崖 の 上 の ポニョ 考察。 崖の上のポニョ・結末の意味は?最後のリサのセリフについて考察

死後の世界を描いた『崖の上のポニョ』にまつわる都市伝説考察

崖 の 上 の ポニョ 考察

昨日ポニョがテレビで放送されていたので、4年前の感想を再掲。 ポニョもそう。 あとラジオも好きでして。 そこで気付きます。 私はポニョが大好きだったのだと。 町山さんが引っかかった部分を中心に、宮崎駿が何故そんな引っ掛かりを作ったのかを想像してみます。 海は生命の源であり人間にタンパク源と経済の流通路と娯楽を提供していますが、生身の人間は10分も潜ったら窒息する死の世界でもあります。 暮らしを支えている死の世界。 このモチーフは『風の谷のナウシカ』でも腐海として語られています。 ここで少し『ナウシカ』や『もののけ』について振り返ってみましょう。 『もののけ姫』でのシシ神=ダイダラボッチも「命を与え、奪う」という二つの側面がある神です。 しかし、文明も自然も食うも食われるも同価値とする神は、日々を汲々と暮らす我々には脅威にもなりえます。 ですから、この原初の神を、国を生んだ神・人間を生んだ神・商業の神・縁結びの神というように社会を安全に運営するのに適した大きさにまで切り分けるのです。 こうして原始的な神は縮小され、エビス様や招き猫へと姿を変えていきました。 我々の思考回路も同様です。 しかし、強力なバリアに守られ荒ぶる度をチェックされ続ける人間社会は徐々に生きる意味を見失いはじめます。 命を大事にしすぎて、バリアに包みすぎて、命がなんなのか忘れそうになるのです。 その隙間にカルトやテロといった虚無的な勢力が蔓延りはじめます。 しかし安心?してください。 嵐に乗って少女がやってくるのです。 例えばフジモトがリサの家の結界に気付くシーン。 「本格的な結界が張ってある。 どこでこんなことを覚えたのか?」 初見時はポニョが張ったのかと思いましたが、そんな描写はありません。 そこで柵の持ち主であるリサが張ったんじゃないか?と想像してみました。 宗介が赤い服の女の子がポニョだと見破った瞬間、世界が輝きます。 これは『千と千尋の神隠し』のラストで豚の群れのなかに両親がいないと見破ったシーンにも似ています。 この輝く空を見てリサは「何か、ただならぬ状況が起こりはじめた」と瞬時に察知した表情をします。 そして目の前の小さな女の子は異界から宗介を奪いに来た客だと認識し、全力で対峙する覚悟をします。 「どんなに不思議で、うれしくて、驚いても、今は落ち着こう」 そのもてなしにはポニョの魔法の力を文明の力で押さえ込む技が駆使されます。 『魔女の宅急便』のウルスラや『ハウルの動く城』のソフィーのような潜在的な魔法使いのようにです。 そしてグランマンマーレの儀式によって、ポニョは完全に人間となり世界の綻びは完全に閉ざされます。 名前をつけてやる ポニョをもてなすさいに、リサの家のガス・水・電気が行政システムから独立できることが丁寧に語られます。 同時にモールスや電波で夫と交信するシーンも描かれています。 これは一体、何のための描写なのでしょうか? 伊集院光さんの深夜ラジオで「宗介が母親を名前で呼ぶのが気持ち悪い」と話していました。 私は「そんな家もあるかもな。 父親(リサにとっては夫)が不在なんだし」くらいにしか思いませんでしたが、そういえば『千と千尋の神隠し』でも「名前を奪って支配する・名前を思い出せば解放される」というモチーフがあました。 『風の谷のナウシカ(漫画版)』でも巨神兵に名前を付けた瞬間に知能が一気に進み神になるシーンがあります。 宮﨑駿さんは名前の魔力に関して思うところがありそうです。 ここは、すこし深読んでみましょう。 ポニョも父親を「フジモト!悪い魔法使い!」と呼びます。 もう名前ですらなく名字です。 (グランマンマーレは「お母さん!」。 これは名前というより名付けれないほど大きな存在という感じ。 漫画版ナウシカの巨神兵オーマも太母という意味らしいし。 )逆にフジモトは「ブリュンヒルデ」と呼んでいた娘を物語後半からはあっさり「ポニョ」と呼び、自分の支配が及ばなくなった存在だと認めています。 名前に関する最重要シーンは、やはり嵐に乗ってやって来た赤毛赤服の少女を宗介が「ポニョ?」と見抜くシーンでしょう。 この「見抜く力」は、母親を「リサ」と呼ぶ環境から身に付いたのかもしれません。 目の前の人間を所属や役割から判断するのではなく、そのまま、そのものを見る力。 またポニョが「宗ちゃんじゃないよ宗介だよ」のセリフにも私たちを貴方たちの都合でデフォルメしないで!という主張が読み取れます。 私も父母を名前で呼びません。 …が「それが異常だ」と思わない風土で育ちました。 両親にも名前があるのに、息子がその名で呼んだことがないというのも不思議と言えば不思議です。 リサの荒々しい運転・荒々しい愛情表現は、まるで大きくなったポニョのようです。 …ひょっとしたらリサも元人魚?! …ポニョの年のはなれた姉? そういえば、グランマンマーレ・リサ・ポニョには「波を読める。 機械を直せる、または機械の操縦に長ける。 愛した人が海の男。 」という共通点があります。 ヒレ船の船長。 小金井丸の船長。 ポンポン船の船長。 リサも元人魚であり、愛した康一に「リサ?」と名を呼ばれ人間になったのかもしれない!?そして、そのことが誰か(観客にも!)に知られたら泡になってしまう掟なのかも!? この空想のお陰で納得できた謎があります。 それは「異界から訪れたポニョと可愛い息子を二人きりにして、なぜリサはひまわり園に向かったのか?」という謎です。 最初は彼女の職業意識かと思ったのですが、 どうも不自然です。 あんなに大好きなはずの夫も息子もほったらかして、暗闇に動く光を見てひまわり園に向かい、そこでグランマンマーレと長いおしゃべりをしているのです。 まるで彼女に会いにいったかのようです。 リサが元人魚であったのならば、ポニョと宗介を二人きりにした意味も、グランマンマーレとの長い会話が聞こえない意味も明確に想像できます。 リサ「私が19才で受けた試練を5才の宗介とポニョにできるでしょうか?」 ママ「だいじょうV」 では、なぜ宮崎駿はこんな複雑な脚本にしたのでしょう?宮崎さんは『もののけ姫』以降、一見しただけでは不自然・意味不明に見える描写を作中に散りばめ始めました。 これは【1+1=2】的な映画より、【1+X=2】的な映画の方が問題を解く分の面白さがある、という単純な理由からだと思われます。 そのうえで、この「読み解く能力」は映画を楽しむだけではなく、社会を回転させる力だとも考えている!……かもしれません。 そのための虫食いシナリオ。 (=女の子は大丈夫。 ) 「見抜く・読み解く・受け止める」が、シーン・シナリオ・テーマといった異なった次元で語られ、また映画として融合しています。 そして『ポニョ』を見た子供たちは「語られてはいないが私の母はグランマンマーレの娘」であり、「忘れてはいるが私もグランマンマーレの娘」であることに、いつか気付くのでしょう。 この魔法は将来、女の子が男の子をゲットするときに役立つはずです。 …男の子は相手の正体が魚や豹や蛇や兎だと見抜いたうえで受け止めてください。 宗介の力 『鶴の恩返し』や『雪女』といった異類婚姻譚では「自然界の力を持った女の問いかけに、間違った応えをした男が酷い目にあう」物語が数多くあります。 財産を取り上げられたり、子供を奪われたり、目を潰されたり、国を滅ぼされたり。 しかし、宗介は様々な問いに的確な応えを「し続け」ます。 何気ないシーンですが、それを象徴するシーンがあります。 宮崎アニメにたびたび描かれる【男の子が女の子のために暗闇の中で火を灯す】です。 パズーやルパンが暗闇でマッチをする場面では大抵1、2回は失敗しますが、宗介のポンポン船は一発で出発します。 宗介が今までの男共とはチト違うという意味であり、サン(もののけ姫)と離れて暮らすことを選択したアシタカより、度量の広い男なのかもしれません。 宗介がさらに凄いのは、ヒロインは化け物だし、状況は解らんし、いつのまにか世界の運命が賭けられてるのに、パニックにならずに大大円まで行けたところです。 握手を求めたフジモトの気持ちがよぉーく解ります。 このシーンが一番ホロリとしちゃう。 …ただ少し気がかりなのは、宗介からしなければならなかったキスをポニョからしちゃうところです。 神話や民話のパターンからいうと、これはチョットまずい。 でも、まぁいいか。 フジモトの力 宮崎アニメ伝統の「自然vs文明」とか「世界の危機」を背負っている芸術家風の男。 グランマンマーレに恋して人間をやめているようです。 少し紅の豚とカブりますね。 生命と機械が融合したような船に乗り、高純度の海のエキスを抽出したり、海底牧場を運営するなど、非常に「科学者的な態度」で海とつきあっています。 しかし、他の宮崎作品の「自然vs文明」キャラに比べると随分と滑稽に描かれています。 だって、世界の危機を叫んでいるのはフジモトだけなんですもの。 ポニョもグランマンマーレも汚い海も原初の海もそれほど気にしていませんし、機械に活力を与えることも厭いません。 またフジモトには境界線に関する描写が繰り返し描かれます。 海では空気の膜に覆われ、陸では深海の水が撒かれた場所しか歩きません。 人間文明の廃液が混じった海水を嫌い、純粋な海のエキスを抽出し貯めています。 これらは清浄と汚濁を分けて考えているという描写です。 宮崎駿さんがよく使うモチーフであり、グランマンマーレの大きさにはなれない男たちのテーマでもあります。 フジモトの理想はデボン紀の海。 いろいろ難しい理屈はこねてるようですが、ただ単にグランマンマーレが懐かしんだ海をプレゼントしたいだけなのでしょう。 …まぁ、当のグランマンマーレは奇麗だろうが汚かろうが、海は海だと気にしないんでしょうけどね。 他に印象的だったのがリサの家の柵を越えられないシーン。 魔法がかかっている地域では人を入れたくない場所には柵を立てるだけで十分ですが、魔法がかかってない地域では高いコンクリの壁と鉄条網が必要になってきます。 ポニョの力 ポニョのラストは奇妙な明るさに満ちていますが、死者の世界と思われる描写が続きます。 その死者が生者と触れ合い元気を与えます。 「死の世界」を表現して「生の世界」が表現されうることを『ポニョ』は見せてくれました。 この【テーマの怖さ?】と【表現されたモノの楽しさ?】を、そのままを具現化しているのが主人公のポニョです。 ポニョはおぞましくて可愛くなくてはいけません。 生命がそうであるように。 ここで「海水型ポニョを水道水に入れて大丈夫?」を考えてみます。 まずポニョは (1)フジモト研究室のキレイな水槽を抜け出して (2)生命豊かな海と戯れ、 (3)港の汚れた海に辿り着き、 (4)リサの家の貯水タンクの水(おそらく雨水)に入れられ (5)ひまわり園の水道水(塩素入り)に入れられ、 (6)フジモトによって(1)に連れ帰されます。 フジモトが「汚らわしい人間たちを一掃するため」に貯めていた高純度の海のエネルギーでポニョは人間に変身し、人間の男の子に会いにいくのです。 素晴らしい構造です。 飛躍して考えると、息がしにくい現代社会も、魚が両生類に進化して陸に上がったように克服できるフロンティアだと考ることもできます。 人間の知性による知性への制御については『ナウシカ』で考え抜き、少し悲しい気分になったので、今日生きるため、明日生きるために開き直ったのかも? そしてポニョを受け入れた宗介に握手を求めるフジモト。 人間をやめたポルコもフィオのキスで人間に戻り、人間に嫌気が差している監督も子供に出会うと、やはり嬉しい。 だからこそ宮崎さんの作品はテーマが暗く重くても、表現としては明るいのです。 それこそ生命。 これこそ芸の術。 津波後の世界は死後の世界か? さてラストのアレは死後の世界なのか?という問題です。 初見時は「あの洪水を生き残ったのはトキ婆さん・宗介・記憶を失った赤毛の女の子の3人だけ。 その女の子のための作られた物語が『崖の上のポニョ』だ。 」ということにしました。 …しかし、どうなのかなー、それじゃあんまりだなー。 「この世に悲劇は尽きることはない。 そんなとき物語にはどんな力があるのか?物語で希望を見せることはできる。 しかし、そんな作り物を子供たちに見せたくもない。 」宮崎さんはそんな葛藤を持ちながら作り始め、作り終えたのかもしれません。 結果、ポニョが港の人の命を奪った物語にも、老人たちにエネルギーを与えた物語にも読める作品になりました。 視聴者も、その日の気分によって読み変えられるのですから2度美味しい。 これが演出技術だとしたら凄い!…んですが、恐らく強引にラストをハッピーにしたんじゃないかなー。 物語の引力に従うと悲劇になるところを、作家の意思でハッピーにしたと見ています。 さすが日本を代表する大作家! 死と生・虚と実・過去と未来のチャンプルー 蛇足になってしまいましたが、ポニョがキスした3人について。 ラストが「ほぼ全滅」ならば、ポニョにキスされることが生き残る条件なはずだったんです。 (キスは縁が結ばれ再び生きることを意味します。 また巡る春です。 仏教では縁から解き放たれることを解脱と呼び、グランマンマーレも泡になることを悲劇だとは考えていないようでした。 しかし、この映画のテーマは「生まれて来てよかった!」です。 「生まれてこなきゃ良かった…」ではないのです。 ) 港町が水没したあとポンポン船に乗ってリサを探す宗介とポニョ。 その道中、古い船に乗った夫婦と赤ん坊との出会いが丁寧に描かれます。 その家族との別れ際、ポニョがわざわざ水面を走って戻って赤ん坊にキスをします。 その後、トンネルを抜け魚に戻ったポニョ。 そこにフジモトが下手な誘拐犯のようなセリフで宗介を誘います。 さらにトキ婆さんが「騙されるなー!」と叫び、謎のスローモーションでポニョとキスをしてしまいます。 この赤ん坊とトキ婆さんのシーンは変すぎます。 話の本筋に関係ないし、なんなんだこれは?…こういう変なシーンのときには隠された意味がある合図です。 青い服と可愛げのない顏。 …似てる気がしてきました。 まずトキ婆さんには津波と人面魚に関連したトラウマがあり、そのためポニョが金魚ではなく人面魚であることを見抜けます。 その力とトラウマを授かった瞬間が、あの3人家族とポニョの出会いのシーンだったのではないでしょうか? ん?時間軸がメチャクチャですって。 そうなんです。 あの水没した世界は、時間や虚実や生死がチャンポンになっている世界なのです。 アフリカ神話でも語られている空と海とが混じる夢の場所。 そこには決してたどり着くことはできないそうです。 こういった思考法が神話的思考です。 この思考を復活させるための描写が「トキ婆さん=青い服の赤ん坊」であり、古今の船と飛行機と海洋生物が行き交う海なのです。

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【徹底解説】『崖の上のポニョ』|なぜ両親を呼び捨て?トンネルの意味は?

崖 の 上 の ポニョ 考察

崖の上のポニョのフジモト正体は何者? 物語の序盤から登場する髪の長い男が フジモトです。 「除草剤を撒いていた男」の方が印象が強いかもしれませんね。 (実際に撒いていたのは海洋深層水です) フジモトは ポニョの父親であり、 魔法使いでもあり、 元人間という属性てんこ盛りなキャラクターです。 wikipediaのキャラクター紹介を以下に簡単にまとめてみました。 ・人類の破壊性に愛想を尽かし、現在は海の眷属(けんぞく)として生きる魔法使い。 ・自作の潜水艦「ウバザメ号」を駆り、水魚などの魔物を操る力や、水棲生物を除ける結界を張る能力を持つ。 ・海底にある珊瑚で出来た塔に住み、クラゲなど海棲生物の増殖を行っている。 ・グランマンマーレとの間にはポニョら娘達を多くもうけた。 しかし、「海なる母」としての存在であるグランマンマーレをフジモト一人が独占することは許されないため 、止むを得ずグランマンマーレと離れ離れに暮らしており、ポニョら子供達を男手一つで育てている。 より引用 ぱっと見の印象から変な男と思ったり、ポニョを連れて行こうとした悪い奴な印象を持つかもしれませんが、ただの 娘思いなお父さんだったりします。 また、 海の生き物を愛する一面も持っています。 そんなフジモトですが、作中では何を目的としてポニョを連れ帰ろうとしていたのでしょうか? 崖の上のポニョのフジモトの目的は? フジモトは執拗にポニョを宗介から取り返そうとしていましたが、それはなぜなのでしょうか? フジモトの背景には、人間に愛想をつかして自ら人間をやめたという経緯があります。 作中の「人間は海から命を奪い取るだけだ」と言うセリフからも、 フジモトが人間に対して嫌悪感を抱いていることがわかりますね。 このことから、フジモトは人間である宗介の手からポニョを取り返そうと奮闘します。 ポニョを連れ戻すことに成功した後、ポニョが人間の血を取り入れていることに気づき、母親であるグランマンマーレになんとかしてもらおうと考えます。 しかし、その間になんやかんやあって、フジモトが貯蔵していた「 生命の水」に触れてしまいます。 この「命の水」に触れたことでポニョは強大な力を手に入れてしまい、それによって引き起こされる 世界の破滅を回避するために、再びフジモトお父さんはポニョを連れ戻そうとします。 そんな奮闘中のなか、グランマンマーレから ポニョを人間にすることで魔法の力が失われると提案されます。 古い魔法であり 失敗するとポニョが泡になってしまうと心配しますが、物語後半ではポニョと宗介を信じ、この提案に乗りました。 作中で描写されることはありませんでしたが、フジモトの背景を考えると決断するのに相当悩んだんじゃないかなと思います。 成功すれば世界は助かるが愛娘が大嫌いな人間になってしまい、失敗すればポニョも世界も滅んでしまう… フジモトにとっては究極の二択な状況になってますね。 むしろお母さんがさらっとすごい提案をしていた気もしますが… それの対比としても、娘の心配をするフジモトの人間味が見えているような気もします。 崖の上のポニョでフジモトが飲んだ液体(命の水)は何? 作中でフジモトが飲んでいた薬のような液体や、作成していた「生命の水」とは一体なんだったのでしょうか? wikipediaには、 魔法で海水を浄化・精製したものとあります。 なるほど、よく分かりませんね(笑) 作中からもう少し考えてみましょう。 まず、 とてつもない魔法の力を秘めているものです。 ポニョを押さえつける時にフジモトがこれをがぶ飲みして魔力を得ていましたね。 海なる母と呼ばれる存在のグランマンマーレの子であり、その力を受け継ぐとされるポニョは子供ながらも大きな力を持っています。 この時飲んだものは精製途中のものですが、それでも大きな魔力を持っており、ポニョを押さえつけることに成功していました。 精製の完了した生命の水の魔力は凄まじいです。 ポニョが宗介の元に向かう時にも 天変地異かと言わんばかりの大波を起こしたり、知らぬ間に 月を引き寄せていたりと天災レベルの力が使えるようになっていました。 もう1つは、 命を生み出す力です。 完成された生命の水にポニョが触れたことで、 人間に変身することができるようになりました。 それだけでなくこれまで使えなかった魔法が使えるようになったり、 海水が魚になったりもしていました。 元々フジモトがこの生命の水を作っていた背景には、カンブリア紀のような生命溢れる「海の時代」の再来を目論んでいました。 カンブリア紀の海は、「カンブリア爆発」という言葉があるほど多様な生命が生まれた時代とされています。 この時代を復活させるために、生命を生み出す力が必要だったというわけですね。 まとめ 今回は『崖の上のポニョ』の登場人物であるフジモトと飲んでいた謎の液体について書きました。 フジモトは ポニョの父親であり、本作中では自身の嫌悪する人間(宗介)から ポニョを取り返そうと奮闘していました。 また、生命の水は海水から精製された 膨大な魔力を持つものであり、これを使えばカンブリア紀のような 生命溢れる海を作ることができるという代物でした。 なんだかんだやっぱりフジモトはただのいいお父さんでしたね。 あと、生命の水飲んだ後のキリッとしてるシーンが結構お気に入りでした(笑) 皆さんもぜひ作品を楽しんで観てください!.

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【考察】崖の上のポニョの都市伝説と解釈5つ!知らないほうがよかったと後悔するかもwww(ネタバレ注意) : NEWSまとめもりー|2chまとめブログ

崖 の 上 の ポニョ 考察

『崖の上のポニョ』は、2008年(私が11歳の時)に公開され、愉快なテーマソングと雄大な海の描写で観客を虜にした、ジブリの長編アニメーション映画である。 何だか無性に観たくなったので、夜な夜な鑑賞会をしていたのだが、11歳の頃とは見方も変わっていて、とても面白かった。 この映画は海を舞台にしているし、題名から見て分かるように飽くまでも主役は『ポニョ』である。 しかし物語が進行していく中で、『ポニョ』は実は物語のスパイス的な存在であり、物語の根幹を引き出しやすくするためにいるのではと感じ始めた。 それを強く感じたのは、「ポニョと父親の関係」と「宗介とリサの関係」とを比べた時だ。 この映画は最初、ポニョが家出するシーンから始まる。 そこから宗介と出会って物語が展開していくのだが、ポニョや妹たちは父親に対して反抗的に描かれている。 逆に宗介は、母親であるリサに対して好意的だし、その愛情が画面を越えてこちら側にひしひしと伝わってくる。 この二つを比べた時に、展望性があるのは「人間サイド」であると手に取るように分かる。 つまり、この作品の根幹にあるものは、様々な「愛」である気がするのだ。 一つ目は、この親子の対比から読み取れる「親子愛」である。 そして二つ目は「純愛」である。 例えばこんなシーンがある。 長い航海から帰ってくる予定だった父親から、突如帰れなくなったと連絡が入る。 リサは激怒してベッドに横たわる。 (モールス信号のシーンは私の好きなシーンの一つでもある。 )その後父親とのやり取りが終った宗介は、リサに近寄って頭をなでる。 そしてこう言うのだ。 「リサ、泣かないの。 僕も泣かないから。 僕ね、ポニョを守ってあげるって約束したの。 」 大人ですら一人の女性も守れない人もいるのに、この子はなんて偉い子なんだろうと思ってしまう 笑 宗介はポニョのことを半魚人ではなく「ポニョ」として認識している。 そして、大人達から「守られる」存在だった小さな男の子が、「守る」存在になれるのはポニョの前だけなのだ。 宗介から「守られた」ことで、ポニョは愛を知るのである。 この「守る」とか「守られる」という本当に根本的な愛こそ、捻じ曲がった恋愛観を解くヒントになるのかもしれない。 ポニョも最終的には人間になるのだが、人間であっても魚であっても一貫として考えていることは同じである。 「宗介が好き」「宗介のところにいきたい」「宗介に会いたい」実に直接的である。 子供だからかもしれないが、この純粋に好きな人に自分の気持ちを伝えられるのは私でも羨ましく思うところだ。 三つ目は、「慈愛」である。 作中では、このおばあちゃん達が本当に可愛らしく描かれている。 実際うちの銭湯のばあちゃんも、あんな感じだ 笑 この醸し出される包容力が、正しく「慈愛」という言葉に相応しいと思う。 もちろん、母親であるリサもそうだ。 私は父親との関係をしくじったので、父親と娘の関係はあんなもんだと理解できる。 その点『君の名は。 』での取り込み方と比べてしまうと、宮崎駿はやっぱり凄いなと感心してしまう。 その位、観客が一種の懐かしさを覚えるような物語を考えられる人は、世界的にも極めて少数になってしまうのだなと思わざるを得ない。 映画の品質は『どの位観客の共感を得るか』に関わってくる。 映画を観て涙が出るのは、この部分が良かったからに違いない。 私の好きなトイ・ストーリーは、三作目ではアンディーが大学に行ってしまう話であった。 今大学生である人たちも、その両親も、皆がアンディーだけでなく、おもちゃであるウッディーの気持ちに共感し、涙を流すのである。 そしてそれはアメリカだけの現象ではないことが、ピクサーの技量が素晴らしいことを物語っている。 その共感の部分でのジブリが優れている点は、どの世代に向けての映画なのかを企画段階でかなり狭めていることである。 『魔女の宅急便』は、13歳の女の子から20代の女性をターゲットにして作られている。 そしてこの映画は、その人達を応援するために作られたのだ。 結果的に、そのメッセージは巧みな表現力で彼女たちにしっかりと伝わっている。 この確実に共感を得る方法こそ、ジブリ映画が愛される秘密なのかもしれない。 そしてもう一点は、美味しそうなご飯である。 その絵を見ただけで涎が出てくるのは、日本だけの現象ではない。 その食事に対する共感は、ジブリ独特のものであると私は感じる。 この共感を得る上で、「味覚」を刺激する作品は中々無い。 私はジブリの大ファンであるし、彼らのように多くの人に感動を届けられるような作品がいつか作れたらいいなと思っている。 その点、彼等の映画から学ぶことはたくさんあるし、逆にそれを避けることでジブリの二の次とは言われないような作品を作りたいとも考えている。 どの道、勉強材料になることは間違いないので、こうやって丁寧に映画を解してみるのも大切なのだ。 結局はそれを活かすか、否かの問題になってくる。 私的には無意識的に作品に現れ出るのがいいのだが、そのためには多くの映画を観て学んでアウトプットする訓練をするしかない。 またまたやることが増えてしまった。 楽な生活ができればいいのだけど、現実は厳しいものである。 石の上にも三年は本当なのか。 嘘だったら嫌だけど、私にできることはそれしかないから文句言いながら毎日こなしていくしかない。 それにしても時間が足りない。 何をするにでも時間が足りない。 ベッドに横たわって目を閉じても、頭は何かを常に考えているから休んだ気がしない。 そうしてまた新しいストーリーを思い付くと、飛び起きてノートを広げて定規で線を引く。 70コマ作ったところで絵コンテを描き始める。 気が付くと夜中の三時。 ああまたやってしまった。 そうしてまた夜が明けていく。 ショパンのソナタに聞き惚れながら、眠りにつく。 もうすぐ今年が終わる。 そして新しい年が始まる。 来年も変化の年を。 私にとっても、世界にとっても。

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