追跡番号等はございません。 到着までは日曜、祝日を除く2〜4日程度かかり、配送日や時間の指定はご利用いただけません。 大正4年8月10日福井県大野市禅師峰寺関頑牛に就て得度。 大正14年3月愛知県曹洞宗第3中学校卒。 飯田老師臨済の正眠僧堂、小南老師の門に入り参禅弁道。 昭和11年富山県富山市宝洞寺首先住職。 昭和12年富山県立山町竜光寺住職。 昭和21年富山県立山市竜光寺美徳会 女子青年 、池の坊生花、裏千家、琴、あんま、料理、珠算会、婦人会、老人会の会長、人権ようご委員、保護司10年間。 昭和24年緋恩衣被着、特許せらる。 昭和25年青少年愛育事業功労者として北日本新社より10傑表彰。 昭和27年曹洞宗管長表彰「教化伝導功労者」。 昭和30年富山県知事より「社会福祉事業功労者」表彰。 昭和32年6月第1回吉峰寺地蔵流し会発足。 昭和40年曹洞宗管長表彰「寺門興隆、教化伝導功労者」。 昭和44年高志社会福祉協議会「たすけあい運動功労者」表彰。 昭和44年保育事業功績者表彰、上志比村長。 昭和45年社会教育功労者表彰、高志社会教育協議会等の数々の表彰を受く。 昭和45年曹洞宗権大教師に補任、黄恩衣被着。 昭和50年5月20日大教師補任、紫恩衣被着。 上志比社会教育委員、公民館運営委員 本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです 「食えなんだら食うな」「病なんて死ねば治る」。 目次を見ただけで、ガツンと頭を殴られるよう。 いかに自分が欲望にまみれていて、いつも弱気でいるかを、思い知らされる。 明日何を食べようか、明日何を着ようか。 あそこが痛いここが調子が悪いと、いつもそんなことで思い悩んでいる。 そういうひ弱な心を、関大徹が叩っ斬る。 その衝撃で目が覚めて、徐々に光がさしてくる。 …そうだ、食えなんだら食わねばいいのだ。 病気なんて、死ねば治るんだ、と。 関大徹という人が、真に温かい人だから、これだけのことが書けるのだと思う。 この本には、本当のことが書かれている。 生きるための希望が書かれている。 だから、生き方に悩んでいる人、子育てに迷っている人、若い力のある人、すべての人に読んでほしい。 巻末の執行草舟氏の解題には、涙がにじむ。 この本にはたしかに、人間を立ち上がらせる力がある。 明治生まれの方がお書きになったとはとても思えない現代的な文章で、こういう大まじめな本の感想としてはやや不謹慎な言い方ですが、大変楽しんで読ませていただきました。 この本で問題にされるのは日本人の信仰心と死生観、それと道徳観の新旧という問題でしょう。 第一番目の信仰心と死生観の問題ですが、先日台湾の李登輝氏(彼自身は日本で教育をうけた日本的知識人です)の書いた本を読んでいたらこんなことが書いてありました。 論語に「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんや」という有名な文章があります。 日本人がこれを読むと自覚的な信仰心のあるなしに拘わらず、「未だに生きる意味や自分が生きて為す可きことも分かっていないのだから、軽々に死んでどうなるのかとか死後の世界といったようなことを論じるのは誤りだ」というふうに自然に読むだろうというのです。 ところが中国人は信仰がありません(と言い切っていました)。 だからこの文章を無制限な生の肯定として読むというのです。 するとどうなるか。 とにかく生きているうちにできるだけのことをやって楽しむことこそが正しいとなります。 求めるものは財産・地位・名誉です。 儒教には五常といって、仁・義・礼・智・信の徳目がありますが、「名教」といって、いわば掲げておくだけのスローガンになっているというのです。 ではなぜ日本人にはそうならないリミッターがかかるのか?それは繰り返しになりますが、具体的に自覚するかしないかに拘わらず、日本人には信仰心とそれに基づいた死生観があるからだというのです。 それを自覚的かつ明確に説いたのが本書だと思います。 もちろん、一般の方で生死をそこまで突き詰めて考えているひとはいる訳がありませんが、こういう僧が活躍する土壌がわが国にはあるということなのだと思います。 もうひとつは道徳観の新旧という問題があると思いました。 「家事嫌いの女など叩き出せ」という章がありましたね。 ウーマンリブの闘士が読んだらそれこそ頭から火を噴くのではないかと懸念されましたが、ここで師がいっていることは古いのか?間違っているのか?よく読めば師は女性を蔑視したりしているのでは決してないことは分かります。 ただ、男と女の役割は違うはずだといっているのです。 わたしたちはこの人口減少時代を迎えて女性が社会に進出してくれないと絶対労働力が足りないため、いろいろと理屈を付けては女性の社会参画を促します。 しかし、それのかなりの部分はまやかしではないのか?いま社会進出していると自分では考えている女性のどれだけ多くが最低賃金ギリギリのところで働いていることでしょうか。 これが女性の社会進出ですか?師はしっかりした資格や才能を持った女性が活躍することには全く反対していません。 社会の甘言にのせられて、やらくてもよいような仕事をして子育てや家庭経営を疎かにしている女性たちにひとこと釘をさしているのだと思います。 そういう意味でこの章は議論はあるでしょうが、古くて新しい章というべきなのだと思いました。 戦争の項は生々しいですね。 こう戦争の実態を活写した宗教家は珍しいです。 ただ、わたしはこの章を読みながら、日本の宗教家の社会的地位の低さや社会的発言力のなさが気になりました。 日米開戦に先立ってアメリカの主にカソリックのグループが何とか戦争を阻止しようと努力したことはよく知られています。 このことから短絡的に、日本の宗教家は世界を見る目がないとか、ひどい場合には戦争協力者だとかいう人までいます。 しかしそうではないのだと思います。 日本の宗教家にはそれだけ社会に大きな影響を及ぼすだけの発言力がないのだと思います。 まともな宗教家が「鬼畜米英!叩き殺してしまえ!」などと叫ぶでしょうか?そんなバカがいる訳がないですよね。 しかし日本の宗教家たちは宗派を問わず、戦争に積極的に意見を述べることができなかった。 これは何故なのか、宗教界に投げられた重大な問いだと思います。 なお、最後に。 解題というからには本書の成立事情であるとか、復刊に至った経緯、あまり知られていない関大徹師の伝記であるとか、当時のわが国の宗教事情であるとか、いったものを解説するのが解題なのではないでしょうか?これはただの感想文です。 執行氏がこの本をどう読んだかは一般読者には関係のない事柄だと思います。 蛇足だと思いました。 私はここ数年、読書三昧をしてきましたが、とうとう運命の本に出会えた気がします。 決して 難解ではなく、奥の深い老師の言葉が心の奥底に入ってきます。 老師は13歳で仏門に入り、以 来妻帯もせず、ずっと仏門の道を歩みます。 私たちは何かを行うとき、心の中で「どうだ認め てくれ」という気持ちが働きがちです。 しかし老師にかかるとその心さえも見透かされてしま います。 自殺をしそうになることさえもです。 さらに言えば、この本は復刊で原本はかなり古く、老師は明治の生まれで戦前戦中の話も出て くるのですが、内容に微塵も古さを感じさせません。 老師の語られる言葉や出来事の数々が、 人間の本質的な部分をついているからだと思われます。 死は生きとし生けるものに約束された自明の 理であり、これを心得ていれば病など苦にすることはない。 便所掃除こそそうでなければならない。 白昼堂々、こ れ見よがしに便所掃除するなど論外中の論外。 たとえ粗食でもいただく。 死ぬのはおのれ一人。 この本で目の前の霧が晴れた感じがしました。 人間関係の悩みも人並な暮らしがしたいという 欲望も小さいことのように思えてきます。 私たちが悩んでいる多くのことは、見方を変えるこ とで悩み自体が霧散していることに気づかされます。 また、老師のすごいところはその言葉が 机上の空論ではなく、実際に多くの人の人生に大きな影響を与えてきたことがこの本で分かる ことです。 私はまずこの本の解説から読みました。 この解説が熱いです。 この本に対する並々ならぬ愛に 溢れています。 命の「恩人」とまで書かれています。 私もこの本を読んで、解説を書いた執行 草舟氏と同じく、この本が死ぬほど好きになりました。 この本は本物です。 一人の人生を変え るだけの力のある本です。 著者は明治36年生まれ、ちょうど日露戦争のころです。 今のひとからしたらちんまりした規格に収まらない明治人の大きさを感じました。 仏教諸宗派について自分なりに調べていますが、不確かなあの世のことを説かない、「いまこの瞬間を生きる」、という禅宗に現代の科学にも耐えられる教えを見いだしました。 「食えなんだら食うな」は警策でビッシッと肩を打たれたような気がしました。 たまたま書店で手にしたこの本が気になってしょうがなくなり、翌日にはアマゾンで注文していました。 「死ねなんだら死ぬな」、「病は死ねば治る」、シンプルなこれらの一言がふしぎとすっと心に入り込んできます。 長年に渡る坐禅や作務を通して、精神までも贅肉がそぎ落とされた禅僧の言葉の研ぎ澄まされた言葉だと思います。 面白い本である。 禅僧という特異な人生経験から生み出される言葉は大変個性的であり興味深い。 例えば、大勢の人が死んでも「死ぬ経験をするのは一人(自分だけ)」という観点は、まさに一人で禅を修行してきた人だから容易にたどり着く考えなのだろう。 一方で、禅の経験がほとんどなので、通常の生活に関する理解は少ないと感じた。 例えば、「犬のように食え」というところでは、犬がガツガツその本性で食べるように、人間もコメを作ってくれた人たちに感謝の心を持って無言で食事を味わうべし、といった感じのことが書いてある。 しかし、賑やかに話しながら食事を楽しむのも人間の本性というものであろう。 その辺りは禅の教科書的な狭い考え方かと思われた。 (禅寺での食事に文句をいう人たちにクギを刺しているだけかも知れないが。 )深い独自の考え方と狭い考え方が同居する本であり、そのギャップに驚かされる。 禅僧という非常に特異な人生経験から生み出される考えの本と感じられた。
次の昔の日本は貧しかった、という話をよく聞きますが 具体的にいつのことをいっているんですか? 戦後の闇市などの時代をいっているんでしょうか? とはいえ、一部の都会だけがそうであっただけで全体的にみると大して貧しいわけでもなかったみたいです 〜江戸時代までみても飢饉でもない限りは餓死なんてしなかったみたいです 他の国と比べても、取り立てていうほど貧しかった時代があるようには思えません 補足そもそも飯もろくに食えなかった論のひとは、日本が長寿国だったのをどう説明するんでしょうか? 貧しい国ほど平均寿命は短いです 倭国あたりの時代から、中国人が倭には100歳(今と数え方もが違うという説もある)のやつまでいる、と書いてくらいです それ以降ずっと長寿です 馬車馬のように働いて飯も食えないほど貧しくてよく餓死していたのに長寿、どう説明するんですか? 質問者さんはお若い方で 回答者の面々は食べ物を粗末に扱うと 親に目玉が飛び出るほどぶん殴られたクチですから 大きな相違があるのは仕方がないとは言え 質問者さんの意見を聞くと小さな驚きですね。 日本列島は有史以前から貧しい列島でしょう。 人口推移をみると 弥生時代 明治維新 昭和20年終戦 他所の国から技術や食料が入って来て 人口が増える事が解ります。 別の方に映画「怒りの葡萄」と書かれていますが 大恐慌時代1930年代が舞台の映画ですね。 主人公家族は車で移動しますが 日本で車を一般人が買うようになるのは1965年以降でしょうか 昭和40年代であればサラリーマンは背広(スーツ)を月賦(ローン)で 買うのが一般的だったと思いますよ。 大恐慌時代を較べても アメリカでは「怒りの葡萄」ですが 日本の貧農小作人は娘を売って借地代を払っていたのですから 何ともですね。 貧困の定義をせずに、同時代の外国を水平的に比較して「日本と同様だった」というのは、いかがなものか? 戦前日本の農村地主や都会中産階級の生活は、そりゃ飢餓とは無縁で文化的で安定していたけど、国民の大宗をなす小作農や、漁村山村の民、都会の縁辺労働者、職人の生活水準は 極貧だったというのを知らないのかな? 宗教による共助も、政府の社会福祉制度もない。 多くの都市中流家庭には下人や女中がいたが、彼らがなぜ故郷を追われたのか? 「おしん」を見ていないのか? 富国強兵のための兵隊要員で人口増加を図ったが、食えるほどの土地はなく、コメ品種改良ができないから、中部東北から北では、ソバやヒエを食っていたのだ。 だから移民や出稼ぎ(炭鉱、満州、遠洋漁業)するしかない。 同時代、米国の底辺労働者は少なくとも居住施設はあり、パンと肉が食えている。 中古自動車も買えた。 農村ではトラクターで耕作していてのでエンジンを直すなどお手の物、日本農民はスキとクワの生活だ。 米国の貧困な居住環境の写真を出している回答者は工場季節労働者のそれだということがわかっているのか? 日本であれに相当するのは、半島や沖縄出の人が大都市河原を占拠して建てた粗末な、便所もないバラックだ。 戦後1970年頃まで大都市周辺にあったぞ。 日本の農村や都会では、貧困で独立できない妹弟が大半で親と同居していたのだ。 江戸時代に餓死がないとか「そこそこ食えた」のは、赤子の間引きや姨捨てをやって「友倒れしないために 口を増やせなかった」からだ。 同時代の欧米諸国にはキリスト教信仰があって既に共助の概念が確立していた、どっちが豊かだろうか? ------------ 日本でも栄養源としての 卵の評価は高いが、ブロイラ種がなく生産が少なく流通網のない時代では貴重品だった。 高価だから需要が乏しかったのだ。 戦後でも、卵はおが屑をしいた紙箱に入れて病気見舞いに使われていた。 飼料があって量産農家のあった欧米では、低価格で児童が食えたから、白人種の体格と体力が築かれた、どちらのクニが豊かだろうか? 「日本で鮑が貧乏人の食い物だった」というのは誤伝だ。 大昔から乾し鮑として宮中への献上品だったのだから、加工し流通ルートがある地域では、現地で消費しない。 漁村でしか流通しない小粒か他の巻貝と混同している。 その代わり、辺境の漁村ではコメなど食えない、イモか麦だ。 コメがそこそこ出回るのは、1930年代に配給制度が登場して以降のことで、そのコメは半島や大陸からも搬出されている。 (常用食品をトリアゲられた植民地の農民の苦悩はいか程だったか?!)。 闇市とは、日本通貨が信用ならないために、また自らが食うために、失業者が半ば物物交換で都会で市を開いたもの(経済統制下では禁止行為だから警察が取り締まった)。 同様に、地方でも貨幣が信用ならなかったから 都会から買い出しに来た民から物と交換で食料を売ったのだ。 薬品やレコードを買うには、全国共通で米ドルが必要だったのだ。 この自国通貨が信頼できない状態を「全国的に貧しい」、というのだ。 社会主義崩壊後のロシアでも起きている。 1960年までは、お昼の学校給食が唯一の栄養源、という子供がいたぞ。 戦時中の回想録や証言録など見ても、地方でも食糧難が深刻であることが判りますし。 都会から大量の住人が田舎へ疎開していきましたから、村落の生活経済が崩壊するのは道理なのですよ。 民俗学や文化人類学の調査記録を見ても、戦後になっても、地方や離島では相当に困窮している人々がいることが判ります。 地方格差は激しかった、なんてのは常識の範疇です。 明治になって西洋科学が入ってくると、日本人の栄養状態が悪いことが判明しましrた。 そのため佐伯矩が栄養研究所を作り、日本人の栄養事情を改善しようと取り組みましたが、疫学的に有意な結果が出たのは戦後のことです (国民の栄養状態と体格は、国力・軍事力に直結するので、詳細なデータが残っています) 「明治以降は小作が増えた」というご指摘が既にありますが、明治になって近代国家になると、経済構造が変わり、私権は絶対的に擁護される代わりに、田畑など生産資本は個人の財産となりました。 また外国から安価な商品作物や製品が流入したため、没落して、小作になるか、都会に出て来てスラム住人になる農民が増えました。 そもそも日本の土地は地味が弱く、農業生産性に乏しいんです。
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11月23日夕方、熊本市東区の交差点で、原付きバイクとユニック車(クレーンを装備したトラック)が衝突する事故が発生。 この事故で原付きバイクを運転していた男子高校生が死亡しました。 警察の発表によりますと、11月23日午後4時ごろ、熊本市東区尾ノ上の交差点で、「バイクに乗っていた男性が頭から出血して意識がない」と、付近を通りかかった人から警察に通報があったということです。 通報を受け、警察官が現場に駆けつけたところ、交差点の真ん中で男性が倒れているのを発見しました。 男性は熊本市中央区水前寺の高校2年生・田﨑翔太さん(17歳)。 田﨑さんは駆けつけた救急により、市内の病院に搬送されましたが、その後死亡が確認されました。 警察の発表では、田﨑さんが原付きバイクに乗って直進で交差点にさしかかったところ、左から交差点に入ってきたユニック車と衝突し、バイクから投げ出されたということです。 なお、ユニック車の運転手にけがはありませんでした。 現場は市道が交わる交差点。 田﨑さんの進行方向には信号機がついておらず、また、ユニック車の進行方向の信号は青だったということ。 警察は、ユニック車の運転手から話を聞くとともに、事故の詳しい状況を調べています。 今、田崎翔太くんのことストーリーとかTwitterに呟いてる人消してもらえると嬉しいです。 翔太くんの弟さんが 「あまりSNSで拡散しないでください。 お願いします。 」 と言われてます。 このツイートを拡散してもらえると嬉しいです。 心残りが強く後悔しています。 まだ不慮の事故から2ヶ月しかたってない今でも親族の方はもちろん田崎くんの友人達も本当に辛い出来事だっと思います。 受け止めきれない出来事だったと思います。 こんな僕が言うのも無礼かと承知ですが強く生きていって欲しいです。 惜しくも亡くなられた田崎くんの分まで楽しく過ごして欲しいと思っています。 彼がいちばんそれを望んでいるのかと思います。 心からご冥福お祈りします。
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