ジャニーさん顔。 ジャニー喜多川の若い頃の写真が美少年!ハーフ顔でも父母家系は日本人!

【ジャニー喜多川さん死去】その功績と知られざるエピソード

ジャニーさん顔

つい先日7月9日夜、東京都渋谷区の病院でジャニー喜多川(本名:喜多川擴、きたがわひろむ)さんが、解離性脳動脈瘤破裂による、くも膜下出血のため逝去されました…。 ジャニーさんは6月の半ばあたりに病院に緊急搬送されて以来、入院治療を続けていたそうです。 7月の頭にジャニーズ事務所は入院したと発表しましたが、一部のメディアやネット上では、 「死亡説」まで出回るほどでした。 死去されたにいたって、情報の公開が解禁されたと同時に、どのメディアも大々的に報道していますね。 以後、テレビをつければ所属していたタレントさん(所謂息子さんたち)が色んなエピソードや、追悼の言葉を話しているシーンが映りますが、改めてみるとジャニーズに所属し、第一線で活躍するタレントさんの数が多いこと多いこと…ジャニーズって、とてつもない影響力を持った組織だったんだな…という強い印象を受けました。 他にも親交があったとされる各界の著名人もたくさんでてきたりして、その錚々たる顔ぶれたるや…。 ジャニー喜多川さんって、 どんだけすごい人なんだよって思ってました(汗) しかし、ジャニーズの各グループやタレントさんのこと(嵐とかsmapとか)は知ってるけど、メディアにはほとんど登場することはなく、サポート・運営に徹していたジャニー喜多川さん自体のことはあまり知らない…という方は多いんじゃないでしょうか? 「ジャニーさんの顔すらわからない」 「YOUって言う人でしょ?でも他は良く知らない…」 そこで、 日本が誇るエンタメの神:ジャニー喜多川さんについて色々とまとめてみました。 【ジャニー喜多川さんのジャニーズ結成までの簡単なプロフィール】 そもそもジャニー喜多川さんって若い頃は何をしていた方だったんでしょうか? とりあえずざっくりと簡単にジャニー喜多川さんのプロフィールをまとめてみると、 名前:ジャニー喜多川 本名:喜多川擴 (きたがわ ひろむ) 生年月日:1931年10月23日 出身地:アメリカ・ロサンゼルス 出身校:ロサンゼルス・シティ・カレッジ 最終学歴:上智大学国際学部 職業:実業家、音楽プロデューサー ジャニー喜多川さんは1931年にアメリカ・ロサンゼルスで生まれ。 米国国籍の日系2世なんですね。 1933年に帰国し、一時は大阪で生活していたこともあったそうです。 その後、第二次世界大戦が始まり、子供達だけで和歌山県那智勝浦町に疎開していましたが、日本の敗戦が確定。 1947年にロサンゼルスに帰国し、現地のロサンゼルス・シティ・カレッジに入学していました。 1952年に米軍兵として徴兵されたジャニーさんは、朝鮮戦争に赴き、1年2ヵ月の兵役後、除隊して日本のアメリカ大使館で軍事援助顧問団の勤務につきます。 そしていよいよジャニーズ結成前夜…。 ジャニーズは元々、ジャニーさんが大使館勤務のかたわら地元の子供たちを集めて少年野球チームを作ったことがきっかけで始まります。 その野球チームの名前がなんと「ジャニーズ」!!!! (予想できたかもしれませんが…) 監督兼オーナーとしてジャニーさんがチームの子供達を指導していましたが、その子供たちと映画「ウェストサイドストーリー」を見たことがきっかけで、1962年6月事務所設立を決意。 と言うのが、ジャニーズ設立までの簡単なプロフィールです。 Say! JUMP、Kis-My-Ft2、Sexy Zone、ジャニーズWEST、King & Prince、など、昭和から平成、令和にかけて数多くの人気アイドルを発掘・育成してきました。 TVをつけてジャニーズに所属するタレントを見ない日は無いのではなかろうか…?? 何が結局そんなにすごいのか…それは、ジャニー喜多川さんは、 「男性」アイドル文化を築いた。 「男性」アイドル育成システムを築いた。 「少年」のスター性を見抜く力がすごい。 過去に同じような前例があるわけでもなく、しかも1代でゼロからおこなっているわけですから敏腕プロデューサーなんてレベルじゃないですよね。 (もちろん会社経営を支える姉のメリーさんの手腕もありますが… 数多くのタレントを発掘・プロデュースし、 シングル1位獲得数は439作品!! 総売上枚数は1億4821万枚(恐ろしいともいえる数字…) また、演出家としての手腕も、少年隊や堂本光一さんなどの舞台を手がけ、高く評価されていますね。 反戦的な内容も多いのも、やはり2度も戦争体験をしているからなのでしょうか。。 ちなみに、ジャニー喜多川さんは「裏方の人間は表に出るべきではない」という考え方から、メディアへの登場をずっと拒否してきたそうです。 このギネス登録時の写真のみが公式的に公開している唯一の写真なんだとか。 【ジャニー喜多川さんの知られざるエピソードとは?(伝説、名言など)】 上で紹介したように本当にとんでもない人ですが、一方ジャニーズに所属する数多くのタレントさんが本当の親のように慕うという温かい面もお持ちのジャニー喜多川さん。 有名なセリフ「YOUやっちゃいなよ」の一言にものすごく励まされた!という所属タレントさんはたくさんいるそうです。 やっぱりカリスマ性半端ないんだな…。 もちろん、そんなジャニー喜多川さんだからこそエピソードも豊富です。 面白いもの、感動するもの、思わず「おお!」と唸ってしまうものたくさんあります。 そんなエピソードを(ごく一部ですが)紹介したいと思います。 ・合格の電話はジャニーさんから直接かかってくる オーディション合格を伝えるジャニーさんからの電話の第1声が「僕だけど、」だったというものや、「You、誰?」と尋ねられてしまったとするエピソードなど、その奇抜さには枚挙にいとまがないことも有名。 その後「とりあえず踊っちゃいないよ」と、そこから木村のアイドル人生がスタートしたのだった。 しかし、横山の隣にいた村上が同じように「ジャニーちゃん」と言うと、「YOU、不快だよ」と一転してたしなめたという。 オーデションを受けたが不合格だった赤西仁。 名札を返すため近くに居たおじさんに渡した所それがジャニーさんで「Youも残っちゃいなよ」で合格に。 理由は名札の番号が一番だったため。 Kis-My-Ft2藤ヶ谷も同じく不合格だったが「おじさーん!」と言って名札を返した人がジャニーさんで「君は凄いね。 僕の事をおじさんって言うなんて」と言われ合格に。 ジャニーズ事務所を芸能界を代表するプロダクションに成長させたこと、男性主体の新しいアイドル文化を築き上げたこと。 ジャニー喜多川さんが亡くなってしまい、今後のジャニーズ事務所の動向や芸能界全体はどう変化していくのでしょうか…。 yakudacchi.

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ジャニー喜多川さんの若い頃の顔!家系図に僧侶も?年齢や生い立ち

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<令和最初の年またぎスペシャル~> 中居 「どうもこんばんは中居です。 『さて、こちらが流れているのは2019年最後の所もありますが、地域によっては2020年になってるかもしれません。 さて、2019年はM-1グランプリ ミルクボーイが優勝』 見てましたー 『有馬記念』・・ねっ、あのー・・なんか人気のアーモンドアイはもう確実だ~なんて、言っ・・なんか周りでも「中居さん競馬やるんですか?」「あ~俺もう競馬やめちゃったなー」なんつってて。 」 「いや・・誰だったっけな~・・「アーモンドアイが、アーモンドアイが・・」って言うから。 あれ?ちょっと久しぶりに買ってみよっかな~・・と思って・・結局買わなかったのかな。 でも、自分がもし買ってたらアーモンドアイを軸に・・と思ったら、アーモンドアイっていう馬が9位とか・・後半ぜんぜん伸びて来なくて(笑)よかった!買ってなくて~・・と思って。 なんだろな~・・こういうコンテスト!?みたいなのって・・歌にもあるね? あのー・・ナントカ大賞とか。 で、お芝居でもなんかあるよね? や、僕ねむか~しからやりたかった こういうナントカグランプリってやりたい・・ こういうのがあったらやりたいなーー・・・って思ってるやつがあったんですけども。 あのォ なかなか難しそうだな~っていう話をなんかしたことがあります。 色んな地域があると思いますけども。 さて・・2019年・・どんな年だったんでしょうか。 ね?まぁ毎年ですけども、亡くなる方も。 そうね~・・最近で言ったら そうか、梅宮さん亡くなったのびっくりしちゃったなぁ~・・最後に会ったのいつだろ。 今年頭かな~ うん「金スマ」にアンナちゃんと・・うん、来てもらったりして。 うーん・・そっか、3月 裕也さん、萩原健一さんってなんかこうね、ん~・・あー ほんとぉ・・。 1月、市原悦子さん。 まぁお会いしたことある人もいれば、ね?一度もお会いすることなく・・っていう方もいらっしゃいますが。 」 「その中ね、やっぱり・・僕らはそうかな~・・やっぱり。 7月9日 ジャニーズ事務所社長 ジャニー喜多川。 ジャニーさん。 ね! あのこれまで僕 ジャニーさんの話、ちょっとねあんまりしてなかったんですけどもね、うーん。 ちょっとねぇ 今年最後ということもあり、お話させてもらおうかなー。 」(゚ー゚) 「このノートにね、びっちり・・ (ペラペラとノートをめくる音)・・どこを・・よかった、今日持ってきて。 もうどこ行こうかなーって思って。 30分しかないからね。 遡ることにしようかな!随分前かね。 あのね、僕ね、その当時・・ 公式のコメントを出してないんですよ。 」 「なんかタレントが 所属タレントがコメント出してたんだけども。 ・・で、まあ別に その時にいい・・別に言い訳でもないんですが。 あのね。 その時、ずいぶん前から えーと・・プレミア12の公認サポートをやります。 っていうリリース日が決まってる。 」 「で、じゃあそのリリースを・・んー 前後すればいいんじゃないかつっても、もう随分前から うーん たぶん春ぐらいの段階からこの日・・春かどうか分かんないです「この日」って決まってたから。 それはスポンサーさんなり、NPB・・ねっ?プロ野球のNPBだったりとか。 いろんな事が絡んでるからこれはずらせない、っていうことで 結局、僕 公式のコメントをしな・・出来なかったんじゃなかったかなーと思って。 」 「ね? 「中居はコメント出してない」みたいに その当時・・もう随分前だからいいんですけども。 あ~・・でもこれもいちいちその時に「いや実は・・」コレがあってアレがあって・・って、まぁこういうのって難しいな。 別になんかこう・・何があって・・ 理由はもちろんあるんだけど。 理由はひとつなんだけども。 「なんでアイツだけ出さないんだ」って、なんか言われてるのは憶えてるんだけども・・ちょ~どね、そういうことで あの~・・ 重なっちゃってコメントすることが出来なかったんですね。 」 「それでその時、えー・・ その亡くなった週の週末に「音楽の日」っていう生放送があったんですよ。 それで亡くなってからもう数日で 「音楽の日」があるからつって、そっから・・亡くなってから・・んーー・・たしか、火曜日に亡くなったのかな。 でも、水木金って3日間しかないからつって。 ここで TBSのスタッフと会議ちょっと重ねて、どうしましょう!?・・で、「音楽」ですから。 で、またその・・その週のオンエアだったりするんで・・・これってスルー・・するわけいかないよね・・?」 「んーー・・・・ でも、どういう風な形で表現すればいいんだろう!?みたいなことをやってたのかな。 で、これはまた随分前に 滝沢が演出するジャニーズJrのコーナーがある、それが夕方ぐらいのオンエアかな。 んー・・でも、そこかな?って。 そこで何かしらのことが何か出来るんじゃないかな。 でも、その滝沢とジュニアのコーナーで何かしら、って言ってもその前にもジャニーズ事務所のタレントが出てるから、トークの時にその話をするのか?しないのか!?・・とか。 」 「ね、(話を)するにしろ、生放送だから押しちゃって、MC・・話す時間が短くなっちゃう人もいれば。 巻いちゃってたっぷり話せる人もいれば・・って、こう・・ん~ 大なり小なり ちょっと差がつくのも良くないなって言いながら。 そしたら、そのうまく「音楽の日」に出る所属タレント・・ミュージシャン・アーティストがその滝沢のところに集まれるかどうかも分からない。 みんなスケジュールもあるし。 んー、最初出て出なきゃいけない人も居れば、後半ギリギリに入って・・っていう人も。 でもうまくその滝沢のところで、みんな集まることが出来る。 だったら、これちょっとお願いできんのかなーって。 TBSから公式に話して・・」 「でもじゃあ、ここはどうやって演出するのかな!? 滝沢が演出されてることは長いじゃないですか。 たっぷりジュニアが太鼓をしてショーを見せる・・でも、そしたらタレントが集まれる人は集まれそうだと。 じゃあここ・・V6、KinKi以下、タレント集まってもらって その代表は一番上・・年齢一番上だった坂本くんにコメントしてもらうのが、一番こうスムーズでいいんじゃないかな?みたいなことをね。 その3日4日間の間、会議してた。 んー その中で、滝沢くんに・・滝沢のなんかジャニーさんへの ジャニーさんの継承って風なことも言われてる中、ジャニーさんの・・ジャニーさんへの手紙みたいのを書いてもらえないのかなあ・・」 「でも、これ俺が直接言ったら、もう引退して退い・・ね? 公けに出てこないってもう。 うーん・・腹をくくって引退された方なので。 これもし僕が言ったらたぶん「やります」って。 先輩だし・・なんかTBSから、あのー お仕事の依頼として・・うーん お手紙書いていただけませんか?って。 ちゃんと断れるような環境も作りながらつったら、もう全然普通に「全然いいですよ」って。 」 「それが、あー・・もう金曜日。 で、土曜日がその生放送だったのかな。 それがお昼ぐらいだっただけど、僕もホントそこに行けなかったんですね。 それもね たまたま・・ 僕ね、もうここんところ1日に2つみたいなお仕事無いんですけども。 その日ホントにここ数年では無いんですけど・・3つあったんですね。 」 「あのね、お昼ぐらいからその「音楽の日」の所々に僕のナレーションが入ってる場面があったんですけど。 そのナレーションを前の日に録らなければいけない。 それは分かってたんですけど。 ま、滝沢くんの・・ほんとは滝沢にこれを・・声だけでも出演は?って言ったら、話があったんだけども「これは誰かに代読してもらった方がいいかな」ってことで。 じゃあ、これは中居・・俺がやった方がいいかなって。 そのナレーション録りみたいのがあって、んで次の日 生放送があるから「ニュースな会」の収録があって、その後 野球の・・東京ドームでオールスターの生放送があったの。 」 「・・で、どーもちょっとずらすこと出来ないなー ナレーションも・・ね?5分や10分で終わるようなことじゃないから。 これ本番当日に録ろうってわけにもいかないし。 んー・・ で、家族葬には出れなかったのかなぁ・・・」 「や、後にも先にも1日に2つ3つなんて、ホント無くてね。 うーん。 でも前の日に会いに行って・・ジャニーさんに会って。 ちゃんとバイバイして・・んで、お手紙書いて。 えー ジャニーさんの隣りに置いてもらって「一緒に燃やしてくださーい」って。 うーん。 」 「東京ドームでのね、あのぅなんかお別れの会みたいなのは、出席させてもらいましたけども。 まあジャニーさんっていうのはなんだろねー。 まあ みんなあの・・ ジャニーさんへの想いっていうのは色んな・・うんメディアを通じて発表されましたけども。 あの僕らにとっては、ジャニーさんは1分の1、じゃないですか。 僕にとっては 1対1。 中居というタレントに対して、社長ジャニーさんは1対1だけども。 ジャニーさんにとっては中居・・いやいや、い~っぱい何百っていうタレントがいるから。 」 「うん、なんか・・みんなね あのぅ・・色んなコメント出されてましたけど。 ま、不思議だなって。 企業、プロダクションの社長が・・ねっ? あの~・・こんなになんかみんなからのコメント?うん・・そうねえ~・・・。 まぁま、入院してた時も ねっ?ちょこちょこ足を運びながら、うん。 ・・まあ いずれかはと思ってた・・でも僕、 僕は あのジャニーさんにずっと33で死ぬって言われてたのね。 」 「「Youは33で死ぬから」って。 「だから僕より早く死ぬ」って。 「僕より長生きすることYou無いからね」って。 もうそれ10代から言われてるんですよ。 You33で死ぬからって。 もうさ・・気持ち悪いんだけど。 なんなの33って!? たぶん、僕の性格?とか、その体質みたいのを 10代の時になんか感じて・・んーまあ、細かいところとか、神経質なところとかを見てるとYouは33・・つって(笑)」 「 なんでこの人、33で・・これみんなに言ってるの? Youは45だよ、とか Youは62までだよって言ってんのかな?と思ったんだけど。 そんな話聞いたことなくて(笑)なんだよ・・これ当たったらヤダな・・33、4になった時に「あー、ジャニーさん 俺、34になったよ」って。 「You、死ななかったね」って(笑) ハハハハ」 「生きてるワぁ 結構生きてるワ、あれから・・と思いながら。 」by 中居君 「なんであれ33で死ぬ、って言ってたんだろうなー・・って。 」 「ジャニーさん、よくね あの~なんかほらタレントがなんかこう・・なんか社長でもあり、なんか友達でもあり、お父さんみたいな存在だ、って。 なんか他のプロダクションには無い距離感があるんですよ。 これ何でかな?って あのね、やっぱりジャニーさんってね なんつぅんだろ。 なんかフレンドリーさっていうの? やっぱりちょっと今までで接してきた大人の人と違うのよ。 なんつうんだろな・・だってみんな敬語使う人いないからね。 ジャニーさんに。 タレントで。 」 「や、俺のぜんぜん下の子たちは分かんないけど。 無い!のよ。 たぶん、ファーストコンタクトから、なんかね・・今まで接してきた その野球の監督とか学校の先生とか。 なんか違うな!っていうか・・なんか知り合った人とはもうずーっと社交的というか。 外国・・アメリカ人の・・ほらアメリカ人って敬語ないでしょ? で、上の人でも下の人でも言葉変わんないじゃないですか。 その感じなんじゃないのかな~・・って。 だから、ああいう風な距離感になるんじゃないのかなあ・・ってね。 」 「で、よく亡くなった時のワイドショーとかで 「ジャニーさんは見る目がありますね」とか(笑) コメンテーターの人とか(笑)「見る目がありますね」・・グループってこうこう・・大人になってこうなるんですね・・なんて。 あれね、もう間違えないなって思う・・」 「ジャニーズって あの一番最初、野球チームだったんですね。 ほんと野球チームでジャニーさんがコーチ、監督をしてたんですよ。 子供たちに野球を教えてたんですよ。 その教えてた子たちが・・こう芸能界、と。 芸能を始めると。 踊ったり歌ったり。 」 「僕はやっぱいま、ね?グループ・・3人組だとか、4人組、5人組、6人組ってグループ ね?あるじゃないですか。 たぶんですけども、コイツとコイツとコイツとは・・ 僕は勝手に野球のこのスターティングメンバー的に考えてるんじゃないかなって。 」 「でも! 一番最初にやっぱり4番はコイツだ、って。 4番ってなかなか出て来ないから。 4番でエースみたいな。 そのチームの顔。 」 「で! やっぱりね、4番ばっかり入れない・・ってのかな。 あの4番じゃない方が云々・・って言ってるわけじゃないんですよ(笑) やっぱりね、そのバランスは・・僕は、うーん野球から来てるんじゃないのかなあって。 ・・僕は勝手な想像ですけども、やっぱりハデな子・・ねっ?こう華やかな・・ 生まれ持った華やかなタイプの子もいれば、やっぱそれを支えるような子がないとチームとして成り立たないと思うんですよね。 」 「でも、 長~くやってれば、こう支えてる人達にも必ず 花咲く時期も来るし。 スポットライトを浴びるんだけど、まずこのグループが軌道に乗るまでは、この華のある4番バッターに頑張ってもらわなければいけないな、って」 (ペシペシ!とたぶん自分の手を叩く音) 「でも4番は何人もやっぱりグループに居ない・・ですもんね。 うん・・ やっぱり、こう大人しい子もいれば、ちょっと影のある子もいれば・・うーん なんか元気な子もいれば、可愛い子もいれば、二の人もいれば・・って。 そこら辺のバランスって考えて・・のは やっぱ野球のなんか うーん なんとなくリズムがあるんじゃないのかなー・・って。 」 「勝手に僕は解釈してますけどね。 」 (ノートの紙をパラパラ、めくる音) 「僕らの世代は怒られ世代なんで、まだまだジャニーさんがすごく怖かった時期だったんでね。 あの何に厳しいかって、日頃はそのフレンドリーな面はもちろんありますけど。 んー・・やっぱり、僕は ライブに対する・・そのショー対する うーん姿勢みたいなものは凄く厳しかったなー・・って。 」 「あのー ね?「大成功は細部に宿る」じゃないですけど。 そのやっぱりライブっていうか、コンサート。 ライブは うーん・・5割・・5割から6割は照明で決まる、と。 もう照明はめんどくさいかもしんないけど、もう細かく もう少しの間でも全部変わってくるから、って。 照明っていうのを10代の時からすごく教えてもらい・・僕なんかの時代は・・」 (ペラッペラッ・・ノートをめくり探す音) 「当時ね・・あの 灯りが・・」(ペラッペラ・・ペラっ) 「ちょっと待ってくださいね・・」(ペラッペラッ・・) 「えっと・・ あった・・そう!」 「僕なんか80年代ね。 これは80年代、昭和からこう平成になる・・にあたっては、その照明つっても今みたいにバリライトとか え~・・そのムービングライトみたいな動くのが そういうのが無いの。 なんかホントね、赤と青と黄色。 ホント信号みたいのが・・赤なら赤で5つ。 なんかそう・・何々なら5つって。 青系、白系・・この赤系、ね?赤系は紫とかピンクとか。 あとイエロー。 この大雑把に言うと3つしかなかったんですよ。 」 「でも細かく言うと白と・・この間「ニュースな会」で話しましたけど、これ白とか青は70番台。 で、赤むらさきピンクは80番台で、ジャニーさんはこの88番が好きで。 この紫から このねピンクがかった灯りがすごく好きで。 これは躍動感のある時でも使えるし、ミディアムなものでも使えるし。 88番なのね。 」 「それで俺は刷り込まれて、88番使ってたらライブ終わった時 『You、88番使い過ぎだよ』って言われて。 『こんなに使ったら88番も殺してしまう』と。 『70番台も殺してしまう』と。 そこら辺のバランス、80番台を僕が好きだって言っても生かすも殺すもその前後の灯りがしっかりしないと死んでしまう・・みたいな。 それはすっごく!小さい頃から教わりましたね。 」 「うん、だから自分たちがやる時は灯りはもうね みんなが帰ってからもず~っとどうしようか・・つって。 じゃあそれやってみようか・・これやってみようか・・って人が居ない あのステージに誰も居なくても灯り作れたりするんで。 それを教えてもらったなぁ~・・・ うん・・。 」 「あと、そうだな。 「ドアが閉まったら間を埋めろ」ってね。 フフッ(笑)これ言ってたよね「ニュースな会」でね。 」 「うん・・ や、 ほんとに もう感謝しか無いですよね。 その時、僕こう見えても10代とか全然喋れるタイプではなかったんで、でも全部ジャニーさんが直筆で台本書いてくれて。 縦書きなんですけどね。 書いてくれて。 それをもう丸暗記して憶えてなんかステージに出て行く。 それやってるうちに前説をやらせてもらうようになって。 」 「You 1人でなんか本番前に・・だから全然、僕のこと期待していない光ゲンジのファンの人の前に行って、10分ぐらい前に行って 10分くらい喋ってから「それではスタート!」みたいな(笑) でもねぇ それがまあ・・まぁま、自分のなんか、ね。 トークのスキルというのを見出してくれたのがやっぱりジャニーさんじゃないかなあと思いますし。 」 「まぁま、天国で・・ ねっ、これ僕に限らずですけども見てると思いますんでね。 たぶんね、3~4万買うと思う。 」(スタッフ 笑) 「高い蟹を買うと思う。 あれ1個ね、8000円とかする蟹あるんですよ。 それだけでも8000円するから。 前半の堺正章さんの歌もワンコーラス。 2曲目はなし。 たっっぷり、ノートをあんなに探さなければ見つからない程のページ数を書いてきてくれた。 これを話さなくちゃ・・ これを伝えたい・・ そういう想いがいーーっぱい溢れてたのかな。 うれしいな。 中居君はいつも自分が大切にする「人」のことを考えて行動する人。 ジャニーさんへの追悼コメントを発表するタイミングも。 自分の周りにいる人が誤解を受けていれば、まず自分のことは置いておいてフォローする。 昨日の「ワイドナショー」での松っちゃんへの発言や二宮くんのこと。 いつも誰かを気にかけている。 それが中居君。 そんな中居君が素敵。 中居君のやり方で 中居君らしく ひとつずつ、丁寧に進んでね。 2020年、ナカイヅラの1人として引き続きっ しつこくついてゆくからねー。

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ジャニー喜多川と滝沢秀明の関係が愛と呼べる発言やエピソードとは!?|あんころりんく!!

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ジャニー喜多川さんは、言うまでもなく日本を代表する芸能事務所ジャニーズ事務所の社長です。 また、天才プロデューサーとして長い間活躍してきました。 しかし、なかなか表舞台に出てくることはなく、顔やプライベートはあまり知られていません。 そんなジャニー喜多川さんの 若い頃の顔はとてもイケメンだったようです。 アメリカ生まれで、ジャニーという名前と顔からしてハーフともいわれています。 そして、ジャニー喜多川さんの 家系図を見ると、スゴクてビックリ。 なんと、偉い 僧侶もいるのです。 とても立派な僧侶だったようです。 どんな家系図だったのでしょうか。 そして、現在いったいいくつになるのか年齢もよくわかりません。 年齢や 生い立ちも気になりますね。 謎の多いジャニー喜多川さんの若い頃や 家系図、 年齢、 生い立ちについて調べてみました。 ジャニー喜多川さんの若い頃の顔! ジャニー喜多川さんは、多くの美少年たちを育成してきました。 自身も若い頃からイケメンだったようですね。 若い頃の顔写真をみてもけっこうなハンサムです。 そんなジャニー喜多川さんを今でもハーフだと思っている人が多いのです。 ところがハーフではないのですね、どういうことでしょうか。 ジャニー喜多川さんの家系図に僧侶も? 家系図を見ても両親は日本人なので、まったくの日本人です。 本名は、喜多川擴(きたがわひろむ)です。 英語名はジョン・ヒロム・キタガワといいます。 ジャニーというのはジョンの愛称でした。 家系図の姉の康子さんは、メリー喜多川さんになります。 兄の真一さん、そして、ジャニー喜多川さんの3人兄弟になります。 また家系図によると、父親は喜多川諦道さんという高野山真言宗の僧侶でした。 それも米国別院の僧侶をつとめたえらい方だったようです。 また、僧侶ながら、なんと現地のプロ野球チームのマネージャーもつとめていたそうです。 そのほか、兄真一さんは、アメリカでエンジニアになり、人類初の宇宙船アポロの設計に関わってきたようです。 きっと優秀だったのでしょう。 残念ながら、兄はすでに亡くなられています。 また、メリー喜多川さんの旦那は、作家の藤島泰輔さんでした。 藤島泰輔さんの家系は、父親が日本銀行の監事、祖父が日本郵船の専務と立派な家系図でした。 さらに、藤島泰輔さん自身は、学習院出身で上皇のご学友という由緒正しい家柄でした。 ジャニー(喜多川)さんの一族は、実はすごい家系図だったことがわかりましたね。 ジャニー喜多川さん年齢や生い立ち ジャニー(喜多川)さんの年齢や生い立ちはどのようなものだったのでしょうか。 生い立ちがジャニーズ事務所の設立と大きく関係ありそうです。 ジャニー(喜多川)さんは、現在87歳になりました。 父親の仕事の関係で1931年にアメリカのロサンゼルスで生まれています。 しかし、1933年2歳のときに日本に帰国します。 第二次世界大戦がはじまったからです。 日本では、大阪府で生活されたようです。 母親は大阪で亡くなり、僧侶だった父親は、亡くなられています。 戦中は、二重国籍だったため、日本では苦労されたのではないでしょうか。 そして、終戦後の1947年に兄弟だけでロサンゼルスに戻り、高校と大学に進学されています。 また、ジャニー(喜多川)さんは学校に通いながら、ロサンゼルスの劇場で働いていたそうです。 日本の歌手の美空ひばりさんのロサンゼルス公演のマネージメントも手がけたことがあったそうです。 まだジャニー(喜多川)さんは年齢20代の頃ですよね。 この経験が後に、ジャニーズ事務所の設立につながったのかもしれません。 そして、1952年には朝鮮戦争がおこり、徴兵されて任務についていました。 アメリカ軍の通訳助手をつとめていたそうです。 ジャニー(喜多川)さんの生い立ちを見るとは、若い頃教育はアメリカで受けました。 米軍関係の仕事をしていたため、感覚はアメリカ人に近いのかもしれませんね。 タレントたちをユーと呼ぶのも納得です。 その後、1955年ごろ日本に再び戻ると、上智大学国際部に入学をしました。 また、大学時代にはジャニー(喜多川)さん自身もバンドを結成して、日本の芸能界で活動するようになっていました。 アメリカ軍の仕事もしていましたが、1962年から本格的に芸能事務所をはじめました。 ジャニー(喜多川)さんは年齢が30歳くらいのときです。 当時の日本には、アメリカの音楽や映画が多く入ってきたころです。 英語と日本語が堪能で文化に詳しいジャニー(喜多川)さんのような人は、貴重でしたね。 ジャニーズ事務所は、渋谷区代々木にあったアメリカ軍向けのアパートの1室からはじまりました。 そこで始めた少年4人の野球チームが、ジャニーズのはじめだったようですね。 ジャニーズはジャニー(喜多川)さんがタレントをスカウトし、育成してきました。 また、舞台やショーの演出も担当してきました。 姉のメリー喜多川さんは、経営やタレントのマメージメントを担当してきました。 兄弟で役割分担しながら1代で大企業まで成長させてきたのです。 現在では、多くのタレントをかかえ、港区赤坂に大きなビルの会社になりましたね。 謎の多かったジャニー(喜多川)さん。 生い立ちを見ると、戦中、戦後の日本とアメリカの間でずいぶんと苦労もされたことでしょう。 以上、多くのすばらしいタレントたちを育て上げてきた、ジャニー(喜多川)さんについてまとめてみました。

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