関西 六 大学 野球 日程。 平成31年春季リーグ | 試合日程・結果 | 関西六大学野球連盟

【関西六大学野球4月6日開幕】昨秋5季ぶりV京産大、充実した戦力誇る大商大― スポニチ Sponichi Annex 野球

関西 六 大学 野球 日程

概略 [ ] 関西地域の大学野球の歴史は、大別すると前の旧制大学時代に有力校が集まって結成された関西六大学野球連盟(旧関西六大学)とそこに加わらなかったその他の大学群の二つに分けられるが、実力と知名度において際立った存在であった旧連盟としての関西六大学野球リーグをめぐって、関西の学生野球界は他の地域と比較しても連盟の合従連衡が複雑に行われた。 さらに一般的には一口に旧連盟とされる時期においてもその内容は、• 創設期から約30年間は文字通り特定の6大学のみによる固定制のリーグ構成の時期• 1962年以降の後半期、他の大学野球連盟群()との間に入れ替え戦を導入し共存形態を採った(の結成)事により、構成校が入れ替わる時期 とに大別される。 戦前~戦中 [ ] 関西の学生野球は、関西地域の中で各都市地域ごとに結成されたそれぞれの連盟が母体となっている。 、京都大学専門学校野球連盟からが独立し、、 、、、の5大学で 京都五大学野球連盟を設立する。 一方、阪神地区でも同じく1928年に(1932年からに関西学院大)、、(1931年から大阪帝国大医学部)、、(1933年から大阪帝国大工学部)、神戸高等商業学校(1929年から)、(1949年に新制の神戸大工学部)の7校のとによってを発足。 (現存のとは同名であるが全く無関係) 1929年には京都帝国大学と、の3校対抗戦が開始され、には京都五大学野球連盟から離脱した立命館大学が3校対抗戦へ加わる形で 関西四大学野球連盟(関西大学、京都帝国大学、同志社大学、立命館大学)を設立した。 、の隆盛を見た関係者が関西にも東京六大学野球に対抗できうる実力を持った野球連盟を立ち上げようと動き、当時の関西学生連盟の有力校であった(当時は)とが関西四大学野球連盟へ加盟する形で再編(神戸商業大学は移籍。 関西学院は1933年中までは関西学生連盟との重複加盟。 )が行われ、 関西六校野球連盟(関西学院の大学への昇格を待って翌年から 関西六大学野球連盟に改称。 以後、 旧関六)が発足し秋季からリーグ戦が開始された。 このように戦前の学生野球は、がに昇格する過渡期だったこともあり、前述の京都の例にもあるようにと、などが複雑に混在した状態で運営されていた。 従って前述以外にも幾つかの専門学校や大学が加盟する学生野球連盟が存在したと思われるが、後世の大学野球連盟に繋がるものとしては、 関西六大学野球連盟(旧連盟)と 関西学生野球連盟(旧連盟)と京都五大学野球連盟の三本柱を中心に推移していく。 関東では既にが大学野球の目玉カードとして定着していた頃、関西でもとが看板カードとして定着しており、この2つの対戦カードを総称して後にという用語が一般化していった。 なお、戦前・戦中の当時は大学野球界を全国的に統一する組織が存在せず、現在より加盟規定が曖昧だったことから、関西学院の例にある様に、基本的には(当該連盟が特に禁止しなかった場合を除き)複数連盟への重複所属は全く差支えがない状態であった。 終戦後~入れ替え戦導入(連合結成)前 [ ] 戦時命令により一時中断していた各大学野球リーグは、終戦により1946年春から順次活動を再開していたが、には大学野球の最優秀チームを決めようという気運が盛り上がり、旧関六は、とともにを結成し、この組織の下で大学野球王座決定戦を実施した。 また、この同年、に伴う全国組織としての 新制大学野球連盟が各種の旧制学生野球連盟(「日本高等学校野球連盟」「日本専門学校野球連盟」「日本師範学校野球連盟」)を改組・再編する形で発足した。 これらの一連の動きの中で、1947年には旧関西学生連盟の加盟校中2校が中心になり大阪三大学野球連盟として再スタートを切り、には新制大学3校を迎え 近畿六大学野球連盟として再発足し全国新制大学野球連盟の傘下の団体となった。 また京都地区においても京都五大学野球連盟がその後に有力校を中心とした加盟脱退が相次ぎ、にはの呼びかけで新たに 京都六大学野球連盟が設立される。 、が新制大学野球連盟を吸収して、大学野球の統一組織であるが結成された。 この組織の成立に伴い、旧関六・近畿・京滋の3連盟もともに全日本連盟傘下として活動することとなる。 ただし、結成時の経緯から旧関六は旧制大学組として扱われ、他の2連盟は新制大学連盟の近畿地区内の一連盟という扱いであった。 従ってへは、旧関六は優勝校がそのまま出場できる権利がある一方、近畿・京滋の2連盟については地区連盟としてまとめられ、出場枠は合わせて1つとされた。 には近畿地区内での3番目の連盟として、、が中心となって 阪神大学野球連盟が発足。 には京都六大学野球連盟にが加盟したのを機にへ改称している。 入れ替え戦の導入(連合の結成) [ ] 頃、当時、既に近畿地区大学野球連盟からの代表校の常連として台頭していた(当時はに所属)が中心となって、たびたび旧関西六大学野球連盟に近畿地区との合併の申し入れを行なっており、関西地区の全大学で統一リーグを編成(最初は近畿大学野球連盟との合併策だったが、後に近畿地区全体としての合併案に変更)し東京六大学や東都に実力で対抗していこうという動きが表面化してきていた。 関西大学対関西学院大学の関関戦や同志社大学対立命館大学の同立戦を抱え、人気の面で近畿のその他大学野球連盟に大きく水を空けていた旧関六サイドは当初この動きに難色を示した。 しかし後にこれが高校野球関係者まで巻き込んだ近畿圏のアマチュア野球界全体の運動となったため、それまで幾度と無く難色を示して拒否し続けてきた旧関六サイドも、1962年には旧関六を頂点として近畿地区の3連盟を並列に下部として置く形での入れ替え戦を導入する再編に同意、ここにが設立された。 それに伴い、同年をもって近畿地区としての全国大会出場枠は発展的な解消をむかえて消滅した。 全国の大学野球の歴史を振り返っても、地域を統合する地区連盟からの順次分離独立が通常の流れとなっているが、少なくともこのような統一での再編成は全日本大学野球連盟発足後では唯一の動きである。 実質的には関西地区として一リーグ化でもあったが、全組織の解体再編成ではなく、それぞれの連盟組織を維持したままで、入れ替え戦で結合された緩い連合体であったことも極めて特徴的であったわけであるが、この連合形態が後の入れ替え戦廃止と再編成を行なう際に、複雑な思惑の交差として影響を落することになる。 (後述参照) 連合時代 [ ] 通常の大学野球では上部リーグと下部リーグの間の入れ替え戦は上部リーグの最下位チームと下部リーグの優勝チームの間で行われている。 しかし、関西大学野球連合では、近畿・阪神・京滋の3連盟 以下、下部3連盟 はその成り立ちから並列扱いで、上部団体として関西六大学野球連盟(以下、上部関六)を共有するというスタイルを取っていたため、上部関六と下部3連盟の入れ替え戦は以下のような特殊な形態で行われた。 各連盟が独立してリーグ戦を実施• 順位確定後に下部3連盟の優勝校同士が対戦し、入れ替え戦出場校を決定する• 上部関六の最下位校と入れ替え戦出場校が対戦する• この対戦で勝利したチームが次シーズンの上部関六の所属権を得る。 降格チームが生じた場合は、当該チームの希望する下部連盟へ移籍となる。 このように単純に入れ替わるシステムは採らなかった為、この入れ替え戦の結果次第では、降格チームの移籍により、次シーズンの構成校が1校増となる連盟が生じる。 そのような場合は、当該下部連盟は全体のチーム構成を調整する必要に迫られるため、当該下部連盟内部での入れ替え戦で勝利しても昇格できない、あるいは結果に因らずに降格を強いられる最下位チームが生じることになり、このシステム下では、下部3連盟は少々やっかいな運営を強いられた。 実力本位の関西大学野球連合では伝統校というだけの看板は意味をなさず、連合結成直後に神戸大学が、次に京都大学が下部連盟へ転落した。 さらに伝統校の一角である関西学院大学や立命館大学もたびたび下部へ転落し、東京六大学野球の早慶戦に匹敵する人気と伝統を持つ関関戦や同立戦が実施できないという状況がしばしば発生していた。 また連合設立以後は、前述したようにそれまであった近畿地区としてのの出場枠は消滅したわけであるが、上部関六への昇格の困難さもあって不満を募らせる加盟校も出てきた。 こうした状況が年数を経るに連れて大きくなっていき、運営上の大きな問題となっていく。 入れ替え戦の中止(連合の解体) [ ] 入れ替え戦の中止という話が正式に浮上したのは、も暮れた頃のことである。 前年に関西学院大学が久々に上部関六に昇格し、久々に関関同立の伝統校カルテットが揃い関係者を大いに喜ばせたが、それもつかの間、わずか2シーズンで、今度は立命館大学が下部に転落してしまった。 関係者は大いに困惑し大きな決断をするに至った。 これまでの連合を解体し入れ替え戦は廃止。 上部関六を再び固定制に戻すことであった。 下部も含めて連合の加盟大学はそれぞれに不満を抱えていたため、連合を解体するということで方向性の一致は見たもののどのように再編するかで大学間の協議の結果がなかなかまとまらなかった。 これは伝統と人気があり、関西学生スポーツ界でも注目度の高い「関西六大学」、とりわけ関関同立と一緒の連盟に入ることを希望する大学が多かったためである。 なお当時の状況は概ね以下の2通りであった。 入れ替え戦の中止に伴い、以後の新しい関六の構成校は、現在(当時)の関六所属校(関西大学、関西学院大学、同志社大学、近畿大学、、)に拘らない厳選した6校にする。 (支持:関西大学、関西学院大学、近畿大学)• あくまで新しい固定リーグは現所属校(当時)を母体に(関関同立を揃えたいのなら)7校又は8校で新リーグを構成すべき。 (支持:大阪商業大学、京都産業大学、同志社大学、および連盟理事局) しかし事態は紛糾し、歩み寄りが全く見られない状況に業を煮やした関西大学と関西学院大学、近畿大学は関六からの離脱を宣言し新連盟の設立を呼びかけた。 またこの段階において当時の連盟理事長は現関六の維持を断念し連盟解散を宣言した。 この解散宣言により、当初は脱退という強硬論に難色を示していた同志社大学が後に新連盟に呼応し参加を表明。 更にその後、その時点では下部の京滋連盟に降格が決定していたため静観していた立命館大学と、同じく当時は京滋連盟所属の京都大学が招聘に応じて参加することとなり、ここに正式に新連盟(この時点では新関六)の発足が決定された。 なお、当時、関西大学野球連合の最上部である関西六大学野球連盟(旧関六)のルール決定方法は、採決時の構成6大学の投票により4票(つまり4大学)の賛成をもって決定される方法を採っていた。 入れ替え戦の中止およびそれに伴う連合の解体は比較的容易に4票以上の賛成を得て決定されたが、連合解体以後の構成校をめぐって紛糾するに至り、当時の六大学リーグを解散、そしてその後に改めて新リーグを結成するにあたっては、関関同立が構成の中心になるリーグ結成を目指す関大、関学大、同大は賛成、一方の前述の新リーグ構想からは漏れることが徐々に自他ともに明白になりつつあった大商大、京産大は反対に回ることが採決前から予想された。 解散賛成グループは可決に必須なもう一票を獲得するために新リーグへの参加確約を条件に採決時に解散に賛同する交渉を近大との間で水面下で行った。 その結果、現在に至る帰結となった。 一方、残されてしまった形の大商大と京産大は、いわゆる関関同立を中心とする新連盟への参加が不可能になった段階に至り、「関六は解散しておらず、単に4大学が自らの意思で脱退しただけであり、脱退せずに残った大学で連盟の運営を維持する」とし 関六への残留を表明。 そのリーグ構成を補完・維持する為に、かつて関西六大学に昇格経験のあった龍谷大学、、、を招聘し、こちらも新しい 関西六大学野球連盟(以下、新関六)を発表した。 以上の様な経緯から、新連盟側は伝統ある 関西六大学野球連盟の名称の使用は断念し、やむを得ず 関西学生野球連盟(戦前に存在した旧関西学生とは無関係)を名乗り「名を捨て実を取る」こととなった。 尚、かつて旧関六の創設メンバーでもあった神戸大学は、この再編成騒動の過程(再編成が収束方向に向かう前段階)で、新関六と新連盟(関西学生)結成グループの双方から参加打診を受たが、幾つかの思惑が交錯する争いの中で結果的に当時所属していたへの所属をそのまま継続することを表明した。 また、この一連の騒動の中、近畿・阪神・京滋の下部3連盟は、新関六の発足に伴った新関六側からの連合の『再結成と維持継続』の呼びかけ(上部関六との入れ替え戦え戦廃止の発表と同時に連合の解散も表明されていた為、既に連合は解散済みというのが共通認識だった。 )に対して、迫る春季リーグ戦の準備などのタイミング的な都合を理由に一時保留。 その後の時間的経過の中で、連合の再結成という話題はうやむやになり、結果的にはなし崩し的に下部連盟という立場から脱却し、新関西学生や新関六も含めて、それぞれが対等な立場として独立する形となっていった。 このようにして、以後は5つの連盟が併存する状況となり、その扱いも全てについて"5連盟は平等に"という認識が固まって(伝統校や有力校が所属している連盟という観念的な立場は "主張し難い"、又は "認められない" という状況となって)現在に至っている。 記録の扱い [ ] 5つの連盟が併存することが決定したあと、連合設立前と連合時代の関西六大学野球の記録と歴史に関しては、関西学生と新関六が共有することとなったため、双方が記録と歴史の継承権を持っていることになっている。 また、連合時代に下部リーグ扱いであった近畿・阪神・京滋の3連盟についても、連合時代にそれぞれの運営で行われていた試合の記録と歴史はそれぞれが継承している。 尚、現在においては関西学生と関西六大学それぞれの加盟校で連合時代に下部連盟へ降格していた時代の記録は、それぞれの当時の所属連盟の記録として管理されている。 そのため、関西の学生野球を記録で追いかける場合、様々な大学が入り乱れて登場し一見して混乱するが、これは前述のような複雑な統廃合の歴史の経緯があるためである。 、、、関西学院高商部(の前身)、(後の薬学部)、、大阪高等商業学校(1928年から・の前身)、大阪歯科医学専門学校(の前身)の8校により が結成。 後構成校の加盟脱退が繰り返され京都帝国大学、、大阪高等医学専門学校(の前身)なども参加した時期もあったが、加盟脱退の変遷の後にいつしか消滅。 (詳細不明)• 旧制の府立(1931年から大阪帝国大医学部)、神戸高等商業学校(1929年から・現在のの前身のひとつ)、大阪高等工業学校(1929年から)で 官立三校野球連盟を発足。 官立三校野球連盟に大阪外国語学校(後の・現在の大阪大学外国語学部の前身)が加盟し 官立四校野球連盟に改称• 関西六校野球連盟に(1949年から新制の神戸大学工学部)が加盟し と改称。 京都地区では京都大学専門学校野球連盟からが独立し、、、、、の5大学で 京都五大学野球連盟を設立。 ・・の 三大学対抗戦開始• 三大学対抗戦に京都五大学から脱退したを加えて 関西四大学野球連盟が発足。 同年3月の関西学院の旧制大学昇格により、関西六校野球連盟を 関西六大学野球連盟(旧連盟)と改称。 秋季を最後に関西学院大学が関西学生野球連盟(旧連盟)から脱退。 (重複加盟の解消)• 同年春を最後に、戦時命令により全国の全ての野球競技活動が禁止される。 戦後~連合結成前 [ ]• 関西六大学野球(旧連盟)が再開。 が実施される。 旧関西学生野球連盟の構成校を中心とした大阪大学、大阪商科大学、大阪理工科大学(大阪専門学校の系列校・現在のの前身のひとつ)が、後のの母体となる 大阪三大学野球連盟としてリーグ戦を再開。 全国大学野球連盟(東京六大学、東都大学、旧関西六大学)と全国新制大学野球連盟がそれぞれ発足し、大阪三大学野球連盟は全国新制大学野球連盟の傘下連盟となる。 大阪三大学野球連盟に新加盟3校を加えて 近畿六大学野球連盟と改称• 京都学芸大学(後の)の呼びかけで 京都六大学野球連盟が発足。 近畿六大学野球連盟に新たに6校の加盟校が加わり1部2部制を導入し、 近畿大学野球連盟と改称。 全国大学野球連盟と全国新制大学野球連盟が合併しそれぞれが発展的解消。 第1回全日本大学野球選手権大会を開催。 全日本大学野球選手権大会の代表枠において近畿地区が独立。 近畿大学野球連盟と京都六大学野球連盟で 近畿地区大学野球連盟(以下、近畿地区)を編成。 近畿地区3番目の連盟として が発足• 京都六大学野球連盟が、の加盟に伴い に改称• 頃 近畿地区連盟と旧関西六大学連盟(以下、関六)との合併申し入れが近畿大学を中心にした運動として開始。 連合時代~解体 [ ]• 関六が近畿地区連盟配下の 京滋大学野球連盟(以下、京滋連盟)・ 近畿大学野球連盟(以下、近畿連盟)・ 阪神大学野球連盟(以下、阪神連盟)と合併し、その関六を最上部とする 関西大学野球連合が発足、入れ替え戦を導入。 同年春に近畿大学(近畿連盟)が関六に昇格し、入れ替わりに神戸大学が関六から近畿連盟降格。 同年秋に大阪商業大学(阪神連盟)が関六に昇格し、京都大学が京滋連盟に降格。 同年秋に関西大学が優勝するが、エースのプロ球団との契約が発覚し、規定違反で優勝取り消し。 また リーグ戦の1年間の出場停止の処分。 春季に大阪商業大学(阪神連盟)が関六に昇格し、立命館大学が京滋連盟に降格。 同年秋に立命館大学(京滋連盟)が上関六に昇格し、大阪商業大学が阪神連盟に降格。 春季に大阪商業大学(阪神連盟)が関六に昇格し、立命館大学が下部の京滋連盟に降格。 秋季に立命館大学(京滋連盟)が関六に昇格し、関西学院大学が近畿連盟に降格。 春季に関西学院大学(近畿連盟)が関六に昇格し、立命館大学が京滋連盟に降格。 秋季に大阪学院大学(阪神連盟)が関六に昇格し、大阪商業大学が阪神連盟に降格。 また同年秋に第1回明治神宮野球大会を実施。 関西大学が関西大学野球連合代表として出場。 秋季に大阪商業大学(阪神連盟)が関六に昇格し、龍谷大学が京滋連盟に降格。 春季に京都産業大学(京滋連盟)が関六に昇格し、関西学院大学が近畿連盟に降格。 春季に立命館大学(京滋連盟)が上部の関六に昇格し、京都産業大学が京滋連盟に降格。 秋季に神戸学院大学(下部阪神連盟)が関六に昇格し、大阪学院大学が阪神連盟に降格。 春季に大阪経済大学(近畿連盟)が関六に昇格し、神戸学院大学が阪神連盟に降格。 なお、大阪経済大学は初昇格の秋季には初昇格即初優勝するが、翌年春季には一転最下位となり、その後の入れ替え戦にも破れる。 春季に関西学院大学(近畿連盟)が関六に昇格し、大阪経済大学が近畿連盟に降格。 秋季に京都産業大学(京滋連盟)が関六に昇格し、立命館大学は京滋連盟に降格。 入れ替え戦廃止に伴い関西大学野球連合が解体。 関六から関西大学、関西学院大学、近畿大学が脱退。 これによるリーグ解散宣言により同志社大学も追従。 それまで下部であった京滋連盟の京都大学と立命館大学を招聘して新リーグを設立。 残った大阪商業大学と京都産業大学は、連盟維持を宣言し過去に関六に昇格経験のある大学の中から、それぞれ下部であった近畿連盟の大阪経済大学、京滋連盟の龍谷大学、阪神連盟の大阪学院大学と神戸学院大学を招聘し「 関西六大学野球連盟」の名称を冠したリーグの継承を宣言。 双方のグループから同様の招聘を受けていた神戸大学は近畿連盟への残留を表明。 新たに編成された関六グループは同時に連合の再結成を求めたが、下部3連盟がこれを一時保留の形で拒否したため、結果として単独で新関六を発足。 これにより旧下部であった京滋大学野球連盟・近畿大学野球連盟・阪神大学野球連盟はそれぞれに独立。 新リーグはこの段階で関西六大学リーグの名称継承を断念し、 関西学生野球連盟と名乗った。 この一連の騒動を静観していたは主催のの出場枠は、一時的な措置として連合時代を踏襲する形で関西地区5連盟で1枠とした。 (翌年からは2枠に変更)また秋季のについては春の全日本大学野球選手権大会の関西地区代表決定戦優勝校を出した連盟の秋季リーグ優勝校がそのまま出場する暫定措置となった。 (1勝1敗の場合は第3戦を行い決着を付ける。 組み合わせは抽選。 勝ち点が同じ場合は全体の勝率比較によって順位を決定。 自動的に最下位で入れ替え戦に出場。 加盟大学 [ ] 入替戦導入以前 [ ]• 五十音順により記載• 関西六大学野球連盟の名称となったから入替戦導入直前のまで• 六大学固定で加盟大学は以下の通り• 太字は優勝経験校• (9月までは京都帝国大学)• (9月までは神戸商業大学、5月までは神戸経済大学)• 入替戦導入後に昇格した大学 [ ]• 加盟順により記載• 近畿大学以外はその後の降格を経験している• 太字は優勝経験校• (春季の最初の入替戦の勝利により同年秋季より昇格。 それ以降、降格は無かった。 (1963年春季・1967年秋季・1968年秋季~1970年秋季・1972年春季~1982年の解散時まで加盟)• (1963年秋季~1971年秋季まで加盟)• (1971年春季~1974年秋季まで加盟)• (1973年秋季~1974年春季と、1981年秋季の入替戦勝利により1982年の解散時に加盟)• (1975年春季~1980年春季まで加盟)• (1980年秋季~1981年春季まで加盟) 入替戦導入以前からの加盟校で入替戦導入後に降格した大学 [ ]• 降格順により記載• 太字は再昇格後の優勝経験校• (1962年春季の入替戦に敗れ降格。 その後昇格なし。 (1962年秋季の入替戦に敗れ降格。 その後昇格なし。 (1967年春季の入替戦に敗れ初降格。 その後再昇格により1968年春季・1969年春季・1974年秋季~1981年秋季まで旧関六に加盟。 1981年秋季の入替戦に敗れ、旧連盟再編のきっかけを作る。 (1968年秋季の入替戦に敗れ初降格。 その後再昇格により1969年秋季~1973年春季・1981年秋季~1982年の解散時に旧関六に加盟。 ) 関西六大学野球連盟 旧連盟 解散時(1982年)に加盟していた大学 [ ]• 最終リーグ戦の順位及び最後の入替戦の結果により記載• 入替戦に出場したことがある大学 [ ]• 下部3リーグの優勝校の間で行われた入替戦出場決定戦に勝利したものの、入替戦に敗れ昇格したことのない大学• 京都帝国大は1947年10月から京都大(旧制)と改称。 1949年5月から新制京都大に改組。 神戸商業大は1944年10月から神戸経済大(旧制)と改称。 1949年5月から新制神戸大に改組。 さらに翌1964年春のリーグ戦は出場停止となったが、入替戦の出場は認められ、下部リーグへの転落だけは免れた。 「下部3リーグ代表校」とは、下部3リーグ 近畿・阪神・京滋の各リーグ の各優勝校が「入替戦出場決定戦」に出場し、勝利して関六最下位校と対戦した大学。 大学名はこの年から関六に昇格した大学。 大学名は入替戦の敗退により翌年から下部リーグに降格した大学。 大学名はこの年から関六に昇格したものの、シーズン後の入替戦の敗退により翌シーズンには下部リーグに戻った大学。 大学名は、関六に初昇格した大学。 脚注 [ ]• 当時の京都五大学野球連盟に所属していた医科大学は、京都府立医科大学ではなく京都帝国大学に吸収合併前の京都医科大学ではないかとの説もあるが、いずれも否定・肯定の決め手となる確証が現状では得られていない。 なお、京都府立医科大学の硬式野球部は廃部になり現在していないが、廃部前にはに加盟していた。 神戸大学(野球部)は、事態が収束に向かう前段階で、関関同立との新しいリーグへの参加の可能性が浮上するにあたり、そこへの希望表明(非公式)と、収束方向に向いた後(現関西学生リーグの構成校がほぼ決まった後)になって新関六リーグ側からも、時期をずらして、結果的には双方から招聘を受けた形だが、表向きは当時所属のの運営方針に強く共感するところがあるので、引き続き近畿大学野球リーグに残留することを望むことを表明することになった。 一説では、当時の周囲の見解は、一方の要請を受けることで渦中の騒動や将来の遺恨などに巻き込まれることを避けたと言われているが、実際には、現関西学生のメンバーが固まるまでは、関関同立との新リーグへの参加を希望していた。 この関西大学球界の再編問題に絡んだ神戸大野球部の処遇や関係者の思惑・希望に触れた記事は、当時の神戸新聞で大きく扱われた。 また、神戸大野球部が新関六への参加を希望しなかったのは、それまで下部連盟であった3つの連盟(京滋大学野球連盟・近畿大学野球連盟・阪神大学野球連盟)が、それ以後の連合の維持を希望しなかった流れと同一の思想なり思惑が根底にあったと思われる。 仮に実際に神戸大学がどちらかの要請を受け入れた場合、関西学生・新関六ともに新しいリーグの加盟校数が6校に収まらないことになり、さらに複雑な状況を招いたことが想像される。 それらの事に関して当時、新リーグ結成組の関関同立が近大の加盟という前提を抱えて加盟校数の問題に関する帰結をどう考えていたのか(7校構成にしたのか、8校目を招聘したのか、どこか1校を除くか)、大商大・京産大が提唱する新リーグの構想にも同様のテーマが含まれていたわけだが、その解決への対応が現実として回避されたため、当時のその辺りに関する詳細は今となっては不明となっている。 少なくとも、当時、関関(関関同立の中でも当時新リーグ結成を主導したのは関関)が大商大・京産大が主張した案を拒否する理由の一つとして、「7校以上のリーグ構成は現実的ではないので、あくまで6校の構成で」というものを挙げていたので、関関同立としては神戸大が招聘に応じるか否かに関わらず、新リーグの構成は6校にする処置をとったものと予想される。 関連項目 [ ]•

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関西六大学野球連盟 (旧連盟)

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高校野球とは一味違う「大学野球」 「大学生になって運動部の部活に入るのはちょっと・・・」という意見を持っている方もいますが、これまで部活一筋だった当事者にとっては大学生になったとして も部活こそが青春です。 特に運動部の代名詞でもある野球部は大学においても人気の運動部系部活の一つです。 高校野球には「甲子園」という大きな目標がありますが、大学野球にも大学野球ならではの魅力というものがあります。 将来プロ入りを目指す学生も 大学野球部に入部する学生には様々なタイプが存在します。 高校までの成り行きで入部する学生はもちろんのこと、将来野球の 実業団やプロ入りを目指して入部する学生も少なくありません。 実際にプロ野球選手を多数輩出している有名大学もあります。 過去のプロ野球入団選手を見てみると、どの球団も毎年3~5名ほどは大学生を獲得しており、割合的には社会人よりも多く高校生よりも少ない人数がプロ野球選手となっています。 つまり、大学野球と言えど大きな夢を追いかけている部員もいることから決して侮ることはできないのです。 大学野球最強はこの大学 日本国内には野球の強豪校と呼ばれている大学がいくつかあります。 例えば、プロ野球選手を国内一多く輩出している 法政大学、有名リーグを何度も制覇している 駒沢大学、また、伝統的な対戦で有名な 早稲田大学、慶應義塾大学が挙げれます。 その他にも強豪校と呼ばれている大学は多数ありますが、関東圏において集中している傾向にあります。 大学野球の仕組みや種類とは? 大学野球は高校野球とどのように違うのでしょうか。 それでは、大学野球の仕組みや特徴について一緒に見ていきましょう。 高校卒業から大学野球入部までの流れ まず、高校卒業から大学野球部入部までの流れに関して、基本的に強豪校と呼ばれる大学の野球部に入部する手段は スポーツ推薦やその他推薦制度を利用することになります。 高校時代に輝かしい成績を残したり、秀でたスキルを持っている学生は、各大学の監督やコーチから 直接スカウトされ大学へ入学、そして入部となります。 また、推薦が確定した学生は実際に高校卒業後、大学に入学するまでの春休みの期間から基本的に練習に参加することになります。 大学野球部の練習やスケジュール 全ての大学に当てはまるというわけではありませんが、野球部をはじめ強豪校の運動部に所属する場合寮生活となるため、学校の講義の時間以外は常にチームメート、部員と生活を共にする事になります。 土日休日の練習はもちろんのこと、 一限目が始まるまでの時間の朝練、講義終了後の放課後練習など、スケジュールに関しては基本的に高校野球と同じになります。 しかし、大学野球の場合、たとえスポーツ推薦で入部したとしても講義に出席し単位を取得しないと卒業ができないため、嫌でも文武両道の生活を送ることになり、その点が非常に大変です。 練習が無い休日には他校との練習試合や大会があるため、 プライベートな時間が限られてくることから、入部を考えている方は予めこれらの点に関して把握しておく必要があります。 硬式野球だけが大学野球ではない 野球=硬式というイメージがあるともいます。 大学野球においてもメジャーなのは硬式ですが、 準硬式、軟式野球部、また 女子野球も全国の大学において一定の需要があります。 高校まで硬式をやっていたが、大学に入学してから準硬式、軟式にシフトチェンジする学生も一定数存在します。 部活があるということは当然リーグや大会もあるため、硬式に比べればマイナー種目ですが大いに盛り上がります。 関東・関西リーグの違いとは? 大学野球の仕組みや特徴、またその種類について分かって頂けたでしょうか。 本格的な部活として活動している以上、どこの大学でも大会やリーグに向けた練習を行っています。 公式試合に出場することになる野球部は、全日本大学野球連盟という公益財団法人に加盟し、基本的にその各エリアごとに試合を行います。 それでは、大学野球の主なリーグや大会について、関東・関西にわけてそれぞれ紹介します。 違い1:関東は「東京六大学野球」が熱い 日本国内の難関大学、有名大学が密集する関東エリアには、千葉県大学野球連盟、東京新大学野球連盟といった全部で7つの連盟、リーグがありますが、その中でも圧倒的に有名なのが「 東京六大学野球」です。 東京六大学とは、 東京大学、慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学、立教大学、法政大学の6つの有名国立大、私大から成り、そのリーグ戦は各大学において目玉行事の一つとなります。 毎年東京六大学リーグのシーズンになると、その六大学において応援団やチアリーディング部によるパフォーマンスが行われ、学生、教職員が一丸となって応援します。 違い2:関西は「関西六大学野球」が熱い 西の都、関西エリアにも日本を代表する難関大学、有名大学が数多くあり、関西学生野球連盟、阪神大学野球連盟など全部で5つの連盟、リーグがあります。 その中でも特に熱いのが「 関西六大学野球」です。 関西六大学とは、 大阪商業大学、京都産業大学、龍谷大学、神戸学院大学、大阪経済大学、大阪学院大学の6つから成る大学リーグです。 関東の東京六大学リーグに負けず劣らず非常に盛り上がるイベントで、各大学の学生や教職員はもちろんのこと近隣住民も一丸となって応援をします。 Sponsored Link 大学野球の仕組みとは?まとめ 今回は大学野球の特徴や仕組み、高校野球との違い、また関東・関西リーグの違いについて紹介しました。 練習のスケジュール面においては高校野球とそれほど変わりませんが、入部までの流れ、文武両道しなければ卒業できない、という点が異なります。 大学野球のリーグというと、関東の東京六大学野球、関西の関西六大学野球が非常に有名ですが、 日本各地のエリアには非常にたくさんのリーグがあります。 これから大学の野球部へ入部を検討されている方は、 どこの大学に進学するのか、また将来の進路についてもしっかりと考えた上で検討しましょう。

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公益財団法人 全日本大学野球連盟

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概略 [ ] 関西地域の大学野球の歴史は、大別すると前の旧制大学時代に有力校が集まって結成された関西六大学野球連盟(旧関西六大学)とそこに加わらなかったその他の大学群の二つに分けられるが、実力と知名度において際立った存在であった旧連盟としての関西六大学野球リーグをめぐって、関西の学生野球界は他の地域と比較しても連盟の合従連衡が複雑に行われた。 さらに一般的には一口に旧連盟とされる時期においてもその内容は、• 創設期から約30年間は文字通り特定の6大学のみによる固定制のリーグ構成の時期• 1962年以降の後半期、他の大学野球連盟群()との間に入れ替え戦を導入し共存形態を採った(の結成)事により、構成校が入れ替わる時期 とに大別される。 戦前~戦中 [ ] 関西の学生野球は、関西地域の中で各都市地域ごとに結成されたそれぞれの連盟が母体となっている。 、京都大学専門学校野球連盟からが独立し、、 、、、の5大学で 京都五大学野球連盟を設立する。 一方、阪神地区でも同じく1928年に(1932年からに関西学院大)、、(1931年から大阪帝国大医学部)、、(1933年から大阪帝国大工学部)、神戸高等商業学校(1929年から)、(1949年に新制の神戸大工学部)の7校のとによってを発足。 (現存のとは同名であるが全く無関係) 1929年には京都帝国大学と、の3校対抗戦が開始され、には京都五大学野球連盟から離脱した立命館大学が3校対抗戦へ加わる形で 関西四大学野球連盟(関西大学、京都帝国大学、同志社大学、立命館大学)を設立した。 、の隆盛を見た関係者が関西にも東京六大学野球に対抗できうる実力を持った野球連盟を立ち上げようと動き、当時の関西学生連盟の有力校であった(当時は)とが関西四大学野球連盟へ加盟する形で再編(神戸商業大学は移籍。 関西学院は1933年中までは関西学生連盟との重複加盟。 )が行われ、 関西六校野球連盟(関西学院の大学への昇格を待って翌年から 関西六大学野球連盟に改称。 以後、 旧関六)が発足し秋季からリーグ戦が開始された。 このように戦前の学生野球は、がに昇格する過渡期だったこともあり、前述の京都の例にもあるようにと、などが複雑に混在した状態で運営されていた。 従って前述以外にも幾つかの専門学校や大学が加盟する学生野球連盟が存在したと思われるが、後世の大学野球連盟に繋がるものとしては、 関西六大学野球連盟(旧連盟)と 関西学生野球連盟(旧連盟)と京都五大学野球連盟の三本柱を中心に推移していく。 関東では既にが大学野球の目玉カードとして定着していた頃、関西でもとが看板カードとして定着しており、この2つの対戦カードを総称して後にという用語が一般化していった。 なお、戦前・戦中の当時は大学野球界を全国的に統一する組織が存在せず、現在より加盟規定が曖昧だったことから、関西学院の例にある様に、基本的には(当該連盟が特に禁止しなかった場合を除き)複数連盟への重複所属は全く差支えがない状態であった。 終戦後~入れ替え戦導入(連合結成)前 [ ] 戦時命令により一時中断していた各大学野球リーグは、終戦により1946年春から順次活動を再開していたが、には大学野球の最優秀チームを決めようという気運が盛り上がり、旧関六は、とともにを結成し、この組織の下で大学野球王座決定戦を実施した。 また、この同年、に伴う全国組織としての 新制大学野球連盟が各種の旧制学生野球連盟(「日本高等学校野球連盟」「日本専門学校野球連盟」「日本師範学校野球連盟」)を改組・再編する形で発足した。 これらの一連の動きの中で、1947年には旧関西学生連盟の加盟校中2校が中心になり大阪三大学野球連盟として再スタートを切り、には新制大学3校を迎え 近畿六大学野球連盟として再発足し全国新制大学野球連盟の傘下の団体となった。 また京都地区においても京都五大学野球連盟がその後に有力校を中心とした加盟脱退が相次ぎ、にはの呼びかけで新たに 京都六大学野球連盟が設立される。 、が新制大学野球連盟を吸収して、大学野球の統一組織であるが結成された。 この組織の成立に伴い、旧関六・近畿・京滋の3連盟もともに全日本連盟傘下として活動することとなる。 ただし、結成時の経緯から旧関六は旧制大学組として扱われ、他の2連盟は新制大学連盟の近畿地区内の一連盟という扱いであった。 従ってへは、旧関六は優勝校がそのまま出場できる権利がある一方、近畿・京滋の2連盟については地区連盟としてまとめられ、出場枠は合わせて1つとされた。 には近畿地区内での3番目の連盟として、、が中心となって 阪神大学野球連盟が発足。 には京都六大学野球連盟にが加盟したのを機にへ改称している。 入れ替え戦の導入(連合の結成) [ ] 頃、当時、既に近畿地区大学野球連盟からの代表校の常連として台頭していた(当時はに所属)が中心となって、たびたび旧関西六大学野球連盟に近畿地区との合併の申し入れを行なっており、関西地区の全大学で統一リーグを編成(最初は近畿大学野球連盟との合併策だったが、後に近畿地区全体としての合併案に変更)し東京六大学や東都に実力で対抗していこうという動きが表面化してきていた。 関西大学対関西学院大学の関関戦や同志社大学対立命館大学の同立戦を抱え、人気の面で近畿のその他大学野球連盟に大きく水を空けていた旧関六サイドは当初この動きに難色を示した。 しかし後にこれが高校野球関係者まで巻き込んだ近畿圏のアマチュア野球界全体の運動となったため、それまで幾度と無く難色を示して拒否し続けてきた旧関六サイドも、1962年には旧関六を頂点として近畿地区の3連盟を並列に下部として置く形での入れ替え戦を導入する再編に同意、ここにが設立された。 それに伴い、同年をもって近畿地区としての全国大会出場枠は発展的な解消をむかえて消滅した。 全国の大学野球の歴史を振り返っても、地域を統合する地区連盟からの順次分離独立が通常の流れとなっているが、少なくともこのような統一での再編成は全日本大学野球連盟発足後では唯一の動きである。 実質的には関西地区として一リーグ化でもあったが、全組織の解体再編成ではなく、それぞれの連盟組織を維持したままで、入れ替え戦で結合された緩い連合体であったことも極めて特徴的であったわけであるが、この連合形態が後の入れ替え戦廃止と再編成を行なう際に、複雑な思惑の交差として影響を落することになる。 (後述参照) 連合時代 [ ] 通常の大学野球では上部リーグと下部リーグの間の入れ替え戦は上部リーグの最下位チームと下部リーグの優勝チームの間で行われている。 しかし、関西大学野球連合では、近畿・阪神・京滋の3連盟 以下、下部3連盟 はその成り立ちから並列扱いで、上部団体として関西六大学野球連盟(以下、上部関六)を共有するというスタイルを取っていたため、上部関六と下部3連盟の入れ替え戦は以下のような特殊な形態で行われた。 各連盟が独立してリーグ戦を実施• 順位確定後に下部3連盟の優勝校同士が対戦し、入れ替え戦出場校を決定する• 上部関六の最下位校と入れ替え戦出場校が対戦する• この対戦で勝利したチームが次シーズンの上部関六の所属権を得る。 降格チームが生じた場合は、当該チームの希望する下部連盟へ移籍となる。 このように単純に入れ替わるシステムは採らなかった為、この入れ替え戦の結果次第では、降格チームの移籍により、次シーズンの構成校が1校増となる連盟が生じる。 そのような場合は、当該下部連盟は全体のチーム構成を調整する必要に迫られるため、当該下部連盟内部での入れ替え戦で勝利しても昇格できない、あるいは結果に因らずに降格を強いられる最下位チームが生じることになり、このシステム下では、下部3連盟は少々やっかいな運営を強いられた。 実力本位の関西大学野球連合では伝統校というだけの看板は意味をなさず、連合結成直後に神戸大学が、次に京都大学が下部連盟へ転落した。 さらに伝統校の一角である関西学院大学や立命館大学もたびたび下部へ転落し、東京六大学野球の早慶戦に匹敵する人気と伝統を持つ関関戦や同立戦が実施できないという状況がしばしば発生していた。 また連合設立以後は、前述したようにそれまであった近畿地区としてのの出場枠は消滅したわけであるが、上部関六への昇格の困難さもあって不満を募らせる加盟校も出てきた。 こうした状況が年数を経るに連れて大きくなっていき、運営上の大きな問題となっていく。 入れ替え戦の中止(連合の解体) [ ] 入れ替え戦の中止という話が正式に浮上したのは、も暮れた頃のことである。 前年に関西学院大学が久々に上部関六に昇格し、久々に関関同立の伝統校カルテットが揃い関係者を大いに喜ばせたが、それもつかの間、わずか2シーズンで、今度は立命館大学が下部に転落してしまった。 関係者は大いに困惑し大きな決断をするに至った。 これまでの連合を解体し入れ替え戦は廃止。 上部関六を再び固定制に戻すことであった。 下部も含めて連合の加盟大学はそれぞれに不満を抱えていたため、連合を解体するということで方向性の一致は見たもののどのように再編するかで大学間の協議の結果がなかなかまとまらなかった。 これは伝統と人気があり、関西学生スポーツ界でも注目度の高い「関西六大学」、とりわけ関関同立と一緒の連盟に入ることを希望する大学が多かったためである。 なお当時の状況は概ね以下の2通りであった。 入れ替え戦の中止に伴い、以後の新しい関六の構成校は、現在(当時)の関六所属校(関西大学、関西学院大学、同志社大学、近畿大学、、)に拘らない厳選した6校にする。 (支持:関西大学、関西学院大学、近畿大学)• あくまで新しい固定リーグは現所属校(当時)を母体に(関関同立を揃えたいのなら)7校又は8校で新リーグを構成すべき。 (支持:大阪商業大学、京都産業大学、同志社大学、および連盟理事局) しかし事態は紛糾し、歩み寄りが全く見られない状況に業を煮やした関西大学と関西学院大学、近畿大学は関六からの離脱を宣言し新連盟の設立を呼びかけた。 またこの段階において当時の連盟理事長は現関六の維持を断念し連盟解散を宣言した。 この解散宣言により、当初は脱退という強硬論に難色を示していた同志社大学が後に新連盟に呼応し参加を表明。 更にその後、その時点では下部の京滋連盟に降格が決定していたため静観していた立命館大学と、同じく当時は京滋連盟所属の京都大学が招聘に応じて参加することとなり、ここに正式に新連盟(この時点では新関六)の発足が決定された。 なお、当時、関西大学野球連合の最上部である関西六大学野球連盟(旧関六)のルール決定方法は、採決時の構成6大学の投票により4票(つまり4大学)の賛成をもって決定される方法を採っていた。 入れ替え戦の中止およびそれに伴う連合の解体は比較的容易に4票以上の賛成を得て決定されたが、連合解体以後の構成校をめぐって紛糾するに至り、当時の六大学リーグを解散、そしてその後に改めて新リーグを結成するにあたっては、関関同立が構成の中心になるリーグ結成を目指す関大、関学大、同大は賛成、一方の前述の新リーグ構想からは漏れることが徐々に自他ともに明白になりつつあった大商大、京産大は反対に回ることが採決前から予想された。 解散賛成グループは可決に必須なもう一票を獲得するために新リーグへの参加確約を条件に採決時に解散に賛同する交渉を近大との間で水面下で行った。 その結果、現在に至る帰結となった。 一方、残されてしまった形の大商大と京産大は、いわゆる関関同立を中心とする新連盟への参加が不可能になった段階に至り、「関六は解散しておらず、単に4大学が自らの意思で脱退しただけであり、脱退せずに残った大学で連盟の運営を維持する」とし 関六への残留を表明。 そのリーグ構成を補完・維持する為に、かつて関西六大学に昇格経験のあった龍谷大学、、、を招聘し、こちらも新しい 関西六大学野球連盟(以下、新関六)を発表した。 以上の様な経緯から、新連盟側は伝統ある 関西六大学野球連盟の名称の使用は断念し、やむを得ず 関西学生野球連盟(戦前に存在した旧関西学生とは無関係)を名乗り「名を捨て実を取る」こととなった。 尚、かつて旧関六の創設メンバーでもあった神戸大学は、この再編成騒動の過程(再編成が収束方向に向かう前段階)で、新関六と新連盟(関西学生)結成グループの双方から参加打診を受たが、幾つかの思惑が交錯する争いの中で結果的に当時所属していたへの所属をそのまま継続することを表明した。 また、この一連の騒動の中、近畿・阪神・京滋の下部3連盟は、新関六の発足に伴った新関六側からの連合の『再結成と維持継続』の呼びかけ(上部関六との入れ替え戦え戦廃止の発表と同時に連合の解散も表明されていた為、既に連合は解散済みというのが共通認識だった。 )に対して、迫る春季リーグ戦の準備などのタイミング的な都合を理由に一時保留。 その後の時間的経過の中で、連合の再結成という話題はうやむやになり、結果的にはなし崩し的に下部連盟という立場から脱却し、新関西学生や新関六も含めて、それぞれが対等な立場として独立する形となっていった。 このようにして、以後は5つの連盟が併存する状況となり、その扱いも全てについて"5連盟は平等に"という認識が固まって(伝統校や有力校が所属している連盟という観念的な立場は "主張し難い"、又は "認められない" という状況となって)現在に至っている。 記録の扱い [ ] 5つの連盟が併存することが決定したあと、連合設立前と連合時代の関西六大学野球の記録と歴史に関しては、関西学生と新関六が共有することとなったため、双方が記録と歴史の継承権を持っていることになっている。 また、連合時代に下部リーグ扱いであった近畿・阪神・京滋の3連盟についても、連合時代にそれぞれの運営で行われていた試合の記録と歴史はそれぞれが継承している。 尚、現在においては関西学生と関西六大学それぞれの加盟校で連合時代に下部連盟へ降格していた時代の記録は、それぞれの当時の所属連盟の記録として管理されている。 そのため、関西の学生野球を記録で追いかける場合、様々な大学が入り乱れて登場し一見して混乱するが、これは前述のような複雑な統廃合の歴史の経緯があるためである。 、、、関西学院高商部(の前身)、(後の薬学部)、、大阪高等商業学校(1928年から・の前身)、大阪歯科医学専門学校(の前身)の8校により が結成。 後構成校の加盟脱退が繰り返され京都帝国大学、、大阪高等医学専門学校(の前身)なども参加した時期もあったが、加盟脱退の変遷の後にいつしか消滅。 (詳細不明)• 旧制の府立(1931年から大阪帝国大医学部)、神戸高等商業学校(1929年から・現在のの前身のひとつ)、大阪高等工業学校(1929年から)で 官立三校野球連盟を発足。 官立三校野球連盟に大阪外国語学校(後の・現在の大阪大学外国語学部の前身)が加盟し 官立四校野球連盟に改称• 関西六校野球連盟に(1949年から新制の神戸大学工学部)が加盟し と改称。 京都地区では京都大学専門学校野球連盟からが独立し、、、、、の5大学で 京都五大学野球連盟を設立。 ・・の 三大学対抗戦開始• 三大学対抗戦に京都五大学から脱退したを加えて 関西四大学野球連盟が発足。 同年3月の関西学院の旧制大学昇格により、関西六校野球連盟を 関西六大学野球連盟(旧連盟)と改称。 秋季を最後に関西学院大学が関西学生野球連盟(旧連盟)から脱退。 (重複加盟の解消)• 同年春を最後に、戦時命令により全国の全ての野球競技活動が禁止される。 戦後~連合結成前 [ ]• 関西六大学野球(旧連盟)が再開。 が実施される。 旧関西学生野球連盟の構成校を中心とした大阪大学、大阪商科大学、大阪理工科大学(大阪専門学校の系列校・現在のの前身のひとつ)が、後のの母体となる 大阪三大学野球連盟としてリーグ戦を再開。 全国大学野球連盟(東京六大学、東都大学、旧関西六大学)と全国新制大学野球連盟がそれぞれ発足し、大阪三大学野球連盟は全国新制大学野球連盟の傘下連盟となる。 大阪三大学野球連盟に新加盟3校を加えて 近畿六大学野球連盟と改称• 京都学芸大学(後の)の呼びかけで 京都六大学野球連盟が発足。 近畿六大学野球連盟に新たに6校の加盟校が加わり1部2部制を導入し、 近畿大学野球連盟と改称。 全国大学野球連盟と全国新制大学野球連盟が合併しそれぞれが発展的解消。 第1回全日本大学野球選手権大会を開催。 全日本大学野球選手権大会の代表枠において近畿地区が独立。 近畿大学野球連盟と京都六大学野球連盟で 近畿地区大学野球連盟(以下、近畿地区)を編成。 近畿地区3番目の連盟として が発足• 京都六大学野球連盟が、の加盟に伴い に改称• 頃 近畿地区連盟と旧関西六大学連盟(以下、関六)との合併申し入れが近畿大学を中心にした運動として開始。 連合時代~解体 [ ]• 関六が近畿地区連盟配下の 京滋大学野球連盟(以下、京滋連盟)・ 近畿大学野球連盟(以下、近畿連盟)・ 阪神大学野球連盟(以下、阪神連盟)と合併し、その関六を最上部とする 関西大学野球連合が発足、入れ替え戦を導入。 同年春に近畿大学(近畿連盟)が関六に昇格し、入れ替わりに神戸大学が関六から近畿連盟降格。 同年秋に大阪商業大学(阪神連盟)が関六に昇格し、京都大学が京滋連盟に降格。 同年秋に関西大学が優勝するが、エースのプロ球団との契約が発覚し、規定違反で優勝取り消し。 また リーグ戦の1年間の出場停止の処分。 春季に大阪商業大学(阪神連盟)が関六に昇格し、立命館大学が京滋連盟に降格。 同年秋に立命館大学(京滋連盟)が上関六に昇格し、大阪商業大学が阪神連盟に降格。 春季に大阪商業大学(阪神連盟)が関六に昇格し、立命館大学が下部の京滋連盟に降格。 秋季に立命館大学(京滋連盟)が関六に昇格し、関西学院大学が近畿連盟に降格。 春季に関西学院大学(近畿連盟)が関六に昇格し、立命館大学が京滋連盟に降格。 秋季に大阪学院大学(阪神連盟)が関六に昇格し、大阪商業大学が阪神連盟に降格。 また同年秋に第1回明治神宮野球大会を実施。 関西大学が関西大学野球連合代表として出場。 秋季に大阪商業大学(阪神連盟)が関六に昇格し、龍谷大学が京滋連盟に降格。 春季に京都産業大学(京滋連盟)が関六に昇格し、関西学院大学が近畿連盟に降格。 春季に立命館大学(京滋連盟)が上部の関六に昇格し、京都産業大学が京滋連盟に降格。 秋季に神戸学院大学(下部阪神連盟)が関六に昇格し、大阪学院大学が阪神連盟に降格。 春季に大阪経済大学(近畿連盟)が関六に昇格し、神戸学院大学が阪神連盟に降格。 なお、大阪経済大学は初昇格の秋季には初昇格即初優勝するが、翌年春季には一転最下位となり、その後の入れ替え戦にも破れる。 春季に関西学院大学(近畿連盟)が関六に昇格し、大阪経済大学が近畿連盟に降格。 秋季に京都産業大学(京滋連盟)が関六に昇格し、立命館大学は京滋連盟に降格。 入れ替え戦廃止に伴い関西大学野球連合が解体。 関六から関西大学、関西学院大学、近畿大学が脱退。 これによるリーグ解散宣言により同志社大学も追従。 それまで下部であった京滋連盟の京都大学と立命館大学を招聘して新リーグを設立。 残った大阪商業大学と京都産業大学は、連盟維持を宣言し過去に関六に昇格経験のある大学の中から、それぞれ下部であった近畿連盟の大阪経済大学、京滋連盟の龍谷大学、阪神連盟の大阪学院大学と神戸学院大学を招聘し「 関西六大学野球連盟」の名称を冠したリーグの継承を宣言。 双方のグループから同様の招聘を受けていた神戸大学は近畿連盟への残留を表明。 新たに編成された関六グループは同時に連合の再結成を求めたが、下部3連盟がこれを一時保留の形で拒否したため、結果として単独で新関六を発足。 これにより旧下部であった京滋大学野球連盟・近畿大学野球連盟・阪神大学野球連盟はそれぞれに独立。 新リーグはこの段階で関西六大学リーグの名称継承を断念し、 関西学生野球連盟と名乗った。 この一連の騒動を静観していたは主催のの出場枠は、一時的な措置として連合時代を踏襲する形で関西地区5連盟で1枠とした。 (翌年からは2枠に変更)また秋季のについては春の全日本大学野球選手権大会の関西地区代表決定戦優勝校を出した連盟の秋季リーグ優勝校がそのまま出場する暫定措置となった。 (1勝1敗の場合は第3戦を行い決着を付ける。 組み合わせは抽選。 勝ち点が同じ場合は全体の勝率比較によって順位を決定。 自動的に最下位で入れ替え戦に出場。 加盟大学 [ ] 入替戦導入以前 [ ]• 五十音順により記載• 関西六大学野球連盟の名称となったから入替戦導入直前のまで• 六大学固定で加盟大学は以下の通り• 太字は優勝経験校• (9月までは京都帝国大学)• (9月までは神戸商業大学、5月までは神戸経済大学)• 入替戦導入後に昇格した大学 [ ]• 加盟順により記載• 近畿大学以外はその後の降格を経験している• 太字は優勝経験校• (春季の最初の入替戦の勝利により同年秋季より昇格。 それ以降、降格は無かった。 (1963年春季・1967年秋季・1968年秋季~1970年秋季・1972年春季~1982年の解散時まで加盟)• (1963年秋季~1971年秋季まで加盟)• (1971年春季~1974年秋季まで加盟)• (1973年秋季~1974年春季と、1981年秋季の入替戦勝利により1982年の解散時に加盟)• (1975年春季~1980年春季まで加盟)• (1980年秋季~1981年春季まで加盟) 入替戦導入以前からの加盟校で入替戦導入後に降格した大学 [ ]• 降格順により記載• 太字は再昇格後の優勝経験校• (1962年春季の入替戦に敗れ降格。 その後昇格なし。 (1962年秋季の入替戦に敗れ降格。 その後昇格なし。 (1967年春季の入替戦に敗れ初降格。 その後再昇格により1968年春季・1969年春季・1974年秋季~1981年秋季まで旧関六に加盟。 1981年秋季の入替戦に敗れ、旧連盟再編のきっかけを作る。 (1968年秋季の入替戦に敗れ初降格。 その後再昇格により1969年秋季~1973年春季・1981年秋季~1982年の解散時に旧関六に加盟。 ) 関西六大学野球連盟 旧連盟 解散時(1982年)に加盟していた大学 [ ]• 最終リーグ戦の順位及び最後の入替戦の結果により記載• 入替戦に出場したことがある大学 [ ]• 下部3リーグの優勝校の間で行われた入替戦出場決定戦に勝利したものの、入替戦に敗れ昇格したことのない大学• 京都帝国大は1947年10月から京都大(旧制)と改称。 1949年5月から新制京都大に改組。 神戸商業大は1944年10月から神戸経済大(旧制)と改称。 1949年5月から新制神戸大に改組。 さらに翌1964年春のリーグ戦は出場停止となったが、入替戦の出場は認められ、下部リーグへの転落だけは免れた。 「下部3リーグ代表校」とは、下部3リーグ 近畿・阪神・京滋の各リーグ の各優勝校が「入替戦出場決定戦」に出場し、勝利して関六最下位校と対戦した大学。 大学名はこの年から関六に昇格した大学。 大学名は入替戦の敗退により翌年から下部リーグに降格した大学。 大学名はこの年から関六に昇格したものの、シーズン後の入替戦の敗退により翌シーズンには下部リーグに戻った大学。 大学名は、関六に初昇格した大学。 脚注 [ ]• 当時の京都五大学野球連盟に所属していた医科大学は、京都府立医科大学ではなく京都帝国大学に吸収合併前の京都医科大学ではないかとの説もあるが、いずれも否定・肯定の決め手となる確証が現状では得られていない。 なお、京都府立医科大学の硬式野球部は廃部になり現在していないが、廃部前にはに加盟していた。 神戸大学(野球部)は、事態が収束に向かう前段階で、関関同立との新しいリーグへの参加の可能性が浮上するにあたり、そこへの希望表明(非公式)と、収束方向に向いた後(現関西学生リーグの構成校がほぼ決まった後)になって新関六リーグ側からも、時期をずらして、結果的には双方から招聘を受けた形だが、表向きは当時所属のの運営方針に強く共感するところがあるので、引き続き近畿大学野球リーグに残留することを望むことを表明することになった。 一説では、当時の周囲の見解は、一方の要請を受けることで渦中の騒動や将来の遺恨などに巻き込まれることを避けたと言われているが、実際には、現関西学生のメンバーが固まるまでは、関関同立との新リーグへの参加を希望していた。 この関西大学球界の再編問題に絡んだ神戸大野球部の処遇や関係者の思惑・希望に触れた記事は、当時の神戸新聞で大きく扱われた。 また、神戸大野球部が新関六への参加を希望しなかったのは、それまで下部連盟であった3つの連盟(京滋大学野球連盟・近畿大学野球連盟・阪神大学野球連盟)が、それ以後の連合の維持を希望しなかった流れと同一の思想なり思惑が根底にあったと思われる。 仮に実際に神戸大学がどちらかの要請を受け入れた場合、関西学生・新関六ともに新しいリーグの加盟校数が6校に収まらないことになり、さらに複雑な状況を招いたことが想像される。 それらの事に関して当時、新リーグ結成組の関関同立が近大の加盟という前提を抱えて加盟校数の問題に関する帰結をどう考えていたのか(7校構成にしたのか、8校目を招聘したのか、どこか1校を除くか)、大商大・京産大が提唱する新リーグの構想にも同様のテーマが含まれていたわけだが、その解決への対応が現実として回避されたため、当時のその辺りに関する詳細は今となっては不明となっている。 少なくとも、当時、関関(関関同立の中でも当時新リーグ結成を主導したのは関関)が大商大・京産大が主張した案を拒否する理由の一つとして、「7校以上のリーグ構成は現実的ではないので、あくまで6校の構成で」というものを挙げていたので、関関同立としては神戸大が招聘に応じるか否かに関わらず、新リーグの構成は6校にする処置をとったものと予想される。 関連項目 [ ]•

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