坂口弘は1946年11月12日に千葉県富津市で生まれた。 東京水産大学に入学したが 左翼による労働運動に身を捧げる為に、大学を中退。 印刷工場に就職しながら、労働運動に従事する中で、 革命左派に合流し、交番や銃砲店の襲撃で銃器を強奪。 革命左派は赤軍と合体して、 連合赤軍となり、坂口弘はNo. 3の立場となる。 その後、山岳ベース事件に関わり、 連合赤軍の森恒夫と永田洋子が下山したのちに、 ベース内の同志たちをまとめていたが、脱走者が出た為にベースを移動。 移動中にあさま山荘を発見し、 坂口弘は山荘に立て籠ることを決めて、 あさま山荘に侵入し事件を起こした。 あさま山荘事件の犠牲者である 民間人を狙撃して死なせたのは彼であり、 他にも報道関係者を狙撃し重傷を負わせ、山荘に突入した 機動隊員に爆弾を炸裂させて負傷させる。 あさま山荘事件の犯人・坂東國男 吉野雅邦は1948年3月27日に東京都杉並区で生まれた。 父親は東京帝国大学を出て、三菱地所に勤めていたエリートである。 父と同じ東京大学への入学を 志望するものの不合格となり、 浪人の後、横浜国立大学経済学部に入学。 学生運動に参加し、中核派の員となるが、 デモ活動で逮捕され鑑別所に送られる。 途中、恋人との関係に 悩み自殺未遂をはかるなどの精神的脆さを見せたが、 後に再び学生運動に参加し、革命左派の坂口弘と接触。 後に革命左派に加わり、脱走メンバーの処刑の実行犯となり、 これが革命左派のトップ・永田洋子に認められて重要視される。 連合赤軍になってから、 妻と供に参加していたが、山岳ベース事件で過激な闘争に反対し、 総括を求められて妻はその際、総括という名のリンチで命を落とした。 その後、坂口弘らと供にあさま山荘に立て籠り、 説得にきた母親の乗る装甲車に発砲する非情さを見せ、 機動隊員3名に発砲し重軽傷を負わせた。 あさま山荘事件の犯人・加藤倫教 加藤元久は1956年に愛知県刈谷市で生まれた。 高校生時代から長男の加藤能敬に影響されて、 街頭デモを行うが、父の反対に遭い家出をして、革命左派に参加。 山岳ベース事件では次男の加藤倫敬と供に、 兄の総括に加わるものの死なせてしまい、脱走を試みたが失敗。 坂口弘や坂東國男らと供に行動し、 あさま山荘事件に立て籠り、事件を起こした。 次男の加藤倫敬と供に、 加藤元久も未成年であった為に、 当時の報道では少年Bとして報道された。 あさま山荘事件の犯人のその後 あさま山荘に約10日間、立て籠った後に 犯人5名は全て逮捕されたその後について。 あさま山荘事件の犯人・坂口弘のその後 逮捕されたその後の坂口弘は 殺人16件、傷害致死1件、殺人未遂17件の罪で起訴。 武装して革命を起こそうとした連合に疑問が生じだし、 山岳ベース事件の同志の総括というなのリンチ事件に関しては反省し、 拘留中は非常に大人しかった。 1975年、クアラルンプールで 日本赤軍が日本の刑務所に収監されている同志を 強制的に解放させる為に起こした大使館占拠事件の際、 釈放リストの一人であったが、これを坂口弘は拒否。 私の闘争の場は法廷であり、もはや暴力革命を志す時期ではない。 こう主張し、逃亡できる機会を 自ら退けて、1993年2月19日に死刑が確定した。 あさま山荘事件の犯人・坂東國男のその後 あさま山荘事件の犯人の中では 唯一、赤軍派であった坂東國男は逮捕、拘留。 その後、1975年の日本赤軍による クアラルンプール事件で、超法規的措置によって釈放されて国外脱出。 日本赤軍にそのまま参加して、 重信房子の側近となり、広報活動を展開。 2001年に日本赤軍最高幹部である 重信房子が解散を宣言したが、これに反して大道寺あや子と 供に日本赤軍解散宣言無効を表明している。 あさま山荘事件の犯人・吉野雅邦のその後 吉野雅邦は逮捕されたその後の調べで 山岳ベース事件で命を落とした妻とお腹の中にいた 子供の写真を捜査官から見せられた際に、 この子は死んでいない、どこかに生きている と、供述していたが、捜査官の説得により、 別件のリンチ事件で命を落とした同志たちの遺体の場所を自供した。 検察側は死刑を求刑したものの、 吉野雅邦は一連の事件の首謀者ではなく、 あくまで兵隊としての立場であり、あさま山荘事件に至っては、 坂口弘と坂東國男の指示によって行われたことを考慮して、 幇助犯と認められた。 よって、死刑ではなく無期懲役が妥当という裁定が下りた。 あさま山荘事件の犯人・加藤倫教のその後 加藤倫教は少年Aとして 未成年者であったが、1983年2月に懲役13年の刑が確定した。 その後、三重刑務所に送られて、同所で服役。 1987年1月に仮釈放されて、地元の愛知県に帰郷。 実家の農家を継いで生計を立てる傍ら、 野生動物や自然環境保護団体に所属し、 同団体の役員を務めた。 特に環境保護活動に尽力しており、 これらの活動家として精力的に動き、2 005年の愛知万博の際、海上の森の木々の伐採から 守ったという実績を挙げた。 あさま山荘事件の犯人・加藤元久のその後 あさま山荘事件で逮捕された当時は 16歳であった加藤元久は、保護処分となり中等少年院に送致。 その後の記録は存在しておらずに、 実家に帰ったと思われるものの、具体的な記録はない。 あさま山荘事件の犯人の現在は? 日本犯罪史上・歴史に残る日本中を震撼させたあさま山荘事件から42年。 これだけの長きの年月を得て、5人の犯人は現在も尚、生きながらえている。 あさま山荘事件の犯人・坂口弘の現在 坂口弘は1993年2月19日に死刑が確定し、長野刑務所に拘置中。 死刑判決から24年が経っておりながら、 死刑執行が行われないことを疑問視する声は、現在でも多いようだ。 この理由は共犯者の坂東國男が超法規的処置により、 国外逃亡して裁判が終わっていないことによる影響であると言われている。 あさま山荘事件の犯人・坂東國男の現在 坂東國男は現在も尚、警察庁に指名手配中とされている。 また日本赤軍に参加後に ダッカ日航機ハイジャック事件に関与したことが分かっており、 国際指名手配中の身である。 現在の詳しい詳細は不明であり、 70歳であることから死去している可能性もある。 だが、公安当局の発表によると、 坂東國男は中東に活動の拠点をおいており、 中国やネパール、ルーマニアなどに入国していた形跡があるのだという。 今後、坂東國男が逮捕された場合は、 あさま山荘事件、並びに連合赤軍などの裁判が再開される。 これにより、坂口弘の死刑執行も 行われるという状態になるのだが、果たして・・・。 あさま山荘事件の犯人・吉野雅邦の現在 吉野雅邦は1983年3月に無期懲役により千葉刑務所に移送。 現在も同所に服役しており、 これまで自身が加担した連合赤軍などの手記を執筆しており、 有志たちが結成した【連合赤軍事件の全体像を残す会】に それらの手記を公開している。 あさま山荘事件の犯人・加藤倫教の現在 加藤元久の現在は兄の加藤倫教が 一番、知っていると思われるが、テレビインタビューの際は何も語られていない。 よって、詳細は不明であるものの、 ネット上には左翼活動家として名前と顔写真画像が残っている。 あさま山荘事件で逮捕された後の活動内容は 全く情報が無いために、それら左翼活動家としての 情報や顔写真画像の信憑性は低い恐れがある。 おわりに あさま山荘事件は日本犯罪史上、 極めて稀なテロ集団による死傷者を出した籠城事件。 様々なエピソードがこの事件には隠されている者の、 ここでは敢えて犯人たちの詳細と逮捕その後の展開、 そして現在を紐解いてみた。 40年以上の歳月により、 現在は平和に余生を過ごしている者や、 獄中で最期の時を待つかの様な半分、死んだ生活を 送っている者など、明暗がくっきりと出ている現在。 こうした事件を紐解いていくと、 正義や愛などというものは、いかに脆く曖昧で 不確実な概念かということを まざまざと思い知らされるのだが。
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概要 [編集 ] 「あさま」は、10月から12月までの間は - 間で運転されていたの列車愛称に初使用された。 その後、1962年12月からは9月までは - 間の準急列車、また10月から9月までは上野駅 - 長野駅・・間の特急列車で使用された。 列車名について [編集 ] 列車名は・の県境に位置する ( あさまやま)に由来する。 の特急列車 およびではいずれもによって決定された。 にの - 長野駅間が通称・として先行開業した際に東京駅 - 長野駅間の列車愛称に転用され、現在に至る。 の長野駅 - 間開業時の列車名公募でも第7位となり(第1位は「」)、「長野への新幹線として親しみやすくわかりやすいため」という選定理由から、引き続き東京駅 - 長野駅間の区間列車として運行されることになった。 新幹線「あさま」 [編集 ] 現状(金沢開業後) [編集 ] 定期列車は東京駅 - 長野駅間に17往復が運転されている。 金沢開業時より列車番号及び号番号が500番台から600番台に変更されている。 金沢延伸以前は速達タイプも各駅タイプも全て「あさま」での運行であったが、金沢延伸以降は同区間に「」「」が加わり速達タイプの役目が移された関係で「あさま」は各駅タイプの色が濃くなり、金沢延伸により運転本数が大幅に削減された「」に代わって上越新幹線区間での停車列車の役目も担っている。 停車駅数の増加も相まって到達時間は全体的に長野新幹線時代よりも長くなっている。 停車駅 [編集 ]• あさま605号・624号の1往復については、繁忙期を中心に金沢駅発着の臨時「はくたか605号・624号」として延長運転する日がある。 使用車両・編成 [編集 ] 2015年3月14日現在の編成図 あさま• 全車禁煙• 座席種別・編成は変更される場合がある。 699号は6 - 9号車のみ乗車可能。 E7系・W7系の(12号車)については、全列車専任アテンダントの車内サービスはなく座席のみでの営業となり、「かがやき」「はくたか」(一部列車を除く)より割安なグランクラス料金が設定される。 E7系・W7系(E7系F2編成) 長野開業時 [編集 ] 定期列車は東京駅 - 長野駅間に27往復、東京駅 - 軽井沢駅間に1往復の合計28往復が運転されていた。 このうち、東京駅 - 軽井沢駅間の1往復(下り551号・上り502号)は週末や休日を中心に長野発着の延長運転が実施されていた。 -:通過• *:延長運転時に停車• 599号は全区間臨時列車扱いとなっていた。 軽井沢駅発着列車のうち、551号は・一部のが長野駅終着、502号は・一部の休日は長野駅始発となり、軽井沢駅 - 長野駅間は臨時列車扱いとなっていた。 (平成14年)12月1日のまでは大宮駅を通過し、東京駅 - 長野駅間をノンストップで走行する列車が1往復運行されていた。 過去に運用された使用車両・編成 [編集 ] 2015年3月14日時点の編成図 あさま• 全車禁煙• 座席種別・編成は変更される場合がある。 (P編成・8両) E4系のうち急勾配対策を施工したP51・P52編成が軽井沢駅まで、周波数切換対策も施工したP81・P82編成が長野駅まで運用可能で、からに軽井沢発東京行(上りのみ)の臨時列車での運用が行われていた。 (F80編成・12両) の開催期間中には輸送力増強のため急勾配・周波数切換対応工事を施工した200系車両による臨時列車が運行されたが、その後同編成は充当されずにとなった。 200系(F80編成) 所要時間 [編集 ] 東京駅 - 長野駅間を最速80分、平均約100分程度で運転されていた。 「あさま」の統一名称を与えられてはいたが、列車毎の停車駅設定がまちまちだったため所要時間には差異があった。 東京駅 - 軽井沢駅間:62分(515号・519号 上野・大宮に停車)• 東京駅 - 長野駅間:最速80分(518号 大宮のみ停車) 開業時から12月まで、東京駅 - 長野駅間列車が1往復(3号・4号)設定されていた。 所要時間:79分(下り3号) - 81分(上り4号)• 運転開始当初のキャッチフレーズは「東京 - 長野 倍速79分」「東京は長野だ」 沿革 [編集 ]• (9年)• :JR東日本が、北陸新幹線の高崎駅 - 長野駅間が同年10月1日に開業し、東京駅 - 長野駅間を走る列車の愛称を「あさま」とすることを発表。 :北陸新幹線の高崎駅 - 長野駅間が先行開業。 東京駅 - 長野駅間24往復、東京駅 - 軽井沢駅間4往復(定期列車)で「あさま」運転開始。 (平成10年)• 長野オリンピック開催に伴い期間中増発用として200系を臨時投入した。 :ダイヤ改正で東京駅 - 軽井沢駅間4往復のうち3往復を長野駅まで延長。 東京駅 - 長野駅間は27往復となった。 (平成12年):長野駅発東京駅行最終列車「あさま」536号の列車名を「 ミレナリオあさま536号」に変更して運転。 (平成13年)• :長野駅発東京駅行一番列車「あさま」500号の列車名を「 21世紀あさま500号」に変更して運転。 :E4系対応車両を使用した「あさま」が軽井沢駅発東京駅行のとして運転開始(上り列車のみ)。 :ダイヤ改正で高崎駅・佐久平駅・上田駅への停車を拡大。 (平成14年)• 12月1日:ダイヤ改正により停車駅拡大措置が採られたため東京駅 - 長野駅間ノンストップ列車を廃止。 これにより、「あさま」全列車がに停車するようになった。 (平成15年) : E4系による「Maxあさま」の臨時列車の運用を終了。 (平成17年):全車化。 (平成25年):北陸新幹線延伸開業後も東京駅 - 長野駅間区間運行列車への愛称継続が発表。 (平成26年)• :導入に伴い所要時間を若干短縮。 「あさま」東京駅 - 長野駅間7往復にE7系を先行投入。 ただし、グランクラスは専任アテンダントによる車内サービスを省略した座席のみの営業とされた。 :東京駅 - 長野駅間4往復にE7系を追加投入。 E7系が1日11往復運行となった。 :軽井沢駅 - 長野駅間下り1本と東京駅 - 長野駅間2往復にE7系を追加投入。 東京駅 - 長野駅間でE7系が1日13往復運行となった。 599号の乗車可能車両は、E2系での1 - 4号車からE7系では6 - 9号車に変更。 :東京駅 - 長野駅間5往復にE7系を追加投入。 東京駅 - 長野駅間でE7系が1日18往復運行となった。 :東京駅 - 軽井沢駅間1往復と東京駅 - 長野駅間2往復にE7系を追加投入。 東京駅 - 長野駅間でE7系が1日20往復の運行となった。 ただし軽井沢駅発着列車は週末を中心に長野駅まで延長運転されたことから、この場合東京駅 - 長野駅間1日21往復運行となった。 (平成27年)• :の長野駅 - 金沢駅間が開業。 「あさま」は引き続き、東京駅 - 長野駅間の列車名として使用されたほか、W7系による営業運転も開始。 1日16往復の体制で金沢方面とは長野駅で「かがやき」「はくたか」と接続を取るダイヤが多く設定された。 「あさま」は停車駅の多いダイヤが多くなり、軽井沢駅などで「かがやき」の退避待ちをするダイヤも設定されるようになった。 :E2系(N編成・8両)による定期運用を引退、以降はとして運用。 (平成28年)• :ダイヤ改正により「あさま」全列車の車内販売を廃止。 ダイヤの見直しにより定期「あさま」の途中駅退避は解消された。 (平成29年)• :E2系(N編成・8両)の運用を完全に終了。 (平成30年)• :ダイヤ改正により東京駅 - 長野駅間で「あさま」を1往復増発し17往復に(長野駅 - 金沢駅間で「はくたか」として延長運転をする場合有り)。 (平成31年・元年)• :(台風19号)により千曲川の堤防が決壊し長野新幹線車両センターと一部の本線・施設が水没し一部区間で運行停止。 北陸新幹線車両の3分の1にあたるE7系・W7系合計10編成も水没した。 :北陸新幹線は長野駅 - 上越妙高駅間を運休とし、東京駅 - 長野駅間は臨時「あさま」にて暫定運行を開始。 東京駅 - 長野駅間を19往復、軽井沢駅 - 長野駅間が片道1本、朝の上り2本は高崎駅始発の上越新幹線「たにがわ」に代替された。 東京駅 - 長野駅間は全て臨時便扱いとなり号数は400号台で全列車自由席、グランクラスは閉鎖し、グリーン券は列車内で車掌が希望する乗客に発券する暫定措置がとられた。 (の夜にも臨時「あさま」の下り3本・上り1本が運行された。 :北陸新幹線全線で運行を再開し、グランクラスを始め指定席の取り扱いを再開。 東京駅 - 長野駅間の「あさま」は災害発生前の17往復から11. 5往復へ減便となった。 「あさま」の減便分は運行を再開した金沢方面の「はくたか」の停車駅を増やすなどして対応した。 運休となったダイヤでは602・606号は高崎駅始発の臨時「たにがわ」50・54号として運行し高崎駅 - 長野駅間が実質的な区間運休となった。 600号は停車駅を増やし長野駅の始発時刻を早めた臨時「あさま」400号とした。 613・616・622号は長野駅にてそれぞれ「はくたか」565・560・566号の長野駅 - 金沢駅間ダイヤと接続して東京駅 - 金沢駅間の臨時「はくたか」595・592・594号の名で運行された。 :東京駅 - 金沢駅間の直通便が全列車通常運転に戻り、「あさま」は11. 5往復から15往復へ増便。 603・607・623・624号の運行を再開。 臨時「はくたか」595・592・594号として金沢駅まで延長運行していたダイヤは本来の「あさま」613・616・622号に戻された。 引き続き602・606号は高崎駅 - 長野駅間を区間運休とした臨時「たにがわ」50・54号として暫定運行され、619・631号は全区間運休となった。 :東京駅 - 長野駅間は15往復から15. 5往復へ増便。 619号の運行を再開。 臨時ダイヤの上り400号は通常ダイヤの600号に戻った。 602号のダイヤで区間運行されていた臨時「たにがわ」50号は軽井沢駅始発の臨時「あさま」402号となり区間運休は軽井沢駅 - 長野駅間に短縮された。 引き続き606号は高崎駅 - 長野駅間を区間運休とした臨時「たにがわ」54号として暫定運行され、全区間運休は631号のみとなった。 暫定ダイヤでの運転期間中には臨時列車も設定された。 (令和2年)• :ダイヤ改正。 上越新幹線向けに製造されたE7系を北陸新幹線に転用した事による編成不足の解消と、台風により被災した長野新幹線車両センターでの車両留置を再開し暫定運用は全て終了、「あさま」の定期列車は被災前の運転本数である17往復に戻った。 :JR東日本が、の感染拡大防止のため、同年4月9日 - 5月31日まで、車内販売およびグランクラスの切符の発売および「あさま」のグランクラスの営業を中止することを発表。 :JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止のため、同年6月1日 - 6月30日まで、グランクラスの指定席発売を見合わせることを発表。 :JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大の影響により、同年5月28日以降の全列車の指定席発売を見合わせることを発表。 : JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止により以下の運転計画および措置を発表。 同年5月21日以降、同年5月28日以降の列車の指定席発売を再開する。 同年7月1日以降、当面の間のグランクラスの指定席発売を見合わせる。 利用客の減少に伴い、同年5月28日以降の定期列車の一部を運休し、臨時ダイヤによる運行とする。 :JR東日本が、国の緊急事態宣言が解除されたことを理由に5月28日以降に計画していた臨時ダイヤを取りやめ、定期列車の運行を継続することを発表。 5km(あさま) 上野-直江津 295. 5km(あさま) 上野-金沢 472. 廃止直前の状況 [編集 ] 「あさま」は1日19往復が運行されており、うち4往復(下り1・11・17・29号/上り10・18・30・38号)が直江津発着(下り29号は長野から)、それ以外は長野発着であった。 なお、長野発着のうち1往復(下り5号/上り20号)は、夏季・冬季のみ臨時列車扱いでまで延長運転を実施していた。 「白山」は1日1往復が運行されており、列車番号は下りが3051M、上りが3052Mであった。 「あさま」・「白山」共に、信越本線 - 軽井沢駅間の急勾配区間()を経由するため、同区間専用のであるとのを実施していた(後述)。 列車名の由来 [編集 ] 「あさま」は前述の通り浅間山に由来する。 「白山」はとの県境に位置するの一つ「」に由来する。 -:通過 備考• 赤羽駅・安中駅・御代田駅・田中駅・大屋駅・坂城駅は「あさま」上下2本が停車• 熊谷駅は「あさま」下り5本・上り7本が停車• 深谷駅は「あさま」下り2本・上り3本と下り「白山」が停車• 本庄駅は「あさま」上下6本が停車• 磯部駅は「あさま」上下3本が停車• 中軽井沢駅は「あさま」下り9本・上り12本と下り「白山」が停車• 信濃追分駅は「あさま」下り1本(9号)が臨時停車• 戸倉駅は「あさま」15号・6号を除き停車• 屋代駅は「あさま」上下5本が停車• 篠ノ井駅は「あさま」下り11本・上り10本が停車• 「あさま」の長野駅 - 直江津駅間快速列車は・・・にも停車• JR東日本長野総合車両所(現・)所属で、9両編成が「あさま」8往復に、11両編成が「あさま」9往復にそれぞれ充当された。 なお、11両編成は末期に妙高高原以南発着列車で限定運用されていた。 JR東日本所属編成とJR西日本所属編成があり、それぞれ運用が分かれていた。 JR東日本長野総合車両所(現・長野総合車両センター)所属の編成は、9両編成で「あさま」1往復(下り27号/上り8号)にのみ充当された。 所属の編成は、9両編成で「あさま」1往復(下り23号/上り36号)および「白山」に充当された。 なお、この編成は「」とも共通運用が組まれていた。 信越本線長野以南優等列車沿革 [編集 ] 長野駅以北の優等列車の沿革については「」を参照 優等列車の運転開始 [編集 ]• (4年):信越本線初の夜行急行列車 101・102列車が上野 - 長野 - 新潟間(当時は未開通)で運転開始。 下り14時間、上り15時間40分で運転。 (大正11年):上野 - 金沢駅夜行急行列車 773・772列車が運転開始。 下り13時間25分、上り13時間45分で運転。 前述の上野 - 新潟間急行列車と併せてを連結。 (6年):上越線の開通により信越本線経由の上野 - 新潟間急行列車が廃止。 (昭和14年):上野 - 大阪間急行 601・602列車が運転開始。 前述の上野 - 金沢間急行はに格下げ。 (昭和18年)• :上野 - 金沢間の不定期列車を廃止。 上野 - 大阪間急行601・602列車の運行区間を金沢まで短縮。 :601・602列車の運転区間を再び上野 - 大阪間に延長。 (昭和19年):「」に基くダイヤ改正で601・602列車を廃止。 なお昭和前期に運行された同線の・には、「 高原列車」や「 涼風」など地方局が独自に設けたが付けられていた。 戦後の発展 [編集 ]• (昭和23年):上野 - 直江津間昼行不定期準急列車 1往復運転開始。 (昭和24年):上述不定期準急列車の上野 - 長野間を定期列車化。 (昭和25年)10月1日:上述準急列車の長野 - 直江津間を定期列車化。 上野 - 直江津間夜行準急列車1往復が運転開始(上野 - 高崎間は上越線列車と併結)。 (昭和26年)4月1日:上野 - 直江津間昼行準急に「 高原」の愛称を設定。 (昭和27年)10月1日:上野 - 直江津間夜行準急の運転区間を新潟まで延長。 (昭和28年):「高原」混雑緩和のため上野 - 長野間に臨時準急「 白樺」を運転開始。 (昭和29年)10月1日:「高原」急行列車化の上運転区間を金沢まで延長し「 白山」に改称。 「白樺」を定期列車に格上げ。 (昭和30年)7月1日:上野 - 長野間不定期準急列車「 高原」が運転開始。 (昭和33年):上野 - 長野 - 直江津間夜行準急に「 妙高」の愛称を設定。 (昭和34年):上野 - 金沢間臨時夜行急行「 黒部」が運転開始。 (昭和35年):上野 - 長野間昼行客車準急「 とがくし」が運転開始。 (昭和36年)• :小諸 - 新潟間(小諸 - 長野間は)準急に「 あさま」の愛称を設定。 「妙高」の運転区間を直江津まで短縮。 :碓氷峠のアプト式区間対応の新製気動車を投入した急行「 志賀」が上野 - 長野間で運転開始。 10月1日:により以下の変更を実施。 - 上野・間でによる特急「 」 が運転開始。 なお同列車は 信越本線初の特急列車である。 上野 - 長野間急行「 丸池」運転開始。 「黒部」定期列車化。 「とがくし」気動車急行化。 これにより「志賀」「丸池」および車両運用効率向上の観点による広域運用の実施により碓氷峠とは関係のない「ちくま」との4列車共通運用を実施する。 「白樺」 を「妙高」に統合し昼行・夜行1往復ずつの運転。 (昭和37年)• 3月1日:「丸池」「志賀」の一部編成をで分割し、までの乗り入れを開始。 :上野 - 横川間にで 準急「 軽井沢」が運転開始。 横川では軽井沢への専用連絡と接続も実施。 12月1日:上野 - 長野間夜行客車準急の愛称を「妙高」から「あさま」に変更。 昼行「妙高」を急行列車に格上げ。 この日以前に「あさま」の愛称は - 新潟間急行列車に使用されていたが、同列車は「赤倉」に変更。 (昭和38年)• 3月25日:長野 - - - 小諸 - 長野間「 すわ」「 のべやま」が運転開始。 上諏訪先着が「すわ」小諸先着が「のべやま」• 7月15日:碓氷峠の区間が粘着運転方式に変更され単線で営業運転を開始。 また「軽井沢」を暫定的に全車指定席化し上野 - 長野間2往復運転に変更。 10月1日:碓氷峠区間粘着方式が複線運転化。 アプト式完全廃止に伴い以下の変更を実施。 「丸池」を「志賀」に統合。 準急「あさま」を急行列車化の上「 丸池」に改称し直江津発着(長野 - 直江津間普通列車)に変更。 上野 - 長野間でによる急行「 信州」4往復運転開始。 なおうち1往復は「とがくし」からの統合で、「とがくし」の愛称は同区間の夜行列車に転用。 「軽井沢」の運転区間を上野 - 中軽井沢間に延長。 EF62 11牽引 上り「越前」 1982年7月 直江津• (昭和40年)10月1日:で以下の変更を実施。 「白鳥」上野発着編成を大阪 - 金沢間「雷鳥」と上野 - 金沢間に系統分離させ、後者を「 」に愛称変更。 上野 - 長野間全車指定席急行「 信越いでゆ」が運転開始。 上野 - 福井間夜行急行「 越前」が運転開始。 「軽井沢」1往復に減便。 特急「あさま」の設定後 [編集 ]• (昭和41年)• :運行距離が100kmを超える準急列車の急行格上げ措置により「高原」「すわ」「のべやま」「軽井沢」が急行列車化。 :上野 - 長野間特急「 あさま」が2往復で運転開始。 「信越いでゆ」廃止。 運行区間内に介在する急勾配区間の信越本線横川 - 軽井沢間()では、EF63形を横川側に連結し電車は無動力にした上での推進・牽引運転であるため編成両数が8両まで制限されたことから「あさま」は不連結となった。 当初は(現・グリーン車)を1両にして食堂車連結も考慮されたが、国際的観光地である軽井沢が沿線に控えていることからグリーン車2両は必須条件でこの案は却下され、代替としてサロ2両をモロ2両に変更しサシ181形・サハ180形の組込みが提案された。 これは当時の「」「」用編成と同じ車種構成でMM'ユニット1組を外した状態で運用できることから最後まで検討されたが、そもそもモロとサシが不足気味だったことやに向日町運転所(現・京都支所)所属車からサロが減車されたことから、余剰車の有効利用・運行時間・短距離運転という観点により食堂車不連結の決断が下された。 また当時の上野発着特急は1等車が上野方の2号車に連結されていたが、「あさま」は長野方の6・7号車にサロ181・180形が連結された。 これは碓氷峠でEF63形と連結する際に重量のある電動車を麓側に集中させることで連結器の坐屈防止には効果を発揮するためである。 181系時代の「あさま」用は、田町電車区担当時代に作成した通常の国鉄書体によるものと長野運転所移管後に補充された丸ゴシックをベースにした書体の2種類が存在した。 これらは489系ボンネット車にも共通で使用された。 クハ189-506「そよかぜ」 保存車• (昭和43年)• :東京 - 中軽井沢間特急「 そよかぜ」が運転開始。 「そよかぜ」には運行前年のに横軽対策を施工したが投入されたが、これは1968年夏シーズンのみでその後は181系・189系・489系といった信越本線で運用される車両が主に投入された。 このほかにも幕張電車区(現・)所属の183系0番台房総特急用9両編成からMM'1ユニットを外しグリーン車1両増結による8両編成、田町電車区所属の183系1000番台用10両編成からMM'1ユニットを外した8両編成、(現・)所属の7両編成が投入された実績がある。 :で以下の変更を実施。 「あさま」3往復増発。 1往復を直江津まで運行区間を延長、1往復を東京発着に変更。 「高原」「志賀」「丸池」を「信州」に統合し7往復運転。 「とがくし」「丸池」を「妙高」に統合。 昼行が定期2往復・不定期1往復・夜行が定期1往復の4往復運転。 「信州」「妙高」用の165系電車はEF63形との協調運転が可能なに置換えを実施。 ビュフェ車連結の12両編成に増強。 「軽井沢」不定期列車へ格下げ。 189系「あさま」 (あさま色)1996年9月 長野• (昭和46年)12月:上野 - 長野・間臨時特急「 あさま銀嶺」を運転。 同列車は、長野運転所所属の181系電車のほか、早期落成していた電車も投入された。 後に臨時「あさま」にも489系は投入されたが、1973年夏シーズンまでの運行では食堂車の営業が確認できる。 夏期には国際的避暑地のへの旅客数が大幅に増加するために以降は、「あさま」「信州」「妙高」のみならず軽井沢・中軽井沢発着の季節列車として特急「そよかぜ」や急行「軽井沢」が多数運転された。 また、全車の旧形客車のみで組成された急行「 軽井沢グリーン」や後年の最繁忙期にはによる臨時「軽井沢」も運転された。 (昭和47年)• 3月15日:で以下の変更を実施。 「あさま」5往復に増発。 うち2往復は直江津発着。 「白山」を特急に格上げ。 上田 - 新潟間の急行「 とがくし」2往復運転開始(以後の沿革はを参照)。 :「あさま」化。 :「妙高」1往復を金沢まで運転区間延長した上で「白山」に格上げ。 「白山」は都合2往復運転。 (昭和48年)• :建設工事に伴い「あさま」の東京発着を中止。 全列車上野駅発着に変更。 :「白山」3往復に増強。 489系電車は間合い共通運用で「あさま」増発分1往復に投入。 定期「あさま」に投入された489系で食堂車が営業された実績はない。 (昭和50年)• :で以下の変更を実施。 「すわ」「のべやま」の長野-小諸-小淵沢間を廃止。 「あさま銀嶺」の運行終了。 10月1日:「あさま」の181系電車を新製の電車に置換え。 189系電車は489系電車同様に横軽区間でEF63形との協調運転により最大12両編成での運転が可能となり輸送力増強が実現した。 ただし、地上設備の関係で当初は10両編成で運転となり、12両化は1978年10月に実施された。 その後「あさま」は、急行列車の格上げ・「白山」の系統分割・純粋な増発などで、最終的には定期19往復(最盛期は20往復)運転となった。 489系300番台「白山」 (白山色)• (昭和51年):「信州」「妙高」のビュフェ車が営業休止。 (昭和53年)10月2日:で以下の変更を実施。 「志賀」2往復中1往復を廃止。 「白山」エル特急化。 上野発着となる・東北特急を含めてグリーン車連結位置を合わせる編成変更 を実施し、489系電車は3MG化のために同時に食堂車を廃止。 「はくたか」の運用を向日町運転所から金沢運転所に移管し「白山」との共通運用に変更。 「そよかぜ」2往復のうち1往復で上田までの延長運転を設定。 (昭和57年)11月15日:で以下の変更を実施。 「志賀」廃止。 長野電鉄への直通運転終了。 「妙高」昼行列車を「あさま」に格上げ。 夜行1往復は車両を旧形客車からに変更。 「白山」編成変更によりグリーン車を2両から1両に減車し食堂車連結を復活。 (昭和59年)7月: - 軽井沢間臨時特急「 サロンエクスプレスそよかぜ」を運転。 同列車はの「」を充当。 また、東京方始発が逗子で・・経由と現在のと同経路で運転された。 (昭和60年)3月14日:で以下の変更を実施。 「白山」2往復に削減。 再度食堂車を廃止。 「信州」「軽井沢」を廃止し「あさま」に格上げ。 「あさま」15往復運転。 「妙高」車両を14系客車から169系電車に変更。 全車のとなり寝台車の連結が終了。 (昭和61年):で以下の変更を実施。 「あさま」2往復を増発し、17往復体制となるが、編成は全列車9両編成に統一される。 「妙高」上野 - 長野間に運転区間を短縮。 車両を「あさま」と共通運用の189系電車に変更しグリーン車が再び連結される。 (昭和62年)8月:「サロンエクスプレスそよかぜ」を廃止。 (昭和63年):で以下の変更を実施。 189系電車で運転されている「あさま」の一部の列車が9両編成から11両編成に増強される。 (元年):下り「妙高」を高崎線普通列車の後の最終列車にダイヤを変更。 このためとによる普通車への乗車が可能となった。 (平成2年)7月:11両編成で運転されている「あさま」にシートピッチ拡大やハイデッカー改造を施したグレードアップ車両を投入開始。 (平成4年):ダイヤ改正で以下の変更を実施。 「あさま」のうち、11両編成の列車はすべてグレードアップ車両で運転される。 「白山」2往復のうち1往復が上野 - 直江津間の「あさま」と - 金沢間の「かがやき」に分断され、1往復に削減される。 (平成5年):ダイヤ改正で以下の変更を実施。 「あさま」1往復増発。 このうち、下り列車は上野発21時00分。 「妙高」ならびに臨時「越前」を廃止。 「あさま」1往復(23号・36号)にJR西日本金沢運転所の489系電車をで投入。 489系「白山」 (1997年6月)• (平成9年)• 月日不明:「そよかぜ」の運転区間が上野 - 上田間に変更。 8月18日:「そよかぜ」運転終了。 実質的にこの日が廃止日となる。 9月6日:経由発着の臨時特急「マリンシティーあさま号」を運転開始。 大宮 - 新宿 - 横浜間を、品鶴線・山手貨物線経由(現在の湘南新宿ライン)のルートで運転。 9月30日:北陸新幹線高崎 - 長野間(長野新幹線)先行開業に伴う横川 - 軽井沢間廃止により、この日をもって在来線「あさま」及び「白山」の運転を終了(廃止は翌10月1日付)。 新幹線開業直後にはこれまでの利用客の流動を視野に入れて「白山」の長野以北を引き継いだ形で長野新幹線と連携した臨時特急「信州」が長野 - 福井間で運行された。 リバイバルトレイン [編集 ]• (平成12年)12月23日 - 24日:熊谷 - 横川間で「懐かしの特急あさま」を189系で運転。 (平成13年)9月30日:上野 - 横川間で「思い出の特急あさま」を189系で運転。 (平成14年)• 4月20日 - 21日:上野 - 横川間で「懐かしの特急あさま」を189系で運転。 10月12日 - 14日:上野 - 横川間で「信越特急あさま」、軽井沢 - 長野・直江津間で「あさま」を189系で運転。 10月19日:移転開業を記念して金沢 - 富山間で「白山」を489系国鉄色で運転。 (平成15年)8月30日 - 31日:上野 - 横川間で「懐かしの特急そよかぜ」を189系で運転。 (平成17年)10月15日 - 16日:信越本線高崎 - 横川駅間開業120周年を記念して上野 - 横川間で「懐かしの特急白山」を489系国鉄色で運転。 (平成18年)8月26日:信越本線関山 - 直江津間開業120周年・直江津 - 長野間電化開業40周年を記念して金沢 - 長野間で「リバイバル白山」を1往復運転。 185系「そよかぜ」(リバイバル) 2012年7月15日• (平成24年)• 7月15日:上野 - 横川間で「そよかぜ」を所属185系OM08編成で運転。 9月8日:上野 - 横川間・軽井沢 - 上田間で「そよかぜ」を運転。 上野発着列車は185系、軽井沢発着列車は189系を使用。 10月20日:長野 - 直江津間で特急「あさま」を長野総合車両センター所属N101編成で運転。 (平成25年)• 列車名の由来 [編集 ] ()• 「 越前」(えちぜん):の旧「」にちなむ。 「 軽井沢」(かるいざわ):避暑地・別荘地として名高い「」にちなむ。 「 黒部」(くろべ):を流れる「」にちなむ。 「 高原」(こうげん):高原地帯を走る列車であることから。 「 志賀」(しが):の「」にちなむ。 「 白樺」(しらかば):沿線に多く生える「」にちなむ。 「 信越いでゆ」(しんえついでゆ):目的地域の「いで湯」()観光列車であることから。 「 信州」(しんしゅう):長野県の旧国名「」の別称「」にちなむ。 「 すわ」:長野県中部のにある「」にちなむ。 「 そよかぜ」:軽井沢などの「高原にそよぐ微風」から。 「 とがくし」:長野県の「」にちなむ。 「 能登」(のと):石川県の「」、またそこの旧国名「」にちなむ。 「 のべやま」:周辺の「」にちなむ。 「 はくたか」:のの開山伝説に登場する「白い」にちなむ。 「 白鳥」(はくちょう): 水原町(現在の)に飛来する「」にちなむ。 「 丸池」(まるいけ):志賀高原の「」にちなむ。 「 妙高」(みょうこう):南西部に位置するにちなむ。 なお、同山は長野県側からでも見えることからの一つにとして知られる。 脚注 [編集 ] [] 注釈 [編集 ]• 国鉄部内の制定基準によれば、列車愛称として沿線の山や河川名が使用されるのは、主に急行列車向けに相当する。 本列車名は、同時期に運転を開始した「」と共に特急列車の愛称として採用された最初の例とされる。 乗客を乗せた状態で安中榛名駅 - 軽井沢駅間の登り連続急勾配を走行することができない可能性があったため 、上り列車のみの運用となった。 戦前に準急は料金は不要であったが戦後は有料となった。 混乱を防止するため、当時の国鉄内部では青森発着編成を「 青森白鳥」、上野発着編成を「 信越白鳥」と区分していた。 「白樺」の愛称は新たにで運転される列車名に転用(現在の「」に相当)。 ただし、1972年以降は捻出されるサロ2形式が底をついたため、グリーン車を電動車ユニットとし4・5号車にサハを組成した編成も出現した。 小淵沢-塩尻-長野間は電車化し、「」増発分に立て替えた。 営業休止後もサハシ169形は9月まで連結された。 ただし、「」「」運用に投入されるクロ481形連結の9両編成を除く。 エル特急指定は「あさま」との等間隔運転の一角を成していたため解除されず「1往復のエル特急」のまま廃止まで運行された。 当時の時刻表より• この運転に際しN101編成は国鉄色に復元。 「あさま」リバイバル運転で国鉄色の183・189系が充当されたのはこれが初めてである。 出典 [編集 ]• ただし、E7系・W7系が「かがやき」・「あさま」への臨時列車に充当される際は、車両不足を解消するために当形式での代走を行なっていた。 この場合、予め定められた列車には「グランクラスなし、8両編成で運転」という時刻表の表記(発行)がなされた。 信濃毎日新聞 2017年4月1日. 信濃毎日新聞株式会社. 2017年4月1日閲覧。 信濃毎日新聞社. 1997年10月1日. 2014年10月19日閲覧。 『信濃毎日新聞』1997年4月15日• プレスリリース , 東日本旅客鉄道, 1998年9月25日 , 2014年12月9日閲覧。 『新幹線のすべて』 川崎憲一郎、2013年7月18日。 ISBN 978-4-7730-8667-6。 プレスリリース , 東日本旅客鉄道, 2001年9月21日 , 2014年12月9日閲覧。 プレスリリース , 東日本旅客鉄道, 2001年9月21日 , 2014年12月9日閲覧。 プレスリリース , 東日本旅客鉄道, 2002年9月20日 , 2014年11月2日閲覧。 PDF プレスリリース , , 2014年2月24日 , 2014年8月26日閲覧。 PDF プレスリリース , 東日本旅客鉄道長野支社, 2014年2月24日 , 2014年3月5日閲覧。 PDF プレスリリース , 東日本旅客鉄道高崎支社, 2014年8月22日 , 2014年8月26日閲覧。 PDF プレスリリース , 東日本旅客鉄道長野支社, 2014年8月22日 , 2014年8月26日閲覧。 PDF プレスリリース , 東日本旅客鉄道, 2014年8月27日 , 2014年8月27日閲覧。 プレスリリース , 西日本旅客鉄道, 2014年8月27日 , 2014年8月27日閲覧。 PDF プレスリリース , 東日本旅客鉄道, 2014年12月19日 , 2014年12月19日閲覧。 PDF プレスリリース , 東日本旅客鉄道高崎支社, 2014年12月19日 , 2014年12月19日閲覧。 信濃毎日新聞 2015年12月19日. 信濃毎日新聞株式会社. 2015年12月21日閲覧。 プレスリリース , 東日本旅客鉄道, 2020年4月8日 , 2020年4月8日閲覧。 PDF プレスリリース , 2020年4月14日 , の2020年4月27日時点におけるアーカイブ。 , 2020年4月25日閲覧。 PDF プレスリリース , 東日本旅客鉄道, 2020年4月27日 , の2020年4月27日時点におけるアーカイブ。 , 2020年4月27日閲覧。 PDF プレスリリース , 東日本旅客鉄道, 2020年5月13日 , の2020年5月14日時点におけるアーカイブ。 , 2020年5月13日閲覧。 プレスリリース , 東日本旅客鉄道, 2020年5月13日 , 2020年5月13日閲覧。 PDF プレスリリース , 東日本旅客鉄道, 2020年5月22日 , の2020年5月22日時点におけるアーカイブ。 , 2020年5月22日閲覧。 『JR気動車客車編成表('06年版)』ジェー・アール・アール、、2006年8月1日。 ISBN 4-88283-127-9。 978-4-88283-127-3。 ISBN 4-87149-412-8。 978-4-87149-412-0。 関連項目 [編集 ]• 外部リンク [編集 ]•
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スポンサーリンク カップヌードルはあさま山荘事件で大ヒットした理由? カップヌードルの発売当初は売れてなかった 実は、 当初はカップヌードルはいい商品だが、売れずに社内でも危ないと言われるほどでした。 (画像引用元:) カップラーメンが発売されたのは、1971年ですが、まだ当時は食文化として定着しておらず、真新しい食べ物でした。 さらに、定価100円で発売したが、これは袋入りインスタント麺の5倍近い値段設定だったりと、当初スーパー等の小売店では殆ど相手にされませんでした。 そのため、スーパー等では売られず身近な食べ物として定着せず、このままでは失敗に終わる可能性があったのです。 自動販売機で少し売れる そんな売れないカップヌードルの打開策として、 スーパーで置いてもらえない代わりに、専用の給湯設備がついた自動販売機を作ることにしたのです。 (画像引用元:) しかし、当時はお湯の出る自販機無いので開発し、東京都衛生局、都議会に新しい条例を作ってもらったりと色々苦労したようです。 ただ、このおかげで自販機を置いた小売店を通じて、カップヌードルはよく売れるという情報が問屋に知れて、少しずつカップヌードルの需要が出てきたのです。 スポンサーリンク あさま山荘事件でカップヌードルがブレイク? 「あさま山荘」の現場は氷点下で、その寒さで機動隊員が湯気の上がるカップヌードルを食べているの様子が放送されてブレイクします。 あさま山荘事件の現場はマイナス20度近い厳寒もあり、機動隊員への弁当が凍ってしまう問題が発生してしまいました。 そこで、容器も必要なく、熱湯があれば温かいラーメンが食べられるカップヌードルが活躍したのです。 (画像引用元:) そして、最高視聴率89. 当時、カップヌードルが納入されていたのは警視庁の機動隊だけでしたが、他の県警や報道陣から「すぐ送ってくれ」という電話が直接本社に入り、それがまた新聞で大きく報道。 そのため、あさま山荘事件後に生産が追いつかなくなるほど売れだし、その後の宣伝効果もあってカップヌードルの人気は不動、「カップ麺」というジャンルが確立したのです。 カップヌードルはあさま山荘事件で大ヒット?理由は視聴者が見たおかげで 実はカップヌードル当時は物珍しくて高くて売れていなかったようです。 しかし、不謹慎ですが、あさま山荘事件が注目されて全国民が見ていたことで、機動隊がカップヌードルを食べている様子を放送されたことで広告となってブレイクしたのでした。 まさかの、あさま山荘事件からの人気ですが、もしこの事件が起きてなければカップヌードルが消えていたかもと思うと、何とも複雑な心境になりますね….
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