フィギュアスケート世界選手権女子で銅メダルの宮原知子(19)=関大=は25日、エキシビション前に取材に応じた。 来季は3回転半ジャンプ(トリプルアクセル)の習得を目指していく考えを明かした。 「オフの間に時間がある時に試す程度だったけど、もう少し数を増やしていきたい。 幅広くチャレンジしていきたい」。 拠点の関大リンクには、フリーでトリプルアクセルを2本跳ぶ紀平梨花(15)がいる。 「梨花ちゃんは回転のピッチが速くて、軸がいいので気持ちのいいジャンプ。 無駄な力を入れずに跳んでいるので負担も少ない。 参考になる」。 後輩から学んでいく。 26日に20歳の誕生日を迎えるが「20歳になる実感はまったくない」。 宇野昌磨、友野一希らからケーキを贈られて喜んでいた。 引用元:.
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宮原知子の兄弟は何人?妹は由紀子(ゆきこ)でフィギュア選手? 宮原知子選手の兄弟は妹さんが一人いて、お名前は由紀子(ゆきこ)さんです。 妹さんは、以前はフィギュアスケートをやっていましたが、今は体操をやっています。 現在、京都市立京都御池中学校の1年生です。 妹・ゆきこさんはすごく明るい性格で、 宮原知子選手と比較するとギャップを感じてしまう程の性格だそうです。 どのような理由で体操に転向したのかは不明でしたが、 どこか由紀子さんの中でスケートと体操に共通するものがあったのかもしれません。 綺麗に見せることや、身体の柔軟性を必要することは素人目からも感じる所なので、 妹さんの体操界での活躍を注目していきたいところです。 宮原知子選手のご両親はどんな人なのでしょうか? やはり実家はお金持ちなのでしょうか? 宮原知子の父親の仕事は?実家はお金持ち? 宮原知子選手のお父さんは医者をされています。 お父さんのお名前は「亮(りょう)」さん。 京都市立病院の呼吸器外科の部長をされていて、京都大学を卒業されています。 また 宮原亮さんは、京都医学部付属病院呼吸器外科の講師も務めている程のすごい方です。 実家がお金持ちということは言うまでも無いと思います。 大学に入るまでにエピソードがあり、学生時代は勉強家というよりもむしろ体育会系という方でした。 進学先の大学も体育会系の大学を考えていたようなのですが、 高校3年生の時に「医学部を目指す!」と急に奮起され、1年間で必死に勉強されて京都大学の医学部に進学されました。 宮原知子選手がこれだけ優秀な成績を収められているのは、 お父さんの結果を出すために必死に努力するところや元々の運動神経の良さというところをしっかりと受け継がれて今日があるのだなということがすごく実感できます。 宮原知子選手のお母さんはどんな人なのでしょうか? 宮原知子の母親の仕事は?どんな人? 宮原知子選手のお母さんも医者をされています。 お名前は「裕子(やすこ)」さんで、 お父さんと同じ京都市立病院で血液内科の副部長をされています。 学生時代は弓道部で活動をしていました。 宮原裕子さんは医師であり、母でもある中で次のようにおっしゃっていました。 「患者さんが一番。 でも娘のやりたいことは全力で応援する。 指導医としても後輩医師にも恥ずかしくない背中を見せたい」 としっかり芯が強い発言をされています。 宮原知子選手も日本を代表して世界と戦っていますから、強いメンタルを必要とします。 しっかりと自分を持ったメンタルの強い選手になったのはお母さん譲りなのでしょうね。 宮原知子さんは、祖父母もすごい方なんです! 宮原知子選手の祖父母の職業は?お金持ち? 宮原知子さんの祖父は、製薬会社で薬品の分析をする職業に就かれていました。 祖母は主婦業に勤められていたようです。 息子さん(宮原知子選手のお父さん)が医師をされている程なので裕福な家庭だったと思われます。 しかし祖父は4年前95歳で他界されました。 京都の山科で生活をされており、宮原知子選手のご両親ともに医師であるため多忙な生活をされていた関係で、 祖母の淳子さんが宮原知子選手の母代わりになっていました。 おばあさんは、毎日、宮原知子選手をスケートリンクまで送っていたそうです。 京都に唯一あった醍醐スケート場まで送っていましたが、 そこが閉鎖されてしまい、その後は大阪、奈良までと宮原知子選手を祖母が電車で送っていました。 宮原知子選手が学校から帰ってくる頃にお弁当を作っておいて、 15時くらいに出発し祖母が帰宅するのは21時頃だったそうです。 祖母は送るだけで、宮原知子選手の練習が終わるころには ご両親は仕事が終わっているのでその後はご両親が車で迎えに行くという生活を毎日のようにされていました。 随分と祖母も多忙な生活を送られており、宮原知子選手を陰で支えていたお一人の方です。 宮原知子さんがスケートを始めたきっかけは何だったのでしょうか? 宮原知子がスケートを始めたきっかけは? 宮原知子選手がスケートを始めたきっかけは、 アメリカのヒューストンで見かけたスケートリンクで始めたのがきっかけでした。 医師であったご両親が仕事の関係でアメリカのヒューストンで生活をするようになり、 たまたま行ったショッピングモールにスケートリンクが設置されており「やってみる?」と聞かれ「やる」と即答して始めることになりました。 そこからかなりスケートにはまり、教室にも通うようになりました。 当時宮原知子選手は4歳。 しかし言葉の壁もあったことからなかなか周りの人たちと馴染むことが出来ず、 2ヶ月でやめてしまうということもありました。 それをつなぎ留めたのが祖父の明さんでした。 当時、日本で活躍していた浅田真央選手が小学校6年生でトリプルアクセルを成功させたことが話題となり、 それを見た祖父が 「なんで辞めさせたのだ、もしかしたら知子も浅田選手のようになっていたのかもしれないのだぞ」 とご両親を電話で怒ったそうです。 その後は母の裕子さんが19時に仕事から帰宅したのちに、 毎日22時まで営業しているスケートリンクまで通わせていたそうです。 その後、宮原知子選手が小学校3年生の時に帰国し、 帰国後は京都に唯一あった醍醐スケート場に通っていました。 そこで濱田美栄コーチとの出会うことになります。 濱田美栄コーチとの出会いは、宮原知子選手がスケートシューズの靴紐を結ぼうとしていたところに「結びましょうか?」と濱田コーチから声をかけてくれたことでした。 それから現在まで濱田見栄コーチに指導を受けるようになり、現在の活躍に至っています。 宮原知子選手は、羽生結弦選手とハグしていたという噂があるのですが、どういうことなのでしょうか? 宮原知子と羽生結弦がハグしていたのはいつ?片思いって本当? 宮原知子選手と羽生結弦選手がハグをしていたのは、2015年の国別対抗戦でのことでした。 出典:Twitter 宮原知子さんの片想いかどうかの核心的な情報はありませんでしたが、 ハグ以外の写真の姿を見ると羽生結弦選手のことをお兄さん的な存在で慕っているように見えます。 羽生結弦選手も宮原知子選手を「さっとん」と呼んでいます。 日本でハグとなると少し抵抗のある行為ですが、 宮原知子選手もアメリカに住んでいた時期もあるので、お互いを称えあったり、信頼しあったりという行動からきっとハグもされているのですね。 次は宮原知子選手の活動経歴についてです。 宮原知子の活動経歴 宮原知子選手の活動経歴は、ジュニア時代から素晴らしいものでした。 全日本ジュニア選手権の2011年、2012年の2年連続優勝。 2012年度のアジアントロフィー(ジュニア)で優勝、ジャパングランプリアメリカ大会でも優勝とシニアを迎える前から立派な成績を収めていました。 また、 2011年度の全日本ジュニア選手権での成績は、浅田真央さんがジュニア時代に出していた記録を塗り替えて2位と大差をつけて優勝。 翌年の大会の成績は自己記録を更新する形で2連勝を収めていました。 シニアに入ってからは全日本選手権を2014~2017年度までの4連覇を達成しており、 2016年の四大大陸選手権も優勝、2018年の平昌オリンピックでは個人戦4位、団体戦5位と数々の輝かしい成績を収めています。 2017年1月に左股関節の疲労骨折が発覚。 リハビリを行っている最中にも体調不良や右股関節の不調、左股関節の再発などで調整がうまくいかず、 ジャンプの練習を再開出来たのは10カ月経ってからという窮地に追い込まれるという時期もありました。 しかしこの窮地にもしっかりと打ち勝ち平昌オリンピックでの活躍がありました。 気持ちが強い努力家の選手です。 過去にスケートをされていましたが、現在は体操をされている中学1年生です。 ご両親ともに医者をされていて多忙な生活を送っているため宮原知子選手をサポートするために祖母が母代わりになっていました。 羽生結弦選手とのハグは2015年の国別対抗戦での出来事で、ハグの真相としてはお互いのことを信頼しているという証から見えるものでした。 今話題の女子フィギュアなので宮原知子選手の今後の活躍に期待したいと思います。
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その2文字に込めた知られざる想いと、スケート人生で初めて下した決断に迫った。 宮原は、歯がゆい日々を過ごした。 4年連続の出場となった昨シーズンの「グランプリファイナル」では、ジャンプにミスが目立ち、まさかの最下位。 5連覇を狙った「全日本選手権」では3位、「世界選手権」でも6位と、不本意な結果となった。 「メンタル面が一番足りないかな、と思っています。 気持ちの面で苦しんだというか、『どうしよう』と思ったシーズンでした」(宮原) 思うようにいかなかった原因は、「精神面」にあったという。 長年、指導する濱田美栄(みえ)コーチも宮原の異変に気付き、「自信がなくなってきたように思います」と振り返る。 それから15年近く、苦楽を共にし、実の親子のように過ごして来た。 だが、二人三脚で歩んできたその道のりは、常に濱田コーチが導いていた。 そこで、次の2022年北京オリンピックへ向けて新たなスタートとなった昨シーズン。 濱田コーチは試合に帯同しても敢えて宮原と距離を置き、以前なら言葉をかけた場面でも自ら考え、答えを見つけてもらいたいと願った。 「いつまでも私が出会った7歳のままで止まっていてはいけないと思って、少し知子に任せようと思う気持ちはあったんですね」(濱田) しかし、「自分ひとりだと『やっぱり無理かな…』とか、不安に勝てなかった」と、宮原は調子や精神面を自らコントロールできず、不安を抱えたまま試合に臨むことになっていたのだ。 「昨シーズンの1年間で、やはり気持ちの面で自分がまだまだ先生に頼っているなというのを感じたので、とにかく自律するということで」(宮原) 宮原が言う「自律」とは、他者の制限や支えから離れ、独り立ちする「自立」ではなく、自らの考えの元、物事を決め、行動に移すという「自律」だ。 そこでこの夏、彼女はスケート人生で初めての決断を下した。 新たなシーズンに向けた練習のため、宮原が訪れたのはアルプス山脈の麓にある、スイスの小さな町。 外国人選手たちに混ざり、練習する彼女の元を訪れると、新たなジャンプの習得に汗を流し、リンクの外でもバレエレッスンやアスレチックを使ったトレーニングに励むなど、充実した時間を過ごしていた。 「この夏はひとりで、海外で練習するというのを決めました。 ずっと海外というのは初めてです」(宮原) 2か月もの間、海外でたったひとり、アパートを借りながら生活。 私生活から練習まで、すべて自分で考え、実行に移してきた。 練習で、外国人コーチから指導を受ける際には、言われるまま動くのではなく、自らで取捨選択をした上で、吸収しようとしていた。 さらに今シーズン、これまでなら濱田コーチが決めていたプログラムを、曲選びから自分で行い、演技の構成やジャンプの入り方まで考えていた。 総合2位で、シリーズ通算10個目となるメダルを獲得した。 総合得点では15歳のアンナ・シェルバコワ(ロシア)に競り負けたものの、表現力などを示す演技構成点はショート・フリーともにトップの得点をたたき出し、日本女子最多の5年連続ファイナル進出へ好スタートを切った。 次なる戦いは、第5戦の「ロシア大会」。 宮原は「自分の足りない部分を見つめ直しながら、でも自分のいいところは忘れずに、いい仕上がりになるように頑張ります」と意気込む。
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