あわただしい現代生活の中で「自分自身と向き合うために、夢を見てほしい」との願いから生まれたマリーナ・アブラモヴィッチによる宿泊体験型作品。 作家がデザインしたパジャマを着て、オリジナルのベッドで眠る。 朝、見た夢を書き残して「夢の本」をつづっていく、宿泊者と宿泊体験そのものがアート作品に。 「夢の家」でしか体験できない一夜をお過ごしください。 「夢の家」は、旧ユーゴスラビア出身の作家マリーナ・アブラモヴィッチの作品として、日本有数の豪雪地の里山の集落のなかに築100年を超える家を改修して、第一回大地の芸術祭(2000年)につくられました。 「夢の家」では夢を見るための準備をし、夢をみるためのスーツに身を包み、夢をみるためのベッドで眠りにつく、夢をみるための宿泊体験を体感できます。 みた夢は「夢の本」に書き綴られ、「夢の本」を出版するという続きがあります。 このような作家の構想のもと、地元の集落住民がお客様を迎えてきました。 2011 年3 月12 日に発生した長野県北部地震では、「夢の家」も大きな被害を受け、一時閉館となりました。 しかし、大規模修復を経て、2012 年の「大地の芸術祭」より再開、2000年から書き綴られた夢が『夢の本』として出版されました。
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刺激の強い描写が含まれています。 閲覧の際はご注意ください。 1970年初頭より30年以上におよぶ活動から、 現代美術における「パフォーマンスアートのグランドマザー」と 自らを 称し、世界の美術界で大きな影響力を持つ女性アーティストとして知られています。 その作品は、芸術家と鑑賞者の間の関係性を重視し、身体の限界や精神の限界・可能性を探究したものが多く、自身の身体に暴力を加えるなどの過激なものも多く発表しています。 中でも1974年にイタリアのナポリで上演された「Rhythm 0 (リズム0)」は、アブラモヴィッチの代表作として有名です。 6時間に及んだパフォーマンスは、当時23歳のアーティストが観者の意のままに自らの肉体を使わせる、という衝撃的な内容のものでした。 「Rhythm 0 」のパフォーマンスに際して提示されたのは、次のようなインストラクションでした。 「テーブルの上に72個の物体があり、人は望むままに私の体にそれを使うことができます。 パフォーマンス。 オブジェクト(物体)は私です。 上演中は、すべての責任を私が負います。 上演時間:6時間(午後8時〜午前2時)」 ギャラリーの中心に静かに立ち尽くすアブラモヴィッチの前には、テーブルが置かれ、その上には羽根、靴、バラの花、ぶどう、香水、ワイン、パン、ナイフ、ハサミ、鉄の棒、カミソリの刃、さらには弾を一発込めた銃など、観客が主体となってアーティストに対して使える「快楽や苦痛を与える物」が並べられていました。 パフォーマンスが始まってから数十分、カメラを持つ人を除いてアブラモヴィッチに近づく人はいませんでした。 やがて徐々に、彼女にグラスの水を飲ませたり、バラを渡したり、頬にキスをする人々が現れ始めます。 最初の数時間、ギャラリー内の雰囲気は穏やかなものでした。 ところが、ハサミを手にして アーティストの服を切る男性が現れたことをきっかけに、参加者たちは次第に自制心を失っていきます。 人々は徐々に「苦痛を与える」道具をアーティストの体に使い始めたのです。 数名の男性たちは、彼女の体を抱え上げテーブルの上に置くと、脚と脚の間にナイフを置き体を鎖で縛りました。 人々の行為は大胆さを増していき、服をカミソリで引き裂く、叩く、などの欲動に走り始めます。 バラの棘を取って彼女の腹に刺した観客もいれば、カミソリの刃を手にとり、彼女の首を切りつけて血を飲んだ観客もいました。 パフォーマンスに参加していたアメリカ人美術評論家、トーマス・マクェヴィリー(Thomas McEvilley)は、パフォーマンス中に起こったことを次のように説明しています。 「3時間目には剃刀によって彼女の服は全て引き裂かれていた。 4時間目には、その同じ刃が彼女の肌を探索しはじめる。 彼女は喉を切られて血を吸われ、マイナーではあったが、さまざまな性的暴行を加えられた。 それでも彼女は、レイプや殺人にまでエスカレートしない限り、オブジェとして作品に献身していた」 ついには、装填した銃で男が彼女を脅かすまでに事態はエスカレートします。 そのとき、アブラモヴィッチの命の危険を感じた他の参加者が介入し、彼女の目の前で男性2人による喧嘩が繰り広げられました。 アーティスト自身もパフォーマンス最後の2時間に経験した恐怖を忘れたことはありません。 「今でも傷が残っています。 女たちが男たちに指示していました。 男たちが私をレイプしなかったのは、それが普通の展覧会のオープニングで すべて公開されていて、妻と一緒だったからです」 6時間のパフォーマンスが終了したとき、オブジェではなく「人間」に戻ったアブラモヴィッチは観客の方へ歩き始めました。 ところが半裸で血だらけになり、涙を流している生身の彼女に声をかける観客はおらず、彼女をまともに見ることもできないまま全員がその場を黙って後にしたと言われています。 「みんな普通の人間としての私に向き合えなかったのです」 彼女はパフォーマンス終了後、あまりの恐怖に髪が一筋白髪になってたといいます。 芸術家と鑑賞者の関係性を実験的に表現し、美術史にアブラモヴィッチの名前が刻まれるきっかけとなったこの作品は、隠れた人間の恐ろしい暗部を浮き彫りにするものでもありました。 「この作品は、自分に好都合な状況下で人は、他人をいとも簡単に傷つけることができることを明らかにし、反撃、防御しない人を非人間的に扱うことが、いかに簡単であるかを示しました。 ステージさえ提供されれば、大部分の「正常な」人間は、暴力的になる可能性があるのです」(アブラモヴィッチ) こちらの動画では、1974年の「Rhythm 0 (リズム0)」についてアーティスト自身が語っています。 (英語音声のみ).
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略歴 [編集 ] 1946年にベオグラードで時のに参加していた両親のもとに生まれる(父は国民的英雄、母はであった)。 祖父はの。 1965年から1970年までベオグラードの造形美術アカデミーで絵画を学ぶ。 アカデミー卒業後、やへの取り組みを始める。 1968年よりを製作。 1973年に初のパフォーマンスを行う。 1970年代、・にある造形美術アカデミーで教鞭をとる一方で、のパフォーマンス活動に参加している。 1976年より、当時の伴侶であったドイツ人のウライ(Ulay 本名:Uwe Laysiepen)とカップルをテーマとしたパフォーマンスシリーズ「Relationworks」を行う。 ウライとの関係は1989年に解消している。 1990年から1991年までの間、パリのとベルリン造形美術大学(現:)でを勤める。 1992年から1996年までハンブルク造形美術大学の正教授として、1997年から2004年までブラウンシュヴァイク造形美術大学でパフォーマンス科の教授として教鞭をとる。 2003年、に若手のパフォーマンスアーチストを発掘・助成する団体、国際パフォーマンスグループ(Independent Performance Group)を設立する(2007年解散)。 2005年に活動拠点をからニューヨークに移し、同年イタリアの彫刻家パオロ・カネヴァリ(Paolo Canevari)と結婚。 作品 [編集 ] 彼女のパフォーマンスの多くは、の体制からの解放など、社会・政治問題を提起するものである。 自己の身体を表現手段にし、時に自身の生理学的限界を超えようとする手法をとる。 1974年の「Rythme 5」では、ガソリンを燃やして共産主義の象徴であるを作り、その炎のなかに横たわって政治的メッセージを表現しようとした。 その際、酸素不足から意識をなくし、あやうく命を落としかけた。 1975年にで行った「Thomas Lips」では、自らの腹部に剃刀の刃で切りつけ、その傷で赤い星を描いた。 この後、体に数十回にわたって鞭を打ち、をかたどった氷の塊に全裸で横たわり続けた。 この時も途中で意識を失い、危険を察知した観客にパフォーマンスを中断させられている。 また、文明という仮面の下に隠れた人間の暗部を浮き彫りにしようともしている。 有名なものでは、1974年の実験的パフォーマンス「Rhythm 0」が挙げられる。 アブラモヴィッチは観衆の前に身をさらし、観衆に72の道具(口紅、香水、はさみ、ナイフ、鞭、注射器など)を与え、6時間にわたって彼女の体に対して意のままにそれらの道具を使わせた。 次第に観衆の自制心が薄れていき、彼女の服を引き裂く、叩く、血を飲むなどの欲動に走り始め、遂には装填した銃を身につけた男が彼女を脅かすまでにいたり、他の観客が止めに入ったほどだった。 演者と観衆との係わり合いは、その後も彼女の作品の重要なモチーフのひとつとなっているが、観客にパフォーマンスを全面的にコントロールさせることはこれ以降なくなった。 前述のウライとの二人組みで行ったパフォーマンスシリーズ「Relationworks」では、1988年の「The Great Wall Walk」と称したシリーズ最後の作品が最も話題になった。 これは、の両端からそれぞれ出発した二人が、3カ月かけて1000キロを歩き続け再会を果たすというものだった。 2005年にはニューヨークので代表作のひとつとなる「Seven Easy Pieces」を発表。 2008年にはにも招待されている。 脚注 [編集 ].
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