清少納言 な ぎこ。 枕草子の原文内容と現代語訳|清少納言の生涯

清少納言小瀬古です

清少納言 な ぎこ

清少納言は平安時代中期の女流作家です。 康保3年(966)から 万寿2年(1025)頃にかけて活躍したとされ、著名歌人であった清原元輔の娘として誕生しました。 清少納言という名前は本名ではなく、中宮定子に仕えていた際の女房名で「清」は父・清原元輔の清原姓に由来するとされていますが、太政官の職の1つとされる「少納言」を務めた清少納言の親族はおらず「少納言」がつけられた由来は不明とされ、謎の多い人物です。 代表作である随筆 「枕草子」を残し、百人一首にも自身の歌が収録された清少納言は、 紫式部のライバルともいわれています。 そんな清少納言の生涯、性格、紫式部との関係性、枕草子について解説していきます。 天延2年(974)には父・清原元輔の周防守赴任に際し約4年間、同行しました。 天元4年(981)、 清少納言が15歳頃に陸奥守・橘則光と結婚し翌年には一子則長を出産しますが、夫婦生活は長くは続かず、やがて離婚をします。 その後は摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけました。 宮中にて仕える 清少納言が30歳前に正暦4年(993)冬頃から、女房として中宮定子に仕え始めます。 宮中で仕えている際、 博学な清少納言は主君の中宮定子から寵愛を受けました。 それだけではなく藤原実方、藤原斉信、藤原行成、源宣方、源経房との親交があり、華やかな交際関係があったと推測されます。 この頃から「枕草子」の執筆が始まったとされ、中関白家の没落と清少納言が仕えた中宮定子の身にふりかかった不幸や宮中での日々の話題、自然や風物、日々のあり方などを執筆しました。 長保2年(1000)に中宮定子が出産で命を落としてからは宮仕えを辞めます。 晩年 晩年、一度は再婚相手である藤原棟世の任国摂津にいたとされていますが、その後は亡父・清原元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住んでいたとされ、晩年の詳細は不明です。 清少納言の本名 本名 清少納言とうい名前は本名ではなく宮中に仕えていた時の女房名です。 「清」は父・清原元輔の清原姓に由来するとされていますが、太政官の職の1つとされる「少納言」を務めた清少納言の親族はおらず「少納言」がつけられた由来は不明とされています。 しかし推測の1つとして歴史学者の角田文衞さんはこのような推測をされました。 角田文衞説 婚姻関係があり「少納言」とつけられたのではないかという説です。 「少納言」とつけられるからには必ず、父や、夫といった親族が少納言の職を務めたはずで、同時代の人物で父・清原元輔と親交のあった藤原元輔の息子・藤原信義と一時期婚姻関係であったのではないかと推測されています。 清少納言の性格 清少納言の父・清原元輔は百人一首に歌が採用され、また優れた歌を詠む名人の三十六歌仙のうちの1人にも選ばれ、祖父は「古今和歌集」の代表的歌人である清原深養父で歌人でした。 このような家系に生まれ育った清少納言は幼いころから、和歌や漢文を学び、転機の利く明るい女性に育ち、宮中に仕えていた清少納言は、漢詩や、和歌の教養を豊富に持っていたため中宮定子に寵愛されます。 しかし当時、漢字は男性が使用する文字、漢詩は男性が学ぶものであり、漢詩の教養を持ち漢詩に詳しい清少納言をやはりよく思わない男性もいました。 にもかかわらず「枕草子」の随筆の中では漢詩の知識を使った巧みな演出を描きます。 このことから 清少納言は周りの意見や評価に惑わされず自身の知識に自信があり、男性貴族に臆することのない気の強い性格の女性であったのではないでしょうか。 ライバル関係であったとされる紫式部 「源氏物語」を代表作とする平安時代中期の女性作家、紫式部。 正確な本名、誕生年などは清少納言と同様に分かってはいませんが、天禄元年(970)から寛仁3年(1019)に活躍した人物であると推測されています。 夫・藤原宣孝が亡くなった後に執筆された「源氏物語」の文才が周囲に認められ、寛弘2年(1005)12月から寛弘8年(1012)頃まで宮中にて中宮彰子に仕えました。 宮中での奉仕を終えたその後の紫式部の晩年の様子は清少納言と同様に詳しくはわかっていません。 清少納言と紫式部の関係性 清少納言と紫式部は宮中に奉仕していましたが、2人の間に面識はありません。 また文通を交わした記録も残されていません。 ではなぜライバル関係とされているのでしょうか。 清少納言は中宮定子に紫式部は中宮彰子に奉仕していましたが、お互いの奉仕先は、のちに権力争いが勃発します。 また 清少納言と紫式部の作風の違いや、清少納言が「枕草子」に紫式部の夫・藤原宣孝を馬鹿にした記事を書いたこと、紫式部が清少納言に対し酷評を「紫式部日記」に記述したこと、このようなことからライバル関係とされています。 枕草子 「春はあけぼの…」で有名な清少納言の代表作である随筆 「枕草子」の執筆時期は正確には判明していませんが、長保3年(1001)に完成したのではないかとされています。 平仮名を中心とした和文で記され、中関白家の没落と清少納言の仕えた中宮定子に関する出来事、宮中での日々の話題、自然や風物、日々のあり方などが記されました。 一般的には「枕草子」は分かりやすく大きく3つの分類がされています。 1つ目 類聚章段 ここでは多種多様な物事の定義について記述されます。 1つの題材を掲げ、同じ種類の事柄を集めた文章表現が多く使用されている章段となり、 「山は」「河は」「すさまじきもの」「ありがたきもの」などから始まる段が代表的です。 2つ目 回想章段 清少納言が仕えていた約7年の中宮定子に関係する宮廷社会、貴族社会の出来事を振り返ったことが書かれています。 主に清少納言が仕えていた中宮定子との思い出話が多く記されてあり、中宮定子との知識に富んだやりとりや、 清少納言の学識を自慢するかのような内容が記されました。 3つ目 随想章段 ここでは四季のさまざまな自然について、また日常生活における清少納言が感じたことなどを記述します。 一般的には「春はあけぼの」のように類聚章段、回想章段にも属さないものが随想章段として振り分けられることが多いです。 百人一首 清少納言の歌は飛鳥時代末期から鎌倉時代初期まで優れた和歌の名人を集めた百人一首に採られています。 夜こめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ この歌が百人一首に採られましたが、 これは中国の「史記」に書かれた孟嘗君のエピソードを使い詠まれた歌で、いかに清少納言が漢詩の知識を持っていたことがわかります。 またこの和歌は藤原行成とのやりとりの中で詠まれた歌で、そのことが「枕草子」に記述されました。 当時は漢詩を学ぶことは女性にとって不必要なことで、漢詩の知識を豊富に持つ清少納言をよく思わない男性貴族もいたとされていますが、このように和歌に漢詩の知識を使用した清少納言は、稀な存在だということが言えるでしょう。 さいごに 清少納言はまだ本名や誕生年など不明な点が多く残りますが、代表作「枕草子」、百人一首では、自らの持つ漢詩の知識を使用した博識で強気な性格の女性であったと思われます。 「枕草子」では自然の美しさや、華やかな貴族社会での出来事を記し、当時の貴族社会での生活や、中宮定子についてうかがい知ることのできる貴重な歴史価値のある書物です。 平安時代の女性も現代人と変わらない感性を持っていることがわかる作品で、平安時代の日記として目を通されてはいかがでしょうか。

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清少納言とは (セイショウナゴンとは) [単語記事]

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清少納言ってどんな人なの? 清少納言 【生没年】966年~1025年 享年59歳くらい 「清少納言」という名前の由来は、彼女の姓が「清原」であり、身内に「少納言」という位の人がいたからだとされています。 つまり「清原さん家の少納言」という意味で、名前の区切り 呼び方 としては「せいしょうなごん」ではなく、「せい・しょうなごん」ということになります。 では、清少納言の本名は何というのでしょうか? これははっきりと分かっていないのですが、本名は「清原諾子(きよはらのなぎこ)」ではないかと言われています。 父親は有名歌人で「梨壺の五人」の一人として知られる清原元輔(きよはらのもとすけ)。 曾祖父は『古今和歌集』の代表的歌人・清原深養父(きよはらのふかやぶ)です。 清原家は中・下級貴族ですが、和歌の名門で代々文化人として政治、学問に貢献した家柄。 清少納言は娘時代から漢学も学んでおり、高い教養を備えた女性だったようです。 一条天皇の中宮(のち皇后)となった藤原定子のサロンに出仕しています。 そして、陰謀や策略など闇が渦巻く平安貴族社会の中で、あえて華やかな部分だけを切り取って『枕草子』を執筆。 その知性と性格で水を得た魚のように宮仕えした清少納言は、鋭い観察力で人々の共感を勝ち得ます。 清少納言は定子サロンのPRに徹した「冴えた眼を持つ天才エース女房」といえるかもしれませんね。 随筆『枕草子』ってどんな内容なの? 平安時代中期から現代にまで読み継がれてきた、清少納言の随筆『枕草子』。 鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』と並んで日本三大随筆に称され、海外でも読まれる名作です。 枕草子は清少納言の見聞や体験、感想などが鋭い感性と知的なウイットによって書かれたもの。 最初にもお伝えしたように、随筆とは心に浮かんだ事や、見たり聞いたりしたことなどを思うままに書いた文章のことです。 内容を簡単に紹介すると 「春は夜明けがいいよね~。 」 「夏は夜だよね~、ホタルが飛んでるなんて最高じゃん!」 「美しいものと言ったらカルガモの卵や梅の花に積もった雪だよね~」 「男性が来るのを一晩中待ってたら寝てしまい、気づいたら昼だった時って辛いよね・・・」 という感じ。 今でいうと、SNSをしてる感じに近いですかね・・・? 内容は全部で300段ほどあり、それぞれの段は主に下記のどれかにあてはまります。 「類想的章段」物事や事柄について語った「ものづくし」。 「うつくしきもの」など• 「随想章段」日常生活や四季の自然を観察したもの。 「春はあけぼの」など• 「回想章段」作者が出仕した中宮定子周辺の宮廷での思い出を綴ったもの 枕草子という名前の由来 では、なぜ「枕草子」という名前がつけられたのでしょうか? これにはいくつかの説がるのですが、あるとき内大臣の藤原伊周(ふじわらのこれちか)から、妹である中宮定子に白紙を綴った冊子が献上されました。 何を書くか思案中の定子に対し、清少納言は冗談で「枕にしたい」と言いました。 すると定子は「ならば受け取りなさい」と、当時大変高価だった白紙の冊子を清少納言に与えます。 そして、その冊子に書かれた随筆だったため、『枕草子』と呼ばれるようになったと言われています。 ただ肝心の「枕」の意味については、• 分厚いので、「枕にして寝てしまいたい」の意味• 「歌枕」の意味• 人に見せない「草子や備忘録」の意味 など解釈が分かれて、ハッキリした理由は良く分かってないようです。 どうして清少納言は『枕草子』を書いたの? では、どうして清少納言は枕草子を執筆することになったのでしょうか? この理由については諸説ありますが、下記の2つが主な理由ではないかとされています。 定子に注目を集めるために書いたという説 1つ目は話題性のある作品を書き、一条天皇の后である定子の素晴らしさをアピールしたかったという説。 定子サロンの女房たちの仕事の一つは、定子の政治的立場を強くするため、宮廷の人々の注目を集めることでした。 そのため、高価な冊子を与えられた清少納言は、エースとしてのメンツにかけても話題性のある作品を書いて定子の素晴らしさをアピールしたかったという訳です。 定子やその家族の安らぎを願った説 2つ目は苦境にある定子に読ませて彼女を元気づけるため。 そして、亡くなった彼女の華やかな記憶を残された家族と偲び、彼女を鎮魂するために書いたのではないかという説です。 『枕草子』の執筆時期は「定子が政治的力関係の中で窮地に陥った時期」、「定子の死後」の2つに分れています。 そのため、定子が生きている時は彼女を元気づけるため。 定子が亡くなった後は、彼女の華やかな記憶を残された家族と偲ぶためではないかと言われています。 『枕草子』の魅力とは? 『枕草子』は、当時の政治的背景を理解することで、そこに交錯する作者と登場人物の切ない思いを深読みすることのできる作品です。 しかし、そんな知識なしでも面白い点が魅力でもあります。 「をかし」の文学 『枕草子』は「をかし」の文学と呼ばれています。 軽妙で明るい筆致、知的で洗練された視点によって、「きれい!」「可愛い!」「新発見!」なことをピックアップし、「いとをかし(とっても素敵)」としたためる清少納言。 その着眼点のフレッシュさを素直に楽しめる作品です。 多くの共感を誘う着眼点 特に類想的章段では、作者の挙げる「上品なもの」「憎らしいもの」など、平安時代も現代も人が考えることは同じであることを思い知らされます。 「説教するお坊さんはハンサムに限るわ」「どんな身分の男も、若いうちはスリムのほうがいいでしょ」など、あけすけな本音を書くところも痛快そのもの。 現代に生きる私たちまで大いに共感できるのです。 実在の豪華セレブも続々登場 リアルな随筆ですから一条天皇、中宮定子、藤原道長やその他貴公子たちなど、登場人物は実在の人ばかり。 歴史上の有名人たちの姿にも惹かれます。 『枕草子』が決して語らぬ闇と悲しみ 清少納言が過ごした宮廷での華やかな時期も、いつしか定子の政治的苦境と共に陰りを見せ、定子の死で終了します。 しかし、彼女はあることを決めていました。 作品の中には決して中宮定子のネガティブな面を描かないことを。 『枕草子』は彼女が慕う中宮定子に捧げるものです。 そのため、作品の中では定子はいつも明るく、気高く、賢く輝いていなければなりませんでした。 そこに定子の「闇」や「悲しみ」は必要なかったのです。 『枕草子』は、苦い現実の中で清少納言の堅い決意によって生み出されたものでした。 単なる女房の「宮仕え体験エッセイ」ではなく、明らかな意図を持った作品だったのです。 清少納言はどんな性格だった? 『枕草子』の中には人間・清少納言のいろんな面が表現されています。 そこで、文章から伺える清少納言の性格を考察してみましょう。 基本は明るく外交的 得意の漢詩の知識を駆使して、主人の定子や殿上人たちとの気の利いた応酬が得意な清少納言。 「高慢」「自慢気」であると感じる人もいるようですが、彼女にはトップ女房として定子サロンの教養・文化レベルの高さを宣伝する使命がありました。 文中に見られる痛烈な批評さえも陰湿になることはなく、社交的で明るいシャープな女性でした。 実はコンプレックスがあって内気な部分も 平安美人の条件の一つは長い黒髪。 実は清少納言は癖毛で、まっすぐに伸びない自分の髪には劣等感を持っていました。 「かもじ」と呼ばれるエクステンションも使用していたほどです。 自分の容姿への自信のなさは時に彼女を少女のようにシャイにさせ、宮仕え初日には恥ずかしさの余り半泣きに・・。 主人である定子の顔を見ることもできない様子も描かれています。 和歌は嫌い? 和歌の名門の家に生まれたプレッシャーか、和歌を詠むのを避け、主に男性が嗜むとされた漢詩を好みました。 主人の定子はそんな彼女を理解して和歌を詠まなくても良いというお許しを出していたほど。 とはいえ、彼女の和歌は勅撰集、百人一首にも選ばれ、清少納言は中古三十六歌仙に選ばれるほどの女流歌人なのですが・・。 紫式部のライバルだったの? 一条天皇の皇后・定子に仕えた清少納言と、中宮・彰子に仕えた紫式部は対立の構図の中にありました。 しかし、彼女と紫式部との直接対決はありません。 紫式部が出仕開始したのは、清少納言が定子の死をもって宮廷を去ったあとなのです。 彼女が紫式部について言及した記録は残っていません。 清少納言がモテた秘訣 実は宮仕えの前にすでに離婚歴のある子持ちだった清少納言。 しかし、前夫・橘則光(たちばなののりみつ)も『枕草子』に登場しますが、2人の会話にはドロドロしたところは一切ありません。 外見にコンプレックスがあったとはいえ、明るく、頭の良い花形女房の彼女は、殿上人の貴公子たちにモテました。 あの藤原道長、宮廷女性のあこがれの的・藤原斉信(ただのぶ)、朝廷一の有能官僚・藤原行成らとのやりとりが『枕草子』に残されています。 貴公子たちとの華やかな交流は、主人である定子のステータスを上げるための彼女の使命でもあったのです。 ただ一人、風流なプレイボーイ・藤原実方(さねかた)とは「人には知らせで絶えぬ仲(人知れず長く続いている関係)」だったと『後拾遺和歌集』に記録されています。 『枕草子』に描かれていないからこそ、本物の恋だったのかもしれません。 華やかな宮廷で多くの男性と交流しながらも、魔性の女や、恋多き女のイメージのない清少納言。 サバサバしたところが彼女の魅力のヒミツでもありそうです。 清少納言は主人の定子を失った後は仕事を辞し、藤原道長の誘いも断り、宮廷に戻ることはありませんでした。

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【FGO】清少納言の評価と再臨素材

清少納言 な ぎこ

清少納言(せいしょうなごん、6?~5?)とは、中期の女流・である。 概要 最古の随筆「子」の。 番ので、の一人。 ので、の曾孫。 清少納言の名は、氏の出であることと、親族に少納言を務めた人がいたことに由来する(なのかは不明)。 守を務めた中流・則にぎ一子・則長をもうけたが、後に。 の中宮・の女房として宮中に仕える。 出仕を始めた頃は、定子の・中のだったが、定子の・が病死したことによって運が傾く。 定子の・周がとの権争いに敗れて失脚すると、長は自分の・子も強引にに入内させ、定子の地位は危うくなってしまう。 そんな不安定な情勢の中でも、清少納言は「子」の中で暗さを全く見せず、定子の明るくやかなを書きった。 「子」の中では、やとの交流が描かれている他、とは仲だったとも言われている。 が難産で若くして亡くなると、定子とのが積もった宮中への未練がくなり、宮仕えを止めてした。 この前後に、守の棟世と再婚して、夫と共に赴任、一女・上東門院小命婦をもうけた。 清少納言の晩年も不明な点が多い。 ・致信の元に身を寄せたが、致信が頼親(退治や、の君であるの)に殺されると、落ちぶれた老婆になったという話もあるが、の同様、信憑性に乏しい。 実際には、旧知のたちと交流を続けながら、ひっそり余生を送っていたらしい。 ライトな歴史マニア 「は」に始まる序文や、「香炉峰の」の話など、「子」は数多くの逸話や清少納言の嗜好が沢山記されている。 にも入選した「 を込めて の音は はかるとも よにの 関はゆるさじ」も、「子」の有名なのひとつである。 更けまで清少納言と話がはずんでいたが帰ってしまい、後日「の鳴きが聞こえたから、明けになったと思った」と弁解したのに対して詠んだ歌である。 この歌は、の賢君として知られる斉の君が、のから脱出する際に、大勢抱えていたの中から、の鳴きが得意な者にをさせ、中の関を通り抜けたというを基にしている。 こうした的を知った上で、清少納言は「関ののはだませても、の関(丸の和歌にも登場する交通の要所)はだませないわ」と行成をやりこめていることからも、の教養の高さがえる。 は自分の学才をなるべく隠していたが、清少納言は自分の才をにして、宮中のと対等以上に渡り合っていたのだ。 清少納言と紫式部 は、自身ので清少納言を「いつも得意げな顔をしていて、自慢げに字を書いていているが、よく見るとところどころ間違っている(中略)こんなだから、どうせロクなにならないわ」と底的にこき下ろしている。 このため、と清少納言は時々と言われているが、が出仕したのは清少納言がした頃とちょうど入れ違いであり、両者が直接出会ったことはないと考えられる。 なぜ、がこれほどまでに清少納言を嫌っていたのかは諸説あり、清少納言がの夫・宣孝やいとこの信経をしたから、が仕えた子と清少納言が仕えた定子のが対立関係にあったからなどと言われる。 一方、清少納言はをどう思っていたかは、記録に残されておらず、まったくもって不明である。 メディア作品における清少納言像 「子」が現代人にもわかりやすく共感できる内容であることや、清少納言が明るく社交的な性格だったこともあり、を題材にしたではを役にした作品はかなり多い。 最近の作品では「」「」などがあり、前者ではな、では定子に感情を抱くにされてしまっている。 また、「」の3巻は上がである。 代以上の世代になると、清少納言はの番組「まんがで読む」のが強いかもしれない。 治の「訳 子」をにしたこの番組では、当時のので描かれており、ンちゃんと呼ばれている。 清少納言の名前の由来は、氏出身であることと、の親族に少納言まで出世した人がいるからと言われており、「清・少納言」と読むのが本来なら正しいのだが、この呼び名が定着したせいか、「清少・納言」と読んでしまう人も結構多いので注意したい。 関連動画 関連静画 関連商品 関連項目• (曾祖)• (人)• (?)•

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