災い 禍い 違い。 災い転じて~と同じ意味の言葉

「コロナ禍」は何て読むの?正しい読み方・意味・使い方とは

災い 禍い 違い

「禍」という漢字の使い方についても、ひもときましょう。 「禍(わざわい)」とも読む漢字ですが、同じ読み方を持つ「災(わざわ)い」と、意味の上での使い分けがあります。 「 災(わざわ)い」は、「天災」など、 主に「防ぎようのない元凶によりもたらされもの」に使われる漢字、 それに対し「 禍(わざわい)」は「舌禍」など、 主に「人為的ミスなどにより発生した凶事」に使われるようです。 新型コロナウイルスに由来する凶事に「禍」の字があてられるのは、 「これ以上感染を広げない」という重要ポイントが、個々人の行動にかかっている…という点にあるでしょう。 自分や大切な人、そしてこの社会を守るため、できる限りの予防策をとって、協力しあって参りましょう。 2問目に参ります。 【問題2】「禍々しい」ってなんと読む? 「禍々しい」という日本語の読み方をお答えください。 ヒント:意味は「不吉である」「いまいましい」などです。 <使用例>「禍々しい出来事にも、必ず終わりが来ます!」 文字、音ののイメージが強烈ですが… 「禍」という字には「禍(まが)」という読み方があります。 凶事の表現として「禍事(まがごと)」という日本語もあり、文字だけでも凄みを感じてしまいますが…。 苦境でこそ大切なのが「イメージにひきずられない」「必要以上にネガティブにならない」という「冷静さ」でしょう。 東京都の地区別感染者数が発表された際、筆者の周囲で、こんなエピソードがありました。 4月2日の時点で感染者数が最多であった世田谷区在住の友人が、SNSの友人グループに「怖い」と怯えたメッセージを送ってきました。 すると別の友人が「世田谷区は実は人口そのものが多いので、感染者数だけ見ると一見して最多であっても、人口比で考えると、世田谷区だけの罹患率が突出しているわけではないのよ?」という情報を、冷静に提示したのです。 罹患率そのものよりも、 怯えた友人の平常心を呼び戻すために、このやりとりは意義があったと思います。 つい、心が曇りそうになりますが、必要以上にネガティブになっても状況は変わりませんし、むしろ立ち向かう気力をそいでしまうでしょう。 見えないウィルスとの闘いには、一人一人が当事者として、平常心で毅然と戦う力が不可欠です。 「禍(わざわい)を転じて福となす」未来が一刻も早く訪れるよう、ともに立ち向かって参りましょう! 本日は、 ・コロナ禍(ころなか) ・禍々(まがまが)しい という日本語をおさらいしつつ、 ・禍(わざわい)を転じて福となす という先人の経験に基づく故事成語をお届けしました。 関連記事•

次の

コロナ禍の呼び方は?

災い 禍い 違い

「コロナ禍(コロナか)」 最近、度々目にするこの漢字 「コロナ禍」 ご存知ですか? 恥ずかしながら。 私は読めませんでした。 最初は「うず??」 なんて、思いました。 で、調べてみました。 すると、実は「コロナか」って読むんですね。 これですっきりしました(笑) でも、考えてみると 「過ぎる」の感じの右側と同じです。 「過去」や「超過」 は「か」と読みますから、 分かってしまえば覚えやすいですね。 では、どうして、コロナにこの「禍」と言う漢字が使われているのか? 実はこの漢字には「わざわい」という意味があるそうです。 なので、「禍(わざわい)」とも読むそうです。 ただ、通常「わざわい」と言えば「災い」と書きますよね。 「禍」と「災い」の違いは? 同じように「わざわい」と読みますが、その意味は少し違うようです。 一般的によく使われる「災い」には天災、つまり、人がどうする事も出来ない状態の意味があります。 それに対して「禍い」には人が防ぐ事が出来る可能性を持っている時に使われます。 と言っても人災と言う漢字がありますから、それほど、明確に分かれていないのかもしれません。 コロナ禍の意味 ちなみにこの事からコロナ禍の意味を考えると。 コロナによってもたらされた「禍(わざわい)」 そして、それは「人の努力によって、切り抜けられる物」 こんな風に読み取れます。 禍を使った言葉と意味 禍因(かいん):わざわいが起こる原因 禍殃(かおう):わざわい 禍心(かしん):他人にわざわいを加えようとする心 禍福(かふく):災難と幸福 禍乱(からん):世の乱れや騒動 禍神(まがかみ):災いをなす神 禍言(まがこと):不吉な言葉 ちなみに 「わざわいを転じて福と為す」と言う諺は「禍」と言う漢字を使う事が多いようです。

次の

災い転じて~と同じ意味の言葉

災い 禍い 違い

今週の説教はイエスの「禍いだ」 不幸である)の呪いを連発する箇所、マタイ福音書23章13-24であった。 例によって聖書朗読中は私は聖書を開かず、朗読をじっと聞くだけである。 初めて接する箇所ではないが、文字に眼がいかないので、これは5章「祝福される」 幸いである)に対応した語りになっているに違いないと聞き取れる。 マタイ流の図式化が強いなぁと思いながら、イエスのユダヤ教支配に対する反発をなぜここにマタイは置いたのか、と考えてしまう。 また、出席できなかった先週の箇所(13:1-12)を併せて読むべきなのだなと思う。 文字で書かれたところだけで理解しようとしなくなることは、欠点なのか、いいことなのか、それはわからない。 有名なマタイ福音書5章(「山上の説教」箇所)の「幸い」の詞の8つの「幸い」のうち、最後の「幸いだ、義のために迫害されてきた人々は、天の国はその人たちのものである」(5:10)。 この「義のために迫害される人々」は誰であり、義のために迫害する人は誰なのか。 「23:2律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。 しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。 言うだけで、実行しないからである。 23:4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 23:5 そのすることは、すべて人に見せるためである...」 23章:1)。 つまり社会を支配する宗教社会倫理をばらまいてきた律法学者を中心とするファリサイ派は、「清め」を求めることを彼らの義とし、それを行いえない人々を「汚れ」、「地の民」といって蔑すみ、「天の国は閉ざされている」といって排除した。 それはそれで彼らの義のために迫害したともいえる。 しかし、イエスは、彼らを「 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」連中だとして非難し、逆に宗教イディオロギーと化した律法に苦しめられ「汚れ」といわれ、罪人といわれて迫害された人こそを「幸いである」、「天の国はあなた方のものだ」というのである。 ユダヤ教における律法規定は、もともと祭司にしか当てはまらなかったといわれる。 ここに登場するパリサイ派の律法学者は祭司ではなく、神殿祭儀に関する秩序からいっても、聖職者ではなく俗人である。 聖職者の生き方を一般の人々に押し付けるのである。 彼らが押し付ける宗教的倫理規定がどれほど民衆を苦しめてきただろうか。 イエスが偽善者呼ばわりする単語(ヒュプリス)は役者とも訳せるらしい。 英語のヒュポクリットである。 ファリサイ派と律法学者が聖職者を演じてイディオロギーを振りまいていることを見越していたのか。 しかし、自ら守れぬ倫理規定で自らを「清」、それをまもれない民を「汚れ」と社会の二元化をうながしたため、真似事でも従おうかとした人々も特に失うものが多い富裕層にいたようである。 そういう人たちを含めて「偽善者」と云ったともとれる。 とにかくここで偽善者とは、神であるかのように振る舞う傲慢な罪びとに違いないが、当時のユダヤ教社会を前提としない理解はむしろわかりにくい。 だから社会は偽善に満ち溢れている、とイエスは嘆き、「禍いだ、偽善なる律法学者、ファリサイ派。 汝らは天の国を人々の前で閉ざしている。 汝ら自身もそこに入ることはあるまいが、入ろうとする者を入らせようとしない。 」(田川建三訳を修正)といった。 新共同訳のように「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。 そのように翻訳表現を考えると、あの「心の貧しい人は幸いである」も「大丈夫だ 神様がいる)、 精根尽き果てた人々」とでも読みたくなる。 たしかに田川訳は「幸い、霊にて貧しい者」と逐語訳を見せている。 ギリシア語はわからないが、英語訳でin spiritとなっている部分は、poor in moneyといえば金がないことを意味するように、sprit ギリシア語原語はプネウマ)がプアになっている状態と訳せばいい。 だから、「大丈夫だ 神様がいる)、精根尽き果てた人々」と私訳してみたが、如何だろうか。 そのようにマタイ23章と5章はいろいろ考えさせてくれるところである。 熊澤義宜は「『幸いである』は祝福であり、祝福は命です。 『不幸だ』というのは、祝福とは正反対の災いであり、呪いであり、死に他なりません」と説教をしているが、これは「清い」「汚れた」のような二元論を語るのではないだろう。 「わたしたちの外の偽善者の不幸だけでなく、わたしたち内の偽善者の不幸についても深く顧みることが迫られている」という説教箇所にもある通りだ。 これは今週の牧師の説教に通底し、わたしたちがたえず心しなければならないことではある。 それでも、「外の偽善者」が社会に抑圧的に働き、「内なる偽善者」の再生産となっていくことに、イエスが批判し「禍いだ」と呪った意味を深くうけとめる必要があると思う。 イエスはファリサイ派たちの「宗教行為」の結果、神 律法)が「地の民」(アム・ハアーレツ)を生み出す宗教の倒錯を責めたのである。 これはそのまま私たちクリスチャンが陥りがちなコンテンポラリーな問題でもある。

次の