コーヒー発見にまつわる伝説 [ ] コーヒーの起源にはいくつもの伝説があるが、その内容は3つに大別できる。 9世紀ので、飼いの少年が、ヤギが興奮して飛び跳ねることに気づいてに相談したところ、山腹の木に実る赤い実が原因と判り、その後の夜業で眠気覚ましに利用されるようになった。 この話の原典とされるのは、のキリスト教徒ファウスト・ナイロニ Faustus Nairon の著書『コーヒー論:その特質と効用』(1671年)に登場する「眠りを知らない修道院」のエピソードだが、実際には時代も場所も分からないの伝承として記されていた。 この話がヨーロッパで紹介されると、コーヒーの流行に合わせて装飾が進み、舞台は原産地エチオピアに設定され、ヤギ飼いの少年にはKaldiというアラブ風の名が与えられた。 13世紀ので、イスラム神秘主義修道者()の・オマール Sheikh Omar が、不祥事(王女に恋心を抱いた疑い)で街を追放されていた時に山中で鳥に導かれて赤い実を見つけ、許されて戻った後にその効用を広めた。 原典は、アブドゥル・カーディル・アル=ジャジーリーの著書『コーヒーの合理性の擁護』(1587年)写本で、をヨーロッパに紹介したアントワーヌ・ガラン Antoine Galland の著書『コーヒーの起源と伝播』 1699年 によってヨーロッパに紹介された。 オマールの没後早い時期に書かれた歴史書にはオマールがコーヒーを発見した記述は存在せず 、東アフリカを原産地とするコーヒーノキがイエメンの山中に自生している点から信憑性には疑問が呈され、モカのコーヒー産業が発達した後に創造された逸話だと考えられている。 15世紀ので、イスラム律法学者のゲマレディン(ザブハーニー) Gemaleddin が体調を崩した時、以前エチオピアを旅したときに知ったコーヒーの効用を確かめ、その後、眠気覚ましとして修道者たちに勧めた。 さらに学者や職人、夜に旅する商人へと広まっていった。 シェイク・オマールの逸話と同じく『コーヒーの合理性の擁護』が原典だとされている。 ヨーロッパの人間の記録の中には、にゲマレディンがコーヒーを認める(法解釈)を出したとする伝承が紹介されている。 『コーヒーの合理性の擁護』では、ザブハーニーが飲用していた液体はコーヒーではなくだとする別の記録が紹介されている。 ウィリアム・H・ユーカーズ William H. Ukers の著書『オール・アバウト・コーヒー』 1935年 では、信憑性の高い伝承として取り上げられている。 飲用史 [ ] コーヒー豆の食用とアラビア半島への伝播 [ ] アル・ラーズィー エチオピアでは高原地帯に自生するの果実の種子が古くから食用にされ、現地の人間はボン(コーヒー豆)を煮て食べていたと考えられている。 エチオピアの奥地ではボンを煮て食べる習慣が長く残り 、エチオピア南西部の奥地に住むの間には子供や家畜の誕生を祝ってコーヒーと大麦をバターで炒める「コーヒーつぶし」の儀式が残る。 また、エチオピアでは乾燥させたコーヒーの葉で淹れた「アメルタッサ」、炒ったコーヒーの葉で淹れた「カティ」という飲み物も愛飲されている。 やでコーヒーが食用にされていた、あるいは取引の対象になっていたことを示す確たる史料は無く、古代エチオピアに成立したでコーヒーの利用・取引が行われていたことを証明する発見はされていない。 17世紀初頭、イタリア人ペトロ・デッラ・ヴァッレによって、の『』に登場するネペンテスという飲み物がコーヒーに相当する説が唱えられたが、後の時代ではデッラ・ヴァッレの説は否定的に受け止められている。 他にも17-18世紀のヨーロッパでは、の人間はコーヒーを愛飲していた、『』にコーヒーに関する記述が存在する、といった説が持ち上がった。 17世紀初頭のイスラーム世界の年代記作家アブー・アッタイイブ・アルガッズィーは、によって初めてコーヒーが入れられたと記している。 やがてボンはに伝わり、で「バン」と呼ばれるようになる。 コーヒー豆から抽出した飲料について、ののでありでもあった(ラーゼス)が、自著でコーヒー豆を指す「バン」とその煮汁「バンカム」について記述している。 バンカムは乾燥させたバンを臼ですり潰して熱湯に入れて煮出した飲み物であり、コーヒーの原型と考えられているが、まだ豆は焙煎されていなかった。 バンカムの入れ方については、イスラーム世界の学者も詳しい記述を残している。 しかし、ラーズィーとイブン・スィーナーによるバンカムの解説には、コーヒーに含まれるカフェインが神経系統に及ぼす影響について述べられてはいない。 イスラーム世界での普及と反発 [ ] バンカムはイスラーム世界の寺院で秘薬として飲まれ、当初は一般の人間が口にする機会は無かった。 バンカムはイスラム神秘主義()の修道者()によって愛飲され、コーヒーの起源にまつわる3つの伝説にはいずれもスーフィーが関与している。 スーフィーたちは徹夜で行うやのときの眠気覚ましとしてバンカムを用い、宗教活動の中で飲用されるバンは彼らから神聖視された。 やがてバンカムは「カフワ(欲望を減退させる飲料。 の別名)」と呼ばれるようになる。 スーフィーたちは夜の礼拝の時にカフワを飲用し、マジュールというボウルにカフワを入れて仲間内で回し飲みをしていた。 に入ってコーヒー豆が炒られるようになると、香りと風味が付加された飲料は多くの人間に好まれるようになった。 豆が焙煎されるようになった経緯は不確かであるが、偶然起きた何らかの事故で豆が焼かれた時に出た芳香がきっかけになったと考えられている。 トルコ、イラン、エジプトでは、豆の焙煎に使われた1400年代の道具が発掘されている。 また、コーヒーの一般への普及に伴って、マジュールを製造していた陶工たちはコーヒーカップに相当する器の製造も手掛けるようになった。 以後に「カフワ」はイエメンからイスラーム世界に広まる。 イエメンの古都では、頃にスーフィーによってコーヒーが飲まれていたことを証拠づける考古学的資料が発掘されている。 初頭には、のでもコーヒーが飲まれていた。 16世紀初頭の、、あるいはカイロのではコーヒーを飲みながら礼拝を行うスーフィーの姿が多く見られたが、同時にコーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となった。 にはで高官ハーイル・ベイ・ミマルによってコーヒー飲用の是非が諮られた後、メッカ内のコーヒー豆が焼かれ、コーヒーを売買した者や飲用した者は鞭打ちに処されるコーヒーの弾圧事件が起きる。 翌年にカイロから「コーヒーの飲用に随伴する反宗教的行為の取り締まり」のみを許可する通達が出され、ハーイル・ベイ・ミマルは職を解任された。 だが、(クルアーン)では炭の食用が禁じられており、煎ったコーヒー豆が炭に酷似している点から、コーヒーの飲用が(イスラーム法)に抵触している疑義 、あるいはコーヒー自体が(宗教的逸脱)に該当する懸念のため 、コーヒーの飲用に対する反対意見はなおも出続ける。 また、コーヒーを供する店が政治的な活動の場、もしくは賭博や売春の場となりえたために国家から嫌悪される。 コーヒー弾圧の後もカイロやメッカではしばしばコーヒーの禁止令が出され、コーヒー店が襲撃される事件も起きる。 コーヒーの産地であるイエメンでは、コーヒーとに互いの正統性について論争をさせる文学が現れた。 トルココーヒーを淹れる道具 、オスマン皇帝によるエジプト遠征の際にコーヒーがに伝わったと言われている。 アラビア語の「カフワ」がに転訛して、トルコに入ったコーヒーは「カフヴェ」と呼ばれるようになった。 トルコに伝わったコーヒーは、炒って砕いた豆を泡立つように煮出して飲まれ、の名前で知られるようになった。 オスマン帝国がコーヒーの産地であるイエメン、エチオピア沿岸部を支配下に収めるとコーヒーの普及はより進み、が統治するイラン、が統治するインドにも伝播した。 コーヒーがもたらすであろう利益に着目した商人はイエメンの外に大量のコーヒーを持ち出し、小規模のスタンドや店舗でコーヒーを販売し、飲み物の宣伝を行った。 1530年代にオスマン帝国の支配下に置かれていた北シリアの、にコーヒー店が開かれる。 1550年代にはにもコーヒーを供する店舗が開かれ 、皇帝の時代( - )にはイスタンブール内の「コーヒーの店」は600軒を超えていた。 このような店舗はカフヴェハーネ(直訳するとカフヴェの家、すなわち「コーヒー・ハウス」)あるいは単にカフヴェと呼ばれ、庶民や知識人が集まって語り合ったり、詩などの文学作品の朗読会を行う社交の場として広まった。 しかし、地方のカフヴェハーネはならず者のたまり場となり、1570年に学者たちはイスタンブールのカフヴェハーネを非難した。 また、カフヴェハーネでは政治的な議論の場にもなり、時には権力者から弾圧を受けることもあった。 にコーヒーがワインと同種の飲み物であると公式に分類された後も、オスマン帝国内のコーヒーの消費は増え続ける。 オスマン皇帝の治世( - )に「コーヒー豆は炭になるほど強く火にかけられていない」という見解が出され、コーヒーはイスラーム世界で公的に認可された飲み物となる。 メッカにおいては、コーヒーはの水と同じ効力のある「黒いザムザムの水」として飲まれ、巡礼者たちはコーヒー豆を故郷に持ち帰った。 また、オスマン帝国の貴族・高官の間には、コーヒーを供するにあたって厳格な作法が成立していた。 初期のイスラーム世界のコーヒー店ではコーヒーは大鍋に入れて温められ、小さな容器に移して客に供されていたと考えられている。 イスラーム世界ではコーヒーにと牛乳を入れることはほとんどなく、調味には主にが使われていた。 また、牛乳を入れたコーヒーはの原因になるという迷信が存在していた。 1600年頃のカイロでコーヒーに砂糖が入れられ始められ、1660年頃に中国に滞在していたオランダ大使ニイホフがコーヒーに牛乳を加える飲み方を始めたと言われている。 17世紀のカイロを訪れたヨーロッパ人ヴェスリンギウスはコーヒーの苦みを無くすために砂糖を入れる人間が現れていたことを記し、トルコでは「コーヒーは甘くなくてはならない」という格言が生まれた。 オスマン帝国を訪れたヨーロッパの商人たちはコーヒーを好奇の目で見、旅行記などで故郷の人間にコーヒーの存在を伝えた。 ヨーロッパ世界でもコーヒーハウスが建つようになるとコーヒーの需要は増加するが、供給源はイエメンに限られていた。 ヨーロッパの商人に対抗できる商品を探していたカイロのイスラーム商人たちはイエメンのコーヒーに着目し、コーヒー交易を独占した。 を経て成立したトルコ共和国ではコーヒーは生産されておらず、消費量も少ない。 だが、がトルコの主要な飲み物となった後も、トルコでは茶はあくまでも略式の飲み物であり、コーヒーが正式な場で出される飲み物だととらえられている。 かつてオスマン帝国の支配下に置かれていたこともあるヨーロッパのでも、セルビア風の煮出しコーヒーとともにトルココーヒーが飲まれている。 インドへのコーヒーの伝播 [ ] 教皇クレメンス8世 17世紀初頭のヨーロッパではコーヒーはまだ珍奇な飲料であり、植物学者や医学者以外の人間にはほとんど知られていなかった。 にフランスの医師・植物学者のが、イタリアの植物学者ベッルスからコーヒー豆と豆の調理法に言及した書簡を送られた記録が残る。 「キリスト教徒の聖なる飲み物であるワインをイスラム教徒は飲めないため、悪魔からコーヒーを与えられる罰を受けている」として、「悪魔の飲み物」にあたるコーヒーの飲用に反対する人間もおり、はコーヒーに対する教会の見解を出すように求められた。 頃に当時のローマ教皇はコーヒーを裁判にかけるべく、自ら味見をした。 クレメンス8世はこの時にコーヒーの香りと味に魅了されたと言われ 、クレメンス8世は悪魔の飲み物であるコーヒーにを施してがコーヒーを飲用することを公認した。 研究者の中には、クレメンス8世は彼が裁判の前からコーヒーを愛飲しており、自身の経験からコーヒー飲用の禁止の徹底が困難であると考えて公認したと推測する意見もある。 17世紀前半、地中海貿易において主導的な役割を果たしていたの商人を介してコーヒーはヨーロッパ各地に広まっていく。 17世紀のヨーロッパ社会において、コーヒーはアルコール度数の低いビールやワインに代わる、衛生的な飲料として受け入れられた。 また、コーヒーがもたらす覚醒作用も好意的に捉えられ、コーヒーはアルコール飲料と逆の性質のものと見なされるようになった。 時にコーヒーは万能薬のように紹介され、イスラーム世界の「コーヒーと牛乳を一緒に飲むとハンセン病の原因になる」迷信も伝えられた。 17世紀末からヨーロッパでは、コーヒーの淹れ方を教授する書籍が盛んに出版される。 最初はイギリスの人間にとってもコーヒーは馴染みのない飲み物であり、コーヒー・ハウスの近隣の住民が、コーヒーの「悪魔の匂い」の対処を訴え出た記録が残っている。 初期の反発にもかかわらずコーヒー・ハウスは順調に数を増やしていき、に起きたで多くのコーヒーハウスが焼失したものの、17世紀末には数100軒 から3,000軒にのぼる コーヒーハウスが存在していた。 コーヒーハウスの拡大を受けて、に夫がコーヒーハウスに入り浸っていることを非難し、コーヒーがの原因となることを主張する、「ロンドンの家庭の主婦」による声明文が発表される。 そして、コーヒーの有害性を非難する「ロンドンの家庭の主婦」に対して、男性たちのコーヒーへの弁護も公開された。 コーヒー・ハウスはロンドンにおける社交・商取引の場として多くの客に利用されたが、18世紀半ばからロンドンのコーヒー・ハウスの数は減少していく。 コーヒー・ハウスに代わる社交場として、、ティーハウスが台頭し、イギリスの家庭にはが定着する。 フランスでは、にオスマン皇帝によって派遣された使節スレイマン・アガ(ソリマン・アガ)がにコーヒーを献上したことをきっかけに上流階級にコーヒーが広まった。 ににフランス最初のコーヒー・ハウスが開業した時、商売敵のワイン商たちから強い反発を受けた。 ワイン商の要求を受けた医師がコーヒーが健康に及ぼす悪影響を主張したにもかかわらず、コーヒーはフランスで人気を得ていった。 にアルメニア人商人パスカルによってパリ最初のコーヒー・ハウスが開かれ、出身のグレゴワールは劇場に集まる俳優や批評家を対象としたコーヒー・ハウスを開いて成功を収める。 にはが開店し、文人や政治家などの多くの人間が議論を交わした。 また、かつてのフランスではコーヒーが心身に悪影響を及ぼすという迷信が広く知られており、「コーヒーの毒性」を消すためにコーヒーに牛乳を入れるが考案された。 には、オスマン帝国との戦争にまつわるコーヒーとコーヒー・ハウス伝播の有名な逸話が存在している。 先にフランスに使節を派遣したメフメト4世はにを行うが、失敗に終わる。 第二次ウィーン包囲でヨーロッパ諸国のスパイとして活躍した ()が、オスマン軍が放棄した物資の中から発見されたコーヒー豆を手に入れ、戦後に初めてコーヒー・ハウスを開いたのがにおけるコーヒーの始まりだと言われている。 また、コルシツキーをメランジュ(ミルクコーヒー)の考案者とする伝承も存在する。 しかし、ヨーロッパ側が獲得した戦利品にコーヒーが含まれていないなどの理由によって 、逸話の信憑性は疑問視されている。 ウィーン包囲から20年近く前のにウィーン駐在のオスマン大使カラ・マフムト・パシャによって町にコーヒーが紹介され、にカラ・マフムトが帰国した後にコーヒーが販売されるようになったことが記録に残されている。 1683年のウィーン包囲より前に、町にはすでに2つのコーヒー・ハウスが存在していたとも考えられている。 客が牛乳、生クリームなどの量を調節して自分好みのコーヒーを注文できる点がウィーンのカフェの特徴であり、()などの飲み方が知られている。 かつてオスマン帝国の支配下に置かれていたでは、16世紀末からコーヒーが知られていた。 の陥落の直前、オスマン軍の陣営に会談に赴いたハンガリーの使者が「黒いスープ」としてコーヒーを出された逸話はよく知られており、「黒いスープ」という言葉は不吉な意味合いを持つようになった。 ドイツには頃にコーヒーが伝わり、当初は上流階級に贅沢品として愛飲されていた。 ではコーヒーが大流行し、町で最初のコーヒー・ハウス「カフェー・ボーム」にはも訪れたと言われている。 1760年代から1780年代にかけて、身分秩序の維持とコーヒー輸入の抑制を目的として、庶民を対象としたコーヒー禁止令がドイツ各地で施行された。 は国内の経済を脅かすコーヒーの消費の抑制を試み、王立の企業にコーヒーの製造を独占させた。 にプロイセンへのコーヒー輸入は統制を受け、にフリードリヒ2世はコーヒーの禁止を布告した。 ドイツの庶民の間では、本物のコーヒーの代わりに、などの他の作物を加工した Muckefuck が飲まれることが多く、「ドイツのコーヒー」といえば長らく代用コーヒーを指す時代が続いた。 庶民は高い値が付いた本物のコーヒーを飲むときには、少量のコーヒーを多量の湯で割って飲んだ。 また、プロイセンでは供給が絶たれたコーヒーの密輸が横行し、コーヒーへの関心はより高まった。 に王立企業のコーヒー産業の独占は廃止され、フリードリヒ2世の死後に規制は解除された。 チコリを使った代用コーヒーはのによってコーヒーの供給が途絶えたフランスでも飲まれ、ナポレオンの失脚後もチコリの代用コーヒーは飲まれている。 17世紀から18世紀初頭にかけての間に、にもコーヒー店が誕生する。 ヴェネツィア共和国末期には多くのカフェが営業し、さまざまな階層の人間が集まる社交の場となった。 ヴェネツィアのカフェは売春や賭博の場にもなり、政府によってしばしば風紀の引き締めを目的とした規制が実施された。 2度にわたるカフェ撲滅運動の後も、市民の抵抗によってカフェは生き残る。 1720年に開店したは政府の規制と同業者との競争を潜り抜け、ヨーロッパ最古のカフェとして営業を続けている。 17世紀末には、でもコーヒーが知られるようになった。 イギリス人医師サミュエル・コリンズは、モスクワ大公にコーヒーを薬として処方した。 は社交界にコーヒーを普及させようと試み、彼以降の皇帝もコーヒーを愛飲していた。 しかし、茶がロシアの国民的飲料となったのに対して、コーヒーは貴族、インテリ、芸術家が好む飲み物にとどまっていた。 には18世紀までコーヒー、茶といったカフェイン飲料は普及していなかったが、にでコーヒーと茶の過度の飲用を批判する声明が出される。 コーヒーが有害な飲料であると示すため、18世紀後半にスウェーデン国王が人体実験()を実施したという真偽不明の逸話が存在する。 スウェーデンでは1820年代初頭までコーヒー禁止令が数度出されたが、スウェーデン政府がコーヒーの飲用を認めて以降、スウェーデンは世界でも上位のコーヒー消費国となる。 アメリカ合衆国での普及 [ ] 北アメリカには頃にオランダによって、あるいは頃にイギリスによってコーヒーが持ち込まれたと考えられている。 初期のアメリカでは民衆の飲み物はであり、コーヒーは贅沢品でしかなかった。 頃にはコーヒー豆の国際的な取引場となり、イギリスと同様にニューヨーク、でも続々とコーヒー・ハウスが開店する。 アメリカ独立の機運が高まる中で起きたは、アメリカ国民の茶への関心を薄れさせるきっかけとなる。 からにかけてので紅茶の供給量が減少し、コーヒーへの関心が高まった。 独立後のアメリカには、、ブラジルから多量のコーヒーが流入したために価格が下落し、次第にコーヒーが茶に取って代わっていった。 また、コーヒーにかけられる関税は低く、に関税が廃止されたこともコーヒーの普及の一因となった。 のアメリカ合衆国民1人あたりのコーヒーの年間消費量は約25gに過ぎなかったが、1830年代までに年2. 3kg以上のコーヒーを消費するようになった。 しかし、1830年代の時点ではまだコーヒーは贅沢な嗜好品であり、一般の人間に日常的に飲用されるまでには至っていなかった。 輸送手段と包装技術が発達していなかった時代、やで荷揚げされた豆の品質は悪かった。 劣化した豆で淹れたコーヒーにはサビ、、牛の血などが着色料として添加され、風味を補うために豆と一緒にシナモン、、、タマネギが焙煎された。 19世紀初頭の北アメリカでは、コーヒーは煮出した苦いコーヒーに牛乳と砂糖を入れて飲まれ、カップに浮かぶ豆の滓を沈めるために卵、の皮などが混ぜられる場合もあった。 やがて鉄道の発達、蒸気船の導入によって、鮮度を保ったまま豆を輸送することができるようになる。 1870年代にラテンアメリカからの大量のコーヒーが世界中に出荷され、輸送・焙煎・包装の技術革新によってコストが削減されるとコーヒーの市場価格は下がり、コーヒーの大衆化が進んだ。 1920年からが施行された時には、酒の代用品としてコーヒーの需要が高まった。 器具の発明と改良 [ ] 第一次世界大戦期にジョージ・ワシントン社が出したインスタントコーヒーの広告 ヨーロッパに広まったコーヒーは多くの人に飲まれるようになるにつれ、イブリク(イブリーク)というポット状の容器に入れて煮出すトルコ式の淹れ方から、大型の水差し型の容器に豆を入れて煮出すようになる。 やがて煮出したコーヒーに混ざる豆の滓を取り除くために、粉末にした豆を麻の袋に入れて煮出す方法が考案され、袋が次第に短くされてに発展した。 にフランスのドン・マルティンによってネル付きのドリップ・ポットが発明され、頃にドゥ・ベロワが改良したポットは、後世のドリップポットの原型になった。 にはドイツのメリタ・ベンツ夫人によって使い捨てのが発明され、ペーパードリップは大成功を収める。 濾過式のコーヒー器具の発達とは別に、19世紀初頭にトルココーヒーのポットを参考にした浸潰法の器具が発明され、にフランスでの原型となる器具が発明される。 水蒸気を応用した方式はイタリアで改良が進められ、フランス、ドイツなどにも伝えられる。 各地に広まったエスプレッソコーヒーは、それぞれの土地で独自の淹れ方が追求された。 フランスではコーヒーの風味を追及してなどの新型のコーヒーポットが開発され、アメリカでは大量生産に重点を置いた焙煎機・包装技術の改良が試みられる。 にジェイベズ・バーンズによって、自動的に豆の中身が取り出されるように改良された焙煎機が開発された。 従来はコーヒーの消費者はそれぞれの家庭で買った豆を焙煎していたが、頃にピッツバーグで初めて焙煎済みの豆が販売される。 消費者に焙煎済みの豆を売り出す発想はすぐに広がり、製品の供給のために大型の焙煎機が発明された。 コーヒーの鮮度を保つ包装方法としては、などがあり、風味の劣化の原因となる豆のを抑えるための工夫がされている。 1901年には、で開催されたパンアメリカン博覧会で、日本人科学者の加藤サトリによって世界最初とされる(水に溶けるコーヒーという意味で「ソリュブル・コーヒー : soluble coffee」と名付けられた)が出展される。 ソリュブル・コーヒーはによって買い取られたが 、インスタントコーヒーは当時の消費者の関心を惹きつけるには至らなかった。 インスタントコーヒーはと中のアメリカ軍兵士に歓迎され、第二次世界大戦後に世界中に広まっていった。 1960年代までに手間を要さないインスタントコーヒーの消費量は増加していき、家庭調理用コーヒーの約3分の1を占めるまでになった。 時代のロシアではトルコ風の煮出しコーヒーが飲まれ、ドリップやフィルターはあまり普及しなかった。 良質なコーヒーの入手が困難なこともあり、ロシアでは「泥臭い」コーヒーよりも輸入品のインスタントコーヒーが好まれていた。 一方、世界規模でのコーヒーの普及に伴い、コーヒーに含まれるの作用と有害性への批判が高まった。 20世紀初頭のドイツでは、コーヒーからカフェインを取り除く技術が発明される。 脱カフェインを謳った代用コーヒーが多く発明され、その1つとして ()が知られている。 日本での広がり [ ] 缶コーヒー には18世紀にのにオランダ人が持ち込んだといわれている。 出島に出入りしていた一部の日本人がコーヒーを飲用していたと考えられ、出島に出入りすることが許されていたのの中にはオランダ人からコーヒーを贈られた者もいた。 コーヒーについて言及された日本最古の本の1つと考えられているの『万国管窺』にはわずかながらも記述が存在し 、年間( - )に日本語に訳された『紅毛本草』には「古闘比以」という名でコーヒーの詳細な説明がされている。 江戸幕府が敷いていた政策のため民衆にコーヒーが行き渡らず、また風味が日本人の嗜好に合わなかったため、伝来から普及までに長い時間を要した。 にコーヒーを飲んだ(大田蜀山人)は、「焦げくさくして味ふるに堪ず」という感想を残した。 ヨーロッパ文化に関心を抱くや医家はコーヒーを飲んだ感想を記し、などの国外に漂流した者も漂着先でコーヒーを飲用した。 期の、日本へのコーヒー輸入が開始される。 1856年頃には、に駐屯する幕臣に「寒気を防ぎ、湿邪を払う」ためにコーヒー豆が支給された記録が残る。 この時に(現・青森県西部)も派兵していた。 当時はコーヒー豆を黒くなるまで煎り、で粗挽きした後に麻袋に入れて、湯に浸していた。 こうした当時の抽出方法を成田専蔵珈琲店(青森県)が「藩士の珈琲」として再現。 津軽地方の一部喫茶店で提供されている。 後の、に設けられたの西洋人を対象としたコーヒー・ハウスが開店した。 欧風の食文化が日本で紹介されるとコーヒーも飲まれるようになり、(元年)にコーヒー豆が正式に輸入されるようになった。 翌に横浜で萬国新聞を発行していた外国人エドワルズが日本初のコーヒーの宣伝広告を打ち出し、には泉水新兵衛による日本人初のコーヒーの販売広告が紙上に出された。 に出版された日本で最初の解説書『西洋料理指南』では「カフヒー」の名で飲み方、淹れ方が紹介されている。 日本本土より南方にあるでは、気候が温暖で、が幕末期から定住していた影響もあり、と日本で最も早くコーヒーが栽培された記録がある。 しかし、明治初期にコーヒーを飲用していたのは上流階級の一部に限られ、一般層にも普及したのは明治末期から初期にかけての時期になってからである。 コーヒーは牛乳の臭みを消す香料としても使用され、後にはが考案される。 に加藤サトリが法によるインスタントコーヒーの製造に成功するが、当時の日本に販路は存在しておらず、アメリカに渡って1901年のパンアメリカン博覧会で発明品を公開する。 日本で最初の本格的なコーヒー店は、にに開かれた(かひいちゃかん)だとされている。 ほか、にがで開いたコーヒー茶館 、12月26日の読売新聞に新聞広告を掲載したの(創業) 、にで開業した洗愁亭 が、可否茶館より前に存在していたコーヒー店として挙げられることもある。 を推進した実業家・は、ブラジル政府から功績を顕彰されて5年間のコーヒー豆の無償給付を受け、に日本にを設立する。 1913年から1917年までの間に年7,500俵、1918年から1922年までの間に年2,500俵のコーヒーが無償で供給されたが、1923年にブラジルの政変によって無料供給は断絶し、同年のによってカフェーパウリスタの経営は大打撃を受けた。 だが、安価なコーヒーを提供したカフェ・パウリスタは大衆間へのコーヒーの普及を推進し、日本各地に店舗を持つカフェ・パウリスタの成功は地方都市のコーヒー市場を活性化させた。 しかし、昭和初期の日本では、コーヒーは飲食店で飲まれるだけにとどまっており、まだ一般家庭の食卓に普及していなかった。 の開戦により、コーヒーの輸入量は激減する。 に輸入が再開されるまでの間、一般家庭ではやの根などを調理した代用コーヒーが飲まれていた。 1960年に日本でもが発売され、インスタントコーヒーは家庭でのコーヒーの消費を推進した。 1958年には外山食品から世界初とされる「ダイヤモンド缶入りコーヒー」が発売されるが、缶コーヒーの売れ行きは上がらなかった。 はのをきっかけに缶コーヒーの売り上げを伸ばしていった。 アジアでの普及 [ ] ベトナムコーヒーを淹れるポット では、第二次世界大戦後にアメリカの影響を受けてコーヒーが普及した。 では、コーヒーは主に輸出用の作物としてヨーロッパ諸国から導入され、植民地が消滅した後には現地の人間の日常生活の中で飲まれるようになった。 フランスは、でコーヒー栽培を開始し、独立後も両国にコーヒーを飲用する習慣が残った。 ベトナムでは深煎りの細かく砕かれた豆でコーヒーが淹れられており、アルミ製のフィルターで濾して飲まれている。 練乳を入れたカップの上にフィルターを置いて湯と挽いた豆を注ぎ、コーヒーと練乳をかき混ぜて飲むベトナムのスタイルは、として知られている。 ラオスではネルドリップによって淹れたコーヒーにが加えられて飲まれ、甘口のコーヒーは「カフェ・ラーオ(ラオスのコーヒー)」と呼ばれている。 では焦げるほど強く焙煎して粉状にした豆に黒くなるまで炒ったトウモロコシを配合し、多量の砂糖を入れたコーヒーが飲まれている。 17世紀以来オランダが多くのを設置したジャワ島では、多量の砂糖やが入れられたコーヒーが農民のエネルギー源になっている。 列強諸国の植民地とならなかったではコーヒー栽培は行われず、苦いものが敬遠される傾向もあってコーヒーを飲む習慣は存在していなかった。 20世紀末からタイでもコーヒーの飲用が広まり、砂糖と粉末ミルクを加えて甘くしたアイスコーヒーが好まれている。 栽培史 [ ] 1692年のモカ港の光景 最初に栽培されたコーヒーノキは、が原産のアラビカ種である。 アラビカ種発祥の地であるエチオピア、ケニア、タンザニア、マダガスカルなどにはコーヒーノキの自然林が繁茂している。 品種改良を重ねられて生まれた多くの種の中で、最もオリジナルの品種に近いと考えられているものは、ティピカ種とブルボン種のコーヒーである。 16世紀以前にコーヒーの栽培が行われていたことを証明する、考古学的資料は確認されていない。 16世紀にオスマン帝国でコーヒーが普及するとイエメンの山岳地帯でコーヒーが栽培されるようになるが、コーヒーがエチオピアからイエメンに渡った経緯については不明確である。 イエメンに導入されたコーヒーノキの原産地はエチオピアの ()、あるいは近郊だと考えられている。 「コーヒー」の語源について、「カッファ」の地名が転訛したものとする説が存在する。 に入り、ヨーロッパ各国にコーヒーが普及し始めると、イギリス・フランス・オランダのがこぞって、イエメンからの輸入取引を始める。 コーヒーの積み出しが行われたイエメンの小さな港の「モカ」がコーヒーブランド、にもなった。 コーヒー貿易を独占するため、モカから出荷される豆には加熱して発芽力を無くす加工が施され 、豆の密輸を企てた商人には罰金刑が科された。 1610年頃にイスラム教徒ババ・ブーダンによってインドのにコーヒーの生豆が持ち出されて栽培がはじまる。 1696年、インドのマラバールの司令官アドリアン・フォン・オメンが、の港からジャワ港までコーヒーの苗木を運び、バダビア(現)近郊のカダワン農園に植えられる。 生産量が少なく高価なモカコーヒーはヨーロッパの植民地で生産された安価なコーヒーに駆逐されるが、東アフリカで生産されてイエメンのから出荷されたドイツのコーヒーは「モカ」のブランドを冠して売られた。 ヨーロッパ各国によるコーヒー栽培の開始 [ ] レユニオン島のコーヒー・プランテーション 17世紀、ヨーロッパの商人たちはエジプトで購入したコーヒー豆をヨーロッパで転売して多額の利益を得ていた。 その中で、オランダの商人は自分たちで栽培した豆を売って利益を得ようと考え 、にが 、セイロン島へコーヒーの苗木を持ち込んで栽培を試みた。 さらににオランダの植民地であるジャワ島にモカから取り寄せられたコーヒーノキの苗木が植えられ 、1696年にバタヴィア()にが設置された。 1706年ジャワからアムステルダム植物園にコーヒーの木が届く。 この木の種子が1715年頃スリナムで育てられ、フランス領ギアナへ伝わった。 さらに1726年ブラジルへ持ち込まれ大規模栽培へ繋がる。 アムステルダムの種子はパリの王立植物園にも届き、1727年にはそこからモーリシャスに伝えられた。 1830年に総督によって実施されたでは、コーヒーも栽培作物の一つに指定される。 にオランダは一時的に停止していたセイロン島でのコーヒー栽培を再開するが、頃にセイロン島のコーヒーは( )で壊滅し、島では茶の栽培が始められた。 ジャワ島のコーヒーもさび病で壊滅し、従来植えられていたアラビカ種に代えて病虫害に強いロブスタ種が栽培されるようになる。 オランダからの独立を達成した後のインドネシアでは、小規模農家によるコーヒー栽培が主流になる。 、スラウェシ島に残ったアラビカ種のコーヒーは、それぞれ、トラジャとして知られている。 また、、、も良質なコーヒーの産地となっている。 にジャワのコーヒーノキがフランスに寄贈され、パリの王立植物園の温室に植えられる。 にのの軍人の嘆願により、パリのコーヒーノキの1本がマルティニーク島に移植されることになる。 コーヒーノキはガラスケースに入れられて慎重に移送され、海賊の襲撃や暴風雨、凪などの危機に遭いながら、コーヒーノキは無事にマルティニーク島に辿り着いた。 に西インド産のコーヒーがフランスに輸出され、余剰分は地中海東部に出荷された。 ヨーロッパ・アラブ世界に逆輸入された西インド産の安価なコーヒーは、高価なイエメン産のコーヒーに取って代わって市場で中心的な位置を占めるようになった。 に浮かぶフランス領のブルボン島()は、ブルボン種(ボルボン種)のコーヒーで知られている。 レユニオン島ではに島に自生するコーヒーノキ(マロン・コーヒー)が発見されたが島に自生するコーヒーは苦味が強く、2年ごとにしか収穫できないため、マロン・コーヒーと並行してモカから輸入された苗木が栽培された。 から栽培が開始されたモカの苗木は、現地で栽培されていたアラビカ種(ティピカ種)の突然変異種と考えられている。 島で生産されたブルボン種のコーヒーは南アメリカにも伝播するが 、が出荷するコーヒー、ヨーロッパに近い位置にあるフランス領西インド諸島で生産されたコーヒーに押し出されていく。 ので島のコーヒー・プランテーションが壊滅した後、にルロイ種が島に持ち込まれる。 ブラジルでのコーヒー栽培 [ ] ブラジルのコーヒー・プランテーションと農民 ドゥ・クリューが持ち込んだコーヒーノキの子孫はマルティニーク島から各地に広がり、、、、、でもコーヒーの栽培が始められた。 中でもハイチは18世紀後半までコーヒーの一大産地となっていたが、18世紀後半から19世紀初頭にかけてのを経て、ハイチでのコーヒーの産出量は激減した。 にマルティニーク島からイギリス領のに移植され、「」の起源となった。 低価格のアラビカ種のコーヒーが多量に生産されるは、国際社会におけるコーヒーの流通や価格設定に強い影響力を有している。 ブラジルのコーヒー伝播にまつわる有名な伝承として、にフランス領ギアナとオランダ領ギアナの間に起きた紛争の仲裁のために派遣されたブラジルの使節パレータ Francisco de Melo Palheta が、恋仲に落ちたフランス代理総督夫人からコーヒーの種を託されたという逸話が知られている。 フランス皇帝のを経験したヨーロッパでの自給が可能になった後、ブラジルは砂糖に代わる輸出品としてコーヒーに着目した。 ブラジル皇帝は国内の農業を振興し、にから出荷されたブラジル産のコーヒーがヨーロッパに向けて輸出された。 の即位後にでコーヒー栽培が本格的に行われるようになり、コーヒー栽培は、にも拡大した。 1870年代にブラジルのコーヒー栽培の中心地はリオデジャネイロ州から、ミナスジェライス州とサンパウロ州に移る。 大規模なプランテーションとに基盤を置いた栽培によって、ブラジルは19世紀のコーヒー市場を席巻する。 にブラジルで奴隷制度が廃止された後、賃金の安価なヨーロッパ系移民がコーヒー産業に従事した。 旧来の大土地所有者から転身したコーヒー農園主をはじめとする支配者層の主導でブラジルのコーヒー産業は拡大していくが、彼らが農園で実施したは大規模な環境破壊を引き起こした。 20世紀初頭からブラジルではコーヒーが過剰に生産される状態が慢性的に続き、州知事たちは価格の暴落の阻止に苦慮する。 生産量の増加に伴うコーヒーの低価格化に際して、にブラジルをはじめとするラテンアメリカのコーヒー生産国はニューヨークに代表者を派遣し、初めて「コーヒーの生産と消費を考える国際会議(国際コーヒー会議)」を開催した。 第一次世界大戦中、アメリカとフランスは余ったコーヒーの買い取りを条件にブラジルに側への参戦を要請し、余ったコーヒーが売却された。 1920年にアメリカで禁酒法が施行された際にアメリカはラテンアメリカ各国からコーヒーを大量に輸入し、ブラジルに「コーヒー・バブル」が到来する。 しかし、にコーヒー消費国を襲ったによって、ブラジルのコーヒー・バブルは崩壊する。 余ったコーヒーは海上に投棄・焼却され、約47,000,000袋のコーヒーが破棄された。 にブラジル政府はに過剰に生産されたコーヒーの引き取りを依頼し、に、翌にアメリカ合衆国での販売が開始される。 ラテンアメリカでの展開 [ ] コロンビア・コーヒーのイメージキャラクターである ブラジルを除くラテンアメリカ各国では、小規模生産によるコーヒーの栽培が行われる。 に独立したコスタリカは経済的自立を達成するためコーヒー栽培に力を入れ、では住民に土地と苗木を配布してコーヒー栽培が推奨された。 コスタリカのコーヒー農園では労働者の自給用の食糧も栽培されており、コスタリカのコーヒー栽培はブラジルなどのコーヒー生産国に見られるとは異なる傾向を見せている点に特徴がある。 コスタリカは低価格のコーヒーを輸出するブラジルとの競争を避けて高品質のコーヒーの生産に特化し、コスタリカで生産されたコーヒーはヨーロッパで人気を得る。 1920年代からアメリカへのコスタリカ・コーヒーの輸出量は増加、第二次世界大戦後のコスタリカ・コーヒーはアメリカを主要な市場とし、なおコスタリカのコーヒーの品質は高い評価を受けている。 には、18世紀末から19世紀初頭にかけての期間にコーヒーが伝わった。 19世紀半ばのコロンビアでは内陸部のサンタンデール地域でコーヒー栽培が行われていたが、コーヒー産業はブラジル、コスタリカに後れを取っていた。 1870年代に世界規模のコーヒー需要の高まりが起きると、サンタンデル、、でコーヒー栽培が活発化する。 コロンビアではコスタリカよりも品質が高いコーヒーを大量に生産することが目標とされ、1870年代から1910年代にかけて、コロンビアにも周辺国より遅れてのコーヒー産業の拡大期が訪れた。 コスタリカと同様にコロンビアのコーヒー農園ではコーヒー以外の作物も栽培され、それらは労働者の食糧や売買に充てられた。 20世紀初頭にはコロンビアのコーヒーの品質は国際市場で高い評価を受けるようになり 、コーヒー産業は輸出産業として確立された。 コロンビアでは品種改良が盛んに行われ、直射日光に強い耐性を持つ「コロンビア」などの新品種が開発されている。 ではによって、に代わる商品としてコーヒーの栽培が開始された。 グアテマラでのコーヒー栽培では先住民であるが酷使され、反乱、農地からの逃亡が頻発した。 19世紀末にグアテマラに増加したドイツ系移民は大規模なコーヒー農園を開き、彼らによって近代的な技術がもたらされる。 太平洋世界での栽培 [ ] にスペイン人によってのハナレイにコーヒーが移植されたのが、ハワイにおけるコーヒー栽培の始まりとされている。 にで本格的なコーヒー栽培が開始され 、にはでもコーヒーの栽培が始められる()。 天災、病虫害、糖業への転換によってコーヒー農園は減少していき、コーヒー栽培に最も適したコナに農園が集中するようになる。 当初は現地人がコーヒー栽培に従事していたが、次第に移民がコーヒー栽培に携わるようになり、1910年頃には日系移民がコーヒー栽培の中心となる。 ロブスタ種とリベリカ種 [ ] に居住するブガンダ族には血盟の儀式の際に(カネフォラ種)のコーヒー豆を噛む習慣があり、にウガンダに入り込んだ探検者がロブスタ種のコーヒーを発見する。 に領でロブスタ種が再発見された後、ロブスタ種の栽培が始められた。 当初風味の悪さからロブスタ種は市場で敬遠されていたが、価格を武器にして世界中に広まっていく。 オランダのロブスタ種の流行に続き、インド、セイロン島、アフリカでもロブスタ種の生産が始められるようになった。 ほか、1870年以降は原産のが栽培されている。 リベリカ種は気候への順応力は高いが病気に弱く、栽培される地域はリベリア、、など一部の国に留まり、出荷される地域も限られている。 1870年代にが流行した時にアラビカ種に代わる品種としてリベリカ種に注目が集まったが、さび病に弱く生産性も低いため、普及には至らなかった。 20世紀以降 [ ] ベトナムのコーヒー・プランテーション エチオピアと近接する、には長らくコーヒーが伝播していなかったが、にカトリックの宣教師によってレユニオン島のコーヒーがもたらされる。 1900年代にで、イタリア人、イギリス人、ドイツ人がコーヒーの栽培を始めるべく定住し、1909年にはキリマンジャロの南の斜面に28のプランテーションが存在していた。 ドイツ政府はキリマンジャロの低地がコーヒー栽培に適していると考えて自国民の農地として確保し、残った高地を現地に居住するの農地として割り当てたが、政府の計算に反して良質のコーヒーは高地で産出された。 コーヒーがケニア経済の中心となると栽培法や病害虫の対策の研究が進み、ケニアのコーヒー栽培は急速に発展した。 キリマンジャロでは現地の人間がコーヒーの栽培・販売に携わり、ヨーロッパ人が助言者として協力する体制が出来上がり、両者が共同で経営するコーヒーの加工工場が建てられた。 エチオピアを除くアフリカ諸国では、自国で栽培されるコーヒーのほとんどは輸出され、国内消費量は少なくなっている。 アフリカの発展途上国からヨーロッパの消費国にコーヒーが流れていく構図から、コーヒーは歴史的な植民地体制に基づく生産物にも例えられている。 アフリカの植民地が独立した後も、ヨーロッパ各国はかつての自国の植民地で生産されるコーヒー豆を好んで消費する傾向がある。 にはスペインの聖職者によってにコーヒーが伝えられたが 、19世紀末のの大流行の後は大規模栽培は行われなくなる。 にフランスの植民地とされたベトナムでコーヒーが導入され、栽培されたコーヒーは主に現地のフランス人社会で消費された。 1990年代からベトナムでのロブスタ種のコーヒーの生産量が大幅に増加し、1999年までにブラジルに次ぐ世界第2位のコーヒー生産国となった。 中国の保山には、タバコ栽培からコーヒー栽培に転作した農家が現れた。 日本においては、沖縄 、小笠原諸島 で生産・販売されている。 にのによって、ジャワ島で入手した苗をで栽培を試みたのが最初とされる。 しかし、病害虫が流行し、また経済性でサトウキビ栽培に及ばないため、コーヒー栽培は中止される。 小笠原でのコーヒー栽培を提唱したの息子である田中節太郎は、でコーヒーの栽培を開始した。 昭和初期にでコーヒー栽培が試みられたがさび病によって成功せず、第二次世界大戦後にで行われたコーヒー栽培は台風の被害と収穫量の少なさに起因する利益の低さより、栽培は中止された。 年表 [ ]• - がコーヒー豆を原料とする飲料「バンカム」の記述を残す• 頃 - 焙煎されたコーヒー豆で飲み物が淹れられるようになる• - でコーヒー弾圧事件が起きる• 1550年代 - にコーヒーを供する店が開店する• 初頭 - イスラーム法でコーヒーが公式に認可された飲み物となる• 頃 - ローマ教皇によってコーヒーにが施される• - イスラーム教徒がメッカ巡礼の帰途イエメンから苗をに持ち帰えり、インドにてコーヒー栽培が始まる。 - にが開店する• - にコーヒー・ハウスが開店する• - によって、とでコーヒーの栽培が試みられる• - に面会したオスマン帝国の使節を介してでコーヒーが流行する• - にフランス最初のコーヒー・ハウスが開店する• - パリにコーヒー・ハウスが開店する• - 「ロンドンの家庭の主婦」による、コーヒーに対する抗議文の発表• - オランダによってにイエメンから取り寄せたコーヒーの木が移植される• - にコーヒー・ハウスが開店する• 頃 - にコーヒーが伝来する• - ヨーロッパに初めてジャワ産のコーヒーがもたらされる• - フランス領でコーヒーの栽培が開始される• - オランダ領でコーヒーの栽培が開始される• - にコーヒー・ハウスが開店する• - にコーヒーが移植される• - イギリス領にマルティニーク島のコーヒーが移植される• - でコーヒーの栽培が開始される• -頃 - でコーヒーの栽培が開始される• - によるコーヒー禁止令• 頃 - ドゥ・ベロワによるドリップ・ポッドの改良• 1800年頃 - パリでが発明される• - の原型となるダブル・グラス・バルーンが発明される• 1870年代 - セイロン島、東南アジアでが流行し、コーヒー産業が大打撃を受ける• 以降 - の栽培が開始される• - 日本で初めてコーヒーの栽培が試みられる()• - 日本初の本格的なコーヒーを供する飲食店・可否茶館が開店する• - ・にコーヒーが伝わる• - 領でが「発見」される• 1900年代 - でコーヒーの栽培が開始される• - パンアメリカン博覧会にが出展される• - の開発• - の販売が開始される• - が発明される 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 当時のロンドンの人口が約600,000人であったことを理由として、3,000軒という数の信憑性を疑問視する意見が存在する(スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、153頁)• 「ロンドンの家庭の主婦」による声明文は実際に女性によって書かれたものではなく、コーヒー・ハウスに出入りする文筆家やコーヒーの普及に脅かされるアルコール業界の要請を受けた人物によるものだと考えられている。 (臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、82頁)• しかし、「丸山艶文」で言及される「なんばんちゃ」はコーヒーではなく、だと考えられている。 (奥山『コーヒーの歴史』、35-37頁)• 昭和30年代まで放香堂ではコーヒーが取り扱われていたが、その後販売されていない(神戸山手大学環境文化研究所『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』、11頁) 出典 [ ]• ワイルド『コーヒーの真実』、53頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、8頁• ワイルド『コーヒーの真実』、54頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、11頁• ALL ABOUT COFFEE• ワイルド『コーヒーの真実』、51頁• ワイルド『コーヒーの真実』、37頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、38-40頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、40-41頁• ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』、19頁• 河野『水・飲料』、159-160頁• 河野『水・飲料』、160頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、13頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、13-14頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、9頁• ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』、107-108頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、17-23頁• ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』、27頁• 河野『水・飲料』、160頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、15-16頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、15頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、26-27頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、27-29頁• ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』、47-51頁• スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、148頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、29頁• スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、148-149頁• ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』、53頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、27,30頁• ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』、9頁• ワイルド『コーヒーの真実』、62頁• ワイルド『コーヒーの真実』、60-61頁• 奥山『コーヒーの歴史』、7-8頁• 鈴木『トルコ』、266頁• ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』、114-115頁• ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』、111頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、22頁• 鈴木『トルコ』、266,268頁• ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』、117頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、32,36-37頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、23頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、50-51頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、30頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、34頁• ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』、123-124頁• ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』、119頁• 奥山『コーヒーの歴史』、7頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、144頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、37頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、41頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、43-45頁• 『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、36頁• 鈴木『トルコ』、278頁• ジョセフ・ウェクスバーグ『オーストリア ハンガリー料理』(タイムライフブックス, 1978年)、153-154頁• 過去のおまけ&おすすめ. 神田珈琲園 神田北口店 2013年2月. 2019年10月9日閲覧。 ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、32-33頁• ワイルド『コーヒーの真実』、107頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、121,128頁• スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、150-151頁• UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、41頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、33頁• スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、151頁• 奥山『コーヒーの歴史』、15-16頁• スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、144頁• スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、144-145頁• ワイルド『コーヒーの真実』、96-97頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、144-145頁• 奥山『コーヒーの歴史』、16-17頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、39頁• ワイルド『コーヒーの真実』、97頁• 奥山『コーヒーの歴史』、17頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、58頁• スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、152頁• ワイルド『コーヒーの真実』、99頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、49頁• スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、153頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、59-60頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、41-42頁• ワイルド『コーヒーの真実』、99-100頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、42頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、59-60,77頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、78,86-87頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、98-99頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、20頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、34頁• ワイルド『コーヒーの真実』、66頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、100-101頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、104-105頁• ワイルド『コーヒーの真実』、69-71頁• UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、50頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、36頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、139-142頁• ドールマン『ヨーロッパのカフェ文化』、97頁• ワイルド『コーヒーの真実』、71-72頁• ワイルド『コーヒーの真実』、71-72頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、139頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、142頁• ドールマン『ヨーロッパのカフェ文化』、139-140頁• ドールマン『ヨーロッパのカフェ文化』、145頁• ドールマン『ヨーロッパのカフェ文化』、144-145頁• 南『ドイツ』、125,127頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、36頁• 南『ドイツ』、127頁• 南『ドイツ』、128-132頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、37頁• 南『ドイツ』、133頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、154頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、149-152頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、150頁• ワイルド『コーヒーの真実』、152-153頁• ドールマン『ヨーロッパのカフェ文化』、16-19頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、34頁• ドールマン『ヨーロッパのカフェ文化』、11,13-14頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、161頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、162頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、38-39頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、41-42頁• ワイルド『コーヒーの真実』、137,141,145頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、221頁• 『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、38-39頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、223頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、84-85頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、226-227頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、48頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、145頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、45-46頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、46-47頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、89頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、84,90頁• ワイルド『コーヒーの真実』、207-208頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、244-245頁• UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、64頁• UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、64,162頁• ワイルド『コーヒーの真実』、210-211頁• 『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、42-43頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、137頁• 『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、43頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、138-142頁• 全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、12-13頁• 奥山『コーヒーの歴史』、41,55頁• 全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、30-32頁• 奥山『コーヒーの歴史』、75,79-80頁• 全日コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、40-44頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、164頁• 神戸山手大学環境文化研究所『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』、13頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、178-185頁• 奥山『コーヒーの歴史』、132-133頁• 全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、86-87頁• 「弘前 藩士の珈琲」『』NIKKEI The STYLE(朝刊2017年12月24日)• 全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、97-98頁• 敬学堂主人、『西洋料理指南』下p37左-p38左、1872年、東京、東京書林雁金屋• 『日本経済新聞』夕刊2018年8月17日(社会・スポーツ面)2018年9月5日閲覧。 全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、86-87頁• 1878年(明治11年)生まれの物理学者は、幼少期に「おくすり」として牛乳を飲まされた際、この臭気消しのコーヒーに魅了される。 随筆「珈琲哲学序説」(1933年 )。 ここには、明治中期のコーヒー糖と称する一種のも出てくる(「」にも登場)。 奥山『コーヒーの歴史』、173頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、199頁• 神戸山手大学環境文化研究所『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』、8頁• 神戸山手大学環境文化研究所『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』、8-10頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、206-207頁• 奥山『コーヒーの歴史』、199頁• 全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、192-194頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、207-209頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、229,233頁• 全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、254,264頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、235頁• 田口『田口護の珈琲大全』、51頁• UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、145頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、118頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、9頁• 田口『田口護の珈琲大全』、18-19頁• ワイルド『コーヒーの真実』、42,81頁• ワイルド『コーヒーの真実』、80頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、9頁• ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』、28頁• ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、67頁• ワイルド『コーヒーの真実』、81-82頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、32頁• コーヒー物語. 自家焙煎珈琲 まめ蔵. 2019年10月9日閲覧。 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、183-185頁• 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小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、126-127頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、143,150頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、169頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、171頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、172-173頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、173頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、177頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、192頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、65-67頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、68頁• 全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、191頁• ワイルド『コーヒーの真実』、32,36頁• ワイルド『コーヒーの真実』、32頁• ワイルド『コーヒーの真実』、33頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、106-107頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、107頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、324頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、114頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、60頁• 田口『田口護の珈琲大全』、9頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、80頁• ブラマー『紅茶・珈琲誌』、145頁• 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、182頁• ブラマー『紅茶・珈琲誌』、146頁• ブラマー『紅茶・珈琲誌』、146-147頁• ブラマー『紅茶・珈琲誌』、151頁• 『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、43頁• ワイルド『コーヒーの真実』、241頁• ワイルド『コーヒーの真実』、241-242頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、56頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、110頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、109-110頁• 田口『田口護の珈琲大全』、9頁• 奥山『コーヒーの歴史』、207-209頁• 全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、108-109頁• 伊藤『コーヒー博物誌』、214頁• 全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、110-111頁• 奥山『コーヒーの歴史』、208-209頁• ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、38頁• UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、133頁• 小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、78頁 参考文献 [ ]• 阿部健一「コーヒー」『新版 東南アジアを知る事典』収録(平凡社, 2008年6月)• 『コーヒー博物誌』(八坂書房, 2001年10月)• 臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』(中公新書, 中央公論社, 1992年10月)• 『コーヒーの歴史』(紀伊国屋書店, 1965年)• 小澤卓也『コーヒーのグローバル・ヒストリー』(ミネルヴァ書房, 2010年2月)• 河野友美編『水・飲料』(新・食品事典11, 真珠書院, 1992年10月)• 神戸山手大学環境文化研究所編『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』(神戸新聞総合出版センター, 2003年12月)• 鈴木董『トルコ』(世界の食文化, 農山漁村文化協会, 2003年10月)• 全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』(全日本コーヒー商工組合連合会, 1980年3月)• 田口護『田口護の珈琲大全』(日本放送出版協会, 2003年11月)• 沼野充義、沼野恭子『ロシア』(世界の食文化19, 農山漁村文化協会, 2006年3月)• 平井京之介「タイのコーヒー、ラオスのコーヒー」『嗜好品の文化人類学』収録(高田公理、栗田靖之、CDI編, 講談社選書メチエ, 講談社, 2004年4月)• 南直人『ドイツ』(世界の食文化, 農山漁村文化協会, 2003年10月)• UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版(ミニ博物館, 東洋経済新報社, 1993年7月)• ブラマー『紅茶・珈琲誌』(梅田晴夫訳, 東京書房社, 1974年8月)• ブロックウェイ『グリーンウェポン 植物資源による世界制覇』(小出五郎訳、社会思想社, 1983年5月)• クラウス・ティーレ=ドールマン『ヨーロッパのカフェ文化』(平田達治、友田和秀訳, 大修館書店, 2000年5月)• ラルフ. ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』(斎藤富美子、田村愛理訳, 同文館出版, 1993年7月)• マーク・ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』(樋口幸子訳, 河出書房新社, 2002年12月)• トム・スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』(新井崇嗣訳, インターシフト, 2007年3月)• ベネット・アラン・ワインバーグ、ボニー. ビーラー『カフェイン大全』(別宮貞徳監訳, 真崎美恵子、亀田幸子、西谷清、岩淵行雄、高田学訳, 八坂書房, 2006年2月)• アントニー・ワイルド『コーヒーの真実』(三角和代訳, 白揚社, 2007年5月)• 『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3(石毛直道他監訳, 朝倉書店, 2005年9月) 関連項目 [ ]•
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コーヒー豆の賞味期限は、焙煎度や焙煎方法によっても変わるため、一概にこの期間と明言できません。 ですが、ほとんどの場合、約1ヶ月から1年の間であると考えて良いでしょう。 袋などに賞味期限の記載がある場合は、ギリギリまで置いておかずに記載されている日付よりも早く飲むことが望ましいです。 もし記載がない場合は、購入してから1ヶ月以内に飲み切るようにすると味の劣化を感じにくいでしょう。 覚えておきたいのは、コーヒーは焙煎直後から状態が変化していくということ。 これは、どのコーヒー豆にも共通して言えることです。 そのため、未開封だからと長期間放置せず、飲み切れる量を定期的に小まめに買う方が、新鮮で美味しいコーヒーを楽しめるでしょう。 冷蔵庫や冷凍庫で保存すると長持ちすると聞いたことがある方もいるのではないでしょうか。 基本的に、1週間程度で飲み切るのであればコーヒー豆は常温保存をしても全く問題はありません。 飲み切るのにそれ以上かかりそうな場合は、冷凍保存をすると良いでしょう。 ただし、冷凍保存をする際にも注意点があります。 冷凍庫内の臭い移りや湿気の影響を受けてしまう恐れがあるので、保存する際はしっかりと密閉できる容器に入れるようにしましょう。 また、再度使用する場合にも注意点があります。 冷凍庫から出してすぐに開封してしまうと湿気が吸着しやすいだけではなく、冷たいままでコーヒー豆を使用すると、抽出温度が下がってしまいます。 そのため、冷凍庫から出したコーヒー豆を使用する際は、時間を置いて常温に戻してから開封するようにしましょう。 コーヒー豆を保存する容器にも注目してみましょう。 瓶やプラスチック容器は、密閉性の高さが特徴的。 ただし遮光性はないため、保存は紫外線が当たらない場所にしましょう。 コーヒーを取り扱うお店でも使用されることが多いアルミ製のチャック付きバッグは、密閉性にも遮光性にも優れています。 ただし、薄いものは引っ掛けて破れたり穴が開いたりしまう恐れがあるので、取り扱いには注意が必要です。 缶の容器は遮光性には優れているのですが温度変化や湿気の影響を受けやすい傾向にあります。 長めに保存する際には、避けた方が無難と言えるでしょう。 ご家庭にあることも多いチャック付きの透明バッグは、透明であるため遮光性はありません。 ですが、中の状態が見えるため冷凍保存には適しています。 容器それぞれに特徴があるので、保存期間やコーヒー豆の量に合わせて最適なものを選んでみてくださいね。
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— 2017 6月 26 12:16午前 PDT 今回はそんなコーヒーの賞味期限は、コーヒー豆の状態、コーヒー粉の状態、インスタントコーヒー、缶コーヒーなどでどれくらいが目安なのか、長持ちさせるにはどうすれば良いかなどについて書いて行こうと思います。 参照記事 コーヒー豆の状態での賞味期限 焙煎した後のコーヒー豆の賞味期限ですが、これはコーヒー豆の製造メーカーによってかなり期間に幅があります。 あるコーヒー豆の製造メーカーは1ヶ月くらいで賞味期限を設定していますし、他のところは1年くらいで設定しているところもあります。 この期間の差は「賞味期限」という言葉の定義からきています。 世の中には消費期限と賞味期限があります。 消費期限は食べることができなくなる期間であり、賞味期限は美味しく食べることができる期間です。 そのためにあるコーヒーメーカーは焙煎してから1ヶ月以内が美味しいと考えて消費期限を1ヶ月に設定していますし、他のコーヒーメーカーは1年くらいはまあ美味しいだろうと考えて賞味期限を1年くらいで設定しています。 美味しいと感じる範囲が曖昧なので、一概にはコーヒー豆の状態での賞味期限を言うことが難しいのですが、あくまで目安として袋から未開封の場合には1年くらいで、袋から開封後は1ヶ月〜3ヶ月くらいをみると良いです。 コーヒー粉の状態での賞味期限 コーヒー豆を挽いて粉の状態にするとコーヒー粉が空気に触れる面積がコーヒー豆の状態よりも多くなるので、コーヒー豆の状態よりも劣化が早まってしまいます。 そのために可能であればコーヒーを豆の状態で購入して、コーヒーを作る都度にコーヒー豆を挽いた方が良いです。 そうは言ってもわざわざ毎回コーヒーを挽くのは面倒だと言う場合には、買った段階でコーヒー粉状に挽いてもらうこともあると思います。 コーヒー粉の状態の賞味期限の目安は袋から未開封の場合には1年くらいで、袋から開封後は2週間〜1ヶ月くらいをみると良いです。 インスタントコーヒーの賞味期限 コーヒー豆を自分からハンドドリップするのではなくて、インスタントコーヒーで楽にサクッと作りたいこともあるかと思いまし。 インスタントコーヒーの賞味期限はコーヒー豆などよりも長いのが特徴です。 インスタントコーヒーの賞味期限の目安は袋から未開封の場合には3年くらいで、袋から開封後は1ヶ月くらいをみると良いです。 — 2017 6月 21 12:27午前 PDT 缶コーヒーの賞味期限 インスタントコーヒーよりもさらにサクッとコーヒーを飲みたい場合には缶コーヒーを自動販売機やコンビニで買うこともあるかと思います。 缶コーヒーの賞味期限の目安は、缶コーヒーを未開封の場合には1年〜3年くらいがひとつの目安になるかと思います。 しかし、実際には缶コーヒーは表記の賞味期限よりも長持ちすることが多く、実際には多少は期限が超えていても飲むことができるようです。 マグカップに入れた後のコーヒーの賞味期限 コーヒーを抽出してマグカップに入れた後のコーヒーの賞味期限はもっとも短いです。 ホットコーヒーなのかアイスコーヒーなのかで賞味期限も異なってきます。 ホットコーヒーの場合の賞味期限の目安は30分〜1時間くらいです。 質の良いコーヒーは多少冷めてからでも美味しく飲むことができますが、質の悪いコーヒーは冷めると一気に味が悪くなって飲めなくなります。 アイスコーヒーの場合にはマグカップや魔法瓶などに移して保存した場合には1日近く味を持たせることができます。 賞味期限の切れたコーヒーを飲むとどうなるか コーヒー豆は焙煎する過程で水分がほとんど飛ぶので、時間がたっても腐りません。 しかし、コーヒー豆には油分が含まれており、時間とともに酸化が進んでいきます。 酸化した油分は健康によくなく、場合によっては下痢などの症状が出ることがあります。 なので、賞味期限が切れたコーヒー豆は無理に飲みすぎない方が無難です。 — 2017 6月 21 5:55午前 PDT 賞味期限が切れたコーヒー豆の活用方法 コーヒー豆を保管しているとついうっかり賞味期限が切れてしまうことがあると思います。 一回しか飲んでいなくてほとんど残っているから非常にもったいなく感じて何か良い活用方法はないものかと思うこともあると思います。 その場合にはコーヒー豆カスを再活用する方法と同じように、消臭や脱臭に活用したり、肥料として活用したり、猫よけに活用したりすることができます。 賞味期限が切れて飲めなくなったコーヒーも再活用することで有効に活用することができます。 参照記事 どうすればコーヒー豆を長期間保存できるのか コーヒー豆の賞味期限はどれもだいたい同じくらいなのですが、適切な保管方法をしているかどうかでも変わってきます。 コーヒー豆は「湿気」「空気」「温度」「光」の4つに弱いのでコーヒー豆を保管するにはこの4つをうまく避ける必要があります。 なので、できるだけ密閉されたコーヒー豆の袋で冷凍庫に入れて保管するのがオススメです。 このようにコーヒーは鮮度が大切であり、賞味期限もざっくりと決められています。 適切な保管方法でできるだけ美味しいコーヒーを飲みましょう。 参照記事 カテゴリー:.
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