の『ペスト』に関するテレビ番組を見た。 そして考えたのは、当たり前のことだが、 人は誠実であるべきだということだ。 今からでも遅くない、自らの仕事に誠実に努めて行こう。 「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さ」なのだから。 というお話。 (「マスクと消毒液」より) 【の『ペスト』】 畑仕事や庭仕事が忙しい時期なのに、やたらとサボってテレビの情報番組ばかり見ていたのが、民放の情報番組とネットニュースは見ないと決心してからは思った以上に時間ができてしまい、そこで行ったのが疎かになっていた読書と、溜めたままになっていたVTRの視聴です。 昨日はNHK/Eテレで土曜日に放送した「100分de名著:『ペスト』」を観ました。 2018年6月に放送したものの4回分を、一挙再放送したのです。 もちろん今回のコロナ禍を意識してのことですが、現在『ペスト』は多くの書店で文庫本のベストセラー1位に躍り上がっており、ネットショップでも購入できません。 は、やとともに私が若いころ最も夢中になって読んだ作家のひとりです。 しかし日ごろはすっかり忘れていて、本棚を気にすることもありません。 ところが今回に関する番組を見て、その中で『ペスト』の重要な節をいくつか紹介されているうちに、自分がにどれほど影響されていたか、今でも心の底にどれほどしっかりと根を下ろしているか知って、改めて驚いています。 自分には才能がある、しかし世の中にはとんでもない博識や才能がウジャウジャいて、彼らの前には全く歯が立たないかもしれない、そんなふうに考えていたわけです。 自ら招いたある種の四面楚歌で、それがペストで封鎖された町の心象とよく合ったのかもしれません。 【ほんとうに語るべき話を持っている人々は語らない。 多くはマスメディアに呼ばれない】 私は半分正しく、半分間違っていました。 「世の中にはとんでもない博識や才能がウジャウジャいる」のは確かですが、その人たちが全員、陽のあたる場所にいるわけではなく、目立つところにいるのはむしろ浅学菲才のハッタリ屋、もしくは多少の誇張や非科学、推論・偏向は許されると考える人々です。 私は今回の新型コロナ禍の中でたくさんの情報番組を見、かなりの量のネット記事を読んできました。 そして最終的に理解したのは、ほんとうに貴重な考えを持っている人たちは黙して語らない、少なくとも問われるまでは発言することはない、ということです。 について、ほんとうに分かっていることは「分かっていることがあまりにも少ない」ということです。 私は新型コロナの致死率に、ついてたくさんの数字を見てきました。 若い人は発症しない、もしくは発症しても軽症で済むという話も聞きました。 罹患者の8割は他人にうつすことはないという話もありました。 PCR検査があまりにも少ない、もっとたくさんすべきだと突き上げる人々もいました。 (知事もそうした突き上げに合いましたが、知事としても誰に検査をしたらよいのかわからず困ったことでしょうね。 感染者ゼロの状態で濃厚者など見つけようがないからです) 韓国の防疫体制を見習え、という話もありました。 しかしそれが真似のできるものかどうか、調べて語る人は少なくとも目立つ場所にはいませんでした。 韓国と並んで準戦時態勢にある台湾、、これらの国・地域が感染に強いことをきちんと説明できる人も、マスメディアでは語っていません。 メディアにとって必要のない人たちだからです。 フランスの医療体制を見習えという長い記事を読んだことがあります。 ドイツは完璧だといった文章も読みました。 を見習えという人もいます。 しかしそれらはすべて今も新型コロナと戦っている国々です。 先のことは分かりません。 今の時点で賞賛したり、ましてや慌てて同じことを始めたりするのは危険です。 日本は大丈夫だという話もたくさん聞きました。 しかしその人はいったん新型コロナ感染と診断された患者が、恐ろしく長い期間、病院から出られない可能性について考えなかったのでしょう。 今月14日の段階で、ダイヤモンド・プリンセスの乗客で今も入院中の患者が15人もいるのだそうです。 それくらいたいへんな病気なのです。 これまでに退院できた人が900人少々、そこに新規の感染者が毎日500人以上かぶさって来るのですから直前といわれるのも当然です。 【踊る人々と誠実な仕事】 そんなことは前々から分かっていて、感染の専門家たちは以前から狂ったように警鐘を打ち鳴らしていたのです。 それを聞きながら、ほとんどの人たちは無視を決め込んでいました。 聞きたくない話に耳をふさぎ、心地よい話ばかりに耳を傾けていたのです。 1月~2月にかけて、国会の主たる議題は「」「」で、新型コロナに関して真剣な討議が行われた記憶がありません。 大規模感染に対する準備はほんとうにできているのか、病床や医療機器、医師や看護師の確保はどれくらいできいているのか、それは確認したのか、検査体制はどうなっているのか、PCR検査を行わないことの合理的な説明をしてほしい等々、必要な議論は山ほどあったはずです。 首相も政府も不誠実でしたが、野党も不誠実でした。 大切なことを横に置いて、政局にならない、追い詰めきれないとわかっていることをいつまでもいじるのは、単なる嫌がらせでしかありません。 まさかの『ペスト』に出てくるオランの町の人々が、オペラに興じて現実逃避をしていたように、や桜に逃げ込んでいたわけでないでしょう。 しかし私は思うのです。 Eテレの「100分de名著」の中で、焦点をあてて私の記憶を呼び覚ませてくれた『ペスト』の重要な一節がありました。 それは登場人物のひとりランベールが、英雄的な活動を続ける主人公の医師リウーに語りかける場面です。 「ところが、あなたは一個の観念のためには死ねるんです。 その様子が目に見えるようですよ。 でも僕は、観念のために死ぬ連中にはもううんざりなんです。 僕はヒロイズムを信じません。 英雄になるのは容易なことだと知っているし、それが人殺しをおこなうことだと分かったからです」 それに対してリウーはこう応えます。 「今回の災厄では、ヒロイズムは問題じゃないんです。 問題は、誠実さということです。 こんな考えは笑われるかもしれないが、ペストと戦う唯一の方法は、誠実さです」 「誠実さって、どういうことです?」 とランベールは急に真剣な顔になって尋ねた。 「一般的にはどういうことか知りません。 しかし、私の場合は、自分の仕事を果たすことだと思っています」 今の私にとって果たすべき仕事というのは外に出ないことくらいでしょう。 しかし県外に住む娘や息子、孫たちと会わないことも仕事(義務)だとして、それが半年・1年と続くなら、私にとってそれはかなりしんどい仕事だと言えます。 kite-cafe.
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発表されるや爆発的な熱狂をもって迎えられた、 『異邦人』に続くカミュの小説第二作。 アルジェリアのオラン市で、ある朝、医師のリウーは鼠の死体をいくつか発見する。 ついで原因不明の熱病者が続出、ペストの発生である。 外部と遮断された孤立状態のなかで、必死に「悪」と闘う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を呼んだ長編。 通常というには少々けたはずれの事件なのに、起った場所がそれにふさわしくないというのが一般の意見である。 最初見た眼には、オランはなるほど通常の町であり、アルジェリア海岸におけるフランスの一県庁所在地以上の何ものでもない。 町それ自身、なんとしても、みすぼらしい町といわねばならぬ。 見たところただ平穏な町であり、地球上どこにでもある他の多くの商業都市と違っている点に気づくためには、多少の時日を要する。 本書「解説」より ペストに襲われ、外部とまったく遮断された一都市のなかで悪疫と戦う市民たちの記録という体裁をとったこの物語において、ペストの害毒はあらゆる種類の人生の悪の象徴として感じとられることができる。 死や病や苦痛など、人生の根源的な不条理をそれに置きかえてみることもできれば、人間内部の悪徳や弱さや、あるいは貧苦、戦争、全体主義などの政治悪の象徴をそこに見いだすこともできよう。 たしかにこの作品はそういうふうに書かれており、そしてなによりも、終ったばかりの戦争のなまなましい体験が、読者にとってこの象徴をほとんど象徴に感じさせないほどの迫力あるものにし、それがこの作品の大きな成功の理由となったことは疑いがない。 フランス人入植者の父が幼時に戦死、不自由な子供時代を送る。 高等中学 リセ の師の影響で文学に目覚める。 アルジェ大学卒業後、新聞記者となり、第2次大戦時は反戦記事を書き活躍。 またアマチュア劇団の活動に情熱を注ぐ。 1942年『異邦人』が絶賛され、『ペスト』『カリギュラ』等で地位を固めるが、1951年『反抗的人間』を巡りサルトルと論争し、次第に孤立。 以後、持病の肺病と闘いつつ、『転落』等を発表。 1957年ノーベル文学賞受賞。 1960年1月パリ近郊において交通事故で死亡。 宮崎嶺雄 1908-1980 東京生れ。 東京帝大心理学科中退。 岸田国士に師事、バルザック、サンド、メリメ、カミュ等、多くの仏文学を翻訳紹介。 1941年、フランス文学賞受賞。 戦後創元社編集長を務めた。 アルジェリア生れ。 フランス人入植者の父が幼時に戦死、不自由な子供時代を送る。 高等中学の師の影響で文学に目覚める。 アルジェ大学卒業後、新聞記者となり、第2次大戦時は反戦記事を書き活躍。 またアマチュア劇団の活動に情熱を注ぐ。 以後、持病の肺病と闘いつつ、『転落』等を発表。 東京生れ。 東京帝大心理学科中退。 岸田国士に師事、バルザック、サンド、メリメ、カミュ等、多くの仏文学を翻訳紹介。 戦後創元社編集長を務めた 本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです 『ペスト』は、『異邦人』に続いて刊行されたカミュ第二の小説です。 アルジェリアのオランの町にペストが流行し、閉鎖された町の中でもがく人々を描いた小説です。 この小説は、異なる主義主張や性格を持った登場人物たちが織り成す群像劇だといってよいです。 神に頼らず敗北者の側に立つリウー、理解するためにペストと戦うタルー、理念ではなく幸福を追求するランベール、ペストの渦中で上機嫌になっていくコタール…など、様々な登場人物の言行が静かに綴られています。 私は『ペスト』という題名を見て「町中がペストで大混乱になったり、人々がむごたらしく死んでいく様子を描いたパニック映画のようなお話なのかな?」と思って読み始めましたが、読んですぐにその予想は裏切られました。 カミュはペストに襲われた町の様子を、驚くほど淡々とした文体で描いています。 ペストという事象を用いてエンターテイメントではなくあくまでも純文学を書こうとするカミュの真面目さが感じられる小説でした。 この小説の途中では、 「まったく、ペストというやつは、抽象と同様、単調であった」 p. 132 「まったく、ペストは、病疫の初めに医師リウーの心を襲った、人を興奮させる壮大なイメージとは、同一視すべき何ものももっていなかった。 それは何よりもまず、よどみなく活動する、用心深くかつ遺漏のない、一つの行政事務であった」 p. 265 という表現があります。 ペストが非現実的で抽象的なもの、単調な事務のようなものとして表現されているのです。 また、この小説の終盤では、死刑や殺人がペストにたとえられています。 死刑や殺人によって人の歴史が作られていることをタルーは嫌悪しており、「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ」とタルーは言います p. 376。 人間の内部に巣くう根源的な悪が、ペストに象徴されています。 『異邦人』はムルソーの言動がとても個性的で度肝を抜かされる作品でしたが、『ペスト』はペストがとても独創的に表現されていて面白い作品だと思いました。 "僕は、災害を限定するように、あらゆる場合に犠牲者の側に立つことにきめたのだ。 彼らの中にいれば、僕はともかく探し求めることはできるわけだーどうすれば第三の範疇に、つまり心の平和に到達できるかということをね"1947年発刊の本書は、不条理に直面し蝕まれていく人間性を群像劇的に描き共感を呼ぶ。 個人的には著者の本はレジスタンス活動の際に書き上げたとされる『異邦人』しか読んでおらず、この著者の世界的名声を決定づけた、同じく代表作である本書は未読であった事から今回手にとりました。 さて、本書はメルヴィルの『白鯨』に感動した著者が【過ぎ去ったばかり】のナチス闘争の体験を架空の大都市におけるペスト【悪】の発生、それに抗う市民たちの記録として淡々と洗練した筆致で寓意的に描きこんでいるわけですが。 近年、東日本大震災他数々の災害に見舞われている島国に住み、また何度かの被災地でのボランティア経験を持つ自分と私的に重ね合わせては【行政の対応の遅さ、孤立状態での対応】に架空とは思えない迫真さ、リアリティを感じ、それぞれ神、社会、人間の【正義】を振りかざし、立場的に【合意は出来ずも理解し合おうとする】登場人物達に実際の身近な人物を当てはめてイメージしながら 漫画『進撃の巨人』でも良いかも 最後まで圧倒的に没入して読み終えました。 また。 最後に明かされる物語の語り手が、不条理な脅威に圧倒的に敗北し続けて、数多くの犠牲者が出たにも関わらず【黙して語らず】ではなく、あえて人間の中には【軽蔑すべきことより賛美すべきものが多い】と希望を込めた記録として残したとする本書の幕引きも読後感として清々しくて素晴らしい。 安っぽいセンセーショナルさ。 華々しくヒーローが活躍するような描き方をしていない事で【読み手それぞれが共感を持てる】普遍性も含めて時代を超える名著だと実感しました。 様々な立場で防災や減災に取り組む、または関心のある誰かへ。 また洗練された群像劇作品を探す誰かにもオススメ。 翻訳が古いせいか、文章が頭の中に入ってきづらく、言い回しが難しくて、読んでいてもどかしかった。 しかし、おそらくカミュの文体がそういうインテリチックなのだろう。 ぼくには合わなかった。 解説によれば、この作品は六年もかかったいわば労作であり、それはペストに関する知識や小説の複雑な構造に現れていると思うが、ぼくには「異邦人」のような強烈な独創性を感じることができなかった。 確かに、ペスト=戦争=殺人、というとらえ方にカミュ独自の視点があることはそうなのだが、そもそも毎年のように天災に見舞われる日本に暮らすぼくにとっては、ペストもまた天災以上のなにものでもなく、それがどんなに人間の姿形を醜く変形させ、人間を徹底的に苦しめた末に死に至らしめるのだとしても、ぼくはそれを悪と見なすことができない。 もちろん、天災は嫌だし、憎い。 しかし、その憎悪は人間を襲った残酷な運命に対してであって、自然の猛威に対してではないのだ。 ペストらしき疫病がもたらす不条理感に対する人々の姿勢を人の目線から描いた作品。 読み進めていく中で面白いと感じたのは、それが画一的でないという点です。 ペストに対して懸命に闘おうと試みる人、ペストを気にかけず振る舞おうと試みる人、 ペストが襲来したことによってむしろ晴れやかな気分になった者さえも描写されます。 このような姿勢が個々人のどのような境遇によって生じるのか、読み進むにつれて明らかになります。 月次な言葉を使えば多様性ということになりますが、この多様性を表現するにあたって、 多くの小説がとるような神の視点を用いることなく当事者一人の目線から惨状を描くことにより、 不条理が全くの他人事でないということを読者に知らしめてきます。 好みではないのですが、必要に迫られて泣きながら1週間で読みました。 重苦しい気分で読み終わりましたが、読んだら読んだで充足感はありました。 仏領アルジェリアの要港で1940年代に起こった架空のペスト禍について最後には書き手が明らかにされる淡々とした記録と、そこに別の市井の人物の非常に主観的な手記が挿入されて、描かれていきます。 ペストの前兆であるネズミの大量死から始まり、病人の発生、行政の事なかれ主義、そして市の閉鎖をさっと描いた後で、主人公リウー石を中心に病禍と戦う人々、ペストが蔓延していてもわが身は安泰と安堵し、密輸に走り、病禍を楽しむ人物が描かれます。 もっともその人物はペスト終焉後に報いを受けますが・・・。 多くのお民衆の姿が挿入的に描かれます。 その落差が変な感じですね。 町を脱出する機会を目前にしながらそれをやめた人物の気持ちの変化を読み取れず、残念無念。
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今の新型コロナウイルスを巡る混乱を彷彿とさせるとSNSでも話題の小説「ペスト」が話題になっている(写真:ロイター/Ahhit Perawongmetha) 新型コロナウイルスの影響でいまだ十分な供給の目処が立たないマスク、SNS上の誤った情報をもとに買い占めが発生したトイレットペーパーと同じように、全国の書店で品切れが続出している本がある。 フランスのノーベル文学賞作家、アルベール・カミュ(1913~1960年)が1947年に発表した『』(宮崎嶺雄:訳)だ。 舞台は1940年代のアルジェリア・オラン市。 高い致死率を持つ伝染病ペストの発生が確認され、感染拡大を防ぐために街が封鎖される。 外部と遮断された孤立状態の中で、猛威を振るうペストにより、突如直面する「死」の恐怖、愛する人との別れや、見えない敵と闘う市民を描いた作品だ。 新型コロナが話題になる前の13倍に 発売元の新潮社によると、1月下旬から売り上げが急増。 営業担当者がその理由を探してTwitterでタイトルを検索すると、「武漢の状況を見ると『ペスト』を思い出す」という投稿を大量に発見した。 その後、書店からの注文が相次ぎ、2月中旬~3月で1万4000部の増刷を決めた。 直近の売り上げは、新型コロナウイルスが話題になる前の13倍を超える。 50年前に邦訳版が刊行された書籍が、ここまで大きな反響を得ることは極めて異例だ。 なぜ、いまここまで『ペスト』が読まれているのか。 本文の一部を引用すると、 「徹底的な措置をとらなきゃ、なんのかんのいってるだけじゃだめだって。 病疫に対してそれこそ完全な防壁を築くか、さもなきゃ全然なんにもしないのもおんなじだって、いったんです」(p. 92より)、「世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる」(p. 感染が拡大し、街に疫病の脅威が襲い掛かる描写はとても70年前に描かれたとは思えないリアリティがある。 そこで本稿では、『ペスト』本文より、街にペスト流行の前兆が現れた冒頭の一部を掲載する。
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