松尾 芭蕉 の 職業。 松尾芭蕉 千人万句

松尾芭蕉 千人万句

松尾 芭蕉 の 職業

「芭蕉=忍者」説の最初の論拠となるのが、この出生地と名字の存在です。 この当時、伊賀を収めていたのが「変節漢」と呼ばれた戦国武将の藤堂高虎です。 高虎は、織田信長の行った伊賀攻めの影響で散らばっていた伊賀忍者を多数配下にしたと言われています。 この時、高虎は伊賀忍者たちを武士として取り立てたので名字を名乗れるようになった忍者が多く出たと言うのが「芭蕉=忍者」説の論拠を補強しているようです。 しかし、伊賀出身の有名人である芭蕉の忍者説が出てくるのであれば、同じく伊賀出身の俳優である椎名桔平にも忍者説が出ても不思議ではないはずです。 おそらく、この論拠は単純に「伊賀=忍者」「伊賀=芭蕉」「芭蕉=忍者」という三段論法で導かれたのではないでしょうか。 そして、「芭蕉=忍者」説の最も大きな論拠となっているのが「奥の細道」の旅です。 まず、移動距離と日程から割り出される芭蕉の移動速度が一般人離れしているということが挙げられます。 「奥の細道」の旅の総移動距離は約2400kmで、総日程が約150日となっています。 しかし、この総日程にはまったく移動しなかった日が含まれています。 つまり、150日ずっと移動していたわけではないのです。 この移動しなかった分を取り戻すかのように、一日で50km以上も移動している日があるのです。 年齢的には壮年に差し掛かっていた芭蕉が、これほどの移動距離を一日で歩くのは無理があると考えられています。 移動距離だけでなく、日程そのものにも謎があります。 まず、「奥の細道」では3月27日に出発したことになっているのですが、同行した河合曾良の記録では3月20日に出発したと記されているのです。 また、芭蕉がその感動を「松島やああ松島や松島や」としか詠めなかったと言われる日本三大名所のひとつである松島を、実は芭蕉は素通りしているのです。 その代わり仙台藩の重要拠点とされている石巻港などを見物に行っていたことが、河合曾良の記録には記されているのです。 また、松島で詠んだとされる句も後年に詠まれたものが芭蕉の句として伝わっているだけで、芭蕉自身は「いずれ誰かが松島の素晴らしさを詠うだろう」としているのです。 それもそのはず、芭蕉は松島を一度も訪れなかったのですから。 芭蕉がこだわった仙台は、独眼竜・伊達政宗の領地であることは有名です。 正宗は「あと20年早く生まれていれば天下を手中に収めていた」と言われる、無念と野望を抱いていた武将です。 徳川幕府が樹立し三代将軍・家光から慕われるようになってもなお、正宗はその野望を燃やしていたと言う史実も存在しています。 つまり、徳川幕府にとっては、仙台藩はある意味で獅子身中の虫と捉えていたのです。 しかし、忍者を放てば正宗に仕えていた忍者・黒脛巾(くろはばき)に察せられる恐れがあります。 その点、俳人として名が知られていた芭蕉ならば、創作活動を名目にして仙台藩に入り込み要所を見物していても不審がられないという利点があります。 つまり、芭蕉は幕府から「仙台藩への綿密な偵察」を条件に東北旅行を許されたのではないでしょうか。 この時、カモフラージュの一環として詠まれた句が纏められて「奥の細道」になったと考えるほうが自然なのです。

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松尾芭蕉

松尾 芭蕉 の 職業

隅田川と小名木川が交差した岸辺には、松尾芭蕉さんの銅像が鎮座しています。 かつて芭蕉さんは、深川の「萬年橋」の近くの岸辺に住んでいたのです。 かつて芭蕉さんが住んでいた場所にいる、芭蕉さんの銅像を訪ねてみませんか? 葛飾北斎や歌川広重が、浮世絵に描いたのが「萬年橋」! 「萬年橋」は、江戸時代には木製の太鼓橋でした。 延宝8年(1680年)には、こちらに「萬年橋」はあったようです。 そして松尾芭蕉さんが住んでいた場所は、こちらから徒歩2分です。 かつて、葛飾北斎は「富嶽三十六景」の中で、太鼓橋から望んだ富士山を描いています。 歌川広重も「名所江戸百景」に、「萬年橋」を描きました。 ちなみに今の「萬年橋」は昭和5年に架けられたものです。 平成21年(2009)から、ライトアップされるようになり、今では深川のランドマークとなっています。 現在の「萬年橋」は、さまざまなドラマのロケ地にもなっています。 特に有名なのは「ドクターX」です。 よくみんなで麻雀をしていた岸部一徳さん演じる神原晶さんが経営する「神原名医紹介所」は、ドラマの設定では「萬年橋」のすぐ近くにだったのです。 ですから、「萬年橋」は1作目からシリーズ全般を通じて登場していました。 内田有紀さん演じる城之内先生や、米倉涼子さん演じる大門先生が、病で倒れたのも、実はどちらもこちらの「萬年橋」の上だったのです。 DVDや再放送で、ぜひチェックしてみてください。 小名木川は、徳川家康が豊臣秀吉に命じられて関東に領地を移った後、今の千葉県の行徳で作られていた塩を江戸城に運ぶために築いた人工の川~運河~から始まりました。 その後、徳川幕府の時代になると、行徳の塩だけではなく、東北地方の年貢米を運んだり、今の千葉方面の野菜や魚を江戸に運ぶための、物流にとって最重要な交通ルートとなりました。 松尾芭蕉が住んでいたのは、江戸に物資を運ぶ、船でにぎわっていた小名木川の岸辺だったのです。 INFORMATION 名称 小名木川の岸辺 所在地 東京都江東区常盤1 GOOGLE MAP 芭蕉さんと、いよいよご対面~! 「芭蕉庵史跡展望庭園」は、隅田川の遊歩道沿いにあります。 1995年4月に、かつての芭蕉さんの住居だったことを記念して、すぐ近くにある「江東区芭蕉記念館」の「分館」として作られました、正面にある階段を上がった先にあるのが、「芭蕉庵史跡展望庭園」です。 階段を上がった先の「芭蕉庵史跡展望庭園」にあるのが、松尾芭蕉さんの銅像です。 松尾芭蕉さんは、今の三重県伊賀市に生まれた俳人です。 京都で師を得て、俳諧の道に入ったのです。 1674年に江戸で数々の作品を発表し、俳句の世界で有名になりました。 そして1694年に没するまで、この地で暮らしました。 こちらの芭蕉さんの銅像ですが、17時前までは写真のように隅田川を向いて、座布団に座っています。 ところが、17時になると、くるっと回転して小名木川を向きます。 電気仕掛けで回転するのです。 夜は22時までライトアップもされています。 隅田川の遊歩道から見ることができます。 残念ながら、こちらの庭園は16時30分で閉じられますので、芭蕉さんが向きを変える瞬間は確認できません。 ちなみに、こちらの庭園は入園無料です。 INFORMATION 名称 芭蕉庵史跡展望庭園 所在地 東京都江東区常盤1-1-3 電話番号 03-3631-1448 公式URL GOOGLE MAP.

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松尾芭蕉の正体は忍者(服部半蔵)という意外すぎる都市伝説

松尾 芭蕉 の 職業

そこで、今日の問題は松尾芭蕉の職業についてです。 「ことば検定」今日の問題 松尾芭蕉が経験したことのある職業は? 青 古着屋 赤 工事現場の手配師 緑 ライブに並ぶ父の姉 ことば検定の答え 答えは 赤 工事現場の手配師 ヒント: 延宝5年(1677年)、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。 卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。 「一文字も変えていないのは見事ですが・・・微妙な気分」と林先生 【ことば検定】答えの解説 ここから林先生の解説です。 奉公先で俳句 50年の松尾芭蕉の生涯で、芭蕉が創作だけに打ち込むようになったのは30代後半からです。 農家の次男として生まれた松尾芭蕉は、10代の後半には奉公人となり主人の影響で俳句を始めたとされています。 その時の仕事は、なんと料理人だったと言われています。 そして江戸に出ると、今でいう俳句教室の先生のようなこともしていました。 松尾芭蕉は工事現場の手配師 しかし、それだけでは生活が成り立たず、 水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事現場でも働いていました。 作業をしたわけではなく、どこで仕事をするかを支持する、手配師のようなことを行っていたとのことです。 松尾芭蕉は意外な仕事をしていたんですね。 その後は、37歳で俳句だけに打ち込むこととなり、「蕉風」という俳句の作風を確立しました。 有名な松尾芭蕉は、いわば遅咲きの俳人であったのです。 松尾芭蕉の有名な俳句.

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