小豆 坂 の 戦い。 戦国時代の合戦一覧を年表でわかりやすく!

武将列伝番外編組列伝・小豆坂の七本槍

小豆 坂 の 戦い

合戦に至る背景 [ ]• 文中の( )の年は、月日は部分を除いて全て、の長暦による。 主として西三河の平野部を支配していたは、の代に全域をほぼ平定したが、天文4年()のによって清康が不慮の死を遂げてから一族間の内紛が起こり、動揺していた。 やがて清康の嗣子が、東の・を支配するの後援を受けて岡崎城に戻り家督を相続するものの、依然として勢力は不安定だった。 尾張の南部に勢力を広げ、化を進めていたは天文9年()に松平氏の弱体化に乗じて西三河の松平氏の重要拠点である(愛知県)を手中にし、松平氏の本拠である岡崎城の目前であるのすぐ西までその勢力を伸ばしていた。 第一次合戦 [ ] 第一次小豆坂の戦い 戦争: 年月日:11年() 場所:額田郡小豆坂(愛知県岡崎市字小豆坂・同市字小豆坂) 結果:織田軍の勝利 交戦勢力 織田軍 今川軍 指導者・指揮官 戦力 不明 不明 損害 不明 不明• 小豆坂の最初の激突の後、織田氏の尾張・三河国境地帯に対する影響力は高まり、天文13年()には三河国の()を中心に国境地帯に勢力を持つのが、岡崎城主・松平広忠の妻・の兄でありながら松平氏と絶縁し、を離反して織田氏に従った。 この情勢を受けて、広忠は織田家に対抗し今川家との関係をさらに緊密にするため、嫡子・竹千代(後の)を人質として今川氏の本拠・に送ることにした。 しかし、天文16年()、当時6歳の竹千代の身柄は、護送の任にあたった(愛知県)の城主・の裏切りによって織田方に引き渡されてしまった。 は人質の竹千代を利用して広忠に対し今川を離反して織田の傘下に入るよう説得したものの、広忠は今川氏を頼って織田氏への徹底抗戦の構えを崩すことはなかった。 同じ頃、信秀は嫡男・にの娘・を娶らせて、累年の敵であったのと和睦を推進した。 これにより北の憂いをなくした信秀は改めて東へと目を向け、奪取した安祥城を橋頭堡として、岡崎城の攻略を企図するに至る。 こうして天文17年()3月、信秀は岡崎城を武力で攻略することをめざし、庶長子を先鋒とし4,000余の兵を率いて安祥城から矢作川を渡河、上和田に着陣した。 今川義元も松平氏救援のため約1万の兵をを大将、を副将として出陣させ、()に織田軍先鋒の信広と接触し小豆坂で合戦となった。 この戦いでは、はじめ今川勢は坂の頂上付近に布陣していたために優勢であったが、信広隊も劣勢を悟って無理をせずに兵を信秀本隊のある盗木の付近まで下げ、本隊と合流して勢いを盛り返した織田方の奮戦によって松平隊が崩され、次第に今川方の敗色が濃くなりつつあった。 ところがこの時、伏兵となっていた今川方の部隊が攻勢に転じ、織田本軍に横槍を入れたことで織田勢は総崩れ、再び矢作川を渡って安祥城まで敗走することとなった。 ところで、「松平広忠と岡崎城は今川方にある」ということは、第二次合戦の前提として、これまで全く疑われることがなかった。 ところが、の第九世である日覚(尾張国の出身で、今川氏家臣の鵜殿氏から帰依を受けていた)が残した書状 の中に、天文16年()9月に岡崎城が織田軍に攻め落とされたという記述があることが判明しこれを事実とする説がによって唱えられた。 この新説は研究者の中でも支持する動きがあり、更にこの説を発展させて、松平竹千代(徳川家康)は戸田康光の裏切りではなく、広忠自身が降伏の証として織田氏に引き渡したとする説まで出されるようになった。 第二次合戦で岡崎城と松平広忠は織田方であったとする説 [ ] 前述のように、松平広忠と岡崎城が第二次合戦の半年前に織田方に降伏してしまったとした場合、松平広忠はいつまで織田方にいたのか(反対に言えば今川方に寝返ったのか)によって第二次合戦の解釈が全く違うものになってくる。 これについて、村岡幹生は岡崎城が落城したとされる天文16年9月の下旬に発生したの段階で広忠と岡崎城が今川方に復帰していた(織田軍が撤退した直後に寝返った)可能性も排除できないとする一方で、第二次合戦当時は広忠も岡崎城も共に織田方で、同合戦での今川氏の勝利後に今川方に復帰した可能性が強いとした。 として、第二次合戦での岡崎城と松平広忠は織田方についており、今川氏の勝利後に今川方に復帰した可能性が高いとみている。 なお、ここで問題になる今川軍にいた「岡崎衆」の存在であるが、村岡は織田軍への降伏を肯んじえずに今川氏を頼って「牢人」となった松平氏家臣であろうと推測する。 つまり、この説に基づくと、当時の松平氏は広忠に従って織田氏に降った家臣とそれを拒否して今川氏を頼った家臣に割れていたことになる。 ただ、村岡の岡崎城と松平広忠の織田方へ降伏した説を支持する研究者でも小豆坂の戦い段階では松平広忠が既に今川方に復帰していたとする見解もある。 例えば、柴裕之は『武家聞伝記』に天文17年にの説得によって織田大和守と松平広忠が挙兵したことが記されており、この時に広忠が今川方に接近した結果として小豆坂の戦いが起きたとしている。 この説によれば、斎藤道三と松平広忠の同盟の存在とともに、道三の働きかけが第二次合戦の原因の1つであったことになる。 小豆坂の戦い後の織田と今川 [ ] 第二次合戦において今川氏・松平氏連合は勝利を収めはしたが、この合戦のあった天文17年(1548年)に松平広忠が死亡してしまい、松平氏の次期当主である竹千代が織田氏のもとに人質としてある以上、岡崎城は無主の状態になってしまった。 そこで翌天文18年()、太原雪斎は人質交換によって竹千代の身柄を今川氏の保護下に奪還することをねらい、()から()にかけて今川軍と松平軍を率いて、信広を捕虜として、竹千代と交換する交渉に成功した。 今川氏はそのまま竹千代を駿府に引き取って松平氏を完全に保護下に置き、西三河の拠点となる岡崎城に今川氏の派遣した代官を置いた。 一方、安祥城の失陥により織田氏の三河進出は挫折に終わり、さらに天文20年()には織田信秀が病没、後を継いだ信長とその弟・信勝(後の)間で内紛が起こった。 この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海城・笠寺城(それぞれ・)を守るが今川方に投降し、逆に今川氏の勢力が尾張側に食い込むこととなった。 やがて、弟との争いを乗り切った織田信長は尾張の統一を進めて力をつけ笠寺を奪還、さらにの周辺に砦を築き、鳴海城に篭った今川方の武将・を攻囲するに至る。 これに対し、3年()に今川義元は大軍をもって尾張へ侵攻した。 鳴海城をはじめ孤立した今川方の勢力を救援し、国境地帯の争いを劣勢から巻き返そうとした。 この戦役において勃発した合戦がであり、主将義元を失った今川軍は三河から急速に勢力を後退させ、かわって松平元康(徳川家康)に率いられた松平氏が復興することになる。 まもなく松平氏は織田氏と同盟()を結んだため、長らく続いた尾張・三河国境地帯の争いは沈静化していった。 脚注 [ ] []• 岡崎市. 2013年3月21日閲覧。 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』、平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。 P40-42. 柴裕之「松平元康との関係」(黒田基樹 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻 今川義元』戎光祥出版、2019年6月) P277. 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• 岡崎市観光協会• 林辰浩 2009年7月23日. 2011年3月11日閲覧。

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蒼々の小豆坂古戦場: photology

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戦国時代は各地の武将たちが自分の領土を広げるため、様々な合戦が起きました。 ただ、いつ何が起きたかこんがらがってしまうことありませんか? 私もその1人だったりします。 1473年 加賀一向一揆が起こる。 1483年 第四次筒井城の戦い(大和国)が起こる。 1485年 山城国一揆が起こる。 1487年 長享・延徳の乱 (近江国)が起こる。 1487年 第二次毛利次郎の乱 (因幡国)が起こる。 1506年 九頭竜川の戦い(越前国)が起こる。 1509年 如意ケ嶽の戦い (近江国)が起こる。 1511年 深井の合戦(和泉国)が起こる。 1511年 芦屋河原の合戦(摂津国)が起こる。 1511年 船岡山の戦い(丹波国)が起こる。 1516年 第五次筒井城の戦い(大和国)が起こる。 1517年 有田中井手の戦い (安芸国)が起こる。 1519年 越水城の合戦(摂津国)が起こる。 1527年 桂川原の戦い (丹波国)が起こる。 1530年 田手畷の戦い (肥前国)が起こる。 1531年 享禄の錯乱(加賀国)が起こる。 1531年 中嶋の戦い (摂津国)が起こる。 1532年 飯盛城の戦い(河内国)が起こる。 1532年 山科本願寺の戦い(山城国)が起こる。 1536年 花倉の乱 (駿河国)が起こる。 1536年 天文法華の乱(山城国)が起こる。 1538年 第一次国府台の戦い(下総国)が起こる。 1540年 安城合戦 (三河国)が起こる。 1541年 一庫城の戦い(摂津国)が起こる。 1541年 郡山城の合戦 毛利元就が尼子晴久を破る。 1542年 第一次月山富田城の合戦 1542年 第一次小豆坂の戦い (三河国)が起こる。 1545年 川越城の合戦 北条氏康が上杉景勝に勝利。 1546年 橋津川の戦い(伯耆国)が起こる。 1546年 足利義輝が将軍となる。 1547年 小田井原の戦い (信濃国)が起こる。 1547年 舎利寺の戦い (摂津国)が起こる。 1548年 第二次小豆坂の戦い (三河国)が起こる。 1548年 上田原の戦い(信濃国)が起こる。 1549年 江口の戦い (摂津国)が起こる。 1550年 砥石城の戦い(信濃国)が起こる。 1553年 川中島の戦い 武田信玄と上杉謙信の初めての合戦。 信玄と謙信はその後12年の間に5回、川中島で合戦をするが、決着はつかないまま終わる。 1554年 折敷畑の戦い(安芸国)が起こる。 1554年 村木砦の戦い(尾張国)が起こる。 1555年 厳島の戦い 毛利元就が陶晴賢に勝利。 1556年 長良川の合戦 斎藤道三が息子に殺害される。 1556年 稲生の戦い (尾張国)が起こる。 1558年 石ヶ瀬川の合戦(尾張国)が起こる。 1558年 浮野の戦い(尾張国)が起こる。 1560年 長浜の戦い(ながはまのたたかい、土佐国) 1560年 桶狭間の戦い 織田信長が今川義元に勝利する。 信長の勢力に勢いが増していく。 1560年 野良田の戦い (近江国)が起こる。 1562年 教興寺の戦い (河内国)が起こる。 1562年 第二次月山富田城の戦い (出雲国)が起こる。 1563年 湯所口の戦い (因幡国)が起こる。 1563年 三河・一向一揆が起こる。 翌年には徳川家康がこれを無事に平定する。 1564年 第二次国府台の戦い(下総国)が起こる。 1566年 滝山城の戦い(摂津国)が起こる。 1567年 長島一向一揆 (伊勢国)が起こる。 1567年 東大寺大仏殿の戦い (大和国)が起こる。 1567年 稲葉山城の合戦 織田信長が美濃の斎藤竜興に勝利。 斎藤氏は滅亡する。 1568年 信貴山城の戦い (大和国)が起こる。 1568年 観音寺城の戦い (近江国)が起こる。 1569年 多々良浜の戦い(筑前国)が起こる。 1570年 姉川の戦い 織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍の戦い。 織田・徳川連合軍が勝利。 1570年 今山の戦い(肥前国)が起こる。 1570年 布部山の戦い(出雲国)が起こる。 1570年 石山合戦(摂津国)が起こる。 1570年 金ヶ崎の戦い (越前国)が起こる。 1570年 野田城・福島城の戦い (摂津国)が起こる。 1571年 白井河原の戦い (摂津国)が起こる。 1571年 伊勢長島一向一揆 織田信長、一揆衆に敗れる。 1572年 三方ヶ原の戦い 徳川家康が武田信玄に戦いを挑むも惨敗。 1572年 岩村城の戦い(美濃国)が起こる。 1572年 二俣城の戦い (遠江国)が起こる。 1572年 木崎原の戦い (日向国)が起こる。 1573年 野田城の戦い(三河国)が起こる。 1573年 槇島城の戦い (山城国)が起こる。 1573年 一乗谷城の戦い (越前国)が起こる。 1573年 若江城の戦い(河内国)が起こる。 1574年 越前一向一揆 (越前国)が起こる。 1574年 第一次高天神城の戦い (遠江国)が起こる。 1575年 長篠の合戦 織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼が戦う。 1575年 四万十川の戦い (土佐国)が起こる。 1575年 第一次黒井城の戦い (丹波国)が起こる。 1576年 七尾城の戦い(能登国)が起こる。 1576年 第一次木津川口の戦い (摂津国)が起こる。 1577年 手取川の戦い(加賀国)が起こる。 1578年 第二次木津川口の戦い (摂津国)が起こる。 1578年 三木城の合戦にて羽柴秀吉が播磨の別所長治を滅ぼす。 1578年 耳川の合戦 九州地方では島津貴久が大友宗麟に勝利。 1578年 御館の乱 (越後国)が起こる。 1578年 月岡野の戦い(越中国)が起こる。 1579年 第二次黒井城の戦い (丹波国)が起こる。 1579年 八木城の戦い(丹波国)が起こる。 1580年 花熊城の戦い(摂津国)が起こる。 1580年 長和田・長瀬川の戦い(伯耆国)が起こる。 1581年 第二次高天神城の戦い (遠江国)が起こる。 1581年 鳥取城の戦い 羽柴秀吉が鳥取城を兵糧攻めする。 着々と中国地方を攻略し、毛利氏を追い詰めていく。 1582年 高遠城の合戦 織田信忠 信忠の嫡男 が仁科盛信 武田勝頼の弟 の高遠城を攻め、勝利する。 1582年 天目山の合戦 織田軍と武田勝頼が戦い、織田軍が勝利。 武田勝頼は自害。 1582年 天正伊賀の乱 織田信長と伊賀の侍達の戦。 1582年 本能寺の変 織田信長が家臣の明智光秀に謀反を起こされ自害する。 1582年 備中高松城の戦い 豊臣秀吉が高松城を水攻めにて攻略。 1582年 秀吉は毛利氏と和睦して明智光秀の討伐へ向かう。 中国大返し 1582年 山崎の戦い 羽柴秀吉と明智光秀の戦。 1583年 賤ヶ岳の戦い 織田信長の後継をめぐって羽柴秀吉と柴田勝家が戦う。 1584年 小牧長久手の戦い 羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍の戦い。 1584年 沖田綴の合戦 九州地方では島津義久が竜造寺隆信と戦い勝利。 1585年 四国征伐 秀吉が四国の覇者、長宗我部元親を降伏させる。 1585年 人取橋の戦い 伊達政宗、反伊達政宗連合軍 蘆名氏・佐竹氏・畠山氏他 に勝利する。 1587年 九州征伐 秀吉が九州の覇者、島津義久を降伏させる。 1589年 摺上原の合戦 伊達政宗、蘆名義広に勝利する。 これにて政宗は奥州の半分を支配下に置き、奥州の覇者となる。 1590年 小田原攻め 最後まで秀吉に対抗し続ける北条氏を大軍を率いて攻める。 北条氏は滅亡。 1590年 大崎・葛西一揆 秀吉の奥州仕置きに不満を持つ者たちが一揆を起こす。 1592年 文禄の役 日ノ本を統一した秀吉は海外へと目を向け、朝鮮へ出兵する。 1597年 慶長の役 再び豊臣秀吉は朝鮮に兵を送る。 1598年 豊臣秀吉、死去。 1600年 関ヶ原の戦い 東口・徳川家康、西軍・石田三成に分かれ、全国の大名達を巻き込んだ大戦。 徳川家康率いる東軍が勝利し、石田三成は処刑される。 実質、徳川家康の天下となる。 豊臣家の立場が段々と弱まっていく。 1603年 徳川家康、征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開く。 名実ともに天下人となった。 1614年 大坂冬の陣 徳川家康が豊臣家を潰しにかかる。 徳川軍が大阪城を攻めるが、この戦は和平を結び終結する。 1615年 大坂夏の陣 大阪の二度目の戦では徳川家康の完全なる勝利。 秀頼と淀殿は自害、豊臣家は滅亡した。 これ以降、徳川幕府によって約300年平和な時代が続いていきました。 調べればもっとたくさん出てきそうですね。 戦国時代は約140年続いたと言われていますが、やはり数多くの合戦が行われていました。 皆さまも興味があったら、合戦の詳細について調べてみたら面白いかもしれませんよ!

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武将列伝番外編組列伝・小豆坂の七本槍

小豆 坂 の 戦い

小豆坂学区の歴史 かつて小豆坂小学区は、溜め池が点在する丘陵地で、戦国時代には尾張の織田と駿河の今川が二度にわたり激戦を繰り広げたり、三河一向一揆では、創業期の家康軍と一揆軍の戦いの場ともなった「小豆坂の古戦場」としてその名を歴史に留めています。 小豆坂古戦場碑 小豆坂古戦場 徳川家康登場以前の西三河の地は、東の今川、西の織田両氏にはさまれ、たびたび戦禍に見舞われるところとなりました。 三河を統一した松平清康(家康の祖父)は、天文4年(1535)、尾張守山で家臣に殺されました。 弱体化した松平氏に対して織田信秀(信長の父)は、安城を起点に矢作川東岸部への進出を図りました。 これを望まない今川義元は、天文11年(1542)軍勢数万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進め、出撃してきた織田勢4千とこの小豆坂で戦いました。 この時、織田方の7名が槍をふるって奮戦し、小豆坂の七本槍と呼れています。 彼らが槍を立てて休息した松が槍立松だと伝えられています。 これ以降、今川氏との関係をさらに深くした松平広忠(家康の父)に対して、天文17年(1548)、織田信秀は岡崎攻撃の準備を整え、一方、今川義元は広忠救護のため軍勢を送り、両軍は再び小豆坂で合戦におよびました。 この戦いは松平家臣酒井正親らの活躍により今川松平連合軍優勢の内に展開しました。 桶狭間の戦い以降、独立を果たした徳川家康の最初の難関は一向一揆との戦いでした。 永禄7年(1564)、土呂・針崎の一揆勢と家康が小豆坂・馬頭原で衝突し、家康側の勝利により一揆は終息を早めることになりました。 このようにして小豆坂は、数々の合戦の場として、槍立松、血洗池(ちあらいいけ)、馬洗池など多くの伝承を残しています。

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