忠道 意味。 忠次

【感想・要約】散るぞ悲しき|硫黄島の戦い総指揮官・栗林忠道中将|Roopinfole

忠道 意味

洋画「硫黄島からの手紙」の元となった本です。 硫黄島守備隊の司令官として赴任した栗林中将の半年あまりの間の家族への手紙が収録されています。 手紙ということで、故意に行間を広くとっているのでしょう、短時間で読み終えることができる字数です。 ですが自分の運命を知るが故に残された家族にはできる限り安全に健康にそして長生きして欲しいという、当時としては口外できないような愛情ある言葉が素直に手紙という形で家族に伝えられています。 従って手紙には他言無用という添え書きが記されます そして時折家族から栗林さんあてに届く手紙にも精一杯の心遣いが感じられます。 この本を読んだ後もう一度映画を見ると、劇中で朗読される手紙の意味がよく解り 例えば「たこちゃん」の意味とか 切なくなります。 家族への手紙では心配をかけまいとして常に被害は軽微と伝えています。 が、実際はもちろんそうではありません。 アメリカ軍の攻撃の激烈さは「十七歳の硫黄島」を読むと詳細に分かります。 そちらもお薦めです。 硫黄島より家族に送られた栗林中将の手紙全41通を収録。 家族思いの栗林がよく表れている。 妻に対しては優しい夫として、 長男に対しては厳しい父として、 長女に対しては厳しくも優しい父として、 次女に対しては優しい父として、 と云う具合で、誰に宛てた手紙であるかによって手紙の調子が明白に違っているところが興味深い。 極限状態に置かれた誠実な軍人にして夫であり父親である人物が、その最期に面して如何なる手紙を家族に宛てて送ったのかの一例の、生の記録である。 手紙の中で栗林は東京に住む家族に対して、東京が激しい空襲を受けるのも時間の問題だから、早く田舎へ疎開した方がよいと何度も勧める。 例えば次の様に。 「東京が現在のここ同様に空襲される事になる事は必然だから、東京も今はもう最前線の直ぐ後方と云う訳ですからほんとにあぶないものです。 都民にはまだ之れだけの理解がついていないから余計厄介です」(47-48頁) しかし、家族は何度忠告されても、ぐずぐずして一向に重い腰を上げようとしない。 それが興味深かった。 この事は、某国による日本侵略の兆候があちらこちらに見られる現状でありながら、無事を決め込んでいる現日本政府、並びに、現日本政府を支持している日本国民の悠長ぶりに、重なって見える。 栗林の家族は幸い戦火を逃れたが、現日本国はさてどうなるだろうか。 また、栗林は家族に宛てて次の様な言葉も書き送っている。 (妻宛て)「余り取越苦労して心配するのも健康上よくないから、運を天に委せて元気に朗かに暮して下さい」(44頁) (長男宛て)「併し人間として智徳を研く事は何より大切であるから、戦争中だろうが何だろうが己の学業をいい加減にする事はよくない事だ。 毎日の勤労作業で勉強する気にもなれまいとは思うが、そこをよく考え一心不乱に実力を養い志業を全うしなくてはならぬ」(85頁) 栗林のこの様な言葉が妙に心に響いてくる近頃である。

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戦争映画の意味

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naganoblog. html 今回は、『料理の鉄人』でも 勝利した日本料理界の重鎮にして 「四季の彩 旅篭」館主の 太田忠道(おおた・ただみち)さんを クローズアップしたいと思います。 ユネスコの無形文化遺産にも なった和食は、今や世界に 羽ばたく日本文化。 太田忠道さんは、その和食を 世界レベルで広め、次世代に 継承するべく奮闘する料理人です。 また、宿泊施設 「四季の彩 旅篭(はたご)」 館主として、最高の料理を最高の おもてなしで提供する人でもあります。 日本文化をしょって立つ、 その活動ぶりを見てみたいと 思います。 スポンサードリンク 目次• プロフィール 太田忠道さんは、1945年生まれ。 集団就職で東京に出るはずが、 途中の大阪で板長の兄を訪ね、 そこで出されたまかない料理の おいしさに感激。 なんと上京をやめてその店に 修行に入ったそうです。 1968年には出身地の兵庫県に 戻り、23歳の若さで 有馬グランドホテルの副料理長を 務めます。 さらに、1981年には有馬グランド ホテルで総料理長に就任します。 2002年に有馬グランドホテルを 退職後は、有馬温泉街に料理旅館 「四季の彩 旅篭」を立ち上げて独立。 2004年には黄綬褒章受章。 2012年には瑞宝単光章受章など、 公式に認められた功績も数多く、 現在に至ります。 『料理の鉄人』で勝利 1995年には、『料理の鉄人』に出演。 フレンチの鉄人・坂井宏行を タコ料理対決で破っています。 当人はフレンチとの異色対決でしたが、 その後「太田軍団」を立ち上げて、 弟子をあまた引き連れて再登場。 弟子を何人も「刺客」として 送り込んで、三代目和の鉄人・ 森本正治と再三戦いました。 1998年には、「百万一心味 天地の会 ひゃくまんいっしんみ・ あまつちのかい)」を結成。 のぼりまで立てて大人数で出演。 神田川軍団に続く和の強敵として 番組を盛り上げました。 まあ、実際のところは弟子を 修行させる目的だったのでしょう けど、NY帰りの三代目・ 和の鉄人に対抗して、純和風の お手本のような料理を繰り出し、 和食の伝統文化をおおいにPR したのが印象的でした。 rakuten. html 前菜12坊 2002年に独立、自らが館主となって 立ち上げた 「四季の彩 旅篭」は、 宿泊施設を備えたダイニングで、 温泉とともにゆったりとくつろいで、 料理を楽しめる、いわば和の おもてなしを空間丸ごとで デザインしたところです。 有馬温泉は古くからの伝統的な 場所柄、どうしても高級路線の 店が多いですが、その中にあっては 良心的な価格帯となっているようです。 夕食は 大田忠道監修 『特別美容会席』。 美は食にありという感じで期待が 高まります。 砂糖の代わりに綿菓子を乗せて雲海に 見立てた豪華でユニークな メインディッシュです。 rakuten. html 前菜12坊として、小さな前菜が 12種類もあるのも、いかにも 和食らしい「おいしいものを ちょっとずつ」の精神ですね。 こちらのコースではお土産として 太田忠道さん特製の 胡麻ドレッシングが もらえるそうです。 お土産付というのも、いかにも 和のおもてなしで嬉しいです。 加えて、ネットの口コミを見たところ、 特に 小さいお子さん連れの人の 評価がとても高いのが印象に 残りました。 乳幼児連れでフランス料理はちょっと 無理ですが、「四季の彩 旅篭」では 子どもにも配慮してもらえて、 ご両親も豪華な食事を楽しめると いいますから、なかなかない穴場だ と思います。 リフレッシュしたいお母さんにも ぜひお薦めしたいですね。 なんとお風呂も畳敷きといいますから、 ハイハイする子どもでも安心できる と思います。 rakuten. html スポンサードリンク 『百万一心味 天地の会』結成 太田忠道さんは自らの店だけ でなく、若い職人の指導や、 和食の技術の承継にも力を 注いでいます。 『料理の鉄人』の出演時に結成された、 「百万一心味 天地の会」は、 自らの弟子をはじめ、日本中の 料理人の交流を目的として 作られた会で、 太田忠道さんが 会長を務めています。 全国700人以上の会員を抱え、 ふだんはなかなかない、 料理人の横のつながりを作って、 勉強会や情報交換の場と しているそうです。 太田忠道さんが名付けた 「百万一心味」には、多くの人が 力を合わせ、交流することで、 より良い味を出すことができる、 お客を喜ばせることができる、 という意味だそうです。 スポンサードリンク 日本料理界への貢献 和食の料理界は、以前は厳しい 徒弟制度のもと、閉鎖的なもので あったと言います。 しかし、 太田忠道さんは、 若い後継者のために自らの 持つ技術を積極的に発信しています。 和食に関する専門書を多数出版。 専門知識をオープンに伝えています。 また、料理に限らず、おもてなしの 技をまとめた本も出版されています。 料理に満足してもらうための おもてなし全般が紹介されています。 そして、動画で解説するDVDも発表。 より分かりやすいテキストとして 世に出すことで、和食文化を 次世代につなげています。 『プロのための和食調理の包丁技術』 2枚セット販売価格12,000円 申し込みサイトは 熱意は、国内にとどまらず、 世界へと積極的に進出されています。 海外で日本食を広めるための 出張講習会を多く手掛けており、 世界中に和食の味と技を伝えています。 2018年には、農林水産省によって 「日本食普及の親善大使」を任命され、 現地の職人に和食の技術や魅力を アピールする活動にも注力しています。 スポンサードリンク まとめ 『料理の鉄人』では、 和食の太田軍団として 鉄人に次々と刺客を送りこみ、 戦いを繰り広げる、悪役っぽい ポジションに立っていた 太田忠道さんですが、実際には 弟子たちに経験を積ませるために 継続的に出演するための演出 だったようです。 その中から実際に「天地の会」と いうグループが生まれ、和食の 世界に連帯や技術の継承などの 貢献をしていたのですから、 まさに和食会の重鎮という 言葉がふさわしいでしょう。 ユネスコの登録を受けて、 世界中に「和食レストラン」が できていますが、中身を見ると、 日本人の目にはびっくりする ような店がまだまだ多いようです。 そういうところへ本物の和食を 伝えることが、今の日本人には 必要であり、 太田忠道さんは その道を積極的に奔走している のです。 こういう方がいることが 和食界の財産だと思いました。 以上、和の料理人にして、 「四季の彩 旅篭」館主の 太田忠道さんの紹介でした。 ではでは~ 日本料理の達人・神田川俊郎さんの 記事はこちら。

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栗林忠道

忠道 意味

もくじ• 硫黄島の戦いについて この記事を読んでいる方は知ってると思いますが、念のため概要をWikipediaから抜粋します。 硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 — 1945年3月26日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において、日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。 硫黄島はアメリカによる日本本土空爆の拠点に最も適した地だったため、日本側はなんとしてもこの島を死守しなければ、というところだった。 1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。 上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする大日本帝国陸軍はバンザイ突撃を禁じ、激しい抵抗を経て、アメリカ軍は同島をほぼ制圧、3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。 しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林忠道大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。 一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。 大東亜戦争(太平洋戦争)後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、また、硫黄島上陸後わずか3日間にて対ドイツ戦(西部戦線)における「史上最大の上陸作戦」ことノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)における戦死傷者数を上回るなど、フィリピンの戦い 1944-1945年 や沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地の一つとして知られる。 引用:「硫黄島の戦い」ウィキペディア 長いので要約すると、• 日本の硫黄島にアメリカ軍が攻めてくる• 硫黄島は日本本土爆撃の拠点となるため、死守せねばならない• アメリカ軍は航空支援と戦艦からの砲撃支援が豊富だが、日本軍は孤立無援• そもそも国力(軍事力)に差がありすぎる• ゆえに日本軍に勝ち目なし という 絶望的な戦いです。 兵力・資力ともに圧倒的不利だった日本軍の陣営は、当初「 わずか3日で陥落する」と言われていましたが、結果としてなんと 36日間敢闘し続けました。 その要因として挙げられるのが、硫黄島総指揮官・栗林忠道中将の存在です。 栗林忠道中将ってどんな人? 出典: 1944年(昭和19年)5月27日、小笠原方面の防衛担当であり父島要塞守備隊を基幹とする第109師団長となり、6月8日、硫黄島に着任。 同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる。 兵団司令部を設備の整った従来の父島から、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に移し、同島守備の指揮をとる。 敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。 水際陣地構築および同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍の強硬な反対を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機の空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。 その一方で隷下将兵に対しては陣地撤退・万歳突撃・自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた。 引用:「栗林忠道」ウィキペディア 敢闘の誓 【敢闘の誓】とは、栗林中将が硫黄島で掲げたスローガンです。 散るぞ悲しきには、以下のように紹介されています。 一 我等は全力を振って守り抜かん。 二 我等は爆薬を抱いて敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん。 三 我等は挺身敵中に斬込み敵を皆殺しせん。 四 我等は一発必中の射撃に依って敵を撃ち仆さん。 五 我等は敵十人を倒さざれば死すとも死せず。 六 我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん。 烈々たる言葉が並ぶこの6項目は、栗林が作成し全軍に配布した「敢闘の誓」である。 戦いにのぞむ心得を述べた、いわばスローガンといえる。 (中略) 米軍の上陸までの8ヶ月間、兵士たちが繰り返し読み、心に刻んだ文章。 その中で栗林は、爆弾を抱いて戦車にぶつかれと言い、敵陣に斬込んで皆殺しにせよと言い、射撃の腕を磨いて敵を打ち倒せと言い、10人殺さなければ死んではならぬと言っている。 そして、たとえ味方が全滅しても一人で戦い抜けと言っているのである。 (中略) 彼が作ったスローガンは、現代の私たちからはあまりにも凄絶なものに映る。 しかしここには、栗林がみずからの役割をどうとらえ、どんな戦いをしようとしていたのかが如実にあらわれている。 彼は、硫黄島が、勇敢に戦って潔く散るなどという贅沢の許されない戦場だということを肝に銘じていた。 「敢闘の誓」を一読してまずわかるのは、「勝つ」ことを目的としていないことである。 なるべく長い間「敗けない」こと。 そのために、全員が自分の生命を、最後の一滴まで使い切ること。 それが硫黄島の戦いのすべてだった。 引用:「散るぞ悲しき」78,79ページ 冷静に現実を直視する目を持っていた栗林中将は、そもそもこの太平洋戦争自体、日本にまったく勝ち目がないことを悟っていました。 そのため、栗林中将は「勝つこと」ではなく「敗けない」ことを目的とし、できる限り長く戦い、そして米軍になるべく多くの被害を出すよう作戦を立てました。 【硫黄島の星条旗】の著者、ジェイムズ・ブラッドリーは「栗林が米国内の世論の動向まで考慮して作戦計画を練った」という持論を展開しました。 「アメリカ人は何よりも人的な被害を重く見る。 だから、死傷者の数が多ければ、たとえ戦況が有利でも、その作戦は失敗ではないかという世論がわきあがる。 アメリカで暮らし、その国民性についてよく知っていた栗林は、そこまで計算して敵の死傷者をじわじわ増やしていく戦い方を選んだ。 アメリカの世論が、日本との戦争を早く終わらせようという方向に向こうことを期待したのだろう」 引用:「散るぞ悲しき」87,89ページ あくまでジェイムズ・ブラッドリーの持論ですが、誰よりも先見の明があった栗林中将なら大いに考えそうなことです。 水際作戦の廃止 栗林中将が行なった大きな決断のひとつに「 水際作戦の廃止」があります。 1日でも長く島を維持するために栗林が立案した作戦の内容は、以下の2点に集約される。 一 水際の作戦を捨て、主陣地を海岸から離れた後方に下げること。 二 その陣地を地下に作り、全将兵を地下に潜って戦わせたこと。 しかしこれは、日本軍の伝統的な作戦を否定するものだった。 そのため、実行には断固たる決意と実行力を必要とした。 これは帝国陸軍70年の、まさに伝統的戦法だった。 船艇に乗って近づいてきた敵は、水上から陸上へと移る地点において、一時的に攻撃力が弱まる。 このチャンスを狙って集中的に攻撃するのが水際作戦である。 (中略) しかしこの水際作戦は、タラワ、マキン、そしてサイパンといった太平洋の島嶼作戦においてはことごとく失敗していた。 なぜなら高いレベルの航空戦力を有する米軍は、上陸前に徹底的な爆撃を行い、陣地を破壊してしまうのである。 水際の陣地は遮蔽物がないため、発見されやすいという欠点があった。 もう一つ、米軍は上陸作戦じゅう、艦砲射撃や空爆によって徹底的な支援を行う。 そのため、米軍の総体的な攻撃力は、水際においてもそれほど弱まることはない。 これに対し、硫黄島の日本軍は、海と空からの支援をほとんど期待できなかった。 (中略) このことを見抜き、ごく早い時期に水際作戦を捨て去る決断をしたのが栗林だった。 水際の陣地に人員と資材を注ぎ込み、武器も集中させたとすれば、そこで敵に甚大な被害を与えられなかった場合、日本軍はすぐに総崩れになってしまう。 しかし水際で華々しく戦い、負けてそれで終わりというわけには絶対にいかない。 自分たちの任務は、この島に米軍を1日でも長く引き留め、最大の損害を与えることなのだから。 そう考えた栗林は、軍の上陸をいったん許し、地下に作った陣地にモグラのように潜んで徹底抗戦に持ち込むことを決めたのである。 引用:「散るぞ悲しき」91,92,93ページ この水際作戦廃止は海軍に激しく反対されましたが(当時、陸軍と海軍は不和でした)、栗林中将の決意は固く揺るぎませんでした。 しかし結局、一部譲歩という形で水際のトーチカ(小規模な防御陣地)構築を呑むことになってしまいます。 のちの玉砕直前、栗林中将は大本営に宛てた電報の中でこのこと(水際のトーチカに戦力を割いたこと)を悔やんでいます。 (上略) 栗林は、大本営の方針に対する批判を行っているのだ。 批判の要点はいくつかあるが、まず一つ目は、後退配備での出血持久という方針に徹底せず、水際陣地にも未練を残したことに対してである。 1944(昭和19)年8月の段階で、大本営は後退配備に方針転換した。 しかしそれは、後方の主陣地に100パーセントの力を注げというのではなく、水際陣地も構築せよというものだった。 特に海軍側が、水際陣地を作ることに頑強にこだわった。 サイパンの戦訓から、敵を水際で撃滅することは無理だとわかっていながら、軍中央部は大胆な方針転換ができなかった。 水際陣地にも未練を残したために、中途半端な防備態勢になってしまったのである。 このことを栗林は、「敵の絶対制海、制空権下に於ける上陸阻止は不可能なるを以って敵の上陸には深く介意せず専ら地上防御に重きを置き配備するを要す」「主陣地の拠点的施設は尚徹底的ならしむるを要す 其の然るを得ざりしは前項水際陣地に多大の資力、兵力、日子を徒費したるが為なり」とし、どっちつかずの方針のために肝心の主陣地が不徹底なものになったのは大きな反省点だとしている。 引用:「散るぞ悲しき」243,244ページ 栗林中将による戦訓電報 栗林は、移り変わる戦闘の状況を戦訓電報で克明に報告している。 硫黄島の後、米軍は台湾や沖縄に上陸してくると予想されていた。 その際の防備に少しでも役立つようにと、正確な数字の把握、敵の戦術・戦法の観察と分析につとめたのである。 当時の栗林の報告を、戦後に発表された米軍の資料と照らし合わせると、彼が正確に米軍の損害状況を把握していたことがわかる。 たとえば3月2日現在の米軍の損害を、栗林は死傷者約12000、戦車約200、航空機約60と推定しているが、これは実際の数字よりも1割程度多いだけである。 太平洋戦争全体を通して、日本軍の指揮官は、戦況を自分の都合の良いように解釈しがちだった。 それに対し、栗林はひたすら冷静に事実を見据えていたといえる。 引用:「散るぞ悲しき」242ページ ある電報では「 生地獄」と表現したほど過酷で壮絶だった硫黄島でも、冷静かつ正確に敵の損害状況を把握していました。 まとめ このあたりで区切らせてもらいますが、この他にも• 栗林中将が妻や子供に宛てた、数多くの手紙の内容• 作業中に巡回する上官がきても敬礼禁止(作業優先)• 一般兵と同じ食事を摂り、自分の身を以て栄養状態を管理• 合理主義で冷徹に見えるが人情に厚い人だった などなど、読めば読むほど「 この人、神?」と思えてくるエピソードが満載で、下手な自己啓発本を読むよりもよっぽど感銘を受けました。 「絶対に勝てない」「絶対に死ぬ(しかもむごい死に方で)」と分かってる戦いで、これだけ現実を見据えて合理的に動ける人が存在したことに驚きです。 一方で、人を人とも思わぬ大本営のやり方は酷いものです。 硫黄島は、軍中央部の度重なる戦略方針の変更に翻弄され、最終的に孤立無援の状態で敵を迎え撃たねばならなかった戦場である。 当初、大本営は硫黄島の価値を重視し、それゆえに2万の兵力を投入したはずだった。 それが、まさに米軍上陸近しという時期になって、一転「価値なし」と切り捨てられたのである。 その結果、硫黄島の日本軍は航空・海上戦力の支援をほとんど得られぬまま戦わざるをえなかった。 防衛庁防衛研修所戦史室による公刊戦史「大本営陸軍部10 昭和20年8月まで」は、硫黄島の陥落を大本営がどう受け止めたかについて、以下にように記述している。 「軍中央部は、硫黄島の喪失についてはある程度予期していたことでもあり、守備部隊の敢闘をたたえ栗林中将の統帥に感嘆するものの、格別の反応を示していない」 「喪失についてはある程度予期していた」から「格別の反応を示」さなかったという。 2万の生命を、戦争指導者たちは何と簡単に見限っていたことか。 引用:「散るぞ悲しき」272,273ページ ただただ酷すぎる。 続けてこう書かれてます。 実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰まってにっちもさっちもいかなくなったら「見込みなし」として放棄する大本営。 その結果、見捨てられた戦場では、効果が少ないと知りながらバンザイ突撃で兵士たちが死んでいく。 将軍は腹を切る。 アッツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。 その死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか。 だから、バンザイ突撃はさせないという方針を最後まで貫いたのであろう。 硫黄島という極限の戦場で栗林がとった行動、そして死に方の選択は、日本の軍部が標榜していた美学の空疎さを期せずしてあぶり出したといえる。 引用:「散るぞ悲しき」273,274ページ 「玉砕という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を『美学』で覆い隠す欺瞞」 以上、散るぞ悲しきから紹介させていただきました。 栗林忠道中将の勇敢さ、聡明さ、そして硫黄島の戦いの悲惨さは相当なものだったことが窺えます。 現代では考えられないような内容が書かれてますが、すべて実際にあったことです。 改めて現代の日本に生まれてきたこと、それ自体がどれだけ幸運なことなのかを教えてくれた一冊でした。

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