フランツ ボアズ。 フランツ・ボアズの学説上の意義

はじめて学ぶ文化人類学(4)ーフランツ・ボアズ

フランツ ボアズ

文化相対主義の具体例 身近な海外旅行を例に挙げたいと思います。 あなたが海外旅行に行った時に、自分の考えや文化では、全く想像もつかない現地の文化を目にしたとします。 例えば、「20歳の女性を毎年、生贄に捧げる儀式」や、もっと簡単なものでいうと、「犬食文化(=犬を食べる文化)」を目にしたとします。 そこで、あなたはどのような態度を取るでしょうか。 ここで、「絶対にありえない、今すぐにでもやめさせるべきだ」と考える場合、それは文化相対主義とは離れた考え方と言えます。 一方で、自分の文化を基準に考えると、道理に反しているが、その民族の文化を認めて、理解や対話を進めていこうとするのが、文化相対主義の考え方であると言えます。 文化相対主義の批判 文化相対主義の批判は主に2つ挙げられます。 1つ目は、他者の文化が人権侵害などを犯していた場合でも、それを認めることができるのか、という批判です。 例えば、アフリカなどでは、未だに割礼や女性性器切除などが行われており、その結果として多くの人が命を落としています。 このような人権侵害している場合でも、その民族の文化を尊重し、認めることができるのか、という批判です。 もう1つの批判は、今まで劣っていると見なされたり、西洋化を強制されていた、自文化や自己の属する社会に長い間否定的評価がされてきた人たちにとって、文化相対主義の考え方は、都合のよい支配者からの甘い懐柔のための言葉に過ぎないという批判です。 この批判をポストコロニアル批判と言います。 ポストコロニアル批判とは、第二次世界大戦後、世界が脱植民地化時代に入ると、それまで植民地だった地域は次々に独立しましたが、こうした旧植民地に残る様々な課題を把握するために始まった文化研究を指します。 あわせて読みたい 今週のおすすめ動画.

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はじめて学ぶ文化人類学(4)ーフランツ・ボアズ

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フランツ・ボアズの学説上の意義 はじめによんでください フランツ・ボアズの学説上の意義 解説: 講義メモ(2009年4月28日の授業:「」で講義した内容の講義ノートです)• 1.いま、なぜフランツ・ボアズなのか• 2.ボアズの出自とフィールド調査経験• 3.文化相対主義の第2の側面• 4.移民としての人類学者 -- 1.いま、なぜフランツ・ボアズなのか 「20年代以降の人類学では、マリノフスキーの示した民族誌の規範に改良を加えることが人類学の主流となっていった。 ……(ストッキングの 言)「ボアズは米国人類学の特徴[ナショナル・キャラクター]を決定した人物である」と、その仕事を高く評価している。 ……D・シュナイダーも60年代を 回想する自伝のなかで、同僚であったC・ギアツとともに「われわれはボアズ派だった」と述懐している」[太田 2005:40]。 ・ボアズの貢献 「第一点として、ボ アズは19世紀末の社会理 論を支配していた進化論的発想を批判したことがある。 ……ボアズは社会間の差異を文化要素 の伝播という歴史的過程によって説明した。 ……第二点として、彼の形質人類学的仕事は、人種主義を当時の科学的方法——身体計測法など——にもとづいて批 判し、人種は文化や言語を決定せず、これら三者——人種、文化、言語——はそれぞれ異なった領域であるという介入をおこなったことである。 ……(第三点) 広範囲なフィールドワークを調査している」[太田 2005:41]。 「帰納法により理論が生成されるという立場をとっていたために、彼独自の理論をもとにしてこれらの資料は解釈されることはなく、ボアズ の死後は現地語による(体系を欠いた)膨大なデータだけが残された」[太田 2005:42]。 しかし、20世紀になり、ボアズは進化論への批判と 北米先住民研究の経験から、フォークロアの意味を読み替える。 進化論者は、フォークロアを合的意識に由来するものの、すでに非合理な俗信となっている残存 にすぎないと考えていた。 反対に、ボアズはフォークロアを人間の無意識に起源を発し、現在でも行為の合理化を助け、社会を統合する役目を担うものと解釈し ている。 欧州の研究者がフォークロアと呼んでいた俗信などの研究対象は北米先住民の現在の生活に近く、それは文化の一部に統合されていると考えていた。 フォークロアと文化とは同一視され、文化は拘束性と結びつくようになる(Shannon 2006:94; Stocking 1968:225, 227)」(太田 2010:287)。 ・文化相対主義 「文化を序列化しないこと。 ……文化の独自性とその独自性ゆえに文化を判断することができない……。 文化をなんらかの基準に照らし合わ して比較できない理由は、基準それ自体が客観的ではないからである。 それを客観的と思い込むことが、すでに自らの思考の外に出ることを拒絶しているからだ という。 この発想が、第二の側面である」[太田 2005:42]。 ・文化相対主義への批判 「(その批判として)文化相対主義は、アメリカ合州国やフランスを例にとれば、道徳や規範の崩壊——ニヒリズムの横行——を生み、文化 の特殊性を主張すれば、それは野蛮な慣習をも外部の基準では判断できないという理由で、許容することになる。 文化相対主義はマルチカルチュラリズムとして 再生し……。 文化相対主義は文化的アパルトヘイトに直結する……。 マルチカルチュラリズムは、ある集団によって共有された文化を個人のアイデンティティの 源泉とするため、個人の平等を根底にすえたリベラリズムにも抵触する。 最後に、リベラリズムは多様性を尊重する反面、それが文化相対主義と結びつけば、少 数者や抑圧者に対して「正しい少数者・被抑圧者像」を強要するという植民地主義と寸分違わない結果すら生み出しかねなない」[太田 2005:43-44]。 第二点は、文化相対主義の歴史的形成過程を考えるとき、第二次大戦中(敵国であった)ドイツからの移民としてアメリカ合州国で生活するとい う経験も重要な要因だったことを確認すること。 ……(その歴史的形成については)第一に、ボアズは相対主義を北米先住民たちの間でおこなったフィールド ワークの経験から導き出した、第二に、それは移民の身体測定の結果から得た発想である。 第三にそれは、ニューヨーク市・ハーレムの黒人知識人との交流のな かから生まれたものだ。 第四に、彼はドイツの歴史哲学で流行していたロマン主義的観念論に影響を受け、そこから着想を得た」[太田 2005:45]。 2.ボアズの出自とフィールド調査経験 ライフヒストリー素描 「統覚」apaception:「既知の言語体系を媒介にして未知の音素を知覚すること」(p. 54)。 「現地のリンガフランカ(チヌーク 語)しか習得していなかったボアズは、現地の情報提供者兼通訳に大きく依存することになった」[太田 2005:48]。 とくに形質人類学は、ボアズが人種主義と闘うために重 要な学問領域であった[太田 2005:49]。 「ボアズは、全米有色人種向上協会の機関紙『クライシス』にもっとも頻繁に引用される社会科学者であった。 また、1906年 W. デュボイスの招待に応じ、ボアズはアトランタ大学での学位授与式で演説をおこなっているが、その内容も黒人卒業生たちに対してアフリカ社会の 文化、政治組織、法体系の偉大さを説くものであった[Boas 1974]」[太田 2005:50-51]。 ・同化主義——ボアズとハースコヴィッツ ボアズの同化主義への容認の立場と、ハースコヴィッツによる「黒人文化の残存」の探究のための調査 ・積極的関与の両価性 ボアズの同化主義やアメリカにおける黒人文化に独自性を認めない立場は、文化相対主義の立場と矛盾するように今の我々には見える。 そ の理由は、「ボアズが社会問題を批判し、積極的関与を最優先していた」からである[太田 2005:52]。 このことが、1960年代における黒人文化への覚醒運動のなかで、ハースコヴィッツの研究が評価されるようになった理由だ。 太田は、このことから、現在の「社会問題の解決に向けた積極的関与」をめざす文化人類学に対して、警鐘を鳴らしている。 「学問の意義 を回復するために、ある学問が社会問題を解決する力があるかどうか、という基準で学問の意義を判断することがいかに両価的であるかは、これまで示したハー スコヴィッツの仕事をめぐる評価の歴史を見れば明らかだ」[太田 2005:53]。 ただし、社会的問題を解決する能力があることを標榜している学問においてすら、冷静にみれば、あらゆる未知の問題に対して万能では ないことは明らか。 そうすると、ここでのもっとも有益な教訓とは、当該の「学問が社会問題を解決する力があるか」という形で、その方向性を無条件に規定す ることは、(将来に)リスクをともなう行為実践であるということだ。 3.文化相対主義の第2の側面 媒介の概念[太田 2005:53-54]/統覚(apaception)=既知の言語体系を媒介にして未知の音素を知覚してしまうこと。 1889年論文「変化する音」:「例えば、時と場所が違えばイヌイットの話者でも、ある同一の語をまったく異なって発音する」ように聞こ える。 これはしばらく未開言語の特徴と言われてきた。 しかし、ボアズはイヌイットの言語を調査していた言語学者と彼らの母語との対応関係があることを発見 し、「それは表記する言語学者の統覚にもとづいていることを解明した」[太田 2005:54]。 ある現象を知覚するとは統覚することを意味するわけであるから、言語に問題を限ってみても、聞き慣 れない音を媒介する体系(=母語)がその語を聞くものにはすでに存在し、その体系を意識化するためには、特殊な訓練が必要である。 その媒介という考え方 が、文化を研究対象にするアメリカ人類学の特徴なのである、と。 ストッキング[Stocking 1974:19]によれば、「文化という考え方は、物質文化のリストとか具体的な行動の集積とかではなく、むしろ規則やコード、象徴体系や意味の体系なの である」[太田 2005:54]。 ・論文「民族学の目的」と文化メガネ[Kulturbrille] ボアズの文化メガネの概念を発展させたのが、で ある。 「人は誰でも世界を(無媒介的に——太田による挿入?)原初的な眼で見たりしない。 習慣、制度、パターン化された思考により脚色された 世界を見ている。 哲学的思索でさえもこれらのステレオタイプを超えることはできない」。 「慣習が社会科学者の興味を惹かなかったのは、この慣習が社会学者 たちの思考そのものだったからである。 それなしには見ることすらできないレンズなのである」[Benedict 1989[1934]2,9][太田 2005:57]。 Invisible Genealogies. Lincoln: University of Nebraska Press. と「解釈の循環」。 「人類学は「未開社会」についての専門知識を一方的に集積する作業とは異なり、その知識が生まれる枠組みをも同時に疑問視 しながら進行する再帰的作業である、というギアツ[ギアーツ 1987:51-52]の見解は、現在ではかなり広く受け入れられている。 その根底にあるのは、ボアズがここで示した「媒介」という考え方なのである」 [太田 2005:57-58]。 4.移民としての人類学者 ・移民の意識と文化相対主義の発生 ・社会批判としての文化相対主義の可能性と限界 ボアズは第一次大戦を「ナショナリズムという非合理的感情の爆発が生んだ悲惨な結末」と理解[太田 2005:59]。 愛国心への高揚への警戒。 「ボアズは、各国に個別の文化人格を認め、そのうえで自己文化への過剰な思い込みを批判し、ヨーロッパの国際関係には干渉しないという結論 へと向かう。 ボアズの見解はアメリカ合州国の意思が普遍的であるという自国中心主義と対立する。 ……「人類学の教義」となっている文化相対主義という考え 方は、第一次大戦中ボアズがドイツ移民としての立場を自覚せざるを得なかった経験なくしては結晶化されなかったのではなかろうか」[太田 2005:60]。 「1954年アメリカ合州国における人種差別待遇を違法とした最高裁判決について……この判決は、公民権運動の根底にある「代表制の平等」 を「ボアズ的」文化相対主義に訴えて、最高裁が人種差別待遇の撤廃を支持した判例である、と議論されてきた[たとえば、D'Souza 1995:19,194]。 もしこの議論に正当性があれば、社会正義を希求続けたボアズは墓のなかで喜んでいるに違いない[太田 2005:61]。 墓の中で喜んでいるあるいは、夢の実現が半ば途上であると涙ぐんでいるに 感情移入しつつ、この授業を終えよう。 "All speech," says Dr Boas explicitly, 'is intended to serve for the communication of ideas. " Ideas, however, are only remotely accessible to outside inquirers, and we need a theory which connects words with things through the ideas, if any, which they symbolize. We require, that is to say, separate analyses of the relations of words to ideas and of ideas to things. The omission of all separate treatment of the ways in which speech, besides conveying ideas, also expresses attitudes, desires and intentions,1 is another point at which the work of this active school is at present defective. i Not that definitions are lacking which include more than ideas Thus in one of the ablest and most interesting of modern iinguistic studies, that of E Sapir, Chief of the Anthropological Section, Geological Survey of Canada, an ethnologist closely connected with the American school, language is defined as "a purely human and non-instincti',e method of communicating ideas, emotions and desires by means of a system of voluntarily produced symbols" Language, 1922, p 7 " from Ogden and Richards, The Meaning of meaning, 1923. 太田好信「媒介としての文化:ボアズと文化相対主義」『メイキング文化人類学』太田好信・浜本満編、世界思想社、2005年(ISBN 4-7907-1102-1)• 太田好信「文化概念の往還」『トランスポジションの思想(増補版)』pp. 285-318、世界思想社、2010年• (1858-1942) Copyright Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2009-2018.

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文化相対主義、機能主義:Cultural relativism, Structural functionalism

フランツ ボアズ

このブログは『はじめて学ぶ』からとっています。 本章の作者は です。 (Franz Boas:1858-1942) カ人類学の祖 フランツ・ボアズは、ドイツからへ移住、自然ジル医学、考古学、、の4分野を統合した人類学を構想、それを大学において制度化した人物である。 彼は当時支配的であった人種と文化との統一視により、人間社会の多様性を序列化する立場を批判、文化を歴史構成的、相対的、統合的総体として捉える20世紀のカ人類学の礎を築いた。 今述べた特徴をもつ文化概念をより精緻にしたのはボアズ自身ではなく、彼の薫陶を受けた人類学者たち、例えばマーガレット・ミード、であった。 後に、デイヴィッド・シュナイダーやクリフォード・らも、ボアズが道を開いた文化概念を鍛えあげた結果、自らの人類学的分析を作り出したといえる。 また、ボアズが繰り返しフィールドワークを行ったのはカナダ(州)北西海岸地域である。 それらの調査において、彼は現地研究協力者に依存した。 中にも、もっとも有名な人物はジョージ・ハントである。 ハントとともに残したクワクワカワクゥに関する資料は膨大な量にのぼり、現在でもカナダ国内の先住民文化復興に寄与する大切な遺産となっている。 ドイツ、そして ボアズは、ドイツ・ミンデン市の富裕な人商人の子として生まれた。 彼の少年時代の愛読書の1つは『』であり、すでに異国への憧憬を抱いていたと改装している。 からへと移籍、1882年に大学から物理学の博士号を取得した。 しかし、彼の関心は客観的世界そのものよりも、それと主観との関係にあった。 博士課程修了後、定職が彼を待っていたわけではなかった。 ようやく、ボアズはアードルフ・ーンの助手としてベルリン博物館で働く機会を得る。 そこで働くうちに、ボアズは環境の季節的変更との移動パターンとの関係解明をテーマに、ドイツの極地探検に参加する僥倖に恵まれる。 1883〜84の1年間、カナダ・バッフィン島東岸のの素でフィールドワークをした。 ドイツに戻ったボアズは、ベルリン博物館で収蔵品のカタログ作者の仕事に復帰する。 収蔵品の中には、人探検家ヨハン・A・ゼンがカナダ北西海岸地域から集めた仮面が含まれており、ボアズはその仮面に魅了された。 1886年、私財を投じて、ーンのために仮面を収集するという名目野本、ボアズは自分を虜にした仮面が生まれた場所、へと向かった。 ボアズは、合計13回ほど繰り返しカナダ北西海岸地域を訪問している。 1888年6月、白人貿易商の父とト人の母との間に生まれ、すでにクワクワカワクゥ社会において重要な地位を占めていたジョージ・ハントに、ボアズは初めて出会う。 彼との出会いを境に、ボアズの調査スタイルは大きく変化する。 一方において、ボアズはハントに依存するようになり、他方において、ハントは調査の援助だけではなく、1人の研究者としてボアズの理論形成に影響を与えるようになった。 ボアズの不安定な職を転々とする生活は、やがて終わりを迎える。 の自然史博物館でのキュレイターの仕事を獲得し、1889年、に人類学ぶを創設するが、これは好事家の趣味ではなく、プロの人類学者を養成する場所ができあがったことを意味した。 さらに、での生活は、ボアズとアフリカ系カの知識人や芸術家との交流を促した。 1920年代、「ハーレム・」と言われる黒人芸術活動の中でもボアズの著作は頻繁に引用された。 彼が指導した黒人ゾラ・N・ハーストンは、その運動の中心的人物の1人となった。 ボアズの弟子たちは愛情を込めて、「パパ・フランツ」とボアズを呼んでいた。 人類学部は、当時白人男性が多数を占めていたの諸大学において、北米先住民、人、女性、黒人、1. 5世代と言われる移民の子供たち、外国人たちが気兼ねなく学べる数少ない場所であった。 ボアズは、84歳で亡くなる。 彼の研究生活は長く、その研究テーマも多岐に弥。 研究の功罪を含め、「ボアズ研究」というジャンルすら成立しそうである。 本章では、ボアズの示した文化概念を素描し、資料の新たな読解可能性を簡述することにとどめる。 文化概念の基礎理論 ボアズが人類学を大学組織内部に制度化した功績を疑うものはいない。 しかし彼の学問的業績をどう評価するかは別である。 1949年、ジョージ・P・は、「ボアズは弟子たちにより過大評価されており、彼は理論家として全く体系だった思考ができていないし、フィールドワーカーとしてもたいしたことはない」と、ボアズの仕事を酷評している。 50年代には・ホワイトも、同じ理由でボアズの仕事を厳しく批判した。 後、の社会科学全体が自然科学をモデルとし、一般化や法則を追求しようという方向に向かう中、ボアズのように一般化を嫌い、個別事例の集積とにする学者に対する評価は低かった。 そのような状況を一変させたのは、1960〜70年代にかけて歴史家ジョージ・ストッキングが行ったボアズの仕事を再評価する一連の読解である。 ストッキングは、における人類学の最大の特徴とも言える文化概念は、ボアズなしには成立しなかったと結論づけた。 ストッキングによる読解の骨子は、次のようなものである。 19世紀末に近い頃、ボアズの論敵は何人か存在したが、中でもオーディス・メイソンが最大の標的であった。 メイソンは、人種と文化との違いを述べ、人間の行動を規定するのは人種ではなく文化であると主張した。 文化は人間のもつ多様性の表現であり、それらに優劣をつけることはできず、ハイアラキーには収斂されないという。 1年、ボアズは主著の1冊『未開人の精神』でも、今述べた議論を展開している。 しかし、人種論への批判以上にストッキングが重要視したのは、ボアズの「変化する音」(1889)という論文であった。 当時、「未開言語」の特徴は・(sound-blindness)にあると言われていた。 それは、ある言語の話者たちの中には、正確な音の認識ができないものがいることをさしていた。 特に、語話者の中にそのような特徴が報告されていた。 ボアズは、この結論を否定する。 たちは自らがとして体得した言語にある音(音素)として、語話者の発音を聞き取っていたため、このような結論を導き出したに過ぎないという。 ボアズの主張は、知覚とは媒介を通して認識されるから、それは統覚であるという言葉に要約される。 ストッキングによれば、1970年以降、多くの者の間では文化を物質文化や行動パターンそのものではなく、媒介として行動に意味を付与するコード体系として理解すようになっていたのである。 における共同作業 ボアズを魅了したカナダ北西海岸地域の諸社会は、すでにの大流行により、人口が激減していた。 それだけではなく、ミッションとカナダはポトラッチの実施を弾圧、禁止した。 ボアズはこのような歴史的変化を問題視しないまま、彼の眼前で不可避に消えゆく社会を記録するという立場をとった。 ボアズの歴史性への無配慮に対して、彼のフィールドワークを援助していたハントは、ボアズとは異なった緊迫性を自らの仕事に感じていたに違いない。 ボアズの関心がモノから思想(歌、神話や物語など)へと移行すると、ボアズはハントに自らが考案したアルファベットによる表記法を教え、ハントに冬の祝祭の中心であるポトラッチにまつわる民俗資料の収集を依頼する。 しかも、ボアズが不在の時も、ハントが「ここに保存する本(Keeping Here Books)」と呼ぶ黒いノートに、ハントはクワクワカワクゥ社会の生活を詳細に記録していた。 ハントは自ら収集した現地語により記載された資料に英語訳を付し、それらの分量はボアズの研究室の棚、「約1. 5メートル」を占有するほどであった。 ボアズとハントとの関係を、人類学者と助手、あるいは研究協力者との関係だと言い切れるのだろうか。 確かに、多くの場合、ボアズはハントの名前を共著者として明記し、記録をのしている。 ボアズは的権威を分散していたともいえる。 しかし、今述べたこと以上に、ハントは、クワクワカワクゥの人々が近代のもたらした苦境を生きのびるために、ボアズに何かを託していたのではなかろうか。 この疑問は、先住民たちのエイジェンシーに関わる。 この問いは、先住民は近代の犠牲者に過ぎないのではなく、近代がもたらした災禍を生き抜くための戦略をもち、歴史の主体になろうとしていた、というしてんの転換から生まれる。 ハントがボアズに託した未来 21世紀において、先住民の研究者たちは、ストッキングの解釈は異なった視点から、ボアズの仕事を復活させている。 例えば、ボアズがハントとともに残した資料は、現地の文化復興に寄与する可能性を通し、世界に向けて先住民たちが近代の一員として生き抜いてきた歴史を証明するだけでなく、未来に向けて西洋文明に対し新たな価値を提示してもいるという。 そのような未来に向けた世界史は、差異によって導き出される対立よりも、ポトラッチのように、多くの異なった社会の人々が参加することにより結びつく、多様性によって特徴づけられるとすれば、それはボアズのヴィジョンとも合致するだろう。 そう主張したい理由は、ボアズは『未開人の精神』において次のように記しているからである。 「外から影響を被っていない民族はいない。 どの民族も近隣の民族から発明やアイディアをそのまま斜陽し、ときには同化吸収している」と。 21世紀、私たちは対立や紛争の原因には差異を過度に強調する世界観の蔓延があると疑うようになった。 そんな時代だからこそ、未来を想像するキーワードとしてを世界の連結を含意する概念として捉え直し、多様性が差異とは異なった価値として示されてきたのである。 先住民の研究者たちは、ハントが交換、互酬性、そして変容を通して連結する世界という価値観をボアズに託したと述べている。 先住民的視点から示されたこの斬新な解釈に従えば、ボアズは世界に対するギフトとして先住民の価値観を伝えた人なのである。 用語解釈 統覚(apperception) 認知とは、知覚システムの媒介があり初めて成立する。 例えば、一言語には明確に区別される音が、その言語を初めて学ぶものにとり、自らが慣れ親しんだ言語にその音がなければ、それを聞き取ることが困難である。 ポトラッチ(potlatch) カナダ北西海岸地域の先住民による。 統治形態であるという解釈もある。 ホストが招待者たちに膨大な量のギフトを分配する祝祭を伴い、1884年に法律で禁じられるが、1950年代にはその法律は無効となった。 xiao9259.

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