概要 [ ] の規定によると、国務院は中華人民共和国の中央人民政府で、最高国家権力機関(および)の執行機関であり、最高国家行政機関である。 国務院は全国人民代表大会に対して行政上の責任を負い、業務を報告する義務がある(大会閉会中は全国人民代表大会常務委員会に対して責任を負い、業務報告の義務がある)。 国務院の構成は「中華人民共和国国務院組織法」によって定められている。 沿革 [ ] に中華人民共和国が建国され、その中央政府として、を主席とする「中央人民政府」が発足した。 国務院の前身である政務院は、中央人民政府の執行機関として設置された。 政務院総理にはが就任した。 政務院はその職能において現在の国務院とほぼ同じであったが、国務院が最高国家行政機関であるのに対し、政務院は中央人民政府に直属する国政の最高執行機関と位置づけられたことに差異がある。 また、政務院は軍事に関する管理権はなく、(国防省)も設置されていなかった。 に中華人民共和国憲法が制定されたことにより、、政務院は国務院に改組された。 国務院は中央人民政府とされ、最高国家行政機関に位置づけられた。 初代には、周恩来が改めて就任した。 また、軍事管理機関として国防部が設置された。 構成 [ ] 、第5期全人代第5回会議によって改正された国務院組織法によると、国務院は国務院総理(首相)が主宰し、国務院副総理(若干名)、国務委員(若干名)、各部長(各省大臣に相当)、各委員会主任(庁長官に相当)、行長、審計署審計長(会計検査長)、国務院秘書長により構成される。 総理 詳細は「」を参照 総理を補佐し、重要業務の責任者となる。 総理の外遊などの間は常務業務担当の副総理が総理の職務を代行する。 内閣(第7期)より、 第一副首相 は中国共産党中央政治局常務委員から、その他の副総理は委員から選出されている。 国務委員 後、復活した古参幹部に対して名誉職的に副総理職を乱発したことや、失脚前の地位に一気に復帰させたため、最終的に副総理が20人以上にまで膨れ上がった。 この状況を解消するため、1982年の第5期全人代常務委員会第23回会議で国務委員が増設された。 副総理と同様、重要業務の責任者となる。 待遇は副総理と同級だが、序列は副総理の下。 秘書長 国務院の日常業務処理や国務院弁公庁(事務局)の業務の責任者。 通常は副総理か国務委員が兼任し、副秘書長(若干名)が秘書長を補佐する。 国務院総理・副総理・国務委員・秘書長は次の通り。 役職 氏名 党役職 担当 兼務 (序列第2位) 国務院常務副総理 中国共産党中央政治局常務委員 (序列第3位) 科学技術・工業・金融・財政・ 国務院副総理 委員 教育・文化・衛生・港澳(・) 国務院副総理 中国共産党中央政治局委員 農業・商務等 国務院副総理 中国共産党中央政治局委員 交通等 国務委員 国務院日常業務 国務院秘書長 書記 国務委員 中国共産党中央委員 国防動員 委員 国務委員 中国共産党中央委員 外交、華僑、 国務委員 中国共産党中央委員 公安、司法、国家安全 国務委員 中国共産党中央委員 国有企業 閣議 [ ] 国務院の重要政策に関する基本的な方針は、合議によって決定される。 国務院組織法第4条によると、国務院の活動における重要問題は必ず国務院常務会議か国務院全体会議による討論を経て決定することになっている。 国務院常務会議と国務院全体会議は、いずれも国務院総理が招集し、主宰する。 国務院常務会議 国務院総理・副総理・国務委員および秘書長により構成される。 週1回開かれ、国務院の活動における重要問題について討論し決定するほか、法律案の討論や行政法規の草案の審議を行う。 国務院全体会議 国務院の全構成員が参加する。 半年に1回開かれ、国務院全体の活動における重要問題について討論・決定するほか、国務院各部署の重要問題の討論と決定を行う。 選出 [ ] 国務院総理はが指名し、全国人民代表大会の承認を経て国家主席が任命する。 国務院副総理・国務委員は国務院総理が指名し、全国人民代表大会の承認を経て、国家主席が任命する。 国務院の任期は全人代の任期に相当する5年である。 総理、副総理、国務委員は連続3選できない。 機構 [ ] 国務院以下の各部は日本の省に相当する中央政府機関であり、部長は各省大臣に相当するが、閣議に相当する国務院常務会議を構成するのは副総理や国務委員であることから、実質的には次官とも言える。 国務院の各委員会は各部を超越して各種の政府活動を調整する機能を有する。 委員会は主任が長である。 なお、国務院にが設置されているが、はの軍事部門であって隷下にあり、国務院から独立しているので国防部は直接統帥していない。 各部・委員会責任者(日本の各省庁大臣・長官に相当)は以下の通り。 役職 名前 党派 部長 国務委員兼任 部長 国務委員兼任) 中国共産党 主任 () 中国共産党 部長 () 中国共産党 部長 () 中国共産党 部長 () 中国共産党 主任 ()(モンゴル族) 中国共産党 部長 (国務委員兼任) 中国共産党 部長 () 中国共産党 部長 中国共産党 部長 () 中国共産党 部長 中国共産党 部長 () 中国共産党 部長 中国共産党 部長 中国共産党 部長 () 中国共産党 部長 中国共産党 部長 () 中国共産党 部長 () 中国共産党 部長 () 中国共産党 部長 中国共産党 主任 中国共産党 部長 () 中国共産党 部長 () 中国共産党 行長 中国共産党 審計長 ()(女性) 中国共産党 国務院特設直属機構 [ ]• - 中国の(国有企業)を管理する組織 国務院直属機構 [ ]• 国務院直属事業単位 [ ]• 国務院弁事機構 [ ]• 国務院各部・委員会管理の国家局 [ ]• (管理)• (管理)• (管理)• (管理)• (管理)• (管理)• (管理)• (管理)• (管理)• (管理)• (管理) 国務院議事協調機構と臨時機構 [ ]• (業務は、、、が担当)• (業務はが担当)• (業務はが担当)• (業務はが担当)• (業務はが担当)• (業務はが担当)• (業務はが担当)• (事務はが担当)• (事務は、が担当)• (業務はが担当)• (直属事務組織を設置)• (業務はが担当)• (業務はが担当)• (業務はが担当)• (業務はが担当)• (業務はが担当)• (事務組織をとに設置)• (日常業務はが担当)• (日常業務はが担当)• (業務はが担当)• (業務はが担当)• (日常業務はが担当)• (日常業務はが担当)• (日常業務はが担当)• (日常業務はが担当)• (日常業務はが担当)• (日常業務はが担当)• (日常業務はが担当)• (日常業務はが担当)• (日常業務はが担当)• (日常業務はが担当) 歴代国務院常務会議構成員 [ ] 第1期国務院 [ ] 任期( - )• 総理:• 副総理:、、、、、、、、、• に任命 、• 秘書長: 第2期国務院 [ ] 任期( - )• 総理:周恩来• 副総理:陳雲、林彪、彭徳懐、鄧小平、鄧子恢、賀龍、陳毅、ウランフ、李富春、李先念、聶栄臻、薄一波、、、、習仲勲• 秘書長:習仲勲(兼任) 第3期国務院 [ ] 任期( - )• 総理:周恩来• 副総理:林彪、陳雲、鄧小平、賀龍、陳毅、、ウランフ、李富春、李先念、譚震林、聶栄臻、薄一波、陸定一、羅瑞卿、、• 秘書長:周栄鑫 第4期国務院 [ ] 任期( - )• 副総理:鄧小平、、李先念、、、、、(女)、、、、 第5期国務院 [ ] 任期( - )• 副総理:鄧小平、李先念、、紀登奎、余秋里、陳錫聯、、陳永貴、、王震、谷牧、、(女)• を副総理に任命• 7月 陳雲、薄一波を副総理に任命• 、を副総理に任命• 、を副総理に任命し、紀登奎、陳錫聯を解任• 1980年9月10日 華国鋒の総理辞任にともない、鄧小平、李先念、陳雲、徐向前、王震、王任重が副総理を辞職。 陳永貴が副総理を解任される。 総理:趙紫陽• 副総理:余秋里、耿飈、方毅、谷牧、康世恩、陳慕華(女)、薄一波、姚依林、姫鵬飛、万里、、、• 国務院顧問(に設置):、、、• 秘書長:姫鵬飛(に解任) 、第5期全国人民代表大会常務委員会第23回会議で国務委員を新設• 総理:趙紫陽• 副総理:万里、姚依林• 国務委員:余秋里、耿飈、方毅、谷牧、康世恩、陳慕華(女)、薄一波、姫鵬飛、黄華、• 1982年11月に任命 張愛萍• 秘書長: 第6期国務院 [ ] 任期( - )• 総理:趙紫陽(辞任)• 総理代行:• 副総理:万里、姚依林、李鵬、• に任命• 国務委員:方毅、谷牧、康世恩、陳慕華(女)、姫鵬飛、張勁夫、張愛萍、、、、• 総理:李鵬• 副総理:姚依林、田紀雲、呉学謙• 1991年に任命 、• 国務委員:、、王丙乾、宋健、、雛家華、、、陳俊生• 1991年に任命• 総理:李鵬• 副総理:朱鎔基、雛家華、銭其琛、• 後に任命 、• 国務委員:李鉄映、、宋健、李貴鮮、陳俊生、()、(女)、羅幹• 秘書長:羅幹(兼任) 第9期国務院 [ ] 任期( - )• 総理:朱鎔基• 副総理:李嵐清、銭其琛、呉邦国、• 国務委員:遅浩田、羅幹、(女)、司馬義・艾買提(ウイグル族)、• 秘書長:王忠禹(兼任) 第10期国務院 [ ] 任期( - )• 総理:温家宝• 副総理:(常務副総理、死去)、呉儀(貿易、衛生担当)、(経済担当)、(農業担当)• 国務委員:(政法担当)、(国防担当)、(外交担当)、、(教育担当)• 秘書長:華建敏(兼任) 第11期国務院 [ ] 任期( - )• 総理:温家宝• 副総理:(常務副総理、発展改革、財政、国土資源、環境保護、建設、人口、衛生担当)、回良玉(農業、民族、民政、宗教担当)、(工業、交通、人力資源、社会保障、企業改革、安全生産担当)、(商務、金融、市場管理、観光担当)• 国務委員:(教育、科学技術、文化・メディア、スポーツ、香港・マカオ担当)、(国防動員担当)、、(政法担当)、(外交担当)• 秘書長:馬凱(兼任) 関連項目 [ ]• 脚注 [ ] [].
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小泉内閣総理大臣の中国訪問 > > 小泉総理大臣 小泉内閣総理大臣の中国訪問 (概要と評価) 平成13年10月8日 1.日程概要 10月8日(月) (以下、時間は中国時間(日本-1時間)) 10:40 北京着 午前 盧溝橋、中国人民抗日戦争記念館訪問 昼 朱鎔基総理とのワーキングランチ(於:釣魚台) 午後 江沢民国家主席との会談(於:中南海) 17:00 北京発 2.全般的評価 (1) 今回、米国の軍事行動を受け、当初の予定を短縮し、わずか6時間余りの滞在となったが、朱鎔基総理、江沢民国家主席との会談を実現し、 充実した訪問となった。 また、今回、緊急事態にもかかわらず予定どおり訪中したことは、日本の対中関係重視を印象付ける上でも有意義であった。 3.主な成果 (1) 日中関係全般 (イ) 小泉総理より、来年の日中国交正常化30周年の意義、「日本年」「中国年」活動を通じた交流の促進につき言及。 また、盧溝橋の中国人民抗日戦争記念館での総理の揮毫「忠恕」(論語にある「真心、思いやり」の意味)を紹介しつつ、 「忠恕」の精神で両国関係を発展させていきたい旨表明。 (ロ) 江沢民主席よりは、小泉総理とは初対面だが、 本日の会談で「日中間の緊張した局面は緩和された」としつつ、交流促進の重要性を指摘。 (ハ) 小泉総理は、中国人民抗日戦争記念館を訪問の上、過去の歴史に対する反省の上に、日本が平和国家として歩んできていることを強調しつつ、日中両国関係の発展に全力を尽くしたい旨表明。 これに対し、江沢民主席は、日中関係には良い時も悪い時もあるが、良くない時に靖国神社参拝、教科書問題が出てくる旨指摘。 総理としての初の訪中で盧溝橋訪問を行ったことを評価。 (2) 米国での連続テロ事件に関する対応 (イ) 小泉総理より、日本は米国及び国際社会と共に、テロ根絶のため毅然と対応していく旨表明。 中国側は、テロ反対は全世界の共通認識であるとしつつ、米の軍事行動は正確な目標を持って、無辜の人々を傷つけてはならない旨指摘。 その考え方が、昨日のブッシュ米大統領の発言の中に反映され嬉しい旨言及。 (ロ) 小泉総理より、日本の措置について、日本は武力は行使せず、それ以外の経済協力、難民支援、医療、物資輸送等の面で汗を流す旨説明。 これに対し、 江沢民主席は、小泉総理より説明のあった協力の分野は理解しやすい旨述べる一方、アジアの人々に警戒感があることは覚えておいて欲しい旨指摘。 (ロ) 小泉総理より、セーフガード問題につき、話合いによる早期解決が重要である旨指摘し、朱鎔基総理も貿易上の問題については友好的協議を通じ大局的に解決したい旨発言。
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来歴・人物 [ ] 生い立ち [ ] 足門(現在の足門町)に父・(元金古町長)の二男として生まれた。 において日本軍が旅順入城をした翌日に生まれたため、「赳夫」と命名された。 小学校の頃からの誉れ高く、旧制高崎中学(現在の)を首席で卒業し、からへ進学。 官僚時代 [ ] に一番の成績で合格し、に入省した。 大蔵省入省から1年を経ずに、付の役職での在英日本に派遣された。 当時の上司に当たる財務官はである。 3年半のでの勤務の後、帰国。 戦時中は政権の財政顧問を務めるなどした。 その後は大蔵省ので順調に出世して局長にまで登り詰めたが、(昭和23年)の政府関係者に対する贈収賄が問題になったの際に、当時大蔵省主計局長で次官を目前にしていた福田は容疑で逮捕される。 結果として無罪にはなったものの、これを機に大蔵省を退官した。 国会議員へ [ ] (昭和27年)のでからで立候補し当選、に仕えた。 ・と共に「大蔵省の3田」と呼ばれる。 当時は大蔵省出身の国会議員が衆参合わせて24人いた。 無所属の福田を除く23人は全て・の自由党所属だったが、福田は自らこれを「栄えある一議席」と呼んだ。 (昭和33年)には当選4回ながら就任。 (昭和34年)1月からを、6月からはを務める。 (昭和35年)12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で・・・ら福田シンパを糾合し、「 党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗した。 これが後に福田派()に発展する。 池田から政調会長をクビにされ、福田および同調者はの続いている間、完全に干し上げられ長い冷飯時代を味わう。 を掲げ、による路線の拡大を訴える田中に対して、福田は志向の安定経済成長論を唱える。 また()と断交してでもとのを急ぐ田中に対して外務大臣時代にに反対して「二重代表制決議案」と「重要問題決議案」をなどと共同提案したように台湾とのバランスに配慮した慎重路線を打ち出す。 佐藤は任期中の国交回復と北京訪問を目指して密使を送り込み、中華人民共和国と中華民国との間で連絡を取っており、総理の座を譲ろうとしていた福田を中華人民共和国側関係者に引き合わせていた。 これらの自民党右派のスタンスは岸派以来の伝統で、福田派の後継派閥である清和政策研究会出身の総理である・・・らに引き継がれている。 (昭和47年)7月、「 われ日本の柱とならん」を掛け声に佐藤後継の本命として・・・ら他派の親福田議員を結集してに出馬する。 決選投票(田中282票、福田190票)で角栄に敗れるが、「 やがては日本が福田赳夫を必要とする時が来る」と強気の発言を残した。 また、この際福田に肩入れをしていた当時の金融界のフィクサーであった大橋薫は、生前「 自分が病気で入院していたために福田が負けた」と漏らしている。 発足した田中内閣においては下野する形になったが、で自民党が改選前議席を割り込むと田中が挙党一致を求める形でにとして入閣。 翌(昭和48年)11月の内閣改造では、田中のとによる経済の混乱の収束を求められ、急逝したの後任として大蔵大臣に就任し、総需要抑制などのインフレ抑制策を発動した(1974年7月の参議院選挙後に閣僚辞任)。 (昭和49年)12月に発足したでも・として入閣し、の陣頭に立ったが、への対応を巡って党内でが決定的になった(昭和51年)11月に閣僚辞任している。 総理大臣 [ ] 「」および「」も参照 1976年(昭和51年)、総裁選で他の立候補者がなかったため、での話し合いにより総裁に選出され、過半数をわずかに一票上回る得票でされ、の後任として念願の政権()を樹立。 自民党以外の政党に属したことのない政党政治家として初の総理・総裁となる。 71歳という高齢を心配する周囲からの声に対し、自らの生年に因み「 明治三十八歳」と言って若さをアピールした。 また、外交問題の解決をはじめ、実務型の内閣であったことから、内閣を「働こう内閣」と表現。 また、前内閣では進む一方で外交や経済の案件が遅れており、総理大臣をもじって「掃除大臣」と自称した。 就任当初は党内抗争(三木おろし)において、との間に「2年で政権を譲る」とによって総理の座を得たということや、新鮮味に欠けるだけでなく自民党内でもの立場であったため、層に支持を広げにくいなどの理由から、支持率は低かった。 福田は大平を幹事長に据えてとの連携により政局の安定を図る。 (昭和52年)、で自民党は改選議席を上回る議席を確保。 同年夏、新たに組織創設に当たり党国民運動本部長を通じて保守派の論客として知られる・に初代代表就任を要請し受諾を得る。 またこの頃、を表彰する必要性からを創設した。 同年に起きたでは「 人命は地球より重い」として犯人側の解放の条件を呑み、の支払いおよび、として6人の刑事被告人や囚人の引き渡しを行ったことで、の脅迫に屈したと批判を浴びることとなった。 しかし在任中を通じて福田内閣の支持率は徐々に持ち直し、中国への開始や積極的な東南アジアへの開発援助を行う。 その姿勢はの設立やので発表されたへと結実することとなった。 でありながらも、以来、などによりほとんど進展がなかったについて、「あらゆる困難を乗り越え開港を実現せよ」と指示。 ・やで犠牲者を出しつつも、(昭和53年)の新東京国際空港(現・)開港にこぎつけた。 総合景気対策や15カ月予算の編成 などが功を奏して、同年4-6月期及び7-9月期には年換算7%の経済成長を達成した。 8月、「元号法制化実現国民会議」(現・)にの制定を明言し、素案を出すよう指示。 同年、副総理を日本に迎え、「」に調印。 解消を目指して党員・党友投票による自民党総裁予備選挙を導入したが、大福密約の総理総裁2年任期後の大平への政権禅譲を拒否し、「世界が福田を求めている」として自民党総裁選挙に再選をかけて立候補。 自民党総裁選では現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな集票作戦を展開する一方で、福田派は派閥解消を主唱する建前や事前調査における圧倒的優勢の結果に油断し、動きが鈍く、当初の下馬評が覆され、福田は大平に大差で敗北した。 福田は「予備選で負けた者は国会議員による本選挙出馬を辞退するべき」とかねて発言していたため、本選挙出馬断念に追い込まれることになる。 自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ一人である(任期切れ時に形勢悪化などで出馬断念に追い込まれた現職総裁の例としては、、がいる)。 記者会見で「というが、 天の声にも変な声もたまにはあるな、と、こう思いますね。 まあいいでしょう! きょうは敗軍の将、兵を語らずでいきますから。 へい、へい、へい」(放送「自民党戦国史」の映像より)の言を残して総理総裁を退く。 「」および「」も参照 総理退任後 [ ] (昭和54年)、大平政権下では反主流と化して・で再び田中・大平主流派と対立した。 その後も度々総裁候補として浮上し、自民党の実力者であり続けた。 また、世界の大統領・首相経験者らが世界の諸問題の解決へ向けた提言を行う場として「(OBサミット)」設立(1982年)するなど、「世直し改革」を訴え「 昭和の」を自認した。 後に総理大臣になるやは彼の教えを受けた。 (昭和59年)にをきっかけに発言力が低下し、福田の教え子であった森や小泉らからも世代交代を主張する声が出たため(昭和61年)に派閥をに譲った。 この件が元で中選挙区で安倍のライバルであったが引退を決意したとされている。 や消費税導入によってが総辞職した際には福田を後継の総理・総裁に推す動きがあったが、福田は「こんな重大な時局を担うには、ちょっと若すぎるんじゃないかなぁ(ちなみに当時84歳)」と述べ辞退した。 また安倍が死去した際には森らが福田を再度派閥の長にしようとする動きを起こしたが、それも福田は「私は高齢だから相応しくない」として辞退している。 (平成2年)、を機に政界引退。 長男が後継者となるが、 当初は次男の征夫を後継者として考えていたため、征夫が病気に倒れるまでは「 康夫は面の皮が薄すぎて政治家に向かない」と周囲に語っていた。 [ ]引退するまで連続14回当選。 同じ選挙区である旧群馬3区では「」と呼ばれるほどと激しいトップ当選争いを繰り広げたが、三枝夫人の内助の功もあってほぼ毎回福田が圧勝。 中曽根が首相在任時でも、福田の得票数の方が勝っていた(通算成績・福田の11勝3敗)。 (平成7年)、から『回顧九十年』を刊行し、出版記念パーティーには元気な姿を見せたが、同年、の東京女子医科大学附属青山病院で慢性のため死去、90歳没。 なお、にが亡くなってから自身が死去するまでの間は、存命の最高齢の首相経験者となっていた他、に田中角栄が死去した後は最古参の首相経験者でもあった。 最古参の首相経験者と最高齢の首相経験者が同じ状態は、その後にが死去するまで25年11ヶ月続いた。 年譜 [ ] 、参加首脳と共に(左から1人目)• (20年)9月 - 官房長。 (昭和21年)7月 - 銀行局長。 (昭和22年)9月 - 主計局長。 (昭和23年)9月 - との関連を疑われてされる。 (昭和25年)11月 - 退官。 (昭和27年)10月 - 無所属で立候補し衆議院議員に初当選。 (昭和33年)• 6月 -。 11月 - につき東京高裁が無罪判決(確定)。 (昭和34年)• 1月 -。 6月 - に就任。 (昭和35年)12月 - 党政調会長。 (昭和40年)6月 - に就任。 (昭和42年)2月 - 党幹事長(二度目)。 (昭和43年)11月 - 大蔵大臣に就任。 (昭和46年)7月 - に就任。 (昭和47年)7月 - 自民党総裁選挙でに敗れる。 (昭和48年)11月 - 大蔵大臣に就任。 (昭和49年)12月 - ・に就任。 (昭和51年)12月 - 第67代に就任。 (昭和53年)12月 - 内閣総理大臣を辞任。 (昭和54年)1月 - 新派閥旗揚げしに事務局を置く。 (昭和61年)7月 - 派閥をに譲り、福田派会長を辞任。 (2年)2月 - 政界を引退。 (平成7年) - 慢性のため死去、90歳没。 政見・政策 [ ] 福田(1951年) 政治理念 [ ]• 「協調と連帯」• 「政治は最高の道徳」 の直系であり、「自民党右派」と評されることが多い。 経済 [ ]• 均衡財政志向の安定経済成長論を主張。 国際的に、黒字過剰問題の解決のために、内需主導型の経済運営による輸入を拡大など、市場の開放に努めるべきとした。 (40年)、大蔵大臣として、不況による税収不足への解決策として、日本において初めて(、当時で2千億円)を発行する。 外交 [ ]• 外交理念として「全方位平和外交」を提唱。 アジア諸国との連帯を目指し「福田ドクトリン」を提唱。 との関係について、「お互いに内政に干渉しないことが一番大事であり、それが守られなければ、『』が名ばかりのもの(名存実亡)になってしまう」という旨の見解を述べた。 日韓両国に隣接する大陸棚の北部の境界の画定や大陸棚の南部の共同開発を定めた「」を批准。 靖国参拝 [ ]• (昭和53年)のにを。 「内閣総理大臣」と記帳し、「私的参拝」であるとした。 以降、4回参拝。 語録 [ ] また造語・警句の名手として知られ、「 」「 昭和元禄」「 視界ゼロ」「 日々是反省」「福田内閣は さあ働こう内閣だ」「 掃除大臣」など福田語録を残している。 評価 [ ] 総理大臣としての在任期間は短かったが、長年に渡って保守政界の一方の雄として期待され続け、閣僚としても党幹部としても、そつなく仕事をこなした。 60年代の高度成長期にはと共に数度に渡って蔵相を務め、またのオイルショック後の転換期にもほぼ一貫して経済運営の中心にあった。 「60年代〜70年代の経済危機はいずれも福田によって収拾された」という指摘もあり 、とくに田中・三木内閣でオイルショック後の官民挙げた総需要抑制政策を指揮し、成功させたことは高く評価されている。 その後総理大臣に就任すると、内政面では与野党伯仲国会という環境に加えて党を政敵の大平に握られ、初の予算修正や減税を強いられるなど、均衡財政の信奉者であった福田にとって、不本意な政権運営を強いられることになった。 むしろ総理としては外交における業績が顕著であり 、のいわゆるは、今日に至る日本の東南アジア外交の基軸となっている。 また、の締結は、その後の日中経済協力の礎を築くことになった。 こうして、以降の日本の外交路線、および東アジアの経済発展に多大な影響を及ぼしたとされる。 関係する人物や団体 [ ]• ライバルの田中角栄とともに役員を務めた。 統一教会・ 大蔵大臣在任中だった(49年)に、東京ので開かれた、(統一教会、統一協会)の教祖、の講演会「『希望の日』晩餐会」(名誉実行委員長は元総理)に同僚議員の誘いで参加し、「アジアの偉大な指導者」とを賛美 [ ]。 そのような環境のもとにおいて話したことで、そんなものを一々取り上げてそれを御質問されても、お答えすることはできない。 」という旨の弁明をした。 そして、福田は発言の内容について、「当時の記録がございますからよくごらんください」と述べていたが、衆議院の法務委員会での西宮弘が資料を要求したら、上村委員長からあいさつだから、原稿なしでやったのだから、記録があるはずがないという趣旨の報告がなされた。 勝共連合については国会で「勝共連合が反共を旗印にしておる、そういう点に着目いたしまして自由民主党と勝共連合が協力的側面を持っておったということは、これは御理解願えると思う」、「余り勝共連合の中身につきましては承知しませんけれども、共産主義反対というたてまえについて共感を覚えている」と述べ、勝共連合の外国為替法違反や詐欺に該当するような資金獲得活動などの反社会的な問題を指摘された際は「そう悪いことを一般的にしておるというような認識でございませんので、一般的に調査するということは考えません。 」と答弁。 関係を断ったらどうかとの問いには「勝共連合についていままで持っておる認識に立つと、手を切るというような問題は起こり得ざることである。 」旨の見解を述べた。 らと並ぶ「戦後最大級の」と称されたとの親交が深く、「福田の影に大谷あり」といわれた。 政財界とアンダーグラウンドの世界に隠然たる力を持ち、とも姻戚関係にあった大谷は、福田を首相にすべく、毎年の千坪の豪邸に政財界の要人を招き、茶会を催していた。 大谷の長女享子が、裏千家14世千宗室の子息・巳津彦と結婚した際には、作家の夫妻と共に、福田夫妻が媒酌人を務めた。 また、(3年)5月に大谷が逝去した際には、葬儀委員長も務めている。 [ ]• WWF(現)格闘技世界ヘビー級チャンピオンを公私に渡り可愛がり、自身がを務めたがオーナーたる・球団、の初代名誉会長にも就任し(昭和54年)4月初の公式戦で始球式を担当するなどプロスポーツ界との縁も深かった。 (昭和62年)、と社員のの媒酌人を務めた。 (昭和63年)、かねてから親交のあったのが亡くなった際に、政府特使として葬儀に参列した。 (平成元年)、元のが亡くなった際の葬儀委員長を務めた。 (平成5年)、政敵であった田中角栄が12月16日に死去した際は、「計らずも政界では二人争うことになったが、個人的には良好な関係であった。 誠に残念だ。 」とコメントを残した。 が倒れ、によって が田中事務所を退所した挨拶状を送ったところ、真っ先に直筆で激励の手紙が届いた。 福田事務所に御礼の挨拶に出向き懇談した夜、複数の政治記者が早坂宛に電話してきた。 福田は記者の前で、「きょう早坂君が挨拶に来てくれた。 彼は肝心なことを何もしゃべらなかった。 」と言った。 秘書にとって重要なことは主人の秘密を他人に言わないことだが、早坂は最後まで優秀な秘書だったと、福田なりの表現で記者の前で称えたのだった。 早坂は親分のライバルだった福田がくれた秘書としての勲章に感激したという。 敬妻協会なら引き受けてもいいが」と辞退した。 実際、大物政治家にはつきものの妾や愛人の噂も福田に限っては全く無かった。 栄典 [ ]• (平成7年)7月5日:、 家族・親族 [ ]• 父 - (政治家・元金古町長)• 兄 - 平四郎(政治家・元金古町長)• 弟 - (政治家)• 妻 - 三枝(、三女、元判事の孫娘)• 長男 - (会社員、政治家・)• 長女 - 和子(官僚、政治家に嫁する)• 次男 - 征夫(群馬県の横手館の横手家へ養子入り)• 孫 - (銀行員、政治家)、(政治家、総理大臣政務秘書官) など• その他の親戚 - (実業家、政治家)、(実業家・元会長)、(政治家・元)、(実業家)など 親子2代の首相就任は、史上初めての例となった。 系譜 [ ]• (『密約 外務省機密漏洩事件』、1978年)• (『』、1983年)• (『総理の密使』、2011年)• (『・政治の面白いトコロ集めました。 加藤浩次vs政治家』、2018年3月23日) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 祖父、兄もまた、長を務めている• 同期に・・(など)らがいる• ただし福田は蔵相としての1965年7月27日、戦後初の長期国債発行による景気対策を打ち出している。 『山一証券破綻と危機管理』 朝日新聞社 1998年 P. 183• ただし、当時は諸外国においても、テロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中の仲間を釈放することは珍しいことではなく(や、など)、日本のみがテロに対して特段に弱腰であったというわけではなかった。 小泉やの政治人生は、福田の秘書となり、かばん持ちをすることから始まった• 『回顧九十年』 65頁 - 官房長兼秘書課長兼大臣秘書官、それにと折衝する終戦連絡部長をも兼ねた• 『回顧九十年』 84-85頁に福田は「贈賄側で逮捕されたの当時の社長氏が私の一高、東大の先輩で懇意だったことから、昭和電工への融資に特別の便宜を図ったという理由で私もこの事件に巻き込まれた。 『回顧九十年』 31-32頁によると、妻三枝は群馬県原町(現)出身の新井文夫(の技師)の三女で、三枝の兄が福田と高崎中学の同窓で仲がよく、福田が東京の学校へ通うようになった頃から、三枝との付き合いが始まったという 出典 [ ]• エキサイトニュース. 2020年3月11日閲覧。 『回顧九十年』 144頁• 古澤健一『福田赳夫と日本経済』講談社、1983, 42頁。 2018年7月9日閲覧。 年度予算と補正予算を組み合わせて年度をまたぐ予算を編成することで、絶え間ない公共投資が可能になった。 (『池上彰と学ぶ日本の総理 9 福田赳夫』小学館、2012年、16頁。 日本労働年鑑第50集第二部「労働運動」• エキサイトニュース. 2020年3月11日閲覧。 (昭和53年)1月21日• 1978年(昭和53年)10月16日• 1978年(昭和53年)10月18日• 『』(1977年4月21日付)• 『自民党』中公文庫、2009、• 2018年3月9日閲覧。 (昭和53年)5月12日• 1977年(昭和52年)4月6日• (昭和53年)4月3日• 小林吉弥 2017年11月6日. エキサイトニュース. 2020年3月11日閲覧。 早坂茂三『駕籠に乗る人担ぐ人 自民党裏面史に学ぶ』集英社文庫、1994• 参考文献 [ ]• 福田赳夫 『回顧九十年』 岩波書店 1995年• 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川文庫 2002年 108-123頁 関連項目 [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 (元三重県知事。 政界入り当時は福田派に所属)• (前衆議院議員・元参議院議員。 政界入り当時は福田派に所属)• (かつて福田が所属した者の集まり)• (ウーパールーパー)(1980年代のブームの際、福田が飼育していることを知ったマスコミがたびたび取材に訪れた) 外部リンク [ ]• 公職 先代: 第67代:1976年 - 1978年 次代: 先代: () 1974年 - 1976年 次代: 先代: 第26代:1974年 - 1976年 次代: 先代: 第70代:1965年 - 1966年 第73・74代:1968年 - 1971年 第78代:1973年 - 1974年 次代: 先代: 第36代:1972年 - 1973年 次代: 先代: 第99代:1971年 - 1972年 次代: 先代: 第27代:1959年 - 1960年 次代: 党職 先代: 第8代:1976年 - 1978年 次代: 先代: 第4代:1959年 第10代:1966年 - 1968年 次代: 先代: 第4代:1958年 - 1959年 第8代:1960年 - 1961年 次代: 先代: 結成 初代:1979年 - 1986年 次代: 官職 先代: 1947年 - 1948年 次代: - - 全国土地家屋調査士政治連盟 - 日本公認会計士政治連盟 - 全国社会保険労務士政治連盟 - 日本酒造組合連合会 - - - - 全国卸売酒販組合中央会 - 全国小売酒販政治連盟 - 全国たばこ販売政治連盟 - - 全私学連合会 - - - - - 社団法人全国教育問題協議会 - 全国ゴルフ関連団体協議会 - 私立幼稚園経営者懇談会 - 全国私立小中高等学校保護者会連合会 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 日本保育推進連盟 - - 日本歯科技工士連盟 - 全国介護政治連盟 - 全国旅館政治連盟 - - 全日本美容生活衛生同業組合連合会 - 全国クリーニング業政治連盟 - 環境保全政治連盟 - 日本環境保全協会 - - 全国ビルメンテナンス政治連盟 - 全国商工政治連盟 - 全国石油政治連盟 - 全国LPガス政治連盟 - 日本商工連盟 - 全国中小企業政治協会 - 全国商店街政治連盟 - 社団法人日本調査業協会 - 社団法人全日本ダンス協会連合会 - - 21全国農政推進同志会 - 日本森林組合連合会 - 社団法人全国林業協会 - 日本酪農政治連盟 - 全国畜産政治連盟 - - - - - - 日本自動車整備振興連合会 - 日本港湾空港建設協会連合会 - 日本自動車整備振興会連合会 - - 東日本ときわ会宮城県支部 - 21テレコム会議 - - 日本港湾空港建設協会連合会 - 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