作詞:落合直文、作曲:不詳 その一 阿蘇の山里秋ふけて 眺さびしきゆふまぐれ いづこの寺の鐘ならむ 諸行無常と告げわたる をりしもひとり門 (かど)にいで 父を待つなる少女 (をとめ)あり 年は十四の春あさく 色香ふくめるそのさまは 梅かさくらかわかねども 末たのもしく見えにけり 父は先つ日遊獵 (かり)にいで 今なほおとづれなしとかや 軒に落ちくる木の葉にも 筧 (かけひ)の水のひゞきにも 父やかへるとうたがはれ 夜な夜な眠るひまもなし わきて雨ふるさ夜中は 庭の芭蕉のおとしげく なくなる虫のこゑごゑに いとゞあはれをそへにけり かゝるさびしき夜半なれば ひとりおもひにたへざらむ 菅の小笠 (をがさ)に杖とりて いでゆくさまぞあはれなる 八重の山路をわけゆけば 雨はいよいよふりしきり さらぬもしげき袖の露 あはれいくたびしぼるらむ にはかに空の雲はれて 月のひかりはさしそへど 父をしたひてまよひゆく こゝろの闇にはかひぞなき 遠くかなたをながむれば ともし火ひとつぞほの見ゆる いづこの里かわかねども それをしるべにたどりゆく 松杉あまたたちならび あやしき寺のそのうちに 讀經 (どきやう)のこゑのきこゆるは いかなる人のおこなひか 籬 (まがき)もなかばやれくづれ 庭には人のあともなく 月のかげのみさえさえて 梢 (こずゑ)のあたり風ぞふく 門べにたちておとなへば かすかにいらふ聲すなり 待つまほどなく年わかき 山僧ひとりいでて來ぬ いかにあやしと思ひけむ しばし見てありこなたをば 少女はそれと知るよりも やがてまぢかくすゝみより 妾 (われ)はあやしきものならず 父をたづねてきつるなり ゆくへを君のしりまさば 敎へてよかしそのゆくへ 少女の姿をよく見れば にほへる花のかほばせに やなぎの髮のみだれたる この世のものにもあらぬなり 山僧こゝろやとけぬらむ 少女をおくにさそひゆき ぬしはいづこの誰なるか つばらにかたれ家も名も をりしも風のふきすさび あたりのけしきものすごく 軒の梢にむさゝびの なくなる聲さへきこゆなり 少女はいよいよたへがたく おつる涙をかきはらひ 妾はもとは熊本の ある武士 (ものゝふ)のむすめなり はじめは家も富みさかえ こゝろゆたかにありければ 月と花とに身をよせて たのしく世をばおくりにき 一とせいくさはじまりて 靑き千草も血にまみれ ふきくる風はなまぐさく 砲のひゞきもたえまなし 親は子をよび子は親に わかれわかれてあちこちに にげゆくさまはあはれとも うしともいはむ悲しとも この時母ともろともに 阿蘇のおくまでのがれしが ながめられけり朝夕に なれし故鄕 (ふるさと)その空を 人のことばに父上は 賊にくみしてましますと きくよりいとゞ胸つぶれ 袖のひるまもあらざりき あけくれ父を待つほどに はやくも秋の風たちて 雲井 (くもゐ)の雁はかへれども 音づれだにもなかりけり 母はおもひに堪へかねて やまひの床につきしより 日毎日毎におもりゆき つひにはかなく世を去りぬ 父の生死もわかぬまに 母さへかへらずなりぬれば 夢にゆめみしこゝちして おもへば今なほ身にぞしむ いかにつれなきわが身ぞと 思ひかこちてありつるに 神のたすけか去年 (こぞ)の春 父は家にぞかへり來し 母のうせぬときゝしより たゞになげきてありけるが うき世のならひとなぐさめて この年月はすぐしたり 先つ日遊獵 (かり)にといでしより 待てどくらせどかへらねば またも心にたのみなく かゝる山路にたづねきぬ 妾の氏は本田にて 名は白菊とよびにけり 父は昭利 (あきとし)母は竹 兄は昭英 (あきひで)その兄は おこなひあしく父上の いかりにふれて家出しぬ 風のあしたも雨の夜も しのばぬ時のなきものを いづこの空にまよふらむ 今なほゆくへのわかぬなり これをきくより山僧は にはかに顔のけしきかへ ものをも言はず墨染の そでをしぼりて泣き居たり とにもかくにもこの寺に 一夜あかせとすゝめてし この山僧のこゝろには ふかき思ひのあるならむ 少女はそれと知りたるか はた知らざるかわかざれど さすがに否ともいなみかね その夜はそこにかりねせり ぬる間ほどなく戸をあけて あやしく父ぞ入りきたる まくらべ近くさしよりて 聲もあはれに涙ぐみ われあやまりて谷におち 今は千尋 (ちひろ)のそこにあり 谷は荊棘 (いばら)のおひしげり いでてきぬべき道もなし 明日だに知らぬわが命 せめてはこの世のわかれにと 子を思ふてふ夜の鶴 泣く泣くこゝにたづねきぬ ことばをはらぬそのさきに 裾ひきとめて父上と 呼ばむとすればあともなく 窓のともしびかげくらし 夢かうつゝかあらぬかと 思ひみだれてあるほどに あかつき近くなりぬらむ 木魚のこゑもたゆむなり その二 夜もやうやうにあけはなれ 心もなにかありあけの 月のひかりの影おちて 庭のやり水おとすごし 少女は寺をたちいでて まだものぐらき杉むらを たどりてゆけば遠 (をち)かたに きつねの聲もきこゆなり 道のゆくての枯尾花 おとさやさやにうちなびき ふきくる風の身にしみて さむさもいとゞまさりけり 巖根 (いはね)こゞしき山坂を のぼりつおりつゆくほどに みやまの奥にやなりぬらむ 人かげだにも見えぬなり 梢のあたりきこゆるは いかなる鳥のこゑならむ 木かげをはしるけだものは 熊てふものにやあるならむ こゝは高嶺かしら雲の 袖のあたりをすぎて行く わが身をのせてはしるかと 思へばいとゞおそろしや はるばる四方 (よも)を見わたせば 山また山のはてもなし 父はいづこにおはすらむ かへりみすれどかひぞなき をりしもあとより聲たてゝ 山賊 (やまだち)あまたよせきたり にぐる少女をひきとらへ かたくその手をいましめぬ あなおそろしとさけべども 人なき山のおくなれば 山彦ならで外にまた こたへむものもなかりけり 山のがけぢををれめぐり 谷の下みちゆきかよひ ともなはれつゝゆくほどに あやしき家にぞいたりける やれかゝりたる竹の垣 くづれがちなる苔の壁 あたりは木々にとざされて 夕日のかげもてりやらず 内よりしれものいできたり 少女のすがた見つるより めでたきえものと思ひけむ ほてうち笑ふさまにくし かねてまうけやしたりけむ 酒と肴を取りいでて のみつくらひつするさまは 世にいふ鬼にことならず 頭 (かしら)とおぼしきものひとり 少女のもとにさしよりて 汝のこゝにとらはれて きたるはふかきえにしなり 今よりわれを夫 (せ)とたのみ この世のかぎり仕へてや わが家に久しく秘めおける いとも妙なる小琴 (をごと)あり 幾千代かけてちぎりせむ 今日のむしろの喜びに かなでてわれにきかせてよ 唄ひてわれをなぐさめよ かりにも辭 (いな)まむその時は 劒の山にのぼらせて 針の林をわけさせて からきうきめを見せやらむ 少女はいなとおもへども いなみがたくや思ひけむ なくなく小琴をひきよせて しらべいでしぞあはれなる 風やこずゑをわたるらむ 雁やみそらをゆくならむ 軒端 (のきば)を雨やすぎぬらむ 岸にや波のよせくらむ いとも妙なるしらべには かしこき神もまひやせむ いともめでたき手ぶりには ひそめる龍もをどるべし 嵯峨野のおくにしらべけむ 想夫戀 (さうふれん)にはあらねども 父のゆくへをしのぶなる 心はなにかかはるべき 峯のあらしか松風か たづぬる人の琴の音か ひとり木陰にたゝずみて きゝ居し人やたれならむ たづぬる人のつま音と いよゝ心にさとりけむ しらべの終る折しもあれ 斬りて入りしぞいさましき 刃のひかりにおそれけむ とみのことにやおぢにけむ 斬られて叫ぶものもあり 逐 (お)はれてにぐるものもあり 斬りて入りにしその人の すがたはそれとわかねども 身に纏 (まと)ひしは墨染の ころもの袖と知られたり わなゝく少女の手をばとり 月のかげさす窓にきて なおどろきそおどろきそ われは汝の兄なるを いざこまやかに語りなむ 心をしづめてきゝねかし 父のいかりにふれしより こゝろにおもふことありて 東 (あづま)の都にのぼらむと 筑紫の海をば舟出しぬ あらき波路のかぢまくら かさねかさねて須磨明石 淡路の島をこぎめぐり 武庫 (むこ)の浦にぞはてにける こゝより陸路 (くがぢ)をたどりしに ころはやよひの末なれば 並木のあたり風ふきて 衣のそでに花ぞちる 都につきしその後は たゞ文机 (ふづくえ)によりゐつゝ 朝夕ならひし千々 (ちぢ)のふみ はじめて人の道知りぬ 父のめぐみを知るごとに 母のなさけを知るたびに 悔しきことのみおほかれば 泣きてその日をおくりけり こゝろあらため仕へむと ふる里さしてかへりしに いくさのありしあとなれば そのさびしさぞたゞならぬ 見わたすかぎりは野となりて むかしのかげもあらしふく 尾花が袖もうちやつれ つゆの玉のみちりみだる こやわが家のあとならむ そや父母の遺骸 (から)ならむ 照らす夕日のかげうすく ちまたの柳に鴉なく たのみすくなきわが身ぞと 思ひわぶればわぶるほど うき世のことのいとはれて かの山寺にのがれけり 朝夕讀經をするごとに はてなき事のみかこたれて よみゆく文字の數よりも しげきは袖のなみだなり 昨夜そなたのたづねきて かたる言葉をきゝしとき わがうれしさはそもいかに わがかなしさはまたいかに たゞにわが名を名のらむと おもひしかどもしかすがに 名のりかねたる身のつらさ 名のるよりなほつらかりき あかつきふかくわかれしを 道にてこともやありなむと 汝を追ひきて今こゝに 汝をかくはたすけたり そなたを助けし上からは 心にのこることもなし この後なにのおもありて 父にふたゝびまみえまし 彼の世にありてまたばやと いひもはてぬに腰がたな ぬく手も見せず一すぢに 切らむとすなりわが腹を 少女は見るより聲たてゝ かたくその手をおさへつゝ 泣きつさけびつなぐさむる こゝろの底やいかならむ をりしも空の霜しろく 夜半のあらしの音たえて 雲間きえゆく月かげに かりがね遠くなきわたる その三 四方 (よも)にきこゆる虫の音も あはれよわるときく程に ありあけ月夜かげきえて 峯のよこ雲わかれゆく しづかにそこをたちいでて あたりのさまを眺むれば 軒の松風聲かれて あれたる庭に霜白し 手をばとられつとりつして かたみに山路をすぎゆけば ゆふべの賊のむれならむ あとよりあまた追ひてきつ 山僧それと知りしかば はやくも少女を遁 (のが)しやり おのれはこゝにとゞまりて きりつきられつたゝかひつ しげる林ををれめぐり 谷のかけ橋うちわたり 少女はからくにげしかど あとに心やのこるらむ きられて痛手はおはせぬか 兄上さきくましませと はるかに高嶺をうち眺め しのぶこゝろぞあはれなる 道のかたへにしめゆひし 小祠 (ほこら)はたれをまつるらむ 涙ながらにぬかづきて いのるもあはれその神に そこに柴刈る翁 (おきな)あり なくなる少女を見てしより いかにあはれとおもひけむ こなたに近くよりてきぬ 事のよしをばたづねしに まことかなしきことなれば 翁は少女をなぐさめて わが家にともなひかへりけり 深くとざしゝ柴の門 なかばやれにし竹の垣 片山里のしづけさは ひるなほ夜にことならず 木々の木葉のちりみだれ まがきの菊のいろもなく あらしは時雨をさそひきて 虫のなく音もいとさむし 父のゆくへに兄の身に 朝夕こゝろにかゝれども ふかきなさけにほだされて しばしはそこにとゞまりぬ ひまゆく駒の足はやく 二とせ三とせは夢のまに はかなく過ぎてまた更に のどけき春はめぐりきぬ み山の里のならひにて 髮もすがたもみだせども 色香はいかでかうせやらむ あはれ名におふ菊の花 若菜つみにとうちむれて ちかき野澤にゆく道も ならの林に一もとの 花のまじるがごとくなり 里の長なるなにがしは はやくもそれときゝつらむ 媒介 (なかうど)ひとりたのみきて 長きちぎりをもとめしが 翁はいたくかしこみて こへるまにまにゆるしたり 少女はかくときゝしとき そのおどろきやいかならむ 袖もて顔はおほへども とゞめもかねつその涙 思ひまはせば母上の この世をさらむそのをりに 妾をちかくめしたまひ いひのこされしことぞある ある年秋の末つかた 御墓 (みはか)まうでのかへるさに つゆけき野路をわけくれば 白菊あまたさきみてり にほへる花のその中に あはれなく子の聲すなり かゝるめでたき子だからを いかなる親かすてつらむ 悲しきことにてありけりと ひろひとりしはそなたなり 菊さく野べにてあひたるも ふかきちぎりのあるならむ 千代に八千代に榮えよと やがてその名をおはせにき 更に告ぐべき事こそあれ 汝はたえて知らざれど 汝の兄ともたのむべく 夫 (せ)といふべき人こそあれ はやく家出をなしてより 今にゆくへはわかねども この世にあらばかへり來む 老いたる父もましませば かへり來らむそのをりは ゆくすゑかけて契りあひ 夫といひ妻とよばれつゝ この世たのしくおくりてよ 母のいまはの言の葉は 今なほ耳にのこりけり いかでか敎へをそむくべき いかでか敎へにそむかれむ さはいへこゝに來てしより 翁のめぐみはいとふかし とやせむかくと人知れず 思ひまどふもあはれなり かれを思ひて泣きしづみ これを思ひてうちなげき 思ふおもひはちゞなれど 死ぬるひとつにさだめてむ をりしも媒介入り來り 少女におくりしそのものは にしきの衣あやの袖 げにもまばゆく見えにけり 少女のこゝろのかなしさを あたりの人は知らざらむ 見つゝ翁のよろこべば 隣の嫗 (おうな)も來て祝ふ 時雨ふりきて照る月の かげもをぐらきさ夜中に いづこをさして行くならむ 少女はしのびて家出しぬ 村里とほくはなれきて 川風さむき小笹原 死ぬるいそぎてゆきゆけば 水音すごくむせぶなり 雲井をかへるかりがねも 小笹をわたる風の音も にぐる少女のこゝろには 追手とのみやきこゆらむ 橋のたもとに身をかくし わが來しかたを眺むれば 遠里 (とほざと)小野のともし火の 影より外 (ほか)に影もなし 下に流るゝ川水の 底のこゝろは知らねども あはれかなしきその音は 少女が死をやさそふらむ 死ぬるいのちはをしまねど かくと知らさむそのをりは さこそなげかめ父上の いかにかこたむわが兄は 父上ゆるさせたまひてよ 兄上うらみなしたまひそ この世をわれはさきだちて 母のみもとに待ちぬべし 南無阿彌陀佛といひすてゝ とばむとすればうしろより まちてと呼びて引きとめし 人はいかなる人ならむ おぼろ月夜のかげくらく さやかにそれとわかねども 春秋かけてしのびてし 兄と少女は知りてけり 夢かうつゝかまぼろしか 思ひみだるゝさ夜中に 里のわらべのふきすさぶ 笛の音とほくきこゆなり とひつとはれつ來しかたを きゝつきかれつゆく末を ひと夜かたりてあかせども なほ言の葉やのこるらむ わがふる里のこひしさに 道をいそぎて歸らむと 野こえ山こえゆきゆけば かすみたなびき花もさく 日數 (ひかず)もいく日 (ひ)ふる雨に ぬれてやつるゝたび衣 家にかへりしそのをりは 五月頃にやありつらむ 山ほとゝぎすなきしきり かどの立花かをるなり しげる夏草ふみわけて 軒端をちかくたちよれば むかししのぶの露ちりて 袖にかゝるもあはれなり 妻戸 (つまど)おしあけ内みれば あやしく父はましましき こなたのおどろきいかならむ かなたの嬉しさまたいかに 父上さきくとおとなへば 子らもさきくとこたふなり 事をこまかにきゝてより 父もあはれと思ひけむ 兄のいましめゆるしやり 妹 (いも)のみさををほめにけり 親子の三人うちつどひ すぎにし事ども語りあひて くむ盃のそのうちに うれしき影もうかぶらむ われあやまちて谷におち のぼらむすべもあらざれば 木の實 (み)を拾ひ水のみて ながき月日をおくりにき ある日のあしたおきいでて 峯のあたりを見あぐれば ながくかゝれる藤かづら 上にましらの啼き叫ぶ 啼くなる聲のなにとなく こゝろありげにきこゆれば 神のたすけと攀ぢのぼり はじめて峯にのぼりえつ うれしとあたりを見わたせば さきのましらはあともなく 木立のしげき山かげに 蟬のこゑのみきこゆなり うき世のならひといひながら うき世の常とはいひながら 人になさけのうせはてゝ 獸にのこるぞあはれなる 父のことばをきゝ居たる 二人のこゝろやいかならむ うれしと兄のたち舞へば たのしと妹もうたふなり 千代に八千代といひいひて ともによろこぶをりしもあれ うしろの山の松が枝に ゆふ日かゝりて鶴ぞなく 《蛇足》 西南の役(明治10年〈1877〉) 直後の九州阿蘇を舞台に、ひとりの少女の数奇な運命を描いた叙事詩で、全552行(552句) から成る、わが国ではあまり例のない長詩です。 なお、上の表示では2句をもって1行とし、読みやすくするために6行ごとに1行空けています。 これは機械的な段落分けであり、意味内容によって分けたものではありません。 明治17年(1884) 1月18・19・21日の『郵便報知新聞』に掲載された 井上哲次郎の長篇漢詩『孝女白菊詩』に感動した落合直文が、かなり自由に七五調の和文叙事詩に訳出したもの。 井上哲次郎は、阿蘇あたりで語り継がれていた伝承からこの詩を発想したといわれますが、確かなことはわかりません。 井上哲次郎(1856-1944) は、号を巽軒 (そんけん) といい、西欧哲学をわが国に紹介した哲学者であるとともに、新体詩運動の先駆者でもありました。 落合直文の『孝女白菊の歌』は、 『東洋学会雑誌』に、 明治21年(1888) 2月と8月、翌22年の2月と5月の号に 4回に分けて掲載されました。 その後、これに加筆訂正したものが明治37年(1904) 刊の『萩之家遺稿』に収録されました。 萩之家は落合直文の号です。 上の詩は加筆訂正後のヴァージョンです。 国立国会図書館「近代デジタルコレクション」収録の『萩之家遺稿』によりました。 『孝女白菊の歌』は、初出以来『少年園』その他の雑誌に転載され、若い人を中心に当時の人びとを感動させました。 フィクションであるにもかかわらず、いくつかの伝承を生みました。 昭和33年(1958) 9月には、熊本県阿蘇郡長陽村(現南阿蘇村) に、松前重義(東海大学の創設者) によって石碑が建てられました。 また最近、その近くに孝女白菊の像(タイトル下の写真) が建てられましたが、熊本地震でこのあたりに山崩れが起きたので、碑や像が無事かどうかはわかりません。 『孝女白菊の歌』に感動したのは日本人だけではありません。 さらに、同じころ慶應義塾で英語を教えていたイギリス人の宣教師、アーサー・ロイドは、フローレンツの訳書から英語に翻訳し、出版しました(左の写真)。 これらは、それぞれの本国でも評判になったようです。 上の詩に入れた20枚の絵は、昭和4年(1929) 3月に大日本雄辯会講談社から発行された『修養全集・第五巻』にあった岡田なみぢの挿絵をスキャンしたもの。 横書き用に原画の左右を入れ替えました。 90年ほど前の印刷なので、画質が粗末ですが、筋が追いやすくなるかと思って入れました。 曲は、落合直文の詩の「その一」が発表されるとすぐつけられたようですが、作曲者は不明です。 楽譜は、原詞の2句分、上の表示では1行分しかありません。 これをずっと繰り返して歌ったようです。 あまりに単調なので、最後の2つの音符を変えて、3行分を1単位として歌うようにアレンジしました。 曲調は、当時の書生節や、歌謡曲に進化する前の演歌に似ています。 (二木紘三) (に現代語の意訳があります)。 孝女白菊の歌がこんなに長いとは知りませんでした。 戦災で家が焼かれたとき本なども全てなくなり、ただ1冊疎開先にあったのは歌詞の本だけでした。 国語辞典ぐらいの大きさで厚みは辞書2冊分ぐらいありました。 最初が歌謡曲の始まりという「みやさん みやさん」でした。 字が読めるようになった2年生ごろからこの歌詞の本をよく読んでいました。 その中に孝女白菊がありました。 何と可哀想な歌だろうと何回も何回も涙を拭きながら読みました。 メロディはラジオで流れた時聴きました。 出だしぐらいしか覚えておりません。 赤茶けた本と涙を拭きながら読んだ小学校時代を思い出しました。 こんなに難しい歌だったのですね。 ここに載ったのも驚きでした。 投稿: ハコベの花 2016年6月 1日 水 17時59分 熊本空港から阿蘇を回り高千穂、西都原、宮崎と旅行して6月1日に帰ってきてこのブログを開いたら孝女白菊がアップされていて、こんな長い歌があったのかと驚きました。 熊本着陸の際は海から市街地を降りてゆきますが、ブルーシートが点々とあって早い復興を願いました。 空港からは阿蘇の北は道が駄目で大観峰を諦め南回りのグリーンロードを使いましたが高千穂に至るまでさしたる被害も見られず走りやすい道でした。 阿蘇五岳を見晴らすところには地元企業が引き受けたグリーンピアがありとてもきれいなホテルでした。 お客はまばらで風評被害が心配です。 この下にある道の駅あそ望の郷に寄りましたが、孝女白菊を説明した小さい看板と像があり何となく眺めていた次第です。 その先が白川の水源で協力金百円、結構な量の湧水でおいしく頂きました。 ここも被害は感じられませんでした。 高千穂の県営国民宿舎も立派なホテルで結構お客さんは来ていました。 東九州自動車道も開通し、宮崎までも楽に行けます。 西都原の古墳も昔より桁違いに整備が進んで必見です。 投稿: しょうちゃん 2016年6月 3日 金 23時11分 もとになった漢詩を書いた井上哲次郎といえば、内村鑑三の第一高等中学校不敬事件の時、激しく内村を攻撃した保守思想の親玉ですが、若い時にこのような漢詩を書いていたとは知りませんでした。 子どもが行方不明の父や母をさがすといえば、『山椒大夫』『刈萱』『傾城阿波の鳴門』『番場の忠太郎』などを思い出すが、これらの話は、主人公が親に会う途中で悲惨なめにあったり、無情な親に知らんふりをされている。 孝女白菊の話では、めでたしめでたしで終わっているが、何か釈然としない。 父が行方不明になったのは、深い谷に落ちて出られなかったという伝奇的な話になっている。 父の失踪の発端が、西南戦争下の熊本で、熊本鎮台攻撃、田原坂の戦いなどをリアルに連想させるだけに、行方不明の理由が数年間深い森をさまよっていたという説明がなんとも・・ また白菊と兄が家に着いたら、あれほどさがしていた父がいた。 勘当されていた兄もあっさり赦され、すべての問題が解決してしまう。 家に帰ったら問題が解決したというラストは、『法華経』の衣裏(えり)の宝珠のたとえを髣髴とさせます。 孝女白菊の場合は、他国放浪の苦難の意味もはっきりせず、とにかくめでたし、めでたし・・ 白菊の中に捨てられた娘が、か弱い身で父や兄を求めて幾山河を越えて行く・・まあそれだけでいいのかも知れませんが、明治17年の詩を味わうのは難しい。 投稿: 紅孔雀 2016年6月 4日 土 20時06分 熊本、阿蘇地方に続いた地震、被災された方々の難儀が心痛です。 孝女白菊の歌初めて中味を知り長さに驚きました。 現代語意訳大変お疲れさまでした。 この詩文に倣って懐かしい戦前の唱歌のいくつかはできたのでは、と錯覚します。 ご解説冒頭に西南の役に触れられています。 父方の曾祖母の弟が、西南戦争に別働隊第三旅団参謀部の幕僚書記として従い、提出した「西南戦闘日注」とは別に、師に宛てた私信を、阪谷朗蘆氏資料目録中に見つけました。 そこで厚かましくも、孝女白菊の歌の時代背景の参考に供すべく、二通(転戦した鹿児島から報告したものか、あるいはその要旨か)の紹介方をお許しください。 明治一〇年五月七日 三月二三日植木口大進撃 熊本城連絡御船進撃ヲ観 鹿児島上陸日夜羽檄ヲ草ス 当城人気悪シ西郷アルヲ知リ朝廷アルヲ知ラズ頑愚甚シ 連夜賊徒襲撃アルモ撃退 必死ノ賊文明ノ軍ニ敵シ得ズ 彼ノ言泰西兵制ノ妙ヲ知ル 明治一〇年六月四日 馬越恭平鹿児島ニ来リ面会 今回ノ戦状ハ新聞記者描出更ニ肇ヲ要セズ 熊本城中ヨリ奥少佐一大隊賊軍突破 川尻ニテ父老迎エ子弟ノ安否ヲ問ウ 死スルヲ聞ケバ御奉公ヲ済セリトコノ一言民権ヲ振起スルニ足ル 兵士ハ土民ヨリナリ士族ノ薩族ヲシテ舌ヲ巻カシム コノ徒民権ヲ首唱スル時ハ天下誰カ従ワザル 士族ノ民権論ハ真誠ノ民権論ニ非ズ (後略) 備考年表 明治10年2月22日 薩摩軍熊本城包囲 3月20日 田原坂の戦い 4月15日 熊本城攻防戦終結 9月24日 城山戦終 この手紙を書いた植松直久氏は明治一五年三七歳で病没。 学閥箕作家から嫁いだ兼夫人とともに故山に眠っています。 氏を慕った甥の龍太郎氏は慶應に学ぶも自由民権運動の壮士となり、明治二〇年帝都追放されました。 が、その後も民権運動に挺身し、晩年は村政に尽くしました。 場違いな情報の感がありますがご寛容ください。 投稿: 樹美 2016年6月 6日 月 14時07分 大変いい内容で感動しました。 「孝女白菊の歌」の現代語訳はめったになく、参考になります。 ニ、三の気づいたことですが、ご確認の上、ご検討ください。 「孝女白菊 画像」で検索し、画像の中で、赤で確か松前の妻が「孝女白菊の碑」と書いたものです。 少女の石碑は、つい最近のものです。 「孝女白菊」が多くの方に読み続けられますように。 また熊本の活性化になればと思います。 投稿: 大原敏行 2016年6月12日 日 17時02分 「これは明治17年 1884 、『郵便報知新聞』に掲載された井上哲次郎の長篇漢詩『孝女白菊詩』に感動した落合直文が、かなり自由に七五調の和文叙事詩に訳出したもの」との二木先生の解説があります。 このような長編叙事詩は日本では珍しいと思いますが、私は、古代インドから広く伝わる「ラーマーヤナ」に関係するのではないかと思っています。 これは、今から2000年ほど前に古代インドの大長編叙事詩で、ヒンドゥー教の聖典の一つであり、『マハーバーラタ』と並ぶインド2大叙事詩の1つです。 サンスクリットで書かれ、全7巻、総行数は聖書にも並ぶ48,000行に及ぶそうです。 成立は紀元3世紀頃で、詩人ヴァールミーキが、ヒンドゥー教の神話と古代英雄コーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂したものとされます。 いわゆる口承によってインド各地に広まり、この叙事詩を節に載せて24時間歌い続けるとか、48時間歌い続けるということを、現在のインドの大学教授から聞きました。 日本では「ご詠歌」が似ているように思います。 私は、母から物悲しい調べのご詠歌を子供の頃よく聞きました。 内容はいわゆる道歌だったと思います。 英語や中国語と違い、どれも「主語+述語 目的語 +動詞」が共通です。 この「孝女白菊の歌」は、北インドの一大叙事詩を詠う文化が日本に伝わったような気がしてなりません。 投稿: 吟二 2016年7月10日 日 21時01分.
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最寄りの駅まで車で30分。 近くのバス停まで徒歩20分。 こんなとある大田舎に住んでいた者の上京物語。 田舎の農協に10年勤め退職。 その後1年半フリーターをしていた時に、東京で働いていた2つ下の後輩に誘 さそ われ、 30歳で都内の運送会社に出稼ぎに来たのがそもそもの始まりでした。 都会の道は知らない、4t車も運転したことが無いのに勢いで来ちゃったけど…本当に大丈夫か? 新幹線に乗り上野駅で待合せをし、後輩とその時の親方が迎えに来てくれそのまま「もつ焼き大統領」で顔合わせを兼 か ね一杯ごちそうしてくれた。 緊張感でいっぱいの中、盃 さかずき を重ねるにつれ心も安らいでいった。 三浦洋一風な親方がとっても人が良さそう、そして何より酒も好きみたいだなって(笑) これならなんとかやって行けそうと思った。 ところがその夜、あんなに呑 の んだはずの酒が効いてない? また俺、酒強くなった?と思ったが違った… 床について窓から見える沢山のトラックを見ていたら、 不安な気持ちがこんにちは! 寝れなかった最初の夜は。 そう 今でも忘れない東京初夜。 やっぱり来なきゃ良かったと思った夜。 でも気づくと朝だった(笑) そんな思いもしましたがどうして行こうと思ったか? 都会は遊びに行くところとずーっと思っていた筈なのに、ど、どうして? 理由は いっぱいお金が欲しかったから。 農協勤務当時は手取りで1?万くらい貰ってただろうか? 田舎暮らしなら生活に困る金額ではないが、もっと使いたかったのでアルバイトもしてなんとか20万位の収入はあったと思う。 5月の初め頃に、後輩から電話が来た。 「東京でトラック乗らない?」 「田舎の3~4倍は貰えるし、寮もあるから」 の言葉に気持ちは大きく揺れた。 そして 翌日には行くよ!と返事をした。 この瞬間、僕の親不孝第2章の幕が開けた瞬間だった(笑) 長男坊ではあったが、家業の大工も継がずましてや上京だなんて(笑) でも下2人いるから家はなんとかなるかなって(笑) はじめの3日間は社員ベテラン選手の方が助手席に同乗し道案内や積み降ろしのイロハを教わり、 4日目からひとりでの乗務。 地図を片手に〇〇交差点右折や信号何本目左折… 頑張って道覚えたな。 信号待ちでは一目散に地図を見て現在地の確認に懸命 けんめい だった。 道、間違ってないよなって。 運転してみて思ったのは都会の人は道を譲ってくれるんだって。 (田舎だと交通量が少ないから、俺が通ったあとで行け!みたいな風潮がある) 都会の人って本当は優しいんだ!と感じた瞬間でした。 仕事自体は12個のパレット 4t車の場合 を積んで降ろすだけ。 一部を除き重い荷物の積みが入ったパレットは無いし、道路が渋滞しても遅延する時は無線で連絡すればいい。 高速道路を主体とした配送ルートだったので覚え易かった。 お給料は10日に一度。 田舎のおおよそ1ヶ月分が10日で本当に貰えたし。 東京っていいとこ!なんでもっと早く来なかった俺? 何度思った事でしょう。 (その当時は方言バリバリでしたのでもっと言葉は少なめです) でも多く貰った分、使うお金も多かったな(汗) 同郷 どうきょう の仕事仲間20名くらいで一緒に寮 りょう 生活だったので、飲む打つ買うも時には皆で一緒に。 仲間と どこに行っても方言全開で、女の子のお店では頑張って方言混じりの丁寧語を話してました。 この時もう少し意識して話していたら、入社当時に困らなかったのになーと思った事のひとつ。 入社後の受電で感じた大きな事。 会話が出来ない。。。 言葉が出てこない。。。 大げさに言うと外国に来た感じ。 次号に続く。 2020年• 2019年• 2018年• 2017年• 2016年• 2015年• 2014年• 2013年• 2012年• 2011年• 2010年• 2009年• 2008年• 2007年• 人気の職種•
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ミャンマーでのボランティアは日本語を教える活動だったそうです。 一年に一人が3か月お寺で教えるんだそうです。 教えた経験もなく、外国語も話せないので、日本語で日本語を教えるのは並みの苦労ではなかったそうです。 アニメを使って日本語をと考えられて、鉄腕アトム、ドラえもん、サザエさんを持って行ったと話されました。 ドラえもんは笑ってくれるとか。 でもサザエさんは少し難しくて、鉄腕アトムは理解できなかったとか。 日本では有名な宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』も理解してもらえなかったそうです。 私たちは普通に日本語を話していますが、ひらがな、片仮名、漢字を使って話したり書いたりできるのは本当に素晴らしいと。 ひらがなや片仮名は英語などのアルファベット同じようだけど、漢字は読み方がいくつもあるし、ものの数え方など、1本・・・6本(ろっぽん) あるいは1匹・2匹・3匹(3びき)・・・・6匹(ろっぴき)など変化があり、教えるのも、覚えるのは難しい・・など具体的なたとえを交えてわかりやすくお話しされた。 特に面白かったのは、お母さんたちのおしゃべりが子供たちの日本語教育に欠かせないんだ見たいなことを話されたこと。 それまでは女は無駄話ばっかりと思われていたのかな? 現在のミャンマーを知るうえでとても大事なことを話してくださった。 〆は校歌と応援曲の合唱です。 歌詞をしみじみと感じて歌いました。 本当にいい歌ですね。 校歌 一 鳴海が丘に濤寄せて 文化の華の咲くところ 緑の松に影映えて 誉はしるく世にかおる 象る姿 真善美 これぞ我等の理想なる 二 天籟妙に清き園 高き啓示に目覚めつつ 自由の空に翼張り 自信の駒に鞭あげて 北斗を指して一筋に 栄ある使命果たさなん 三 無限の岸に我立ちて 移り行く世を思う時 思想の潮は荒るるとも 躍進の意気胸に燃え 暗の醜雲打ち払い 真如の眼開かなん 四 尾鈴の山の黎明に 清雪の色鮮やかに 濁世の迷 覚まさんと 競い立ちたる若人の 正気溢るる古城の地 見よ 渾身の血は躍る 二次会も例年どおりにありました。 宮崎からいらした、今年のOB祭の実行委員のお一人はカウンターの中でも大活躍。 宮崎は飲み会が仕事の上でもとても大事だからか、実に素晴らしい心配りでしたよ! この席では、宮崎の歴史を勉強しているという人がいました。 宮崎県出身とわかると、神武天皇は、美々津から船出するまでどこに居て、どこを通って、美々津に行ったのだろうと聞かれるそうです。 言われてみると、???? だいたい神武天皇はどこに住んでいたのでしょうか?宮崎県北部の高千穂かあるいは鹿児島県との県境の高千穂の峰なのでしょうか?日向の美々津から船出するのですから、高千穂峡のある県北かなと思ってみたり・・・ ラグビーの話も、野球の話も盛り上がりました。 日向言葉が混じるのが何とも言えませんね。 来年も名古屋支部同窓会をよろしくお願いします。 めろんさんからの写真は大きなサイズでたくさん送られてきました。 感謝です。 帰郷しても用事が多かったりで中々観光はできませんから嬉しい便りです。 気になっていた、邪馬台国だったらいいなぁと思い続けている西都原古墳群。 写真は有名な鬼の窟です。 鬼の窟古墳(206号墳)(おにのいわやこふん) 西都原古墳群内で唯一、埋葬施設に横穴式石室を採用している古墳である。 鬼が一夜で造りあげたとする伝説が残ることが名の由来となっている。 石室入り口付近に生えていた楠により石室崩壊の危機にあったため、解体修復作業が行われ、その際同時に発掘調査が実施された。 石室内の水を排出するための暗渠の存在や土塁が完全に古墳を一周していたこと、追葬が行われていたことなどが明らかとなった。 古墳の周囲に土塁を巡らしているのは中華人民共和国・朝鮮半島ではよく見られるが、国内ではが類似するのみで、関係が注目される。 『ウィキペディア(Wikipedia)』より これは171号墳 171号墳は女狭穂塚の陪塚と言われ西都原古墳群で唯一の方墳です。 一辺25m高さ4.5mで二段築成されています。 墳頂平坦部は円筒埴輪列が取り囲みその内部に家形埴輪や盾形埴輪が列をなして立てられていました。 しかし内部に人を葬った跡は見られません。 第一次調査大正元年12月から翌年1月・平成10年から平成12年祭発掘調査整備されました。 墳丘の表面は川原石(葺石)で覆われています。 他にも男狭穂塚 おさほづか ・女狭穂塚 めさほづか があり、男狭穂塚は日本最大の帆立貝式古墳です。 ニニギノミコトの御陵と伝えられています。 男狭穂塚は5世紀初頭に建造された西都原古墳群中最大の古墳です。 女狭穂塚は九州では珍しい畿内式前方後円墳、九州最大の前方後円墳です。 コノハナサクヤヒメの御陵と伝えられています。 くわしくはからどうぞ! この西都原古墳群は、春は菜の花が咲き乱れ、今から季節は一面のコスモス畑が広がる。 それにつけても青い空によく似合う緑の古墳群! 昨日 ど真ん中祭りの鳴海会場から帰って 帰りは一時間に一本しかないバスで・・・それも10分以上遅れてた 、あーぁ 暑かったなぁと思っている頃にメールが届いた。 めろんさんから どーこだ! という写メールでした。 それはこの写真。 わかりますか? 高校の同窓の人ならわかるかもですね。 石河内を見下ろす展望台から見た、武者小路実篤がと作った理想郷、 日向新しき村です。 日向新しき村のことを武者小路実篤は『土地』に書いています。 後ろの山が霞んでいい感じです。 当時の村長だったかな。 101歳?まで生きた津江市作氏は村葬になりました。 当時は小・中学校の間に講堂がありそこでの葬儀だったと思います。 学校に行く時に横を通った記憶がありますから。 津江市作氏の思い出を彫刻家の田中等氏がに書いています。 こんなこともあったかもしれませんね。 土葬だった昔は、新しく墓穴を掘ったら、遺骨が出たという話はよくありました。 取りとめが無くなってきましたが、土葬だったころは、埋葬した後に棺桶が腐って地面が落ち込むのですぐに墓石を建てることはなく、木でつくった祠のようなものを作って置いてあった。 中には金銀の色紙などきれいだった。 今では火葬になったので、墓石も一家で一個になって骨を納めるようになったようだ。 先年亡くなった父親は、墓石もなくお寺に収められている。 今は直接お寺で供養するようになって来ているらしく、父親と同じ時期に亡くなった、従兄もお寺で眠っている。 笑 めろんさん、ふるさと情報ありがとうございます。 これからもよろしくお願いします。 PS 日向人さんはまだ行ったことがないそうですが、現国のsasayama先生がいっつも言ってたね。 あー たまらんあなぁ と!その石碑をメロンさんが送ってくれました。 訪問くださったたくさんの人、有難うございます。 今朝の朝日新聞に、武者小路実篤が大正時代につくった理想郷、新しき村が特集されていた。 今も続いているんです。 「新しき村」の名に聞き覚えのある人は、驚かれるかもしれません。 それは、「仲良き事は美しき哉」の言葉で有名な武者小路実篤が、大正時代に始めた農村共同体。 仕事はみんなで分担。 余暇はそれぞれ趣味を楽しむ理想郷をめざして90年。 高齢化は進むものの、村には静かな時間が流れ続けているんです。 実篤は、戦争を避けて最初にに日向新しき村をつくった理想郷。 この時の苦難は『土地』に詳しく書いてある。 時の村長、津江一作との関係、いきさつなども合わせて、興味深いことが書いてある。 のちに埼玉の毛呂山町につくった新しき村に行ってしまったが、どちらの新しき村も今も続いている。 よだきぼママが石河内 いしがわち に新しき村を訪ねたのは、子供が小さい頃だった。 まだ 実篤の先の夫人房子さんが、まだ存命中だったが、心の字に掘った池に水はなかった。 青年団が訪ねても会ってもらえる人そうでない人があったらしい。 この頃はすでに体調が悪かったのか・・・。 木城の中心からは、いくつもの山を越えて行かなければならない。 最後の山を降りる坂の途中に 山と山とが賛嘆しあうように 星と星とが賛嘆しあうように 人間と人間とが賛嘆しあいたい の石碑が建っている。 高校の現国の担任は、よく通る声で歌っては、たまらんなぁ・・といつも感激していた。 この通りに実現出来たら本当にに素晴らしい。 理想郷そのものだったろう。 今も住み続けているのは、松田省吾さんとヤイ子さん。 高齢になった房子さんと再婚した杉山さんの面倒をみるために、76年に日向に移り住んだ。 町の高城に住む吉田医院の元院長は、二人の最後を看取った。 吉田先生が書かれた本や、阿万鯱人著『一人でもやっぱり村である』に詳しいが、今、手元にないのが悔やまれる。 アルコールは飲まないが、焼酎の研究をしている人なのか面白いので リンクしてみた。 この酒屋はよく知っている。 先代にあたる?おばあちゃんに、雨が降り出すと、バスで帰りたくて10円、(子供だったから5円だったかも)貸してと頼んだ。 貸してくれるんだが、気難しおばあちゃんだった記憶もある。 3キロも雨の中を歩くより、やっぱ バスのほうがいいよね。 それは置いといて、好まれる焼酎の変化に驚いた。 子供のころは、寄り合いでも葬式でも何でも、高鍋のの橘に決まっていた。 時には隣の川南の 都の泉 だったかな。 黒木本店のたちばなが飲まれなくなっているというの驚いたし、は今年3月に廃業というのにも時代の変化を感じた。 そして Index から へ。 絶版焼酎を集めたり。 焼酎を飲まなくても楽しめそうだ。 これはこれは うちの亭主も喜びそうな掲示板だな。 なんだろう・・・長浜城からは今月の案内は届いているし・・・古代遊学会にしては厚みが違うし、と思ってみると、ふるさとの社会教育家のからです。 中身は待っていた「 高城の合戦を語り合う会」の資料と他にも興味深い資料です。 このときの様子は日日新日記のです。 感謝です。 落ちなかった高城ということは知っていても最初に嬉しかったブログは リンクしてある お寺さんぽ Ver 3 とそれに続く だったのです。 自分の故郷のこと知らないなあと思いながら、よくも調べて書いてくださったと思ったものでした。 このブログに書いた の資料を一部をふるさとからもらいました。 今回の資料にもあるかもしれません。 興味が深まります。 天正13 1585 年に、作られた十一面観音像も残っていて、町の文化財になっているとか・・・じっくり読みたいです。 こころない人はどこにでもいると分かっていても腹立たしいことはある。 (宮崎日日新聞web版)から 2007年6月17日 木城町のシンボルである城山公園のメロディー時計台が、ペンキでいたずら書きされるなどの被害に遭っていたことが16日までに分かった。 公園を管理している町企画課職員は「町の顔でもある施設にひどいことをしたものだ。 本当に残念」と落胆している。 町企画課によると、14午前10時ごろ、公園管理に訪れた際に発見。 時計台の床や階段にベージュや黄色の水性ペンキで「海がみたい」「鬼」など意味不明の落書きがされていたほか、明かり取り用窓のアクリルガラスも数枚割られていた。 駐車場とトイレも同様の手口でいたずらされていた。 今後、塗装業者などに依頼し、修復作業に当たるという。 【写真】ペンキで落書きされた城山公園のメロディー時計台 名古屋市に住んで30年以上になるが、自分を育んでくれたふるさとはいつまでたっても気にかかる。 でもあり、桜祭り・遠足その他思い出深い場所でもある。 そんな大事なところにひどいことをするもんだ。 愛知県在住のお城が大好きなちえぞーさんのブログはから。 宮崎の城跡が紹介してあります。 今日の花はルリマツリです。 白花はハンギングになっています。 蕾は出てきましたが咲くのはもう少しかかりそうです。 そのうちまた。 それとニワハナビ、ほんとの線香花火みたいに可愛い花です。 植えてあるのではなくて雑草ですが、愛らしい花に誰も抜けません。 オシロイバナも咲き始めました。 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006.
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