月4日、キューバ政府の写真家アルベルト・コルダは、前日にハバナで起きたラ・クーブル号爆発事件を受け、カストロ議長への取材を行なっていました。 カストロはアメリカがこの事件を起こした犯人であると主張し、数十人の命が奪われたことを非難するのですが、 この時共に壇上にいたチェ・ゲバラの姿をたまたまアルベルト・コルダは撮影していました。 この時はゲバラはキューバ政府の一重役で、今ほど一般に知られた存在ではなかったのですが、ゲバラがボリビアで殺害されるとキューバ政府はこの時撮影された写真をプロパガンダに用いて、「革命の殉教者」として持ち上げたのでした。 この写真のカッコよさはすぐに広まり、ゲバラをモチーフとしたデザインは反帝国主義のイメージとしてすぐに広まり、同時にゲバラ自身も世界中で人気になっていきました。 彼の人気の原点はこの写真にあったわけです。 「自由への跳躍」1961年 ペーター・ライビング(1941-2008) 冷戦と東側諸国の圧政を象徴する写真 第二次世界大戦が終了すると、ドイツの首都ベルリンは米ソ英仏の連合国軍による分割統治を受けました。 東ベルリンはソ連、西ベルリンは米英仏により占領されていましたが、1949年から1961年にかけては東西ベルリンの行き来は比較的自由であったため、約250万人が東ドイツから西ベルリンに逃亡しました。 これ以上の流出を防ぐべく、東ドイツのヴァルター・ウルブリヒトは1961年8月初旬から東ベルリンと西ベルリンを分ける壁の建設をスタートします。 建設当初は小さな有刺鉄線が張り巡らされているだけで、ジャンプすれば子供でも乗り越えられることができました。 AP通信の写真家、ペーター・ライビングは近いうちに西側への逃亡事件が起きるだろうと予測し、有刺鉄線の付近に張り込んでいました。 すると、8月15日に東ベルリンの国境警備兵コンラート・シューマンが有刺鉄線を乗り越えて西側に亡命。 この瞬間を収めたライビングの写真は、冷戦構造そのものと、東側の圧政により西側への亡命を希望する人が多数いることを象徴するものとなりました。 「タリバンのロケットにより死んだ兄弟の葬い」 1996年 ジェームズ・ナクトウェイ(1948-) Photo from: 現代を代表する戦場カメラマン ジェームズ・ナクトウェイは独学で写真を学び、1976年から新聞社で写真を撮影した後、1980年にニューヨークに移住しフリーランスの写真家として働いています。 この印象的な写真は内戦の続くアフガニスタンで1996年に撮影されたもの。 タリバンのロケットにより死んだ兄弟を弔うブルカを着た女性を撮影したもので、言葉では言い表せない迫力と悲しみが見ている人を圧倒します。 ARTIST ROOMS National Galleries of Scotland and Tate. Acquired jointly through The d'Offay Donation with assistance from the National Heritage Memorial Fund and the Art Fund 2008 家族を亡くした深い悲しみと怒りが凝縮された一枚 ドン・マッカランはイギリス出身で、初めはイギリス空軍に従軍していましたが、民間に戻りプロのカメラマンとして活動を開始。 1959年にロンドンのギャングの写真を撮影し名声を得ますが、1961年にペーター・ライビングの「自由への跳躍」を見て心を動かされ、戦いの場をフィルムに収めるようになりました。 代表作が1964年にキプロス紛争で撮影した上記の作品で、トルコ系キプロス人の女性が、ギリシャ系キプロス兵に夫を殺され泣き叫び、彼女の息子が慰めようと手を伸ばしている様子を収めたものです。 この作品でワールド・プレス・フォト・オブザイヤーを獲得しました。 ドン・マッカランはその後も、ベトナム、レバノン、コンゴ、エルサルバドル、北アイルランドなどの紛争地帯を巡り、2018年現在も活動を続けています。 PR まとめ 他にも紹介しきれないものが数多くあり、「あれがないやり直し」という声が多数寄せられそうな予感がしますが、いったんこちらでお終いにしようと思います。 スター写真家はどんどん少なくなっていってるし、オールド・ジャーナリストが「新聞を読まない人が増え、大衆がバカになっている」などと嘆く声を聞きます。 確かに以前ほど雑誌や新聞を皆が読まなくなり、以前ほどプロのジャーナリストが社会に対して与えていたインパクトはなくなってしまいました。 ただし発表する場が変わっただけであって、むしろ情報機器の進化によってそのような機会がオープンになり、品質はむしろ上がっているんじゃないでしょうか。 ネットの健全な発達がジャーナリズムを進化させる方向性に向かっていくことを切に願います。

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ベトコンゲリラの処刑(1968年) この写真は写真家エディ・アダムス(Eddie Adams)によって撮影され、ピューリッツァー賞を受賞した一枚。 サイゴン警察が捕虜として捕らえたベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の兵士グエン・ヴァン・レム(阮文歛)を、が路上で射殺するところである。 ベトナム戦争のアメリカの介入について世論に大きな影響を与えた。 グエン・ヴァン・レムのことを残虐なベトコンだったとしてこの処刑は正当であったと主張した。 グエン・ゴク・ロアンは後にアメリカへ亡命し1998年に癌のため亡くなった。 黒人青年へのリンチ(1930年) 若い黒人の男性3名が白人女性をレイプしその恋人を殺人した罪を問われ公開処刑された模様を撮った有名な1枚である。 1930年に起きたこの事件はインディアナ州のマリオンと言う町に住む1万人が刑務所に押しかけ、白人をレイプしその恋人を殺人した罪で拘留されていたアフリカ系アメリカ人3人を引きずり出し、殴る蹴るの暴行を加えた。 2人は処刑されそのうちの1人ジェームス・キャメロン(James Cameron)は命拾いし、その後、彼は死ぬまでアフリカ系アメリカ人の法的権利について影響ある活動家となった。 この写真は白人主義社会の見せしめではあったが、拷問された処刑者の体とグロテスクなまでに嬉しそうな白人たち群集のコントラストに反感を抱いたものも多く波紋が広がった。 ソウェト蜂起(1976年) 世界の注目を集めたこの一枚は南アフリカ共和国ハウテン州で、エスカレートした暴動から、13歳のヘクター・ピーターソン(Hector Peterson)が無差別に発砲する警察に撃たれ、警察の暴力のシンボルとなった。 ジャーナリストによって撮られたヘクターの死体の写真は世界の怒りを呼び、当時アパルトヘイト政策を敷く南アフリカ政府への国際非難をもたらした。 このヘクターを抱く別の少年はその後国外追放となり、1978年に母親がナイジェリアから来た手紙を最後に消息はわかっていない。 隣で走る17歳の少女はヘクターの姉で現在もソウェトに住んでいる。 ヘイゼル・ブライアント(Hazel Bryant)(1957年) 当時アメリカでは(人種差別の撤廃を求める)公民権運動がさかんであったが、社会の(有色人種に対する)偏見は根強く続いていた。 エリザベス・エックフォード(Elizabeth Eckford)はそれまで白人しか受け入れてこなかった学校へ入学した最初の黒人の一人であったが、当時の白人たちが大いに抵抗を示した。 学校に来る彼女をけなす白人ヘイゼル・ブライアント(Hazel Bryant)が写るこの写真は20世紀のトップ100の写真の1枚に選ばれた。 40年間この写真によって苦しめられたヘイゼルは1997年にエリザベスに謝罪し、二人が仲良く並ぶ写真を撮っている。 トライアングル・シャツ社(Triangle Shirtwaist Company)の火災〈1911年) Triangle Shirtwaist社のビルは、女性の移民労働者たちが盗みや仕事から逃げ出したりするのを防ぐために常にドアは施錠されていた。 1911年3月25日にこのビルで火災が発生したとき、このロックされたドアが8階にいた従業員たちの運命を決め、たった30分で146名が死に至るという大惨事となった。 写真は警察や通行人がビルから飛び降りた死体とともに写っているもので、労働者たちの安全性を見直す運動に拍車がかかった。 この写真は 「戦争の恐怖」と題され、翌1973年、ピューリッツァー賞を獲得している。 修羅場を背景に小さな少女が裸で逃げるこの写真はベトナム戦争で一番、人々の心に印象深く焼きつきけられた一枚となった。 後のインタビューでは彼女は「熱い!熱い!」と言って走っていたことを覚えていると話した。 カメラマンは写真を撮った後、キム・フックと他の子供たちを病院へ運んだ。 重度の火傷を負った彼女は助からないと思われたが一命をとりとめ、14ヶ月の入院中17回の手術を受けた。 現在2児の母親としてカナダで暮らす彼女は反戦主義者たちのシンボルとなる。 1997年には国連・ユネスコの親善大使となった。 ケント州立大学銃撃事件(1970年) ニクソン大統領がカンボジア侵略のための兵士の派遣を発表したとき、戦争に反対する国内各地の大学で抗議活動が起こり、オハイオ州のケント州立大学では暴動化する騒ぎとなった。 鎮静化を図った連邦警備員が学生に向けて発砲し、4人が死亡、9人が負傷するという惨事になった。 撃たれた数人は学校に登校するためたまたま居合わせただけで、この写真は撃たれたジェフリー・ミラー(Jeffrey Miller) に当時14歳だったメアリー・アン・ベッキーノ(Mary Ann Vecchio)がショックにひざまずいている瞬間を撮ったもので、ピューリッツァー賞を受賞している。 彼女は第25回、35回、36回のケント州立大学の記念祭に出席している。 無名の反逆者(1989年) 1989年に起こったの直後に戦車の前に立ちはだかる男を撮影したものである。 この勇気ある行動を西欧では称えた報道をしているが、彼が誰なのか確認されておらず、生死も明らかになっていない。 本名がわからないため、と呼ばれた。 ティック・クアン・ドック ベトナムの僧侶であるティック・クアン・ドックは当時の政権に抗議してアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺をした。 その様子を目撃したニューヨークタイムスレポーターのデイビッド・ハルバースタム(David Halberstam)はそのときの模様をこう書いている。 「後にその様子を見る機会もあったが一度で十分だ。 炎が体から舞い上がり、体はどんどん小さくしぼんでいき、頭は黒く焦げていった。 あたりは皮膚が焼ける臭いがたち込めた。 人間というのは驚くほど早く燃えてゆく。 私の後ろからは集まったベトナム人のすすり泣きが聞こえた。 泣くにはあまりにショックで、書きとめたり疑問を投げかけるにはあまりに混乱し、うろたえて、考えることすらできなくなった。 燃えていく彼は微動だにせず、声も発さず、彼の落ち着きはらった様子は周りの泣き喚く人々とのコントラストを醸し出していた。 」 ウィンストン・チャーチルの写真(1941年) ライフ誌の表紙にもなったこののポートレートは首相がカナダのオタワを訪れたときに、カナダの写真家ヨーサフ・カーシュ(Yousuf Karsh)によって撮影された。 この1枚は彼を世界的に有名にしたといえる。 カーシュは著名人のポートレートをたくさん手がけたが、照明の当て方が巧みであった。 この日のチャーチルは写真を撮影する気分ではなかったらしく、カーシュに与えられた時間はたったの2分であった。 不機嫌そうな顔をしたチャーチルはカーシュには被写体としては完璧であったが、チャーチルが持っていた葉巻を取り除くと彼はさらに不機嫌そうになり、怒りを示すように腰に手をあてたということらしい。 アルベルト・アインシュタイン(1951年) 相対性理論を築いたは現代でも人気の物理学者であるが、この写真は72歳の誕生日に撮られたものである。 ドクター Frank Aydelotte夫妻と歩いているときに、レポーターに追われ、写真の前でポーズしたり微笑んだりすることに飽きたアインシュタインはポーズすることを拒否し、車で夫妻に挟まれて座っているときにマスコミの執拗なリクエストに舌を出したというもの。 写真家アーサー・サス(Arthur Sasse)が舌をとらえたこの瞬間写真は夫妻もいっしょに3人写っていたところを、アインシュタインが気に入って自分だけ切り取って、知人への見舞いカードなどに貼って送ったらしい。 現在ではポスターからマグカップまでどこにでも貼られるほど有名なイメージとなった。 長崎原爆投下(1945年) 1945年8月9日午前11時2分にアメリカ軍が原爆を投下したときにできたきのこ雲である。 15万人の死者を出した8月6日の広島に続き2度目の原爆投下であったが、8万人の死傷者が出るなど被害は大きかった。 原爆投下3週間後の広島 写真が公開されて初めて広島の莫大な被害が認識された。 こちらは地上から撮影された写真 ニューギニアの戦い(1943年) はニューギニアでの日本軍と連合軍の戦闘であるが、この写真は1943年2月にライフ誌の写真家ジョージ・ストロック(George Strock)によって撮影されたアメリカ人兵士の死体。 そのときすでに死体にはうじ虫がわいているほどで、あまりの残酷さに9月20日まで発表は止められていた。 それまでアメリカでは棺に入れられていないアメリカ人の死体がライフ誌に掲載されことはなかったので、タブーをぶちやぶる掲載となった。 ブーヘンヴァルト(Buchenwald)収容所キャンプ ナチの収容キャンプの一つであるが、ここでは4万3千人が殺されている。 ジョージ・パットン(George Patton)部隊が収容所を解放したとき、彼は収容所内で行われていた残虐行為に怒り、収容所内のことを知らなかったと言うドイツ市民2000人に彼らのした残虐行為を見せるために収容所内を行進させた。 アンネ・フランク(1941年) ホロコーストで600万人のユダヤ人が殺されたが、14歳の少女アンネ・フランク(Anne Frank)がナチに追われて、アムステルダムの屋根裏部屋で生活をしたときに書いたアンネの日記には希望を持ち続けていた事が綴られている。 1944年にフランク一家はナチに捕まり、解放される1ヶ月前にアンネはチフスによって亡くなる。 この写真はどこでもいるような14歳の少女であるが、大きな瞳で決して彼女にはやって来なかった未来を見つめている写真として有名である。 タイムズスクエアのキス(1945年) ライフ誌に掲載されたタイムズスクエアのこのキスは、終戦を喜ぶタイムズ・スクエアの一枚である。 水兵士が看護婦にキスしているのだが、ライフ誌はこの二人が誰か確認せぬまま時が過ぎ、これは自分だったと名乗り出るものも多くいたがつい最近マックダッフィー(McDuffie)さんだと確認された。 湾岸戦争(1991年) 湾岸戦争中の若い兵士Ken Kozakiewicz(23歳)が、自分の横にある袋に入っている死体が自分の親友だと知って嘆き悲しむこの姿は、ピューリッツァー賞に4度もノミネートされたデイビッド・ターンリー(David Turnley)によって撮影された。 Kenの母親は後に「 この写真を見てただ泣いた」と伝えた。 後にインタビューでそのときのことをフラッシュバックすると伝えている。 めったに泣かない彼が泣くほどの悲しい出来事だったということも。 ツインタワーから飛び降りた男(2001年) この印象深い1枚の写真は9月11日の世界貿易センタービル爆撃の際にリチャード・ドリュー(Richard Drew)によって撮影された写真であるが、読者からの反響を読んで批判が殺到し、新聞には一度掲載されただけであった。 「The Falling Man」(落ちる男)と題されたこの写真の男はNorberto Hernandezだと言われたが、数枚ある写真を見た家族が否定した。 その他3家族が自分の肉親ではないかと名乗りあげたが、1家族は違うとわかり、他の2家族は取り下げた。 硫黄島の星条旗(1945年) 1945年2月23日に撮影された硫黄島の擂鉢山に星条旗を立てる有名な一枚である。 ピューリッツァー賞を受賞したこの写真は、戦争のイメージを代表する作品である。 高層ビルの上でランチ(1932年) この有名な写真は1932年にロックフェラーセンターのGEビルの上で労働者たちがこぞってランチを食べているシーンである。 同じ写真家に撮られたもので横げたの上で昼寝をする労働者たち 移住労働者の母子(1936年) "Migrant Mother"と題されるこの有名な写真は世界恐慌のアイコンとなった。 当時32歳だったフローレンス・オーウェンズ・トンプソン(Florence Owens Thompson)は7人の子供があり、生きるために鳥を捕まえたり、果物をとったりして飢えをしのいでいた。 ドロシー・ラング(Dorothea Lange)はこの写真を撮ったときの様子をこう述べています。 「 彼女の名前も履歴も聞かなかったわ。 年齢を教えてもらったら32歳と言ったわ。 」 フローレンスの身元がわかったのは1970年後半になってからであった。 1983年には癌により亡くなった。 大量の火山泥流が発生し、25000人近い死者を出した。 写真は彼女が亡くなる数時間前にジャーナリストのフランク・フォーニアー(Frank Fournier) によって撮影されたものである。 噴火の惨状を報道するテレビではまだ彼女が生きているときに足がはさまれたまま水に漬かる彼女が放映された。 赤十字は彼女を助けるためになんとか水を汲み出して水のレベルを下げるように繰り返し政府に訴え、他の者も救出を試みたが、不可能だとわかると彼女のそばにいることに決め、慰めたり力づけたりしていた。 最初は気丈に歌など歌っていたが、彼女は三日目に幻覚を見るようになりそのまま亡くなった。 飢える子を見るハゲワシ(1993年) 1993年3月1日にケビン・カーター(Kevin Carter)によって撮影された心痛む写真である。 アフリカ大陸スーダンを襲った食糧危機のさなか飢えて地面にしゃがみこむ子供をハゲワシが見つめているという衝撃写真である。 カーターは元々アパルトハイトの残虐行為を撮影するために南アフリカを旅していた。 毎日のように目にした脳裏に焼きつくひどい惨状に苛まれ1994年写真がピューリッツァー賞を取ったすぐ後に彼は自殺した。 ビアフラ共和国(1969年) ナイジェリア政府に経済封鎖されたビアフラ共和国は200万人にも及ぶ餓死者を出した。 共和国は完全に滅亡し、死が目前に迫る子供たちがドン・マッカリン(Don McCullin)によって撮影された。 戦争専門の写真家だったマッカリンはこう言った。 「 死を目前にした900人もの子供たちが1つのキャンプに住んでいるその現状に衝撃を受けた。 もう兵士の写真なんかどうでもいいと思った。 」 ダルフール(2004年) 紛争の激しいダルフールでは難民は数百万にの上ると言われている。 やせ細った母親の腕をたった一つの慰めとして触れている小さな5歳か6歳の子供のこの写真はによって撮影された。 オクラホマの悲劇(1995年) 1995年4月19日にがしかけられた。 この事件で子供19人を含む168人が死亡。 犯人がアメリカ人だったことで衝撃を与えた。 1階に託児所があり、爆弾を運んだトラックが託児所に近いところに停められたせいで、託児所の子供たちは全員死亡した。 写真は消防士クリス・フィールズ(Chris Fields) が一歳の子供ベイリー・アルモンを抱いているところで、息を引き取っていることを知らずに接している衝撃的な一枚である。 消防士と言う仕事を知っているなら消防士の手袋がどんなに荒い頑丈なものかがわかる。 それを外して子供にそっと触れる手や彼の優しい目が現れているこの写真は見るものを泣かせた。 この事件の犯人には死刑判決が下され2001年に執行された。 この写真が新聞や雑誌のトップを飾ったことで、フィールズは一躍有名になったが彼はふいに舞ってきた名声には用心深く、名声の反動で自殺をした消防士も知っていることから決して溺れてしまうことはなかった。 多くのメディアは彼をヒーローとして取り上げたが、救出しようとした子供が全員死亡という結果から彼はそうは思わなかった。 同様にこの子供の母親は失望の中マスコミから注目を浴び、それをフィールズがかばった。 子供の写真の掲載を止めるために弁護士を紹介したのはほかでもないフィールズであった。 生命の誕生(1965年) スウェーデンの写真家レナート・ニルソン(Lennart Nilsson)は科学者でもあった。 彼は内視鏡などを使い、体内の写真を撮り始め、それを見たライフ誌の編集者は実際に写っているものを見たいと要求してきた。 それが確認された後、ライフ誌では16ページで特集を組み、表紙をも飾った。 ところがその写真は人道的な影響を大きく世論に与え、中絶反対運動のプラカードに拡大されたイメージとして出ることになったのはニルソン自身も予測せぬことであった。 初飛行(1903年) 人が始めて飛んだのは1903年12月17日の自転車屋を営むの12秒であった。 その日のうちに1分飛行し、この初飛行から将来への飛行機までへの成長は急速であった。 写真は兄のウィルバーが翼端を離した瞬間で、操縦しているのは弟のオーヴィルである。 地球(1968年) 1968年12月24日にアポロ8号からウィリアム・アンデス(William Anders)によって撮影された。 アポロ8号は月へ着陸せず、写真は軌道から撮られたものである。 この写真によって初めて地球が外からどう見えるのかを世界に知らせることになった。 現在もっとも影響を与えた環境写真であるとされている。 関連記事•

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ティック・クアン・ドックとは

ティック クアン ドック

ベトナムの中部のフエはベトナムの京都だ。 1803年から1945年まで13代に亘って栄えたグエン王朝の都だった。 ベトナム戦争中何度かフエを取材した。 私にとっては古戦場だった。 1968年1月には北ベトナムと解放戦線によるテト攻撃でフエは一時北側に占領された。 今もその時の弾丸の傷跡が王宮の城壁に残っている。 1993年にはグエン朝の王宮を中心に世界遺産に登録されている。 今や観光地として世界中から訪れる人も多い。 フエは街全体が悠然として荘厳な雰囲気を保っている。 グエン朝の歴代の皇帝の廟があちこちに建っている。 それを見て回るのも楽しいがくたびれもする。 その内の一つ第4代のトゥ・ドック帝(嗣徳帝)の廟良謙殿が市内はずれのフォーン川べりにあった。 2010年3月このトゥ・ドック帝廟良謙殿を訪れた。 境内を散策しているとき一台の焦げ茶けた車が展示されているのを見つけた。 なんだろうと説明書きの立て札を読んだ。 ベトナム語と英語の説明があった。 「この車は1963年6月11日尊師チック・クアン・ドック師(当時66才)がサイゴンのアン・クアン寺からアメリカ大使館前の目抜き通りに向かった際使用されたもの。 尊師は車からおりると蓮華座に座り、時のゴ・ジン・ジェム政権の仏教徒に対する弾圧と宗教の自由の略奪に抗議、焼身自殺をした」 とある。 驚いた。 これがあの時の車か、と思った。 チック・クアン・ドック師の焼身自殺のニュースはたちまち世界中に広まった。 炎を全身に浴びた写真はショックだった。 これをきっかけに僧侶の焼身自殺は体制の圧政に対する抗議を示す手段として日常的となり僧侶たちも事前に焼身自殺があるから取材するように予告の電話をかけてきた。 それっとばかりプレスがあわてて現場に駆けつけるなど異常な光景が見られたものだった。 ゴ・ジン・ジェム大統領の義妹マダム・ヌーはアメリカのテレビインタービューでこの焼身自殺を「人間バーベキュー」と発言、さらに国民のジェム政権への反発を招いた。 11月のクーデターでジェム大統領は殺害された。 たまたま近くにいた僧侶になぜここにこの車があるのか聞いた。 いきさつを知っているものは誰もいなかった。 15才の若い僧侶は携帯でゲームに夢中だった。 なぜ僧侶になったのかと聞いた。 「べつに、ただお寺のビデオ見て面白そうだったから」と屈託のない表情で答えていた。 改めて帰国して当時の写真を調べた。 チック. ・クアン・ドック師がガソリンを浴びて黄色の炎に包まれている。 これを多くの僧侶が取り囲み読経を続けている。 チック・クアン・ドック師が炎に包まれているうしろに一台の車がバンパーを開けたまま写っている。 昔は見過ごしていた。 車体の色も同じだ。 それにしても珍しいものとの出会いではあった。 (2011年7月21日記 元NHK記者).

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