女子高生コンクリート詰め殺人事件は、1988年11月から1989年1月の間に埼玉県と東京都で発生した一連の事件の通称で、加害者が被害者の遺体を遺棄した時の方法からコンクリート事件と呼ばれます。 被害者は事件当時17歳の女子高生だった古田順子さんでした。 埼玉県内の路上で加害者の不良グループの少年達に拉致され、約40日間にわたり、加害者のひとりの自宅に監禁され暴行、強姦を受けました。 1989年1月に加害者グループからの集団リンチを受けて被害者古田順子さんが死亡、その後、加害者達は遺体をドラム缶にコンクリート詰めにして江東区の東京湾埋立地に遺棄するという凄惨な事件でした。 女子高生コンクリート詰め殺人事件の概要 コンクリート事件の始まり、被害者古田順子さんを犯人の少年達が拉致したのは、1988年11月25日の夜の事でした。 その時、被害者の古田順子さんはアルバイトを終えて帰宅する途中でした。 その日の20時ごろ自転車でバイト先から帰宅中の古田順子さんを見つけた犯人の少年のひとり宮野裕史は、共犯の少年湊伸治に自転車を蹴って転ばせるように指示し、湊伸治は背後からバイクで接近蹴って転倒させます。 古田順子さんは自転車ごと道路の側溝に倒れます。 そこに宮野裕史は近づき「あいつはヤバイやつで俺もさっきナイフで脅された、危ないから送っていく」と騙し、近くの倉庫まで被害者を連れ出しています。 ホテルに連れ込まれ強姦される 被害者古田順子さんを倉庫の暗がりへ連れ出した宮野裕史は、俺はさっきの奴の仲間で、お前を狙っているヤクザだ、俺の言うことを聞けば命は助けてやる、セックスをさせろと脅してホテルへ連れ込みます。 21時50分頃、タクシーを使い被害者をホテルに連れ込み強姦。 その後、宮野裕史はホテルからたまり場となっていた湊伸治の自宅へと電話、そこにいた別の少年小倉譲に「女を捕まえてセックスした」と話しています。 それを聞いた小倉譲は犯人宮野裕史に「女を帰さないでください」と言ったため、犯人達は合流する事とし、すでに帰宅していた湊伸治と一緒にいた少年渡邊恭史と共に待ち合わせ場所に呼び出しています。 犯人の部屋に監禁される 以上がコンクリート事件の発生から発覚までの概要となります。 その後、犯人4人は全員が懲役を言い渡されてますが、少年法に守られ軽い判決となり、懲役刑は主犯宮野の20年が最長で現在既に全員が出所しています。 また、事件の凶悪性にも関わらず、少年法に守られた当時未成年の少年たちは実名報道がされなかった事にも大きな批判が集まりました。 これを受けて週刊文春が実名報道に踏み切っています。 コンクリート事件の犯人達は少年法に守られ、刑罰はあまりにも軽すぎ、現在でも他の出所した犯人達の再犯の可能性も指摘されています。 その後実際に、宮野や湊、小倉と3人が再犯を犯し、またもや逮捕されています。 女子高生コンクリート詰め殺人事件が起きた場所 実はその後、ネット掲示板2ちゃんねるに事件に暴行する側として加わっていたとされる人物の名前が書き込まれました。 具体的に被害者に何をしたのかの内容も書き込まれているので紹介していきたいと思います。 例えば石川あかね(旧姓萩尾)という女性は被害者の顔に落書き、犯行当時16歳だった岩井哲夫という男は中村高次に改名し、酒場でこの事件加わっていた事を自慢気に語っていたという証言があります。 その他にも名前を調べてみると、暴力団組織に所属している人間やキナ臭い経歴の人間がゴロゴロ出てきます。 秦伸治の兄湊恒治はじめ、これだけの人間が何の罪も受けていないのなら法治国家として信じられない事です。 岩井哲夫. 星寿和. 都築洋 相田孝一. 浅野コウジ. 伊原真一 竹内邦夫. 加藤亮. 木立龍介. 石川あかね. 岩沢寛之. 米倉正義. 中村高次. 湊孝二 湊両親. 神作悦子 (引用:2ちゃんねる).
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この項目には性的な表現や記述が含まれます。 もお読みください。 監禁から約40日後、加害者少年らは少女に集団リンチを加えて死亡させて遺体をコンクリート詰めにし、東京湾に遺棄した。 攻撃手段 攻撃側人数 主犯4人、他3人が暴行に加わり1人が監禁の監視役 死亡者 1人(事件当時17歳) 犯人 A(当時18歳) B(当時17歳) C(当時16歳) D(当時17歳) 動機 強姦目的 対処 ・ 謝罪 第一審最終弁論にて4被告人がそれぞれ謝罪・反省の言葉を述べた。 賠償 主犯格・少年Aの両親が自宅を売却し、補償金5,000万円を被害者遺族に支払った。 刑事訴訟 (最大で懲役20年) 影響 発覚当初から加害者少年らを死刑・無期懲役などの厳罰に処するよう求める声が相次いだ。 事件発覚直後に発売された『』が、への問題提起として加害者少年らをし物議を醸した。 本事件の加害者少年の1人(本文中B)は刑務所を出所後、2004年にを起こした。 週刊誌の報道に触発される形で、ネット上で本事件の加害者や事件関係者の実名や行方を突き止めようとする動きが勃発する中で、事件とは無関係な人物をも標的にされ、お笑いタレント・が、長年に渡り同様のデマ被害を受け続けた()。 管轄 ・ 女子高生コンクリート詰め殺人事件(じょしこうせいコンクリートづめさつじんじけん)は、(63年)11月から(昭和64年)1月の間に発生した・・・・・事件の通称である。 1988年11月25日夕方に内の路上で被害者(事件当時17歳)が不良少年グループに拉致され、約40日間にわたってグループのたまり場だったの加害者宅に監禁されて暴行・強姦を受け続け、(昭和64年)1月4日に加害者グループから集団リンチを受けて死亡、遺体をコンクリート詰めにされて東京都内の埋立地に遺棄された。 1989年(元年)3月以降、別の強姦事件で逮捕された加害者少年らが事件を自供したためにその全容が判明した。 刑事裁判におけるは第一審・では 平成1年 合わ 第72号 、控訴審・では 平成2年 う 第1058号である。 本事件は非常に残忍・凶悪な少年犯罪として日本社会に大きな衝撃を与え、加害者少年宅に被害者少女が長期間監禁されていたにも拘らず、その加害者の両親も含めて少女の命を救えなかった点に激しい非難・疑問の声が上がった。 加害者 [ ] 本事件の刑事裁判で犯行への関与が認定され有罪判決を受けたのは以下、いずれも犯行当時少年の4名である。 この4人は足立区内の同じ中学校出身の先輩・後輩関係で、いずれも1988年夏頃には在学していた高校を中退・離脱して監禁・殺害現場となった足立区綾瀬地区を中心とした無為な不良行為を続けていた。 加害者少年C宅の2階には監禁・殺害現場となった少年Cの部屋、及びCの兄(本文中G)の部屋がそれぞれあったが、C宅は両親が共働きで帰宅が遅かった上、Cによる家庭内暴力が激しかったことから両親がCを監督していなかったため、Cの部屋は不良少年たちの溜まり場となっていた。 1988年8月以降、加害者少年B・CはCの兄Gを通じてつながりを持ったことをきっかけにCの部屋を中心に不良交友を始めた。 少年Aは1988年10月頃、Gの盗難バイクの捜索に協力したことを契機にG・C兄弟に接近し、C宅に出入りするようになり、更にはDも中学の同学年で見知っていたB・Gを通じてC宅に出入りし、それぞれ不良仲間に加わるようになった。 少年らの先輩には足立区を根城にしているの組員がおり、加害者少年Aらはその組の青年部組織を気取って「極青会」と名乗っていた。 1988年10月ころから不良グループ4人は少年Aを中心として順次、女性を狙ったひったくり・車を利用した強姦事件などを繰り返し起こすようになった。 またB・C・Dの加害者少年3人は少年Aを通じ、被害者少女を監禁中の1988年11月から12月頃にかけて順次、暴力団関係者の経営していた花屋の仕事手伝い、街頭での花売りなどに関わるようになり、12月中旬ごろには暴力団の忘年会・組事務所の当番にも駆り出されることがあった。 被告人・少年A(犯行当時18歳) 足立区在住の無職 第一審・東京地裁(1990年7月19日判決)にて17年(求刑・) 、控訴審・東京高裁(1991年7月12日判決)にて懲役20年の判決を受け確定した。 出所後の2013年1月頃振り込め詐欺を起こして逮捕されたが、事件から約2週間後、検察側は元少年Aを不起訴処分とした。 被告人・少年B(犯行当時17歳) 足立区在住の無職。 第一審・東京地裁と控訴審・東京高裁にてそれぞれ「懲役5年以上10年以下の」(求刑・懲役13年)の判決を受け確定した。 出所後の2004年にを起こして逮捕・起訴され、懲役4年の実刑判決が確定した。 被告人・少年C(犯行当時15歳 - 16歳) 第一審・東京地裁で「懲役4年以上6年以下の不定期刑」(求刑・懲役5年以上10年以下の不定期刑) 、控訴審・東京高裁で「懲役5年以上9年以下の不定期刑」の判決を受け確定した。 出所後、2018年8月19日に埼玉県内の路上で通行人男性を襲撃した殺人未遂事件を起こしたとしてに緊急逮捕された。 懲役1年6月、付き執行猶予3年の判決を受けた。 被告人・少年D(犯行当時16歳 - 17歳) 第一審・東京地裁で「懲役3年以上4年以下の不定期刑」(求刑・懲役5年以上10年以下の不定期刑) 、控訴審・東京高裁で「懲役5年以上7年以下の不定期刑」の判決。 4人の中で唯一上告し「懲役3年以上4年以下の不定期刑」が確定した。 事件の経緯 [ ] 以下、基本的に判決が認定してきた事実に基づき記載する(出典元の判例については参照)。 拉致・監禁と強姦・暴行 [ ] 1988年11月25日夕方 、AはCとともに通行人からをするか、若い女性を狙ってしようとして、それぞれに乗って内を徘徊していた。 その中でで先のから帰宅途中の(当時17歳、3年生)を見つけ 、CはAから「あの女を蹴飛ばしてこい」と指示を受けたため、女子高生もろとも自転車を蹴倒して側溝に転倒させた。 Cがその場を離れた後、Aは何食わぬ顔で少女に近づいて言葉巧みに「今、蹴飛ばしたの(C)は気違いだ。 俺もさっきで脅かされた。 危ないから送ってやる」などと申し向けて少女を信用させて近くの倉庫内へ連れ込み、一転して「自分はさっきのやつの仲間で、お前を狙っているだ。 俺は幹部だから俺の言うことを聞けば命だけは助けてやる。 セックスをさせろ」「声を上げたら殺すぞ」などと少女を脅迫して関係を迫り、同日午後9時50分ころ、タクシーで少女をホテルへ連れ込みした。 Aは同日午後11時頃、ホテルからかねて自分たちのたまり場になっていたCの家へし、Bに「狙っていた女を捕まえてセックスした」などと話したが、BがAに対し「女を帰さないでください」などと言ったことからBと待ち合わせることとした。 AはB・Aとはぐれて帰宅していたC・BのところにいたDの3人が、連れ立って約束の待合わせ場所へ赴き、少女を連れたA・B両名と合流した。 AはBらに対し「(少女を)ヤクザの話で脅かしているから、話を合わせろ」などと言い含め、4人は少女を連れて翌26日午前0時半頃公園に移動した。 そこでAはを買いに行くという名目で、C・D及び少女のいる所からやや離れたの置かれた場所付近にBと共に行き、Bに「あの女どうする」と尋ねると「さらっちゃいましょうよ」などと返されたことから少女を猥褻目的で略取、監禁することとした。 4人は少女を拉致しつつ、その公園からCの自宅近くの別の公園に移動する間、CはA・B両名らの意を受けて少女を自室に監禁することを了承、Dもそれまでの成り行きからAらの意図を了解し、4人は少女を猥褻目的で略取、監禁することについて共謀した。 Aが少女に対し「お前はヤクザに狙われている。 仲間がお前の家の前をうろうろしているから匿ってやる」などと嘘を申し向けて脅迫し、4人で少女をCの自宅の2階の部屋(6畳)へ拉致し、同日から少女を殺害するまでの間監禁した。 少女をCの自室に連れ込んだ後、4人は少女を交替で監視することとしたが、同月28日頃の深夜、4人に加えて仲間の2人の少年(E・F)がCの居室にたむろしていた。 その際、Aは仲間たちに少女をさせようと企て、Bら3人や、E・Fらと共に代わる代わるを飲んで半狂乱になったように装って少女に襲いかかり、必死に抵抗する少女の口や手足を押さえ付けて馬乗りになるなどの暴行を加え、少女の着衣をはぎ取り、AがBら3人やE・Fにも裸になれと命じ、これを受けてA・B両名以外の4人は着衣を脱ぎ捨て、E・F・Dの順に少女を強姦した。 その際、Aはを持ち出して少女のを剃り、更にそのにの軸木を挿入してをつけるなどの凌辱に及び、少女が熱がるのを見て仲間らで面白がるなどした。 少女は当初、逃げ出そうとしたり、隙を見て自宅に電話しようとしたが、激しい暴行に加え、少年らがヤクザ言葉を使っているのに怯えて抵抗を諦めた。 また、最初に監禁された際にはAが仲間たちの前で「しばらくしたら帰してやる」と話していたため、その言葉を信じた可能性もある。 同年12月上旬頃、少女が逃走しようとした上に警察への通報を図ったことに腹を立て、A・B・Cの3人が少女の顔面を拳で多数回にわたって殴り、Aが少女の足首にライターの火を押し付けて火傷を負わせるなどした。 Aらはその後も、時に別の不良仲間を加えるなどして、少女を全裸にしての曲に合わせて裸踊りさせたり、行為を強要したり、少女の顔にで髭を描いて興じたり、少女の陰部にを挿入して何回も出し入れしたり、にを挿入するなどのをしたり、少女にシンナーを吸引させて、などのをするよう強要し、寒気の厳しい夜中、少女を半裸でベランダに出してやなどを多量に飲ませ、を2本一度にくわえさせて吸わせるなど度重なる暴行、凌辱を繰り返した。 同月中旬から下旬頃、Aは少女がしたを踏んだということを口実に、BやCが少女の顔などを拳で何度も殴りつけ、少女の顔面が腫れ上がり変形したのを見て「でけえ顔になった」などと言って笑った。 その暴行の場にはAはいなかったが、翌日Cが「あんまり面白いからAにも見てもらおう」などと言い、自慢気にAに少女の顔を見せた。 Aはその変わりように驚いたものの、これに触発されたように自らも少女を多数回殴打し、少女の太もも、手などに揮発性のを注ぎで点火し、火が消えると更に同じような行為を繰り返してを負わせた。 この頃、少女は度重なる暴行に耐えかねて「もう殺して」などと哀願することもあった。 Aらは同月中旬頃から、主にCの兄Gに少女の監視役をさせるようになったが、その頃から少女は少量の食物しか与えられず、年末頃には牛乳をわずかに与えられる程度になり、とAらの度重なる暴行により心身ともに極度の衰弱状態に陥り、食欲は減退して顔面は腫れ上がり、手足などの火傷は膿みただれて異臭を放つなどし、階下のトイレへ行くことも困難で、終日監禁場所であるCの部屋で横たわっていた。 殺害・死体遺棄 [ ] 1989年(昭和64年)1月4日、Aは前日夜から早朝にかけて行ったに大敗した後、Dの家に赴いたところ、B・C両名らがDと共に居合わせていた。 4人はそこでなどで遊んだが、麻雀に負けた鬱憤を少女へのによって晴らそうと考えたAは「久し振りに、少女をいじめに行くか」などと言い出し、まずCとDを先にC宅へ行かせ、若干遅れてBと共に自らもC宅へ赴いた。 このように4人は相前後して監禁場所のC宅に集まったが、少女はAらの暴行などにより、前述のように顔が変形するほどに腫れ上がり、手足などの一部は焼け爛れてし、栄養失調に陥り、極度の衰弱状態で横たわっていた。 A・B・Cの3人は午前8時頃からCの部屋において、少女にBのを与えて「これは何だ」と問い、少女が「Bようかん」と答えると「なんでBを呼び捨てにするんだ」などと因縁をつけて再び同様の質問をし、「Bようかんさん」と答えると「なんでにさんをつけるんだ」などと詰め寄って少女へのを開始した。 3人で少女の顔などを多数回拳で殴り、背を足で蹴るなどの暴行を加え、AとBが(Aがいじめの小道具に買い求めていた)に点火して少女の顔面に溶けたを垂らして顔一面を蝋で覆い尽くし、両に火のついたままの短くなった蝋燭を立てるなどして面白がったが、これに対して少女はほとんど反応を示さず、されるがままになっていた。 その暴行が始まった直後、DはGと共に隣室にいたが、この頃Aの指示を受けたCに呼ばれて、部屋へ入りAら3人と合流した。 Aは、衰弱して自力で階下のトイレへ行くこともできない少女がに排泄した尿についてわざと「やばいよ、そんなものを飲んじゃあ」などと言い、BやCらに対し、暗に少女にその尿を飲ませるよう示唆した。 これを受けてBやCらは、少女に「(尿を)飲め」と強く言い、パック内の尿をで飲ませた。 次いでBとCが少女の顔面を回し蹴りし、少女が倒れると無理やり引き起こして、さらに蹴りつけるなどしたところ、少女は何ら身を守ろうとせず、不意に転倒して室内のにぶつかりを起こすなどした。 Aらは遅くともこの頃までには、このまま暴行を加え続ければ少女が死亡するかも知れないことを認識したが、その後もその危険を認識しながら、BとCが転倒した少女に殴る蹴るなどの暴行を加えたのを始めとして、更に少女に対して後述のような激しい暴行を加え続け、そのために少女はを出し、崩れた火傷の傷から血膿が出て血が室内に飛び散るなど凄惨な状況となった。 Dは、素手では血で手が汚れると考え、で拳を覆い、でこれを留めた上、拳で少女の腹部や肩などを力任せに数十回殴りつけ、Aらもこれに倣って拳をビニール袋で包み、次々に少女の顔、腹部、太ももなどを拳で殴りつけて足蹴りするなどし、更に、Aが鉄球を含む総重量約1. 74kgの練習器の鉄製脚部を持ち出し、その鉄球部分でスイングの要領で少女の太もも等を力任せに多数回にわたり殴りつけ、Bらもこれに倣って代わる代わる少女の太ももなどをその鉄球で数十回殴打し、Dは肩の高さから鉄球を少女の腹部めがけて2、3回落下させた。 Aは繰り返し揮発性油を少女の太ももなどに注ぎ、ライターで火を点けるなどしたが、少女は最初は手で火を消そうとする仕草をしたものの、やがてほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横たわったままになった。 これらの一連の暴行を当日の午前8時頃から10時頃まで、約2時間にわたって休みなく続けた結果、少女は重篤な傷害により、同日午後10時ころまでの間に死亡した。 A・B・Cは翌5日、自分たちが出入りしていた関係者の経営するにいた際、Gから「少女の様子がおかしい」と電話で連絡を受けてCの居室へ赴き、少女が死亡したことを知ったが、犯行の発覚を恐れて同日午後6時頃、Gと共謀して、少女の遺体を遺棄しようと企てた。 遺体を毛布で包み、大型の旅行かばんに入れてガムテープを巻きつけ、Aがかつての仕事先からを借り出したり、を貰い受けて近くの建材店からやを盗み出し、トラックで遺体と、付近で取ってきたごみ入れ用のをC宅前に運び、そこでコンクリートを練り上げて遺体の入ったかばんをドラム缶に入れ、コンクリートをドラム缶に流し込み、更にブロックやを入れて固定し、ドラム缶に黒色ビニール製ごみ袋を被せてガムテープで密閉した。 その後A・B・Cの3人が同日午後8時頃、トラックでドラム缶を運び 、の埋め立て地 に遺棄した。 事件当時の現場付近は有刺鉄線に囲まれ、雑草が生い茂っていた工事現場で、家電製品などの不法投棄が多かった場所だった。 少女を自宅に監禁していたCの父親は12月初め、Cの部屋で奇声が聞こえたので注意しようと2階に上がった。 Cの父親は「うるさいぞ」と注意して部屋に入ろうとしたが中に入れてもらえず、その際に女性の声がしたため「女の子が遊びに来ている」と思ったという。 12月末のある日には被害者少女とみられる女性が2階にいることを知ったため 、両親は少女にドアの外から「食事をあげるから出てきなさい」と説得して1階のリビングに降りて来させ 、一緒に和室で夕食を摂り、その際に「家に帰りなさい」と注意したという。 夕食にはCと仲間の少年も同席していたが、少女はほとんど話をしなかったという。 両親はその後「女の子が1人だけ一階に残った隙に『帰りなさい』と声を掛け、玄関から送り出した」が、Cが間もなく逃走を知って追いかけ、連れ戻していた。 Cらが両親から注意を受けたのはこの1度きりで 、少年らから常に激しい暴行を受けていたため、怯えきっていた少女はその後、逃げ出したり助けを求めるそぶりさえできなかったとみられる。 捜査 [ ] 1989年(元年)、被害者の遺体が発見されたことから 、事件が発覚した。 と同庁少年二課は、前年12月に発生した別の婦女暴行事件及び、さらに別の婦女暴行1件・ひったくり20件の容疑で逮捕されていたA・B両名をで余罪について取り調べたところ、供述通り江東区若洲の埋め立て地で発見したドラム缶の中から遺体を発見したため、翌30日に2人を殺人・死体遺棄容疑で逮捕した。 遺体の衣服は少年らが監禁中に与えたものらしく、失踪当時に着ていたものとは違った上 、腐敗が進んでおり、少女の家族も身元を確認できなかったため、遺体の指紋を少女の所持品の指紋と照合するなどして身元確認を進め 、少女と断定した。 少年二課と綾瀬署は同日、犯行現場となった足立区綾瀬のC宅を現場検証し、この家に住む兄弟ら少年3人(C・D・G)らが殺害に関与し、他2人の少年らが監禁・連れ去りに関与しているとみて、この5人を取り調べる方針を決めた。 遺体が入ったコンクリート詰めのドラム缶は重さ計305kgあり、2, 3人で持ち運べる重さではなかったため、綾瀬署は多人数でやなどの車を用いて遺棄したとみて捜査した。 近隣住民によれば、前年末頃まで夜中にバイクの音がしたり、現場宅の2階で騒ぐ声が聞こえたりした。 玄関脇の電柱をよじ登って2階の部屋に出入りする少年の姿や、ベランダに脚立が置いてあるのが目撃されており、近所の主婦は「玄関を通らずに出入りしていて、両親も気づかなかったのではないか」と話していたため 、少年二課は少年らが、Cの家族の留守中を狙って出入りしたり、電柱を伝って部屋を出入りすることで、Cの家族と顔を合わせないようにしていたとみている。 警視庁少年二課・綾瀬署は1989年4月1日付で、A・B両名を東京地方検察庁に送検し、盗みなどの容疑でに収容されていた当時17歳の無職少年ら3人も犯行に加わっていたとみて、3人の逮捕状を請求して取り調べ、うち1人を逮捕した。 40日間も被害者を監禁した理由について、取り調べの中で少年らは「警察に捕まるのが怖かったから」としか供述しておらず、捜査員から「怖いだけなのか」と聞かれると、少年の1人は「それ以外に理由があるんですか」と問い返したという。 警視庁少年二課・綾瀬署は6月5日、加害者少年ら4人を、前年12月23日から4日間にかけて深夜まで・交差点近くの路上で花を売らせていたとして、足立区3丁目在住の暴力団準構成員の男(当時43歳)を児童福祉法違反容疑で書類送検した。 刑事裁判 [ ] は最初に逮捕されたAら3人を、1989年4月20日付で「刑事処分相当」の意見書付きで、殺人、わいせつ目的誘拐・略取、逮捕・監禁・強姦、死体遺棄の各罪でに送致した。 警視庁少年二課・綾瀬署は1989年4月24日、監禁現場となった家の長男であるCの兄G(当時17歳、都立高校3年生)を殺人、死体遺棄容疑で、同家に出入りして被害者に乱暴を働いたとして足立区内の当時16歳有職少年2人を婦女暴行容疑で、それぞれ東京地検に書類送検した。 3人は、先に逮捕されたAら4人に比べて犯行への関与が軽く、在宅のまま任意で取り調べられていた。 同26日付で東京地検は、足立区内の当時17歳少年を殺人、わいせつ目的誘拐など5つの罪で身柄を東京家裁に送致し、Gも殺人、死体遺棄容疑で東京家裁に書類送致した。 東京家裁はその後、1989年5月18日までに送致されていたA・B・C・Dの4被疑者少年をの結果、「刑事処分が相当」として東京地検にする決定を出した。 東京地検は1989年5月25日、殺人・猥褻目的略取誘拐・逮捕監禁・強姦などの各罪状で被疑者A・B・C・Dの少年4人をにした。 第一審・東京地裁 [ ] 1989年7月31日、東京地裁刑事第4部で第一審初公判、検察側及び弁護人側冒頭陳述・被告人側罪状認否 1989年7月31日、刑事第4部(松本光雄裁判長)にて初が開かれた。 罪状認否で加害者少年らの認否を代弁した弁護人らは、Aが未必の故意による殺人を認めた一方、他の3人は殺意を否認し、傷害致死に留まると主張した。 検察側は冒頭陳述で、加害者少年らは監禁から約1か月後の12月下旬頃から、少女の扱いに困り「コンクリート詰めにして海に捨てよう」などと話し合っていたと指摘した。 うち1人は「ドラム缶の中に、少女の好きなビデオや花束ぐらい入れてやるか」と提案したのに対して、別の2人は「そんなことをしたら、ドラム缶が見つかった際に誰かを決める手掛かりになる」と反論したと主張した。 殺害に至るリンチの動機について「Aが1月3日深夜から4日朝までにJR付近の麻雀屋で、賭け麻雀で10万円くらい負け、その鬱憤晴らしとして、少女に八つ当たりしようと言い出したのをきっかけに行われたものだった」などと述べた。 4人は、本事件以外にも別の女性2人への婦女暴行、後輩へのリンチ、被害総額約220万円に上る店舗荒らし・ひったくりなどでも起訴されていた。 閉廷と同時に、のうち1人が気を失って倒れた。 1989年9月4日、第2回公判、心理鑑定申請 1989年9月4日、第2回公判が開かれた。 3被告人の弁護人は「犯行グループ形成からわずかの間に非行を重ね、本件被害者への暴行を残虐なまでにエスカレートさせてしまった特殊な事件だ」と主張した上で、・(犯罪精神医学)による被告人らに対する犯罪心理鑑定(情状鑑定)実施を申請した。 これを受けて松本裁判長は残る1被告人を含め、4被告人全員に対する心理鑑定を実施することを決めた。 その鑑定事項は「共犯少年の相互の鑑定を前提として、犯罪精神医学からみた本件一連の犯行に至った心理作用」であった。 また加害者少年らが非行に走った背景として、弁護人側は「複雑な家庭環境や学校でのいじめ・体罰などがあった」と指摘した上で、「被告人らは『状態とでもいうべき異常な心理状態』の中で犯行をエスカレートさせた」と主張し、うち年少の被告人2人については・への送致を求めた。 1989年9月21日、第3回公判、被告人質問 1989年9月21日に第3回公判が開かれ、4被告人のうち殺意を否認する供述をしていた被告人Bに対する弁護人からの被告人質問が行われた。 被告人Bは「先輩の被告人Aが怖かったため、自分たちはAからの指示・命令に逆らえず、道具のように扱われていた」などと証言した。 その上で「被害者へのリンチは被告人Aの独断で、自分たちはそれに従わざるを得なかった」と訴えた。 1990年3月2日、第21回公判、犯罪心理鑑定人・福島章が鑑定結果を証言 (平成2年)3月2日午後、第21回公判が開かれた。 同日は被告人少年らの心理鑑定を行った・が出廷し、証人尋問にて鑑定結果を証言 、証人尋問終了後に鑑定書が証拠採用された。 鑑定結果について福島は以下のように証言した。 リーダー格の被告人・少年Aは「脳に軽微な障害(微細脳障害症候群)があり、脳の機能が損なわれていたわけではないが、情緒面における発達が遅れていた」。 それが学校生活への不適応として現れ、高校中退後には挫折感が高じて「自分は悪いんだ」と思うことで逆に安心する「歪んだ心理状態」に陥った。 やがて同じような仲間が集まって自己否定的な心理を確かめ合うようになり、それが逸脱集団の中で暴力が振るわれる原因となった。 1990年4月23日、第23回公判、実質審理が終了 1990年4月23日に第23回公判が開かれ、被告人4人に対するが終わった。 同日は「被告人らが逮捕された当時、『自分が犯人に何をするかわからない』『この手で殺してやりたい』といった心境だったが、それは現在も変わらない」という被害者少女の父親の証言の要約が読み上げられた。 1990年5月21日、論告求刑公判、検察側は被告人Aに無期懲役などを求刑 1990年5月21日に公判が開かれ、東京地検は4被告人に対しそれぞれ以下のように求刑した。 主犯格の被告人・少年Aに対しては「一連の犯行の首謀者」としてを求刑した。 被告人Aは(教授)によるの結果「軽微な脳障害」が指摘されたが、この点について検察側は「素行不良化の一遠因にすぎず、本件犯行との直接の因果関係は認められない」と主張した。 準主犯格の被告人・少年Bに対しては「被告人Aの片腕的存在」として懲役13年を求刑した。 C・D両被告人に対しては「被害者に対する加害行為には積極的だったが、被告人CはA・B両被告人の指揮下にあり、被告人DもA被告人らに追従していた」として、それぞれ懲役5年以上10年以下のを求刑した。 論告で検察側は「我が国の犯罪史上でも稀に見る重大・凶悪な犯罪で、犯行の態様も極めて残虐・冷酷である。 人の仮面を被った鬼畜の所業であり、被告人らが犯行当時少年で、うち3人は家庭環境が良好とは言い難いことを考慮しても、厳しい刑をもって臨む以外にない」と主張した。 1990年6月25日・翌26日の2日間にわたり開かれた公判で弁護人側の最終弁論が行われた。 最終意見陳述で4被告人はそれぞれ被害者・遺族に対する謝罪、事件について反省の言葉を述べた。 いったんは最終弁論をもって結審したが1990年7月6日、東京地裁刑事第4部で補充審理が行われ、弁護人側の追加弁論・証拠提出が行われた。 被告人・少年Aの弁護人は「Aの両親は自宅を売却して補償金5,000万円を用意し、被害者遺族がそれを受け取ってくれることになった」と述べ、被害者遺族代理人の領収書を情状証拠として提出した。 被告人A自身は「自分の犯した罪は金では償えないが、遺族の方が受け取ってくれることには感謝したい。 自分のせいで両親が家を売ることになり大変申し訳ない」と証言した。 被告人・少年Bの弁護人は「Bの両親が息子名義で被害弁償の積み立てを始めた」と追加の弁論をした。 1990年7月20日、第一審判決、最大で懲役17年の判決 1990年7月20日、東京地裁刑事第4部(松本光雄裁判長)で公判が開かれ、東京地裁は「被害者をなぶり殺しにした非人道的な犯行で刑事責任は重いが、少年による集団犯罪の特殊性などを考慮すると、精神的に未熟な少年らが事態を打開できないまま、不幸な結末に陥った側面もある。 拘置中、被告人らはそれぞれ人間性に目覚めた成長が著しいなどの情状も考慮すべきである」として、以下のように判決を言い渡した。 情状としては、Aの両親が被害者遺族に慰謝料5000万円を支払ったこと、B・C・Dの3人は恵まれない家庭環境にあり、学校でいじめにあったことなどを考慮し、「家裁や少年鑑別所・弁護人・両親や鑑定人の接触によって人間性に目覚め、罪の重大性を認識し、その責任の自覚を深めている」ことなどから、検察側の求刑に対しいずれも酌量減軽をした。 主犯格の被告人・少年Aに対しては「犯行の発端を作り、主導的地位にいた。 犯行の由来はAに由来するところが大きく、その刑事責任は最も重い」として、懲役17年(求刑・無期懲役)を言い渡した。 準主犯格とされる被告人・少年Bに対しては「Aに次ぐ地位で、Aの指示を受けずに自ら被害者に暴行を加えたこともあった」として、懲役5年以上10年以下の不定期刑(求刑・懲役13年)を言い渡した。 監禁場所に自室を提供した被告人・少年Cに対しては懲役4年以上6年以下の不定期刑(求刑・懲役5年以上10年以下の不定期刑)を言い渡した。 最も関与が薄いとされた被告人・少年Dに対しては「終始Aらに従属的ではあったが、過激な暴行は被害者に深刻な打撃を与えた」として、懲役3年以上4年以下の不定期刑(求刑・懲役5年以上10年以下の不定期刑)を言い渡した。 なお、A・B・Cの3被告人は本事件以外にも、別の女性への婦女暴行・傷害・窃盗などで起訴され、この日併せて有罪判決を受けた。 争点となっていた殺意の有無については「Aら4人は、極端に衰弱している被害者の処置について話し合っており、殺害当日の暴行も著しく強く、執拗だった」などとして「未必の故意」による殺意を認定した。 1990年8月1日、東京地検が4被告人全員について東京高裁に控訴 東京地検はA・B・C・Dの4被告人全員に関する量刑不当を主張し、1990年8月1日付でにした。 当時、少年犯罪の刑事裁判において検察側が量刑不当を理由に控訴するのは極めて異例だった。 控訴趣意書内容は以下の通り。 犯行は残虐・悪質極まりなく「少年法が想定していた理想の枠外にある特異な事件」であるにも拘らず 、原判決は少年保護に重点を置きすぎている。 被害者遺族の被害感情など被害者側の情状より 、被告人側の家庭・生育環境など被告人側にとって有利な情状を過度に重視しており、量刑の均衡を欠く。 通常の事件では「『未必の殺意』は『確定的な殺意』より犯情が軽い」とされるが、今回の場合はむしろ犯情が重い。 東京地検には厳罰を求める投書・電話が相次いでおり、それらが一般的意見を代表しているとは言えないが、「量刑には納得がいかない」と言った世論が底流にある。 社会が納得する量刑を考え、上級審の判断を仰ぐのが妥当である。 この検察側控訴に対し、4被告人の弁護人らは「意外」と受け止める反応をした。 被告人・少年Dの弁護人は「裁判を長期化させ、量刑を重くすることが、少年たちに反省・謝罪の気持ちを起こさせることにつながるとは思えない」として検察側の控訴を批判した。 1990年8月、被告人側が東京高裁に控訴 被告人・少年Bの弁護人は量刑不当を訴え 、控訴期限となった1990年8月2日 、検察側の控訴に対抗する形で東京高裁に控訴した。 同じく1990年8月2日 、被告人・少年Cの弁護人は「殺意の有無に関する事実誤認」及び量刑不当を主張し 、東京高裁に控訴した。 一方で同日までに少年A・少年Dの両被告人・及びそれぞれの弁護人は「被害者遺族の被害感情などを考慮して」控訴を断念したため 、両被告人の量刑が控訴審で維持・加重される可能性はともかく、減軽される可能性は消滅した。 控訴審・東京高裁 [ ] 1991年3月12日、控訴審初公判、控訴趣意書朗読・答弁 (平成3年)3月12日、で控訴審初公判が開かれた。 午前中は検察側・弁護人側の双方が控訴趣意書を陳述し 、午後には相手の控訴趣意書主張に対する答弁を行った。 検察側は量刑加重を・弁護人側は量刑減軽をそれぞれ訴えた。 検察側は「犯行の悪質さ・被告人らの非行性の根深さを考慮すれば第一審判決は寛大に過ぎて不当である」と指摘した。 その上で本事件における犯行の重大性を具体的に再現し、同種の少年事件における判決を引用して「原判決は全般的な情状評価について誤った判断をしている」と主張したほか、「被告人らはいずれも積極的に犯行に関与し、犯罪性向が極めて強固だ」と訴えた。 また第一審判決後、検察庁・裁判所に判決を批判する投書・電話が多数寄せられたことなどを挙げながら、検察側は「犯した罪の責任に応じ、社会一般の感情を納得させる量刑が求められる」と主張した。 被告人B・Cの各弁護人による控訴趣意書に対しては、答弁書で「『未必の故意』に関する第一審判決の事実認定は正当であり、弁護人側の控訴は棄却されるべきである」と反論した。 一方で弁護人側は以下のように控訴趣意書朗読・答弁を行った。 主犯格の被告人・少年Aの弁護人は「検察側の『矯正は不可能」という主張は独断的見解であり、厳罰主義は少年法の健全育成の理念への重大な挑戦である」と批判した上で「第一審判決の量刑は正当であり、検察側控訴は棄却されるべきである」と主張した。 被告人B・C・Dの各弁護人はそれぞれ検察側の控訴趣意書に対する答弁書にて「社会秩序維持の観点から責任に応じた科刑を求める検察官の主張は少年法の解釈を誤っており明らかに不当」などと反論した。 特にB・C両被告人の弁護人は「少年法の理念を踏まえて、少年の社会復帰を手助けするという観点から処分を考えるべきだ」などと述べた。 準主犯格の被告人・少年Bの弁護人は「少年の刑事事件に対する処分では、子供を発達途上と解釈する『健全育成』の理念が最大限に尊重されるべきであり、結果の重大性・社会的影響の大小で量刑を決めるべきではない。 原判決は被告人Bの殺意・犯行の役割における事実認定に誤りがあり、被告人Bの際立った人間的成長ぶり・教育可能性を考えれば破棄されるべきだ」と主張した。 被告人・少年Cの弁護人は「略取・監禁の共謀成立時期」「『未必の故意』の存在」の2点について「原判決は事実誤認がある」と主張した上で、「被告人Cは保護処分に処するのが相当であり、家庭裁判所に移送すべきだ」と主張した。 1991年7月12日、控訴審判決公判、一部原審破棄の上で被告人・元少年Aに懲役20年などの判決 1991年7月12日に判決公判が開かれ、東京高裁(裁判長)は、少年A・C・Dの3被告人に関して、検察側の「被告人らの反省や、その後の人間的成長などの情状を酌んでも、原判決の量刑は軽すぎる」とする主張を認めて、第一審判決を「著しく軽すぎて不当」とし、それぞれ以下の判決を言い渡した。 主犯格の少年Aに対しては「主犯格で罪責は極めて重大」として 懲役20年の判決を言い渡した。 少年Cに対しては「被害者を自宅に監禁し、手加減なく強度の暴行を加えた」として 懲役5年以上9年以下の不定期刑の判決を言い渡した。 少年Dに対しては「終始犯行に加わり、すさまじい暴行に及んだ」として 懲役5年以上7年以下の不定期刑の判決を言い渡した。 一方で少年Bに関しては 懲役5年以上10年以下の不定期刑とした第一審判決を支持し、双方の控訴をした。 東京高裁は、少年に対する刑事処罰の在り方について「少年法が少年の健全な育成を図ることを目的とし、種々の配慮をしていることなどを慎重に考慮しなければならない」とする一方で「成人に比べて、常に一律に軽い量刑をもって臨めば足りるわけではなく、犯罪内容が悪質で、被害者の処罰感情が強いような場合には、それに応じた刑を科すことが社会正義を実現することになる」との判断を示した。 その上で、被害者に対する犯行について「人間としての尊厳に対する一片の配慮もうかがうことができず、同情すべき点も認められない」「被告人らが犯行当時いずれも少年だったことや生育環境などを考えても、責任を大幅に減じることは相当とは言えない」とした。 控訴人判決に対する対応 被告人Dは控訴審判決に対し量刑不当・事実誤認を訴え、1991年7月24日までにへした。 一方で東京高検は上告期限となった1991年7月26日、最高裁への上告を断念することを決めた。 東京高検およびA・B・Cの3被告人は上告期限までに最高裁へ上告しなかったため、3被告人それぞれの控訴審判決がそのまま確定した。 上告審・最高裁第三小法廷 [ ] 1992年7月18日まで、最高裁第三小法廷が被告人・少年Dの上告棄却決定 第三(裁判長)は(平成4年)7月18日までに、被告人・少年Dの控訴審判決を支持して同被告人の上告を棄却する決定を出した。 この最高裁上告棄却決定により被告人・少年Dに対する「懲役3年以上4年以下の不定期刑」判決が確定した。 少年たちのその後 [ ] 少年Dは、1996年(平成8年)に刑務所を出所したが、出所後は自宅に引きこもるようになった。 『毎日新聞』東京社会部記者・井上英介は 、2001年(平成13年)1月から少年D(当時29歳)と同居する母親と接触を図り、同年春ごろから取材を開始、2001年4月8日朝刊にて少年Dの当時の状況を記事として発表した。 記事には50通を超える反響があったが、その内容は共感・批判が相半ばし、批判には「加害者に同情的すぎる」「被害者遺族の心情を逆なでするものだ」などといったものが多かった。 一方、井上自身も「遺族の痛みは想像を絶する。 取材前に裁判記録・事件を記録したルポ・過去の新聞記事などを可能な限り調べたが、事件の惨たらしさから目を背けたかったし、取材を終えてもまだ迷いがある。 今は読者の皆様からいただいた批判を読みつつ、『罪を償うことの難しさ』を実感している」と綴った。 主犯格少年A以外の少年たちは、出所あるいは退院後にそれぞれマスコミのインタビューを受けている。 少年Bは1999年(平成11年)に刑務所を出所してから関係者の女性とを結び姓を変えた。 受刑中にパソコンのスキルを学び、出所後はIT関連の仕事をしていたが、前科が知られ人間関係に行き詰まり、退職後は暴力団の構成員になった。 (平成16年)に再び同じ足立区やで男性に言いがかりをつけ監禁し負傷させた事件()を起こし、しかも当事件を脅し文句に使うなど更生した様子を見せず、に警視庁に逮捕され、懲役4年が確定した。 2009年(平成21年)に2度目の出所をした。 主犯格の少年Aはで一定期間を過ごし、後にへ移送された。 元無期懲役受刑者・金原龍一 2009 は同じ千葉刑務所に服役していたころの少年Aについて以下のように述べている。 「明るく屈託がなく調子のいい男で、とてもあのような残虐な犯行ができるようには思えず、親子ほど年齢の離れた自分にも積極的に声を掛けてきた。 本来あれだけ酷い性犯罪を犯した者は他の受刑者からいじめられることが多いが、Aは世渡り上手だった」• 「千葉刑務所に来てから約10年後の2004年ごろには模範囚だったことからが予定されていたが、結局は刑務所側から『お前はもう満期(まで服役)だ』と通告されて落胆していた。 が性犯罪者への世論を鑑みて厳罰化のお触れを出したことに加え、共犯者の男(少年B)が別の刑務所を出所後に再び凶悪事件を起こしたことが影響したためだろう」 元受刑者Aは2009年(平成21年)に刑務所を出所した後、をして名前を変えた。 Aはのジムに通い、よく後輩をバーベキューやキャバクラに連れて行っていた。 を乗り回して高級腕時計やブランド品を身に着けていた。 「暴力団とつながりがある」「都内の振り込め詐欺グループには知り合いが多い」と吹聴し、で儲けていた。 セックスの話が大好きで、「100均の縄で女を縛るのが好き」と語っていた。 2013年(平成25年)1月、加害者元少年Aがで警視庁に逮捕された。 無作為に全国の個人宅に電話をかけ、『パチンコ必勝法』の情報料名目で現金を騙し取る詐欺グループの一員として、の銀行で金をおろす「受け子(出し子)」をしていたとみられるが、完全を貫いたため、詐欺グループの解明が出来ないまま2013年(平成25年)1月31日付で不起訴処分となりされ、その後は消息不明となった。 から14年3か月後となる2018年(30年)8月19日夕方、犯行グループのメンバーだった男(元少年C)が内の路上で通行人の32歳男性に対し、肩を警棒で殴る・首をナイフで刺すなどして殺害しようとした殺人未遂容疑で、にされたことが『デイリー新潮』()の同月21日配信記事、およびその続報に当たる『』2018年9月6日号(8月30日発売)にて報道された。 『デイリー新潮』および『週刊新潮』は、その被疑者元少年を実名報道した上で「今回逮捕された元少年は両親が党員で、29年前の事件では監禁場所として自宅を提供した人物。 刑事裁判では懲役4年以上6年以下の不定期刑判決を受けた」即ち元少年Cであること、元記者ののコメントを報道している。 なお『デイリー新潮』『週刊新潮』以外の報道機関(『』および配信の『』・『』両紙・)においては、被疑者・元少年Cの実名報道こそ行われたものの、本事件の前科については一切触れられていない。 2019年(令和元年)11月22日、から懲役1年6月、付き執行猶予3年の判決を受けた。 主犯以外の少年で他にも覚醒剤で逮捕された者もいる。 反響・影響 [ ] マスメディアの反応 [ ] この事件の加害者が、4名ともであったことなどから、本事件は大々的に報道された。 しかし刑事裁判で事実関係が明らかになるまで、新聞・週刊誌・テレビなどの報道においては、少女の実名・顔写真が報道されるが発生したばかりか、以下のような同然の記事が掲載されていた。 は、事件当時の報道について「『被害者少女も不良グループの一員であり、被害者少女にも非があった』という論調が主流だった」と述べた上で 、これらの報道を「下品で低劣な想像力によって生み出された『断言』、もしくは巧妙なレトリックまやかしで『少女にも非がある、少女の育て方にも問題があり、両親にも責任の一端はある』=『被害者であった少女やその家族に、世間から逆に白い目を向けられるようなマイナスのイメージが付与されてしまっている』。 こんなパラドックスが許されていいはずがない」、「本音はこの事件を単なる『材料』として扱っているだけなのだ」「少女を『モノ』としていたぶり続けた少年たちと、自分たちの『はじめに死刑ありき』の目論見のための格好の材料として、やはり『モノ』として被害者を利用するだけのこれらのマスコミは、全く同質だ」と非難した。 『』1989年4月21日号では、が「(少女は)決して、少年たちの反対側にいた子ではなかった」と断言した。 『』1989年4月25日号は、事件の主旨と関係ない少女の姿や姿のスナップ写真を掲載した。 大道はこれを「読み手の下品な好奇心と嫉妬心に迎合した、雑誌の「ウランかな主義」の最たるものだ。 美人で、『男心をそそる』少女のイメージを醸し出し、死んだ後にも少女の人格を貶めている。 死者にはないというのだろうか。 死者にはないというのだろうか」と強く非難した。 『』1989年4月4日朝刊の「ニュース三面鏡」は、「少女は無断外泊もままある非行少女」と書き、見出しに「女高生殺人事件数々の疑問」「助け求められなかったか」と掲げた。 また、1990年4月19日から25日にかけて連載された「なぜ、彼らは」では「強姦」を「関係を持つ」という言葉に置き換え、そこにあたかも少女の同意があったかのようにほのめかし、「 Cの母親が いったんは少女を送り出した」と掲載した。 大道万里子はこれを「この記事を読んだ人は、自ずと『少女も遊び感覚で(加害者らの家に)留まっていたのではないか……』という印象を受けるように仕向けられている」と批判した。 また、大道は加害者少年らを実名報道した『週刊文春』1989年4月20日号をはじめ、『週刊新潮』1989年4月13日号、『サンデー毎日』1990年6月10日号、『女性セブン』1989年7月20日号など、加害者少年に厳罰を求める論調の記事に対しても「死刑先導型報道を貼り、様々な人々にインタビューをして、少年たちを死刑にと叫ぶことこそ時流です、とばかりに論陣を張った。 あらかじめ、そういう考えの持ち主にしかインタビューしないのだから、そうしたコメントが出てくるのは当たり前だ。 ここにあるのは、一見正義の味方として少女や、少女の家族に同情し、犯人たちを糾弾するポーズを装いながら、実は少女を単なる素材、つまり『モノ』として扱っているという、本当にいやらしく、許しがたい態度だ」と非難した。 では、家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、第61条の規定により本人の類推に資する全ての情報(関係者全員の名前、学校名、地名等)を報道することを禁止している。 しかし、事件直後に発売された『』(担当記者:、編集長:)が加害者少年らをした。 『』は2週連続で、1989年4月13日号にて「女子高生監禁・殺人の惨 彼らに少年法が必要か」 、次号の1989年4月20日号にて「女子高生惨殺事件 第2弾 加害者の名前も公表せよ!」と銘打った特集記事を組み 、後者で実名を掲載した。 その理由として、花田は『』1989年4月30日朝刊に掲載されたインタビュー記事中で「第1弾の記事では匿名表記したが、第2弾の取材をしているうちに事件の凄惨さがわかってきたため、編集部内部で『これはすべきでは』という声が出てきた」「野獣には無い」と説明し、反響については「正直言って『反発の方が強いかな』と予想していたが、意外にも抗議の声は2件程度と少なく、逆に『よくやってくれた』と称賛する投書が何十通も来た。 人権云々を言う人たちには『それじゃあ、殺された被害者の親御さんの前でそのセリフが吐けますか』と問いたい気持ちです」と答えた。 他にも『月刊ゼンボウ』平成元年11月号のp19-p26に冒頭陳述書が掲載され少年グループ9人の実名が掲載された。 この報道をきっかけに『週刊文春』は当時売上部数ナンバー1になり、同年に発生したや、後に発生した、、、、などの凶悪少年犯罪が発生する度に、同誌やライバル誌の『』など各誌が、次々と加害者少年を実名報道し、改正論議に火をつけた。 『週刊文春』による実名報道を受け、(日弁連)の会長は1989年6月23日付で「立ち直り援助という少年法の原則を無視した実名報道は極めて遺憾である。 また、マスコミは被害者の実名などを必要以上に報道しているが、死者の名誉、家族のプライバシーなども尊重されるべきだ」と談話を出した。 『週刊文春』のライバル誌である『週刊新潮』は、事件当時は「犯人グループのうち、誰がどう手を下したのか、はっきりしない部分があった」として少年たちの実名報道は見送った。 しかし同誌も、1989年4月13日号にて特集記事を組み、監禁場所を提供したCの両親について「員だという話もある」と報道した。 これに対し、日本共産党は機関紙『』で、同両親が党員であったことを認めた上で「同事件はとの関係も指摘されている、許すことのできない残虐な事件であり、もちろん日本共産党とはいっさい関係ありません」との記事を掲載した。 その1ヵ月半後には同両親の対応を検証した特集記事が『しんぶん赤旗』に連載された。 なお『週刊新潮』は3年後の1992年、発生時には「少年による凶悪事件が増加している今、20歳未満ならばどんな犯罪を犯しても守られる現行の少年法は時代遅れ。 問題提起する意味で実名報道すべき」 、「犯人がはっきりしており(実名報道という形で少年法への)問題提起をしやすい」として 、加害者少年の実名報道を行った。 識者の反応 [ ] 評論家のは、この種の犯罪を、通り魔的「狂宴的犯罪」と名付け、先駆としては本事件に加え、1983年の、本事件と同年に発生したを挙げた。 (当時・精神衛生学)は、『朝日新聞』1989年4月21日夕刊記事の中で「少年らの成熟が早まってきている。 少年犯罪を未然に防ぐためにも扱いを変えるべきで、重大事件では厳しく処罰すべきだ。 今回の事件は、親も含めて(加害者らを)すべて実名で報道すべきだろう」とコメントした。 一般の反応 [ ] 犯人が全員当時少年であったことから、同年代の子供を持つ親に計り知れない衝撃を与えた。 『朝日新聞』1989年4月8日朝刊投書欄には「同じ未成年でも、被害者は実名・顔写真・住所まで新聞で報道されたのに対し、加害者は実名も顔写真もを理由に掲載されない。 これでは殺された方の人権が無視されている一方、殺した方の人権ばかりが尊重されている」「同じ少年犯罪でも窃盗・傷害などの衝動的な物ならば、本人の将来を考え匿名とすることもやむを得ないだろうが、今回のような凶悪犯罪に限っては成人も未成年も関係ない。 少年A・Bなどのような匿名ではなく、実名を掲載すべきだ」という投書が掲載された。 発覚当初から加害者少年らに対し、・無期懲役などの厳罰を求める声があり、事件を捜査した警視庁には「加害者少年らの実名を公表せよ」「極刑に処せ」などの投書や電話が相次いだ。 また、東京地方検察庁が第一審の論告求刑で、主犯Aへに無期懲役などを求刑してからは、東京地検に「刑が軽すぎる」「『公益の代表』としてあえて死刑を求刑し、その威嚇効果によって、少年の集団による凶悪事件が相次いでいる 、昨今の風潮に歯止めをかけるべきだ」など、量刑の軽さを批判するかなりの数の投書・電話が寄せられた。 また検察庁のみならず、東京地裁に対しても「判決の量刑が軽すぎる」などの批判の投書・電話が多数寄せられた。 一方で本事件と同年(1988年2月)に発生したの刑事裁判では、第一審・の1989年6月28日・判決公判で主犯格の犯行当時19歳少年に死刑、準主犯格の犯行当時17歳少年にも「死刑相当」とした上での無期懲役といった極刑がそれぞれ言い渡された。 このことから同事件は、最高でも懲役17年(求刑無期懲役)だった本事件の第一審判決との対比でも注目された。 その決定的な違いについて、当時・のは「名古屋では殺害被害者が2人、本事件は1人という殺害人数の違いがある。 殺害被害者数1人では(の影響もあり)死刑判決はほとんど出ない」「確定的殺意と『未必の故意』の差が大きい。 名古屋の事件では『殺してしまえ』という明確な殺意があり、事前に殺害用のロープを購入するなどの計画性もあった。 それに対して本事件は『死ぬかもしれない』という未必の故意だった」と『週刊文春』1990年8月2日号の特集記事で解説した。 他事件への影響 [ ]• 大学院の教授は、この事件の女性監禁に関する報道が翌1990年に起きた(事件発覚は2000年)、の犯人に、刺激を与えた可能性があると指摘している。 お笑いタレントのは、「この事件に関与した」とするネット上のデマが原因でいわれなき誹謗中傷を長年受け、悪質な中傷犯数十名が一斉摘発を受ける事態にまで発展した ()。 この事件の3年後(1992年)、犯行当時19歳の少年によりで一家5人中4人が殺害され、残る1人も強姦された事件()が発生した。 この事件の加害者少年は、逮捕後も本事件を引き合いに出し「(本事件の)犯人の少年たちでさえ、あれだけのことをやっておきながら死刑どころか無期懲役にすらなっていない。 それなら俺の方が犯行は長期間ではないし、犯行にあたって凶器一つ用意していないからまだ頭の中身もまともだ」、「これで俺も行きか」程度にしか考えていなかった。 しかしその考えも虚しく、こちらの少年は第一審判決から判決に至るまで、一度たりとも死刑判決を回避することなく一貫して死刑判決を言い渡されて確定し、で37人目(の最高裁判決以降、及び平成の少年犯罪では初)のとなった。 2017年12月、この少年の死刑が執行された。 書籍・映画化 [ ]• 2003年、事件を元にしたノンフィクション・ノベル『十七歳、悪の履歴書』()が出版された。 この映画の公開をめぐっては、事件の残虐性や「そもそも映画にする必要があるのか」などの意見がインターネットを中心に多数湧き上がり、劇場にも上映反対意見が多数届いた。 その影響で5月29日から予定されていた公開は中止されたが、その後、別の劇場で7月3日から9日の一週間だけ公開された。 製作者側によれば、大手レンタルチェーン店にもこの映画のビデオ・DVDを取り扱わないよう意見が多数寄せられた。 なお、この映画のビデオ・DVDはレンタル用としてはR-15に指定されている。 2004年にから発売されたの単行本『』に、この事件を漫画化したものが収録されている。 事件を題材とした漫画作品として、による『彼らの犯罪』(『ROSA』()1992年12月号掲載、単行本『彼らの犯罪』(、2009年)所収)がある。 この事件を題材とした漫画に円山みやこの作品『蟲笛』がある。 、の漫画『』の作品内に、この事件とよく似た事件がきっかけとなって起こる事件を描いた「剣持警部の殺人」という話がある。 の「」では、被害者のうち2人が「1980年代末に足立区で発生した誘拐・監禁・強姦・殺人・死体遺棄事件」の犯行グループである設定。 関連書籍 [ ]• 『うちの子が、なぜ! 、『殺人現場を歩く』、2008年2月6日。 『少年の街』教育史料出版会、1992年。 古村龍也・雀部俊毅『犯罪心理分析マニュアル』同文書院、2000年。 横川和夫・保坂渉『かげろうの家 女子高生監禁殺人事件』共同通信社、1990年。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 『』1989年3月30日東京夕刊第一社会面19面「女高生に乱暴し殺害 コンクリ詰め死体発見 少年数人を逮捕へ/警視庁」• 産経新聞 産業経済新聞社. 2015年8月21日. の2018年8月25日時点におけるアーカイブ。 2018年8月25日閲覧。 デイリー新潮 新潮社. 2018年8月21日. の2018年8月25日時点におけるアーカイブ。 2018年8月25日閲覧。 デイリー新潮 新潮社. 2018年8月21日. の2018年8月25日時点におけるアーカイブ。 2018年8月25日閲覧。 産経新聞 産業経済新聞社. 2015年8月21日. の2018年8月25日時点におけるアーカイブ。 2018年8月25日閲覧。 『朝日新聞』1989年6月6日朝刊東京面「女子高生殺しの少年らに花売らせた暴力団員を書類送検 東京・足立」• 『朝日新聞』1989年4月27日朝刊第一社会面31面「少年2人を家裁送り 女子高生コンクリ詰め殺人事件」• 『朝日新聞』1989年5月19日朝刊第一社会面31面「『刑事処分相当』と少年ら地検に逆送 女子高生コンクリート詰め殺人事件」• 『毎日新聞』1989年5月19日東京朝刊第二社会面26面「少年4人逆送致 女高生コンクリート詰め殺人」• 『読売新聞』1989年5月26日東京朝刊第一社会面31面「女高生監禁殺人の少年4人を起訴」• 『朝日新聞』1989年5月26日朝刊第一社会面31面「4少年を起訴 東京・足立区の女子高生コンクリート殺人」• 『毎日新聞』1989年5月26日東京朝刊第一社会面27面「コンクリ詰め殺人の4少年、『悪質、残酷』と起訴--東京地検」• 『毎日新聞』1989年8月1日東京朝刊第二社会面22面「女高生コンクリート詰め殺人--初公判『未必の故意』認める」• 『毎日新聞』1990年6月25日東京夕刊第一社会面11面「『確定的な殺意なし』と被告側弁論 女子高生コンクリ詰め殺人」• , p. 『毎日新聞』1991年7月24日東京夕刊第一社会面11面「被告の1人が上告--女子高校生コンクリート詰め殺人事件」• 『毎日新聞』1991年7月26日東京夕刊第一社会面15面「女子高校生コンクリート詰め殺人の4被告 東京高検は上告せず」• 『毎日新聞』1991年7月27日東京朝刊第一社会面27面「女子高校生コンクリート詰め殺人、3被告の刑が確定」• 『毎日新聞』1991年7月27日大阪朝刊第一社会面27面「3被告の刑確定--女子高校生コンクリート詰め殺人事件」• 『朝日新聞』1992年7月19日朝刊第二社会面30面「少年側の上告棄却 女子高校生コンクリ殺人事件」• 女性セブン2018年9月13日号. 2018年9月1日. の2018年10月6日時点におけるアーカイブ。 2018年10月6日閲覧。 , p. 219. , pp. 220-222. , pp. 223-224. 『朝日新聞』2018年8月20日東京夕刊第二社会面「首刺した疑い、埼玉で男逮捕 殺人未遂容疑」• 産経新聞 産業経済新聞社. 2018年8月20日. の2018年8月25日時点におけるアーカイブ。 2018年8月25日閲覧。 日本経済新聞 日本経済新聞社. 2018年8月20日. の2018年8月25日時点におけるアーカイブ。 2018年8月25日閲覧。 JNNニュース. 2018年8月19日. の2018年8月25日時点におけるアーカイブ。 2018年8月25日閲覧。 128-131• 190-193「女子高生惨殺事件 第2弾 加害者の名前も公表せよ!」• 『週刊文春』(文藝春秋)1989年4月13日号(1989年4月6日発売)p. 202-205「女子高生監禁・殺人の惨 彼らに少年法が必要か」• 『朝日新聞]』1989年4月30日朝刊時事評論4面「花田紀凱さん 『週刊文春』編集長・46歳 少年凶悪犯を実名報道(メディアの顔)」• (日弁連)会長 1989年6月23日. 2017年7月13日時点の [ ]よりアーカイブ。 2017年7月13日閲覧。 『朝日新聞』1989年6月24日朝刊第二社会面30面「女子高校生監禁殺人事件、『実名報道は遺憾』 日弁連が談話」• 『』 : p. 132. 1989年4月13日• 『しんぶん赤旗』 日本共産党. 1989年4月7日• 『しんぶん赤旗』 日本共産党. 1989年5月20日• 『朝日新聞』1992年3月27日朝刊社会面29面「論議呼ぶ19歳容疑者の実名報道 少年法巡り異なる見方(メディア)」• 『20世紀にっぽん殺人事典』、2001年8月15日、642-643頁。 「名古屋・非行少年グループ、アベック殺人」• (編集)、事件・犯罪研究会 (編集)『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』、2002年7月5日、612頁。 『朝日新聞』1989年4月8日朝刊投書欄• 『朝日新聞』1991年3月12日夕刊第一社会面23面「『寛大に過ぎる1審』 控訴審で検察陳述 女子高校生コンクリ殺人」• 『』1989年6月28日夕刊1面「大高緑地アベック殺人 主犯少年(当時)に死刑 『残虐、冷酷な犯罪』 共犯の5被告、無期 - 不定期刑に 名地裁判決」• 『中日新聞』1990年9月12日朝刊第二社会面30面「名古屋のアベック殺人 きょうから控訴審 名高裁」• 『週刊文春』(文藝春秋)1990年8月2日号p. 40-42「大特集 肝心なことを書かない新聞」『名古屋アベック殺人と女子高生コンクリート詰め殺人 「死刑と17年の落差」』」 『週刊文春』(文藝春秋)1990年8月2日号p. 43-44「名古屋アベック殺人被害女性の両親が激怒 十七年でも死刑でも彼らは絶対に許せない!」• 碓井真史『少女はなぜ逃げなかったか』()129-130頁• スマイリーキクチ『突然、僕は殺人犯にされた - ネット中傷被害を受けた10年間』()• 『19歳 一家四人惨殺犯の告白』、2004年8月25日、14,181-184。 小田泰之(企画・製作)、倉谷宣緒(エグゼクティブプロデューサー)、菅乃廣(脚本家) 2004年5月. 2017年6月13日時点のよりアーカイブ。 2017年6月13日閲覧。 小田泰之(企画・製作)、倉谷宣緒(エグゼクティブプロデューサー) 2004年6月1日. ベンテンエンタテインメント. 2017年6月13日時点のよりアーカイブ。 2017年6月13日閲覧。 参考文献 [ ] 判決文 [ ]• 刑事第4部判決 1990年(平成2年)7月19日 『』第1396号32頁、平成1年 合わ 第72号、『猥褻、、、、等被告事件』。 『ローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:25402827 裁判要旨 被告人A、B、C、Dが、順次、猥褻目的による略取及び監禁の共謀を遂げ、甲(被害者)を脅迫し、C宅に連行し、猥褻の目的で略取し、監視、暴行、食事も満足に与えないことにより、極度の衰弱状態に陥れて居室等から脱出ないし逃走することを不能もしくは困難にさせ、さらに、監禁継続中に甲を強いて姦淫しようと企て、こもごも甲の手足等を押さえつけ、暴行を加えて犯行を抑圧したうえ姦淫し、未必的殺意をもって、甲に暴行を加え、外傷によるショックにより引き起こされた吐瀉物吸引による急性窒息によって死亡させ、犯行の発覚を恐れ、その死体を遺棄しようと企て、死体をドラム缶に入れてコンクリートを流し込むなどした上、空き地にドラム缶を投棄した事案において、猥褻目的略取罪、監禁罪、強姦罪、殺人罪、死体遺棄罪等の成立を認め、Aに懲役17年、Bに懲役5年以上10年以下、Cに懲役4年以上6年以下、Dに懲役3年以上4年以下を言い渡した事例。 裁判官:(裁判長)• 判決内容:以下の通り。 なお全員に対し日数中350日をそれぞれ刑に算入• 被告人・少年A:懲役17年(求刑・無期懲役)• 被告人・少年B:懲役5年以上10年以下の不定期刑(求刑・懲役13年)• 被告人・少年C:懲役4年以上6年以下の不定期刑(求刑・懲役5年以上10年以下の不定期刑)• 被告人・少年D:懲役3年以上4年以下の不定期刑(求刑・懲役5年以上10年以下の不定期刑)• 刑事第10部判決 1991年(平成3年)7月12日 、、『猥褻誘拐・略取、監禁、強姦、殺人、死体遺棄等被告事件』。 東京高等裁判所刑事第10部 1991年7月12日. 2018年7月14日閲覧。 『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:27911252 裁判要旨 被告人ら4名が、共謀の上、昭和63年11月26日、女子高校生甲(当時17歳)を猥褻目的で略取し、同日から昭和64年1月4日までの間、甲を監禁し、監禁中の昭和63年11月28日ころ、甲を強いて姦淫し、昭和64年1月4日、未必の殺意をもって、甲を殺害し、同月5日、被告人A、同B、同Cが、甲の死体を遺棄した等により、被告人Aを懲役17年に、同Bを懲役5年以上10年以下に、同Cを懲役4年以上6年以下に、同Dを懲役3年以上4年以下にそれぞれ処する旨の判決を言い渡した原判決に対し、控訴した事案で、甲に対する一連の犯行の常軌を逸した悪質・重大性、各被告人の果たした役割、加害行為の態様、結果の重大性、遺族の被害感情、社会的影響の大きさ、その他の諸般の事情を総合して考えると、原判決の量刑は、著しく軽過ぎて不当であるとして、原判決中、被告人A、同C、同Dに関する部分を破棄し、被告人Aを懲役20年に、同Cを懲役5年以上9年以下に、同Dを懲役5年以上7年以下にそれぞれ処した事例。 『判例時報』第1396号15頁 『』第769号256頁 控訴審判決において、少年犯罪と刑事処罰の在り方について詳細に判示して、犯行時少年であった被告人4名中3名について原判決を破棄し、1審よりも重い刑を言い渡した事例• 裁判官:柳瀬隆次(裁判長)・宮嶋英世・中野保昭• 判決内容:以下の通り。 なお、A・C・D各被告人に対しては原審における未決勾留日数中350日をそれぞれ刑に算入• 被告人・少年A:原審破棄、懲役20年(求刑・無期懲役)• 被告人・少年B:原審維持、懲役5年以上10年以下の不定期刑(求刑・懲役13年)• 被告人・少年C:原審破棄、懲役5年以上9年以下の不定期刑(求刑・懲役5年以上10年以下の不定期刑)• 被告人・少年D:原審破棄、懲役5年以上7年以下の不定期刑(求刑・懲役5年以上10年以下の不定期刑、最高裁上告、その後棄却)• 検察官• 検察官:樋田誠(控訴趣意書を提出)• 東京地方検察庁検察官:北島敬介(控訴趣意書作成名義)• 各被告人の弁護人• 被告人Aの弁護人:近藤文子・神谷信行• 被告人Bの弁護人:羽賀千栄子・伊藤芳朗・大沼和子・菅野庄一• 被告人Cの弁護人:荒木雅晃・岡慎一・吉村清人・黒岩哲彦• 被告人Dの弁護人:清水勉・田中裕之 雑誌記事 [ ]• 『』()1989年4月13日号(1989年4月6日発売)p. 202-205「女子高生監禁・殺人の惨 彼らに少年法が必要か」• 『週刊文春』(文藝春秋)1989年4月20日号(1989年4月13日発売)p. 190-193「女子高生惨殺事件 第2弾 加害者の名前も公表せよ!」• 加害者少年として逮捕されたA・B・C・Dの4人の実名が掲載された。 『週刊文春』(文藝春秋)1990年8月2日号p. 40-42「大特集 肝心なことを書かない新聞」『名古屋アベック殺人と女子高生コンクリート詰め殺人 「死刑と17年の落差」』」p. 43-44「名古屋アベック殺人被害女性の両親が激怒 十七年でも死刑でも彼らは絶対に許せない!」• 『』()1989年4月13日号p. 132「父は薬剤師、母は看護婦という『女高生虐殺』の家」 書籍 [ ]• 渥美饒兒『十七歳、悪の履歴書-女子高生コンクリート詰め殺人事件』、2003年8月。 金原龍一「「女子高生コンクリート事件」Aの苦悩」『31年ぶりにムショを出た 私と過ごした1000人の殺人者たち』(発行人:)、2009年9月14日、第1刷発行、219-224頁。 1976年に東京都内で強盗殺人事件を起こして無期懲役刑に処され、2008年に仮釈放されるまで・で服役した元受刑者による著書。 論文 [ ]• 、小嶋聡、、「」『『情報研究』(Information and communication studies)』第33巻、情報学部紀要委員会、2005年7月、 331-334頁、 、。 関連項目 [ ]• 本事件で服役した少年Bが出所後に起こした事件。
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女子高生コンクリート詰め事件とは 出典: 『女子高生コンクリート詰め事件』とは、1988年(昭和63年)11月から1989年 昭和64年 1月の間に東京都足立区綾瀬で起きた誘拐・監禁・わいせつ・略取・強姦・暴行・殺人・死体遺棄等が絡んだ事件の通称である。 この事件は、加害者及び被害者がすべて未成年であったこと。 犯罪の内容自体も大変、重大で悪質だったこと。 そして、長期に及んで少女が監禁されていることに気づいていた周囲の人間が救助を行わなかったこと。 これらの点が重要視され、社会問題にまで発展した昭和最大の事件。 女子高生コンクリート詰め事件の概要 出典: 【主な事件内容】 1988年11月25日、当時18歳の少年Aと16歳の少年Cは埼玉県三郷市内で17歳の女子高生をわいせつ目的で拉致し、ホテルに連れ込み強姦した。 その後、少年A、17歳の少年B、16歳の少年C、17歳の少年Dの4人で東京都足立区綾瀬の16歳Cの自宅に女子高生を監禁。 同日28日、17歳の少年E、16歳の少年Fも加わり、6人で女子高生を集団で強姦。 その後もCの家の部屋で監禁、強姦、傷害など虐待行為を続けたのちに殺害。 死体をドラム缶に詰め、そのうえにコンクリートを入れて遺棄。 出典: 【事件詳細】 1988年 昭和63年 11月25日午後8時過ぎ、AとCは埼玉県三郷 みさと 市内をバイクで走行中にアルバイト先から自転車に乗って帰宅する途中だった埼玉県立八潮 やしお 南高校3年生の古田順子さん 当時17歳 を見かけた。 するとAはCに対し、「あの女蹴れ。 あとはうまくやるから」と命じ、Cは言われた通りにバイクで順子に近づき、左足で右腰を思いっきり蹴り、角を曲がって様子をみていた。 順子さんはバランスを失い、自転車に乗ったまま転倒、側溝に落ちた。 そこへAが近づき「大丈夫ですか」と声をかけ、助け起こすと「あいつは気違いだ。 俺も脅された。 危ないから送っていってやるよ」と言って近くにある倉庫の暗がりで脅し、ホテルに連れ込んで強姦した。 午後10時頃、Aは自宅に戻っていたCに電話をかけると、そこにはBの他にDがいたが、Aはこの3人を外に呼び出した。 その後、4人の少年たちは東京都足立区綾瀬のCの自宅の2階のたまり場に順子さんを連れ込んだ。 この日、Cの父親は3日間の社員旅行で沖縄に出掛けたため、自宅には母親とCの1つ上の兄がいた。 出典: 11月28日、Aは「いいモノを見せてやる」と言って呼び出されたEとFが加わり、家人が寝静まった深夜に順子さんを輪姦した。 順子は必死の思いで抵抗した。 階下の母親は目を覚ましたようであったが、順子さんは顔面を寝具などで押さえつけていたため、叫び声を上げることはできなかった。 11月30日午後9時頃、Cの母親はこのとき初めて順子さんの顔を見る。 母親はCに対し「早く帰しなさい」と言った。 だが、1週間経っても順子さんが家にいることに気づき、直接、順子さんに「すぐに帰りなさい」とは言ってみるもののなかなか帰ってくれなかった。 また、少年たちは順子さんに自宅へ電話をかけさせ「家出しているから、私の捜索願いは取り消して欲しい」と言わせている。 しかも一度きりでなく、5日ごとに3回に渡って電話をかけさせており、順子さんの親は家出だと思っていたという。 その後も昼夜関係なく順子さんの体を弄び、そのあまりの暴行に順子さんが気を失うと、バケツの水に頭を漬けて気を取り戻させていたという。 そして、また犯すということを繰り返していた。 その間交代で見張りを続けた。 12月初旬の午後4時ころ、順子さんは少年たちが夜遊びで昼寝をしていた隙を見て2階から1階の居間に降りてきて110番に電話した。 だが、運悪く近くで寝ていたAに気づかれてしまった。 すぐに逆探知で警察からかかってきた電話にAが出て「なんでもない。 間違いです」と返答したという。 AとBは、このことをきっかけとして、順子さんに対し、手荒いリンチを加えた。 殴ったり、蹴ったり、手足の甲にライターの火を押し付けたりして火傷を負わせた。 また、時にはシンナーを吸わせたり、ウィスキーや焼酎を飲ませるなどして楽しんでいたという。 出典: 12月5日に東京・東中野駅構内で電車の追突事故が起きた。 Aは順子さんに「あの電車にお前の父親、乗っかっていて、死んだってテレビでやってた。 お前見たか」とからかい、順子さんは不安そうな表情を見せると「どんな気分だい」と訊き、「悲しいです」と答えると「実はウソだよ」と言ってはぐらかした。 こんな調子でA、B、Cの3人は「死んだ」「生きている」を何度も繰り返し、心理的にも順子さんを追い詰めていった。 12月10日頃に順子さんが「家に帰りたい」と言い始めた。 すると、Aが「家に帰ったら母親に何て言うんだよ」と言うと、順子さんは「今まで新宿で遊んでいました」と答えた。 それに対し、Aは「新宿で、学生服のままそんなに長く遊んでいられるかよ」と言って、殴ったり蹴ったりの暴行を加えた。 さらに、火傷の跡にライターのジッポオイルをかけ火をつけた。 熱がって火を消そうとするのが面白いと何度も繰り返した。 12月月中旬、小便で布団が濡れたことを理由にBとCが殴った。 果てしなく続く殴打によって順子さんの顔面が無惨に腫れあがり、凹凸のない別人の顔になったのを見て、「なんだお前、でけえ顔になったなあ」誰かが言うと、また笑い声がした。 暴行がエスカレートするのにともない、順子さんに与えられる食べ物も雑になっていった。 それは主にCの兄のG(当時17歳)の役目であったが、監禁当初は出前を取ることもあったのに、12月末には、1日に牛乳を1本。 酷い時にはパン1枚与える程度になっていった。 トイレにも行かせず、飲料用紙コップに排尿させられるようになり、その尿を飲まされたりした。 出典: Cの両親は異常な気配に気づいていた。 両親はそれ以上追及すると、開き直られるのを恐れていたため、2階の物音には耳を塞いでいた。 順子さんはリンチによる足の火傷が化膿して動けなくなった。 全身は衰弱し、悪臭もひどくなった。 Aはその「臭いが嫌だ」と言って寄りつかなくなった。 少年たちはそんな状態になった順子さんを見て、持て余すようになっていた。 だが、解放すると警察に知らされる。 いっそのこと死んでくれればと願うようになる。 順子さんがいないところでこのような会話が交わされていた。 「女は殺して埋めるのかな?」「殺すならミンチがいいですよ」「ドラム缶に入れて焼けばいい」「コンクリート詰めにして海に棄てればバレない」「自殺に見せかけて殺しますか?富士の樹海で首吊りでもさせますか?」笑い半分、冗談半分、面白半分、暇つぶしといういった感じだったという。 1988年 昭和64年 1月4日。 監禁から41日目の午前6時半頃、Aは徹夜マージャンで10万円ほど負けムシャクチャしていたという。 その腹いせとしてAは順子さんをその対象にした。 BとC、そしてDの3人は順子さんの火傷の臭いを嫌ってDの自宅でゲームをしていた。 AはDの自宅に立ち寄り、3人を誘ってCの自宅の2階に上がった。 小泉今日子さんの『なんてったってアイドル』という歌のリズムに合わせて順子さんは、3人に次々と殴られて鼻や口から血を流し、血だらけの状態に。 ロウソクに火がつけられ、順子さんの顔にそのロウを垂らし、顔はロウだらけになった。 Dは自分の手に血がつくのを嫌がり、Aがシンナーを吸ったビニール袋を手に巻き、順子の肩や足にパンチを浴びせた。 やがて、順子さんは身体を硬直し、ブルブルと痙攣し始めた。 Aは1. 7㎏もある鉄球付きの鉄棒を持ち出すと、は順子の腹に落とした。 Aが暴力を振るうとB、C、Dがウケを狙って、面白半分に暴力をエスカレートさせた。 Aはリンチの途中で順子の死を意識したという。 出典: 午前10時頃、リンチが終わった。 Aは順子さんが逃げないように足をガムテープでぐるぐる巻きにし、4人はサウナに出掛けた。 翌日朝、死体の処理に困った少年たちは死体を毛布に包み、旅行鞄に入れて車に乗せ、近くの工場から盗んだドラム缶に鞄ごと入れてセメントを流し込んだ。 セメントは、Aが以前タイル工として働いていた店に電話をかけて、セメントと砂利を調達して作ったものだった。 午前8時頃、ドラム缶を海に投棄しようと江東区若洲15号地若洲海浜公園整備工場現場空き地まで車を走らせたが恐くなってしまい、その空き地にドラム缶を投げ出して帰ってしまったという。 11月8日の夕方頃、AとBとCの3人が足立区内で自転車で帰宅中の当時19歳の女性 順子さんとは別 に声をかけ、3人で輪姦した。 このときはAが運転するシルビアにB、Cが乗り込み、ドライブの誘いに応じないとみるや車を横づけにして行く手をはばみ、Bが自転車の鍵を奪って嫌がる女性を車に乗せた。 逃げられないように常磐高速道路に入り、「少年院を出てきたばかりだ」「大洗(おおあらい)に行こう。 大洗の海は寒いし、波が高いぞ」などと脅し、観念させてホテルに連れ込んだのだった。 犯人の名前と顔&現在 再犯など を調査! 出典: 人の子とは思えない残虐な犯行を繰り返し、己の欲のままに生きてきた犯人の現在の姿を一人ずつ紹介します。 少年A【主犯格:宮野裕史 旧姓 】 出典: 宮野裕史は、現在、関西の篤志家 とくしか と養子縁組し、『横山 裕史』に改名。 1970年4月30日生まれの横山 裕史は中学時代、柔道の選手として実績があった。 高校は中退。 見習いタイル工として働き始めたが、その後、暴力団と仲を深め半グレ集団を立ち上げた。 身長160cmと小柄だがガッシリとした体格。 懲役20年の刑を受け千葉刑務所に服役していたが、2008年に出所している。 その後、2013年1月10日に再犯 詐欺容疑 で逮捕されている。 出典: パチンコ必勝法の情報料名目で現金を騙し取る振り込め詐欺で 2013年1月10日に口座の所有者だった 宮野裕史 当時42歳 は逮捕された。 出典:週刊文春 綾瀬女子高生コンクリ詰め殺人事件で逮捕され、出所していた宮野(横山)裕史が振り込め詐欺で逮捕されていた。 だから言ったじゃん反省ぶりっ子猛獣を放し飼いにすればまた繰り返すっつーのを — ジュリア・ベシェ・ロータス Juliapple0917 少年B【サブリーダー:小倉譲 旧姓 】 出典: 主犯格・宮野裕史の右腕だった小倉譲は、身長180cmを越す長身。 日本での生活は難しいと思った小倉譲は中国人女性と結婚。 養子縁組となり、旧姓 小倉 から神作へ改名した。 そのまま中国へ移住を考えていたが、離婚。 1971年5月11生まれの神作譲の家庭環境は、両親が別居するなど恵まれていなかったという。 私立修得高校も中退し、横山裕史と共に事件を起こす。 裁判では5年~10年の不定期刑が確定し、1999年8月3日に出所。 その後、神作譲は2004年6月に埼玉県三郷市逮捕監禁致傷事件で再犯を犯し、逮捕されました。 何があっても出て来られる。 」 【再犯するまでの年表】 出典: 少年C【湊伸治】 出典: 1991年7月、湊伸治に下された刑は懲役5年以上9年以下の不定期刑。 出所後、プロボクサーとしてデビュー。 しかし、観客からは「コンクリ、コンクリ」と事件を指す呼び名でヤジられていた。 あまりのブーイングと不人気により引退。 その後、2018年の8月に埼玉県川口市の路上で、32歳の男性の肩を警棒で殴った上、首をナイフで刺したとして45歳の男が殺人未遂の疑いで緊急逮捕された。
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