この記事の内容の信頼性について。 確認のための文献やをご存じの方はご提示ください。 、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。 議論はを参照してください。 ( 2008年10月) 暴力団一覧(ぼうりょくだんいちらん)は、のの五十音順一覧。 代目は除く。 目次 あ行 [ ]• 六代目山口組 二代目• 七代目• 稲川会• 住吉会 幸平一家• 住吉会 住吉一家• 六代目山口組• 六代目山口組 二代目弘道会• 六代目山口組 二代目• 住吉会 住吉一家• 三代目• 一和会• 六代目山口組• 稲川会 七代目三本杉一家• 神戸山口組 二代目宅見組• 六代目山口組• 神戸山口組• 稲川会 二代目山川一家• 二代目大日本平和会 二代目• 六代目山口組 三代目• 六代目山口組 二代目• 沖縄旭琉会• 六代目山口組• 六代目山口組 二代目倉本組 関東原組• 姉ヶ崎連合会 姉ヶ崎関東会 寛野睦会• 稲川会 六代目• 六代目山口組 七代目• 六代目山口組 太田会• 六代目山口組 二代目• 稲川会 三代目• 住吉会 住吉一家 親和会 七代目• 六代目山口組 二代目• 住吉会 住吉一家• 六代目山口組 二代目弘道会 九代目• 三代目• 沖縄旭琉会• 六代目山口組 國粹会 落合会• 六代目山口組 古川組• 六代目山口組 二代目益田組• 二代目福博会 四代目• 三代目勝浦会• 六代目山口組 英組• 六代目山口組 二代目宅見組 荒牧組• 稲川会• 六代目山口組 六代目• 住吉会 住吉一家 五代目• 六代目山口組• 六代目山口組 英組 二代目• 道仁会 小林組• 六代目山口組• 章友会• 三代目• 神戸山口組• 六代目山口組• 六代目山口組 三代目• 稲川会• 六代目山口組• 六代目山口組 二代目• 住吉会 住吉一家 初代• 五代目共政会• 神戸山口組• 六代目山口組• 六代目山口組 國粹会• 住吉会 住吉一家 七代目• 稲川会• 初代 か行 [ ]• 六代目山口組• 三代目• 六代目山口組• 住吉会 幸平一家• 六代目山口組 國粹会• 極東会 松山連合会 松山一家 二代目• 六代目山口組• 六代目合田一家• 六代目山口組 二代目弘道会 十代目• 六代目山口組• 六代目山口組 二代目• 住吉会 住吉一家 西和会 二代目• 六代目山口組• 六代目山口組 四代目山健組• 任侠山口組• 六代目山口組 二代目倉本組• 稲川会• 六代目山口組• 稲川会• 稲川会• 六代目山口組• 神戸山口組 木村會• 六代目山口組 三代目• 三代目勝浦会• 神戸山口組• 九州三重野會• 五代目• 三代目• 神戸山口組• 住吉会 住吉一家 六代目• 六代目山口組• 六代目山口組• 三代目• 親和会• 五代目• 神戸山口組• 六代目山口組 二代目• 六代目山口組 二代目弘道会 二代目• 三代目山口組• 稲川会• 稲川会• 神戸山口組 山健組• 六代目山口組 二代目• 神戸山口組 五代目山健組 兼生会• 六代目山口組 後藤組• 六代目山口組 四代目山健組• 神戸山口組 山健組• 住吉会 住吉一家 親和会 三代目• 住吉会 住吉一家 五代目• 稲川会• 二代目倉心会• 六代目山口組• 六代目• 六代目山口組 二代目• 住吉会• 六代目山口組 五代目• 沖縄旭琉会 二代目• 稲川会• 六代目山口組 五代目• 神戸山口組• 六代目山口組 國領屋一家• 四代目• 六代目山口組• 一和会 北山組• 六代目山口組 二代目• 住吉会 住吉一家• 稲川会 加藤組• 六代目山口組 川合組• 六代目山口組 三代目• 神戸山口組• 六代目山口組 二代目• さ行 [ ]• 神戸山口組 篠健組• 住吉会 住吉一家• 一和会• 神戸山口組 五代目山健組 酒井組• 住吉会 幸平一家 加藤連合• 七代目• 五代目山口組• 六代目山口組 六代目• 六代目山口組 二代目• 住吉会 住吉一家 八代目• 住吉会 住吉一家• 稲川会 七代目• 沖縄旭琉会• 住吉会 住吉一家• 六代目山口組 二代目• 六代目山口組• 沖縄旭琉会• 六代目山口組 六代目• 住吉会 住吉一家• 稲川会• 神戸山口組 二代目宅見組 二代目勝心連合• 六代目山口組 三代目益田組• 六代目山口組 二代目• 極東会• 六代目山口組• 浪川会 村上一家• 六代目山口組 二代目美尾組 二代目• 六代目山口組• 住吉会 住吉一家 大日本興行 二代目• 住吉会 住吉一家 二代目• 一和会• 住吉会 住吉一家• 二代目• 六代目山口組• 稲川会• 六代目山口組 二代目• 松葉会• 六代目山口組• 神戸山口組• 住吉会• 四代目諏訪一家 住吉会 住吉一家• 六代目山口組 二代目弘道会• 稲川会• 六代目山口組 三代目• 六代目山口組• 神戸山口組 五代目山健組• 住吉会 住吉一家• 住吉会 住吉一家 大日本興行• 六代目山口組 四代目山健組 二代目• 六代目山口組 九代目• 神戸山口組 侠友会 四代目• 神戸山口組 五代目山健組• 六代目山口組 た行 [ ]• 六代目山口組 太田会• 六代目山口組• 住吉会 住吉一家• 波谷組 三代目• 二代目• 六代目山口組 三代目• 六代目山口組 二代目倉本組 九代目• 三代目浅野組• 神戸山口組 五代目山健組• 神戸山口組 五代目山健組 五代目健竜会 誠竜会• 六代目山口組 三代目益田組 昌心会• 六代目山口組 二代目弘道会 二代目• 住吉会 住吉一家 八代目• 神戸山口組• 任侠山口組• 六代目山口組 太田会• 住吉会 住吉一家 大日本興行• 六代目山口組 二代目弘道会• 六代目山口組• 六代目山口組• 六代目山口組 二代目弘道会 三代目• 稲川会 裕統一家• 沖縄旭琉会 二代目• 神戸山口組 英組 二代目• 住吉会 住吉一家 五代目• 沖縄旭琉会 二代目• 六代目山口組 二代目弘道会 二代目• 道仁会• 神戸山口組• 六代目山口組 二代目弘道会• 住吉会• 住吉会 住吉一家 親和会 二代目• 沖縄旭琉会 三代目• 六代目山口組 二代目美尾組 な行 [ ]• 浪川会• 住吉会 住吉一家 六代目• 六代目山口組 二代目• 六代目山口組 六代目豪友組 八代目• 浪川会 永虎組• 六代目山口組 二代目• 神戸山口組• 沖縄旭琉会• 浪川会 中原組• 稲川会• 住吉会 住吉一家• 六代目山口組• 沖縄旭琉会• 六代目山口組 五代目國粹会 十三代目• 浪川会 浪勝総業• 浪川会 浪川総業• 住吉会 住吉一家 六代目• 沖縄旭琉会• 住吉会 幸平一家• 六代目山口組 二代目• 住吉会 住吉一家 西和会 四代目• 住吉会 住吉一家 西和会 六代目• 六代目山口組 二代目浅川一家• 神戸山口組• 住吉会 住吉一家• 住吉会 住吉一家• 六代目山口組• 住吉会 住吉一家滝野川八代目 大塚地区橋本組 は行 [ ]• 六代目山口組四代目• 住吉会 住吉一家 馬橋七代目• 住吉会 幸平一家• 稲川会 六代目• 六代目山口組 三代目• 住吉会 住吉一家 滝野川八代目• 神戸山口組• 六代目山口組• 六代目山口組 二代目黒誠会• 住吉会 住吉一家 西海家• 六代目山口組 五代目• 稲川会 中島一家• 住吉会 住吉一家 六代目• 稲川会 十代目• 六代目山口組• 住吉会 住吉一家 七代目• 二代目福博会 二代目• 住吉会 住吉一家 七代目• 三代目侠道会• 中野会• 三代目山口組• 六代目山口組 二代目弘道会• 三代目• 住吉会 住吉一家 三代目中村会• 三代目山口組• 六代目山口組 茶谷政一家• 三代目福博会 三代目• 住吉会 住吉一家 初代• 六代目山口組 二代目倉本組 二代目• 神戸山口組• 六代目山口組 岸本組 二代目• 六代目山口組• 六代目山口組• 三代目山口組• 住吉会 幸平一家• 六代目山口組 四代目山健組 二代目• 六代目山口組• 六代目山口組• 六代目山口組 二代目小西一家 二代目• 六代目山口組 二代目弘道会 藤島組 ま行 [ ]• 神戸山口組• 神戸山口組• 六代目山口組 三代目• 住吉会 住吉一家 大日本興行• 沖縄旭琉会• 六代目山口組• 六代目山口組 二代目弘道会 二代目髙山組• 神戸山口組• 二代目• 稲川会 堀井一家• 極東会 松山連合会• 六代目山口組 二代目• 六代目山口組 二代目• 極東会• 任侠山口組 三代目• 住吉会 住吉一家 七代目• 住吉会 住吉一家• 六代目山口組 二代目• 稲川会• 六代目山口組 四代目山健組 五代目健竜会• 六代目山口組 三代目益田組• 六代目山口組 二代目弘道会 六代目• 住吉会 住吉一家 初代• 沖縄旭琉会• 六代目山口組 三代目• 住吉会 住吉一家 十代目• 浪川会• 浪川会 村上組• 住吉会 住吉一家 大日本興行• 二代目松田組• 六代目山口組• 神戸山口組• 五代目山口組 尾崎組 六代目• 稲川会• 六代目山口組• 六代目山口組 二代目弘道会 三代目司興業• 五代目山口組 や行 [ ]• 六代目山口組 三代目• 六代目山口組 二代目古川組• 稲川会• 六代目山口組 二代目• 住吉会 住吉一家 八代目• 住吉会 幸平一家• 住吉会 住吉一家 親和会 五代目• 六代目山口組 三代目誠友会 二代目• 住吉会 住吉一家 大日本興行 二代目• 稲川会 二代目• 神戸山口組• 稲川会 七代目三本杉一家• 六代目• 神戸山口組• 六代目山口組• 六代目山口組 二代目倉本組• 住吉会 住吉一家 親和会 六代目• 稲川会• 沖縄旭琉会• 住吉会 幸平一家• 沖縄旭琉会• 神戸山口組• 稲川会• 稲川会• 六代目会津小鉄会 ら行 [ ]• 六代目山口組 後藤組• 沖縄旭琉会• 住吉会 住吉一家 六代目• 六代目山口組 後藤組 わ行 [ ]• 六代目山口組 二代目• 神戸山口組 五代目山健組 鷲坂組 その他 [ ]• 土建暴力団• 港湾暴力団 脚注 [ ] [].
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メニュー• 検索 2018年7月23日 2019年9月18日 龍と日乞いと雷除け 読み方 にし-はちりゅう-しゃ 所在地 名古屋市北区中味鋺1丁目 創建年 伝931-938年(平安時代中期) 旧社格・等級等 無格社・十四等級 祭神 高龗神(たかおかみのかみ) アクセス 名鉄小牧線「」から徒歩約35分 駐車場 なし その他 雷除神事 7月28日 オススメ度 * 平安時代中期の承平年間(931-938年)に創建されたという伝承がある。 ここ味鋺は古代の有力豪族、物部氏の拠点だった土地だ。 平安中期に物部氏の影響力がどれくらい残っていたかによってこの神社の性格が違ってくる。 近くにある()は、物部の祖である宇麻志麻治命(うましまじのみこと)とその子である味饒田命(まじにぎたのみこと)を祀るとする古社で、『延喜式』神名帳(927年)にも載っている。 味鋺(あじま)の地名は、ウマシマジが縮まったものとか、マジニギタ(味饒田)から来ているという説がある。 味鋺、味美(あじよし)一帯は「百塚」と呼ばれるほど古墳がたくさんあったところで、 味鋺神社の古い由緒には「従属の諸墓一百八十余あり」と記されていたという。 味鋺地区の古墳はすべて破壊されて残っていないものの、味美地区には味美二子山古墳、白山神社古墳、 御旅所古墳、春日山古墳の4基が現存する。 戦前の調査では23基が確認されたことからしても、相当数この地に築かれていたことは想像がつく。 味美二子山古墳は5世紀末から6世紀初頭の築造とされており、熱田の断夫山古墳との共通点が多いことから、熱田の尾張氏との関係が考えられる。 継体天皇陵とされる 今城塚古墳(高槻市)と墳丘規格が同じという指摘もある。 継体天皇がまだ越国にいた頃に尾張連草香は娘の目子媛を継体の正妃として送り込んでおり、その子が安閑天皇、宣化天皇となっていることから、熱田の断夫山古墳は尾張連草香のものとも考えられている。 継体天皇陵、尾張氏の断夫山古墳、味鋺の 味美二子山古墳につながりがあるとすれば、味鋺の物部氏も同族としてつながっていた可能性が高い。 前方後円墳はヤマト王朝が認めないと作れない墳墓で、味鋺の物部氏もその傘下に入っていたということだ。 すでに失われた味鋺大塚古墳も全長は100メートルを超える大型のものだったという。 他にも前方後円墳や円墳がたくさんあったということは、かなり大きな集団が味鋺の地にいたことを意味している。 「従属の諸墓一百八十余あり」ということからすると、物部氏に従う勢力もいたということだ。 味鋺神社の他に春日部郡物部神社も『延喜式』神名帳に載っている。 白山神社に合祀されたという話もあるのだけど、実際のところははっきりしない。 平安中期(931-938年)の味鋺の状況はどんなことになっていたのか。 物部氏がこの地を支配していた古墳時代とは大きく情勢が変わっている。 奈良時代を経て京に都が移されて130年以上が経った時代だ。 朱雀天皇の在位期間が930年から946年なので、その頃ということになる。 朱雀天皇は930年に8歳で即位して946年に24歳で弟の村上天皇に譲位した。 その後、952年に出家して仁和寺に入り、その年30歳で崩御している。 935年には平将門が関東で反乱を起こし、翌936年には瀬戸内海で藤原純友が暴れている。 937年には富士山が噴火し、その他地震や洪水なども頻発した時代だった。 そんな時代背景を受けてか受けずか、水神であり龍神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀る神社を建てることになったいきさつがどんなだったかと考えてみても、なかなか想像がつかない。 龗神(おかみのかみ)は、日本神話において、イザナミ(伊弉冉尊)が火の神カグツチ(迦具土)を産んだときに火傷で命を落とし、怒ったイザナギ(伊弉諾尊)が迦具土を斬り殺したときに生まれたとされる神だ。 『古事記』や『日本書紀』の一書では闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれたとし、『日本書紀』の別の一書ではカグツチから生じた三柱のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)とする。 龗は龍の古語で、高龗は山の上の神を表し、闇龗は谷の川の神のこととする考え方もある。 高龗は京都の貴船神社()の祭神としてよく知られている他、奈良県吉野の丹生川上神社では罔象女神(ミツハノメ)とともに祀られている。 通常、雨乞いや止雨の神として祀られることが多い。 しかし、西八龍社では古くから日乞いの神とされてきたという。 これは雨乞いとは真逆で、止雨といえばそうなのだけど、それにしても日乞いの神社というのはあまり聞かない。 937年の富士山噴火の影響で火山灰に覆われて作物が育たなくなったので日乞いのために神を祀ったという可能性も考えられるけど、そういう伝承を持つ神社を他に知らない。 八龍の龍はすぐ南を流れる庄内川のことで、洪水除けを願って龍神を祀ったという話もある。 ただ、そうなると日乞いの話とは合わなくなる。 『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「社伝に、承平年間(931)朱雀天皇の御代に創建されたという。 昔から雷除け神、日乞いの神として霊験あらたかで、文政の頃(1818)尾張近郷は勿論遠く県外より祭日にはお守りをうける代参者で終日賑う。 明治6年、据置公許となる。 戦前は台湾までお守りが送られていた」 江戸期の書の味鋺村の項にはそれぞれこうある。 『尾張志』(1844年) 「神明ノ社 辯才天ノ社 八龍ノ社 山神ノ社 天道社 味鋺村にあり」 『寛文村々覚書』(1672年頃) 「山田庄 味鏡(鋺)村 社七ヶ所 内 神明 白山 六所大明神 天道 八龍 八幡 天神 社内五反三畝弐拾弐歩 前々除 同人(当村作太夫)持分」 ここにある八龍というのが今の西八龍社のことのはずだ。 江戸時代の味鋺神社は六所明神などと呼ばれていた。 神明社、辯才天社、山神社、白山社、八幡社、天神社、天道社は今の味鋺に現存していない。 おそらく多くは味鋺神社に合祀されたものと思われる。 雷除けの神社として信仰された云々は境内の説明書きにもある。 ただしそれは、江戸時代中期の文政年間(1818-1830年)以降のことだからそれほど古い時代の話ではない。 境内に落雷によって燃えたとされる一本の大きな杉の木がある。 その残骸といった方がいいかもしれない。 村の若者が三人、仕事帰りに庄内川堤防を歩いていると大雨が降ってきたため、八龍社の杉の下で雨宿りをしていたところ、杉の木に雷が落ちてひとりが死んでしまった。 助かった二人は八龍社の雷除けのお守りを持っていたという。 この話が近隣に伝わって評判となり、例祭にはそのお守りを求めて遠くからも大勢の人たちが訪れたのだとか。 それとは別の話として、明治の頃に若者が杉の空洞に入ったイタチをあぶり出そうと火をつけたところ杉に燃え移って焼けてしまったというのも伝わっている。 その若者は倒れてしばらく起き上がることもできなかったという。 例祭は旧暦の6月28日(新暦では7月28日)に雷除神事として行われる。 今でも雷除けのお守りを売るのではないかと思う。 の明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社があるのは田んぼの中ということになる。 しかし、もともとの位置はもう少し南の堤防のところにあった。 味鋺村の集落は少し北東の味鋺神社があるあたりだ。 その東を犬山街道(稲置街道)が通っていて、通り沿いに集落が発展していたことが見てとれる。 大正、昭和初期と農地は変わらず、1937-1938年(昭和13年)の地図から唐突に田んぼの中に鳥居マークが現れる。 戦後も田んぼは変わらず、宅地化されたのは昭和40年代以降だろうか。 西八龍社が現在地に移されたのは昭和25年(1950年)で、庄内川の堤防工事に伴うものだった。 しかし、このときちょっとした悶着があった。 戦中の昭和18年(1943年)、名古屋陸軍造兵廠鳥居松工場の廃水用に地蔵川の改修工事を行った際、西八龍社にかかったところで工事関係者が次々に病気になり、重機も動かなくなるという事態に陥って工事は中止になってしまったということがあった。 その話を知っていた工事関係者が西八龍社を移すことに尻込みしてしまい、相談の結果、氏子達が工事に参加するということで話がまとまり、遷座は無事行われたということだ。 本筋とは直接関係ない話なのだけど、ちょっと気になることを発見した。 『愛知縣神社名鑑』の内容は昭和の古いデータを元にしているので現在の状況とは違ってしまっているのだけど、宮司の名前で半田という名前が目につく。 千種区の上野天満宮の宮司は代々半田氏ということは知っていて、『愛知縣神社名鑑』では半田寛氏になっており、今は代替わりしたようで半田茂氏が宮司になっている。 西八龍社の宮司は半田収氏で、北区の八龍社は半田勲氏だ。 これはやはり半田一族ということになるだろうか。 偶然とは思えない。 半田家は渡来の秦氏の流れを汲むという話があり、読み方は「はんだ」ではなく「はた」か「はだ」ではないかと思うのだけどどうなんだろう。 『愛知縣神社名鑑』から半田の名前を拾い出してみるとこうなる。 【半田寛】 六所社(安井)、多奈波太神社、六所宮(上飯田)、神明社八幡社合殿(中杉)、八幡社(志賀町)、山神社(安井)、八幡社(大幸)、愛宕社(北千種)、上野天満宮 【半田収】 羊神社、味鋺神社 【半田茂】 別小江神社 【半田勲】 八龍社 北区の古い神社の多くに半田一族が関わっているらしい。 いつか、半田宮司をお話しできる機会が来たらそのあたりのことを訊ねてみたい。 西八龍社に関しては、いつ誰が何のために建てた神社かはよく分からなくなっているというのが現状で、日乞いと雷除けの伝承が残った。 実際に平安中期創建だとすれば、幾重にも時代が積み重なっているわけで、その地の部分は見えなくなって当然だ。 もはやそれはさほど大事なことではないのかもしれない。 いずれにしても、なかなかいい気を発している神社なので、機会があれば一度訪れてみてほしいと思う。 作成日 2018. 23(最終更新日 2019.
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メニュー• 検索 2018年7月23日 2019年9月18日 龍と日乞いと雷除け 読み方 にし-はちりゅう-しゃ 所在地 名古屋市北区中味鋺1丁目 創建年 伝931-938年(平安時代中期) 旧社格・等級等 無格社・十四等級 祭神 高龗神(たかおかみのかみ) アクセス 名鉄小牧線「」から徒歩約35分 駐車場 なし その他 雷除神事 7月28日 オススメ度 * 平安時代中期の承平年間(931-938年)に創建されたという伝承がある。 ここ味鋺は古代の有力豪族、物部氏の拠点だった土地だ。 平安中期に物部氏の影響力がどれくらい残っていたかによってこの神社の性格が違ってくる。 近くにある()は、物部の祖である宇麻志麻治命(うましまじのみこと)とその子である味饒田命(まじにぎたのみこと)を祀るとする古社で、『延喜式』神名帳(927年)にも載っている。 味鋺(あじま)の地名は、ウマシマジが縮まったものとか、マジニギタ(味饒田)から来ているという説がある。 味鋺、味美(あじよし)一帯は「百塚」と呼ばれるほど古墳がたくさんあったところで、 味鋺神社の古い由緒には「従属の諸墓一百八十余あり」と記されていたという。 味鋺地区の古墳はすべて破壊されて残っていないものの、味美地区には味美二子山古墳、白山神社古墳、 御旅所古墳、春日山古墳の4基が現存する。 戦前の調査では23基が確認されたことからしても、相当数この地に築かれていたことは想像がつく。 味美二子山古墳は5世紀末から6世紀初頭の築造とされており、熱田の断夫山古墳との共通点が多いことから、熱田の尾張氏との関係が考えられる。 継体天皇陵とされる 今城塚古墳(高槻市)と墳丘規格が同じという指摘もある。 継体天皇がまだ越国にいた頃に尾張連草香は娘の目子媛を継体の正妃として送り込んでおり、その子が安閑天皇、宣化天皇となっていることから、熱田の断夫山古墳は尾張連草香のものとも考えられている。 継体天皇陵、尾張氏の断夫山古墳、味鋺の 味美二子山古墳につながりがあるとすれば、味鋺の物部氏も同族としてつながっていた可能性が高い。 前方後円墳はヤマト王朝が認めないと作れない墳墓で、味鋺の物部氏もその傘下に入っていたということだ。 すでに失われた味鋺大塚古墳も全長は100メートルを超える大型のものだったという。 他にも前方後円墳や円墳がたくさんあったということは、かなり大きな集団が味鋺の地にいたことを意味している。 「従属の諸墓一百八十余あり」ということからすると、物部氏に従う勢力もいたということだ。 味鋺神社の他に春日部郡物部神社も『延喜式』神名帳に載っている。 白山神社に合祀されたという話もあるのだけど、実際のところははっきりしない。 平安中期(931-938年)の味鋺の状況はどんなことになっていたのか。 物部氏がこの地を支配していた古墳時代とは大きく情勢が変わっている。 奈良時代を経て京に都が移されて130年以上が経った時代だ。 朱雀天皇の在位期間が930年から946年なので、その頃ということになる。 朱雀天皇は930年に8歳で即位して946年に24歳で弟の村上天皇に譲位した。 その後、952年に出家して仁和寺に入り、その年30歳で崩御している。 935年には平将門が関東で反乱を起こし、翌936年には瀬戸内海で藤原純友が暴れている。 937年には富士山が噴火し、その他地震や洪水なども頻発した時代だった。 そんな時代背景を受けてか受けずか、水神であり龍神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀る神社を建てることになったいきさつがどんなだったかと考えてみても、なかなか想像がつかない。 龗神(おかみのかみ)は、日本神話において、イザナミ(伊弉冉尊)が火の神カグツチ(迦具土)を産んだときに火傷で命を落とし、怒ったイザナギ(伊弉諾尊)が迦具土を斬り殺したときに生まれたとされる神だ。 『古事記』や『日本書紀』の一書では闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれたとし、『日本書紀』の別の一書ではカグツチから生じた三柱のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)とする。 龗は龍の古語で、高龗は山の上の神を表し、闇龗は谷の川の神のこととする考え方もある。 高龗は京都の貴船神社()の祭神としてよく知られている他、奈良県吉野の丹生川上神社では罔象女神(ミツハノメ)とともに祀られている。 通常、雨乞いや止雨の神として祀られることが多い。 しかし、西八龍社では古くから日乞いの神とされてきたという。 これは雨乞いとは真逆で、止雨といえばそうなのだけど、それにしても日乞いの神社というのはあまり聞かない。 937年の富士山噴火の影響で火山灰に覆われて作物が育たなくなったので日乞いのために神を祀ったという可能性も考えられるけど、そういう伝承を持つ神社を他に知らない。 八龍の龍はすぐ南を流れる庄内川のことで、洪水除けを願って龍神を祀ったという話もある。 ただ、そうなると日乞いの話とは合わなくなる。 『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「社伝に、承平年間(931)朱雀天皇の御代に創建されたという。 昔から雷除け神、日乞いの神として霊験あらたかで、文政の頃(1818)尾張近郷は勿論遠く県外より祭日にはお守りをうける代参者で終日賑う。 明治6年、据置公許となる。 戦前は台湾までお守りが送られていた」 江戸期の書の味鋺村の項にはそれぞれこうある。 『尾張志』(1844年) 「神明ノ社 辯才天ノ社 八龍ノ社 山神ノ社 天道社 味鋺村にあり」 『寛文村々覚書』(1672年頃) 「山田庄 味鏡(鋺)村 社七ヶ所 内 神明 白山 六所大明神 天道 八龍 八幡 天神 社内五反三畝弐拾弐歩 前々除 同人(当村作太夫)持分」 ここにある八龍というのが今の西八龍社のことのはずだ。 江戸時代の味鋺神社は六所明神などと呼ばれていた。 神明社、辯才天社、山神社、白山社、八幡社、天神社、天道社は今の味鋺に現存していない。 おそらく多くは味鋺神社に合祀されたものと思われる。 雷除けの神社として信仰された云々は境内の説明書きにもある。 ただしそれは、江戸時代中期の文政年間(1818-1830年)以降のことだからそれほど古い時代の話ではない。 境内に落雷によって燃えたとされる一本の大きな杉の木がある。 その残骸といった方がいいかもしれない。 村の若者が三人、仕事帰りに庄内川堤防を歩いていると大雨が降ってきたため、八龍社の杉の下で雨宿りをしていたところ、杉の木に雷が落ちてひとりが死んでしまった。 助かった二人は八龍社の雷除けのお守りを持っていたという。 この話が近隣に伝わって評判となり、例祭にはそのお守りを求めて遠くからも大勢の人たちが訪れたのだとか。 それとは別の話として、明治の頃に若者が杉の空洞に入ったイタチをあぶり出そうと火をつけたところ杉に燃え移って焼けてしまったというのも伝わっている。 その若者は倒れてしばらく起き上がることもできなかったという。 例祭は旧暦の6月28日(新暦では7月28日)に雷除神事として行われる。 今でも雷除けのお守りを売るのではないかと思う。 の明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社があるのは田んぼの中ということになる。 しかし、もともとの位置はもう少し南の堤防のところにあった。 味鋺村の集落は少し北東の味鋺神社があるあたりだ。 その東を犬山街道(稲置街道)が通っていて、通り沿いに集落が発展していたことが見てとれる。 大正、昭和初期と農地は変わらず、1937-1938年(昭和13年)の地図から唐突に田んぼの中に鳥居マークが現れる。 戦後も田んぼは変わらず、宅地化されたのは昭和40年代以降だろうか。 西八龍社が現在地に移されたのは昭和25年(1950年)で、庄内川の堤防工事に伴うものだった。 しかし、このときちょっとした悶着があった。 戦中の昭和18年(1943年)、名古屋陸軍造兵廠鳥居松工場の廃水用に地蔵川の改修工事を行った際、西八龍社にかかったところで工事関係者が次々に病気になり、重機も動かなくなるという事態に陥って工事は中止になってしまったということがあった。 その話を知っていた工事関係者が西八龍社を移すことに尻込みしてしまい、相談の結果、氏子達が工事に参加するということで話がまとまり、遷座は無事行われたということだ。 本筋とは直接関係ない話なのだけど、ちょっと気になることを発見した。 『愛知縣神社名鑑』の内容は昭和の古いデータを元にしているので現在の状況とは違ってしまっているのだけど、宮司の名前で半田という名前が目につく。 千種区の上野天満宮の宮司は代々半田氏ということは知っていて、『愛知縣神社名鑑』では半田寛氏になっており、今は代替わりしたようで半田茂氏が宮司になっている。 西八龍社の宮司は半田収氏で、北区の八龍社は半田勲氏だ。 これはやはり半田一族ということになるだろうか。 偶然とは思えない。 半田家は渡来の秦氏の流れを汲むという話があり、読み方は「はんだ」ではなく「はた」か「はだ」ではないかと思うのだけどどうなんだろう。 『愛知縣神社名鑑』から半田の名前を拾い出してみるとこうなる。 【半田寛】 六所社(安井)、多奈波太神社、六所宮(上飯田)、神明社八幡社合殿(中杉)、八幡社(志賀町)、山神社(安井)、八幡社(大幸)、愛宕社(北千種)、上野天満宮 【半田収】 羊神社、味鋺神社 【半田茂】 別小江神社 【半田勲】 八龍社 北区の古い神社の多くに半田一族が関わっているらしい。 いつか、半田宮司をお話しできる機会が来たらそのあたりのことを訊ねてみたい。 西八龍社に関しては、いつ誰が何のために建てた神社かはよく分からなくなっているというのが現状で、日乞いと雷除けの伝承が残った。 実際に平安中期創建だとすれば、幾重にも時代が積み重なっているわけで、その地の部分は見えなくなって当然だ。 もはやそれはさほど大事なことではないのかもしれない。 いずれにしても、なかなかいい気を発している神社なので、機会があれば一度訪れてみてほしいと思う。 作成日 2018. 23(最終更新日 2019.
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