代わり と 言っ て は なん です が。 エール__音、ヴィオレッタ役の危機!!

「代わりと言ってはなんですが」の敬語表現・使い方と例文

代わり と 言っ て は なん です が

その日の春田は、大変に不機嫌だった。 もともと朝は不機嫌だが、いつにも増して不機嫌だ。 むすっとしてパンをかじっている。 春田の朝のテンションの低さには慣れたものなので、牧は気にせず向かいの席で朝食を胃に収めていく。 春田の不機嫌に攻撃性はない。 ただ、無口で大人しいだけ。 それが、今朝はすこし違った。 「あのさあ」 「はい」 「お前ってさ、最近さ、好きとかあんま言わねえよな」 「……なんですか急に」 牧はそれ以上は何も言わず、静かにヨーグルトを食べる。 ようやく口を開いたと思ったら何を言ってるんだこの人は、というのが顔に出ていたのか、春田はますますむっとした。 「なんかさ、俺ばっか好きみたい」 「結婚までしたのに俺の気持ち疑ってるんですか? そもそも最初に告白したのは俺からでーー」 「そぉだけど、っさー……」 春田の口からこんなことを言われる日が来るとは思っていなかったのが牧の正直な気持ちだった。 「俺ばかり好き」だなんて、牧が何度も何度も春田に抱いた気持ちだ。 それでもそんなことを言ってしまったら重たいと思われて引かれるんじゃないか。 そういう不安に負けてしまって言えなかった。 どれだけ思い悩んだことだろう。 今は春田の気持ちを疑っていないし、愛されている自信もついた。 それなのに。 「言ってくれねえと、自信なくなるじゃん」 牧が悩んで苦しんで言えなかった言葉を春田はいとも簡単に牧にぶつけてくる。 牧はなんだか腹が立った。 それで、ぶっきらぼうに言い放った。 「すみませんね、不出来な夫で」 「そこまで言ってねえだろ」 「そう聞こえました」 「んだよ、それ……。 あーあ、朝っぱらからテンション下がるわ」 「勝手に下げといて人のせいですか?」 「あー、もういいよ。 ごちそうさま」 春田は流しに食器を運ぶこともせず、逃げるように寝室に向かった。 取り残された牧はついきつい口調で「ちょっと! 皿!」と呼びかけたが、「ごめーん」と反省の色のない返事が返ってきてさらに怒った。 牧よりも家を出るのが早い春田に用意した弁当を渡して見送る時間になっても、春田も牧もなんとなく不機嫌なままだった。 朝からなんなんだ。 牧は面白くない気持ちのまま、自分も出勤のための支度をした。 牧凌太はスマートフォンを握り締めて立ち上がった。 周りの同僚が「どうした」「何があった」とざわつく。 牧は誰の問いかけに答えることもなく、まっすぐに上司の狸穴のデスクに向かった。 「狸穴さん」 「牧? どうした?」 牧はなんとか背筋を伸ばして、さも仕事の話をするかのような冷静な顔で言い放った。 「夫が発熱しているので、早退させて頂きます」 そうして早退した上に明日の有給ももぎ取った牧は、まず地下鉄に乗り込んだ。 昼間の閑散とした車内で、けれど座ることはしなかった。 座ってられるか、と思ったのだ。 この瞬間も、夫の春田は苦しんでいるのだ。 仕事関係のメールを何件か社用携帯から送る。 今日は早退、明日は有給で一日不在。 多少の迷惑をかけるのは承知の上だが、せめて最小限に抑えたい。 持ち帰り用のパソコンも持ってきたから、家で少しは仕事ができるはず。 緊急の連絡は社用の携帯に電話してもらうようにすればいい。 仕事中の牧に送られてきたメッセージは春田からのもので、『具合悪いから早退する』という簡素なもので、いつもの春田特有の絵文字やスタンプが一切なかった。 慌てて『どう具合悪いの』と返信すると『熱』と一言だけ返ってきたので、牧はボールペンを取り落とし、狸穴に早退および有給願いを即座に伝えに行くに至ったのだった。 今朝の些細な喧嘩を思い出して、牧は後悔の波に飲まれた。 朝ごはんは残さず平らげていたから、元気なんだと思っていた。 でも、思い返してみると、いつもは流しに食器を運ぶのに、そのままにして着替えに行ってしまった。 小言を言ったけれど、春田は「ごめーん」と寝室からやる気のない謝罪をよこして、牧はさらに怒ってしまったっけ。 あの時も、本当は具合が悪かったのか。 さあっと牧は血の気が引く。 具合が悪かったから、あんなことを言っていたのだ。 いつもの春田じゃなかったのだ。 夫の体調の変化に気がつくことができないなんて、俺はなんてダメな夫なんだ。 牧は頭を抱えたくなるのを必死に我慢した。 いつもより速度が遅いんじゃないかと思うくらい、家への道のりが遠く感じた。 営業所から病院に直行して、とメッセージを送っても、既読になるだけで返事がない。 「どこにいるの?」「病院は?」と立て続けに送れば、やっと「家着いた、寝る」と返ってくる。 病院にも行かず、この様子だと薬も買ってない。 最寄駅にようやく着いた牧は一刻も早く家に帰りたい気持ちを抑えて、スーパーと薬局に寄った。 病人の世話に必要なものをありったけ買い込んで、ほとんど走るようにして家に帰る。 「ただいま、創一、創一ただいま」 息を切らして、何度も名前とただいまを連呼して転がるようにして帰宅すると、しんと暗いリビングで蠢く影が一つ。 牧は今朝の喧嘩はすっかり忘れて、その影に飛びつく。 「創一!」 「……ぉ、かえり」 「声ひっどい……」 「のど、はれて」 「ああ、あー、喋んなくていいから、っていうかなんでリビングで寝てんだよアンタは!」 春田はリビングのソファで丸くなっている。 寒がりの牧が使っている膝掛けを申し訳程度に肩にかけて、スーツのまま。 顔は白く、唇がカサついている。 「薬は?」 「のんでない、いまさっき、帰ってきて、しんどくて」 「病院は?」 「行ってない、行かない、寝る、寝たら治る」 牧は小さくため息をつく。 本当は病院に引きずって行きたいところだが、春田も大人だ。 必要と感じていたら職場から直行していただろう。 寝たら治る、とまた言い張るので、とりあえず今日は様子を見ようと決める。 そうと決まれば、このままではダメだ。 「創一、わかった、病院はやめとこう」 「ん……」 「でも、ここで寝てても良くならないから、しんどいと思うけどちょっと起きて?」 牧は出来るだけ優しく言い、春田が起き上がるのを支える。 額に触ると熱く、息も苦しそうにしている。 体温計を脇に挟ませて、牧は春田の着替えを寝室から持ってくる。 ぴぴ、と鳴った体温計の表示は「37. 思っていたより高く、牧はやっぱり病院行きましょう、と言いかける。 言いかけて終わってしまったのは、春田が小さく「まき」といかにも心細そうな声を出したからだ。 普段は凌太と呼んでくれる春田が「まき」と呼ぶときは参っているときか焦っているとき。 牧は苦笑いしながら、春田の髪を撫でた。 「明日の朝、下がってなかったら病院行きますからね」 「ぅん」 「はい、着替えましょう。 できる?」 「ぅー……ん」 春田に着替えを渡し、牧はようやく自分も普段着に着替える。 それから買って帰ってきたものをあるべき場所にしまう。 何か食べさせないと薬を飲ませられない。 のろのろと着替えを済ませた春田は、ソファでぐったりしている。 「創一、何か食べられます?」 「いらない、腹減ってない……」 「でも薬飲む前に何か腹に入れないと……。 とりあえず、ゼリーでも食べましょうか。 ね?」 「うん……」 小さなフルーツゼリーを、牧は甲斐甲斐しく食べさせ、薬も飲ませた。 スポーツ飲料もたっぷり飲ませる。 スプーンやコップを流しに持っていってリビングに戻ると、春田はまた膝掛けに包まってソファで寝ようとしているところだった。 「こら、そんなとこで寝ない。 ベッド行きましょう」 「いい、ここで」 「何言ってんですか。 こんなとこで寝たら、治るものも治りませんよ」 「いい」 「良くない」 「……やだ、まきが」 「俺が嫌なの?」 やはり今朝の諍いを引きずっているのだろうか。 牧はもうなんとも思っていないのに。 それか、あれこれお節介しすぎただろうか。 それともガミガミ言いすぎた? 牧は瞬時にいろいろ考える。 しかし、牧の不安をよそに、春田はもう寝る態勢になっている。 「春田さん、ねえ」 「まきが、風邪引いちゃう」 「え?」 「うつっちゃうから、俺ここでいい」 「……なんだ、そんなことか……」 未だに些細なことで不安になる自分が牧は嫌になる。 こんなに辛そうにしている夫を前にして、嫌われたんじゃないか、なんて。 そんなこと考えている場合ではないのに。 「うつったら、創一が看病してください」 「でもぉ……」 「創一が辛そうなの、俺、嫌だから。 はやく治ってほしい。 俺のために治して」 「……わかった……」 昔の自分ならこんなこと言えなかったな、と考えて牧は小さく笑う。 「俺のせいで」と言うことは多くても「俺のために」なんて。 叶えてくれる春田がそばにいるから、牧は日々、甘えることが増えていく。 のそのそと寝室に向かう春田のあとをついていく。 春田が布団に潜り込む間に、クローゼットから毛布を一枚出し、ベッドに追加する。 寒いと春田が言うからだ。 まだ寒気を感じるということは、これからさらに熱が上がるかもしれない。 牧自身はよく風邪を引くので、そのあたりは心得ている。 一方、春田は滅多に風邪を引かないので、随分と参っているようだった。 熱で目を潤ませて、ぜえぜえと喉を鳴らしている。 牧は暖房を入れ、空気清浄機の加湿機能を「強」に切り替えた。 「さむい……」 「また熱上がるかもですね」 「えっ、やだ……」 「じゃあしっかり暖かくして、寝ましょ」 牧はベッドの端に腰掛けて、春田の胸辺りをとん、とん、と優しいゆっくりとしたリズムで叩いた。 甘やかしすぎかと思いちらりと春田を見やると、心なしか表情が和らいでいる。 「りょうた」 「はい?」 「今更だけど、早退して来てくれたの」 「そりゃあ、家族が熱出したら帰りますよ」 「……へへ、家族か」 「明日も休み取ったから、安心して寝てください」 てっきり明日も休みなんてやりすぎと言われるかと思ったが、春田は「ありがと」とにこにこ笑みを浮かべた。 いつも元気いっぱいの春田に慣れているから、弱々しい春田を見て牧はすこし胸が痛い。 早く元気になって欲しい。 心の底からそう思う。 しばらく牧はそのまま春田のそばにいた。 薬が効いてきた春田が眠るまで。 春田は眠る直前まで牧を見ていた。 不安そうな顔で、まるで眠ったら牧がどこかに消えてしまうとでも思っているような顔で。 もう牧はどこにも行かない。 どこにも行かないと誓ったから。 春田が苦しそうではあるがようやく寝息を立て始めたので、しっかりと布団をかけて牧は寝室を後にする。 思いがけず早退となったが牧は元気だ。 買い物は帰ってくる前に済ませて来たから良いとして、残りの家事を早めに片付けることにする。 洗濯物を取り込み、プランターの花や野菜たちに水をやり、いつもは春田の担当の風呂掃除も済ませる。 掃除機は音が響くので今日は中止。 そうやってひとつひとつこなしていきながら、合間に寝室を何度も覗いた。 春田は仰向けで寝ている。 普段うつ伏せで寝るのは元気の証なのだな、と牧はすこし面白く思った。 春田のことはどんな些細なことでも知ると嬉しい。 春田がいるのに静かなマンションで、牧は夕食までの時間は仕事をして過ごした。 狸穴からのメールに春田は大丈夫なのかと追伸があり、はたと思い当たって鞄の中に忘れ去っていた個人携帯を確認すると営業所の面々からも春田を心配するメールやメッセージが届いていた。 春田は誰からも愛されている。 牧はそんな春田がとても好きだ。 そして、一件一件、丁寧に返信をした。 『お気遣いありがとうございます。 春田がご迷惑、ご心配をお掛けして申し訳ありません。 ただの風邪だと思います。 明日も出社は厳しそうです。 復帰したらバンバン働かせてください』といっぱしのパートナー然としてメッセージを打ち込むのは、どこかむず痒くて、でも、嬉しい。 日が暮れて、牧は夕食の支度に取り掛かる。 自分は簡単なものをあとで適当に食べるとして、春田のおかゆを作らなくてはならない。 ただの白がゆではなく、たまごを落とそう。 幸い、胃腸には風邪菌は作用していないようなので、すこしでも食欲をそそるようにしたい。 そんなことを考えながら調理していると、背後に人の気配がした。 「ぉはよ」 「おはようございます。 気分はどうですか?」 「んー……」 「昼間よりはマシ? マシじゃない?」 「頭痛はマシになったかも……」 「そうですか。 なら良かった」 うんとゆるく頷いて、春田はふらふらとトイレに向かった。 牧は鍋に蓋をして火を止める。 それからタオルを濡らして、レンジに入れた。 寝汗をかいていたようだから、着替えついでに体を拭いてあげよう。 風呂はまだしんどいだろうから。 そうこうしている間に春田がトイレから戻ってきて、のそのそと寝室に戻っていく。 布団に潜り込もうとするのを慌てて牧は止めた。 「寝巻き、着替えましょ」 「ん? んー……」 春田はぼんやりと、しかしちゃんと牧に言われたとおりにスウェットを脱ぎ出した。 牧は軽く手伝ってやる。 手を出さずにはいられないのだ。 春田が困っているとき、しんどいとき、辛いとき。 そういう時に何はばかることなく、真っ先に手助けをして良い位置に、牧はいる。 蒸しタオルで体を拭くと、春田は「大変ありがたいです」と殊勝なことを言った。 その言葉遣いがいつもの春田らしくなくて牧は笑ってしまう。 「これですこしサッパリするでしょ」 「うん、きもちー」 「はい、冷えるからすぐ着る」 「へーい」 「ん、じゃあ熱測って。 ごはん食べられます? おかゆ作ってありますよ」 「たべる」 食べる気が出てきたことに安堵し、牧はおかゆを寝室に持っていく。 熱は少しだけ下がっていたが、まだ平熱には遠い。 春田は平熱が牧より高いが、それを差し引いてもまだ下がったとは言えない。 おかゆを食べさせてあげるべきか牧が迷っていると、春田は首を傾げて牧を見た。 おかゆを受け取る素振りはない。 当たり前のように食べさせてもらう気でいるらしい。 滅多に風邪を引かない春田は、大変に弱るのだ。 「はいはい、あーん」 「あー」 三十を半ばも過ぎた成人男性のくせに、自然とこういうことが出来る春田に牧は恐れ入る。 乗っかって食べさせてあげる自分も大概だと思うが、これはもう性分だから仕方がないと割り切ることにする。 牧はいつだって春田に尽くしたい。 弱っているのなら尚更だ。 食べさせてもらっているにも関わらず、相変わらずボロボロ零す春田に牧は笑った。 しょうがないなあ、という小言は、しかし甘く響いてしまう。 春田はおかゆを平らげ、薬も飲んだ。 「何かあったら呼んでくださいね」 「ん、ありがと……あのさあ、まき」 「なんですか?」 春田に布団をかけてやりながら、牧は春田の言葉を待った。 春田は弱々しく笑みを浮かべて、手を伸ばしてくる。 その手を取って、牧は床にぺたりと座った。 横になっている春田と目線を合わせたくて。 「朝、ごめん」 「え? ああ、いいですよ。 あの時から具合悪かったんですね、きっと」 「うん、でも、あんなこと言っちゃダメだった」 牧は優しく笑う。 あんなこと、なんでもない。 些細な諍いだ。 結婚しているのだから、そんな日だったあるだろう。 牧だってムキになった。 同罪だ。 春田は牧が笑うのを見て、安心したようだった。 「好きって言葉にしなくても、凌太はいろんな違うやり方で好きって、言ってくれてんだね」 「どういうことですか?」 「早退して休みとってくれたり、おかゆ作ってくれたり、体拭いてくれたりさ、そういうのひとつひとつがさ、全部、好きって言葉とおんなじなんだって、思った」 好きに代わる言葉や行動。 そういうものがたくさん集まってふたりの生活は成り立っている。 好きだよ大好き愛してる。 牧が料理を作るのも、春田が風呂掃除をするのも、ふたりで映画を見るのも、休日の前の晩は抱き合うのも、左手に光る結婚指輪も、全部「好きだよ大好き愛してる」という言葉の代わりだ。 「行動だけじゃないよ。 ここで寝たら治らないとか、なにか食べれますかとか、あったかくして寝ましょうとか、そういう言葉も全部さ、好きってことじゃんね」 「それだけ喋れるなら明日病院行かなくても良いかもしれないですね」 「ちょっとぉ、ここは感動するとこじゃねぇの?」 もちろん牧は感動していた。 していたから、うまく返せなかった。 どんなことでもきちんと言葉を尽くそうとしてくれる春田が好きだし、結婚して良かったと心から思う。 顔が赤くなっていませんようにと祈りながら、サイドテーブルに置いてある冷感シートを一枚取り出す。 春田の額に丁寧貼り付けながら、牧は謝罪の言葉を口にした。 「……俺も、今朝はごめんなさい。 態度や行動だけで分かってもらおうとするのは俺の悪い癖です。 言葉にしないとダメなこともたくさんあるのに。 あと……単純に、照れ臭くて、いろいろ……」 「ん。 ただ、熱が下がると同時に咳と鼻水が増え、夜通し咳き込んでいた。 その咳があまりに苦しそうで、隣で寝ていた牧は幾度となく起き出して飲み物を飲ませたり、空気を入れ替えたりした。 おかげでふたり揃って目の下に隈ができた。 「熱下がった〜! 大勝利! ェッホ、ゲホゲホゲホ」 「内臓飛び出しそうな咳しといて何が勝利ですか。 今日も休みにしておいて正解でしたね」 その後、熱は下がったのだから病院は行かないと言い張る春田をなだめすかして病院に引っ張っていき、ちゃんと薬を貰って来た。 牧も休みを取っておいて良かったと心底思った。 「病院行っておいてくださいね」と言い置いて出勤しても、春田は行かなかっただろう。 本当に子どもっぽい人だ。 「はー、熱がないってだけでこんなにも健康! ゲッホ、エッホゲホ、」 「だから健康じゃねえから」 「咳しすぎて腹筋が痛い」 「いい運動ですね」 「腹筋が十二個くらいに割れちゃったらどーしよー」 昨日の今日だからまだ寝ていて欲しかったが、春田はじっと寝ているのが苦手だ。 スウェット姿にマスクをつけて、リビングのソファでうだうだしている。 鼻水もすごいので、ティッシュ箱を抱えている。 牧はその様子を時折眺めながら、普段やる時間のない細かな掃除をちょこちょこと片付けていく。 思い掛けずふたり揃っての休日となった。 もちろんデートに出掛けるなんてことはないが、こんなふうに家でゆっくりするのも良い。 正しく「家族」という感じがする。 春田の咳、鼻をかむ音、ひどい寝癖、熱の疲労で腫れぼったいまぶた。 カッコつけることも気を遣うこともない、そのまんまの、春田だ。 家族だから、会える春田。 「お昼ご飯はうどんにしましょうか」 「えー、なんかこってりしたもん食いたい」 「病院で貰った薬、胃が荒れるかもしれないからって胃薬も出てるでしょ。 優しいもの食べないと」 「うー」 抱き枕を抱えた春田がソファに寝転がる。 牧が春田を想って言っているのが分かっているから、強くワガママを通せないのだろう。 「元気になったら、なんでも好きなもの作ってあげますよ」 「マジ? やったー。 凌太愛してる!」 マスクをしていても分かる、満面の笑み。 すぐ盛大に咳き込んだので、完全回復まではしばらくかかりそうだと牧は笑う。 明日までには咳も鼻水も治ってくれるといい。 春田が元気じゃないのは辛い。 春田が元気になる頃には、もしかしたら牧がダウンしているかもしれないが、そうしたら春田が牧のことを大切にしてくれる。 そういうふうに生きているから。 家族だから。 牧はちゃんと自分の過ちを反省するタイプなので、リビングに行き、ソファの前に腰を下ろした。 それから、春田の顔を見て、ちゃんと言った。 「俺も愛してますよ、創一」.

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私のヒーローアカデミア~わんほぉー、わんほぉーなんだってけかをお断りし続ける私の楽しい英雄物語~

代わり と 言っ て は なん です が

その日の春田は、大変に不機嫌だった。 もともと朝は不機嫌だが、いつにも増して不機嫌だ。 むすっとしてパンをかじっている。 春田の朝のテンションの低さには慣れたものなので、牧は気にせず向かいの席で朝食を胃に収めていく。 春田の不機嫌に攻撃性はない。 ただ、無口で大人しいだけ。 それが、今朝はすこし違った。 「あのさあ」 「はい」 「お前ってさ、最近さ、好きとかあんま言わねえよな」 「……なんですか急に」 牧はそれ以上は何も言わず、静かにヨーグルトを食べる。 ようやく口を開いたと思ったら何を言ってるんだこの人は、というのが顔に出ていたのか、春田はますますむっとした。 「なんかさ、俺ばっか好きみたい」 「結婚までしたのに俺の気持ち疑ってるんですか? そもそも最初に告白したのは俺からでーー」 「そぉだけど、っさー……」 春田の口からこんなことを言われる日が来るとは思っていなかったのが牧の正直な気持ちだった。 「俺ばかり好き」だなんて、牧が何度も何度も春田に抱いた気持ちだ。 それでもそんなことを言ってしまったら重たいと思われて引かれるんじゃないか。 そういう不安に負けてしまって言えなかった。 どれだけ思い悩んだことだろう。 今は春田の気持ちを疑っていないし、愛されている自信もついた。 それなのに。 「言ってくれねえと、自信なくなるじゃん」 牧が悩んで苦しんで言えなかった言葉を春田はいとも簡単に牧にぶつけてくる。 牧はなんだか腹が立った。 それで、ぶっきらぼうに言い放った。 「すみませんね、不出来な夫で」 「そこまで言ってねえだろ」 「そう聞こえました」 「んだよ、それ……。 あーあ、朝っぱらからテンション下がるわ」 「勝手に下げといて人のせいですか?」 「あー、もういいよ。 ごちそうさま」 春田は流しに食器を運ぶこともせず、逃げるように寝室に向かった。 取り残された牧はついきつい口調で「ちょっと! 皿!」と呼びかけたが、「ごめーん」と反省の色のない返事が返ってきてさらに怒った。 牧よりも家を出るのが早い春田に用意した弁当を渡して見送る時間になっても、春田も牧もなんとなく不機嫌なままだった。 朝からなんなんだ。 牧は面白くない気持ちのまま、自分も出勤のための支度をした。 牧凌太はスマートフォンを握り締めて立ち上がった。 周りの同僚が「どうした」「何があった」とざわつく。 牧は誰の問いかけに答えることもなく、まっすぐに上司の狸穴のデスクに向かった。 「狸穴さん」 「牧? どうした?」 牧はなんとか背筋を伸ばして、さも仕事の話をするかのような冷静な顔で言い放った。 「夫が発熱しているので、早退させて頂きます」 そうして早退した上に明日の有給ももぎ取った牧は、まず地下鉄に乗り込んだ。 昼間の閑散とした車内で、けれど座ることはしなかった。 座ってられるか、と思ったのだ。 この瞬間も、夫の春田は苦しんでいるのだ。 仕事関係のメールを何件か社用携帯から送る。 今日は早退、明日は有給で一日不在。 多少の迷惑をかけるのは承知の上だが、せめて最小限に抑えたい。 持ち帰り用のパソコンも持ってきたから、家で少しは仕事ができるはず。 緊急の連絡は社用の携帯に電話してもらうようにすればいい。 仕事中の牧に送られてきたメッセージは春田からのもので、『具合悪いから早退する』という簡素なもので、いつもの春田特有の絵文字やスタンプが一切なかった。 慌てて『どう具合悪いの』と返信すると『熱』と一言だけ返ってきたので、牧はボールペンを取り落とし、狸穴に早退および有給願いを即座に伝えに行くに至ったのだった。 今朝の些細な喧嘩を思い出して、牧は後悔の波に飲まれた。 朝ごはんは残さず平らげていたから、元気なんだと思っていた。 でも、思い返してみると、いつもは流しに食器を運ぶのに、そのままにして着替えに行ってしまった。 小言を言ったけれど、春田は「ごめーん」と寝室からやる気のない謝罪をよこして、牧はさらに怒ってしまったっけ。 あの時も、本当は具合が悪かったのか。 さあっと牧は血の気が引く。 具合が悪かったから、あんなことを言っていたのだ。 いつもの春田じゃなかったのだ。 夫の体調の変化に気がつくことができないなんて、俺はなんてダメな夫なんだ。 牧は頭を抱えたくなるのを必死に我慢した。 いつもより速度が遅いんじゃないかと思うくらい、家への道のりが遠く感じた。 営業所から病院に直行して、とメッセージを送っても、既読になるだけで返事がない。 「どこにいるの?」「病院は?」と立て続けに送れば、やっと「家着いた、寝る」と返ってくる。 病院にも行かず、この様子だと薬も買ってない。 最寄駅にようやく着いた牧は一刻も早く家に帰りたい気持ちを抑えて、スーパーと薬局に寄った。 病人の世話に必要なものをありったけ買い込んで、ほとんど走るようにして家に帰る。 「ただいま、創一、創一ただいま」 息を切らして、何度も名前とただいまを連呼して転がるようにして帰宅すると、しんと暗いリビングで蠢く影が一つ。 牧は今朝の喧嘩はすっかり忘れて、その影に飛びつく。 「創一!」 「……ぉ、かえり」 「声ひっどい……」 「のど、はれて」 「ああ、あー、喋んなくていいから、っていうかなんでリビングで寝てんだよアンタは!」 春田はリビングのソファで丸くなっている。 寒がりの牧が使っている膝掛けを申し訳程度に肩にかけて、スーツのまま。 顔は白く、唇がカサついている。 「薬は?」 「のんでない、いまさっき、帰ってきて、しんどくて」 「病院は?」 「行ってない、行かない、寝る、寝たら治る」 牧は小さくため息をつく。 本当は病院に引きずって行きたいところだが、春田も大人だ。 必要と感じていたら職場から直行していただろう。 寝たら治る、とまた言い張るので、とりあえず今日は様子を見ようと決める。 そうと決まれば、このままではダメだ。 「創一、わかった、病院はやめとこう」 「ん……」 「でも、ここで寝てても良くならないから、しんどいと思うけどちょっと起きて?」 牧は出来るだけ優しく言い、春田が起き上がるのを支える。 額に触ると熱く、息も苦しそうにしている。 体温計を脇に挟ませて、牧は春田の着替えを寝室から持ってくる。 ぴぴ、と鳴った体温計の表示は「37. 思っていたより高く、牧はやっぱり病院行きましょう、と言いかける。 言いかけて終わってしまったのは、春田が小さく「まき」といかにも心細そうな声を出したからだ。 普段は凌太と呼んでくれる春田が「まき」と呼ぶときは参っているときか焦っているとき。 牧は苦笑いしながら、春田の髪を撫でた。 「明日の朝、下がってなかったら病院行きますからね」 「ぅん」 「はい、着替えましょう。 できる?」 「ぅー……ん」 春田に着替えを渡し、牧はようやく自分も普段着に着替える。 それから買って帰ってきたものをあるべき場所にしまう。 何か食べさせないと薬を飲ませられない。 のろのろと着替えを済ませた春田は、ソファでぐったりしている。 「創一、何か食べられます?」 「いらない、腹減ってない……」 「でも薬飲む前に何か腹に入れないと……。 とりあえず、ゼリーでも食べましょうか。 ね?」 「うん……」 小さなフルーツゼリーを、牧は甲斐甲斐しく食べさせ、薬も飲ませた。 スポーツ飲料もたっぷり飲ませる。 スプーンやコップを流しに持っていってリビングに戻ると、春田はまた膝掛けに包まってソファで寝ようとしているところだった。 「こら、そんなとこで寝ない。 ベッド行きましょう」 「いい、ここで」 「何言ってんですか。 こんなとこで寝たら、治るものも治りませんよ」 「いい」 「良くない」 「……やだ、まきが」 「俺が嫌なの?」 やはり今朝の諍いを引きずっているのだろうか。 牧はもうなんとも思っていないのに。 それか、あれこれお節介しすぎただろうか。 それともガミガミ言いすぎた? 牧は瞬時にいろいろ考える。 しかし、牧の不安をよそに、春田はもう寝る態勢になっている。 「春田さん、ねえ」 「まきが、風邪引いちゃう」 「え?」 「うつっちゃうから、俺ここでいい」 「……なんだ、そんなことか……」 未だに些細なことで不安になる自分が牧は嫌になる。 こんなに辛そうにしている夫を前にして、嫌われたんじゃないか、なんて。 そんなこと考えている場合ではないのに。 「うつったら、創一が看病してください」 「でもぉ……」 「創一が辛そうなの、俺、嫌だから。 はやく治ってほしい。 俺のために治して」 「……わかった……」 昔の自分ならこんなこと言えなかったな、と考えて牧は小さく笑う。 「俺のせいで」と言うことは多くても「俺のために」なんて。 叶えてくれる春田がそばにいるから、牧は日々、甘えることが増えていく。 のそのそと寝室に向かう春田のあとをついていく。 春田が布団に潜り込む間に、クローゼットから毛布を一枚出し、ベッドに追加する。 寒いと春田が言うからだ。 まだ寒気を感じるということは、これからさらに熱が上がるかもしれない。 牧自身はよく風邪を引くので、そのあたりは心得ている。 一方、春田は滅多に風邪を引かないので、随分と参っているようだった。 熱で目を潤ませて、ぜえぜえと喉を鳴らしている。 牧は暖房を入れ、空気清浄機の加湿機能を「強」に切り替えた。 「さむい……」 「また熱上がるかもですね」 「えっ、やだ……」 「じゃあしっかり暖かくして、寝ましょ」 牧はベッドの端に腰掛けて、春田の胸辺りをとん、とん、と優しいゆっくりとしたリズムで叩いた。 甘やかしすぎかと思いちらりと春田を見やると、心なしか表情が和らいでいる。 「りょうた」 「はい?」 「今更だけど、早退して来てくれたの」 「そりゃあ、家族が熱出したら帰りますよ」 「……へへ、家族か」 「明日も休み取ったから、安心して寝てください」 てっきり明日も休みなんてやりすぎと言われるかと思ったが、春田は「ありがと」とにこにこ笑みを浮かべた。 いつも元気いっぱいの春田に慣れているから、弱々しい春田を見て牧はすこし胸が痛い。 早く元気になって欲しい。 心の底からそう思う。 しばらく牧はそのまま春田のそばにいた。 薬が効いてきた春田が眠るまで。 春田は眠る直前まで牧を見ていた。 不安そうな顔で、まるで眠ったら牧がどこかに消えてしまうとでも思っているような顔で。 もう牧はどこにも行かない。 どこにも行かないと誓ったから。 春田が苦しそうではあるがようやく寝息を立て始めたので、しっかりと布団をかけて牧は寝室を後にする。 思いがけず早退となったが牧は元気だ。 買い物は帰ってくる前に済ませて来たから良いとして、残りの家事を早めに片付けることにする。 洗濯物を取り込み、プランターの花や野菜たちに水をやり、いつもは春田の担当の風呂掃除も済ませる。 掃除機は音が響くので今日は中止。 そうやってひとつひとつこなしていきながら、合間に寝室を何度も覗いた。 春田は仰向けで寝ている。 普段うつ伏せで寝るのは元気の証なのだな、と牧はすこし面白く思った。 春田のことはどんな些細なことでも知ると嬉しい。 春田がいるのに静かなマンションで、牧は夕食までの時間は仕事をして過ごした。 狸穴からのメールに春田は大丈夫なのかと追伸があり、はたと思い当たって鞄の中に忘れ去っていた個人携帯を確認すると営業所の面々からも春田を心配するメールやメッセージが届いていた。 春田は誰からも愛されている。 牧はそんな春田がとても好きだ。 そして、一件一件、丁寧に返信をした。 『お気遣いありがとうございます。 春田がご迷惑、ご心配をお掛けして申し訳ありません。 ただの風邪だと思います。 明日も出社は厳しそうです。 復帰したらバンバン働かせてください』といっぱしのパートナー然としてメッセージを打ち込むのは、どこかむず痒くて、でも、嬉しい。 日が暮れて、牧は夕食の支度に取り掛かる。 自分は簡単なものをあとで適当に食べるとして、春田のおかゆを作らなくてはならない。 ただの白がゆではなく、たまごを落とそう。 幸い、胃腸には風邪菌は作用していないようなので、すこしでも食欲をそそるようにしたい。 そんなことを考えながら調理していると、背後に人の気配がした。 「ぉはよ」 「おはようございます。 気分はどうですか?」 「んー……」 「昼間よりはマシ? マシじゃない?」 「頭痛はマシになったかも……」 「そうですか。 なら良かった」 うんとゆるく頷いて、春田はふらふらとトイレに向かった。 牧は鍋に蓋をして火を止める。 それからタオルを濡らして、レンジに入れた。 寝汗をかいていたようだから、着替えついでに体を拭いてあげよう。 風呂はまだしんどいだろうから。 そうこうしている間に春田がトイレから戻ってきて、のそのそと寝室に戻っていく。 布団に潜り込もうとするのを慌てて牧は止めた。 「寝巻き、着替えましょ」 「ん? んー……」 春田はぼんやりと、しかしちゃんと牧に言われたとおりにスウェットを脱ぎ出した。 牧は軽く手伝ってやる。 手を出さずにはいられないのだ。 春田が困っているとき、しんどいとき、辛いとき。 そういう時に何はばかることなく、真っ先に手助けをして良い位置に、牧はいる。 蒸しタオルで体を拭くと、春田は「大変ありがたいです」と殊勝なことを言った。 その言葉遣いがいつもの春田らしくなくて牧は笑ってしまう。 「これですこしサッパリするでしょ」 「うん、きもちー」 「はい、冷えるからすぐ着る」 「へーい」 「ん、じゃあ熱測って。 ごはん食べられます? おかゆ作ってありますよ」 「たべる」 食べる気が出てきたことに安堵し、牧はおかゆを寝室に持っていく。 熱は少しだけ下がっていたが、まだ平熱には遠い。 春田は平熱が牧より高いが、それを差し引いてもまだ下がったとは言えない。 おかゆを食べさせてあげるべきか牧が迷っていると、春田は首を傾げて牧を見た。 おかゆを受け取る素振りはない。 当たり前のように食べさせてもらう気でいるらしい。 滅多に風邪を引かない春田は、大変に弱るのだ。 「はいはい、あーん」 「あー」 三十を半ばも過ぎた成人男性のくせに、自然とこういうことが出来る春田に牧は恐れ入る。 乗っかって食べさせてあげる自分も大概だと思うが、これはもう性分だから仕方がないと割り切ることにする。 牧はいつだって春田に尽くしたい。 弱っているのなら尚更だ。 食べさせてもらっているにも関わらず、相変わらずボロボロ零す春田に牧は笑った。 しょうがないなあ、という小言は、しかし甘く響いてしまう。 春田はおかゆを平らげ、薬も飲んだ。 「何かあったら呼んでくださいね」 「ん、ありがと……あのさあ、まき」 「なんですか?」 春田に布団をかけてやりながら、牧は春田の言葉を待った。 春田は弱々しく笑みを浮かべて、手を伸ばしてくる。 その手を取って、牧は床にぺたりと座った。 横になっている春田と目線を合わせたくて。 「朝、ごめん」 「え? ああ、いいですよ。 あの時から具合悪かったんですね、きっと」 「うん、でも、あんなこと言っちゃダメだった」 牧は優しく笑う。 あんなこと、なんでもない。 些細な諍いだ。 結婚しているのだから、そんな日だったあるだろう。 牧だってムキになった。 同罪だ。 春田は牧が笑うのを見て、安心したようだった。 「好きって言葉にしなくても、凌太はいろんな違うやり方で好きって、言ってくれてんだね」 「どういうことですか?」 「早退して休みとってくれたり、おかゆ作ってくれたり、体拭いてくれたりさ、そういうのひとつひとつがさ、全部、好きって言葉とおんなじなんだって、思った」 好きに代わる言葉や行動。 そういうものがたくさん集まってふたりの生活は成り立っている。 好きだよ大好き愛してる。 牧が料理を作るのも、春田が風呂掃除をするのも、ふたりで映画を見るのも、休日の前の晩は抱き合うのも、左手に光る結婚指輪も、全部「好きだよ大好き愛してる」という言葉の代わりだ。 「行動だけじゃないよ。 ここで寝たら治らないとか、なにか食べれますかとか、あったかくして寝ましょうとか、そういう言葉も全部さ、好きってことじゃんね」 「それだけ喋れるなら明日病院行かなくても良いかもしれないですね」 「ちょっとぉ、ここは感動するとこじゃねぇの?」 もちろん牧は感動していた。 していたから、うまく返せなかった。 どんなことでもきちんと言葉を尽くそうとしてくれる春田が好きだし、結婚して良かったと心から思う。 顔が赤くなっていませんようにと祈りながら、サイドテーブルに置いてある冷感シートを一枚取り出す。 春田の額に丁寧貼り付けながら、牧は謝罪の言葉を口にした。 「……俺も、今朝はごめんなさい。 態度や行動だけで分かってもらおうとするのは俺の悪い癖です。 言葉にしないとダメなこともたくさんあるのに。 あと……単純に、照れ臭くて、いろいろ……」 「ん。 ただ、熱が下がると同時に咳と鼻水が増え、夜通し咳き込んでいた。 その咳があまりに苦しそうで、隣で寝ていた牧は幾度となく起き出して飲み物を飲ませたり、空気を入れ替えたりした。 おかげでふたり揃って目の下に隈ができた。 「熱下がった〜! 大勝利! ェッホ、ゲホゲホゲホ」 「内臓飛び出しそうな咳しといて何が勝利ですか。 今日も休みにしておいて正解でしたね」 その後、熱は下がったのだから病院は行かないと言い張る春田をなだめすかして病院に引っ張っていき、ちゃんと薬を貰って来た。 牧も休みを取っておいて良かったと心底思った。 「病院行っておいてくださいね」と言い置いて出勤しても、春田は行かなかっただろう。 本当に子どもっぽい人だ。 「はー、熱がないってだけでこんなにも健康! ゲッホ、エッホゲホ、」 「だから健康じゃねえから」 「咳しすぎて腹筋が痛い」 「いい運動ですね」 「腹筋が十二個くらいに割れちゃったらどーしよー」 昨日の今日だからまだ寝ていて欲しかったが、春田はじっと寝ているのが苦手だ。 スウェット姿にマスクをつけて、リビングのソファでうだうだしている。 鼻水もすごいので、ティッシュ箱を抱えている。 牧はその様子を時折眺めながら、普段やる時間のない細かな掃除をちょこちょこと片付けていく。 思い掛けずふたり揃っての休日となった。 もちろんデートに出掛けるなんてことはないが、こんなふうに家でゆっくりするのも良い。 正しく「家族」という感じがする。 春田の咳、鼻をかむ音、ひどい寝癖、熱の疲労で腫れぼったいまぶた。 カッコつけることも気を遣うこともない、そのまんまの、春田だ。 家族だから、会える春田。 「お昼ご飯はうどんにしましょうか」 「えー、なんかこってりしたもん食いたい」 「病院で貰った薬、胃が荒れるかもしれないからって胃薬も出てるでしょ。 優しいもの食べないと」 「うー」 抱き枕を抱えた春田がソファに寝転がる。 牧が春田を想って言っているのが分かっているから、強くワガママを通せないのだろう。 「元気になったら、なんでも好きなもの作ってあげますよ」 「マジ? やったー。 凌太愛してる!」 マスクをしていても分かる、満面の笑み。 すぐ盛大に咳き込んだので、完全回復まではしばらくかかりそうだと牧は笑う。 明日までには咳も鼻水も治ってくれるといい。 春田が元気じゃないのは辛い。 春田が元気になる頃には、もしかしたら牧がダウンしているかもしれないが、そうしたら春田が牧のことを大切にしてくれる。 そういうふうに生きているから。 家族だから。 牧はちゃんと自分の過ちを反省するタイプなので、リビングに行き、ソファの前に腰を下ろした。 それから、春田の顔を見て、ちゃんと言った。 「俺も愛してますよ、創一」.

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私のヒーローアカデミア~わんほぉー、わんほぉーなんだってけかをお断りし続ける私の楽しい英雄物語~

代わり と 言っ て は なん です が

「おはようございます!パルテナさ……ま…?」 「ピット?ピット!」 今日、ピットが倒れた。 おそらく病気でしょう。 「ずっと、無理をしていたのですか?」「いえ…初めて、です。 」 何の病気かは分かりませんが… 「は…あ。 すいません…パルテナ様。 今日は、動けそうに…ありません。 」 「いえ、気にしないで下さい。 あなたの分はイカロス達で補います。 」 とても辛いようですね… 「今は、ゆっくり休んで下さい。 」 「…そう、します。 」 「…ピット、私は用事があるので席を外します。 ごめんなさいね。 」 「…はい。 」 そっと扉を閉めて…ふう。 このことはブラピに言ったほうがいいのでしょうか? しかし、ブラコン…ごほんごほん、心配症のブラピのことですから、大騒ぎになるかもしれませんね… 「はあ、どうしましょ「ピット~!いるか~?」…」 伝える前に来てしまいましたか! な、なぜこんなときに限って自分から来たんですか… いつもはツンデレのツンの部分しか出していないのに… 「…ブラピ。 」 「あ、パルテナ様。 ピットは…」 「…ピットなら、人間界に行っていますよ。 」 「人間界…そうか。 」 「邪魔したな。 」 「いえ…大丈夫ですよ。 」 私の話を最後まで聞かずに、ブラピは踵を返して去って行った。 今日は誤魔化せたから良いものの、明日以降はどうしましょうか… 毎日毎日人間界に行っている、ではすぐに気付かれてしまいますね。 「げほっ……げほっ…」 ピット… 「ピット、大丈夫ですか?」 「パルテナ様…誰か、来たんですか?」 「い、いえ、誰も来てませんよ。 」 危ない危ない。 ピットにはブラピが来たことは言わないでおきましょう。 「ところでピッ「やっぱりな!」「「!?」」 「ブラピ…」「ブラピ!」 「パルテナ様がいつもと違う感じだったからな。 何か隠してるんじゃないかと思って、帰るフリして隠れたんだ。 」 「さすが…ピットと違って鋭いですね。 」「ちょっと、パルテナ様。 」 「で、見た所コイツが風邪引いてるんだろ?」 もう全部言ってしまいましょうか。 「ブラピ。 落ち着いて聞いてください。 」 「落ち着いてって…なんだ。 」 「ピットは…風邪ではありません。 病気です。 」 「…病気?何の病気だ。 」 「それは分かりません…」 「命にかかわるのか。 」 「それも分かりません。 病気だとわかったばかりなので…」 「…そうか。 じゃあ俺は大人しく帰るとするか。 」 「帰るの…ブラピ。 」 「ああ。 …早くよくなれよ。 」 「…うん。 ありが……っ!」 !また…! 「ピット!?」 「かっ……は……!」 「ピット!落ち着いて、ゆっくり呼吸をして下さい。 焦ってはいけませんよ。 」 「は…はぁ…ふぅ。 」 「お、おい。 本当に大丈夫なのか?」 「うん…もう大丈夫。 ごめんね。 」 「バイバイ、ブラピ。 」 「…じゃあな。 」 出ていくブラピ。 …と、足を止めて、 「また来るぞ。 パルテナ様。 」 「…はい。 わかりました。 」 今度こそ出ていった。 私に言ったということは、私への用で来るぞ、ということでしょう。 おそらく、あれでどうにか出来ないか、という話でしょうね。 「…パルテナ様。 寝ていいですか?」 「はい。 どうぞ。 」 「…あの、パルテナ様。 」 「どうかしましたか?」 「…ここにいてもらえますか…?」 「…もちろんです。 」 「…ありがとうございます。 」 [newpage] -数日後- 「来ましたね。 ブラピ。 …と、ナチュレ。 」 「ピットのことはブラピから聞いた。 大変そうじゃのぅ。 」 「パルテナ様!ピットは…」 「…ついてきて下さい。 」 俺とナチュレは、パルテナ様の後について行った。 「…ピット、入りますよ。 」 「……………。 」 声にならない声で、ピットが返事をした。 パルテナ様が扉を開けた。 そこには… 「ピッ…ト…」「まさか…ここまでとは…」 血まみれのベッドに、生気の無いピットが横たわっていた。 「ピット…!また血が…!」 「……………。 」 ピットの口から血が垂れている…ん? 口が微かに動いている。 多分今のは、すいません、と言ったのだろう。 虚ろな目で俺を見るピット。 また口を動かした。 今のは…「いらっしゃい、と言ったのか?」ナチュレ… ピットがゆっくり頷く。 「…ああ。 」 ピットがパルテナ様に何かを伝えようとしている。 「…え?…話、ですか?しかし貴方が…わかりました。 ごめんなさいね。 」 「パルテナ様?」 「ブラピ、私に言いたいことがあって来たのでしょう?」 「ああ、そうだ。 」 「…部屋を変えましょうか。 」 「そうじゃな、その方が良い。 」 「ピット、少し待っていて下さいね。 」 部屋を出るとき、俺がピットの方を見ると、手が少し動いていた。 手を振っていた。 俺も、手を振り返した。 ……ピットは、とても寂しそうな顔をしていた。 -パルテナの部屋- 「さて、どうぞ。 ブラピ。 」 パルテナ様の部屋に入って、丸いテーブルに座った。 パルテナ様が早く終わらせようとしているのがわかる。 ピットのことが心配で仕方ないのだろう。 じゃあ、さっさと話すか。 「あのさ、その…ピットの病気って…」 「奇跡でなんとか出来ないのか?」 俺とピットを支えてくれる、パルテナ様やナチュレの奇跡。 あれならば、なんとか出来るだろう。 「…ブラピ。 」 「な、なんだ?」 「…それは、できません。 」 …え?…なんだって…? 「……嘘、だろ?」 「嘘では無い。 こんな時に、パルテナが嘘をつくと思うか?」 「そもそも、それが出来るなら、もっと早くに治っていたはずじゃろうが。 」 …そうだ。 パルテナ様のことだから、ピットが治るならすぐに奇跡を使っているはずだ。 「…でも…っ!」 でも…それなら、ピットはどうなる? 「…ブラピ。 奇跡というのは、簡単に起こせるものではありません。 」 「例えば…あなたやピットが戦いで傷ついたら、私やナチュレは奇跡を使いますよね。 」 「回復の奇跡を使ったとしましょう。 どうなりますか?」 「傷が、治る?」 「…そうですね。 あなた達は回復します。 」 「なぜ治るのかわかりますか?」 「それは…回復の奇跡だから?」 「ええ。 『回復』すると思っているからですよね。 」 思っているから? 「私達は、『回復』させようと思っています。 あなた達は、『回復』すると思っています。 そして、『回復』する… つまり…『奇跡』が起こるのです。 」 「…どういうことだ?」 「つまりは、お互いの強い思いが、奇跡を起こしている、ということじゃ。 」 「あなたは、奇跡を『使う』ものだと思っているでしょう。 奇跡とは、『起こる』ものなのですよ。 」 「わらわ達は、無理に奇跡を『起こしている』に等しい。 」 「…だが、奇跡が起こるものだとしても、なんでピットは助けられないんだ。 」 「もちろん、私は治そうとしているのですが… ピットが、諦めているのです。 」 「ピットが…!?」 「ええ。 私がどれだけ言っても、 もういい、としか言わないのです。 」 「…パルテナ様は…ピットは助けられないと決めつけるのか!?」 「…あの子が諦めているのでは、どうしようも…」 ピットを…諦めるのか!? 「ふざけるな!」 気がつくと、俺は、パルテナ様に飛びかかっていた。 「…ブラピ。 」 俺に首を締められても、表情を変えないパルテナ様。 それが、何も考えてないように見えて、悔しくなって、 「…あなたは、私のことを殺せないでしょう。 この手も、震えていますよ。 」 「あなたが私を殺せないのは、やはりピットのコピーだからですかね。 」 …!こいつ…っ! 「おい!やめろブラピ!」 ナチュレに殴られてよろけた。 「いてっ………あ…」 「…今日は帰りなさい。 ブラピ。 」 「…………ぁあ。 」 パルテナ様は、部屋から出ていった。 「…のぅ、ブラピ。 」 「パルテナが、珍しく酷いことを言ったな。 」 「…この意味がわかるか。 」 「…ああ。 」 パルテナ様も不安になってる、 分かってる…分かってるはずなんだ。 なのに…… 「俺は、パルテナ様の首を締めようとした。 」 何…やってんだろ… やっぱり俺は、ピットのコピーなのか。 悪い部分のピット?逆か、ピットの悪い部分か。 「…帰るぞ。 」「…そうだな。 」 部屋から出て、ピットがいた部屋の前を通ったとき、部屋の中が見えた。 ベッドで寝ているピットと…… 泣いているパルテナ様。 それを見て、俺は決心した。 [newpage] 「…ピット。 ピット。 」 起きないピット。 「…そんな…ピット!」 パルテナが何度呼びかけても、ピットは起きなかった。 「起きろ、ピット。 」 「…あっ…!?」 呼ばれた。 「ピット!」 「パルテナ様…」 「ああ…良かった…ピット。 」 違う、違う、違うんだ。 パルテナ様じゃない、誰か… 僕の、大切な人… 「…ブラピ……?」 「ブラピ!」 「どうしたんですか!?あなたはまだ起きたばかりでしょう!」 「パルテナ様!ブラピの所へ連れて行って下さい!」 「…わかりました。 」 とてつもなく嫌な予感がする… 「私も行きますよ。 転送!」 「ピット。 」 「無理するなよ。 」 頭の中で声がする。 待って…まだ… [newpage] 「エレカ、ブラピは?」 「ブラピ君ですか?今日はまだ見てないですけど…」 「ふむ…そうか。 」 珍しいな、ブラピがまだ部屋から出て来ないとは… 「…いや、おかしいじゃろ!」 よし、ブラピの部屋へ突撃じゃ! 「ブラピ〜!おーいブラピ〜」 部屋の前で呼んでおるのに返事をしないとは… まさか、何かあったのか!? 「もう良い!入るぞブラピ!」 って、扉が開かない……!? 「おいこら!何をしておるのじゃ!」 開けんか!ったく… 「「ナチュレ!」」 うぇ!? 「な、なんじゃパルテナとピットか…どうし「ブラピは!?」た… ブラピなら、この部屋に「ブラピーッ!」なんじゃ!もう!」 「ごめんなさいね。 起きたと思ったらブラピブラピ言い出して。 」 「まあ、起きたのなら良いではないか。 」 「なんで閉めてるんだよ!馬鹿か!」 おいおい…おいおいおいおいおい!!?? 「ナチュレ!悪いけど扉ぶっ壊すぞ!」 「悪いと思っとるならやめろ! ああああああー!!!」 と、扉ーッッ!!! [newpage] 「ブラピ…!」 部屋の中に、ブラピがいた。 こっちに背を向けて、つっ立っていた。 「ブラピ…僕を治したの、ブラピだよね?」 「…ああ。 」 答えながら、ゆっくり振り返るブラピ。 「…どうして…なんで…」 光を失った瞳で僕を見つめるブラピ。 「なんで…?…なんでだろうな。 」 ブラピの黒いはずの服が、赤黒くなっていた。 「……パルテナ様、泣いてたぞ。 」 「…ブラピ。 」 足を出そうとしてよろけたブラピを、そっと抱きしめる。 「…ブラピ、私の為に、ピットを助けたのですか。 」 「……パルテナ様、ピットがいないと、寂しいだろ。 」 「…どうして、ピットを治せたのですか?」 「…さあ、な。 奇跡が起こったんじゃないか。 」 「僕は、もう助からないって、諦めていたのに?」 「…本物の奇跡が起こったのかもな。 」 「…のぅ。 ブラピよ。 」 「パルテナの為にピットを助けたのなら、一つ言いたいことがある。 」 「…お前は、わらわを悲しませた。 」 「…そりゃ、悪かった。 ナチュレ。 」 「…許さん。 絶対に…」 「…困ったな。 」 「…なあ、ピット。 俺は、コピーと言われるのが嫌いだ。 」 「でも、今だけは、コピーで良かったと思ってる。 」 「どうして…?」 「…お前の代わりになれるからだ。 」 「え………?」 「まあ、代わりと言っても、 俺は完璧なお前じゃないから、パルテナ様を喜ばせる、とかは無理で…」 「俺はきっと、お前より、出来ることが少ないんだって、思った。 」 「でも、俺を必要としてくれる、ナチュレが、いてくれて…」 「考えて、考えて、」 「…それが、こうなった。 」 「…………」 「俺に出来て、お前に出来ないことをやってやろうって、な。 」 「…どうだ?俺しか出来ない、『代わり』…」 「…おい。 なんとか言えよ。 」 「…なあ、ピット…」 「…我慢してるのに…お前が泣いたら…」 「俺も…泣けてきただろうが…」 「…強がるなよ、ブラピ。 」 「…強がるな?なんのことだ。 」 「…ブラピが我慢してるのは、泣きそうってだけじゃなくて…あるだろ!」 「……ある。 」 「…死にたくない。 」 「…死にたくないよ…もっと、ピットと、パルテナ様と、ナチュレと一緒に………」 ブラピとは… パルテナ様がなんとなく可愛いから、という理由でブラックピットにつけたあだ名である! 本人は気に入らないようで、ずっとブラピって言うな、と言っていたのだ! 「ブラピとは…」 優しくて、賢くて、かっこよくて、強がりで、ツンデレで… 僕の…親友なんだ。 ブラピがコピー?いやいや、ブラピはブラックピットだよ。 今も、これからも、ず〜っと変わらない。 ブラピは、ブラピなんだ。

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