省略されているのは、 「(汽車に乗った)島村が」 あるいは、 「(島村の乗った)汽車が」 どちらか、ということですね。 なかなか難しいですが、後に続いている文を含めて検討してみます。 【 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 夜の底が白くなった。 信号所に汽車が止まった。 向こう側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。 】 この文脈からすると、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 夜の底が白くなった。 信号所に汽車が止まった。 」という冒頭部分は、島村の視点で客観的に見たり感じたりした光景であると考えていいような気がします。 よって、わたしとしては、『(汽車が)国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 』という意味に解釈したいと思います。 過去のご質問を思い出しました。 日本語に主語があるか、ないかという質問でしたね。 「日本語の文は『主語』と『述語』から成り立つのが基本である」という立場の人 B. 「日本語はの文は『述語』だけで成り立つ」という立場の人 このように分かれはするものの、「乗り遅れた」という文をみれば、「これだけでは意味が分からない。 『~が』『~に』が無いとね」というでしょう。 「(わたしが)(電車に)乗り遅れた」とすれば、問題ありません。 すなわち、どちらも「わたしが」という「主語」(または「主格補語」)を必要とする場合があることは同様なのです。 の立場では、「主語」「述語」に「電車に」という連用修飾句(帰着点を表す位格)が必要になります。 の立場では、「述語」以外に「わたしが」という「主格補語」とそれ以外にも、「電車に」という連用修飾語が必要とな ります。 そうすると、どちらも同じじゃないかと言うことになりそうです。 しかし、違います。 「富士山だ。 」「あっちへ行け。 」「いい天気だな。 」だけで一文になると考えるのが、B. の立場です。 の立場だと、これらは「主語の省略」とか、「主語が不要な場合」とかいう説明がいります。 さて、今回のご質問には上記のことと係わりなく、「主語」(または「主格」)を言わないのが普通と回答しました。 文法上の問題ではなく、表現法上の問題なのです。 「汽車」が主語または主格とすると、乗客とりわけ島村からすれば放置されたような感じだし、といって「島村が」とするのも、変です。 そんな長いトンネルを自力で抜けてきたとも感じられませんから。 結局No. 5の方がおっしゃる「視点」というのも当たっているかも知れません。 ちょっと角度を変えて映画のシーンを考えてみましょう。 いくつかのカットからなる汽車の中のシーンは、車内の(島村を中心とする)乗客と暗い窓ガラス。 その窓に乗客の姿が反射して映し出される。 汽車の車輪がレールに触れて出る音とトンネルの壁に反響する騒音。 次のシーンでは突然その音響から解放されて、相変わらず暗い窓ガラスの下方だけが仄白くなる。 (「夜の底が白くなった。 」という描写がくる)これが「トンネルを抜ける」の部分です。 決して無いだろうと思うシーンは、「トンネルの出口が映る。 そこから汽車が顔を出す。 」です。 これだと、確かに「汽車がトンネルを抜ける」ですね。 しかし、そうではなくて汽車と乗客が一体となったものが抜けた感じがします。 国境の長いトンネルは特定の意味を持つようにも考えられますが、「国境」は古い国名の「上野(こうずけ)」と「越後」の国境で、現代で言うなら「群馬」と「新潟」の県境に過ぎません。 「清水トンネル」が開通した三年後にこの「雪国」が書き始められました。 作者の川端が湯沢温泉に通うようになったためにこの作品ができたわけです。 全長10kmに近いこのトンネルは確かに長く、当時としては最長を誇ったといわれます。 余りに長いために、当時では珍しく電化されていたということです。 また谷川岳という高山の下を通っていたためトンネルと平地との高低差が大きく、トンネルの両側にループ状の線路を延ばして勾配を調整していたようです。 次のUrlを参照 当時としては珍しい、このトンネルについて触れることもなく、「国境の長いトンネルを抜けると」とさらりと表現したところは、主人公島村(ひいては作者)の目指すのが湯沢温泉であったことを示していると言っていいかと思います。 なお、最初は単線だったため、上りと下りを交互に通すため、信号所を設けて列車の待避場所を作ったのでしょう。 「夜の底が白くなった。 」の部分が、前回言った「新感覚派」らしい表現で、若いときのわたしは何とも感激したものでしたが、その後いろいろな表現法にふれて、いまではそれほどには思いません。 NO6です。 追記させて頂きます。 先日酔ったついでにした回答に、ご丁寧に返答頂き、恐縮です。 さて、今日も通常通り酔っていますが、それでもお返答が嬉しかったので、追記致します。 「国境の長いトンネルを抜けると」の表現が、実は曲者だと、思っています。 何故、トンネルなのか?何故、長いのか? 私には、彼が、「別世界」を強調しているように、思えます。 通常読者が帰属する世界から、長くて、暗いトンネルを視覚的に、抜けさせること によって、読者の視線や思考を、常では無い、別世界に導く(私に言わせれば、強制的に)、 仕掛けに思えます。 小説で最もエネルギーを投入されるのは、最初の一文でしょう。 その目的は、結局、読者を自分の構築する世界に引き込む事だと思います。 そうしなければ、読んでもらえない。 しかし、この文章が、上手すぎるのか、力が強すぎるのか、解りませんが、 私には作為が強すぎるように感じられます。 「夜の底が白くなった。 」 この辺りで、臭くて堪らなくなります。 おしゃれで、素敵な、独創的な表現ですが、「夜に底なんか無い。 」と凡才は 思ってしまいます。 だから、2行でこの本を捨てました。 質問者さんが、何の目的でこの質問をされたか存じませんが、まあ、アル中の たわごと、思って頂ければ幸いです。 この方の小説は、個人的には、鼻に付いて、嫌いだったので、雪国も、 この辺りの、文章で、嫌気がさして、読んでいません。 もう、何十年も昔の話です。 今回、改めて、この一文を読んで、独断で、読者7割、主人公3割、位に 感じました。 詰まり、この物語に、川端は、読者を強制的に引き込みたかった、と言う 印象を受けました。 引き込んで、それを次の瞬間、主人公目線に置き換える。 そんな狙いを感じます。 いつのころからか、このような純文学は臭くて、付き合いきれなくなりましたが、 それでも、偏見の目線で見ても、うまい、と言う事かも知れません。 でも、作為の塊のようにも、思います。 まあ、文学と別世界の、年寄の愚痴なので、通説とは違うと思いますが。 >トンネルを抜けたのは、誰が、あるい何が、ですか? そういう主格を言わないのが日本語なのです。 まして「新感覚派」と呼ばれた「ヤーサンアリ・クーワバッタ」のようにできるだけ修飾語を省こうとしたのだから。 (もっとも、「新感覚派」としての特徴は、横光利一の方が目立ったのですが) 「乗っている乗客と汽車が一体となったもの」が、トンネルを抜けたのです。 E・G・サイデンステッカー さんは、源氏物語を訳したほどの人ですが、英訳となれば主語を書かざるを得なかったのでしょう。 「列車」を主語にしていますね。 もっとも、人間がトンネルを抜けるという感覚にはなりにくいですね。 しかし、「ヤーサンアリ」とか「シンアムーラ」としたのは、日本人と思われる西田晃氏によるのでしょうね。 これはこれで、楽しいコメントですが。 『スノー・カントリー』 ヤーサンアリ・クーワバッタ著 西田晃訳 その列車は長いトンネルの中から出て、スノー・カントリーに入った。 地球は夜の空の下に横たわっていた。 列車は信号の止まりに引き上げられた。 車の反対側にずーっとすわっていたところの少女がやってきて、シンアムーラの正面の窓を開けました。 雪の冷たさが注ぎ入れられた。 私はアホなので、他人の意見のうけうりだけでおしまひにします。 [参考] YASUNARI KAWABATA, Snow Country、translated by Edward G. Seidensticker.
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なお、川端康成の「雪国」は、新感覚派の名文ですので、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 夜の底が白くなった。 信号所に汽車が止まった。 」と言う具合に、出来るだけ長く文章を引用して欲しいものです。 このトンネルは、上越線の群馬県と新潟県の間にある清水トンネルであり、このトンネルのこちら側と向こう側では今も昔も景色が変わります。 この長い長いトンネルを通り抜けて新潟県に入ると、本当に風景が一変し、群馬県側と違って、冬になるとあたり一面が雪化粧に覆われて、雪が降り積もった雪国の景色に変わります。 この風景が一変するサプライズが、冒頭の表現のベースになっています。 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 」という一文ですが、トンネルは闇の世界であり、黒の世界。 雪国は真っ白い世界。 つまり、黒と白の対比であり、黒の世界から白の世界へ移動してきたことを示します。 「夜の底が白くなった。 」も同様で、夜というのは暗い夜空のことであり、黒の世界のイ... ロード中...
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変化の大きい現代では思考力が重要ですが、「考える」ことの落とし穴にも配慮していく必要があります(写真:ipopba/iStock) 変化の大きい時代になり、どんな問題にも正解があるとする、いわゆる「正解主義」では、複雑な現実に太刀打ちできなくなってきました。 そう実感している人も多いのではないでしょうか。 「答えのない時代」には、思考力がますます重要になります。 模範解答を探し当てる力ではなく、自分だけのオリジナルな答えを導き出すことが重要になるのです。 では、オリジナルな答えを出す力を磨くには、どのようなトレーニングを積めばよいでしょうか? 「考える」ことの落とし穴 では、常識を疑う問題などをご紹介しましたが、今回は川端康成の『雪国』を題材に、日本語を母語とする人の「考える」ことの落とし穴について、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。 Q:川端康成の『雪国』の冒頭部分、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の主語は誰/何ですか。 解答は後ほどお伝えするとして、まずは、川端作品を多く翻訳したエドワード・G・サイデンステッカーによる、この箇所の英訳を見ていただきたいと思います。 The train came out of the long tunnel into the snow country. (汽車は長いトンネルを抜けて、雪国へと着いた) うまい訳だなあと感動しますが、日英バージョンを読んで「ん?」と思われた方もいるかもしれません。 この文、日本語と英語とでは、「主語」が違うのです。 英語バージョンの主語は「汽車」(The train)です。 汽車が長いトンネルを抜けて、その結果、汽車が雪国に着いた。 非常に明快です。 では、日本語の原文「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」はどうかというと、主語の「〜は(が)」にあたる部分がありません。 じゃあ主語はいったい何なのでしょう。 何が省略されているのでしょうか。 日本語はいろいろなものを省略しますが、主語はその典型です。 いや、主語は「省略」ではなく、そもそも日本語に主語などという概念はないんだ、という研究者もいます。
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