フリーアナウンサーの久米宏(75)が2日、パーソナリティーを務めるTBSラジオ「久米宏 ラジオなんですけど」(土曜後1・00)に出演。 TBS局アナ時代の元同僚で、肺がんのため4月23日に75歳で他界したフリーアナウンサーの小島一慶(こじま・いっけい、本名一慶=かずよし)さんを追悼した。 久米は4月25日の前回放送で、心不全のため同23日に96歳で亡くなった俳優の久米明さんについて番組冒頭で触れ「僕の父親だっていう説が一時流れてましてね…それは事実ではないんですが。 心の中で思ってたんですが」としのんでいたが、この日も番組冒頭から小島さんの訃報について触れた。 「(前回放送翌日の)日曜日になって、久米明さんと同じ日に小島一慶さんが亡くなっていたっていう話を聞いて。 まあ、僕は覚悟はしてたんですが…」と切り出した久米。 小島さんとは同じ年齢(入社は久米が1年先輩)で10年ほど同僚として過ごし、非常に親しい麻雀仲間でもあったと関係を説明し、互いに30歳だった1975年3月に放送された共演番組の音源を披露。 さらに小島さんがここ10年ほど俳句に凝っていて、久米にも句集を送って来ていたことを明かした。 そして、昨夏に送られてきた歌集のあとがきで、小島さんが妻の検査に付き合う形で検査を受けたところ、問題のなかった妻とは違って夫である小島さんにステージ4の肺がんが見つかったことなどについて明かしていたとし、「写真に写る右の肺はほとんど真っ白だった。 これでは友達のオーディションに付いていって、こっちが主役の座を射止めたようなものである。 平成30年7月6日のことだった」「ステージ4の告知に少しも動じない自分が不思議だった」「治療計画を聞いたらまるで必ず始まりと終わりのある夏休みの計画でも聞いているような、そんな気分だった」などとその内容も明かした。 「去年夏にこれをもらって覚悟はしていたんですけど…」と久米。 「同い年の人が亡くなるとね…いけませんよね…」と寂しそうな声でつぶやき、10分にわたった小島さんとの思い出話を切り上げた。
次の
久米明さんが心不全で死去 【久米明さん 心不全のため死去】 ドキュメンタリー番組のナレーターとして活躍したベテラン俳優の久米明さんが23日、心不全のため死去。 昨年、体調がすぐれないことからナレーションを降板し、高齢者施設に入っていた。 — Yahoo! ニュース YahooNewsTopics 2020年4月23日、久米明さんが心不全にて死去しました。 90歳を超えてもお仕事されていたとのこと。 素晴らしいポテンシャルの方です。 久米さんは、「鶴瓶の家族に乾杯」のナレーションもされていましたが、1年ほど前にそのナレーションが変わったことで心配されていました。 2019年にお仕事を降板され、その後は都内の高齢者施設に入居していました。 仕事復帰に向けて意気込んでいたとのことですが、2020年4月23日、96歳で心不全で亡くなりました。 そんな久米さんですが、息子さんはどのような方なのでしょうか。 久米明さんの現在の息子は? 95の壁は越えられたのかぁ。 すごいなぁ。 何年か前、報ステで孫息子さんに戦争体験を話されていたことを忘れられない。 ご冥福をお祈り申し上ます🙏🏻 — ふじ山盛ふじこ fujiko2010kaime 久米明さんの息子さんについて調べてみました。 「久米」という珍しい苗字で、同じお声の仕事をしている 「久米宏」さんは息子?と言われているようですが、 実際の血縁関係はないようです。 ただ、久米宏さんが、久米明さんのことを 「お父さん」と読んでいるのだとか。 久米宏さんのラジオ「久米宏 ラジオなんですけど」に久米明さんを呼んで「主にナレーションや日本大学芸術学部などで朗読を指導している」ということについて語っていたようです。 久米明さんの実際の息子さんは「久米大作」さんです。 久米大作さんは、ミュージシャンをやっています。 日本大学芸術学部の在学中に「プリズム」のメンバーとしてデビュー、1979年にはプリズムを脱退して座・スクウェアに加入しました。 担当楽器はキーボードです。 明日は 高円寺ジロキチ45周年ハニワオールスターズ!で、この方ともユフォ! — 久米大作 zoogrand ミュージシャンの久米大作さんですが、 大作さんの奥様もミュージシャンなのだとか。 久米明さんの息子さん、久米大作さんの奥様についても調べてみました。 久米明の息子の嫁は歌手の久保田早紀? お顔は初めて拝見。 息子さんとは違っておだやかそう。 ご冥福を。 「すばらしい世界旅行」…俳優の久米明さん死去 : 読売新聞オンライン — だっくら dakkura 久米明さんの息子さん、 久米大作さんの奥様は「久保田早紀」さんです。 久保田早紀さんは、1980年台に 「異邦人」でデビューし、大ヒットしたシンガーソングライターでした。 ZARDや徳永英明さんなどもカバー曲で歌っていますので、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
次の
きょう7月14日はフリーアナウンサーの久米宏の76歳の誕生日である。 先月27日には、パーソナリティを務めてきた土曜午後のラジオ番組『久米宏 ラジオなんですけど』(TBSラジオ)が最終回を迎えたばかりだ。 同番組が始まったのは、久米がメインキャスターを務めた『ニュースステーション』(テレビ朝日系)の終了(2004年3月)から2年半後、2006年10月のことだった。 奇しくも同じ時間帯には、みのもんたが古巣の文化放送で1987年から番組を持っていたほか、久米と時期を同じくして小倉智昭がニッポン放送で番組をスタートさせ、テレビの人気司会者3人がラジオで競演と話題を呼んだ。 結局、みのと小倉の番組は先に終了し、最後まで残った久米も14年で番組に幕を引いた。 最終回のラストでは、『ニュースステーション』終了時にビールで乾杯したような派手なパフォーマンスはなかったが、「僕はクセがある人間なんでね、いままでいっぱい番組やってきましたけど、スタッフは苦労したと思いますね」「でも、これでお別れっていうわけじゃありませんから、またチャンスがあったら、いつか、そのうち、ぜひ」と締めくくった。 ただし、久米のキャリアからすると、ラジオがテレビに先行する。 久米が早大卒業後、TBSに入社したのは1967年と、ちょうどラジオの深夜放送がブームになり始めたころだ。 TBSで『パックインミュージック』、ニッポン放送で『オールナイトニッポン』と、のちに若者から支持を集める番組があいついでスタートしたのがまさにこの年だった。 大学では演劇に熱中し、TBSを受けたのは、母親から「就職はどうなの?」と心配され、アリバイづくりのために仕方なくだったという。 その特別な思いがたたったのか、入社後、いざラジオのブースに入り、生放送で話そうとすると異常に緊張して、うまくしゃべれない。 あげくに体調を崩し、神経性の胃腸炎と診断されてしまう。 ようやく復帰して、当時若者に絶大な人気を誇った『パックインミュージック』金曜第1部(パーソナリティは野沢那智と白石冬美)のあとの第2部を任されるも、5週続けたところで今度は肺結核が見つかり、降板を余儀なくされる。 治療して完治するまでは、アナウンス室で電話番をしながら、先輩や同僚のアナウンスを聴いた感想をレポートにして会社に提出する日々が続いた。 そんな久米にとって転機となったのが、1970年代前半、『永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO』で街に飛び出して中継するコーナーを担当したことだ。 そこでは団地へ行って聴取率調査をしたり、歩道橋や電信柱などありふれたものについて実況してみせたりして、好評を博す。 「隠しマイク作戦」と称して、潜入レポート的なことにも挑戦した。 自衛隊の市ヶ谷駐屯地から中継したときには、地方から来た人を装って、ライフルを持った門衛に話しかけてみた。 しかし何をやっても失敗続きで、アナウンス室では「玉砕の久米」「番組つぶしの久米」などと呼ばれていたとか。 そんなころ、『土曜ワイド』の中継先で、たまたまテレビのロケに出ていた萩本欽一から呼ばれて「久米ちゃん、いま聴いてたよ、面白いね」と褒められた。 この出会いが1975年、萩本出演のクイズ番組『ぴったし カン・カン』の司会者に起用される伏線となる。 これを機にテレビでも知られるようになり、1978年には新たに始まった音楽番組『ザ・ベストテン』で、テレビ界の大先輩である黒柳徹子と司会を務めるにいたる。 スタジオに来られない歌手のため各地から中継をつなぎながら生放送を進行する手腕は、ラジオ時代に培われたといっていいだろう。 同じく1978年には、『土曜ワイド』で永六輔から数えて3代目のパーソナリティとなり、1979年にTBSを退社してフリーに転じてからも、『ザ・ベストテン』と並行して続けた。 だが、1985年春に他局を含めて大半のレギュラー番組から降板、世間を驚かせる。 これは秘密裡に企画が進められ、同年10月に始まった『ニュースステーション』の準備のためだった。 こうして久米は18年半におよび、同番組のメインキャスターを務めあげることになる。 のちに本人が冗談めかして語ったところによれば、そもそも久米がテレビに出始めたのは、ラジオで取材に行っても相手が彼を知らないことが多かったので、知名度を上げるためだったという。 《ラジオしかやってない時は、「そこそこテレビに出てりゃ、みんな名前を分かってくれる」程度のことしか考えてなかった。 テレビ半分、ラジオ半分でいきゃいいんだみたいな考えだったんです。 『ニュースステーション』が始まる際にも、ほかのテレビ番組はやめても『土曜ワイド』は続けたかったが、その希望はかなわなかったという。 彼のなかでは以前より、ラジオの専門局をつくって、たとえば24時間ぶっ続けでニュースだけを放送するなどといった構想があったらしい。 そう夢を語ったうえで、《やっぱり僕はラジオが好きなんですよ。 ラジオのほうが人の心に相当深く入っていくでしょう。 今、ラジオの通信販売がすごく売れているらしいんです。 テレビを介して相手にする人はラジオよりはるかに多く、久米がいくら視聴者目線に立っても、個人の心に入り込んでいくのは難しかっただろう。 ひょっとすると久米のなかでは、『ニュースステーション』時代もテレビ界はむしろアウェイで、「テレビなんですけど」というような思いが常にどこかにあったのではないだろうか。 番組が始まってしばらくは、毎週番組の冒頭でTBS社屋の近くの東京・赤坂界隈を歩きながら中継を行なっていた。 第1回の中継では、赤坂に昔から住んでいるという女性と出会い、のちにスタジオにトークゲストとして招いたこともあったと記憶する。 「今週のスポットライト」(かつて『ザ・ベストテン』で注目株の歌手を紹介していたコーナーと同じタイトル)と題するそのゲストコーナーには、著名人が出演することもあったが、それ以上に、さまざまな分野で活躍する知る人ぞ知る人物を招くことが多かった。 昨年には、北海道大学の西浦博教授が出演し、理論疫学の専門家として、数理モデルを使っての感染症予防策についてわかりやすく説明していた。 この回は、コロナ禍のさなかに再放送され、久米や番組スタッフの先見の明をあらためて感じさせた。 時代を予見したといえば、『ラジオなんですけど』では2011年に、複数のリスナーが電話で番組に参加して、合唱したりラジオドラマを演ったりしたことがあった。 この企画はさらにエスカレートし、ついにはパーソナリティからお天気キャスターまで番組のすべてをリスナーに演ってもらうところにまで発展した。 コロナ禍のさなかには、テレビ・ラジオ番組の収録のみならず、演劇の配信までもが、タレントや俳優が自宅などからリモートで出演して行なわれたが、この企画もまたそうした状況を期せずして先取りしていたといえる。 それは、《今、自分でラジオ番組をやりながら一番驚いてるのは、ラジオとテレビの区別をしないで仕事をしていることです。 僕は、ラジオとテレビって、昔はかなり区別をして仕事をしていた。 テレビに長年出演し続けることで、話す仕事としては変わりがないという境地に達していたのかもしれない。 それでも彼に一貫していたのは、プロとして仕事をまっとうしようという思いではなかったか。 『ラジオなんですけど』の終了を今年6月に発表した際には、理由はいくつかあると断ったうえで、そのひとつとして、番組中に言い間違いなどケアレスミスが多くなり、集中力や根気も落ちてきたことをあげていた。 もっとも、これと似たような発言を、久米はやはり前出のラジオ復帰直後の記事でしていた。 《『ニュースステーション』辞める時もそうだったんですが、ちゃんとした語彙が瞬間的に出てこなくなったというのがあるんですよ。 ……今も同じ症状なんですけど、「これだ」という言葉が瞬間的に出てこない。 結局この14年間、彼はずっと同じ悩みを抱きながら番組を続けてきたということなのではないだろうか。 ここでもプロとして振る舞おうとする姿勢がうかがえる。 最近のインタビューでは次のように語っていた。 《ただ、YouTuberは皆、素人ですから、その中でプロの放送人は何をすべきかっていうことですよね。 素人の面白さとプロの面白さの違いはどこなのかを考えないと。 僕、今、インターネットで仕事を始めたので、この辺を痛感しているんです。 インターネットは本当に予算がない。 だから、放送局の「予算がない」は言い訳に聞こえて。 これはこれで面白いものの、彼がひたすら持論を語るというスタイルゆえか、ちょっと押しつけがましさも感じてしまう。 思えば、『土曜ワイド』のレポーター時代には永六輔、『ザ・ベストテン』では黒柳徹子、また『ラジオなんですけど』でもアシスタントとして局アナの小島慶子(のちにフリー)や堀井美香をつけるなど、久米の番組にはいつも相手役がいた。 そのなかで相手にツッコミを入れたり、逆に相手のほうから話が暴走しがちな彼をたしなめたりして、トークが転がっていくことも多々あった。 受け手としては、そうしたやりとりがあったからこそ、番組に入りやすかった気もする。 現時点では予算的に難しいのだろうが、いずれ「Kume*Net」でも相方をつけたり、またゲストを招いてのトークも期待したいところである。 同時に、『ラジオなんですけど』の終わりに語ったように、彼が再びラジオに戻って来てくれる日を待ちたい。 誰よりもラジオを愛する人だから、案外その日は遠くないような気がするのだが……。
次の