さて、昔話の時代も1974年から75年に入ってきましたので、ちょっとこの当時の出来事を簡単におさらいしておきましょう。 あはは。 結構誠実な道楽者ですから(そうかなぁ)それなりに資料を漁って見ました。 まず1974年の話題はなんと言ってもこの人、ユリゲラーですね。 スプーン曲げ、流行りましたねぇ。 ちなみに委員長の奥さんもできます。 だから何だってコトなんですけど、貧乏一家のスプーンをやたら曲げちゃって困ったもんです。 どうせなら、曲がったスプーンとか折れたスプーンを元に戻すって能力だったらもっともっと世間に認められたことでしょう。 このパワーがいつか世の中のためになることを祈ります。 そして爆発的な大ヒットとなった「ベルサイユの薔薇」の登場です。 この作家が、後年ぷっつんしてしまうなんて誰も想像つきませんでしたね。 「好きなことしてメシを食う」はいずれ莫大な請求書がくるという教訓です。 やはり道楽で大金を手にするとロクなことはありませんから、くれぐれもご注意下さい。 (ほんとかよ) スポーツ界は話題豊富です。 モハメッド・アリがジョージ・フォアマンを破り、奇跡のチャンピオンにカムバック。 ジャイアント馬場がジャック・プリスコを破り日本人初のNWA王者に輝く。 凄いですね、馬場さん。 16文キック!今の子たちにはこのサイズ説明するのが難しいですねぇ。 椰子の実割り、カワヅ落とし、必殺技の数々。 興奮しました。 そして、なんと長島選手の引退がこの年でした。 往年の野球少年は皆涙を流しました。 さて、不良少年の話題はというと、そうですあの「傷だらけの天使」がTVに登場したことに尽きます。 あの衝撃的なタイトルシーン、生トマトにコンビーフかじって、ソーセージ食って牛乳飲む、あの無節操さが不良少年を虜にしました。 真似して腹下した馬鹿が何人いたでしょうか? ちなみに放送開始は74年10月5日土曜日で、翌75年3月29日まで半年間の放映だった。 音楽は井上堯之+大野克夫(元スパイダース・古っ!) 監督は、恩地日出夫、深作欣二、工藤栄一、児玉進、スゲー! キャストは、小暮修(萩原健一)、乾亨(水谷豊)、綾部貴子(岸田今日子)、辰巳五郎(岸田森)、海津警部(西村晃)、森川京子(ホーンユキ)その他ゲストも凄かった。 ホーンユキさん、平パン、デラパン、グラビアでは随分お世話になりました。 えっ?(^0^; しかし、このドラマのブームっていうか、流行っていうのは、本当に当時遊んでた馬鹿というか不良にしか分からない魅力でした。 お調子者で教養も無く、かといって喧嘩が特別強いわけでもないし、根性があるわけでもない。 落ちこぼれの代表選手みたいな二人が、人生楽して生きることに情熱を傾けてその日その日を精一杯生きる、そんな不良馬鹿の力強さみたいなものに同時代を生きた世代の共感を得たのでしょうね。 言ってみりゃ、これぞまさしく道楽者のヒーローです。 そして74年の締めくくりは日本レコード大賞、「襟裳岬」森進一でした。 明けて75年は、カルビーのポテトチップ発売、紅茶きのこのブーム。 「傷だらけの天使」で一躍若者の共感を得た萩原健一、打って変わって演技派役者の面目躍如「前略おふくろ様」放映スタート。 日活ロマンポルノ・SM女優「谷ナオミ」引退。 縄で縛って鞭で叩いて、こちらも随分お世話になりました。 実は彼、マー坊って言って六本木アフロレイキでボーイ長やってた奴なんだよね。 偶然にも委員長がジミーって奴と二人で新島行ったとき、偶然船で乗り合わせて、なんだかよくわからんノリで買わされちゃった。 お土産にって、彼女の分まできっちり二千円取られた。 こういうパブリックスペースで目立つカッコしてはいけません。 必ず行商のターゲットになってしまいます。 悔しいから、「俺らはエンバシーで働いてんだぞぉ~」とか思いっきりハッタリこいてやりましたが、島のディスコ「くろんぼ」でまたも再会。 ウェイターのバイトしながらプカシェル売り歩く、奴のそのフーテンの寅さん的生き方には頭が下がる思いでした。 (でもないか) いやー、でもこのプカシェル、確かに流行りましたよね。 アロハ風シャツに白のバギーパンツ、首には白いプカってのが当時の一般的スタイルだったですね。 ちなみに委員長は相変わらず原宿「ハラダ」のアロハにニットバギーでしたが、当時の不良仲間は、同じハラダのアロハでも上下ペアで買い込んでました。 今にして思えば「ジンベエ」だよね。 同時に、関東、関西で「ニュートラ」がちょっとした流行にもなりました。 アンアン、ノンノンの影響ですか。 そして極めつけは、キャロル解散、伝説の日比谷屋音コンサート、クールスが前でしゃがんでました。 キャロルの親衛隊クールスってことで、ストーンズの親衛隊ヘルスエンジェルス、みたいなー、って矢沢さん言っておりましたが、そうかなぁ~、ちょっと違うと思うんだけどなぁ~って思っていた委員長でした。 そしてこの年のレコ大は「シクラメンのかほり」布施明でした。 しかしこの年のディスコブームは本当に凄かったですね。 新島にもディスコあったし、式根島にも、さらに湘南海岸とか伊豆白浜あたり行っても、変な掘立小屋みたいなところで踊ってたなぁ~。 しかもぞうりで。 よく意味わかんなかったけど、それだけディスコのパワーが凄かったってことですね。 (本当に意味わかんねーぞ) さぁてと、委員長のビバヤング生活は更に盛り上がって、75年年明けと共に、旧バイト組と入れ替わるように続々と馬鹿たち(本当にどーしょーもないバカばかり)が入社してきました。 コトの発端は、委員長のバカ友・井の頭線三鷹台駅前で酒屋スーパーを営む家の次男坊君が、自分のバイトの後釜に中学の同級生だったケイゾーを紹介したことから始まりました。 そしてこのケイゾーと委員長の出会いは、道楽者人生に更なる興奮と衝撃の日々を与えてくれたのです。 続きはまた明日。。。。。。。。 横浜チャイナタウンの戦いは、仏のフジさんの期待を大きく裏切り、結局は深夜のチャン街をブラブラしただけで終わりました。 その後、アホ一行は元町のディスコ・アストロに行きましたが、ここらは閉店が皆早くて、商店街はすでに静かに眠っておりました。 仕方なく本牧の「リンディ」で踊って、再びチャン街の屋台のラーメンをすすって新宿に戻った道楽者たちでした。 委員長の新宿ビバヤングのバイトもかれこれ3ヶ月が過ぎようとする1月中ごろには、バカ友・酒屋の息子も第一次補欠入学の負い目を持つ身、そろそろ学校に真面目に行かざるをえなくなり、後ろ髪引かれながらも楽しいバイト生活に終止符を打ちました。 同様にバイト大学生古株二人も辞め、更に栃木のヤンキーにーちゃん、キャバレー上がりの揉み手あんちゃんなど、バイト組が続々と辞めていきました。 残されたバイトウェイターは委員長だけ。 更におさるのボーイ長までもが、無断欠勤をして店長の逆鱗に触れクビとなりました。 さあ、こうなると委員長の天下です。 相変わらず忙しい毎日でしたが、黒服連中や支配人などにも結構可愛がられて益々調子に乗る委員長は、バイトのくせしてすっかりホールを独り占めする存在にまでなりました。 好奇心の塊のような道楽者は店内の隅から隅まで知りつくし、19歳そこそこでディスコの顔役のようになった自分に酔いしれておりました。 ここで出会った数々の人の中でも取り分け面白かったのが、照明係のおっちゃんでした。 ブルー系のサングラス(当時はこんなスケベっぽいサングラスはあまりしている人が少なかった)にぼさぼさ髪、不精ひげにヨレヨレのジーンズ、年の頃は30代半ばといったところでしょうか。 ステージを正面にして店の最後部、細長い調光卓が置かれた縦長四畳くらいの照明室の主、それがこのおっちゃんでした。 劇団四季だかどこかに所属する照明のプロでしたが、委員長が徹夜麻雀明けの日などはここの入り口のドアの間に隠れて、よく居眠りをさせてくれました。 普段は無口でとっつきにくいおっちゃんですが、元々職人気質の人ですから、芸人には優しく、委員長のアフロを見て芸人志望の一人とでも思ってくれたのか、委員長にはとても優しくしてくれました。 そして、委員長がこの照明室に出入りした理由は、他にも理由がありました。 出番待ちの休憩時間に委員長のお気に入り、リンダがここに出入りするのです。 照明室の裏に同じくらいの奥行きで、照明室よりはやや広い楽屋があったのですが、男ばかりの部屋に居るのもイヤなのでしょう、優しいおっちゃんのところに来ては調光卓などを悪戯する彼女でした。 委員長より更に一回りくらい大きなアフロに、ピシッと体にフィットしたジーンズなどをまとった彼女は、そりゃなんともセクシーでした。 顔は委員長好みのモロ南方系、鼻はぺちゃんこ目はパッチリ、そうだなぁ、ドゥーリーシルバースプーンのバンプミーベイビーのシングルジャケットにあるアフロ娘みたいな感じでした。 (んなこと言っても、わかんねーだろうなぁ) また、声がハスキーで、片言の日本語が可愛かったですね。 姉さんの方はちょっと小金持ち風の日本人のオッサンに見初められて、その後結婚して辞めていってしまうのですが、とにかくこの二人の姉妹は非常にストイックで、営業終了後はバスに乗ってまっすぐ寮に帰り、浮いた噂のひとつもありませんでした。 委員長にしてみれば、とにかくアフロのねーちゃんが大好きだったってだけのことですが、姉さんの結婚とともに帰国してしまった彼女とは、この照明室で多少の会話をしたほんのつかの間の恋とも言えぬ淡い思い出だけでした。 ある日、徹マン開けのひしゃげたアフロで出勤した時、控え室の鏡の前に座っている長髪の痩せこけた貧乏臭いおねーちゃんに驚いた委員長は、その鏡の前のテーブルに置かれたアフロのかつらが、今委員長の目の前にいる貧乏臭いおねーちゃんのモノだと理解し、さらにそれが憧れのリンダ嬢であると悟ったのでした。 リンダ嬢は冷ややかな視線で委員長を見下すように一言、「パゲッ」と言い捨てたのでした。 そりゃ徹マン帰りでアフロはひしゃげてっかもしんないケド、ハゲはねーだろ、ハゲはー、とブーたれる委員長。 後に知ったことですが、この「パゲッ」っていうのはタガログ語で「ブス」とか「不細工」の意味で、確かに「ハゲ」ではなかったのですが、どちらにせよ、けなされたことには変わりなく、また、委員長憧れのアフロも地毛じゃなくて、更にそのかつらを取ったら単なるフィリッピーナだったことに気づいた委員長は、この日を境に淡い恋から目覚めたのでした。 (めでたし、めでたし) さて、照明係のおっちゃんですが、この人も結構麻雀が好きで、仕事帰りによく付き合いました。 おっちゃんは調子が出てくると必ず、「お~れぇは~、かわらの~、枯ぁれスス~キ~」などと唄い出します。 一体いくつなんだろ、この爺、などとも思いましたが、満員の店内でバンドのスポットをビシッと当てる時のおっちゃんは、さすが職人だなぁ、と感心させられることが多く、未だバンドマンの夢を捨てきれぬ道楽者委員長は、ステージアップの技術などを、ここで自然に学んでいたのでした。 あと、もーひとりおっちゃんの休みの日に代わりで来る、ちょっと毛色の変わったにーちゃんもおりました。 小柄なフォーク青年みたいな人で、結局、委員長とは一度か二度口を利いただけで消えていってしまいました。 生きてるのかなぁ~。 この人との会話第一声は、「君、僕と一緒にレバノンに行かない? 人民解放軍へ入って一緒に戦わないか」でした。 この一発はかなり強烈でした。 とにかく委員長の頭の中にあるどのカテゴリーにも入らない人物でした。 もちょっと人の頭見てからモノ言えよって感じでしたが、明るく好青年と言う感じで、厭味なところはありませんでした。 本当に2度ほどおっちゃんの変わりに来ただけでしたが、ちょっと不思議な人でした。 本当にレバノンに行ったのでしょうか? こんな変な奴らばかりの舞台裏でしたが、やっぱりお友達として面白かったのはバンドのメンバー達でした。 彼らは委員長のことを、アフロと呼び(タガログ訛りでは、アプロって発音します)、小僧のように使われたこともありましたが、彼らから学んだ音楽知識は、後の委員長の音楽活動に多大な影響を与えてくれました。 これはマジで本当です。 楽曲のコピーの仕方や、コーラス、ボイスコントロール、エンターティメントとしてのショーアップ、チームワーク等など、バンドにこだわらず芸人としてのプロ意識みたいなものを自然に学んでいた委員長でした。 その代わりといっちゃなんですが、よーく軟派のお手伝いもさせられました。 とにかくバンドマンは皆スケベーです。 と言いながらも、一緒につるんだ委員長も結構スケベーなヤツだったのでしょう。 しかし当時のバンドマンはモテましたね。 何はともあれモテました。 こんな不細工なヤツなのに、なんでモテるのかなぁ、などという素朴な疑問もありました。 19歳の委員長にはまだ女性を見る目も、遊び方も、そりゃまだまだ子供でしたから、彼らとつるむようになって、こんな世界もあるんだ、というような好奇心丸出しの世界でした。 まあ、言い寄ってくる女が、みぃ~んな良い女とは限りませんが、手当たり次第に手をつけてしまう節操のなさと言うか、腰の入ったスケベーというか、フィリッピン人特有の感性だとばかり思っていた委員長でしたが、後年、バンドマンのスケベー根性はボーダーレスなのだということを体感するのでありました。 アメリカ映画「燃えよドラゴン」の超大ヒットで、世界的なヒーローとなったブルースリーですが、残念ながらその栄光のBENEFITを受ける間もなく他界してしまいました。 (合掌) 74年はそんな彼が残した過去の作品(香港映画)が続々と公開され、空前絶後のカンフーブームと相成りました。 ディスコでもカンフーや空手を取り入れたダンスバージョンが現れ、踊りにもそんな影響がチラホラと出ておりました。 以前にご紹介した「吼えろ!ドラゴン・カンフーファイティング」なども、その典型的なパターンで、一時「カンフー」などという踊りも出たりしました。 何のこたぁない、ハッ、アチョーッとか言って空手の真似をするだけなんですが、これが結構面白くて、ジェームスブラウンのLAのライブ(委員長はVIDEOで見たのですが)では、JBでさえ、良く分からん構えで空手の真似なんぞもしてましたね。 竹中直人(漢字間違ってない?)氏が、デビュー当時よくこの「燃えよドラゴン」のワンシーンの物真似をしてましたが、あんな感じの人がディスコにはザクザクおりました。 サントラ盤なんかも時々かけるDJがいたりして、フロアでブルースリーの物真似合戦みたいなことになったこともありました。 さすがに委員中はSOUL小僧だったので、どちらかというとブルースリーよりは黒人武道家ジム・ケリーの方に関心がありました。 彼もB級映画では「ブラックドラゴン」の名で活躍しており、かなりの人気がありました。 つい最近では、「UNDERCOVER BROTHER」っていうかなりおバカな黒人B級映画にゲスト出演しています。 ちなみにこの映画、なんと、あのJBもゲストで出てますし、70年代のディスコヒットや、当時の黒人のファッションとか文化が散りばめてあって、道楽者の親爺にはお薦めの映画です。 ということで、当時委員長が働いていた新宿南口ビバヤングの従業員も、皆一様にかぶれまして、特におサルのボーイ長などは委員長が高校生の頃に買ったヌンチャクをプレゼントしてあげたら、異常に喜んで、仕事が終わると赤いちゃんちゃんこを脱いで毎晩振り回しておりました。 もちろんこのワイロのおかげで委員長の待遇がずば抜けてよくなったのは言うまでもありません。 それとは別に、このカンフーブームを冷ややかな目で見る一人の道楽親爺がおりました。 彼の名は、藤井幹候(カンコウは名前じゃなくて幹部候補生の略ですヨ)、別名仏のフジさん。 麻雀がやたら弱いくせにすぐに仲間に入りたがり、もらったばかりの給料を丸ごとむしりとられてもちっとも懲りずに遊びたがる、変なおじさんでした。 元々は車輌部で重役方の運転手をしているのですが、大した仕事もなくぶらぶらさせておくのはもったいないということで、夜の6時頃から11時までは店に勤務させられたのでした。 11時を過ぎると、系列のキャバレーやクラブへ接待のお客様の送迎をしたり、重役の送迎などに回ります。 特別、運転手の仕事がない日は閉店時間の深夜2時間まで店にいて、閉店後は皆で麻雀を打ったり、飲みに行ったりしていました。 鴨がネギ背負って歩いているような、すでに30歳近いボーっとしたおっさんでしたが、委員長たち若手には結構人気がありました。 彼のポジションも結構いい加減ではっきりした序列もないので、中途半端な存在がバイト組と似ていたこともあり、歳の差があるわりにはよーくつるんで遊びました。 運転手と言っても早いときは11時に送迎に行って、12時前に帰ってきてしまいます。 もちろん本来なら早く送迎が終われば、また店に戻らなければいけないのですが、そこはそれ、もしそんな真面目な人だったら、この歳までこんなとこでグダグダしてるわきゃないので、間違いなく道楽者の一人でもありました。 そして委員長たちは、このおっちゃんが送迎のあとの社用車を自由にできることを見逃しませんでした。 バイトのお仕事は12時で終わりです。 送迎が早ければ11時30分にはおっちゃんが戻ってきます。 遊び盛りの道楽者が集まれば悪事の相談も即決です。 DJのマチャアキとか酒屋の息子などが委員長と一緒になって、おっちゃんを遊びに誘います。 仏のフジさんは子供たちに慕われるとイヤとは言えません。 それに下手に逆らうと、フジさん一番の楽しみである麻雀の仲間に入れてもらえません。 ということで、麻雀でフジさんから巻き上げた金で懐が少し暖かくなると、今度はドライブをおねだりして深夜の六本木「ソウルエンバシー」などへ繰り出す委員長たちでした。 こんだけカモられてもグチのひとつもこぼさず、一緒に遊んでくれた仏のフジさんですが、 ついにその本性が露になる事件が起きました。 ある日のこと、いつものようにフロアで暴れるタコを皆でボコボコにして店から放りだしたところ、なんとこのタコが応援を連れてリベンジに現れたのです。 ボコボコにされてゴミくずのようになったあんちゃんが連れてきたのは、ボタンのない蛇腹の学生服を着たガタイの良い二人組でした。 支配人以下黒服数名が居並ぶ、ビバヤングのフロントに現れた二人組は静かに、そして迫力のある言葉で言ったのです。 「どういう理由でコイツがこんなめに遭わされたのか説明してもらおうか」 結構な迫力に少しは引きかけた支配人のネズミの梅ちゃんは、その強面の顔とは裏腹に意外と小心者だったので、すぐに黒服たちに問いかけました。 「誰か知ってるか?」 そこで結構イケイケな黒服、白川カンコウ、大池カンコウが名乗りをあげます。 「踊り場で暴れたから帰ってもらっただけだけど、こっちも商売だから他のお客さんに迷惑がかかると困るからね」 騒動を聞きつけて、その他の黒服やウェイター君たちがどっとやってきます。 学ラン二人組はひるまず言い返します。 「だからってこんなに殴ったり蹴ったりしていいのか」 「こっちも従業員が抑えるのに怪我してんだよ」 大池カンコウがフロント前エレベーターの横の非常口を開けて言います。 「ここじゃ他のお客さんの迷惑になるから、こっちで話そう」 これは話じゃ埒があかないから殴り合って決着をつけようという無言の合図です。 大池カンコウ、白川カンコウの二人が先導して非常口に出ます。 ボコボコ野郎はエレベータ前に置き去りです。 4人が出て非常口のドアが閉まりかける寸前、仏のフジさんがパッと滑り込みました。 ガーンと音を響かせてドアが閉じた瞬間、ドタンバタン、ゴツゴツ、ンナローッ!ウッ!バタッ。 静かにドアが開いて目に青あざの大池カンコウ、蝶ネクタイがちぎれた白川カンコウ、そして鼻血と口から血を滲ませた学ラン二人組が出てきます。 その後ろから仏のフジさんが出てきて、エレベータの下階ボタンを押します。 フジさんは委員長を見つけて「下まで送ってやって」と声をかけます。 委員長はおずおずと開いたエレベータにボコボコ野郎を乗せて、1階のボタンを押します。 学ラン二人組とフジさんが乗り込みます。 従業員全員の熱い視線の中、エレベータのドアは閉じました。 密室の中、出入口のボタンを押す委員長、その後ろに学ラン二人組とボコボコ野郎、そしてその後ろにフジさん。 この時ほど1階までの到着時間が長かったと感じたことはありませんでした。 無言のまま到着したエレベータから降りる学ラン二人組。 目頭と口に血を滲ませた学ランがフジさんに一瞥くれて、 「あんたも若いねぇ」 そう言い残して3人は紀伊国屋方面へと立ち去りました。 前で手を組んだ姿勢のフジさんの手の甲は、皮がすりむけて血が滲んでいました。 その時のフジさんの顔はいつもの仏顔でなく、蒼白のホラー顔になっておりました。 「奴らさぁ、パッと見たときにさ、拳ダコがあったからさ、こりゃまずいと思ったのさ。 いくら大池でもさ、やばいかなと思ってね」 この痩せ型の単なるボーっとしたオッサン、藤井カンコウが剛柔流二段の凄腕であることを、この時初めて知った委員長でした。 つまり、運転手の仕事もその腕を見込まれてのことだったわけですが、みかけは単なる淋しいオッサンのクセにこんなかくし芸があったことは皆知らなかったのです。 さて、話は戻りますが、委員長他道楽者一派はこうしてよくフジさんをそそのかしては、夜遊びを繰り返していたのです。 しかも遊ぶ金はその本人から麻雀で巻き上げた上に、会社の車を持ち出させたあげく運転手までさせて、やりたい放題の道楽三昧。 ところが、度重なる夜遊びに、ちょっと疲れたフジさんからクレームがあがりました。 「ディスコもいいんだけどさ、俺踊れないし、酒も飲まないから。。。。 俺はどっちかというと麻雀の方が良いんだけどな」 さあ困った委員長はすぐに見え透いた企画をぶち上げます。 「フジさん、横浜行ったことある? 中華街。 あそこはさ、やっぱカンフーの本場だからさ、スゲーのがいっぱいいるらしいよ」 「カンフーていうとやっぱり少林寺拳法かな?」 異常にノリ安い人でした。 「さあ、太極拳とか、色々あんじゃないの?」 更に膨らます委員長。 「そんな奴らがウロウロしてるの?」 フジさんだいぶと本気です。 「さあ、俺も見たわけじゃないけど、結構腕自慢がゴロゴロしてんじゃないの」 ここまでくればサクセス! 「行ってみようか?場所分かる?」 しめしめ、今夜は横浜まで遠出だぜい。 12時、待ち合わせの甲州街道でフジさんと落ち合った委員長たちは唖然とします。 なんとチャイナ服を着込んだフジさん、しかも丸型のサングラスをかけてニヤニヤしています。 更に車のトランクを開けて、自慢げに委員長たちに見せたものは、ヌンチャク、トンファ、サイ、白の空手着、一体この人は。。。。。。。。。。。 さすがにビビッた委員長でした。 1974年頃のディスコバンド この時代はロックバンドからディスコバンドへと、流れが変わって行った時代でもあります。 それ以前は新宿アシベなどに代表される、ゴーゴー喫茶(喫茶っていうところがスゲー)とか、アングラ・パブとか言われる、実態のつかみにくい店が主な踊り場でした。 といっても、この頃の委員長は小学生高学年から中学生くらいの歳だったので、実際に体験したことはありません。 従兄弟の姉ちゃんとか兄ちゃんの話を聞いて想像をめぐらせたものです。 俗に言う耳年増そのまんまですね。 アシベはグループサウンズ時代の名門でしたから、昔から黄色い声(昔はよくこーゆー表現してましたね)を上げて失神しちゃうような女子高生とか、俗に言う不良の溜まり場でした。 委員長も一度、タイガース見たさに従兄弟の兄ちゃんに連れてってもらったことがありますが、道路までとぐろを巻いた異常な列に、結局入場できず、新宿コマボウルでボーリングやって帰ってきました。 そんな委員長が怪しい踊り場に出入りを始めたのは、高校生になってからのことでした。 新宿で特に今でも印象が強いのはなんと言っても「サンダーバード」ですね。 穴倉みたいな店でいかにもアングラって感じだったし、名前からしてSOULというよりはROCKって感じの店でした。 当時の委員長はカッコこそツッパリでしたが、内面はグランドファンクとかツェッペリンとか長髪のROCKERに憧れていたので、結構お気に入りの店でした。 客層も革ジャンにボンタンやコンポラ等の、いわゆるヤンキー兄ちゃんに混じって、長髪キタナ系ヒッピー姉ちゃん、兄ちゃんがいたりして、危ない雰囲気は最高でした。 それにこの当時、店内であんぱん(シンナー)吸ってたのは、ツッパリ小僧じゃなくてフーテン系ヒッピーでした。 さすがにロックじゃステップは踊れませんが、そこはそれなりにゴーゴーダンスばりのテキトー踊りや、プラウドメアリーみたいな曲はステップで踊ったりとか、適当に客がそれなりにバリエーションを楽しんでおりました。 中には長髪のラリパッパ姉ちゃんみたいなのが、JBLのスピーカーに頭突っ込んで髪振り乱して首振ってたりして、結構わけわかんない店でもありました。 当時を振り返って印象に残っているのは、「太陽に吠えろ」のテーマをかなりスローダウンして、けだるいビートにディストーションの深いギターを載せたバンドの演奏が、まさに新宿って感じで思春期真っ只中の委員長を興奮させました。 早速家に帰ってからギターの練習、よく真似して弾きました。 もちろんのこと、この頃のバンドはすべて日本人でした。 あとは新宿歌舞伎町のど真ん中、ジョイパックビルの7階(だったと思います)にあったプレイハウスが結構渋かったですね。 記憶にあるのは双子のディオシンガー・キューピッツ。 彼女たちは後年マキシマムって名前で、チャーリーズ・エンジェルスのサブテーマでデビューしました。 英語で歌ったテーマ「NOTHING」は結局売れなかったですね。 (無念) あとは後にフーリンカザンってバンドでデビューしたグループが出てました。 当時のレパートリーで記憶に残っているのは、マンドリルのフェンスウォーク、ホットチョコレートのブラザールイ、ドゥビーのロングトレインランニング、ウォーのミーアンドブラザー、CCRのプラウドメアリー、カーティスメイフィールドのフレディの死、スティービーの迷信、サンタナは結構演ってましたね。 ブラックマジックウーマン、エビルウェイズ、僕のリズムを聞いてくれ、サンバパティ、皆定番って感じだったですね。 あとは、スライのサンキュー、テイクユーハイヤーとか、ファンキーというよりはブラックロックみたいな呼ばれ方してましたね。 かなり昔のことなので、時代がちょっとズレているのもあるかも知れませんが、コピーの宿命というか、管楽器の少ない曲が多かったです。 時々ツイスト系なんかも混ざってました。 同じく歌舞伎町のパブトゥゲザー(当時はパブだった)も有名でした。 ご存知のように、JBはじめ一流どころが過去にステージを踏んでます。 そしてこの後、この流れを塗り替えた一発が登場します。 KOOL &ザ・ギャングのファンキースタッフです。 よく、ディスコの流れを変えたのはコモドアーズのバンプだったと言われてますが、正直言って委員長が当時遊んでいたディスコではあまり踊った記憶がありません。 どちらかと言えば、ファンキースタッフの大ヒットというか爆ヒットの方が印象が強いです。 とにかくどこもかしこもこれがかかると大騒ぎでした。 一度、横須賀どぶ板通りの刺繍屋の息子に誘われて、横須賀ニューサンタナへ行った時などは、夜中にブラザーが酔っ払ってホイッスルをピーピー鳴らしながら歩いてたし、CAN GET ENOUGH! ってトコでRIGHT ONとか合いの手が入ったりと、そりゃもう凄い勢いでした。 このアルバム、ワイルド&ピースフルは最高傑作だと思うし、これほどディスコDJに重宝されたアルバムは無いのではないでしょうか。 委員長もバンドマンに憧れ、弁当代をちょろまかしながら丸井の月賦で買ったグレコのテレキャスターが、ついに日の目を見ることになったこの当時のことはしっかりと覚えています。 当時のギタリストの憧れはレスポールかSG、ちょっと渋めでストラト、テレキャスはいまいちメインの座からは外れておりました。 だから丸井でも一番安かった。 二万九千円、月々二千九百円の10回払い。 仕方なくキャロルなんかをコピーしていた委員長は、このテレキャスの凄さを知らぬまだガキンチョでした。 やたらとデカイ音にして歪ませるギターしか知らなかった委員長は、ギターも打楽器の一種なのだと気づいたのがファンキースタッフでした。 このリフ、カッティングはまさに目から鱗状態。 ギターの使い道は奥深いことに気づいた委員長でした。 更に新宿ビバヤングでフィリッピンバンドとお友達になった委員長は、彼らの演奏するエリッククラプトンのアイ・ショット・ザ・シェリフでレゲエ、ロック、ソウル、音楽にジャンルはないのだ、ということを身を持って知ったのでした。 踊っても、聞いても、気持ち良ければ、それがすべてだということを悟ったのでした。 ちなみにこのとき、彼らからロングトレインランニングのリフや、JBのセックスマシーンのカッティングなどを伝授され、いよいよ道楽者の泥沼にハマっていってしまった委員長でした。 ちょっと話が道楽者過ぎたかなぁ? わかりづらかった人は、また明日のバカ話をご期待下さい。 クリスマス篇<PART3> ディスコの裏話、バイオレンス系が続いたので、今日は音楽の話をしましょう。 まずはクリスマスで一気に盛り上がっていく、新宿のディスコシーンをざっと振り返ってみます。 当時のヒット曲で特に印象深いのが、「吼えろ、ドラゴン/カンフー・ファイティング」ですね。 この曲は出だしにちょっとした仕掛けがあって、妙な雄叫びと中国風のメロディーの絡みから入っていきます。 チャイナタウンを鼻歌で歩く武道家ってなイメージのイントロです。 このようなイントロが長めのダンスナンバーは、チークタイム開けのトップナンバーによく使われました。 照明の落ちたダンスフロアーには数組のカップルが抱き合ってチークを踊っております。 パートナーのいないあぶれた客(ほとんどが野郎)は、各テーブルで仕方なく酒飲んでツマミ喰ってウダウダしています。 スローナンバーがゆっくりとフェイドアウトして音が消えかかる頃、「おっほほほーっ~、おっほほほーっ」店内に響き渡る雄叫びが、テーブルの客は一斉に立ち上がってドドッーっと先を争うようにダンスフロアに突進していきます。 その姿は、まるでサバンナの獲物に群がるハイエナの一団のように、皆踊り場目指して突進していきます。 通路は満員電車の乗降口のようにごった返し、この時ばかりはウェイター君たちもサッと両脇に寄ってこの流れを通過させます。 さて、フロアはそれぞれのポジション争奪戦も終わり、今や遅しと曲の幕開けを待つ顔に、照明係のおっさんの粋な計らいでスポットライトが思わせぶりにフロアを照らします。 「Everybody was KunFu fighting! 」 出たーっ! バンプ・ビートに全員噴火、ドカーンと一気に昇天、更に煽っていくDJ。 基本的に踊りはバンプだったのですが、そりゃ相手あっての踊りですから大概の野郎は好き勝手に踊るしかありません。 時々、野郎同士でバンプを踊ったりする「しったか野郎」もいましたが、気持ち悪かったですね。 男同志で尻ぶつけて何が楽しいんでしょうか? この当時、ジ・アザー、ゲットなどのステップも生きておりましたが、バンプの大ヒットで踊り場は急激な進化を遂げていきます。 スティービー・ワンダーの迷信(スーパーステーションって、スゲー駅があるのかと思っていた奴らも少なくない)のプッシンクールとか、ペンギン、ホットパンツ、ブレイクダウンとか、一人でバリエーションを作れる踊りを適当に混ぜて踊ることが多かったですね。 これらを全部ひっくるめてステップって呼んでるけど、委員長は、これはステップとは言わないような気がしますね。 (当時から同じ思いでした) 例えば、シュープリームスのStop in the name of love とか、振り付けの入ったものなんかがステップってことで、その他はフリーダンスのバリエーションというかパターンだと思うんですけどね。 オージェイズの裏切り者のテーマとかジャクソンファイブの窓辺のデートとか、足の動きは皆一緒なんですけど、曲のブレイクに当たるところで曲に合わせた上半身の振り付けが入るのが特徴ですね。 あと、ゲットレディなんてのは果たしてステップっていうのかなぁ?なんて思ったりしますよね。 だって、あれ足(ステップ)に動きって特にないでしょ。 今思えばタケノコ系かななんてね。 ゲット、レーディーって手打って指差したりなんかして、いわゆるステージで歌う時の振り付けだよね。 可愛い人よとかも同じですね。 だって、その後出てくるウォーターゲートとかオールドマンなんてのは、ステップ扱いはしてませんよね。 名前=ダンスでした。 そこいくと、やっぱりチャチャはすごいですね。 これはマンボとかモダンダンスの流れですから、不滅のステップというべきですね。 ジ・アザーとかの流れで、当時すでにオッサン近くの年代の人にプロフェッショナルみたいなチャチャおじさんが結構いましたね。 数人の仲間で並んで踊って、チャチャの間にいろんな呼び名のステップが入ってきます。 リーダーが声をかけて、「アオヤマ」とか「ターン」とか色々なバリエーションをアドリブで加えていきます。 これはカッチョよかったですね。 今ならさしずめジャニーズ系ですか? ハマチャチャとか、ニューチャチャとかそれぞれの土地によって独自のアレンジが施されていました。 つーことで、昔は結構ステップなどと言う敷居が高かった「踊り場」も、バンドが入った大型のパブ系の登場で一般市民にも開放されたって感じですかね。 タイミング的にも、バンプみたいな男女ペアで踊るアメリカ風文化も適度に入って、ちょうどこの時代が変わり目だったのでしょう。 当時、「アメリカン・バンプ」なんて名でよく紹介されてましたけど、じゃ、イングランド・バンプとかジャーマン・バンプとかあるのかって突っ込みたくなりますよね。 誰ですかね、こーいったテキトーぬかすヤツは。 それから、やっぱりこの時代のスパースターはスリーディグリーズでしょう。 「荒野のならず者」スゲータイトルですよね。 なんか西部劇の主題歌みたいに思ってたヤツも随分おりました。 「エッチね、このスケベ親父は」ってな歌なんですけどね。 これも何故かチャチャでした。 スリーディグリーズはすべからくチャチャ専門でした。 ちなみに空前絶後の超ヒット「TSOPソウルトレインのテーマ」も何故かチャチャで踊ってましたね。 一度、委員長とDJのマチャアキでビバヤングの店長にお願いして、ソウルトレイン・ゲームをやらしてもらったことがありましたが、悲惨な目に会いました。 TSOPが流れた途端、皆で並んで一斉にチャチャ大会。 店長には「何これ?」って言われるし、一部ソウル通のお客には「ダッセー!」とか罵られる始末。 新宿では無理なのだとしみじみ悟った委員長でした。 実は、このソウルトレイン・ゲームっていうのは、マチャアキDJとか委員長たちが仕事の終わった深夜、車輌部の運転手のおっさんたぶらかして、よく横浜まで遠征したときに覚えた遊びだったんですね。 横浜の本牧町に「リンディ」っていうおしゃれなディスコがありまして、店の中にロールスロイス(だったと思う)のボディがディスプレイしてあって、その中にDJブースがある、当時としてはかなり進んでいたお店でした。 お客も当然のこと、ベースの人たちですからちょっとした外国に来た雰囲気ですね。 でもって、深夜ながら、客で賑わってくると、従業員からアナウンスがありまして、「今からソウルトレイン・ゲームをやりますから二列に並んで下さい」って言われてフロアに出て、中央を開けて二列に並びます。 ここでTSOPがかかって、順番にペアで踊りながら中央のスペースを抜けていく、というTVのソウルトレインのシーンを再現するわけです。 ベースのブラザーたちは当然パートナーと来ていますから、踊りは下手でもそりゃペアでちょっぴりセクシー、「おーカッチョいいなあ」って身震いするほどしびれてしまった委員長だったわけです。 閉店時間が来て、興奮冷めやらぬ委員長たち新宿のアホ一行は、道路を挟んだ対面のゴールデンカップスで夜を明かしてから、スゴスゴと新宿へと引き上げて行くのが慣わしでした。 このカップスも由緒ある店で、キャロルなんかも出てた老舗でした。 当時はもうさびれかかってて、白人の酔っ払いが男同士でウダウダしているような店だったですね。 あと、新宿ではほとんどの大箱にバンドが出てて、これがまた結構生かしてました。 まだ日本人のバンドが大勢いました。 いつの間にかみいーんなフィリッピンバンドになっちゃったんですけどね。 安くて重宝されてましたが、彼らもソウルドラキュラあたりが流行り出す頃にはお払い箱になっていきました。 道楽者の末路は万国共通です。 (寂) クリスマス篇<PART2> 12月に入ってからというもの連日連夜続く盛況な客足に、普通でも2回転、週末ともなると3回転4回転はざらで、ウェイターのお仕事はそれこそ一服する暇もなく立ちっぱなしの歩きっぱなしで、何とか終電で家にたどり着いた途端にバタンキューってな感じで、バイトとは言え仕事のためだけに人生があるような毎日でした。 12月は一人千円のクリスマス・セットというのが強制的に付くので、売り上げは一気に上がります。 セットというのは1本百円くらいのシャンパン(単なるサイダー)と、紙製の仮面マスクに紙笛(駄菓子屋で売っていそうな安物)が付いてるだけなんですが、さすがキャバレーでのし上った会社ですから、使えるノウハウはしっかり踏襲するわけです。 近所の同系列のキャバレーから同じセットをぶら下げて、赤ら顔でふらふら出てくる親爺を見るたびに水商売の奥の深さにつくづく感心したものでした。 それとは逆に、文句も言えずこんなもの千円で買わされた挙句、人ごみの中で安い酒飲んで大騒ぎでもした日には、従業員に袋叩きにされて店から放り出されるという悲惨な目に遭う人々を見て、委員長は、一体この熱狂はどこから来るものなのか、はたまた、世の中の常識というのは一体何を基準にしているのか、そんな疑問を抱いたものでした。 やはり12月といえば忘年会シーズンですし、大学生あたりは早くも冬休みに入りますから、お客の多くがグループ・団体になります。 早い時間から来るお客のほとんどはダンスが目当てですから、さほど問題はないのですが、9時、10時を過ぎてやってくる客、特に団体は、ここにたどり着くまでに相当呑んでますから、既に出来上がった状態で入店してくるので些細な事でも大騒ぎになります。 委員長の体験から学んだセオリーですが、6人を超えるグループには必ず問題を起こすトラブルメーカーが紛れ込みます。 5人だと多数決で必ずどちらかの意見が有効になりますので、たとえトラブルメーカーがいても小難でやり過ごせます。 ところが6人となると、仮に3対3で意見が割れるとトラブルメーカーの主張がどっちにしろ大難を招きます。 更に6人以上の団体の場合、かなり高い確率で問題児・トラブルメーカーが紛れ込んできます。 これはいかなる団体にも当てはまる法則とも言えるでしょう。 そしてディスコでよくあったのが、ダンスフロアで足を踏んだ、踏まないのケンカですね。 これは完璧に一定のパターンで起こります。 必ず被害者はそこの常連か、あるいは遊び慣れてる人です。 そして加害者はかなり泥酔して大だこ踊りをやらかすタコです。 すでにこのタコがダンスフロアに登場した時点で、すぐに周りの常連とか遊び人の目に留まり、暗黙のうちにフロアの悪役となります。 さて、誰が殺るか?という暗黙のコミュニケーションが行われます。 ターゲットの分析はその外見から始まります。 学生風あるいは社会人、年齢、地位、身長、体重、酔い加減等の調査が済むと、バカの代表者が名乗りを上げるようにして足を踏まれるか、タコの手に絡まれに行きます。 そこでまずガンが飛び、ちょっとした態度「やっちゃうぞテメー」といった感じで威嚇して警告を促します。 ここで仲間が気づき、タコを抑え込みにかかれば難を逃れられるか、あるいはトイレとかで「怪我しないうちに帰った方がイイぞ」とか凄まれる程度の小難で収まりますが、仲間が結構イケイケだったりとか、ヤバイと感じないノーテンキなシヤワセグループだったりした場合はいよいよ場外乱闘となります。 ここで被害者と加害者が見事に逆転します。 ダンスフロアで迷惑踊りを繰り返す加害者タコは、「インネンこかれて」チョーパンとか膝蹴りの被害者となります。 被害者だったバカの代表は、踊り場の皆さんのためと言う大義名分によって制裁を加えた時点で加害者となります。 通常は被害者タコが、鼻血ブーとかその場でうずくまることで事態は一気に収束しますが、時に外見と相反して根性のあるヤツとか、泥酔していて痛みを感じないヤツだったりした場合は、逆上して大暴れします。 更にここで被害者と加害者が再度逆転します。 加害者バカは、大声出して暴れる被害者タコを、踊り場の皆様のためにと、強い正義感から天誅を加えます。 乱闘に気づいた店の従業員が直ちに止めに入ります。 加害者バカは手馴れたもので、「この人酔っ払ってて手がつけらんないんすよ」と見事被害者に転じます。 「なぁんだとぉー、お前が先に手ぇを出したんだろぉーう」と、ややロレツが回らない態度の被害者タコは手を振り上げて抗議抵抗、しっかりと加害者になりきってしまいます。 そんな踊り場の騒ぎに、黒服以下店員の有志が待ってましたとばかりにやってきてタコを取り押さえ、フロアから引きずり出します。 「おれぇはきゃくだぞぉー」とか更に暴れるタコは、あちこちから出てくる手や足でボコボコにされながら裏の非常口に消えていきます。 委員長たち毎日コキ使われているウェイター君たちは、ここぞとばかりストレス発散、「やめろ、やめろ」のかけ声の下、羽交い絞めにしたタコをこらしめます。 タコは思わず叫びます。 「お前らがやめろ!」 そして、委員長たちストレス一杯のウェイター君たちにとって最高のシュチュエーションは、タコ対タコ、更にタコグループ対タコグループの乱闘が何よりのお好みです。 タコは理屈が通りませんから、とにかく蹴って殴って黙らせるのが一番。 しかも双方ともボコボコにして店から追い出しても、悪いのは当事者同志、お店は迷惑していますってことで、たとえお客が怪我したところでお互いのケンカで怪我したんだから仕方ありません、といった具合にどう転んでも加害者にはなりません。 やれやれ、今日も一日お疲れさん、店の外に出た委員長の目に、ごみクズと化した千円のクリスマスセットが寒空の新宿の道端のあちらこちらに虚ろに転がっておりました。 高いお金を払って、蹴って殴られ叩き出されたお客様は、果たして神様なのでしょうか? クリスマス篇PART<1> ということで、新宿ビバヤングは12月に入ると、クリスマス~師走~新年に向けて、色々な模様替えが行われました。 まず、新しいバンド・サウンドウェーブスがフィリッピンからやって来ました。 これで毎日2バンドが出演し、その合間にDJが入るという豪華絢爛、大型パブディスコの面目躍如と言ったところでしょうか、南口あたりのディスコシーンの話題を独占したようなものでした。 従来のバンド・リップヴァンウィンクルは、まあ並みのバンドというか、ギター、ベース、キーボード、ドラムスにサックスとヴォーカルが入ったコンボだったのですが、サウンドウェーブスは当時では非常に珍しい、トランペット2、サックス1の管セクションが入った大型バンドでした。 ユニフォームもビシッと揃え、かなりショーアップしたバンドだったので、対バン(対抗バンド)はやたらと影が薄くなっていってしまいました。 委員長のお気に入り、ゲバラ・シスターズはこの二つのバンドとうまくセッションして、かぶったレパートリーをうまく使い分けながらステージに花を添えておりました。 しかし、このSOUND WAVESのコピー技術は本当に素晴らしかったです。 委員長も当時はBANDに憧れ、ちょっとはギターなどもかじっておりましたが、それでもシンプルなロックバンドのコピーでさえ、中々うまいと思えたバンドにお目にかかったことはありませんでした。 ざっと思い出しても、KC&ザ・サンシャインバンドのファンキーホーン、オハイオプレイヤーズのファイヤー、ハービーマンのハイジャック、BTエキスプレスのドゥイット、テンプテーションズのハッピーピープル等、DJのレコードからそのまま演奏を引き継ぐなんてこともやって、客席で聞いているとDJからバンドにいつ切り替わったのかわからないほど見事なテクでした。 となると不思議なもので、それまで結構イカしてると思っていたリップヴァンウィンクルが、何だか汚いフーテン上がりのバンドのように見えてきて、お客のウケも次第に歴然としてきます。 バンドのバロメーターは、ダンスフロアにどれだけのお客を動員できるかってことですから、結果はありありと見えてきてしまいます。 ちょっと可愛そうだったですね。 DJの方はというとN観光専属のマチャアキこと立石君と、週末だけ立川ベースからやってくる黒人のウィリーが受け持っておりました。 ブラザー・ウィリーとはあまり親しくなかった委員長ですが、彼と初めて挨拶を交わしたのは、なんとビバヤングのトイレの中でした。 委員長が用足ししているところに後からやってきたウィリー、委員長の頭を見て仲良しと判断したのでしょう、となりに来てジャンプスーツのジッパーを下ろしました。 当時の委員長、英語なんぞは中学以来喋ったこともなければ、外国人と二人っきりになった経験もありませんでした。 しかもトイレという限られた空間の中のことですから、必要以上に緊張は高まります。 ウィリーは気軽にハーイってな感じで話しかけてきて、勝手にベラベラと話し続けます。 一体何を喋っているのかチンプンカンプン、ただただ愛想笑いをして、早く用足しが終わることを祈るばかりでした。 しかしこの時委員長は、重大なる教訓を得たのです。 「人間が一番無防備なときは用足しをしているときだ」 そうです、もし用足し中に襲われるようなことになったら、用は止まらん、一物掴んだ手は離せん、ズボンは汚す、こんな状態では応戦不可能です。 だから危なそうなトイレに入るときは「大」用を使うか、一人では入らないというのが不良の心得第一条なのです。 (ほんとかよ) 確か、TVドラマ「太陽にほえろ」で萩原健一演じるマカロニ刑事が、立ちションしてるとこを暴漢に襲われて死ぬってシーンがありましたが、どんなに腕に自身のあるヤツでも、用足しの最中に襲われたら無抵抗でアウトですね。 それでもウィリーのジャンプスーツが気になっていた委員長は、そっと視線を彼のジッパーに向けると、彼のスーツの中央、胸の辺りから下半身にむけて一直線に伸びたジッパーは、ダーっと一気にご開帳、胸の辺りからは縮れた胸毛なども見え、へその下の更に黒い茂みまで肌けて、なんとそこにはSHAFT黒いジャガー(アイザックへイズですね)が顔を覗かせていたのでした。 ジャンプスーツでの用足しは、かなり情けないカッコになるのだということも学んだ委員長でありました。 DJのマチャアキは博多出身の九州男児、プロのJAZZドラマーを目指して上京、N観光のDJ見習いに応募、数ヶ月のDJ研修を受けてビバヤングに配属となりました。 この時の同期生に、後のディスコ業界で一旗上げた新宿のジュリーこと鈴木昇二氏がいて、彼は姉妹店の歌舞伎町Q&Bに配属されました。 もうひとつの姉妹店、西口ブイワンは誰が行ったのか知りませんが、後年委員長も各店をめぐることとなり、更にマチャアキ、ジュリーとも深く関わっていくことになるのですが、今考えると、このビバヤングとの因縁は運命的なものさえ感じてしまいます。 (でもないか?) さて、イベント的にはこんな模様替えがありましたが、ホールの方もかなり忙しくなってきて、入れ替わり立ち代り色々なヤツが出たり入ったりの毎日でした。 まさに水商売そのもの、水が流れるように人もどんどんと流れていきます。 開店時に新人社員です、と紹介されて、翌日にはもういなくなってるなんてことがザラにありました。 ただメシ喰いにきただけですね。 中でもこいつはスゲーって思ったのは、昼頃来て今日から働かせて下さい、ってメシ喰って、マネージャーにクリーニングの引き取り頼まれて千円だかそこらもらってそのまま帰って来なかったっていうヤツ、これは良い仕事しましたね。 半日給1000円メシ付き。 まあ3日持てば良いほうで、大抵が1日か2日で消えていきました。 それだけシゴトが大変だったってことでもありますが、どちらかと言えばバイトの方がしっかりしてて、正社員として入社してくるのは流れ者みたいなヤツが多かったですね。 今思い出しても、あの忙しさは尋常じゃなかったですね。 人ごみの中でボトルやグラス運んで、テーブル片付けて、また案内して、片付けて、って休む間もなく終電時間まで延々と続くわけですから。 ほんと人ゴミですよ。 人のゴミの中で泳いでるボーフラみたいな感じ。 あるときなどは製氷機の製氷が間に合わなくなって、近所のキャバレーに氷もらいに行かされたりしました。 寒空の新宿の繁華街をデカいバケツに山ほどの氷を入れて、ヨイショ、ヨイショと運ぶアフロのにーちゃんを想像して下さい。 しかも赤いちゃんちゃんこみたいなベスト着て、かかとの高い靴はいて、まるで漫才師ですよ。 おぼんこぼんじゃないんだから。 ホンモノのSOULマン目指して飛び込んだ業界ですが、期待していた世界とはかなりかけ離れた目の前の現実に、世の中の厳しさをあらためて知った委員長でありました。 しかしそこはそれ、なんと言っても気合の入った道楽者ですから、なんでもかんでも楽しんでしまおうという旺盛な好奇心と、全て自分の都合が良いように解釈できる得意技を駆使して、冥府魔道の道楽道を歩んだのでありました。 このあともバカな話はまだまだ続きますよ。 順応性が早く適応性が高いことが道楽者の特徴と言いましたが、早い話がそれだけかぶれ易いってコトと要領が良いってコトに尽きるわけです。 さて、委員長のバイト生活も半月も過ぎる頃には、すっかり環境調査も済ませ、憧れのアフロのおねーちゃんが歌ってるバンドとも話をするようになりました。 バンド名はリップヴァンウィンクル、ヴォーカルはゲバラ・シスターズ。 姉妹のシンガーデュオで、委員長がのぼせていたのは妹の方でリンダ・ゲバラ、姉さんの方が美人でルックスは良かったのですが、あまり興味がなかったせいでしょうか、名前の方はすっかり忘れてしまって未だに思い出せません。 二人はフィリッピンのミンダナオ島出身で、バンドのメンバーはマニラから来たと言っておりました。 姉さんの方は落ち着いた雰囲気で、いつもインドのサリーのような衣装を着込んで、額の眉と眉の間の中央には丸飾りを付けていました。 当時は、フィリッピンはもちろんのことアジアの文化なぞ知る由もない委員長でしたが、今にして思えば彼女たちはイスラム教だったのでしょう。 特に姉さんの方はいつも民族衣装ぽいファッションでしたし、ちょっと高慢な、とっつきにくい感じが漂っていました。 ビバヤングのダンスフロアーは、バンドステージを正面にして長方形の100人は踊れるほどの広いスペースでした。 その後方に更に大きな長方形の客席があり、その奥に照明室、バンド控え室、更に非常階段の横に狭い従業員更衣室(ロッカー)がありました。 ここでちょっと斬新だったのが、客席中央に円筒形のヴォーカルステージがあったことです。 今風に言うとお立ち台のような感じで、宴もたけなわ、盛り上がってきたところで、ゲバラ・シスターズのリンダがこのステージに上がり、メインステージとオープンステージで掛け合いディオを披露します。 委員長はトレンチを持ってホールを駆け回る度に、このお立ち台の上のリンダを意識するように愛想を振りまきながら一生懸命アピールしたのでした。 もちろん彼女にしてみれば、アフロした変な日本人のウェイターがやたらとモーションかけてきている、ってな程度のことだったのでしょうが、何せ委員長は夢見る道楽者ですから、彼女がお立ち台に上がる度に、わざわざ遠回りをして手を振ったり、愛想笑いしたり、何とか気を引くためにそれはそれは努力を重ねたわけです。 さすがのバカ友、酒屋の息子も呆れて「おめぇホントにバカじゃねーの」ってなもんで、舞い上がった道楽者ほど困ったヤツはおりません。 とは言うものの12月に入るとお店は次第に忙しさも増し、具にも付かない道楽を楽しむ暇もなく、とにかく働きずくめのコキ使われっぱなしになっていきました。 道楽者とは言え、もともと根がまじめな委員長ですから、仕事は仕事としてきっちりこなしていくうちに、正社員の黒服の方々からも次第に可愛がられるようにもなっていきました。 黒服と一口に言っても一応の階級があり、この会社は元々キャバレーから成長してきた会社だったので、その構成もキャバレーの匂いが漂うものでした。 まず、店長をトップに支配人(マネージャー)、その下に主任、次いで幹部候補生と称する黒服、ボーイ長、ウェイター、そしてパートという具合です。 基本的にはウェイターっていうのはバイト社員が主で、正社員として入社するとすぐに幹部候補生扱いになります。 店ではこの幹部候補生のことを略して幹候(カンコウ)と呼びます。 ちなみにこの会社の正式名称はN観光株式会社と言い、キャバレー・クインビーで経営拡大していった会社でした。 当時のキャバレーは水商売の代表選手で、キャバレー太郎の異名を取った福富太郎氏のハリウッドチェーン、採算独立性のハワイチェーン、乙姫キャバレー龍宮城チェーン、キャバレー浦島、世界的にも有名だったグランドキャバレー赤坂ミカドなど、夜の社交場の代名詞でありました。 後年これらキャバレーチェーンが、パブやコンパへと業務をシフトしていく流れの中でブームに便乗し、更に大型ディスコへと転身していきました。 ちなみにディスコの企画を総合的なプロデュースとして手がけ、後のディスコ業界の手本となった青山のウィスキー・ア・ゴーゴーは企業経営の面から見てもパイオニアと言えるのではないかと思います。 さて、委員長は、皆が名前の後に幹部候補生の略で幹候(カンコウ)をつけて呼ぶのを、てっきり観光会社だからだと思い込んでおりました。 大池カンコウ、椿カンコウ、藤井カンコウ、いくら観光会社だからといって、何も全員の名前に観光を付けて呼ぶこともないだろうに、と訝しく思っておりました。 また、実はこの会社がキャバレーチェーンだと知って、ひょっとしたらバス会社とかも持っている大きな観光会社だとも思ったりしましたが、いわゆる水商売企業の多くが、観光会社と名乗っていることを知ったのは随分後のことでした。 幹部候補生として見習い期間が終わると、次に本社の研修を受け、これを無事終了すると晴れて幹部社員として、主任あるいは支配人の辞令を貰い、各チェーン、支店へ再度配属されていきます。 このシステムは水商売とはいうものの一般企業となんら変わりの無い、非常に合理的に人材を育成していく理にかなったものでありました。 ただ、人材育成システムはいくら完璧でも、素材である人材の方ばかりはそう簡単に見出せるものではありません。 幹部候補生とは言うものの、それはそれは素晴らしい人材が次々と現われは消え、現われは消え、名前を思い出すのも至難の業といえるほど、委員長の道楽人生で一番の宝とも言える、興奮の出会いの数々でありました。 12月に入るとさすがに毎日が忙しくなり、社員増強ということで委員長以下4名のバイトに栃木出身のガキ親爺風田舎ヤンキーと、キャバレーの呼び込みから転向してきた手もみにーちゃんが加わり、ホールは6人のバイトウェイターが揃い、これに沖縄出身の広島弁のウチマ主任、おサルのボーイ長が現場監督となりました。 委員長は黒服連中に結構可愛がられたせいか、よくチラシ撒きに指名がかかりました。 チラシ撒きというのは店のビラ撒きのことですね。 これは正式に言うと管轄の警察に届出が必要で、勝手にビラなどを撒くと道路交通法違反で逮捕されてしまいます。 ですからチラシ撒きというのは、無許可のいわゆるモグリのビラ撒きです。 南口から紀伊国屋あたりを抜けて、歌舞伎町の入り口辺りまで、警察の目を盗んでせっせとビラを配って回ります。 この頃はまだこの手の営業もさほど過激ではなく、ただビラを配って歩くだけのことでした。 現在のように携帯電話など無い時代ですから、一歩外へ出たらビラを配ろうが配るまいが、最低でも1時間は自由時間になります。 幹候だけでは時給の無駄遣い、コスト高になるのでバイトやウェイターを連れて出るわけです。 20分くらいは適当に撒きますが、後は皆で喫茶店などへ行き与太話をしながら一服して帰ります。 キャバレーチェーンも数多く持つ会社ですから、どこで誰が見ているかわかりません。 そこで、このチラシ撒きに動員されるメンバーは、口が堅く、状況に合わせた上司の嘘を決して裏切らないという暗黙の掟がありました。 口の堅さはもちろんのこと、ズボンの中もまだ十分に硬かった委員長でありました。 そして10代最後の思い出というには、あまりにも過激かつ興奮の中でのクリスマスを迎えることになる委員長でした。 というわけで、委員長はついに新宿南口パブディスコ・ビバヤングでアルバイトを始めました。 もちろん高校時代からのバカ友、三鷹台駅前の酒屋の次男坊も一緒です。 お店は、新宿駅南口を出て甲州街道方面に向かって徒歩5~6分のところにありました。 現在はビジネスホテルか何かになっているようです。 当時の人気ディスコ「GET」の隣にあった、光会館というビルの4階で、そうですね、広さはかなり大きかったですが、トゥゲザーとかには敵わなかったですね。 トゥゲザーが1500人収容と言ってましたから、ビバヤングで500~600人くらいのキャパだったのですかねぇ。 ビルの1階はパチンコ屋、2階が大型喫茶「穂高」、3階が同店の同伴席、5階は事務所だったかな。 しかし、この同伴喫茶ってのが当時は随分とアチコチにありました。 二人がけのボックスシートをパテで仕切ってある、ちょっと薄暗い喫茶でしたね。 コーヒーが1杯百円の時代に、ここで呑むと五百円になってしまいます。 安物のロールケーキかなんかが付いてきました。 なんだか、いかにもって感じですが、当時はこんなトコで怪しいことしてたんですね。 レンタ・ルームなんてのもありましたね。 3畳くらいの部屋を時間貸ししてくれるんですね。 カウチとテーブル、ティッシュボックスなんか置いてあって、何するんでしょうか? もちろん委員長も、トンコ修行に明け暮れた高校時代は時々お世話になりました。 それでも今時の子供たちに比べたら可愛いもんですね。 せいぜいボックスに並んで座って、イチャイチャしながらチューするくらいのことですから。 それでも二人で千円は結構なプライスでした。 まあたいがいは新宿西口中央公園あたりがデートスポットでしたから、たまに麻雀で小金を稼いだときとかは奮発して同伴に行きました。 「御苑」とか「西武」とかいう店名が記憶に残っています。 一度、彼女と踊りの帰り、盛り上がってしまいレンタルームに入ったことがありましたが、閉店時間の午前1時を過ぎてしまい、終電にも乗遅れて深夜の歌舞伎町に放り出されてしまい、根性決めて「旅館」(ホテルじゃありませんよ旅館です)に突入したのは良いのですが、案内してくれた婆さんに前金で四千五百円を請求され、ひえーっとばかりに追い出された苦い想い出もあります。 仕方なく近所の深夜喫茶で始発待ちしたことも、逆に純愛風のほのぼのとした良い想い出となりました。 (じゅうぶん不純だろ) えー、何の話か、よーわからなくなりましたが、ともかく憧れのアフロねーちゃんと一緒にシゴトができるってことで、委員長は新しい道楽にワクワクしながら新宿での生活をスタートしたわけです。 ここの面接は、事務所でちゃんと店長がしてくれました。 長身で結構男前の店長はハキハキとしたしゃべり方で、履歴書と顔を見比べながら質問をしてきました。 「えーと、君は日大の1年生」 酒屋の息子は、いわゆるコンチってな感じのスリーピースのスーツなぞ着ておりまして、まあ無難な大学生のフリをしておりました。 「で、君はデザイナー学院、専門学校生だね」 委員長はこの時すでに学籍は剥奪されていましたので、偽学生ってことになりますか。 店長はまず委員長の頭に眼をやり、次いで服装のチェックです。 委員長も一応は面接ということで、ニットフレアーにダブルのブレザーなど着込み、それなりに真面目そうな学生のフリをしておりました。 (どこがやねん) 「ふーん、デザインの勉強しているの?」 真面目な顔で質問する店長の目が笑っているのを、見逃さなかった委員長でした。 「はい、一応服飾デザインをやってます」 胸を張って応える委員長。 「うーん、そのモミアゲはまあ良いけど、ウチは客商売だから、その髭は剃らなきゃダメだよ」 そうです、この頃の委員長はアフロを渋く見せるため、モミアゲと口ひげを伸ばしていたのです。 「はいわかりました」 ということでパートタイムは午後6時から終電ギリギリの12時まで、食事は一切なし。 時給は350円くらいだったかなぁ。 休みなしで働いて月7万円くらいだったと思います。 実はこの面接の前に一度、東口二幸のマクドナルドに二人して面接に行ったことがありました。 新しモノ好きの道楽者ですから、時給も良いし、なんかアメリカっぽいし(当時のイメージとしてはかなりカッチョ良かったですね)、ハンバーガーという言葉の響きに釣られて、自分たちの身分もわきまえずノコノコ出かけて行きました。 精悍な顔つきのユニフォームを着た店長は、バカ二人の顔を見るなり、深夜のメンテナンスはどうだといきなり切り出してきました。 時給は500円、夜中の12時から朝の6時まで。 おおーっ、と声を上げた二人ですが、次の言葉にさっと頭を下げて退出しました。 「ただし、ウチは食べ物商売だから、まず頭はスポーツ刈り、髭はダメ、清掃着は毎日洗濯、店長の掃除点検で合格が出なければやり直し、こんな条件だけどどうする」 要は、黙って帰って欲しかったってことなんですけど、しかし世間知らずというか向う見ずと言うか、いい根性をしていたバカ二人でした。 さて、ビバヤングのバイトは順調にスタートし、黒ズボンに白ワイシャツ、蝶ネクタイに赤いベストを着せられた委員長は、まずウェイターのお仕事を覚えさせられました。 トレンチ(ステンレス製お盆のことですね)を小脇に抱え、左手にダスター(テーブル拭き)を持って、ホールを見回り、空いたアイスペールや灰皿の交換、黒服が案内したテーブルに飲み物やおつまみを運ぶ、単純な作業です。 ホールを担当するのは数人の本職ウェイターとボーイ長、そして委員長たちバイトのウィターです。 黒服は入り口でお客様を案内して、ホールの客席に誘導してオーダーします。 受けたオーダーは、キッチンとドリンクカウンターのあるデッキに持っていってオーダーを通します。 「ボトルセット4、ポテト2、ピーナッツ2お願いします」 てなことで、ボトルセットというのは、当時のパブはほとんどがこのパターンで、来店時にウィスキーのボトルをキープさせます。 サントリー・ホワイトが千円、角瓶が千八百円、オールドが二千二百円、全て一般小売価格でした。 これに水割りセットとして氷が入ったアイスペールとサントリーのミネラルウォータが付きます。 伝票には、テーブルチャージ(TC)が一人300円、ミネラルウォーターが1本100円、おつまみは300円より各種、強制的に一人一品取らされます。 アイスはTCに含まれていますから、水割りのセット4というと、TCが4人で1200円、ミネラルが4本で400円、おつまみが最低1200円、これに一番安いサントリーホワイト千円で合計3800円、これに税サービス料10%がついて4180円ナリ。 一人頭で割ると1045円。 安いですねえ。 さてアルバイトと言っても、それはそれなりに一応はサパーのサーバント・マナーくらいは知らなくてはいけません。 早速、ボーイ長から教えを受けます。 ミネラルウォーターは瓶だけで中味は水道水。 プラスティックのケースに入った瓶の上からホースでじゃぶじゃぶ注ぎます。 ボーイ長は、瓶の中の水の位置を揃えるように指導します。 いかにも今蓋を開けたように見せるわけですね。 水の位置にばらつきがあると、水を入れ換えて使っているのがばれてしまいます。 良心的なお店は水といえども、ちゃんとお客の前で栓を抜きますね。 ただ、この店のテクは、ボトルだけはお客に封を切らせました。 これですべてが良心的だと思い込ませる演出ですね。 ボトルは一般小売価格そのままですから、なおのこと良心的だなぁ、と思い込みます。 もちろんこれはサントリーの営業戦略にバッチリ乗ってますから、原価割れは絶対してませんね。 そりゃまあ、千円のボトルをそのまま定価で売っているのですから、100円のミネラルウォーターを細かくいう人はいませんよね。 しかし、水道水1本100円で売りゃ儲かりますね。 それでもこの後、色々な店を転々とした委員長は、ビバヤングはまだまだ良心的なお店だったなあ、と感心したくらいですから、そりゃ当時はスゲーお店がいっぱいありました。 ボーイ長弱冠20歳、北海道出身、北島三郎先生的風貌の小柄のあんちゃんでした。 お正月にお目にかかるおサルの二郎君に瓜二つ、赤いベストがよーく似合う先輩でした。 その上に沖縄出身のウチマ主任という方が、委員長たちバイト社員の直属の上司となりました。 更にバイトの先輩二人が細かな指導をしてくれました。 二人とも現役大学生、歳は委員長たちより二つくらい上だったと記憶しています。 どこの職場も同じですが、新入りは気合を入れてよくコキ使われます。 ボーイ長はおサルだったので言葉使いは少々乱暴でしたが、別段さからいさえしなければ、それなりのどこにでもいる働き者の先輩といったところでした。 問題はバイトの先輩でした。 根本的に要領よく、楽して時間を稼ごうってな魂胆がありますから、新人には教えるフリして何でもやらせます。 最初のうちは先輩ですから、そんなものかと言うことも聞いていましたが、自給も待遇も一緒のこいつらになんで指図されなきゃなんねぇーんだ、と不良のあんちゃんの血が蘇ってきます。 道楽者は順応性が早いことと、適応能力が優れていることが特徴のひとつです。 出金時間の午後6時、委員長と酒屋の息子が待ち構える、正社員がホールに出た後の誰もいない裏の狭いロッカールーム、そこへやってきた先輩二人。 暴力こそはふるいませんでしたが、東映映画「仁義なき戦い」でしっかり覚えた広島弁が炸裂し、ただ者ではない証拠をしっかりと見せ付けたのでした。 すっかり恐縮した先輩方はおずおずとホールに出て行きました。 と、そこへ小柄でひ弱そうな沖縄出身のウチマ主任がやってきたのです。 「わしのライター見よらんかった? ここらで落としたと思うんじゃけぇ。 ありゃ高かったんよ。 ワシゃのう、普段はここでタバコ吸わんもんで、置くわけないと思うんじゃが」 沖縄出身は間違いないらしいのですが、なぜこの人が広島弁を使うのか知る者は誰一人おりませんでした。 しかし、広島言葉も使う人によっては、迫力のない単なる方言に成り下がるということを知った委員長でもありました。
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さて、昔話の時代も1974年から75年に入ってきましたので、ちょっとこの当時の出来事を簡単におさらいしておきましょう。 あはは。 結構誠実な道楽者ですから(そうかなぁ)それなりに資料を漁って見ました。 まず1974年の話題はなんと言ってもこの人、ユリゲラーですね。 スプーン曲げ、流行りましたねぇ。 ちなみに委員長の奥さんもできます。 だから何だってコトなんですけど、貧乏一家のスプーンをやたら曲げちゃって困ったもんです。 どうせなら、曲がったスプーンとか折れたスプーンを元に戻すって能力だったらもっともっと世間に認められたことでしょう。 このパワーがいつか世の中のためになることを祈ります。 そして爆発的な大ヒットとなった「ベルサイユの薔薇」の登場です。 この作家が、後年ぷっつんしてしまうなんて誰も想像つきませんでしたね。 「好きなことしてメシを食う」はいずれ莫大な請求書がくるという教訓です。 やはり道楽で大金を手にするとロクなことはありませんから、くれぐれもご注意下さい。 (ほんとかよ) スポーツ界は話題豊富です。 モハメッド・アリがジョージ・フォアマンを破り、奇跡のチャンピオンにカムバック。 ジャイアント馬場がジャック・プリスコを破り日本人初のNWA王者に輝く。 凄いですね、馬場さん。 16文キック!今の子たちにはこのサイズ説明するのが難しいですねぇ。 椰子の実割り、カワヅ落とし、必殺技の数々。 興奮しました。 そして、なんと長島選手の引退がこの年でした。 往年の野球少年は皆涙を流しました。 さて、不良少年の話題はというと、そうですあの「傷だらけの天使」がTVに登場したことに尽きます。 あの衝撃的なタイトルシーン、生トマトにコンビーフかじって、ソーセージ食って牛乳飲む、あの無節操さが不良少年を虜にしました。 真似して腹下した馬鹿が何人いたでしょうか? ちなみに放送開始は74年10月5日土曜日で、翌75年3月29日まで半年間の放映だった。 音楽は井上堯之+大野克夫(元スパイダース・古っ!) 監督は、恩地日出夫、深作欣二、工藤栄一、児玉進、スゲー! キャストは、小暮修(萩原健一)、乾亨(水谷豊)、綾部貴子(岸田今日子)、辰巳五郎(岸田森)、海津警部(西村晃)、森川京子(ホーンユキ)その他ゲストも凄かった。 ホーンユキさん、平パン、デラパン、グラビアでは随分お世話になりました。 えっ?(^0^; しかし、このドラマのブームっていうか、流行っていうのは、本当に当時遊んでた馬鹿というか不良にしか分からない魅力でした。 お調子者で教養も無く、かといって喧嘩が特別強いわけでもないし、根性があるわけでもない。 落ちこぼれの代表選手みたいな二人が、人生楽して生きることに情熱を傾けてその日その日を精一杯生きる、そんな不良馬鹿の力強さみたいなものに同時代を生きた世代の共感を得たのでしょうね。 言ってみりゃ、これぞまさしく道楽者のヒーローです。 そして74年の締めくくりは日本レコード大賞、「襟裳岬」森進一でした。 明けて75年は、カルビーのポテトチップ発売、紅茶きのこのブーム。 「傷だらけの天使」で一躍若者の共感を得た萩原健一、打って変わって演技派役者の面目躍如「前略おふくろ様」放映スタート。 日活ロマンポルノ・SM女優「谷ナオミ」引退。 縄で縛って鞭で叩いて、こちらも随分お世話になりました。 実は彼、マー坊って言って六本木アフロレイキでボーイ長やってた奴なんだよね。 偶然にも委員長がジミーって奴と二人で新島行ったとき、偶然船で乗り合わせて、なんだかよくわからんノリで買わされちゃった。 お土産にって、彼女の分まできっちり二千円取られた。 こういうパブリックスペースで目立つカッコしてはいけません。 必ず行商のターゲットになってしまいます。 悔しいから、「俺らはエンバシーで働いてんだぞぉ~」とか思いっきりハッタリこいてやりましたが、島のディスコ「くろんぼ」でまたも再会。 ウェイターのバイトしながらプカシェル売り歩く、奴のそのフーテンの寅さん的生き方には頭が下がる思いでした。 (でもないか) いやー、でもこのプカシェル、確かに流行りましたよね。 アロハ風シャツに白のバギーパンツ、首には白いプカってのが当時の一般的スタイルだったですね。 ちなみに委員長は相変わらず原宿「ハラダ」のアロハにニットバギーでしたが、当時の不良仲間は、同じハラダのアロハでも上下ペアで買い込んでました。 今にして思えば「ジンベエ」だよね。 同時に、関東、関西で「ニュートラ」がちょっとした流行にもなりました。 アンアン、ノンノンの影響ですか。 そして極めつけは、キャロル解散、伝説の日比谷屋音コンサート、クールスが前でしゃがんでました。 キャロルの親衛隊クールスってことで、ストーンズの親衛隊ヘルスエンジェルス、みたいなー、って矢沢さん言っておりましたが、そうかなぁ~、ちょっと違うと思うんだけどなぁ~って思っていた委員長でした。 そしてこの年のレコ大は「シクラメンのかほり」布施明でした。 しかしこの年のディスコブームは本当に凄かったですね。 新島にもディスコあったし、式根島にも、さらに湘南海岸とか伊豆白浜あたり行っても、変な掘立小屋みたいなところで踊ってたなぁ~。 しかもぞうりで。 よく意味わかんなかったけど、それだけディスコのパワーが凄かったってことですね。 (本当に意味わかんねーぞ) さぁてと、委員長のビバヤング生活は更に盛り上がって、75年年明けと共に、旧バイト組と入れ替わるように続々と馬鹿たち(本当にどーしょーもないバカばかり)が入社してきました。 コトの発端は、委員長のバカ友・井の頭線三鷹台駅前で酒屋スーパーを営む家の次男坊君が、自分のバイトの後釜に中学の同級生だったケイゾーを紹介したことから始まりました。 そしてこのケイゾーと委員長の出会いは、道楽者人生に更なる興奮と衝撃の日々を与えてくれたのです。 続きはまた明日。。。。。。。。 横浜チャイナタウンの戦いは、仏のフジさんの期待を大きく裏切り、結局は深夜のチャン街をブラブラしただけで終わりました。 その後、アホ一行は元町のディスコ・アストロに行きましたが、ここらは閉店が皆早くて、商店街はすでに静かに眠っておりました。 仕方なく本牧の「リンディ」で踊って、再びチャン街の屋台のラーメンをすすって新宿に戻った道楽者たちでした。 委員長の新宿ビバヤングのバイトもかれこれ3ヶ月が過ぎようとする1月中ごろには、バカ友・酒屋の息子も第一次補欠入学の負い目を持つ身、そろそろ学校に真面目に行かざるをえなくなり、後ろ髪引かれながらも楽しいバイト生活に終止符を打ちました。 同様にバイト大学生古株二人も辞め、更に栃木のヤンキーにーちゃん、キャバレー上がりの揉み手あんちゃんなど、バイト組が続々と辞めていきました。 残されたバイトウェイターは委員長だけ。 更におさるのボーイ長までもが、無断欠勤をして店長の逆鱗に触れクビとなりました。 さあ、こうなると委員長の天下です。 相変わらず忙しい毎日でしたが、黒服連中や支配人などにも結構可愛がられて益々調子に乗る委員長は、バイトのくせしてすっかりホールを独り占めする存在にまでなりました。 好奇心の塊のような道楽者は店内の隅から隅まで知りつくし、19歳そこそこでディスコの顔役のようになった自分に酔いしれておりました。 ここで出会った数々の人の中でも取り分け面白かったのが、照明係のおっちゃんでした。 ブルー系のサングラス(当時はこんなスケベっぽいサングラスはあまりしている人が少なかった)にぼさぼさ髪、不精ひげにヨレヨレのジーンズ、年の頃は30代半ばといったところでしょうか。 ステージを正面にして店の最後部、細長い調光卓が置かれた縦長四畳くらいの照明室の主、それがこのおっちゃんでした。 劇団四季だかどこかに所属する照明のプロでしたが、委員長が徹夜麻雀明けの日などはここの入り口のドアの間に隠れて、よく居眠りをさせてくれました。 普段は無口でとっつきにくいおっちゃんですが、元々職人気質の人ですから、芸人には優しく、委員長のアフロを見て芸人志望の一人とでも思ってくれたのか、委員長にはとても優しくしてくれました。 そして、委員長がこの照明室に出入りした理由は、他にも理由がありました。 出番待ちの休憩時間に委員長のお気に入り、リンダがここに出入りするのです。 照明室の裏に同じくらいの奥行きで、照明室よりはやや広い楽屋があったのですが、男ばかりの部屋に居るのもイヤなのでしょう、優しいおっちゃんのところに来ては調光卓などを悪戯する彼女でした。 委員長より更に一回りくらい大きなアフロに、ピシッと体にフィットしたジーンズなどをまとった彼女は、そりゃなんともセクシーでした。 顔は委員長好みのモロ南方系、鼻はぺちゃんこ目はパッチリ、そうだなぁ、ドゥーリーシルバースプーンのバンプミーベイビーのシングルジャケットにあるアフロ娘みたいな感じでした。 (んなこと言っても、わかんねーだろうなぁ) また、声がハスキーで、片言の日本語が可愛かったですね。 姉さんの方はちょっと小金持ち風の日本人のオッサンに見初められて、その後結婚して辞めていってしまうのですが、とにかくこの二人の姉妹は非常にストイックで、営業終了後はバスに乗ってまっすぐ寮に帰り、浮いた噂のひとつもありませんでした。 委員長にしてみれば、とにかくアフロのねーちゃんが大好きだったってだけのことですが、姉さんの結婚とともに帰国してしまった彼女とは、この照明室で多少の会話をしたほんのつかの間の恋とも言えぬ淡い思い出だけでした。 ある日、徹マン開けのひしゃげたアフロで出勤した時、控え室の鏡の前に座っている長髪の痩せこけた貧乏臭いおねーちゃんに驚いた委員長は、その鏡の前のテーブルに置かれたアフロのかつらが、今委員長の目の前にいる貧乏臭いおねーちゃんのモノだと理解し、さらにそれが憧れのリンダ嬢であると悟ったのでした。 リンダ嬢は冷ややかな視線で委員長を見下すように一言、「パゲッ」と言い捨てたのでした。 そりゃ徹マン帰りでアフロはひしゃげてっかもしんないケド、ハゲはねーだろ、ハゲはー、とブーたれる委員長。 後に知ったことですが、この「パゲッ」っていうのはタガログ語で「ブス」とか「不細工」の意味で、確かに「ハゲ」ではなかったのですが、どちらにせよ、けなされたことには変わりなく、また、委員長憧れのアフロも地毛じゃなくて、更にそのかつらを取ったら単なるフィリッピーナだったことに気づいた委員長は、この日を境に淡い恋から目覚めたのでした。 (めでたし、めでたし) さて、照明係のおっちゃんですが、この人も結構麻雀が好きで、仕事帰りによく付き合いました。 おっちゃんは調子が出てくると必ず、「お~れぇは~、かわらの~、枯ぁれスス~キ~」などと唄い出します。 一体いくつなんだろ、この爺、などとも思いましたが、満員の店内でバンドのスポットをビシッと当てる時のおっちゃんは、さすが職人だなぁ、と感心させられることが多く、未だバンドマンの夢を捨てきれぬ道楽者委員長は、ステージアップの技術などを、ここで自然に学んでいたのでした。 あと、もーひとりおっちゃんの休みの日に代わりで来る、ちょっと毛色の変わったにーちゃんもおりました。 小柄なフォーク青年みたいな人で、結局、委員長とは一度か二度口を利いただけで消えていってしまいました。 生きてるのかなぁ~。 この人との会話第一声は、「君、僕と一緒にレバノンに行かない? 人民解放軍へ入って一緒に戦わないか」でした。 この一発はかなり強烈でした。 とにかく委員長の頭の中にあるどのカテゴリーにも入らない人物でした。 もちょっと人の頭見てからモノ言えよって感じでしたが、明るく好青年と言う感じで、厭味なところはありませんでした。 本当に2度ほどおっちゃんの変わりに来ただけでしたが、ちょっと不思議な人でした。 本当にレバノンに行ったのでしょうか? こんな変な奴らばかりの舞台裏でしたが、やっぱりお友達として面白かったのはバンドのメンバー達でした。 彼らは委員長のことを、アフロと呼び(タガログ訛りでは、アプロって発音します)、小僧のように使われたこともありましたが、彼らから学んだ音楽知識は、後の委員長の音楽活動に多大な影響を与えてくれました。 これはマジで本当です。 楽曲のコピーの仕方や、コーラス、ボイスコントロール、エンターティメントとしてのショーアップ、チームワーク等など、バンドにこだわらず芸人としてのプロ意識みたいなものを自然に学んでいた委員長でした。 その代わりといっちゃなんですが、よーく軟派のお手伝いもさせられました。 とにかくバンドマンは皆スケベーです。 と言いながらも、一緒につるんだ委員長も結構スケベーなヤツだったのでしょう。 しかし当時のバンドマンはモテましたね。 何はともあれモテました。 こんな不細工なヤツなのに、なんでモテるのかなぁ、などという素朴な疑問もありました。 19歳の委員長にはまだ女性を見る目も、遊び方も、そりゃまだまだ子供でしたから、彼らとつるむようになって、こんな世界もあるんだ、というような好奇心丸出しの世界でした。 まあ、言い寄ってくる女が、みぃ~んな良い女とは限りませんが、手当たり次第に手をつけてしまう節操のなさと言うか、腰の入ったスケベーというか、フィリッピン人特有の感性だとばかり思っていた委員長でしたが、後年、バンドマンのスケベー根性はボーダーレスなのだということを体感するのでありました。 アメリカ映画「燃えよドラゴン」の超大ヒットで、世界的なヒーローとなったブルースリーですが、残念ながらその栄光のBENEFITを受ける間もなく他界してしまいました。 (合掌) 74年はそんな彼が残した過去の作品(香港映画)が続々と公開され、空前絶後のカンフーブームと相成りました。 ディスコでもカンフーや空手を取り入れたダンスバージョンが現れ、踊りにもそんな影響がチラホラと出ておりました。 以前にご紹介した「吼えろ!ドラゴン・カンフーファイティング」なども、その典型的なパターンで、一時「カンフー」などという踊りも出たりしました。 何のこたぁない、ハッ、アチョーッとか言って空手の真似をするだけなんですが、これが結構面白くて、ジェームスブラウンのLAのライブ(委員長はVIDEOで見たのですが)では、JBでさえ、良く分からん構えで空手の真似なんぞもしてましたね。 竹中直人(漢字間違ってない?)氏が、デビュー当時よくこの「燃えよドラゴン」のワンシーンの物真似をしてましたが、あんな感じの人がディスコにはザクザクおりました。 サントラ盤なんかも時々かけるDJがいたりして、フロアでブルースリーの物真似合戦みたいなことになったこともありました。 さすがに委員中はSOUL小僧だったので、どちらかというとブルースリーよりは黒人武道家ジム・ケリーの方に関心がありました。 彼もB級映画では「ブラックドラゴン」の名で活躍しており、かなりの人気がありました。 つい最近では、「UNDERCOVER BROTHER」っていうかなりおバカな黒人B級映画にゲスト出演しています。 ちなみにこの映画、なんと、あのJBもゲストで出てますし、70年代のディスコヒットや、当時の黒人のファッションとか文化が散りばめてあって、道楽者の親爺にはお薦めの映画です。 ということで、当時委員長が働いていた新宿南口ビバヤングの従業員も、皆一様にかぶれまして、特におサルのボーイ長などは委員長が高校生の頃に買ったヌンチャクをプレゼントしてあげたら、異常に喜んで、仕事が終わると赤いちゃんちゃんこを脱いで毎晩振り回しておりました。 もちろんこのワイロのおかげで委員長の待遇がずば抜けてよくなったのは言うまでもありません。 それとは別に、このカンフーブームを冷ややかな目で見る一人の道楽親爺がおりました。 彼の名は、藤井幹候(カンコウは名前じゃなくて幹部候補生の略ですヨ)、別名仏のフジさん。 麻雀がやたら弱いくせにすぐに仲間に入りたがり、もらったばかりの給料を丸ごとむしりとられてもちっとも懲りずに遊びたがる、変なおじさんでした。 元々は車輌部で重役方の運転手をしているのですが、大した仕事もなくぶらぶらさせておくのはもったいないということで、夜の6時頃から11時までは店に勤務させられたのでした。 11時を過ぎると、系列のキャバレーやクラブへ接待のお客様の送迎をしたり、重役の送迎などに回ります。 特別、運転手の仕事がない日は閉店時間の深夜2時間まで店にいて、閉店後は皆で麻雀を打ったり、飲みに行ったりしていました。 鴨がネギ背負って歩いているような、すでに30歳近いボーっとしたおっさんでしたが、委員長たち若手には結構人気がありました。 彼のポジションも結構いい加減ではっきりした序列もないので、中途半端な存在がバイト組と似ていたこともあり、歳の差があるわりにはよーくつるんで遊びました。 運転手と言っても早いときは11時に送迎に行って、12時前に帰ってきてしまいます。 もちろん本来なら早く送迎が終われば、また店に戻らなければいけないのですが、そこはそれ、もしそんな真面目な人だったら、この歳までこんなとこでグダグダしてるわきゃないので、間違いなく道楽者の一人でもありました。 そして委員長たちは、このおっちゃんが送迎のあとの社用車を自由にできることを見逃しませんでした。 バイトのお仕事は12時で終わりです。 送迎が早ければ11時30分にはおっちゃんが戻ってきます。 遊び盛りの道楽者が集まれば悪事の相談も即決です。 DJのマチャアキとか酒屋の息子などが委員長と一緒になって、おっちゃんを遊びに誘います。 仏のフジさんは子供たちに慕われるとイヤとは言えません。 それに下手に逆らうと、フジさん一番の楽しみである麻雀の仲間に入れてもらえません。 ということで、麻雀でフジさんから巻き上げた金で懐が少し暖かくなると、今度はドライブをおねだりして深夜の六本木「ソウルエンバシー」などへ繰り出す委員長たちでした。 こんだけカモられてもグチのひとつもこぼさず、一緒に遊んでくれた仏のフジさんですが、 ついにその本性が露になる事件が起きました。 ある日のこと、いつものようにフロアで暴れるタコを皆でボコボコにして店から放りだしたところ、なんとこのタコが応援を連れてリベンジに現れたのです。 ボコボコにされてゴミくずのようになったあんちゃんが連れてきたのは、ボタンのない蛇腹の学生服を着たガタイの良い二人組でした。 支配人以下黒服数名が居並ぶ、ビバヤングのフロントに現れた二人組は静かに、そして迫力のある言葉で言ったのです。 「どういう理由でコイツがこんなめに遭わされたのか説明してもらおうか」 結構な迫力に少しは引きかけた支配人のネズミの梅ちゃんは、その強面の顔とは裏腹に意外と小心者だったので、すぐに黒服たちに問いかけました。 「誰か知ってるか?」 そこで結構イケイケな黒服、白川カンコウ、大池カンコウが名乗りをあげます。 「踊り場で暴れたから帰ってもらっただけだけど、こっちも商売だから他のお客さんに迷惑がかかると困るからね」 騒動を聞きつけて、その他の黒服やウェイター君たちがどっとやってきます。 学ラン二人組はひるまず言い返します。 「だからってこんなに殴ったり蹴ったりしていいのか」 「こっちも従業員が抑えるのに怪我してんだよ」 大池カンコウがフロント前エレベーターの横の非常口を開けて言います。 「ここじゃ他のお客さんの迷惑になるから、こっちで話そう」 これは話じゃ埒があかないから殴り合って決着をつけようという無言の合図です。 大池カンコウ、白川カンコウの二人が先導して非常口に出ます。 ボコボコ野郎はエレベータ前に置き去りです。 4人が出て非常口のドアが閉まりかける寸前、仏のフジさんがパッと滑り込みました。 ガーンと音を響かせてドアが閉じた瞬間、ドタンバタン、ゴツゴツ、ンナローッ!ウッ!バタッ。 静かにドアが開いて目に青あざの大池カンコウ、蝶ネクタイがちぎれた白川カンコウ、そして鼻血と口から血を滲ませた学ラン二人組が出てきます。 その後ろから仏のフジさんが出てきて、エレベータの下階ボタンを押します。 フジさんは委員長を見つけて「下まで送ってやって」と声をかけます。 委員長はおずおずと開いたエレベータにボコボコ野郎を乗せて、1階のボタンを押します。 学ラン二人組とフジさんが乗り込みます。 従業員全員の熱い視線の中、エレベータのドアは閉じました。 密室の中、出入口のボタンを押す委員長、その後ろに学ラン二人組とボコボコ野郎、そしてその後ろにフジさん。 この時ほど1階までの到着時間が長かったと感じたことはありませんでした。 無言のまま到着したエレベータから降りる学ラン二人組。 目頭と口に血を滲ませた学ランがフジさんに一瞥くれて、 「あんたも若いねぇ」 そう言い残して3人は紀伊国屋方面へと立ち去りました。 前で手を組んだ姿勢のフジさんの手の甲は、皮がすりむけて血が滲んでいました。 その時のフジさんの顔はいつもの仏顔でなく、蒼白のホラー顔になっておりました。 「奴らさぁ、パッと見たときにさ、拳ダコがあったからさ、こりゃまずいと思ったのさ。 いくら大池でもさ、やばいかなと思ってね」 この痩せ型の単なるボーっとしたオッサン、藤井カンコウが剛柔流二段の凄腕であることを、この時初めて知った委員長でした。 つまり、運転手の仕事もその腕を見込まれてのことだったわけですが、みかけは単なる淋しいオッサンのクセにこんなかくし芸があったことは皆知らなかったのです。 さて、話は戻りますが、委員長他道楽者一派はこうしてよくフジさんをそそのかしては、夜遊びを繰り返していたのです。 しかも遊ぶ金はその本人から麻雀で巻き上げた上に、会社の車を持ち出させたあげく運転手までさせて、やりたい放題の道楽三昧。 ところが、度重なる夜遊びに、ちょっと疲れたフジさんからクレームがあがりました。 「ディスコもいいんだけどさ、俺踊れないし、酒も飲まないから。。。。 俺はどっちかというと麻雀の方が良いんだけどな」 さあ困った委員長はすぐに見え透いた企画をぶち上げます。 「フジさん、横浜行ったことある? 中華街。 あそこはさ、やっぱカンフーの本場だからさ、スゲーのがいっぱいいるらしいよ」 「カンフーていうとやっぱり少林寺拳法かな?」 異常にノリ安い人でした。 「さあ、太極拳とか、色々あんじゃないの?」 更に膨らます委員長。 「そんな奴らがウロウロしてるの?」 フジさんだいぶと本気です。 「さあ、俺も見たわけじゃないけど、結構腕自慢がゴロゴロしてんじゃないの」 ここまでくればサクセス! 「行ってみようか?場所分かる?」 しめしめ、今夜は横浜まで遠出だぜい。 12時、待ち合わせの甲州街道でフジさんと落ち合った委員長たちは唖然とします。 なんとチャイナ服を着込んだフジさん、しかも丸型のサングラスをかけてニヤニヤしています。 更に車のトランクを開けて、自慢げに委員長たちに見せたものは、ヌンチャク、トンファ、サイ、白の空手着、一体この人は。。。。。。。。。。。 さすがにビビッた委員長でした。 1974年頃のディスコバンド この時代はロックバンドからディスコバンドへと、流れが変わって行った時代でもあります。 それ以前は新宿アシベなどに代表される、ゴーゴー喫茶(喫茶っていうところがスゲー)とか、アングラ・パブとか言われる、実態のつかみにくい店が主な踊り場でした。 といっても、この頃の委員長は小学生高学年から中学生くらいの歳だったので、実際に体験したことはありません。 従兄弟の姉ちゃんとか兄ちゃんの話を聞いて想像をめぐらせたものです。 俗に言う耳年増そのまんまですね。 アシベはグループサウンズ時代の名門でしたから、昔から黄色い声(昔はよくこーゆー表現してましたね)を上げて失神しちゃうような女子高生とか、俗に言う不良の溜まり場でした。 委員長も一度、タイガース見たさに従兄弟の兄ちゃんに連れてってもらったことがありますが、道路までとぐろを巻いた異常な列に、結局入場できず、新宿コマボウルでボーリングやって帰ってきました。 そんな委員長が怪しい踊り場に出入りを始めたのは、高校生になってからのことでした。 新宿で特に今でも印象が強いのはなんと言っても「サンダーバード」ですね。 穴倉みたいな店でいかにもアングラって感じだったし、名前からしてSOULというよりはROCKって感じの店でした。 当時の委員長はカッコこそツッパリでしたが、内面はグランドファンクとかツェッペリンとか長髪のROCKERに憧れていたので、結構お気に入りの店でした。 客層も革ジャンにボンタンやコンポラ等の、いわゆるヤンキー兄ちゃんに混じって、長髪キタナ系ヒッピー姉ちゃん、兄ちゃんがいたりして、危ない雰囲気は最高でした。 それにこの当時、店内であんぱん(シンナー)吸ってたのは、ツッパリ小僧じゃなくてフーテン系ヒッピーでした。 さすがにロックじゃステップは踊れませんが、そこはそれなりにゴーゴーダンスばりのテキトー踊りや、プラウドメアリーみたいな曲はステップで踊ったりとか、適当に客がそれなりにバリエーションを楽しんでおりました。 中には長髪のラリパッパ姉ちゃんみたいなのが、JBLのスピーカーに頭突っ込んで髪振り乱して首振ってたりして、結構わけわかんない店でもありました。 当時を振り返って印象に残っているのは、「太陽に吠えろ」のテーマをかなりスローダウンして、けだるいビートにディストーションの深いギターを載せたバンドの演奏が、まさに新宿って感じで思春期真っ只中の委員長を興奮させました。 早速家に帰ってからギターの練習、よく真似して弾きました。 もちろんのこと、この頃のバンドはすべて日本人でした。 あとは新宿歌舞伎町のど真ん中、ジョイパックビルの7階(だったと思います)にあったプレイハウスが結構渋かったですね。 記憶にあるのは双子のディオシンガー・キューピッツ。 彼女たちは後年マキシマムって名前で、チャーリーズ・エンジェルスのサブテーマでデビューしました。 英語で歌ったテーマ「NOTHING」は結局売れなかったですね。 (無念) あとは後にフーリンカザンってバンドでデビューしたグループが出てました。 当時のレパートリーで記憶に残っているのは、マンドリルのフェンスウォーク、ホットチョコレートのブラザールイ、ドゥビーのロングトレインランニング、ウォーのミーアンドブラザー、CCRのプラウドメアリー、カーティスメイフィールドのフレディの死、スティービーの迷信、サンタナは結構演ってましたね。 ブラックマジックウーマン、エビルウェイズ、僕のリズムを聞いてくれ、サンバパティ、皆定番って感じだったですね。 あとは、スライのサンキュー、テイクユーハイヤーとか、ファンキーというよりはブラックロックみたいな呼ばれ方してましたね。 かなり昔のことなので、時代がちょっとズレているのもあるかも知れませんが、コピーの宿命というか、管楽器の少ない曲が多かったです。 時々ツイスト系なんかも混ざってました。 同じく歌舞伎町のパブトゥゲザー(当時はパブだった)も有名でした。 ご存知のように、JBはじめ一流どころが過去にステージを踏んでます。 そしてこの後、この流れを塗り替えた一発が登場します。 KOOL &ザ・ギャングのファンキースタッフです。 よく、ディスコの流れを変えたのはコモドアーズのバンプだったと言われてますが、正直言って委員長が当時遊んでいたディスコではあまり踊った記憶がありません。 どちらかと言えば、ファンキースタッフの大ヒットというか爆ヒットの方が印象が強いです。 とにかくどこもかしこもこれがかかると大騒ぎでした。 一度、横須賀どぶ板通りの刺繍屋の息子に誘われて、横須賀ニューサンタナへ行った時などは、夜中にブラザーが酔っ払ってホイッスルをピーピー鳴らしながら歩いてたし、CAN GET ENOUGH! ってトコでRIGHT ONとか合いの手が入ったりと、そりゃもう凄い勢いでした。 このアルバム、ワイルド&ピースフルは最高傑作だと思うし、これほどディスコDJに重宝されたアルバムは無いのではないでしょうか。 委員長もバンドマンに憧れ、弁当代をちょろまかしながら丸井の月賦で買ったグレコのテレキャスターが、ついに日の目を見ることになったこの当時のことはしっかりと覚えています。 当時のギタリストの憧れはレスポールかSG、ちょっと渋めでストラト、テレキャスはいまいちメインの座からは外れておりました。 だから丸井でも一番安かった。 二万九千円、月々二千九百円の10回払い。 仕方なくキャロルなんかをコピーしていた委員長は、このテレキャスの凄さを知らぬまだガキンチョでした。 やたらとデカイ音にして歪ませるギターしか知らなかった委員長は、ギターも打楽器の一種なのだと気づいたのがファンキースタッフでした。 このリフ、カッティングはまさに目から鱗状態。 ギターの使い道は奥深いことに気づいた委員長でした。 更に新宿ビバヤングでフィリッピンバンドとお友達になった委員長は、彼らの演奏するエリッククラプトンのアイ・ショット・ザ・シェリフでレゲエ、ロック、ソウル、音楽にジャンルはないのだ、ということを身を持って知ったのでした。 踊っても、聞いても、気持ち良ければ、それがすべてだということを悟ったのでした。 ちなみにこのとき、彼らからロングトレインランニングのリフや、JBのセックスマシーンのカッティングなどを伝授され、いよいよ道楽者の泥沼にハマっていってしまった委員長でした。 ちょっと話が道楽者過ぎたかなぁ? わかりづらかった人は、また明日のバカ話をご期待下さい。 クリスマス篇<PART3> ディスコの裏話、バイオレンス系が続いたので、今日は音楽の話をしましょう。 まずはクリスマスで一気に盛り上がっていく、新宿のディスコシーンをざっと振り返ってみます。 当時のヒット曲で特に印象深いのが、「吼えろ、ドラゴン/カンフー・ファイティング」ですね。 この曲は出だしにちょっとした仕掛けがあって、妙な雄叫びと中国風のメロディーの絡みから入っていきます。 チャイナタウンを鼻歌で歩く武道家ってなイメージのイントロです。 このようなイントロが長めのダンスナンバーは、チークタイム開けのトップナンバーによく使われました。 照明の落ちたダンスフロアーには数組のカップルが抱き合ってチークを踊っております。 パートナーのいないあぶれた客(ほとんどが野郎)は、各テーブルで仕方なく酒飲んでツマミ喰ってウダウダしています。 スローナンバーがゆっくりとフェイドアウトして音が消えかかる頃、「おっほほほーっ~、おっほほほーっ」店内に響き渡る雄叫びが、テーブルの客は一斉に立ち上がってドドッーっと先を争うようにダンスフロアに突進していきます。 その姿は、まるでサバンナの獲物に群がるハイエナの一団のように、皆踊り場目指して突進していきます。 通路は満員電車の乗降口のようにごった返し、この時ばかりはウェイター君たちもサッと両脇に寄ってこの流れを通過させます。 さて、フロアはそれぞれのポジション争奪戦も終わり、今や遅しと曲の幕開けを待つ顔に、照明係のおっさんの粋な計らいでスポットライトが思わせぶりにフロアを照らします。 「Everybody was KunFu fighting! 」 出たーっ! バンプ・ビートに全員噴火、ドカーンと一気に昇天、更に煽っていくDJ。 基本的に踊りはバンプだったのですが、そりゃ相手あっての踊りですから大概の野郎は好き勝手に踊るしかありません。 時々、野郎同士でバンプを踊ったりする「しったか野郎」もいましたが、気持ち悪かったですね。 男同志で尻ぶつけて何が楽しいんでしょうか? この当時、ジ・アザー、ゲットなどのステップも生きておりましたが、バンプの大ヒットで踊り場は急激な進化を遂げていきます。 スティービー・ワンダーの迷信(スーパーステーションって、スゲー駅があるのかと思っていた奴らも少なくない)のプッシンクールとか、ペンギン、ホットパンツ、ブレイクダウンとか、一人でバリエーションを作れる踊りを適当に混ぜて踊ることが多かったですね。 これらを全部ひっくるめてステップって呼んでるけど、委員長は、これはステップとは言わないような気がしますね。 (当時から同じ思いでした) 例えば、シュープリームスのStop in the name of love とか、振り付けの入ったものなんかがステップってことで、その他はフリーダンスのバリエーションというかパターンだと思うんですけどね。 オージェイズの裏切り者のテーマとかジャクソンファイブの窓辺のデートとか、足の動きは皆一緒なんですけど、曲のブレイクに当たるところで曲に合わせた上半身の振り付けが入るのが特徴ですね。 あと、ゲットレディなんてのは果たしてステップっていうのかなぁ?なんて思ったりしますよね。 だって、あれ足(ステップ)に動きって特にないでしょ。 今思えばタケノコ系かななんてね。 ゲット、レーディーって手打って指差したりなんかして、いわゆるステージで歌う時の振り付けだよね。 可愛い人よとかも同じですね。 だって、その後出てくるウォーターゲートとかオールドマンなんてのは、ステップ扱いはしてませんよね。 名前=ダンスでした。 そこいくと、やっぱりチャチャはすごいですね。 これはマンボとかモダンダンスの流れですから、不滅のステップというべきですね。 ジ・アザーとかの流れで、当時すでにオッサン近くの年代の人にプロフェッショナルみたいなチャチャおじさんが結構いましたね。 数人の仲間で並んで踊って、チャチャの間にいろんな呼び名のステップが入ってきます。 リーダーが声をかけて、「アオヤマ」とか「ターン」とか色々なバリエーションをアドリブで加えていきます。 これはカッチョよかったですね。 今ならさしずめジャニーズ系ですか? ハマチャチャとか、ニューチャチャとかそれぞれの土地によって独自のアレンジが施されていました。 つーことで、昔は結構ステップなどと言う敷居が高かった「踊り場」も、バンドが入った大型のパブ系の登場で一般市民にも開放されたって感じですかね。 タイミング的にも、バンプみたいな男女ペアで踊るアメリカ風文化も適度に入って、ちょうどこの時代が変わり目だったのでしょう。 当時、「アメリカン・バンプ」なんて名でよく紹介されてましたけど、じゃ、イングランド・バンプとかジャーマン・バンプとかあるのかって突っ込みたくなりますよね。 誰ですかね、こーいったテキトーぬかすヤツは。 それから、やっぱりこの時代のスパースターはスリーディグリーズでしょう。 「荒野のならず者」スゲータイトルですよね。 なんか西部劇の主題歌みたいに思ってたヤツも随分おりました。 「エッチね、このスケベ親父は」ってな歌なんですけどね。 これも何故かチャチャでした。 スリーディグリーズはすべからくチャチャ専門でした。 ちなみに空前絶後の超ヒット「TSOPソウルトレインのテーマ」も何故かチャチャで踊ってましたね。 一度、委員長とDJのマチャアキでビバヤングの店長にお願いして、ソウルトレイン・ゲームをやらしてもらったことがありましたが、悲惨な目に会いました。 TSOPが流れた途端、皆で並んで一斉にチャチャ大会。 店長には「何これ?」って言われるし、一部ソウル通のお客には「ダッセー!」とか罵られる始末。 新宿では無理なのだとしみじみ悟った委員長でした。 実は、このソウルトレイン・ゲームっていうのは、マチャアキDJとか委員長たちが仕事の終わった深夜、車輌部の運転手のおっさんたぶらかして、よく横浜まで遠征したときに覚えた遊びだったんですね。 横浜の本牧町に「リンディ」っていうおしゃれなディスコがありまして、店の中にロールスロイス(だったと思う)のボディがディスプレイしてあって、その中にDJブースがある、当時としてはかなり進んでいたお店でした。 お客も当然のこと、ベースの人たちですからちょっとした外国に来た雰囲気ですね。 でもって、深夜ながら、客で賑わってくると、従業員からアナウンスがありまして、「今からソウルトレイン・ゲームをやりますから二列に並んで下さい」って言われてフロアに出て、中央を開けて二列に並びます。 ここでTSOPがかかって、順番にペアで踊りながら中央のスペースを抜けていく、というTVのソウルトレインのシーンを再現するわけです。 ベースのブラザーたちは当然パートナーと来ていますから、踊りは下手でもそりゃペアでちょっぴりセクシー、「おーカッチョいいなあ」って身震いするほどしびれてしまった委員長だったわけです。 閉店時間が来て、興奮冷めやらぬ委員長たち新宿のアホ一行は、道路を挟んだ対面のゴールデンカップスで夜を明かしてから、スゴスゴと新宿へと引き上げて行くのが慣わしでした。 このカップスも由緒ある店で、キャロルなんかも出てた老舗でした。 当時はもうさびれかかってて、白人の酔っ払いが男同士でウダウダしているような店だったですね。 あと、新宿ではほとんどの大箱にバンドが出てて、これがまた結構生かしてました。 まだ日本人のバンドが大勢いました。 いつの間にかみいーんなフィリッピンバンドになっちゃったんですけどね。 安くて重宝されてましたが、彼らもソウルドラキュラあたりが流行り出す頃にはお払い箱になっていきました。 道楽者の末路は万国共通です。 (寂) クリスマス篇<PART2> 12月に入ってからというもの連日連夜続く盛況な客足に、普通でも2回転、週末ともなると3回転4回転はざらで、ウェイターのお仕事はそれこそ一服する暇もなく立ちっぱなしの歩きっぱなしで、何とか終電で家にたどり着いた途端にバタンキューってな感じで、バイトとは言え仕事のためだけに人生があるような毎日でした。 12月は一人千円のクリスマス・セットというのが強制的に付くので、売り上げは一気に上がります。 セットというのは1本百円くらいのシャンパン(単なるサイダー)と、紙製の仮面マスクに紙笛(駄菓子屋で売っていそうな安物)が付いてるだけなんですが、さすがキャバレーでのし上った会社ですから、使えるノウハウはしっかり踏襲するわけです。 近所の同系列のキャバレーから同じセットをぶら下げて、赤ら顔でふらふら出てくる親爺を見るたびに水商売の奥の深さにつくづく感心したものでした。 それとは逆に、文句も言えずこんなもの千円で買わされた挙句、人ごみの中で安い酒飲んで大騒ぎでもした日には、従業員に袋叩きにされて店から放り出されるという悲惨な目に遭う人々を見て、委員長は、一体この熱狂はどこから来るものなのか、はたまた、世の中の常識というのは一体何を基準にしているのか、そんな疑問を抱いたものでした。 やはり12月といえば忘年会シーズンですし、大学生あたりは早くも冬休みに入りますから、お客の多くがグループ・団体になります。 早い時間から来るお客のほとんどはダンスが目当てですから、さほど問題はないのですが、9時、10時を過ぎてやってくる客、特に団体は、ここにたどり着くまでに相当呑んでますから、既に出来上がった状態で入店してくるので些細な事でも大騒ぎになります。 委員長の体験から学んだセオリーですが、6人を超えるグループには必ず問題を起こすトラブルメーカーが紛れ込みます。 5人だと多数決で必ずどちらかの意見が有効になりますので、たとえトラブルメーカーがいても小難でやり過ごせます。 ところが6人となると、仮に3対3で意見が割れるとトラブルメーカーの主張がどっちにしろ大難を招きます。 更に6人以上の団体の場合、かなり高い確率で問題児・トラブルメーカーが紛れ込んできます。 これはいかなる団体にも当てはまる法則とも言えるでしょう。 そしてディスコでよくあったのが、ダンスフロアで足を踏んだ、踏まないのケンカですね。 これは完璧に一定のパターンで起こります。 必ず被害者はそこの常連か、あるいは遊び慣れてる人です。 そして加害者はかなり泥酔して大だこ踊りをやらかすタコです。 すでにこのタコがダンスフロアに登場した時点で、すぐに周りの常連とか遊び人の目に留まり、暗黙のうちにフロアの悪役となります。 さて、誰が殺るか?という暗黙のコミュニケーションが行われます。 ターゲットの分析はその外見から始まります。 学生風あるいは社会人、年齢、地位、身長、体重、酔い加減等の調査が済むと、バカの代表者が名乗りを上げるようにして足を踏まれるか、タコの手に絡まれに行きます。 そこでまずガンが飛び、ちょっとした態度「やっちゃうぞテメー」といった感じで威嚇して警告を促します。 ここで仲間が気づき、タコを抑え込みにかかれば難を逃れられるか、あるいはトイレとかで「怪我しないうちに帰った方がイイぞ」とか凄まれる程度の小難で収まりますが、仲間が結構イケイケだったりとか、ヤバイと感じないノーテンキなシヤワセグループだったりした場合はいよいよ場外乱闘となります。 ここで被害者と加害者が見事に逆転します。 ダンスフロアで迷惑踊りを繰り返す加害者タコは、「インネンこかれて」チョーパンとか膝蹴りの被害者となります。 被害者だったバカの代表は、踊り場の皆さんのためと言う大義名分によって制裁を加えた時点で加害者となります。 通常は被害者タコが、鼻血ブーとかその場でうずくまることで事態は一気に収束しますが、時に外見と相反して根性のあるヤツとか、泥酔していて痛みを感じないヤツだったりした場合は、逆上して大暴れします。 更にここで被害者と加害者が再度逆転します。 加害者バカは、大声出して暴れる被害者タコを、踊り場の皆様のためにと、強い正義感から天誅を加えます。 乱闘に気づいた店の従業員が直ちに止めに入ります。 加害者バカは手馴れたもので、「この人酔っ払ってて手がつけらんないんすよ」と見事被害者に転じます。 「なぁんだとぉー、お前が先に手ぇを出したんだろぉーう」と、ややロレツが回らない態度の被害者タコは手を振り上げて抗議抵抗、しっかりと加害者になりきってしまいます。 そんな踊り場の騒ぎに、黒服以下店員の有志が待ってましたとばかりにやってきてタコを取り押さえ、フロアから引きずり出します。 「おれぇはきゃくだぞぉー」とか更に暴れるタコは、あちこちから出てくる手や足でボコボコにされながら裏の非常口に消えていきます。 委員長たち毎日コキ使われているウェイター君たちは、ここぞとばかりストレス発散、「やめろ、やめろ」のかけ声の下、羽交い絞めにしたタコをこらしめます。 タコは思わず叫びます。 「お前らがやめろ!」 そして、委員長たちストレス一杯のウェイター君たちにとって最高のシュチュエーションは、タコ対タコ、更にタコグループ対タコグループの乱闘が何よりのお好みです。 タコは理屈が通りませんから、とにかく蹴って殴って黙らせるのが一番。 しかも双方ともボコボコにして店から追い出しても、悪いのは当事者同志、お店は迷惑していますってことで、たとえお客が怪我したところでお互いのケンカで怪我したんだから仕方ありません、といった具合にどう転んでも加害者にはなりません。 やれやれ、今日も一日お疲れさん、店の外に出た委員長の目に、ごみクズと化した千円のクリスマスセットが寒空の新宿の道端のあちらこちらに虚ろに転がっておりました。 高いお金を払って、蹴って殴られ叩き出されたお客様は、果たして神様なのでしょうか? クリスマス篇PART<1> ということで、新宿ビバヤングは12月に入ると、クリスマス~師走~新年に向けて、色々な模様替えが行われました。 まず、新しいバンド・サウンドウェーブスがフィリッピンからやって来ました。 これで毎日2バンドが出演し、その合間にDJが入るという豪華絢爛、大型パブディスコの面目躍如と言ったところでしょうか、南口あたりのディスコシーンの話題を独占したようなものでした。 従来のバンド・リップヴァンウィンクルは、まあ並みのバンドというか、ギター、ベース、キーボード、ドラムスにサックスとヴォーカルが入ったコンボだったのですが、サウンドウェーブスは当時では非常に珍しい、トランペット2、サックス1の管セクションが入った大型バンドでした。 ユニフォームもビシッと揃え、かなりショーアップしたバンドだったので、対バン(対抗バンド)はやたらと影が薄くなっていってしまいました。 委員長のお気に入り、ゲバラ・シスターズはこの二つのバンドとうまくセッションして、かぶったレパートリーをうまく使い分けながらステージに花を添えておりました。 しかし、このSOUND WAVESのコピー技術は本当に素晴らしかったです。 委員長も当時はBANDに憧れ、ちょっとはギターなどもかじっておりましたが、それでもシンプルなロックバンドのコピーでさえ、中々うまいと思えたバンドにお目にかかったことはありませんでした。 ざっと思い出しても、KC&ザ・サンシャインバンドのファンキーホーン、オハイオプレイヤーズのファイヤー、ハービーマンのハイジャック、BTエキスプレスのドゥイット、テンプテーションズのハッピーピープル等、DJのレコードからそのまま演奏を引き継ぐなんてこともやって、客席で聞いているとDJからバンドにいつ切り替わったのかわからないほど見事なテクでした。 となると不思議なもので、それまで結構イカしてると思っていたリップヴァンウィンクルが、何だか汚いフーテン上がりのバンドのように見えてきて、お客のウケも次第に歴然としてきます。 バンドのバロメーターは、ダンスフロアにどれだけのお客を動員できるかってことですから、結果はありありと見えてきてしまいます。 ちょっと可愛そうだったですね。 DJの方はというとN観光専属のマチャアキこと立石君と、週末だけ立川ベースからやってくる黒人のウィリーが受け持っておりました。 ブラザー・ウィリーとはあまり親しくなかった委員長ですが、彼と初めて挨拶を交わしたのは、なんとビバヤングのトイレの中でした。 委員長が用足ししているところに後からやってきたウィリー、委員長の頭を見て仲良しと判断したのでしょう、となりに来てジャンプスーツのジッパーを下ろしました。 当時の委員長、英語なんぞは中学以来喋ったこともなければ、外国人と二人っきりになった経験もありませんでした。 しかもトイレという限られた空間の中のことですから、必要以上に緊張は高まります。 ウィリーは気軽にハーイってな感じで話しかけてきて、勝手にベラベラと話し続けます。 一体何を喋っているのかチンプンカンプン、ただただ愛想笑いをして、早く用足しが終わることを祈るばかりでした。 しかしこの時委員長は、重大なる教訓を得たのです。 「人間が一番無防備なときは用足しをしているときだ」 そうです、もし用足し中に襲われるようなことになったら、用は止まらん、一物掴んだ手は離せん、ズボンは汚す、こんな状態では応戦不可能です。 だから危なそうなトイレに入るときは「大」用を使うか、一人では入らないというのが不良の心得第一条なのです。 (ほんとかよ) 確か、TVドラマ「太陽にほえろ」で萩原健一演じるマカロニ刑事が、立ちションしてるとこを暴漢に襲われて死ぬってシーンがありましたが、どんなに腕に自身のあるヤツでも、用足しの最中に襲われたら無抵抗でアウトですね。 それでもウィリーのジャンプスーツが気になっていた委員長は、そっと視線を彼のジッパーに向けると、彼のスーツの中央、胸の辺りから下半身にむけて一直線に伸びたジッパーは、ダーっと一気にご開帳、胸の辺りからは縮れた胸毛なども見え、へその下の更に黒い茂みまで肌けて、なんとそこにはSHAFT黒いジャガー(アイザックへイズですね)が顔を覗かせていたのでした。 ジャンプスーツでの用足しは、かなり情けないカッコになるのだということも学んだ委員長でありました。 DJのマチャアキは博多出身の九州男児、プロのJAZZドラマーを目指して上京、N観光のDJ見習いに応募、数ヶ月のDJ研修を受けてビバヤングに配属となりました。 この時の同期生に、後のディスコ業界で一旗上げた新宿のジュリーこと鈴木昇二氏がいて、彼は姉妹店の歌舞伎町Q&Bに配属されました。 もうひとつの姉妹店、西口ブイワンは誰が行ったのか知りませんが、後年委員長も各店をめぐることとなり、更にマチャアキ、ジュリーとも深く関わっていくことになるのですが、今考えると、このビバヤングとの因縁は運命的なものさえ感じてしまいます。 (でもないか?) さて、イベント的にはこんな模様替えがありましたが、ホールの方もかなり忙しくなってきて、入れ替わり立ち代り色々なヤツが出たり入ったりの毎日でした。 まさに水商売そのもの、水が流れるように人もどんどんと流れていきます。 開店時に新人社員です、と紹介されて、翌日にはもういなくなってるなんてことがザラにありました。 ただメシ喰いにきただけですね。 中でもこいつはスゲーって思ったのは、昼頃来て今日から働かせて下さい、ってメシ喰って、マネージャーにクリーニングの引き取り頼まれて千円だかそこらもらってそのまま帰って来なかったっていうヤツ、これは良い仕事しましたね。 半日給1000円メシ付き。 まあ3日持てば良いほうで、大抵が1日か2日で消えていきました。 それだけシゴトが大変だったってことでもありますが、どちらかと言えばバイトの方がしっかりしてて、正社員として入社してくるのは流れ者みたいなヤツが多かったですね。 今思い出しても、あの忙しさは尋常じゃなかったですね。 人ごみの中でボトルやグラス運んで、テーブル片付けて、また案内して、片付けて、って休む間もなく終電時間まで延々と続くわけですから。 ほんと人ゴミですよ。 人のゴミの中で泳いでるボーフラみたいな感じ。 あるときなどは製氷機の製氷が間に合わなくなって、近所のキャバレーに氷もらいに行かされたりしました。 寒空の新宿の繁華街をデカいバケツに山ほどの氷を入れて、ヨイショ、ヨイショと運ぶアフロのにーちゃんを想像して下さい。 しかも赤いちゃんちゃんこみたいなベスト着て、かかとの高い靴はいて、まるで漫才師ですよ。 おぼんこぼんじゃないんだから。 ホンモノのSOULマン目指して飛び込んだ業界ですが、期待していた世界とはかなりかけ離れた目の前の現実に、世の中の厳しさをあらためて知った委員長でありました。 しかしそこはそれ、なんと言っても気合の入った道楽者ですから、なんでもかんでも楽しんでしまおうという旺盛な好奇心と、全て自分の都合が良いように解釈できる得意技を駆使して、冥府魔道の道楽道を歩んだのでありました。 このあともバカな話はまだまだ続きますよ。 順応性が早く適応性が高いことが道楽者の特徴と言いましたが、早い話がそれだけかぶれ易いってコトと要領が良いってコトに尽きるわけです。 さて、委員長のバイト生活も半月も過ぎる頃には、すっかり環境調査も済ませ、憧れのアフロのおねーちゃんが歌ってるバンドとも話をするようになりました。 バンド名はリップヴァンウィンクル、ヴォーカルはゲバラ・シスターズ。 姉妹のシンガーデュオで、委員長がのぼせていたのは妹の方でリンダ・ゲバラ、姉さんの方が美人でルックスは良かったのですが、あまり興味がなかったせいでしょうか、名前の方はすっかり忘れてしまって未だに思い出せません。 二人はフィリッピンのミンダナオ島出身で、バンドのメンバーはマニラから来たと言っておりました。 姉さんの方は落ち着いた雰囲気で、いつもインドのサリーのような衣装を着込んで、額の眉と眉の間の中央には丸飾りを付けていました。 当時は、フィリッピンはもちろんのことアジアの文化なぞ知る由もない委員長でしたが、今にして思えば彼女たちはイスラム教だったのでしょう。 特に姉さんの方はいつも民族衣装ぽいファッションでしたし、ちょっと高慢な、とっつきにくい感じが漂っていました。 ビバヤングのダンスフロアーは、バンドステージを正面にして長方形の100人は踊れるほどの広いスペースでした。 その後方に更に大きな長方形の客席があり、その奥に照明室、バンド控え室、更に非常階段の横に狭い従業員更衣室(ロッカー)がありました。 ここでちょっと斬新だったのが、客席中央に円筒形のヴォーカルステージがあったことです。 今風に言うとお立ち台のような感じで、宴もたけなわ、盛り上がってきたところで、ゲバラ・シスターズのリンダがこのステージに上がり、メインステージとオープンステージで掛け合いディオを披露します。 委員長はトレンチを持ってホールを駆け回る度に、このお立ち台の上のリンダを意識するように愛想を振りまきながら一生懸命アピールしたのでした。 もちろん彼女にしてみれば、アフロした変な日本人のウェイターがやたらとモーションかけてきている、ってな程度のことだったのでしょうが、何せ委員長は夢見る道楽者ですから、彼女がお立ち台に上がる度に、わざわざ遠回りをして手を振ったり、愛想笑いしたり、何とか気を引くためにそれはそれは努力を重ねたわけです。 さすがのバカ友、酒屋の息子も呆れて「おめぇホントにバカじゃねーの」ってなもんで、舞い上がった道楽者ほど困ったヤツはおりません。 とは言うものの12月に入るとお店は次第に忙しさも増し、具にも付かない道楽を楽しむ暇もなく、とにかく働きずくめのコキ使われっぱなしになっていきました。 道楽者とは言え、もともと根がまじめな委員長ですから、仕事は仕事としてきっちりこなしていくうちに、正社員の黒服の方々からも次第に可愛がられるようにもなっていきました。 黒服と一口に言っても一応の階級があり、この会社は元々キャバレーから成長してきた会社だったので、その構成もキャバレーの匂いが漂うものでした。 まず、店長をトップに支配人(マネージャー)、その下に主任、次いで幹部候補生と称する黒服、ボーイ長、ウェイター、そしてパートという具合です。 基本的にはウェイターっていうのはバイト社員が主で、正社員として入社するとすぐに幹部候補生扱いになります。 店ではこの幹部候補生のことを略して幹候(カンコウ)と呼びます。 ちなみにこの会社の正式名称はN観光株式会社と言い、キャバレー・クインビーで経営拡大していった会社でした。 当時のキャバレーは水商売の代表選手で、キャバレー太郎の異名を取った福富太郎氏のハリウッドチェーン、採算独立性のハワイチェーン、乙姫キャバレー龍宮城チェーン、キャバレー浦島、世界的にも有名だったグランドキャバレー赤坂ミカドなど、夜の社交場の代名詞でありました。 後年これらキャバレーチェーンが、パブやコンパへと業務をシフトしていく流れの中でブームに便乗し、更に大型ディスコへと転身していきました。 ちなみにディスコの企画を総合的なプロデュースとして手がけ、後のディスコ業界の手本となった青山のウィスキー・ア・ゴーゴーは企業経営の面から見てもパイオニアと言えるのではないかと思います。 さて、委員長は、皆が名前の後に幹部候補生の略で幹候(カンコウ)をつけて呼ぶのを、てっきり観光会社だからだと思い込んでおりました。 大池カンコウ、椿カンコウ、藤井カンコウ、いくら観光会社だからといって、何も全員の名前に観光を付けて呼ぶこともないだろうに、と訝しく思っておりました。 また、実はこの会社がキャバレーチェーンだと知って、ひょっとしたらバス会社とかも持っている大きな観光会社だとも思ったりしましたが、いわゆる水商売企業の多くが、観光会社と名乗っていることを知ったのは随分後のことでした。 幹部候補生として見習い期間が終わると、次に本社の研修を受け、これを無事終了すると晴れて幹部社員として、主任あるいは支配人の辞令を貰い、各チェーン、支店へ再度配属されていきます。 このシステムは水商売とはいうものの一般企業となんら変わりの無い、非常に合理的に人材を育成していく理にかなったものでありました。 ただ、人材育成システムはいくら完璧でも、素材である人材の方ばかりはそう簡単に見出せるものではありません。 幹部候補生とは言うものの、それはそれは素晴らしい人材が次々と現われは消え、現われは消え、名前を思い出すのも至難の業といえるほど、委員長の道楽人生で一番の宝とも言える、興奮の出会いの数々でありました。 12月に入るとさすがに毎日が忙しくなり、社員増強ということで委員長以下4名のバイトに栃木出身のガキ親爺風田舎ヤンキーと、キャバレーの呼び込みから転向してきた手もみにーちゃんが加わり、ホールは6人のバイトウェイターが揃い、これに沖縄出身の広島弁のウチマ主任、おサルのボーイ長が現場監督となりました。 委員長は黒服連中に結構可愛がられたせいか、よくチラシ撒きに指名がかかりました。 チラシ撒きというのは店のビラ撒きのことですね。 これは正式に言うと管轄の警察に届出が必要で、勝手にビラなどを撒くと道路交通法違反で逮捕されてしまいます。 ですからチラシ撒きというのは、無許可のいわゆるモグリのビラ撒きです。 南口から紀伊国屋あたりを抜けて、歌舞伎町の入り口辺りまで、警察の目を盗んでせっせとビラを配って回ります。 この頃はまだこの手の営業もさほど過激ではなく、ただビラを配って歩くだけのことでした。 現在のように携帯電話など無い時代ですから、一歩外へ出たらビラを配ろうが配るまいが、最低でも1時間は自由時間になります。 幹候だけでは時給の無駄遣い、コスト高になるのでバイトやウェイターを連れて出るわけです。 20分くらいは適当に撒きますが、後は皆で喫茶店などへ行き与太話をしながら一服して帰ります。 キャバレーチェーンも数多く持つ会社ですから、どこで誰が見ているかわかりません。 そこで、このチラシ撒きに動員されるメンバーは、口が堅く、状況に合わせた上司の嘘を決して裏切らないという暗黙の掟がありました。 口の堅さはもちろんのこと、ズボンの中もまだ十分に硬かった委員長でありました。 そして10代最後の思い出というには、あまりにも過激かつ興奮の中でのクリスマスを迎えることになる委員長でした。 というわけで、委員長はついに新宿南口パブディスコ・ビバヤングでアルバイトを始めました。 もちろん高校時代からのバカ友、三鷹台駅前の酒屋の次男坊も一緒です。 お店は、新宿駅南口を出て甲州街道方面に向かって徒歩5~6分のところにありました。 現在はビジネスホテルか何かになっているようです。 当時の人気ディスコ「GET」の隣にあった、光会館というビルの4階で、そうですね、広さはかなり大きかったですが、トゥゲザーとかには敵わなかったですね。 トゥゲザーが1500人収容と言ってましたから、ビバヤングで500~600人くらいのキャパだったのですかねぇ。 ビルの1階はパチンコ屋、2階が大型喫茶「穂高」、3階が同店の同伴席、5階は事務所だったかな。 しかし、この同伴喫茶ってのが当時は随分とアチコチにありました。 二人がけのボックスシートをパテで仕切ってある、ちょっと薄暗い喫茶でしたね。 コーヒーが1杯百円の時代に、ここで呑むと五百円になってしまいます。 安物のロールケーキかなんかが付いてきました。 なんだか、いかにもって感じですが、当時はこんなトコで怪しいことしてたんですね。 レンタ・ルームなんてのもありましたね。 3畳くらいの部屋を時間貸ししてくれるんですね。 カウチとテーブル、ティッシュボックスなんか置いてあって、何するんでしょうか? もちろん委員長も、トンコ修行に明け暮れた高校時代は時々お世話になりました。 それでも今時の子供たちに比べたら可愛いもんですね。 せいぜいボックスに並んで座って、イチャイチャしながらチューするくらいのことですから。 それでも二人で千円は結構なプライスでした。 まあたいがいは新宿西口中央公園あたりがデートスポットでしたから、たまに麻雀で小金を稼いだときとかは奮発して同伴に行きました。 「御苑」とか「西武」とかいう店名が記憶に残っています。 一度、彼女と踊りの帰り、盛り上がってしまいレンタルームに入ったことがありましたが、閉店時間の午前1時を過ぎてしまい、終電にも乗遅れて深夜の歌舞伎町に放り出されてしまい、根性決めて「旅館」(ホテルじゃありませんよ旅館です)に突入したのは良いのですが、案内してくれた婆さんに前金で四千五百円を請求され、ひえーっとばかりに追い出された苦い想い出もあります。 仕方なく近所の深夜喫茶で始発待ちしたことも、逆に純愛風のほのぼのとした良い想い出となりました。 (じゅうぶん不純だろ) えー、何の話か、よーわからなくなりましたが、ともかく憧れのアフロねーちゃんと一緒にシゴトができるってことで、委員長は新しい道楽にワクワクしながら新宿での生活をスタートしたわけです。 ここの面接は、事務所でちゃんと店長がしてくれました。 長身で結構男前の店長はハキハキとしたしゃべり方で、履歴書と顔を見比べながら質問をしてきました。 「えーと、君は日大の1年生」 酒屋の息子は、いわゆるコンチってな感じのスリーピースのスーツなぞ着ておりまして、まあ無難な大学生のフリをしておりました。 「で、君はデザイナー学院、専門学校生だね」 委員長はこの時すでに学籍は剥奪されていましたので、偽学生ってことになりますか。 店長はまず委員長の頭に眼をやり、次いで服装のチェックです。 委員長も一応は面接ということで、ニットフレアーにダブルのブレザーなど着込み、それなりに真面目そうな学生のフリをしておりました。 (どこがやねん) 「ふーん、デザインの勉強しているの?」 真面目な顔で質問する店長の目が笑っているのを、見逃さなかった委員長でした。 「はい、一応服飾デザインをやってます」 胸を張って応える委員長。 「うーん、そのモミアゲはまあ良いけど、ウチは客商売だから、その髭は剃らなきゃダメだよ」 そうです、この頃の委員長はアフロを渋く見せるため、モミアゲと口ひげを伸ばしていたのです。 「はいわかりました」 ということでパートタイムは午後6時から終電ギリギリの12時まで、食事は一切なし。 時給は350円くらいだったかなぁ。 休みなしで働いて月7万円くらいだったと思います。 実はこの面接の前に一度、東口二幸のマクドナルドに二人して面接に行ったことがありました。 新しモノ好きの道楽者ですから、時給も良いし、なんかアメリカっぽいし(当時のイメージとしてはかなりカッチョ良かったですね)、ハンバーガーという言葉の響きに釣られて、自分たちの身分もわきまえずノコノコ出かけて行きました。 精悍な顔つきのユニフォームを着た店長は、バカ二人の顔を見るなり、深夜のメンテナンスはどうだといきなり切り出してきました。 時給は500円、夜中の12時から朝の6時まで。 おおーっ、と声を上げた二人ですが、次の言葉にさっと頭を下げて退出しました。 「ただし、ウチは食べ物商売だから、まず頭はスポーツ刈り、髭はダメ、清掃着は毎日洗濯、店長の掃除点検で合格が出なければやり直し、こんな条件だけどどうする」 要は、黙って帰って欲しかったってことなんですけど、しかし世間知らずというか向う見ずと言うか、いい根性をしていたバカ二人でした。 さて、ビバヤングのバイトは順調にスタートし、黒ズボンに白ワイシャツ、蝶ネクタイに赤いベストを着せられた委員長は、まずウェイターのお仕事を覚えさせられました。 トレンチ(ステンレス製お盆のことですね)を小脇に抱え、左手にダスター(テーブル拭き)を持って、ホールを見回り、空いたアイスペールや灰皿の交換、黒服が案内したテーブルに飲み物やおつまみを運ぶ、単純な作業です。 ホールを担当するのは数人の本職ウェイターとボーイ長、そして委員長たちバイトのウィターです。 黒服は入り口でお客様を案内して、ホールの客席に誘導してオーダーします。 受けたオーダーは、キッチンとドリンクカウンターのあるデッキに持っていってオーダーを通します。 「ボトルセット4、ポテト2、ピーナッツ2お願いします」 てなことで、ボトルセットというのは、当時のパブはほとんどがこのパターンで、来店時にウィスキーのボトルをキープさせます。 サントリー・ホワイトが千円、角瓶が千八百円、オールドが二千二百円、全て一般小売価格でした。 これに水割りセットとして氷が入ったアイスペールとサントリーのミネラルウォータが付きます。 伝票には、テーブルチャージ(TC)が一人300円、ミネラルウォーターが1本100円、おつまみは300円より各種、強制的に一人一品取らされます。 アイスはTCに含まれていますから、水割りのセット4というと、TCが4人で1200円、ミネラルが4本で400円、おつまみが最低1200円、これに一番安いサントリーホワイト千円で合計3800円、これに税サービス料10%がついて4180円ナリ。 一人頭で割ると1045円。 安いですねえ。 さてアルバイトと言っても、それはそれなりに一応はサパーのサーバント・マナーくらいは知らなくてはいけません。 早速、ボーイ長から教えを受けます。 ミネラルウォーターは瓶だけで中味は水道水。 プラスティックのケースに入った瓶の上からホースでじゃぶじゃぶ注ぎます。 ボーイ長は、瓶の中の水の位置を揃えるように指導します。 いかにも今蓋を開けたように見せるわけですね。 水の位置にばらつきがあると、水を入れ換えて使っているのがばれてしまいます。 良心的なお店は水といえども、ちゃんとお客の前で栓を抜きますね。 ただ、この店のテクは、ボトルだけはお客に封を切らせました。 これですべてが良心的だと思い込ませる演出ですね。 ボトルは一般小売価格そのままですから、なおのこと良心的だなぁ、と思い込みます。 もちろんこれはサントリーの営業戦略にバッチリ乗ってますから、原価割れは絶対してませんね。 そりゃまあ、千円のボトルをそのまま定価で売っているのですから、100円のミネラルウォーターを細かくいう人はいませんよね。 しかし、水道水1本100円で売りゃ儲かりますね。 それでもこの後、色々な店を転々とした委員長は、ビバヤングはまだまだ良心的なお店だったなあ、と感心したくらいですから、そりゃ当時はスゲーお店がいっぱいありました。 ボーイ長弱冠20歳、北海道出身、北島三郎先生的風貌の小柄のあんちゃんでした。 お正月にお目にかかるおサルの二郎君に瓜二つ、赤いベストがよーく似合う先輩でした。 その上に沖縄出身のウチマ主任という方が、委員長たちバイト社員の直属の上司となりました。 更にバイトの先輩二人が細かな指導をしてくれました。 二人とも現役大学生、歳は委員長たちより二つくらい上だったと記憶しています。 どこの職場も同じですが、新入りは気合を入れてよくコキ使われます。 ボーイ長はおサルだったので言葉使いは少々乱暴でしたが、別段さからいさえしなければ、それなりのどこにでもいる働き者の先輩といったところでした。 問題はバイトの先輩でした。 根本的に要領よく、楽して時間を稼ごうってな魂胆がありますから、新人には教えるフリして何でもやらせます。 最初のうちは先輩ですから、そんなものかと言うことも聞いていましたが、自給も待遇も一緒のこいつらになんで指図されなきゃなんねぇーんだ、と不良のあんちゃんの血が蘇ってきます。 道楽者は順応性が早いことと、適応能力が優れていることが特徴のひとつです。 出金時間の午後6時、委員長と酒屋の息子が待ち構える、正社員がホールに出た後の誰もいない裏の狭いロッカールーム、そこへやってきた先輩二人。 暴力こそはふるいませんでしたが、東映映画「仁義なき戦い」でしっかり覚えた広島弁が炸裂し、ただ者ではない証拠をしっかりと見せ付けたのでした。 すっかり恐縮した先輩方はおずおずとホールに出て行きました。 と、そこへ小柄でひ弱そうな沖縄出身のウチマ主任がやってきたのです。 「わしのライター見よらんかった? ここらで落としたと思うんじゃけぇ。 ありゃ高かったんよ。 ワシゃのう、普段はここでタバコ吸わんもんで、置くわけないと思うんじゃが」 沖縄出身は間違いないらしいのですが、なぜこの人が広島弁を使うのか知る者は誰一人おりませんでした。 しかし、広島言葉も使う人によっては、迫力のない単なる方言に成り下がるということを知った委員長でもありました。
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さて、昔話の時代も1974年から75年に入ってきましたので、ちょっとこの当時の出来事を簡単におさらいしておきましょう。 あはは。 結構誠実な道楽者ですから(そうかなぁ)それなりに資料を漁って見ました。 まず1974年の話題はなんと言ってもこの人、ユリゲラーですね。 スプーン曲げ、流行りましたねぇ。 ちなみに委員長の奥さんもできます。 だから何だってコトなんですけど、貧乏一家のスプーンをやたら曲げちゃって困ったもんです。 どうせなら、曲がったスプーンとか折れたスプーンを元に戻すって能力だったらもっともっと世間に認められたことでしょう。 このパワーがいつか世の中のためになることを祈ります。 そして爆発的な大ヒットとなった「ベルサイユの薔薇」の登場です。 この作家が、後年ぷっつんしてしまうなんて誰も想像つきませんでしたね。 「好きなことしてメシを食う」はいずれ莫大な請求書がくるという教訓です。 やはり道楽で大金を手にするとロクなことはありませんから、くれぐれもご注意下さい。 (ほんとかよ) スポーツ界は話題豊富です。 モハメッド・アリがジョージ・フォアマンを破り、奇跡のチャンピオンにカムバック。 ジャイアント馬場がジャック・プリスコを破り日本人初のNWA王者に輝く。 凄いですね、馬場さん。 16文キック!今の子たちにはこのサイズ説明するのが難しいですねぇ。 椰子の実割り、カワヅ落とし、必殺技の数々。 興奮しました。 そして、なんと長島選手の引退がこの年でした。 往年の野球少年は皆涙を流しました。 さて、不良少年の話題はというと、そうですあの「傷だらけの天使」がTVに登場したことに尽きます。 あの衝撃的なタイトルシーン、生トマトにコンビーフかじって、ソーセージ食って牛乳飲む、あの無節操さが不良少年を虜にしました。 真似して腹下した馬鹿が何人いたでしょうか? ちなみに放送開始は74年10月5日土曜日で、翌75年3月29日まで半年間の放映だった。 音楽は井上堯之+大野克夫(元スパイダース・古っ!) 監督は、恩地日出夫、深作欣二、工藤栄一、児玉進、スゲー! キャストは、小暮修(萩原健一)、乾亨(水谷豊)、綾部貴子(岸田今日子)、辰巳五郎(岸田森)、海津警部(西村晃)、森川京子(ホーンユキ)その他ゲストも凄かった。 ホーンユキさん、平パン、デラパン、グラビアでは随分お世話になりました。 えっ?(^0^; しかし、このドラマのブームっていうか、流行っていうのは、本当に当時遊んでた馬鹿というか不良にしか分からない魅力でした。 お調子者で教養も無く、かといって喧嘩が特別強いわけでもないし、根性があるわけでもない。 落ちこぼれの代表選手みたいな二人が、人生楽して生きることに情熱を傾けてその日その日を精一杯生きる、そんな不良馬鹿の力強さみたいなものに同時代を生きた世代の共感を得たのでしょうね。 言ってみりゃ、これぞまさしく道楽者のヒーローです。 そして74年の締めくくりは日本レコード大賞、「襟裳岬」森進一でした。 明けて75年は、カルビーのポテトチップ発売、紅茶きのこのブーム。 「傷だらけの天使」で一躍若者の共感を得た萩原健一、打って変わって演技派役者の面目躍如「前略おふくろ様」放映スタート。 日活ロマンポルノ・SM女優「谷ナオミ」引退。 縄で縛って鞭で叩いて、こちらも随分お世話になりました。 実は彼、マー坊って言って六本木アフロレイキでボーイ長やってた奴なんだよね。 偶然にも委員長がジミーって奴と二人で新島行ったとき、偶然船で乗り合わせて、なんだかよくわからんノリで買わされちゃった。 お土産にって、彼女の分まできっちり二千円取られた。 こういうパブリックスペースで目立つカッコしてはいけません。 必ず行商のターゲットになってしまいます。 悔しいから、「俺らはエンバシーで働いてんだぞぉ~」とか思いっきりハッタリこいてやりましたが、島のディスコ「くろんぼ」でまたも再会。 ウェイターのバイトしながらプカシェル売り歩く、奴のそのフーテンの寅さん的生き方には頭が下がる思いでした。 (でもないか) いやー、でもこのプカシェル、確かに流行りましたよね。 アロハ風シャツに白のバギーパンツ、首には白いプカってのが当時の一般的スタイルだったですね。 ちなみに委員長は相変わらず原宿「ハラダ」のアロハにニットバギーでしたが、当時の不良仲間は、同じハラダのアロハでも上下ペアで買い込んでました。 今にして思えば「ジンベエ」だよね。 同時に、関東、関西で「ニュートラ」がちょっとした流行にもなりました。 アンアン、ノンノンの影響ですか。 そして極めつけは、キャロル解散、伝説の日比谷屋音コンサート、クールスが前でしゃがんでました。 キャロルの親衛隊クールスってことで、ストーンズの親衛隊ヘルスエンジェルス、みたいなー、って矢沢さん言っておりましたが、そうかなぁ~、ちょっと違うと思うんだけどなぁ~って思っていた委員長でした。 そしてこの年のレコ大は「シクラメンのかほり」布施明でした。 しかしこの年のディスコブームは本当に凄かったですね。 新島にもディスコあったし、式根島にも、さらに湘南海岸とか伊豆白浜あたり行っても、変な掘立小屋みたいなところで踊ってたなぁ~。 しかもぞうりで。 よく意味わかんなかったけど、それだけディスコのパワーが凄かったってことですね。 (本当に意味わかんねーぞ) さぁてと、委員長のビバヤング生活は更に盛り上がって、75年年明けと共に、旧バイト組と入れ替わるように続々と馬鹿たち(本当にどーしょーもないバカばかり)が入社してきました。 コトの発端は、委員長のバカ友・井の頭線三鷹台駅前で酒屋スーパーを営む家の次男坊君が、自分のバイトの後釜に中学の同級生だったケイゾーを紹介したことから始まりました。 そしてこのケイゾーと委員長の出会いは、道楽者人生に更なる興奮と衝撃の日々を与えてくれたのです。 続きはまた明日。。。。。。。。 横浜チャイナタウンの戦いは、仏のフジさんの期待を大きく裏切り、結局は深夜のチャン街をブラブラしただけで終わりました。 その後、アホ一行は元町のディスコ・アストロに行きましたが、ここらは閉店が皆早くて、商店街はすでに静かに眠っておりました。 仕方なく本牧の「リンディ」で踊って、再びチャン街の屋台のラーメンをすすって新宿に戻った道楽者たちでした。 委員長の新宿ビバヤングのバイトもかれこれ3ヶ月が過ぎようとする1月中ごろには、バカ友・酒屋の息子も第一次補欠入学の負い目を持つ身、そろそろ学校に真面目に行かざるをえなくなり、後ろ髪引かれながらも楽しいバイト生活に終止符を打ちました。 同様にバイト大学生古株二人も辞め、更に栃木のヤンキーにーちゃん、キャバレー上がりの揉み手あんちゃんなど、バイト組が続々と辞めていきました。 残されたバイトウェイターは委員長だけ。 更におさるのボーイ長までもが、無断欠勤をして店長の逆鱗に触れクビとなりました。 さあ、こうなると委員長の天下です。 相変わらず忙しい毎日でしたが、黒服連中や支配人などにも結構可愛がられて益々調子に乗る委員長は、バイトのくせしてすっかりホールを独り占めする存在にまでなりました。 好奇心の塊のような道楽者は店内の隅から隅まで知りつくし、19歳そこそこでディスコの顔役のようになった自分に酔いしれておりました。 ここで出会った数々の人の中でも取り分け面白かったのが、照明係のおっちゃんでした。 ブルー系のサングラス(当時はこんなスケベっぽいサングラスはあまりしている人が少なかった)にぼさぼさ髪、不精ひげにヨレヨレのジーンズ、年の頃は30代半ばといったところでしょうか。 ステージを正面にして店の最後部、細長い調光卓が置かれた縦長四畳くらいの照明室の主、それがこのおっちゃんでした。 劇団四季だかどこかに所属する照明のプロでしたが、委員長が徹夜麻雀明けの日などはここの入り口のドアの間に隠れて、よく居眠りをさせてくれました。 普段は無口でとっつきにくいおっちゃんですが、元々職人気質の人ですから、芸人には優しく、委員長のアフロを見て芸人志望の一人とでも思ってくれたのか、委員長にはとても優しくしてくれました。 そして、委員長がこの照明室に出入りした理由は、他にも理由がありました。 出番待ちの休憩時間に委員長のお気に入り、リンダがここに出入りするのです。 照明室の裏に同じくらいの奥行きで、照明室よりはやや広い楽屋があったのですが、男ばかりの部屋に居るのもイヤなのでしょう、優しいおっちゃんのところに来ては調光卓などを悪戯する彼女でした。 委員長より更に一回りくらい大きなアフロに、ピシッと体にフィットしたジーンズなどをまとった彼女は、そりゃなんともセクシーでした。 顔は委員長好みのモロ南方系、鼻はぺちゃんこ目はパッチリ、そうだなぁ、ドゥーリーシルバースプーンのバンプミーベイビーのシングルジャケットにあるアフロ娘みたいな感じでした。 (んなこと言っても、わかんねーだろうなぁ) また、声がハスキーで、片言の日本語が可愛かったですね。 姉さんの方はちょっと小金持ち風の日本人のオッサンに見初められて、その後結婚して辞めていってしまうのですが、とにかくこの二人の姉妹は非常にストイックで、営業終了後はバスに乗ってまっすぐ寮に帰り、浮いた噂のひとつもありませんでした。 委員長にしてみれば、とにかくアフロのねーちゃんが大好きだったってだけのことですが、姉さんの結婚とともに帰国してしまった彼女とは、この照明室で多少の会話をしたほんのつかの間の恋とも言えぬ淡い思い出だけでした。 ある日、徹マン開けのひしゃげたアフロで出勤した時、控え室の鏡の前に座っている長髪の痩せこけた貧乏臭いおねーちゃんに驚いた委員長は、その鏡の前のテーブルに置かれたアフロのかつらが、今委員長の目の前にいる貧乏臭いおねーちゃんのモノだと理解し、さらにそれが憧れのリンダ嬢であると悟ったのでした。 リンダ嬢は冷ややかな視線で委員長を見下すように一言、「パゲッ」と言い捨てたのでした。 そりゃ徹マン帰りでアフロはひしゃげてっかもしんないケド、ハゲはねーだろ、ハゲはー、とブーたれる委員長。 後に知ったことですが、この「パゲッ」っていうのはタガログ語で「ブス」とか「不細工」の意味で、確かに「ハゲ」ではなかったのですが、どちらにせよ、けなされたことには変わりなく、また、委員長憧れのアフロも地毛じゃなくて、更にそのかつらを取ったら単なるフィリッピーナだったことに気づいた委員長は、この日を境に淡い恋から目覚めたのでした。 (めでたし、めでたし) さて、照明係のおっちゃんですが、この人も結構麻雀が好きで、仕事帰りによく付き合いました。 おっちゃんは調子が出てくると必ず、「お~れぇは~、かわらの~、枯ぁれスス~キ~」などと唄い出します。 一体いくつなんだろ、この爺、などとも思いましたが、満員の店内でバンドのスポットをビシッと当てる時のおっちゃんは、さすが職人だなぁ、と感心させられることが多く、未だバンドマンの夢を捨てきれぬ道楽者委員長は、ステージアップの技術などを、ここで自然に学んでいたのでした。 あと、もーひとりおっちゃんの休みの日に代わりで来る、ちょっと毛色の変わったにーちゃんもおりました。 小柄なフォーク青年みたいな人で、結局、委員長とは一度か二度口を利いただけで消えていってしまいました。 生きてるのかなぁ~。 この人との会話第一声は、「君、僕と一緒にレバノンに行かない? 人民解放軍へ入って一緒に戦わないか」でした。 この一発はかなり強烈でした。 とにかく委員長の頭の中にあるどのカテゴリーにも入らない人物でした。 もちょっと人の頭見てからモノ言えよって感じでしたが、明るく好青年と言う感じで、厭味なところはありませんでした。 本当に2度ほどおっちゃんの変わりに来ただけでしたが、ちょっと不思議な人でした。 本当にレバノンに行ったのでしょうか? こんな変な奴らばかりの舞台裏でしたが、やっぱりお友達として面白かったのはバンドのメンバー達でした。 彼らは委員長のことを、アフロと呼び(タガログ訛りでは、アプロって発音します)、小僧のように使われたこともありましたが、彼らから学んだ音楽知識は、後の委員長の音楽活動に多大な影響を与えてくれました。 これはマジで本当です。 楽曲のコピーの仕方や、コーラス、ボイスコントロール、エンターティメントとしてのショーアップ、チームワーク等など、バンドにこだわらず芸人としてのプロ意識みたいなものを自然に学んでいた委員長でした。 その代わりといっちゃなんですが、よーく軟派のお手伝いもさせられました。 とにかくバンドマンは皆スケベーです。 と言いながらも、一緒につるんだ委員長も結構スケベーなヤツだったのでしょう。 しかし当時のバンドマンはモテましたね。 何はともあれモテました。 こんな不細工なヤツなのに、なんでモテるのかなぁ、などという素朴な疑問もありました。 19歳の委員長にはまだ女性を見る目も、遊び方も、そりゃまだまだ子供でしたから、彼らとつるむようになって、こんな世界もあるんだ、というような好奇心丸出しの世界でした。 まあ、言い寄ってくる女が、みぃ~んな良い女とは限りませんが、手当たり次第に手をつけてしまう節操のなさと言うか、腰の入ったスケベーというか、フィリッピン人特有の感性だとばかり思っていた委員長でしたが、後年、バンドマンのスケベー根性はボーダーレスなのだということを体感するのでありました。 アメリカ映画「燃えよドラゴン」の超大ヒットで、世界的なヒーローとなったブルースリーですが、残念ながらその栄光のBENEFITを受ける間もなく他界してしまいました。 (合掌) 74年はそんな彼が残した過去の作品(香港映画)が続々と公開され、空前絶後のカンフーブームと相成りました。 ディスコでもカンフーや空手を取り入れたダンスバージョンが現れ、踊りにもそんな影響がチラホラと出ておりました。 以前にご紹介した「吼えろ!ドラゴン・カンフーファイティング」なども、その典型的なパターンで、一時「カンフー」などという踊りも出たりしました。 何のこたぁない、ハッ、アチョーッとか言って空手の真似をするだけなんですが、これが結構面白くて、ジェームスブラウンのLAのライブ(委員長はVIDEOで見たのですが)では、JBでさえ、良く分からん構えで空手の真似なんぞもしてましたね。 竹中直人(漢字間違ってない?)氏が、デビュー当時よくこの「燃えよドラゴン」のワンシーンの物真似をしてましたが、あんな感じの人がディスコにはザクザクおりました。 サントラ盤なんかも時々かけるDJがいたりして、フロアでブルースリーの物真似合戦みたいなことになったこともありました。 さすがに委員中はSOUL小僧だったので、どちらかというとブルースリーよりは黒人武道家ジム・ケリーの方に関心がありました。 彼もB級映画では「ブラックドラゴン」の名で活躍しており、かなりの人気がありました。 つい最近では、「UNDERCOVER BROTHER」っていうかなりおバカな黒人B級映画にゲスト出演しています。 ちなみにこの映画、なんと、あのJBもゲストで出てますし、70年代のディスコヒットや、当時の黒人のファッションとか文化が散りばめてあって、道楽者の親爺にはお薦めの映画です。 ということで、当時委員長が働いていた新宿南口ビバヤングの従業員も、皆一様にかぶれまして、特におサルのボーイ長などは委員長が高校生の頃に買ったヌンチャクをプレゼントしてあげたら、異常に喜んで、仕事が終わると赤いちゃんちゃんこを脱いで毎晩振り回しておりました。 もちろんこのワイロのおかげで委員長の待遇がずば抜けてよくなったのは言うまでもありません。 それとは別に、このカンフーブームを冷ややかな目で見る一人の道楽親爺がおりました。 彼の名は、藤井幹候(カンコウは名前じゃなくて幹部候補生の略ですヨ)、別名仏のフジさん。 麻雀がやたら弱いくせにすぐに仲間に入りたがり、もらったばかりの給料を丸ごとむしりとられてもちっとも懲りずに遊びたがる、変なおじさんでした。 元々は車輌部で重役方の運転手をしているのですが、大した仕事もなくぶらぶらさせておくのはもったいないということで、夜の6時頃から11時までは店に勤務させられたのでした。 11時を過ぎると、系列のキャバレーやクラブへ接待のお客様の送迎をしたり、重役の送迎などに回ります。 特別、運転手の仕事がない日は閉店時間の深夜2時間まで店にいて、閉店後は皆で麻雀を打ったり、飲みに行ったりしていました。 鴨がネギ背負って歩いているような、すでに30歳近いボーっとしたおっさんでしたが、委員長たち若手には結構人気がありました。 彼のポジションも結構いい加減ではっきりした序列もないので、中途半端な存在がバイト組と似ていたこともあり、歳の差があるわりにはよーくつるんで遊びました。 運転手と言っても早いときは11時に送迎に行って、12時前に帰ってきてしまいます。 もちろん本来なら早く送迎が終われば、また店に戻らなければいけないのですが、そこはそれ、もしそんな真面目な人だったら、この歳までこんなとこでグダグダしてるわきゃないので、間違いなく道楽者の一人でもありました。 そして委員長たちは、このおっちゃんが送迎のあとの社用車を自由にできることを見逃しませんでした。 バイトのお仕事は12時で終わりです。 送迎が早ければ11時30分にはおっちゃんが戻ってきます。 遊び盛りの道楽者が集まれば悪事の相談も即決です。 DJのマチャアキとか酒屋の息子などが委員長と一緒になって、おっちゃんを遊びに誘います。 仏のフジさんは子供たちに慕われるとイヤとは言えません。 それに下手に逆らうと、フジさん一番の楽しみである麻雀の仲間に入れてもらえません。 ということで、麻雀でフジさんから巻き上げた金で懐が少し暖かくなると、今度はドライブをおねだりして深夜の六本木「ソウルエンバシー」などへ繰り出す委員長たちでした。 こんだけカモられてもグチのひとつもこぼさず、一緒に遊んでくれた仏のフジさんですが、 ついにその本性が露になる事件が起きました。 ある日のこと、いつものようにフロアで暴れるタコを皆でボコボコにして店から放りだしたところ、なんとこのタコが応援を連れてリベンジに現れたのです。 ボコボコにされてゴミくずのようになったあんちゃんが連れてきたのは、ボタンのない蛇腹の学生服を着たガタイの良い二人組でした。 支配人以下黒服数名が居並ぶ、ビバヤングのフロントに現れた二人組は静かに、そして迫力のある言葉で言ったのです。 「どういう理由でコイツがこんなめに遭わされたのか説明してもらおうか」 結構な迫力に少しは引きかけた支配人のネズミの梅ちゃんは、その強面の顔とは裏腹に意外と小心者だったので、すぐに黒服たちに問いかけました。 「誰か知ってるか?」 そこで結構イケイケな黒服、白川カンコウ、大池カンコウが名乗りをあげます。 「踊り場で暴れたから帰ってもらっただけだけど、こっちも商売だから他のお客さんに迷惑がかかると困るからね」 騒動を聞きつけて、その他の黒服やウェイター君たちがどっとやってきます。 学ラン二人組はひるまず言い返します。 「だからってこんなに殴ったり蹴ったりしていいのか」 「こっちも従業員が抑えるのに怪我してんだよ」 大池カンコウがフロント前エレベーターの横の非常口を開けて言います。 「ここじゃ他のお客さんの迷惑になるから、こっちで話そう」 これは話じゃ埒があかないから殴り合って決着をつけようという無言の合図です。 大池カンコウ、白川カンコウの二人が先導して非常口に出ます。 ボコボコ野郎はエレベータ前に置き去りです。 4人が出て非常口のドアが閉まりかける寸前、仏のフジさんがパッと滑り込みました。 ガーンと音を響かせてドアが閉じた瞬間、ドタンバタン、ゴツゴツ、ンナローッ!ウッ!バタッ。 静かにドアが開いて目に青あざの大池カンコウ、蝶ネクタイがちぎれた白川カンコウ、そして鼻血と口から血を滲ませた学ラン二人組が出てきます。 その後ろから仏のフジさんが出てきて、エレベータの下階ボタンを押します。 フジさんは委員長を見つけて「下まで送ってやって」と声をかけます。 委員長はおずおずと開いたエレベータにボコボコ野郎を乗せて、1階のボタンを押します。 学ラン二人組とフジさんが乗り込みます。 従業員全員の熱い視線の中、エレベータのドアは閉じました。 密室の中、出入口のボタンを押す委員長、その後ろに学ラン二人組とボコボコ野郎、そしてその後ろにフジさん。 この時ほど1階までの到着時間が長かったと感じたことはありませんでした。 無言のまま到着したエレベータから降りる学ラン二人組。 目頭と口に血を滲ませた学ランがフジさんに一瞥くれて、 「あんたも若いねぇ」 そう言い残して3人は紀伊国屋方面へと立ち去りました。 前で手を組んだ姿勢のフジさんの手の甲は、皮がすりむけて血が滲んでいました。 その時のフジさんの顔はいつもの仏顔でなく、蒼白のホラー顔になっておりました。 「奴らさぁ、パッと見たときにさ、拳ダコがあったからさ、こりゃまずいと思ったのさ。 いくら大池でもさ、やばいかなと思ってね」 この痩せ型の単なるボーっとしたオッサン、藤井カンコウが剛柔流二段の凄腕であることを、この時初めて知った委員長でした。 つまり、運転手の仕事もその腕を見込まれてのことだったわけですが、みかけは単なる淋しいオッサンのクセにこんなかくし芸があったことは皆知らなかったのです。 さて、話は戻りますが、委員長他道楽者一派はこうしてよくフジさんをそそのかしては、夜遊びを繰り返していたのです。 しかも遊ぶ金はその本人から麻雀で巻き上げた上に、会社の車を持ち出させたあげく運転手までさせて、やりたい放題の道楽三昧。 ところが、度重なる夜遊びに、ちょっと疲れたフジさんからクレームがあがりました。 「ディスコもいいんだけどさ、俺踊れないし、酒も飲まないから。。。。 俺はどっちかというと麻雀の方が良いんだけどな」 さあ困った委員長はすぐに見え透いた企画をぶち上げます。 「フジさん、横浜行ったことある? 中華街。 あそこはさ、やっぱカンフーの本場だからさ、スゲーのがいっぱいいるらしいよ」 「カンフーていうとやっぱり少林寺拳法かな?」 異常にノリ安い人でした。 「さあ、太極拳とか、色々あんじゃないの?」 更に膨らます委員長。 「そんな奴らがウロウロしてるの?」 フジさんだいぶと本気です。 「さあ、俺も見たわけじゃないけど、結構腕自慢がゴロゴロしてんじゃないの」 ここまでくればサクセス! 「行ってみようか?場所分かる?」 しめしめ、今夜は横浜まで遠出だぜい。 12時、待ち合わせの甲州街道でフジさんと落ち合った委員長たちは唖然とします。 なんとチャイナ服を着込んだフジさん、しかも丸型のサングラスをかけてニヤニヤしています。 更に車のトランクを開けて、自慢げに委員長たちに見せたものは、ヌンチャク、トンファ、サイ、白の空手着、一体この人は。。。。。。。。。。。 さすがにビビッた委員長でした。 1974年頃のディスコバンド この時代はロックバンドからディスコバンドへと、流れが変わって行った時代でもあります。 それ以前は新宿アシベなどに代表される、ゴーゴー喫茶(喫茶っていうところがスゲー)とか、アングラ・パブとか言われる、実態のつかみにくい店が主な踊り場でした。 といっても、この頃の委員長は小学生高学年から中学生くらいの歳だったので、実際に体験したことはありません。 従兄弟の姉ちゃんとか兄ちゃんの話を聞いて想像をめぐらせたものです。 俗に言う耳年増そのまんまですね。 アシベはグループサウンズ時代の名門でしたから、昔から黄色い声(昔はよくこーゆー表現してましたね)を上げて失神しちゃうような女子高生とか、俗に言う不良の溜まり場でした。 委員長も一度、タイガース見たさに従兄弟の兄ちゃんに連れてってもらったことがありますが、道路までとぐろを巻いた異常な列に、結局入場できず、新宿コマボウルでボーリングやって帰ってきました。 そんな委員長が怪しい踊り場に出入りを始めたのは、高校生になってからのことでした。 新宿で特に今でも印象が強いのはなんと言っても「サンダーバード」ですね。 穴倉みたいな店でいかにもアングラって感じだったし、名前からしてSOULというよりはROCKって感じの店でした。 当時の委員長はカッコこそツッパリでしたが、内面はグランドファンクとかツェッペリンとか長髪のROCKERに憧れていたので、結構お気に入りの店でした。 客層も革ジャンにボンタンやコンポラ等の、いわゆるヤンキー兄ちゃんに混じって、長髪キタナ系ヒッピー姉ちゃん、兄ちゃんがいたりして、危ない雰囲気は最高でした。 それにこの当時、店内であんぱん(シンナー)吸ってたのは、ツッパリ小僧じゃなくてフーテン系ヒッピーでした。 さすがにロックじゃステップは踊れませんが、そこはそれなりにゴーゴーダンスばりのテキトー踊りや、プラウドメアリーみたいな曲はステップで踊ったりとか、適当に客がそれなりにバリエーションを楽しんでおりました。 中には長髪のラリパッパ姉ちゃんみたいなのが、JBLのスピーカーに頭突っ込んで髪振り乱して首振ってたりして、結構わけわかんない店でもありました。 当時を振り返って印象に残っているのは、「太陽に吠えろ」のテーマをかなりスローダウンして、けだるいビートにディストーションの深いギターを載せたバンドの演奏が、まさに新宿って感じで思春期真っ只中の委員長を興奮させました。 早速家に帰ってからギターの練習、よく真似して弾きました。 もちろんのこと、この頃のバンドはすべて日本人でした。 あとは新宿歌舞伎町のど真ん中、ジョイパックビルの7階(だったと思います)にあったプレイハウスが結構渋かったですね。 記憶にあるのは双子のディオシンガー・キューピッツ。 彼女たちは後年マキシマムって名前で、チャーリーズ・エンジェルスのサブテーマでデビューしました。 英語で歌ったテーマ「NOTHING」は結局売れなかったですね。 (無念) あとは後にフーリンカザンってバンドでデビューしたグループが出てました。 当時のレパートリーで記憶に残っているのは、マンドリルのフェンスウォーク、ホットチョコレートのブラザールイ、ドゥビーのロングトレインランニング、ウォーのミーアンドブラザー、CCRのプラウドメアリー、カーティスメイフィールドのフレディの死、スティービーの迷信、サンタナは結構演ってましたね。 ブラックマジックウーマン、エビルウェイズ、僕のリズムを聞いてくれ、サンバパティ、皆定番って感じだったですね。 あとは、スライのサンキュー、テイクユーハイヤーとか、ファンキーというよりはブラックロックみたいな呼ばれ方してましたね。 かなり昔のことなので、時代がちょっとズレているのもあるかも知れませんが、コピーの宿命というか、管楽器の少ない曲が多かったです。 時々ツイスト系なんかも混ざってました。 同じく歌舞伎町のパブトゥゲザー(当時はパブだった)も有名でした。 ご存知のように、JBはじめ一流どころが過去にステージを踏んでます。 そしてこの後、この流れを塗り替えた一発が登場します。 KOOL &ザ・ギャングのファンキースタッフです。 よく、ディスコの流れを変えたのはコモドアーズのバンプだったと言われてますが、正直言って委員長が当時遊んでいたディスコではあまり踊った記憶がありません。 どちらかと言えば、ファンキースタッフの大ヒットというか爆ヒットの方が印象が強いです。 とにかくどこもかしこもこれがかかると大騒ぎでした。 一度、横須賀どぶ板通りの刺繍屋の息子に誘われて、横須賀ニューサンタナへ行った時などは、夜中にブラザーが酔っ払ってホイッスルをピーピー鳴らしながら歩いてたし、CAN GET ENOUGH! ってトコでRIGHT ONとか合いの手が入ったりと、そりゃもう凄い勢いでした。 このアルバム、ワイルド&ピースフルは最高傑作だと思うし、これほどディスコDJに重宝されたアルバムは無いのではないでしょうか。 委員長もバンドマンに憧れ、弁当代をちょろまかしながら丸井の月賦で買ったグレコのテレキャスターが、ついに日の目を見ることになったこの当時のことはしっかりと覚えています。 当時のギタリストの憧れはレスポールかSG、ちょっと渋めでストラト、テレキャスはいまいちメインの座からは外れておりました。 だから丸井でも一番安かった。 二万九千円、月々二千九百円の10回払い。 仕方なくキャロルなんかをコピーしていた委員長は、このテレキャスの凄さを知らぬまだガキンチョでした。 やたらとデカイ音にして歪ませるギターしか知らなかった委員長は、ギターも打楽器の一種なのだと気づいたのがファンキースタッフでした。 このリフ、カッティングはまさに目から鱗状態。 ギターの使い道は奥深いことに気づいた委員長でした。 更に新宿ビバヤングでフィリッピンバンドとお友達になった委員長は、彼らの演奏するエリッククラプトンのアイ・ショット・ザ・シェリフでレゲエ、ロック、ソウル、音楽にジャンルはないのだ、ということを身を持って知ったのでした。 踊っても、聞いても、気持ち良ければ、それがすべてだということを悟ったのでした。 ちなみにこのとき、彼らからロングトレインランニングのリフや、JBのセックスマシーンのカッティングなどを伝授され、いよいよ道楽者の泥沼にハマっていってしまった委員長でした。 ちょっと話が道楽者過ぎたかなぁ? わかりづらかった人は、また明日のバカ話をご期待下さい。 クリスマス篇<PART3> ディスコの裏話、バイオレンス系が続いたので、今日は音楽の話をしましょう。 まずはクリスマスで一気に盛り上がっていく、新宿のディスコシーンをざっと振り返ってみます。 当時のヒット曲で特に印象深いのが、「吼えろ、ドラゴン/カンフー・ファイティング」ですね。 この曲は出だしにちょっとした仕掛けがあって、妙な雄叫びと中国風のメロディーの絡みから入っていきます。 チャイナタウンを鼻歌で歩く武道家ってなイメージのイントロです。 このようなイントロが長めのダンスナンバーは、チークタイム開けのトップナンバーによく使われました。 照明の落ちたダンスフロアーには数組のカップルが抱き合ってチークを踊っております。 パートナーのいないあぶれた客(ほとんどが野郎)は、各テーブルで仕方なく酒飲んでツマミ喰ってウダウダしています。 スローナンバーがゆっくりとフェイドアウトして音が消えかかる頃、「おっほほほーっ~、おっほほほーっ」店内に響き渡る雄叫びが、テーブルの客は一斉に立ち上がってドドッーっと先を争うようにダンスフロアに突進していきます。 その姿は、まるでサバンナの獲物に群がるハイエナの一団のように、皆踊り場目指して突進していきます。 通路は満員電車の乗降口のようにごった返し、この時ばかりはウェイター君たちもサッと両脇に寄ってこの流れを通過させます。 さて、フロアはそれぞれのポジション争奪戦も終わり、今や遅しと曲の幕開けを待つ顔に、照明係のおっさんの粋な計らいでスポットライトが思わせぶりにフロアを照らします。 「Everybody was KunFu fighting! 」 出たーっ! バンプ・ビートに全員噴火、ドカーンと一気に昇天、更に煽っていくDJ。 基本的に踊りはバンプだったのですが、そりゃ相手あっての踊りですから大概の野郎は好き勝手に踊るしかありません。 時々、野郎同士でバンプを踊ったりする「しったか野郎」もいましたが、気持ち悪かったですね。 男同志で尻ぶつけて何が楽しいんでしょうか? この当時、ジ・アザー、ゲットなどのステップも生きておりましたが、バンプの大ヒットで踊り場は急激な進化を遂げていきます。 スティービー・ワンダーの迷信(スーパーステーションって、スゲー駅があるのかと思っていた奴らも少なくない)のプッシンクールとか、ペンギン、ホットパンツ、ブレイクダウンとか、一人でバリエーションを作れる踊りを適当に混ぜて踊ることが多かったですね。 これらを全部ひっくるめてステップって呼んでるけど、委員長は、これはステップとは言わないような気がしますね。 (当時から同じ思いでした) 例えば、シュープリームスのStop in the name of love とか、振り付けの入ったものなんかがステップってことで、その他はフリーダンスのバリエーションというかパターンだと思うんですけどね。 オージェイズの裏切り者のテーマとかジャクソンファイブの窓辺のデートとか、足の動きは皆一緒なんですけど、曲のブレイクに当たるところで曲に合わせた上半身の振り付けが入るのが特徴ですね。 あと、ゲットレディなんてのは果たしてステップっていうのかなぁ?なんて思ったりしますよね。 だって、あれ足(ステップ)に動きって特にないでしょ。 今思えばタケノコ系かななんてね。 ゲット、レーディーって手打って指差したりなんかして、いわゆるステージで歌う時の振り付けだよね。 可愛い人よとかも同じですね。 だって、その後出てくるウォーターゲートとかオールドマンなんてのは、ステップ扱いはしてませんよね。 名前=ダンスでした。 そこいくと、やっぱりチャチャはすごいですね。 これはマンボとかモダンダンスの流れですから、不滅のステップというべきですね。 ジ・アザーとかの流れで、当時すでにオッサン近くの年代の人にプロフェッショナルみたいなチャチャおじさんが結構いましたね。 数人の仲間で並んで踊って、チャチャの間にいろんな呼び名のステップが入ってきます。 リーダーが声をかけて、「アオヤマ」とか「ターン」とか色々なバリエーションをアドリブで加えていきます。 これはカッチョよかったですね。 今ならさしずめジャニーズ系ですか? ハマチャチャとか、ニューチャチャとかそれぞれの土地によって独自のアレンジが施されていました。 つーことで、昔は結構ステップなどと言う敷居が高かった「踊り場」も、バンドが入った大型のパブ系の登場で一般市民にも開放されたって感じですかね。 タイミング的にも、バンプみたいな男女ペアで踊るアメリカ風文化も適度に入って、ちょうどこの時代が変わり目だったのでしょう。 当時、「アメリカン・バンプ」なんて名でよく紹介されてましたけど、じゃ、イングランド・バンプとかジャーマン・バンプとかあるのかって突っ込みたくなりますよね。 誰ですかね、こーいったテキトーぬかすヤツは。 それから、やっぱりこの時代のスパースターはスリーディグリーズでしょう。 「荒野のならず者」スゲータイトルですよね。 なんか西部劇の主題歌みたいに思ってたヤツも随分おりました。 「エッチね、このスケベ親父は」ってな歌なんですけどね。 これも何故かチャチャでした。 スリーディグリーズはすべからくチャチャ専門でした。 ちなみに空前絶後の超ヒット「TSOPソウルトレインのテーマ」も何故かチャチャで踊ってましたね。 一度、委員長とDJのマチャアキでビバヤングの店長にお願いして、ソウルトレイン・ゲームをやらしてもらったことがありましたが、悲惨な目に会いました。 TSOPが流れた途端、皆で並んで一斉にチャチャ大会。 店長には「何これ?」って言われるし、一部ソウル通のお客には「ダッセー!」とか罵られる始末。 新宿では無理なのだとしみじみ悟った委員長でした。 実は、このソウルトレイン・ゲームっていうのは、マチャアキDJとか委員長たちが仕事の終わった深夜、車輌部の運転手のおっさんたぶらかして、よく横浜まで遠征したときに覚えた遊びだったんですね。 横浜の本牧町に「リンディ」っていうおしゃれなディスコがありまして、店の中にロールスロイス(だったと思う)のボディがディスプレイしてあって、その中にDJブースがある、当時としてはかなり進んでいたお店でした。 お客も当然のこと、ベースの人たちですからちょっとした外国に来た雰囲気ですね。 でもって、深夜ながら、客で賑わってくると、従業員からアナウンスがありまして、「今からソウルトレイン・ゲームをやりますから二列に並んで下さい」って言われてフロアに出て、中央を開けて二列に並びます。 ここでTSOPがかかって、順番にペアで踊りながら中央のスペースを抜けていく、というTVのソウルトレインのシーンを再現するわけです。 ベースのブラザーたちは当然パートナーと来ていますから、踊りは下手でもそりゃペアでちょっぴりセクシー、「おーカッチョいいなあ」って身震いするほどしびれてしまった委員長だったわけです。 閉店時間が来て、興奮冷めやらぬ委員長たち新宿のアホ一行は、道路を挟んだ対面のゴールデンカップスで夜を明かしてから、スゴスゴと新宿へと引き上げて行くのが慣わしでした。 このカップスも由緒ある店で、キャロルなんかも出てた老舗でした。 当時はもうさびれかかってて、白人の酔っ払いが男同士でウダウダしているような店だったですね。 あと、新宿ではほとんどの大箱にバンドが出てて、これがまた結構生かしてました。 まだ日本人のバンドが大勢いました。 いつの間にかみいーんなフィリッピンバンドになっちゃったんですけどね。 安くて重宝されてましたが、彼らもソウルドラキュラあたりが流行り出す頃にはお払い箱になっていきました。 道楽者の末路は万国共通です。 (寂) クリスマス篇<PART2> 12月に入ってからというもの連日連夜続く盛況な客足に、普通でも2回転、週末ともなると3回転4回転はざらで、ウェイターのお仕事はそれこそ一服する暇もなく立ちっぱなしの歩きっぱなしで、何とか終電で家にたどり着いた途端にバタンキューってな感じで、バイトとは言え仕事のためだけに人生があるような毎日でした。 12月は一人千円のクリスマス・セットというのが強制的に付くので、売り上げは一気に上がります。 セットというのは1本百円くらいのシャンパン(単なるサイダー)と、紙製の仮面マスクに紙笛(駄菓子屋で売っていそうな安物)が付いてるだけなんですが、さすがキャバレーでのし上った会社ですから、使えるノウハウはしっかり踏襲するわけです。 近所の同系列のキャバレーから同じセットをぶら下げて、赤ら顔でふらふら出てくる親爺を見るたびに水商売の奥の深さにつくづく感心したものでした。 それとは逆に、文句も言えずこんなもの千円で買わされた挙句、人ごみの中で安い酒飲んで大騒ぎでもした日には、従業員に袋叩きにされて店から放り出されるという悲惨な目に遭う人々を見て、委員長は、一体この熱狂はどこから来るものなのか、はたまた、世の中の常識というのは一体何を基準にしているのか、そんな疑問を抱いたものでした。 やはり12月といえば忘年会シーズンですし、大学生あたりは早くも冬休みに入りますから、お客の多くがグループ・団体になります。 早い時間から来るお客のほとんどはダンスが目当てですから、さほど問題はないのですが、9時、10時を過ぎてやってくる客、特に団体は、ここにたどり着くまでに相当呑んでますから、既に出来上がった状態で入店してくるので些細な事でも大騒ぎになります。 委員長の体験から学んだセオリーですが、6人を超えるグループには必ず問題を起こすトラブルメーカーが紛れ込みます。 5人だと多数決で必ずどちらかの意見が有効になりますので、たとえトラブルメーカーがいても小難でやり過ごせます。 ところが6人となると、仮に3対3で意見が割れるとトラブルメーカーの主張がどっちにしろ大難を招きます。 更に6人以上の団体の場合、かなり高い確率で問題児・トラブルメーカーが紛れ込んできます。 これはいかなる団体にも当てはまる法則とも言えるでしょう。 そしてディスコでよくあったのが、ダンスフロアで足を踏んだ、踏まないのケンカですね。 これは完璧に一定のパターンで起こります。 必ず被害者はそこの常連か、あるいは遊び慣れてる人です。 そして加害者はかなり泥酔して大だこ踊りをやらかすタコです。 すでにこのタコがダンスフロアに登場した時点で、すぐに周りの常連とか遊び人の目に留まり、暗黙のうちにフロアの悪役となります。 さて、誰が殺るか?という暗黙のコミュニケーションが行われます。 ターゲットの分析はその外見から始まります。 学生風あるいは社会人、年齢、地位、身長、体重、酔い加減等の調査が済むと、バカの代表者が名乗りを上げるようにして足を踏まれるか、タコの手に絡まれに行きます。 そこでまずガンが飛び、ちょっとした態度「やっちゃうぞテメー」といった感じで威嚇して警告を促します。 ここで仲間が気づき、タコを抑え込みにかかれば難を逃れられるか、あるいはトイレとかで「怪我しないうちに帰った方がイイぞ」とか凄まれる程度の小難で収まりますが、仲間が結構イケイケだったりとか、ヤバイと感じないノーテンキなシヤワセグループだったりした場合はいよいよ場外乱闘となります。 ここで被害者と加害者が見事に逆転します。 ダンスフロアで迷惑踊りを繰り返す加害者タコは、「インネンこかれて」チョーパンとか膝蹴りの被害者となります。 被害者だったバカの代表は、踊り場の皆さんのためと言う大義名分によって制裁を加えた時点で加害者となります。 通常は被害者タコが、鼻血ブーとかその場でうずくまることで事態は一気に収束しますが、時に外見と相反して根性のあるヤツとか、泥酔していて痛みを感じないヤツだったりした場合は、逆上して大暴れします。 更にここで被害者と加害者が再度逆転します。 加害者バカは、大声出して暴れる被害者タコを、踊り場の皆様のためにと、強い正義感から天誅を加えます。 乱闘に気づいた店の従業員が直ちに止めに入ります。 加害者バカは手馴れたもので、「この人酔っ払ってて手がつけらんないんすよ」と見事被害者に転じます。 「なぁんだとぉー、お前が先に手ぇを出したんだろぉーう」と、ややロレツが回らない態度の被害者タコは手を振り上げて抗議抵抗、しっかりと加害者になりきってしまいます。 そんな踊り場の騒ぎに、黒服以下店員の有志が待ってましたとばかりにやってきてタコを取り押さえ、フロアから引きずり出します。 「おれぇはきゃくだぞぉー」とか更に暴れるタコは、あちこちから出てくる手や足でボコボコにされながら裏の非常口に消えていきます。 委員長たち毎日コキ使われているウェイター君たちは、ここぞとばかりストレス発散、「やめろ、やめろ」のかけ声の下、羽交い絞めにしたタコをこらしめます。 タコは思わず叫びます。 「お前らがやめろ!」 そして、委員長たちストレス一杯のウェイター君たちにとって最高のシュチュエーションは、タコ対タコ、更にタコグループ対タコグループの乱闘が何よりのお好みです。 タコは理屈が通りませんから、とにかく蹴って殴って黙らせるのが一番。 しかも双方ともボコボコにして店から追い出しても、悪いのは当事者同志、お店は迷惑していますってことで、たとえお客が怪我したところでお互いのケンカで怪我したんだから仕方ありません、といった具合にどう転んでも加害者にはなりません。 やれやれ、今日も一日お疲れさん、店の外に出た委員長の目に、ごみクズと化した千円のクリスマスセットが寒空の新宿の道端のあちらこちらに虚ろに転がっておりました。 高いお金を払って、蹴って殴られ叩き出されたお客様は、果たして神様なのでしょうか? クリスマス篇PART<1> ということで、新宿ビバヤングは12月に入ると、クリスマス~師走~新年に向けて、色々な模様替えが行われました。 まず、新しいバンド・サウンドウェーブスがフィリッピンからやって来ました。 これで毎日2バンドが出演し、その合間にDJが入るという豪華絢爛、大型パブディスコの面目躍如と言ったところでしょうか、南口あたりのディスコシーンの話題を独占したようなものでした。 従来のバンド・リップヴァンウィンクルは、まあ並みのバンドというか、ギター、ベース、キーボード、ドラムスにサックスとヴォーカルが入ったコンボだったのですが、サウンドウェーブスは当時では非常に珍しい、トランペット2、サックス1の管セクションが入った大型バンドでした。 ユニフォームもビシッと揃え、かなりショーアップしたバンドだったので、対バン(対抗バンド)はやたらと影が薄くなっていってしまいました。 委員長のお気に入り、ゲバラ・シスターズはこの二つのバンドとうまくセッションして、かぶったレパートリーをうまく使い分けながらステージに花を添えておりました。 しかし、このSOUND WAVESのコピー技術は本当に素晴らしかったです。 委員長も当時はBANDに憧れ、ちょっとはギターなどもかじっておりましたが、それでもシンプルなロックバンドのコピーでさえ、中々うまいと思えたバンドにお目にかかったことはありませんでした。 ざっと思い出しても、KC&ザ・サンシャインバンドのファンキーホーン、オハイオプレイヤーズのファイヤー、ハービーマンのハイジャック、BTエキスプレスのドゥイット、テンプテーションズのハッピーピープル等、DJのレコードからそのまま演奏を引き継ぐなんてこともやって、客席で聞いているとDJからバンドにいつ切り替わったのかわからないほど見事なテクでした。 となると不思議なもので、それまで結構イカしてると思っていたリップヴァンウィンクルが、何だか汚いフーテン上がりのバンドのように見えてきて、お客のウケも次第に歴然としてきます。 バンドのバロメーターは、ダンスフロアにどれだけのお客を動員できるかってことですから、結果はありありと見えてきてしまいます。 ちょっと可愛そうだったですね。 DJの方はというとN観光専属のマチャアキこと立石君と、週末だけ立川ベースからやってくる黒人のウィリーが受け持っておりました。 ブラザー・ウィリーとはあまり親しくなかった委員長ですが、彼と初めて挨拶を交わしたのは、なんとビバヤングのトイレの中でした。 委員長が用足ししているところに後からやってきたウィリー、委員長の頭を見て仲良しと判断したのでしょう、となりに来てジャンプスーツのジッパーを下ろしました。 当時の委員長、英語なんぞは中学以来喋ったこともなければ、外国人と二人っきりになった経験もありませんでした。 しかもトイレという限られた空間の中のことですから、必要以上に緊張は高まります。 ウィリーは気軽にハーイってな感じで話しかけてきて、勝手にベラベラと話し続けます。 一体何を喋っているのかチンプンカンプン、ただただ愛想笑いをして、早く用足しが終わることを祈るばかりでした。 しかしこの時委員長は、重大なる教訓を得たのです。 「人間が一番無防備なときは用足しをしているときだ」 そうです、もし用足し中に襲われるようなことになったら、用は止まらん、一物掴んだ手は離せん、ズボンは汚す、こんな状態では応戦不可能です。 だから危なそうなトイレに入るときは「大」用を使うか、一人では入らないというのが不良の心得第一条なのです。 (ほんとかよ) 確か、TVドラマ「太陽にほえろ」で萩原健一演じるマカロニ刑事が、立ちションしてるとこを暴漢に襲われて死ぬってシーンがありましたが、どんなに腕に自身のあるヤツでも、用足しの最中に襲われたら無抵抗でアウトですね。 それでもウィリーのジャンプスーツが気になっていた委員長は、そっと視線を彼のジッパーに向けると、彼のスーツの中央、胸の辺りから下半身にむけて一直線に伸びたジッパーは、ダーっと一気にご開帳、胸の辺りからは縮れた胸毛なども見え、へその下の更に黒い茂みまで肌けて、なんとそこにはSHAFT黒いジャガー(アイザックへイズですね)が顔を覗かせていたのでした。 ジャンプスーツでの用足しは、かなり情けないカッコになるのだということも学んだ委員長でありました。 DJのマチャアキは博多出身の九州男児、プロのJAZZドラマーを目指して上京、N観光のDJ見習いに応募、数ヶ月のDJ研修を受けてビバヤングに配属となりました。 この時の同期生に、後のディスコ業界で一旗上げた新宿のジュリーこと鈴木昇二氏がいて、彼は姉妹店の歌舞伎町Q&Bに配属されました。 もうひとつの姉妹店、西口ブイワンは誰が行ったのか知りませんが、後年委員長も各店をめぐることとなり、更にマチャアキ、ジュリーとも深く関わっていくことになるのですが、今考えると、このビバヤングとの因縁は運命的なものさえ感じてしまいます。 (でもないか?) さて、イベント的にはこんな模様替えがありましたが、ホールの方もかなり忙しくなってきて、入れ替わり立ち代り色々なヤツが出たり入ったりの毎日でした。 まさに水商売そのもの、水が流れるように人もどんどんと流れていきます。 開店時に新人社員です、と紹介されて、翌日にはもういなくなってるなんてことがザラにありました。 ただメシ喰いにきただけですね。 中でもこいつはスゲーって思ったのは、昼頃来て今日から働かせて下さい、ってメシ喰って、マネージャーにクリーニングの引き取り頼まれて千円だかそこらもらってそのまま帰って来なかったっていうヤツ、これは良い仕事しましたね。 半日給1000円メシ付き。 まあ3日持てば良いほうで、大抵が1日か2日で消えていきました。 それだけシゴトが大変だったってことでもありますが、どちらかと言えばバイトの方がしっかりしてて、正社員として入社してくるのは流れ者みたいなヤツが多かったですね。 今思い出しても、あの忙しさは尋常じゃなかったですね。 人ごみの中でボトルやグラス運んで、テーブル片付けて、また案内して、片付けて、って休む間もなく終電時間まで延々と続くわけですから。 ほんと人ゴミですよ。 人のゴミの中で泳いでるボーフラみたいな感じ。 あるときなどは製氷機の製氷が間に合わなくなって、近所のキャバレーに氷もらいに行かされたりしました。 寒空の新宿の繁華街をデカいバケツに山ほどの氷を入れて、ヨイショ、ヨイショと運ぶアフロのにーちゃんを想像して下さい。 しかも赤いちゃんちゃんこみたいなベスト着て、かかとの高い靴はいて、まるで漫才師ですよ。 おぼんこぼんじゃないんだから。 ホンモノのSOULマン目指して飛び込んだ業界ですが、期待していた世界とはかなりかけ離れた目の前の現実に、世の中の厳しさをあらためて知った委員長でありました。 しかしそこはそれ、なんと言っても気合の入った道楽者ですから、なんでもかんでも楽しんでしまおうという旺盛な好奇心と、全て自分の都合が良いように解釈できる得意技を駆使して、冥府魔道の道楽道を歩んだのでありました。 このあともバカな話はまだまだ続きますよ。 順応性が早く適応性が高いことが道楽者の特徴と言いましたが、早い話がそれだけかぶれ易いってコトと要領が良いってコトに尽きるわけです。 さて、委員長のバイト生活も半月も過ぎる頃には、すっかり環境調査も済ませ、憧れのアフロのおねーちゃんが歌ってるバンドとも話をするようになりました。 バンド名はリップヴァンウィンクル、ヴォーカルはゲバラ・シスターズ。 姉妹のシンガーデュオで、委員長がのぼせていたのは妹の方でリンダ・ゲバラ、姉さんの方が美人でルックスは良かったのですが、あまり興味がなかったせいでしょうか、名前の方はすっかり忘れてしまって未だに思い出せません。 二人はフィリッピンのミンダナオ島出身で、バンドのメンバーはマニラから来たと言っておりました。 姉さんの方は落ち着いた雰囲気で、いつもインドのサリーのような衣装を着込んで、額の眉と眉の間の中央には丸飾りを付けていました。 当時は、フィリッピンはもちろんのことアジアの文化なぞ知る由もない委員長でしたが、今にして思えば彼女たちはイスラム教だったのでしょう。 特に姉さんの方はいつも民族衣装ぽいファッションでしたし、ちょっと高慢な、とっつきにくい感じが漂っていました。 ビバヤングのダンスフロアーは、バンドステージを正面にして長方形の100人は踊れるほどの広いスペースでした。 その後方に更に大きな長方形の客席があり、その奥に照明室、バンド控え室、更に非常階段の横に狭い従業員更衣室(ロッカー)がありました。 ここでちょっと斬新だったのが、客席中央に円筒形のヴォーカルステージがあったことです。 今風に言うとお立ち台のような感じで、宴もたけなわ、盛り上がってきたところで、ゲバラ・シスターズのリンダがこのステージに上がり、メインステージとオープンステージで掛け合いディオを披露します。 委員長はトレンチを持ってホールを駆け回る度に、このお立ち台の上のリンダを意識するように愛想を振りまきながら一生懸命アピールしたのでした。 もちろん彼女にしてみれば、アフロした変な日本人のウェイターがやたらとモーションかけてきている、ってな程度のことだったのでしょうが、何せ委員長は夢見る道楽者ですから、彼女がお立ち台に上がる度に、わざわざ遠回りをして手を振ったり、愛想笑いしたり、何とか気を引くためにそれはそれは努力を重ねたわけです。 さすがのバカ友、酒屋の息子も呆れて「おめぇホントにバカじゃねーの」ってなもんで、舞い上がった道楽者ほど困ったヤツはおりません。 とは言うものの12月に入るとお店は次第に忙しさも増し、具にも付かない道楽を楽しむ暇もなく、とにかく働きずくめのコキ使われっぱなしになっていきました。 道楽者とは言え、もともと根がまじめな委員長ですから、仕事は仕事としてきっちりこなしていくうちに、正社員の黒服の方々からも次第に可愛がられるようにもなっていきました。 黒服と一口に言っても一応の階級があり、この会社は元々キャバレーから成長してきた会社だったので、その構成もキャバレーの匂いが漂うものでした。 まず、店長をトップに支配人(マネージャー)、その下に主任、次いで幹部候補生と称する黒服、ボーイ長、ウェイター、そしてパートという具合です。 基本的にはウェイターっていうのはバイト社員が主で、正社員として入社するとすぐに幹部候補生扱いになります。 店ではこの幹部候補生のことを略して幹候(カンコウ)と呼びます。 ちなみにこの会社の正式名称はN観光株式会社と言い、キャバレー・クインビーで経営拡大していった会社でした。 当時のキャバレーは水商売の代表選手で、キャバレー太郎の異名を取った福富太郎氏のハリウッドチェーン、採算独立性のハワイチェーン、乙姫キャバレー龍宮城チェーン、キャバレー浦島、世界的にも有名だったグランドキャバレー赤坂ミカドなど、夜の社交場の代名詞でありました。 後年これらキャバレーチェーンが、パブやコンパへと業務をシフトしていく流れの中でブームに便乗し、更に大型ディスコへと転身していきました。 ちなみにディスコの企画を総合的なプロデュースとして手がけ、後のディスコ業界の手本となった青山のウィスキー・ア・ゴーゴーは企業経営の面から見てもパイオニアと言えるのではないかと思います。 さて、委員長は、皆が名前の後に幹部候補生の略で幹候(カンコウ)をつけて呼ぶのを、てっきり観光会社だからだと思い込んでおりました。 大池カンコウ、椿カンコウ、藤井カンコウ、いくら観光会社だからといって、何も全員の名前に観光を付けて呼ぶこともないだろうに、と訝しく思っておりました。 また、実はこの会社がキャバレーチェーンだと知って、ひょっとしたらバス会社とかも持っている大きな観光会社だとも思ったりしましたが、いわゆる水商売企業の多くが、観光会社と名乗っていることを知ったのは随分後のことでした。 幹部候補生として見習い期間が終わると、次に本社の研修を受け、これを無事終了すると晴れて幹部社員として、主任あるいは支配人の辞令を貰い、各チェーン、支店へ再度配属されていきます。 このシステムは水商売とはいうものの一般企業となんら変わりの無い、非常に合理的に人材を育成していく理にかなったものでありました。 ただ、人材育成システムはいくら完璧でも、素材である人材の方ばかりはそう簡単に見出せるものではありません。 幹部候補生とは言うものの、それはそれは素晴らしい人材が次々と現われは消え、現われは消え、名前を思い出すのも至難の業といえるほど、委員長の道楽人生で一番の宝とも言える、興奮の出会いの数々でありました。 12月に入るとさすがに毎日が忙しくなり、社員増強ということで委員長以下4名のバイトに栃木出身のガキ親爺風田舎ヤンキーと、キャバレーの呼び込みから転向してきた手もみにーちゃんが加わり、ホールは6人のバイトウェイターが揃い、これに沖縄出身の広島弁のウチマ主任、おサルのボーイ長が現場監督となりました。 委員長は黒服連中に結構可愛がられたせいか、よくチラシ撒きに指名がかかりました。 チラシ撒きというのは店のビラ撒きのことですね。 これは正式に言うと管轄の警察に届出が必要で、勝手にビラなどを撒くと道路交通法違反で逮捕されてしまいます。 ですからチラシ撒きというのは、無許可のいわゆるモグリのビラ撒きです。 南口から紀伊国屋あたりを抜けて、歌舞伎町の入り口辺りまで、警察の目を盗んでせっせとビラを配って回ります。 この頃はまだこの手の営業もさほど過激ではなく、ただビラを配って歩くだけのことでした。 現在のように携帯電話など無い時代ですから、一歩外へ出たらビラを配ろうが配るまいが、最低でも1時間は自由時間になります。 幹候だけでは時給の無駄遣い、コスト高になるのでバイトやウェイターを連れて出るわけです。 20分くらいは適当に撒きますが、後は皆で喫茶店などへ行き与太話をしながら一服して帰ります。 キャバレーチェーンも数多く持つ会社ですから、どこで誰が見ているかわかりません。 そこで、このチラシ撒きに動員されるメンバーは、口が堅く、状況に合わせた上司の嘘を決して裏切らないという暗黙の掟がありました。 口の堅さはもちろんのこと、ズボンの中もまだ十分に硬かった委員長でありました。 そして10代最後の思い出というには、あまりにも過激かつ興奮の中でのクリスマスを迎えることになる委員長でした。 というわけで、委員長はついに新宿南口パブディスコ・ビバヤングでアルバイトを始めました。 もちろん高校時代からのバカ友、三鷹台駅前の酒屋の次男坊も一緒です。 お店は、新宿駅南口を出て甲州街道方面に向かって徒歩5~6分のところにありました。 現在はビジネスホテルか何かになっているようです。 当時の人気ディスコ「GET」の隣にあった、光会館というビルの4階で、そうですね、広さはかなり大きかったですが、トゥゲザーとかには敵わなかったですね。 トゥゲザーが1500人収容と言ってましたから、ビバヤングで500~600人くらいのキャパだったのですかねぇ。 ビルの1階はパチンコ屋、2階が大型喫茶「穂高」、3階が同店の同伴席、5階は事務所だったかな。 しかし、この同伴喫茶ってのが当時は随分とアチコチにありました。 二人がけのボックスシートをパテで仕切ってある、ちょっと薄暗い喫茶でしたね。 コーヒーが1杯百円の時代に、ここで呑むと五百円になってしまいます。 安物のロールケーキかなんかが付いてきました。 なんだか、いかにもって感じですが、当時はこんなトコで怪しいことしてたんですね。 レンタ・ルームなんてのもありましたね。 3畳くらいの部屋を時間貸ししてくれるんですね。 カウチとテーブル、ティッシュボックスなんか置いてあって、何するんでしょうか? もちろん委員長も、トンコ修行に明け暮れた高校時代は時々お世話になりました。 それでも今時の子供たちに比べたら可愛いもんですね。 せいぜいボックスに並んで座って、イチャイチャしながらチューするくらいのことですから。 それでも二人で千円は結構なプライスでした。 まあたいがいは新宿西口中央公園あたりがデートスポットでしたから、たまに麻雀で小金を稼いだときとかは奮発して同伴に行きました。 「御苑」とか「西武」とかいう店名が記憶に残っています。 一度、彼女と踊りの帰り、盛り上がってしまいレンタルームに入ったことがありましたが、閉店時間の午前1時を過ぎてしまい、終電にも乗遅れて深夜の歌舞伎町に放り出されてしまい、根性決めて「旅館」(ホテルじゃありませんよ旅館です)に突入したのは良いのですが、案内してくれた婆さんに前金で四千五百円を請求され、ひえーっとばかりに追い出された苦い想い出もあります。 仕方なく近所の深夜喫茶で始発待ちしたことも、逆に純愛風のほのぼのとした良い想い出となりました。 (じゅうぶん不純だろ) えー、何の話か、よーわからなくなりましたが、ともかく憧れのアフロねーちゃんと一緒にシゴトができるってことで、委員長は新しい道楽にワクワクしながら新宿での生活をスタートしたわけです。 ここの面接は、事務所でちゃんと店長がしてくれました。 長身で結構男前の店長はハキハキとしたしゃべり方で、履歴書と顔を見比べながら質問をしてきました。 「えーと、君は日大の1年生」 酒屋の息子は、いわゆるコンチってな感じのスリーピースのスーツなぞ着ておりまして、まあ無難な大学生のフリをしておりました。 「で、君はデザイナー学院、専門学校生だね」 委員長はこの時すでに学籍は剥奪されていましたので、偽学生ってことになりますか。 店長はまず委員長の頭に眼をやり、次いで服装のチェックです。 委員長も一応は面接ということで、ニットフレアーにダブルのブレザーなど着込み、それなりに真面目そうな学生のフリをしておりました。 (どこがやねん) 「ふーん、デザインの勉強しているの?」 真面目な顔で質問する店長の目が笑っているのを、見逃さなかった委員長でした。 「はい、一応服飾デザインをやってます」 胸を張って応える委員長。 「うーん、そのモミアゲはまあ良いけど、ウチは客商売だから、その髭は剃らなきゃダメだよ」 そうです、この頃の委員長はアフロを渋く見せるため、モミアゲと口ひげを伸ばしていたのです。 「はいわかりました」 ということでパートタイムは午後6時から終電ギリギリの12時まで、食事は一切なし。 時給は350円くらいだったかなぁ。 休みなしで働いて月7万円くらいだったと思います。 実はこの面接の前に一度、東口二幸のマクドナルドに二人して面接に行ったことがありました。 新しモノ好きの道楽者ですから、時給も良いし、なんかアメリカっぽいし(当時のイメージとしてはかなりカッチョ良かったですね)、ハンバーガーという言葉の響きに釣られて、自分たちの身分もわきまえずノコノコ出かけて行きました。 精悍な顔つきのユニフォームを着た店長は、バカ二人の顔を見るなり、深夜のメンテナンスはどうだといきなり切り出してきました。 時給は500円、夜中の12時から朝の6時まで。 おおーっ、と声を上げた二人ですが、次の言葉にさっと頭を下げて退出しました。 「ただし、ウチは食べ物商売だから、まず頭はスポーツ刈り、髭はダメ、清掃着は毎日洗濯、店長の掃除点検で合格が出なければやり直し、こんな条件だけどどうする」 要は、黙って帰って欲しかったってことなんですけど、しかし世間知らずというか向う見ずと言うか、いい根性をしていたバカ二人でした。 さて、ビバヤングのバイトは順調にスタートし、黒ズボンに白ワイシャツ、蝶ネクタイに赤いベストを着せられた委員長は、まずウェイターのお仕事を覚えさせられました。 トレンチ(ステンレス製お盆のことですね)を小脇に抱え、左手にダスター(テーブル拭き)を持って、ホールを見回り、空いたアイスペールや灰皿の交換、黒服が案内したテーブルに飲み物やおつまみを運ぶ、単純な作業です。 ホールを担当するのは数人の本職ウェイターとボーイ長、そして委員長たちバイトのウィターです。 黒服は入り口でお客様を案内して、ホールの客席に誘導してオーダーします。 受けたオーダーは、キッチンとドリンクカウンターのあるデッキに持っていってオーダーを通します。 「ボトルセット4、ポテト2、ピーナッツ2お願いします」 てなことで、ボトルセットというのは、当時のパブはほとんどがこのパターンで、来店時にウィスキーのボトルをキープさせます。 サントリー・ホワイトが千円、角瓶が千八百円、オールドが二千二百円、全て一般小売価格でした。 これに水割りセットとして氷が入ったアイスペールとサントリーのミネラルウォータが付きます。 伝票には、テーブルチャージ(TC)が一人300円、ミネラルウォーターが1本100円、おつまみは300円より各種、強制的に一人一品取らされます。 アイスはTCに含まれていますから、水割りのセット4というと、TCが4人で1200円、ミネラルが4本で400円、おつまみが最低1200円、これに一番安いサントリーホワイト千円で合計3800円、これに税サービス料10%がついて4180円ナリ。 一人頭で割ると1045円。 安いですねえ。 さてアルバイトと言っても、それはそれなりに一応はサパーのサーバント・マナーくらいは知らなくてはいけません。 早速、ボーイ長から教えを受けます。 ミネラルウォーターは瓶だけで中味は水道水。 プラスティックのケースに入った瓶の上からホースでじゃぶじゃぶ注ぎます。 ボーイ長は、瓶の中の水の位置を揃えるように指導します。 いかにも今蓋を開けたように見せるわけですね。 水の位置にばらつきがあると、水を入れ換えて使っているのがばれてしまいます。 良心的なお店は水といえども、ちゃんとお客の前で栓を抜きますね。 ただ、この店のテクは、ボトルだけはお客に封を切らせました。 これですべてが良心的だと思い込ませる演出ですね。 ボトルは一般小売価格そのままですから、なおのこと良心的だなぁ、と思い込みます。 もちろんこれはサントリーの営業戦略にバッチリ乗ってますから、原価割れは絶対してませんね。 そりゃまあ、千円のボトルをそのまま定価で売っているのですから、100円のミネラルウォーターを細かくいう人はいませんよね。 しかし、水道水1本100円で売りゃ儲かりますね。 それでもこの後、色々な店を転々とした委員長は、ビバヤングはまだまだ良心的なお店だったなあ、と感心したくらいですから、そりゃ当時はスゲーお店がいっぱいありました。 ボーイ長弱冠20歳、北海道出身、北島三郎先生的風貌の小柄のあんちゃんでした。 お正月にお目にかかるおサルの二郎君に瓜二つ、赤いベストがよーく似合う先輩でした。 その上に沖縄出身のウチマ主任という方が、委員長たちバイト社員の直属の上司となりました。 更にバイトの先輩二人が細かな指導をしてくれました。 二人とも現役大学生、歳は委員長たちより二つくらい上だったと記憶しています。 どこの職場も同じですが、新入りは気合を入れてよくコキ使われます。 ボーイ長はおサルだったので言葉使いは少々乱暴でしたが、別段さからいさえしなければ、それなりのどこにでもいる働き者の先輩といったところでした。 問題はバイトの先輩でした。 根本的に要領よく、楽して時間を稼ごうってな魂胆がありますから、新人には教えるフリして何でもやらせます。 最初のうちは先輩ですから、そんなものかと言うことも聞いていましたが、自給も待遇も一緒のこいつらになんで指図されなきゃなんねぇーんだ、と不良のあんちゃんの血が蘇ってきます。 道楽者は順応性が早いことと、適応能力が優れていることが特徴のひとつです。 出金時間の午後6時、委員長と酒屋の息子が待ち構える、正社員がホールに出た後の誰もいない裏の狭いロッカールーム、そこへやってきた先輩二人。 暴力こそはふるいませんでしたが、東映映画「仁義なき戦い」でしっかり覚えた広島弁が炸裂し、ただ者ではない証拠をしっかりと見せ付けたのでした。 すっかり恐縮した先輩方はおずおずとホールに出て行きました。 と、そこへ小柄でひ弱そうな沖縄出身のウチマ主任がやってきたのです。 「わしのライター見よらんかった? ここらで落としたと思うんじゃけぇ。 ありゃ高かったんよ。 ワシゃのう、普段はここでタバコ吸わんもんで、置くわけないと思うんじゃが」 沖縄出身は間違いないらしいのですが、なぜこの人が広島弁を使うのか知る者は誰一人おりませんでした。 しかし、広島言葉も使う人によっては、迫力のない単なる方言に成り下がるということを知った委員長でもありました。
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