般若 心 経 読み方。 般若心経とは|全文の意味が分かると面白い!般若心経の現代語訳と意味解説

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般若 心 経 読み方

読経にはどのような意味が込められているのですか? お経をあげることには、二つの意味があります。 ひとつは、亡くなった方へのご供養です。 では、供養とは何でしょうか。 仏教では輪廻転生の思想の元、亡くなられた方が再び生まれ変わると考えます。 亡くなって輪廻されたばかりの人は幼い子供と同じです。 そのため、その魂にたくさんの栄養を送る必要があります。 これを、栄養を供えると書いて「供養」と呼ぶのです。 お経をあげることで、魂に栄養をお供えする、これが読経の一つ目の意味になります。 もう一つの意味は、生きている人を励まし、教え導くためです。 お釈迦様からの教えを僧侶が代弁し、列席者の人たちに伝えるため、ということになります。 般若心経の教えとは 般若心経とは仏教のうち、大乗仏教の 「空」、 「般若」の思想を説いた経典です。 「空」とは、すべての存在は因縁によって生じたものであり、実体のないものであるとする思想のこと、また般若とはいわゆる「悟り」のことを指します。 その昔、玄奘三蔵、つまり三蔵法師がインドから持ち帰った経典が般若波羅蜜多経です。 サンスクリット語を漢語に訳し、600巻ほどにまとめられています。 この般若波羅蜜多経の中から、さらに大乗仏教の神髄というべき部分を抜粋し、わずか300字ほどにまとめあげたものが般若心経です。 般若心経はものごとや思想にとらわれて苦しむことのないよう説くもので、仏教の宗派の多くはもちろん、仏教を離れた場でも読まれることがあります。 江戸時代には文字の読めない人のために「絵般若心経」という、内容を絵で表現したものが作られたほど、人々に親しまれてきたお経です。 現代でもさまざまな解説本が出版されるなど、その教えは絶えることなく受け継がれ、人々の心に感動と癒しを与え続けています。 般若心経の意味を流れに基づいて解説 般若心経は300字ほどと、短くシンプルにまとめられているため、一般の人でも覚えやすいお経となっています。 しかし、ただ唱えるのではせっかくの教えが身に入りません。 それはなんとももったいないことです。 般若心経の意味を知っていただけるよう、その流れに沿って解説していきます。 以下が般若心経の全文です。 観自在菩薩行深般若波羅蜜多 時照見五蘊皆空度一切苦厄 舎利子色不異空空不異色 色即是空空即是色受想行識亦復如是 舎利子是諸法空想 不生不滅不垢不浄不増不減 是故空中無色無受想行識 無限耳鼻舌身意無色声香味触法 無限界乃至無意識界無無明亦 無無明尽乃至無老死亦無老死尽 無苦集滅道無知亦無得 以無所得故菩提薩垂依般若波羅蜜多 故心無圭礙無圭礙故 無有恐怖遠離一切転倒夢想究境涅槃 三世諸仏依般若波羅蜜多 故得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪是無上呪是無等等呪 能除一切苦真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰羯帝羯帝波羅羯帝 波羅僧羯帝菩提僧莎訶 般若心経 まず、1行目は観自在菩薩、つまり観音菩薩が悟りを求めて修行される中で、五蘊(この世を構成するあらゆること)は空であると悟られた、と書かれています。 2行目、3行目の頭にある「舎利子」とは古い弟子のシャーリプトラのことで、彼に向って呼び掛けているわけです。 その内容は、2行目が「シャーリプトラよ、この世のあらゆるものには実体がない(空)。 それは人の肉体や感覚でも同じことである。 」 3行目が「シャーリプトラよ、実体がないのだから、生まれもしないし、消えることもない。 汚れることもないし、清らかでもない。 増えることも、減ることもない」というものになります。 4行目から8行目は、空の思想についての解説です。 3行目から引き続いて、シャーリプトラへ呼びかけています。 「ほんとうには、人の体や心が感じることや、考えることはすべて存在しないのだ。 それらを知らないことから起こる、悩み苦しみも存在しない。 しかし、老いも死も避けることはできず、悩み苦しみは尽きることがない。 それらをすべて解決などできないし、その方法を知ることもできない。 そこで、すべてのことにこだわりを持たず、欲望から離れることでこそ、悟りを得て涅槃へと至ることができるのだ。 」 9行目から11行目は、その悟りを得るための真言についての解説です。 「偉大な真言が、悟りへと導いてくれる。 その真言は次のようなものである。 」 そして、12行目、いよいよここが「 ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」のところです。 「羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯諦菩提薩婆訶( 往き往き、彼岸に往けるもの、その者こそ悟りである。 幸あれかし。 )」 以上が、般若心経の意味になります。 内容は現代語によって変わる場合も 現在、般若心経は書籍やウェブサイトなど、さまざまな形で触れることができます。 しかし、そのどれもが同じ言葉ではありません。 元はサンスクリット語であったものを漢語に訳し、さらにそれを現代語に訳しているためです。 また、解釈も人によって多少異なります。 そのため、それぞれで意味が異なるように感じられる場合もありますが、言わんとしていることは同じです。 まずは親しみやすい現代語訳で、般若心経に触れてみてください。 いい葬儀で葬儀場・斎場を探す エリアを選択してください 北海道・東北地方 探す• 関東地方 探す• 中部地方 探す• 関西地方 探す• 中国・四国地方 探す• 九州地方・沖縄 探す• いい葬儀の鎌倉新書が運営するサービス•

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般若 心 経 読み方

正しくは菩提寺にお尋ねください。 般若心経の和訳 上記玄奘訳を元に、仏教や哲学の専門用語をなるだけ使わずに日常語で意訳しました。 玄奘訳で欠けている部分の大筋などを 「大本(完全版)」やサンスクリット原本で補いました(青字部分)。 また、 分かりやすくするため説明を付加しています(緑字部分)。 般若心経の和訳 私はこのように聞いています。 お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。 人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する 5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。 しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだと。 そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。 お釈迦さまの弟子で長老の シャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。 「シャーリプトラよ、 体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。 体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。 体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。 これは体だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです( つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体ではありません)。 シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。 汚れているとか、清らかであるということもありません。 迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。 このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。 目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。 目に映る世界から、心の世界まですべてありません( つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません)。 迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。 同様に 迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません( つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません)。 苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません( つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません)。 知ることも、修行の成果を得ることもありません。 また、得ないこともありません。 心に妨げがないので恐れもありません。 誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。 ですから知らないといけません。 」 この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。 そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。 『般若心経』とは? 『般若心経』は正しくは『般若波羅蜜多心(プラジュニャーパーラミターフリダヤ)経』と言いますが、インドのサンスクリット語の原典にはタイトルはなく、中国で、結びの言葉に「経」を付加してタイトルにしたのです。 「般若波羅蜜多」について説く経典は多数あって、それらを総称して般若経典と呼びます。 般若経典は紀元前後から作られ始め、12世紀頃まで作られました。 『般若心経』はその中の一つで、般若経典の神髄を短くまとめたとする経典です。 『般若心経』はいつどこで書かれたのか? 『般若心経』がいつどこで書かれたかははっきりしませんが、インドで観音信仰が広がり、仏教が密教化していった5-6世紀頃ではないかと推測されています。 4-5世紀に生きた鳩摩羅什によるとされる漢訳本があるため、もっと早く成立していたと思われていましたが、最近の研究では羅什訳は後の時代の偽作の可能性が強く、『般若心経』の成立が確実に確認できるのは7世紀初頭頃になってからです。 『般若心経』には、玄奘訳のように観音菩薩の説法に当たる本文だけからなる「小本」と、本文の前後に物語の基本的な設定に当たる序文やエピローグを含んだ「大本」の2つの系列があります。 上の和訳では「大本」だけにある部分は青字で大筋を訳しました。 この部分がないと、お釈迦様も登場せず「仏説」としての根拠がないので経典として成立しません。 歴史的には、最初に般若経典から神髄だけを抽出した「小本」が作られて、後に経典として体裁の整った「大本」が 作られたようです。 般若心経の意味 「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。 「プラジュニャー(パンニャー)パーラミター」を「般若波羅蜜多」と音訳しているのは、これが固有名詞と考えるべき特別な智慧だからです。 大乗仏教では修めるべき六つの修行・徳目を「六波羅蜜多」と言い ますが、その中の最後の最も重要なものが「般若波羅蜜多」です。 「心」と訳されている「フリダヤ」は、直訳すると「心臓」ですが「神髄」という意味で使われます。 つまり「般若心経」とは、「般若波羅蜜多の神髄」であると共に「般若経典の神髄」という意味です。 「フリダヤ」は「真言」という意味でも使われるので、「般若波羅蜜多の真言」という意味だと解釈する説もありますが、結局はどちらでも同じです。 なぜなら、『般若心経』の中に「般若波羅蜜多は大いなる真言である」と書いてあり、『般若心経』の主張は「般若波羅蜜多の神髄は真言である」ということだからで す。 『般若心経』は「般若波羅蜜多」の修行方法を説いており、文章の流れからして、明らかに真言を伝授することを核心としています。 お釈迦様の生きておられた当時の多くのインドの宗教・思想では、禁欲・苦行や無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱ができると考えていたのですが、お釈迦様は、あるがままを観察する瞑想で得られる智慧によって、欲望や執着の原因を理解してそれをなくすことで解脱ができると考えました。 仏教では何かに集中し、一体化して心を静める瞑想を「止(シャマタ、サマタ)」、何かを観察し、分析する瞑想を「観(ヴィパッシュャナー、ヴィパッサナー)」と呼びます。 「六波羅蜜多」の5番目の「禅波羅蜜多」が「止」に、6番目の「般若波羅蜜多」が「観」に相当します。 観自在菩薩と長老シャーリプトラ 『般若心経』は観自在菩薩が智慧第一の長老シャーリプトラに説法するという設定になっています。 観自在菩薩はその名前が示している通り、「観」の瞑想に秀でているとも解釈できる大乗仏教の菩薩で、一方シャーリプトラは小乗仏教の智慧を象徴すると考えられる人物です。 仏教の経典類は「三蔵」と呼ばれる「経」「律」「論」に分類されます。 原則としてお釈迦様の説法を記録した「経」に対して、お釈迦様の教えを解釈し、体系化したものが「論」です。 小乗仏教の各宗派はそれぞれに「論」を作りましたが、シャーリプトラがお釈迦様の教えを解釈してまとめたことが、「論」の始ま りとも言われています。 「観」の瞑想では、どのように集中するかということと、どうような教説に即して観察・分析し智慧を得るかということが問題になります。 以下にこの2つを説明しましょう。 「空」の思想 『般若心経』が「般若波羅蜜多」の修行で得られる智慧として説いているのは、大乗仏教の「空」の智慧です。 つまり、「般若波羅蜜多」の智慧は「空」を理解する智慧であり、瞑想修行の中ですべてを「空」であると洞察するのです。 『般若心経』が次々と数え上げながら、「空」である、「無い」と否定しているのは、「五蘊」「十二処」「十二縁起」「四諦」など、お釈迦様が説かれたとされる仏教の中心的な教説、教説で使われる基本的な概念で、「法(ダルマ)」と呼ばれるものです。 小乗仏教(部派仏教)はお経を解釈しながら、世の中のあらゆるものを細かく分析して、真に存在するものを「法」としました。 そして、観の瞑想によって「法」を見極め、我々が一般に存在していると思っているものは観念でしかなく、しかも、真に存在しているこの世の「法」(有為法・行)は無常なもので、し たがって執着することは苦であり、どこにも私はないのだという智慧を得て、煩悩をなくすことで悟りが得られるとしました。 そして、「法」は、悟りと関係し た清いものであったり、煩悩と関係した汚れたものであったり、また、生じてはすぐに滅するものだなどと考えました。 これら小乗仏教の思想は「アビダルマ論」と呼ばれます。 しかし、大乗仏教は、小乗仏教が「法」を大切にし過ぎるあまり、これらを実体のように考えていると批判しました(当時、大乗仏教が批判の対象にしていたのは、小乗仏教の中でも主に「説一切有部」と呼ばれる部派であり、その後、東南アジアで主流となっている「上座部」とは違います)。 『般若心経』は、小乗仏教の「アビダルマ論」を知っている人を対象にして、「法」も含めてすべてのものは「空」であって、もともと真実に存在しているもの ではないのだから、生まれることも、滅することも、汚れているということも、清らかであるということもないのだと、一つ一つ批判しているのです。 『般若心経』は決して「五蘊」「十二処」「十二縁起」「四諦」などの仏教の基本的な教説を否定しているのではなく、これら「法」を実体視することを否定しているのです。 そして、この「空」を洞察する智慧によってこそ悟りに至ると説いています。 一連の「空」の説法の中でも最も重要なのは、大本が最初に観自在菩薩が見極めた内容だと語る「五蘊」の「空」です。 玄奘訳では「五蘊は空である」と訳されていますが、サンスクリット原典では「五蘊があり、それが空である」と書かれています。 つまり、お釈迦様が悟られた五蘊説をまず認め、次にそれを実体と 見ることを否定しています。 五蘊説は「無我」を説く仏教の基本的な教義で、これを理解することが『般若心経』を理解する基本になりますので、長い付加的な説明をつけて訳しました。 五蘊の無常を瞑想する修行法は「五蘊観」と呼ばれ、古来、これだけで悟りに至れるとされてきました。 「色」は一般に「形あるもの」とか「物質」と訳されることが多いですが、自我への執着をなくすために説かれた本来の「五蘊説」の文脈では「体」ですので、ここでは「体」と訳しました。 ちなみに「蘊」は「集合体」の意味で、実体ではないということですが、5つ集まっているから集合体なのではなく、五蘊の それぞれが集合体でどれも実体ではないという意味です。 また、玄奘訳に「色不異空 空不異色/色即是空 空即是色」という有名な一節がありますが、サンスクリット語の大本などにはこの前に「色性是空 空性是色」などと訳される部分があって、三段階の説明となりました。 経文を直訳すると下記のようになります。 (1) (A) 色は空性であり (B) 空性こそ色である (2) (A) 色は空性と別ではなく (B) 空性は色と別でない (3) (A) 色なら空性であり (B) 空性なら色である 似た文が6つ並んでいます。 『般若心経』は読経や瞑想修行を目的として、リズムや繰り返しを重視して書かれているので、それぞれの文の違いにはあまり意味がないかもしれません。 (1)、(2)、(3)は表現は違いますが、論理的には意味はほぼ同じです。 ただ、(A)と(B)については、インド仏教の伝統では下記のように大きな意味の違いがあると解釈されてきました。 (A)は言葉によって実体に執着することを否定する智慧の段階を表現しています。 それに対して、(B)は何も存在しないという極端な考え方を否定すると共に、言葉のない体験に執着することも否定する智慧の段階を表現しています。 (B)は大乗仏教が重視する智慧で「後得智」と呼ばれるものです。 言葉による 認識はあっても、それらを実体視せず、執着もない状態であり、最終的には、言葉のない直観的な認識と言葉をともなう認識が完全に一致・両立します。 この智慧があってこそ、人を救うことができるのであって、小乗仏教の阿羅漢とは異なる大乗仏教の仏の智慧であると考えられました。 上の和訳では、(A)から(B)への認識の進展を(1)から(3)の流れの中で表現しようと試みました。 「真言」の修行法 『般若心経』で述べられている「空」の思想は、思想として勉強するためのものではなく、「観」の瞑想をするための指針です。 つまり、小乗仏教では「アビダルマ論」に沿って「観」の瞑想を行うのに対して、『般若心経』では「空」の思想に沿って「観」の瞑想を行うのです。 ちなみに、南伝アビダルマ(上座部)の修行道は『清浄道論』に、北伝アビダルマ(説一切有部系)の修行道は『阿毘達磨倶舎論』に、大乗仏教の般若経系の修行道は『現観荘厳論』にまとめられています。 般若経系の修行道は、北伝アビダルマの修行道を、空思想と菩薩の利他主義の観点から組み直したもので、「五道」という形にまとめられています。 ただ、『般若心経』は後半部で「真言(呪文・マントラ)」を称えて紹介しています。 具体的な説明はしていませんが、「般若波羅蜜多」の修行は「真言」を繰り返し唱える「念誦法」と呼ばれる方法を使った修行なのでしょう。 しかし、「真言」を唱えるからといって密教ではありません。 智慧を得て解脱するためには「観」の瞑想を行うのですが、深い智慧を得るためには、まず、何か一つのものだけに集中し続けて、言葉による認識のない状態でその対象との一体化を目指す「止」の瞑想が必要なのです。 小乗仏教でも、まず、呼吸など40種類の対象(四十業処)に集中する「止」を行って集中力を高め てから「観」に移ります。 「止」を行う際、集中する対象を指す言葉を繰り返し唱えながら集中することもあります。 例えば、呼吸に集中する場合は、「息を 吸った、息を吐いた」と繰り返し唱えます。 これに対して『般若心経』が説いている「般若波羅蜜多」の瞑想法は、「真言」を繰り返して唱えてそれ自身に集中する方法でしょう。 まず、「真言」を唱え ながら心を「真言」に集中し一体化します。 その後、おそらく「真言」を唱え続けながらも、自分が体験していることや外界の存在などの現実を対象にして観察 します。 日常的な主観を排除して、『般若心経』で述べられている「空」の教説に沿って、自分がそれらに対して妄想や執着を持っているけれども、実際にはそ れらが存在しないこと、つまり、「法」も含めてすべては「空」であると理解します。 「五道」の修行の階梯にそって智慧の深まりを簡単に紹介しましょう。 最初の「資糧道」では、空の思想を言葉によって知的に勉強します。 次の「加行道」では、それを言葉を使いながら「観」の瞑想の中で理解します。 分析を進め、集中力もついてくると、しだいに言葉のない状態で洞察を行う「止」と「観」が一体の瞑想になり、直観的にあるがままを認識する「空」の智慧が生じます。 そして、瞑想をやめて言葉の世界に戻っても、空の認識が生きた「後得智」が働きます。 この段階が「見道」です。 さらに瞑想修行を進めて、先天的な煩悩まで取り除いていくのが「修道」です。 最終的に、一切の煩悩がなくなると、言葉のない直観と言葉のある認識が一致して、すべてを知る仏の智慧が生まれま す。 この最後の段階が「無学道」です。 真言の意味 「真言」は、それをただ唱えれば何かがかなえられるという魔法の言葉ではありません。 本来、「真言」は経典や 仏の智慧を心の中に呼び起こして保持するための言葉です。 「真言」を唱える瞑想の中で、集中力の高まった直観的な智慧の体験を何度も経験していて初めて、「真言」を唱えることが条件反射的に智慧の体験を導くのです。 一般に「真言」の内容は、教説を凝縮した象徴的な言葉であったり、祈願や帰依の言葉ですが、「真言」は日常の言葉とは異なっていることが望ましく、言葉の意味よりも響きが重要とされます。 そのため、『般若心経』の「真言」も音訳されることが多く、上の訳では、インドの原典の発音をカタカナにしました。 「波羅蜜多(パーラミター)」は、「完全な」「完成」という意味だと書きましたが、語呂合わせ的には「パーラ」=「彼岸(悟り)」に「イター」=「到った」と解釈できるので、仏教の伝統ではこの解釈もされてきました。 この解釈は「般若波羅蜜多」を擬人的に表現したものですので、自然に「般若波羅蜜多」を人格的に考えるようになりました。 真言の「ガテー」は「行く」という言葉の過去受動分詞、女性単数の呼格と思われます。 『般若心経』のテーマである「智慧(般若)」はインドの言葉では女 性名詞です。 ですから「ガテー、ガテー、パラガテー」は「彼岸に到った貴女よ」と「般若波羅蜜多」に呼びかけています。 「パーラミター」と同じ意味の 「パーラガテー」を掛けているのでしょう。 つまり、 『般若心経』の「真言」は「般若波羅蜜多」の智慧に呼びかけるものであり、修行の目標そのものを意味しています。 もともと「真言」というものは智慧を導び き、智慧に等しいものですから、 『般若心経』の「真言」は「真言」そのものであり智慧そのものだと言えます。 そして、過去にも菩薩達がこの「真言」を唱えた結果、実際に智慧を完成させて 悟りを得て目標を達したのだから、この「真言」はその言葉の内容を実現する力がある真実のものであるということになります。 ですから、「般若波羅蜜多」の 神髄は「真言」であり、「般若波羅蜜多」=「真言」であるというのが 『般若心経』の主張なのです。 「智慧」は女性名詞であり、「智慧」によって仏が生まれるということから、『大般若経』では「般若波羅蜜多は諸仏の母」と書かれ、密教の時代には「般若 仏母」と呼ばれる女性の仏であると考えられるようになりました。 『般若心経』は密教が盛んになり始めた頃に作られたものだと推測されているので、「智慧」 を女神のように考えていたという側面がすでにある程度あったのでしょう。 ただ、密教以前でも、大乗仏教が生まれた当時のインドは、ヘレニズム文化圏の東端にあたり、ギリシャ、イラン(ペルシャ)系の王朝が次々と支配し、その 文化の影響を受けていました。 仏像が生まれたのはギリシャ彫刻の影響ですし、救いや光の性質を持ったたくさんの仏・菩薩が生まれたのはイランの神々の影響 です。 当時のヘレニズム文化圏では宗教を超えて霊的な「智慧の女神」に対する信仰が広がっていましたので、『般若心経』にもその影響があったかもしれませ ん。 ギリシャの智慧の女神ソフィアの影響を受けて、イランでは河の女神アナーヒターが智慧の女神となりました。 アナーヒターは観音菩薩の誕生にも影響を与 えたと言われています。 まとめ 読経と写経 『般若心経』は「真言」の念誦について説いていますが、『般若心経』の「読経(読誦)」や「写経」については何も語っていません。 しかし、『般若心経』は明らかに読経しやすいことを配慮して翻訳されています。 小乗仏教では寺院に多額に相当する布施をすることが功徳とされましたが、大乗仏教では一般民衆を対象に布教していましたので、多額のお布施よりも「読 経」や「写経」をすることが功徳になるとしました。 また、大乗仏教では、お経そのものに対する信仰も生まれました。 「読経」や「写経」は心を集中させることができますし、仏教の教えに心を向けることで邪念を避けることができるのは間違いないでしょう。 いい葬儀で葬儀場・斎場を探す エリアを選択してください 北海道・東北地方 探す• 関東地方 探す• 中部地方 探す• 関西地方 探す• 中国・四国地方 探す• 九州地方・沖縄 探す• いい葬儀の鎌倉新書が運営するサービス•

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般若 心 経 読み方

意味は「智慧」です。 ただし、一口に智恵といっても、いろいろあります。 金儲けのための智恵だとか、 他人を騙すための智恵といったものもあります。 しかし、般若の智慧はそういうものではありません。 それは、ずばり言えば、 ほとけの智慧 なのです。 だから、わたした、ちが普通に持っている凡夫の智恵に対して、 智慧といった漢字で表記します。 もっとも、発音は同じだから、般若の智慧と言ったほうが明瞭に区別できますね。 その意味では、『般若心経』は、 智慧のお経 です。 わたしたちに、ほとけの智慧を持ちなさいとすすめているお経です。 では、ほとけの智慧とは、どういうものでしょうか・・・・・? 『般若心経』は、 観自在菩薩。 行深般若波羅蜜多時 かんじさしぼさつ ぎようじんはんにやはらみつた じ 照見五薀皆空。 度一切苦厄 しようけんごうんかいくう どいつさいくやく [観自在菩薩は般若波羅蜜を行じられて、すべてのものが「空」だと照見され、あらゆる苦厄を克服されました]、 と冒頭で言っています。 観自在菩薩とは、その名の通り自由にものを観ることができる菩薩 仏道を歩んでいる入 ですね。 なぜ彼が自由自在にものを眺めることがでぎるようになったかといえば、 彼が般若波羅蜜 ほとけの智慧の完成 の修行をやったからです。 ほとけの智慧の完成をして、 すべてのものが「空」だとわかった。 その結果い彼はあらゆる苦悩を克服できたのです。 だから、あなたがたも観自在菩薩のように、 ほとけの智慧を完成させて、すべてのものごとを「空」と見るようにしなさい。 そうすれば観自在菩薩と同じように、自由自在にものを見ることができ、苦悩を克服できますよ。 『般若心経』はそう教えているのです。 ここで要点は、 自由自在に見る ということです。 裏返しに言えば、われわれはものごとを自由自在に見ていないのです。 こだわって見ている。 捕らわれて見ているのです。 つまり、。 われわれは「奴隷」になっていて 「自由人」ではないのです。 そうでしょう、奴隷というのは、ご主人さまが自分をどう見ているか、 それが気になってならないのです。 それと同じで、サラリーマンは上司が自分をどう見ているか、それが気になってならないのだから、 奴隷になっているのです。 そうすると、上司の言葉によって傷つき、神経症になるのです。 奴隷になるな! 自由入であれ! 『般若心経』はわたしたちにそう教えてくれているのです。 欲望の奴隷ではなしに欲望の主人になればいいのです では、われわれがなぜ奴隷になってしまうのかといえは、その根本原因は、欲望にあります。 われわれが欲望を持っているから、奴隷になるのです。 だがら、われわれは欲望を捨てるべきです。 と言えは、必ず反論があります。 入間は欲望を持つから進歩発展をし、向上するのだ。 欲をなくしてしまえば、入間は駄目になる、と だが、じつは、仏教の開祖の釈迦は、欲望に二種類があることを洞察されたのです。 その二種類の欲望を、わたしは、 自然的欲望と奴隷的欲望 と名づけています。 自然的欲望というものは、それが充足される自然になくなってしまう欲望です。 たとえば、空腹のときにめしを食えば、食欲は自然になくなります。 腹一杯食べて、 それでもまだまだ食いたい・・・・・ などとは誰も思いません。 腹 一杯食べると、それで終りです。 だが、金の場合は、そうはいきません。 金が欲しいと思っている者に、たとえば百万円をあげます。 そして、さらに百万円あげると言えば、ほとんどの人がそれを貰うでしょう。 さらに百万、 さらに百万と追加しても、「もう要りません」と言う人はまずいまぜん。 これが奴隷的欲望です。 いくら充足されても、なくならない欲望。 これは、人間が欲望の奴隷にされてしまったのです。 この奴隷的欲望は、それを充足させようとしてはいけないのです。 われわれは、欲望を充足させると幸福になれると思っています。 つまり、 幸福=充足/欲望 といった方程式を信じているのです。 たとえば、年収二千万円欲しいといった欲望があり、実際には一千万円の年収しかないときは二分の一の幸福、 一 千五百万円だと七割五分の幸福、そして二千万円得られるようになれば百パーセントの幸福、と考えています。 けれども、そうではありません。 かりにわれわれの年収が二千万円になったとすれば、 そのときはその人の欲望が膨れ上がっています。 いや、五千万円ぐらい欲しい・・・・・となっています。 それが奴隷的欲望の本性なんです。 だから欲望を充足させることによっては、人間は幸福になれません。 幸福になるためには、別の方程式が必要です。 それは、 幸福=知足/少欲 です。 欲を少なくし、足るを知る心を持たねばなりません。 その「少欲・知足」によって、 あなたは幸福になれるのです。 考えてみれば、現代日本は、すさまじいまでの、 欲望主義社会 ですね。 そこでは欲望が無条件に肯定され、欲望を充足させることが絶対善と信じられています。 ちょっと怖ろしい社会です。 わたしたちは物質的に豊かになったにもかかわらず、 ほとんどの人がまだまだ十分ではない。 もつと もつと と考えています。 われわれは欲望を充足させると幸福になれると思っている 企業などは、前年度並みの成績だと赤字も同じだ、前年を上回る成績を上げねばならない、 と言っています。 それは奴隷的欲望であり、わたしたちは欲望の奴隷になっているのです。 日本人の平均寿命は世界一だそうです。 にもかかわらず、誰もがまだまだ長生きしたいと願っています。 しかも、長生きすれば病気になるのは当然なのに、 長生きと同時に健康を望んでいます。 欲張りです。 ともかくいおかしな現代日本の社会です。 ですが、わたしはおかしいと思っていますが、そうは思わない人が大勢おられると思います。 その人たちにとっては、 おかしいと思っているおまえがおかしいのだ となるのでしょう。 人間は欲望を持つのがあたりまえで、欲があるからこそ社会は進歩発展をするのだ。 仏教は「欲を少なくせよ」と教えているのであれば、それは仏教のほうがおかしい。 社会の進歩発展を阻害するような仏教の教えに、われわれは聞く耳を持たぬ。 そう言われるでしょう。 これは、わたしのほうにも、そのように誤解させた責任があります。 わたしは先程、「欲を少なくせよ」と書きました。 この表現はいささか不的確でした。 というのは、『般若心経』は、「空」を教えています。 「空」というのは、ものに物差しがついていない ということです。 だとすれば、 欲を少なくするというのは物差しにもとづいだ表現だから、「空」という言葉にそぐわないはずです。 『般若心経』が言っているのは、欲を少なくせよ、というより、 欲望の奴隷になるな! あなたは、欲望を自由自在にコントロールできるようになりなさい ということだと思います。 現代的な言葉で言えば、 もっと主体性を確立せよ! ということでしょう。 欲望の奴隷ではなしに、 欲望の主入になればいいのです。 欲望の奴隷になった状態というのは、ちょうどたばこがそうです。 たばこは百害あって一利なしで、他人に迷惑をかけるものです。 日本の火災の第一原因は喫煙によるもので、社会的損失は税収の数倍になるそうです。 ところで、人がなぜたばこを吸うかといえば、たばこがたばこを吸わせる要因をつくるからです。 一本のたばこを吸うと、そのたばこが次のたばこを要求します。 そして、その欲求を満足させれば、 その満足させる行為が次のたばこを要求するのです。 これが欲望の奴隷です。 欲望のままに入間が動かされている。 もっとも、酒にもそのような要素があります。 が、たばこは麻薬ですが、酒はそうではなく、中毒する度合いが少ないのです。 いずれにせよ、 『般若心経』の教えは、欲望の奴隷になるな! であって、 わたしたちが欲望を主体的にコントロールできるのであれば、いくら欲望を持ってもよいのです。 しかし、たいていの入間は弱いのですから、欲望をコントロールすることはなかなかできません。 それであれば、欲望を少なくしたほうがいいのです。 そういう意味での「少欲」だと思ってください。 『般若心経』は欲望に歯止めをかけよとは教えていない さて、あなたは奴隷になっていませんよね。 日本のビジネスマンはややtもすれば会社の奴隷になってしまっています。 情けないですね。 奴隷というのは、自分独自の価値観を持たずに、会社が押し付けてくる価値観で生きている存在です。 会社が敷 いた出世コースのレールを、なんの疑 いもなく走っている人間。 収入が多い ほどいいだろう・・・・・ということで、残業や休日出勤を唯々諾々とやっている人間。 身も心も会社に献げ尽くした会社人間。 それは奴隷ですよね。 そして いままでの日本社会では、 そういう奴隷入間が「ういやつ」でした。 日本経済はそうした奴隷人間(忠臣 に支えられて発展してきました。 だが、これからの時代、そのような 奴隷人間は、きっと「お荷物」になるだろうと思います。 なぜなら、 日本の企業は国際化の波の中で、価値観の多様性を持たねばならないからです 企業が与える価値観に従順に従う奴隷入間よりも、主体的な判断力を持った自由人を、 企業のほうが求めているからです。 会社のために・・・・・と思うてやったことが、逆に会社を潰す結果になった、 といったことが、あちこちで起きています。 そのときはその価値観でよかったのですが、時代の変遷がその価値観を誤りにしてしまったわけです。 すると、忠臣が逆臣になります。 これからの時代、そういう価値観の逆転は頻繁に起きるでしょう。 だから、会社奴隷であってはいけません。 その意味で、 『般若心経』です。 奴隷になるな! 自由入であれ! と教えている『般若心経』は、 いま日本のビジネスマンにとっての必読経典です。 わたしたちは『般若心経』に学んで、なにはともあれ自由人になりましょう。 自由人というのは、自分の物差しを持っている人間です。 われわれは欲望主義の社会の中にあって、際限のない欲望を持たされています。 そして科学技術は、次から次ヘと欲望を拡大しています。 さあ見てごらん、現代の科学技術は、こんなこともできるのでずよ・・・・と、 これまでの人間は思いもしなかった新しい欲望を開発し、わたしたちにその欲望を植えつけています。 わたしたちはその新しい欲望を充足させようと、がんばりにがんばって働かざるを得ません。 そして、もう身も心もくたくたになっています。 しんどいですね。 しんどい世の中です。 その欲望に、ちょっと歯止めをかけましょうよ。 いや、歯止めをかけるというのは、『般若心経』の教えではありません。 それは禁欲主義の考え方です。 『般若心経』は、あなたの主体性を確立せよと言っているのです。 あなたが主体的に判断して、 「もっと・もっと」と欲望を拡大したいのであれば、そうすればいいのです。 しかし、あなたが受け身であって、世間の物差しに従った欲望を持たされているのであれば、 そんな世間の物差しを捨ててしまいなさい、と言っているのです。 そして、あなたは、「わたしにはこれで充分である」 と、主体的に判断しなさい。 そういう自由人であれ、 と、『般若心経』は教えているのです。 『般若心経』は、あなたの主体性を確立せよ と言っているのです あなたが会社を馘になることを心配して、会社の命ずるがままに生きているのであれば、あなたは奴隷でしかありません。 しかし、あなたが主体的判断をして、家庭を犠牲にしても会社のために尽くす、と言うのであれば、 それはそれで立派です。 もっとも、わたしはそんな人間を軽蔑しますが、それはわたじの価値観からしてです。 ともかく、自由入であれ、自分の物差しを持つことが肝要です。 会社の思惑を気にし、びくびくしているなんて、最低の生き方だと思いますね。 子どもの教育に関してだって同じです。 他人の子どもが大学に行くから、うちの子も行かせようなんて、世間の奴隷になっているのです。 そんな親だと子どもがかわいそうです。 子どもは子どもの人生を生きるのですよ。 親が考える入生を子どもに送らせようとすることは、子どもを奴隷にしているのです。 ともあれ、奴隷になるな! 自由人であれ! それが『般若心経』 の教えです。 そして『般若心経』は最後に、 翔諦 翔諦 波羅翔諦 波羅僧翔諦 ぎやてい ぎやてい はらぎやてい はらそうぎやてい 菩提薩婆訶 ぽ じ そ わ か と言っています。 これはサンスクリット語の発音を漢字で表記したものですが、わたしはこれを私流に意訳して、 次のように訳しています。 「自由だ! 自由だ! 自由になった! ここに、「色」は物質的実在、「受」は外界から受ける印象の感受、「想」は表象、「行」は意思、「 識」は認識。 4 度一切苦厄 <どいっさいくやく> すべての苦厄から解放された。 5 舎利子 <しゃりし> シャーリプトラよ。 仏弟子への呼びかけ。 6 色不異空 <しきふいくう> 「色」は「空」に異ならず。 7 空不異色 <くうふいしき> 「空」はまた「色」に他ならず。 8 色即是空 <しきそくぜくう> 「色」はすなわち「空」であり、・・・ 9 空即是色 <くうそくぜしき> また、「空」こそが「色」である。 10 受想行識亦復如是 <じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ> 「受想行識」(五蘊のうちの4つ)もまた、「色」と同様に「空」なのである。 11 是諸法空相 <ぜしょほうくうそう> 凡てのものは空相にして、・・・ 12 不生不滅 <ふしょふめつ> 生じることもなく、また消滅することもなく、・・・ 13 不垢不浄 <ふくふじょう> 穢れることもなく、浄化されるのでもなく、・・・ 14 不増不減 <ふぞうふげん> 増えるのでもなく、減るのでもなく、・・・ 15 是故空中 <ぜこくうちゅう> それゆえに「空」には、・・・ 16 無色 <むしき> いろもなく、・・・ 17 無受想行識 <むじゅそうぎょうしき> 実体もなく、「受想行識」もなく、・・・ 18 無眼耳鼻舌身意 <むげんにびぜつしんい> 「六根=眼耳鼻舌身意」もないので、・・・ 19 無色声香味触法 <むしきしょうこうみそくほう> 「六根」が感得する「色声香味触法」もないのだ。 20 無眼界 <むげんかい> 可視できるものもなく、・・・ 21 乃至無意識界 <ないしむいしきかい> 意識に智得されるものもない。 22 無無明 <むむみょう> 無智・無明もなく、・・・ 23 亦無無明尽 <やくむむみょうじん> 無明の尽きることもなく、・・・ 24 乃至無老死 <ないしむろうし> また、老死することもなく、・・・ 25 亦無老死尽 <やくむろうしじん> また、老死が尽きることもなく、・・・ 26 無苦集滅道 <むくじゅうめつどう> 「四諦」(「苦」人の生の苦しみ、「集」は煩悩のために苦を生ずる、「滅」とは煩悩を滅すること、によって涅槃に至る八正道という「道」に励むべきであること)もなく、・・・ 27 無智亦無得 <むちやくむとく> 悟りのための「智」もなく、また「智」を得ることもなく。 ・・・ 28 以無所得故 <いむしょとくこ> 持つべきものは何もないのだから、・・・ 29 菩提薩埵 <ぼだいさつた> 「菩薩」 (悟りを求めて修業する人)は、・・・ 30 依般若波羅蜜多故 <えはんにゃはらみつたこ> 「般若波羅蜜多」の知恵の故によって、・・・ 31 心無罣礙 <しんむけいげ> 心に「罣礙(けいげ)」というこだわりがなく、・・・ 32 無罣礙故 <むけいげこ> こだわりが無いことの故に、・・・ 33 無有恐怖 <むうくふ> 恐怖するものも無く、・・・ 34 遠離一切顛到 夢想 <おんりいっさいてんどうむそう> あらゆる本末転倒した妄想を離れて、・・・ 35 究境涅槃 <くきょうねはん> 究極の涅槃の域に、・・・ 36 三世諸仏 <さんぜしょぶつ> 過去、現在、未来の「三世」に居た諸仏が、・・・ 37 得阿耨多羅三藐三菩提 <とくあのくたらさんみゃくさんぼだい> 「阿耨多羅三藐三菩提」という最高の知恵を得て、・・・ 38 故知般若波羅蜜多 <こちはんにゃはらみつた> 故に、知るべし、「般若波羅蜜多」の智恵は、・・・ 39 是大神呪 <ぜだいじんしゅ> これは偉大かつ神聖な真言であって、・・・ 40 是大明呪 <ぜだいみょうしゅ> これは偉大にして智恵ある真言であり、・・・ 41 是無上呪 <ぜむじょうしゅ> これは、無上の真言で、・・・ 42 是無等等呪 <ぜむとうどうしゅ> これと等しい真言は無く、・・・ 43 能除一切苦 <のうじょいっさいく> よく一切の苦を除き、・・・ 44 真実不虚 <しんじつふこ> 真実にして虚にあらず。 45 故説般若波羅蜜多呪 <こせつはんにゃはらみつたしゅ> 故に、「般若波羅蜜多」の真言を説こう。 46 即説呪曰 <そくせつしゅわつ> すなわち、真言を説いて曰く、・・・・・・・・・ 47 羯諦 羯諦 <ぎゃてい ぎゃてい> 行く者よ、行く者よ! 波羅羯諦 波羅僧羯諦 <はらぎゃてい はらそうぎゃてい> 迷いの世界から悟りの彼岸へ行く者よ、確固として行く者よ! 菩提薩婆訶 般若心経 <ぼじそわか はんにゃしんぎょう> 幸いあれ、般若心経.

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