明智ガラシャ。 細川忠興の妻たち

明智光秀の娘・細川ガラシャ~キリスト教に改宗し誇り高く迎えた最期~

明智ガラシャ

明智光秀の息子の名前として、分かっているのは「光慶」「十五郎」「自然丸」です。 「光慶」の名は、『愛宕百韻』に詠み手として残っています。 「十五郎」の名は、天正10年 比定 6月9日付明智光秀覚書です。 そこに「十五郎」とあります。 この「十五郎」が細川忠興の弟・「頓五郎」だとする説もありますが、「十五郎」には「殿」が付かず、その後の「与一郎」には「殿」が付けられています。 書き方として、不自然さが残ります。 「頓五郎」は「とんごろう」と読みます。 そして、それを「十五郎」と書き間違えたのなら「とおごろう」と右筆が聞いたということになります。 ここはやはり通説どおりに「十五郎」ではないでしょうか!? 「自然丸」の名は、『宗及他会記』に天正2年閏11月2日坂本での連歌会に残されています。 坂本城落城の記録として、ルイス・フロイスの『日本史』に「明智の二子が死んだが、非常に上品な子供たちで、ヨーロッパの王子を思わせるほどであったと言われ、長男は十三歳であった」と書かれています。 「豊鑑」によれば、この「長男は十三歳」は「自然丸」となります。 そして、本能寺の変後の事として、安土に居たオルガンティーノ一行の記事の中に、坂本で摂津高槻までの通行証を「明智の子」に出してもらったとあります。 この「明智の子」も「自然丸」なのでしょうか!? 私は、「光慶」=「十五郎」としていいと思っています。 坂本城で死んだ「長男は十三歳」=「自然丸」とすると、「光慶」=「十五郎」は何処に・・・! 大正8年、丹波史蹟研究会発行、中岡未竜著、『明智光秀今昔観 : 附・福知山繁昌記』によると、 「長男・十兵衛光慶は丹波亀山城にいて、常に体が悪く、山崎の戦いに先立ち死去。 次男・十次郎は筒井重慶の養子。 三男・乙寿丸は山崎の戦い後、坂本城で母とともに死去、その時七歳。 」 と書かれています。 明41年、東亜堂発行、熊田葦城著、『少年武士道. 第1』によると、 「明智光慶、字 あざな は十兵衛。 天正十年の春、病に罹り、丹波亀山に居て、光秀が本能寺で信長を討ったことを急使から聞き、嘆き悲しみ、鬱気が胸に迫って死去。 その時、十四歳」 となります。 当時の信頼出来る史料が無いために、このようなことが起きてしまいます。

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明智光秀の子孫と細川ガラシャ(明智玉子)の子孫

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元亀2(1571)年に織田信長の命で細川藤孝によって当時最先端の城郭に改修されました。 天正6(1578)年、明智光秀の娘 玉(細川ガラシャ)が、藤孝の子で、後に利休七哲の一人となる忠興(三斎)に嫁ぎ、幸せな新婚時代を過ごしました。 本能寺の変の後、「天下分け目の天王山」で知られる山崎合戦の際には、明智光秀がこの城に入りました。 平成4年に「勝竜寺城公園」として整備したことを記念し、玉の輿入れ行列を再現する「長岡京ガラシャ祭」が毎年11月第2日曜日に開催されています。 公園内の展示室には細川幽斎が書いた書状(レプリカ)を展示。 2019年11月2日には、展示室を中心に公園をリニューアルします。 勝竜寺城公園へのアクセス 現在、熊本市の水前寺成趣園にある「古今伝授の間」は、明治時代まで長岡天満宮境内に建てられていました。 「古今和歌集」の解釈についての奥義を伝える古今伝授。 「古今伝授の間」とは、細川藤孝が八条宮家初代の智仁(としひと)親王に、古今伝授を行った建物です。 二代・智忠(としただ)親王が御所近くの自邸から長岡天満宮の境内に移し、「開田御茶屋」として長く伝わってきました。 明治時代に細川家に引き取られ、大正元(1912)年に水前寺成趣園に移築復元されました。 長岡京市では、平成24(2012)年に長岡天満宮の境内に「古今伝授の間ゆかりの地」の石碑を設置しました。 石碑の「温故知新」の揮毫は、細川家当主で元首相の細川護熙氏によるもので、石碑の除幕式にもご列席いただきました。 永禄11 1568)年9月27日、上洛した織田信長と共に足利義昭が西岡(にしのおか)制圧に際して寂照院に陣取りした記録が残っています。 寂照院は、寺伝によると弘仁10 819 年に空海十大弟子の道雄僧都が創建した、海印寺十院のうちのひとつで、仁王門には南北朝期の金剛力士立像(長岡京市指定文化財)があります。 境内入口には、道元禅師が中国から孟宗竹を持ち帰り、この地に植えたことを伝える「日本孟宗竹発祥之地」の石碑があり、境内の一角にある孟宗竹林は京都府の登録天然記念物に登録されています。 本堂北側には、再建工事の際に発見された「走田9号墳(海印寺古墳)」の一部である横穴式石室が展示されています。 寂照院へのアクセス.

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「戦国越前の魅力を考えるシンポジウム 〜一乗谷朝倉氏と明智光秀〜」イベントレポート

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この記事の目次• 細川ガラシャとは? 明智光秀には2男4女がいました。 玉は3女です。 1563年、越前に生まれました。 当時、光秀は越前国の戦国大名・ 朝倉義景 あさくら よしかげ の 家臣 かしん として仕えていました。 朝倉義景の家臣として構えた屋敷は現在の福井市にあり、明智神社として後世に伝えられています。 1578年、 細川藤孝 ほそかわ ふじたか の嫡男の忠興に嫁ぎました。 1582年、明智光秀が本能寺の変を起こし、 織田信長 おだのぶなが を討ったため、玉は逆臣の娘となりました。 細川忠興は妻の玉を丹後国の味土野に幽閉しました。 豊臣秀吉 とよとみひでよし からの取り成しにより 細川忠興 ほそかわ ただおき は玉を細川家の大坂屋敷に戻すことになりました。 玉が大坂屋敷に入ると、キリシタン大名で有名な高山右近に出会います。 高山右近のカトリックの話を聞くと、その教えに惹かれてキリスト教徒になりました。 玉は洗礼を受けて細川ガラシャと名乗ります。 1600年、細川忠興は 徳川家康 とくがわいえやす に従い、会津の 上杉景勝 うえすぎ かげかつ の征伐に出陣しました。 西軍の 石田三成 いしだ みつなり は大坂の屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、拒否しました。 キリスト教では、自害することが禁止されているため家老に胸をつかせて、ガラシャは死亡しました。 屋敷に爆薬を仕掛けて大坂屋敷は炎上しました。 西軍の石田三成はガラシャの自害に驚き、人質を取ることをやめたといわれています。 細川ガラシャの子孫 明智光秀の子孫は本能寺の変後に自害したため、いないと考えられがちですが、細川忠興と光秀の娘の細川ガラシャの間に生まれた子孫が現在まで残っています。 初代熊本藩主は細川忠興の三男忠利です。 忠利から18代目の当主に細川護熙氏がいます。 細川護熙 ほそかわ もりひろ 氏は総理大臣に就任することが決まった際、細川忠興の末裔として話題になりました。 細川護熙氏は国会議員になる前に熊本県知事を経験しました。 熊本県知事を経て参議院議員・衆議院議員を歴任し、第79代内閣総理大臣に就任しました。 当時、細川護熙内閣は自民党による55年体制にピリオドを打った非自民による連立政権で話題になりましたが、汚職事件によってわずか8ヶ月で辞職することになりました。 1998年に60歳を区切りに政界を引退し、執筆活動やラジオパーソナリティを務めていたことがあります。 細川護熙氏は執筆活動を中心に活動しています。 戦国時代ライターオフィス樋口の独り言 今回は明智光秀と熊本藩との関係について、前半で明智光秀の娘の細川ガラシャについて取り上げました。 2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』で、明智光秀を主人公にしたドラマが放送されることが決まると、関心の高さから明智光秀や細川ガラシャに関する新史料が公開され、話題になっています。 2018年8月から9月にかけて、熊本県立美術館で「細川ガラシャ展」が開催されました。 この展覧会では、ガラシャの父・明智光秀に関する新史料や本能寺の変に関する文書も公開されました。 この展覧会では、我々の細川ガラシャが持っているガラシャのイメージが明治時代に逆輸入されたことが紹介されています。 逆輸入された内容は元侍女の証言やイエズス会の年報が基になっていると伝えられています。 1566年以前に明智光秀に関する史料はないとされていましたが、この展覧会では1566年以前の光秀に関する史料も公開されていました。 他にも本能寺の変で、 足利義昭 あしかが よしあき が黒幕となったとされる史料や四国説の根拠となった「 長宗我部元親 ちょうそかべ もとちか 書状」も公開されていました。 大河ドラマの放送に合わせて、今後の明智光秀に関する研究が進展し、新しい発見があることを期待したいと思います。 関連記事: 関連記事:.

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