1992年2月12日、千葉県市川市の住宅地を自転車で走る少女を見つけた関光彦 せきてるひこ は、故意に少女に追突して接触し、病院から帰る途中の少女をナイフで脅して強姦した。 強姦した後、少女から現金を奪い、生徒手帳から住所と名前を控えた。 当時の関は、フィリピンパブのホステスに手を出してヤクザから追い込みをかけられており、200万円を用意するよう約束させられていた。 ヤクザへの支払いのために恐喝もしたが、200万円には遠く及ばない。 そこで関が考えたのが、以前強姦した少女の自宅へ行き、金を奪うことだった。 3月5日、関は少女を強姦したときに控えた住所をもとに、少女の自宅へ向かった。 少女のマンションについた関は、防犯カメラを避けて外階段で2階に上がり、エレベーターを使って少女が住む8階まで行った。 少女の自宅前に到着したため、チャイムを鳴らしてみたが反応はない。 ノブを回してみると、ドアが開いたため、部屋に侵入した。 家に入って居間で金銭を物色していると、少女の祖母が北側の部屋でテレビをつけて寝ていた。 老女の部屋に押し入り、寝ていた老女の体を蹴り上げ、通帳のありかを聞いたが答えはなかった。 関が老女に金銭のありかを聞くと、老女は関に唾を吐きかけた。 激怒した関は、近くのコードを引き寄せ老女の首に巻き付けて絞殺した。 少女の祖母を殺害後、再び部屋を物色していると、少女と母親が一緒に帰宅する。 関は、母親の背後に忍び寄り包丁を突き付けると、母親はひるまず抵抗してきたため、力づくでうつ伏せにさせ、少女の目の前で母親を何度も包丁で刺して殺した。 しばらくすると、4歳になる少女の妹が保育園の保母に連れられて帰宅した。 関は、少女と少女の妹の3人で食事をした後、少女の妹にテレビを観せるため祖母の部屋にやった。 少女と2人になった関は、再び少女を強姦した。 関が少女を強姦している最中に父親が帰宅したため、慌てて包丁をつかんで隠れた。 関は、父親の背後から忍び寄り、父親の左肩を包丁で突き刺した。 崩れ落ちた父親に包丁を突き付けながら、200万円を出すように要求すると、父親は関に通帳の場所を教えた。 少女の母親が経営する事務所にも通帳があることを聞いた関は、少女に電話させ、事務所に残っていた社員に今から通帳を取りに行くと伝えさせた。 その後、関は少女の目の前で父親にとどめを刺し、少女を連れて事務所へと向かった。 関が事務所に到着してみると、中には人が残っていたため、少女に通帳を持ってくるように指示した。 少女は指示された通り事務所に行き、両親名義の通帳と印鑑を受け取り、残っていた社員に「ヤクザに脅されている」と伝えた。 その後、関は少女を連れてラブホテルに行き、通帳と印鑑をチェックした後、少女を再び犯した。 関と少女は、再び少女の自宅に再び戻った。 しばらくすると少女の4歳の妹が目を覚まして泣き始めたため、関は包丁で突き刺したうえ、首を絞めて殺害した。 母親と父親を目の前で殺害されて恐怖に震えていた少女は、幼い妹を殺害されて初めて関への抵抗をした。 関は、少女の初めての抵抗に激怒し、少女を包丁で切りつけた。 さらに関が少女に襲い掛かろうとした瞬間、ドアが開き、駆けつけた警察が関に組みついた。 少女の様子を不審に思った社員が警察に届け出たことで、警察が駆けつけて関は逮捕された。 関光彦の生い立ち 関光彦 関光彦 せきてるひこ は、1973年1月30日に千葉県で生まれた。 小学生から万引きをしており、中学生に上がると街をうろつき恐喝を繰り返した。 高校を中退した後は、祖父の経営するうなぎ屋で働き始めたが、それも半年ほどで辞めている。 18歳になって一人暮らしを始め、フィリピンパブに足繁く通うようになった。 その後、一人のフィリピーナと結婚したが、事件直前にフィリピンに帰国して戻ってくることはなかった。 再びフィリピンパブに通い、二人のフィリピーナを自分のアパートに連れ込んだ。 このことでヤクザが激怒し、関は200万円を用意することを約束させられた。 死刑にはならない 逮捕された関は、4人を殺害しても自分が死刑になるとは思っていなかったという。 それどころか「どうせ捕まるなら学生のころに好きだった子を狙っておけばよかった」と発言している。 論告求刑で「死刑が相当」という言葉を耳にするまでは、勉強をしつつ、資格でも取ろうかなどと考えて勉学に励んでいた。 しかし、関に下された判決は、死刑判決だった。 「ひとりう生き残った少女は2004年春、28歳で結婚した。 大学卒業後、会社勤めを経て、かねてから交際していた男性と結ばれたのである。 二人は現在、日本を遠く離れ、ヨーロッパで新婚生活を送っている(19歳 一家四人惨殺犯の告白 永瀬隼介)。 」 裁判所は、一審も二審も死刑の判決を下した。 2001年12月3日、最高裁でも上告が棄却され、関の死刑が確定する。 2017年12月19日、関光彦の死刑が執行された。 出典 19歳 一家四人惨殺犯の告白 永瀬隼介.
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強盗殺人• 強盗強姦 事件のことで犯人は事件当時19歳の未成年であった。 しかし事件の判決は残虐性などを考慮した結果,日本で当時2例目となる「死刑判決」であった。 [スポンサーリンク] 事件の犯人「関光彦」とその事件の発端 市原一家4人殺人事件の発端となった関光彦は同じく市川氏のフィリピンパブで顔なじみであったホステスを連れ出して 自宅に2日間監禁したことに始まります。 この監禁事件2日後の8日にホステスは光彦に監禁されたことをパブの経営者に報告し、怒った経営者は知り合いの やくざに落とし前を付けさせるように依頼した。 そして光彦はこの日からやくざに追われることになった。 [スポンサーリンク] 関光彦と事件までに起こした性犯罪 ホステス監禁事件から5日後の11日に光彦は イライラからの行動か東京都中野区の路上を歩いていた24歳の女性を襲って鼻を折るなどの怪我を負わせた。 その後自宅に監禁して強姦した。 しかしその日の夜にホステスの件で 暴力団員7人がアパートに押しかけてきて関は車で逃げた。 だがその 監禁強姦事件から24時間もしない12日に被害者となる家族の姉(Aさん、当時15歳)が自転車で買い物帰りだったのでわざと車をぶつけた。 「病院に送る」など嘘をつき、少女を自分の家に監禁して強姦、この時口封じのためかAさんの生徒手帳を奪って名前と住所を書き写していた。 Aさんはこの時何とか脱出することが出来た。 彼女はその後学校で耳に傷がついていることを聞かれた際、「コンビニで男性に襲われた」「高校の先輩にやられた」などと嘘の供述をしたが、警察にも一応被害届は出していた。 しかしこの段階では顔見知りの犯行ではなかったことからまだ関が捜査線上に上がることはなかった。 [スポンサーリンク] 関光彦が起こした暴力事件に対する慰謝料 関は2日連続で女性を強姦したことで自分には力があると思い込んでいたが 暴力団相手には情けないほどに無抵抗といわれおり、 自分よりも弱い相手にしか強く出れないということが伺えます。 まぁ実際暴力団相手は流石に・・・・と思いますがそれでも 女性や自分よりも弱い相手には強く出れるというのには変わりありません。 Aさんを拉致監禁強姦した日の夜に関は暴力団員に呼び出され、組長から• 慰謝料: 200万円 を請求され、関はそんなお金を持っているわけでもなく、また取り立てを恐れてか自分の車の中で寝泊まりしていた。 ただ、この関が所有していた車は当時高級車のクラウン(400万円)であり、少なくともこの車を売れば幾ばくかの慰謝料にはなったはず。 だが彼にはそんな考えには至らなかった。 [スポンサーリンク] 市川一家4人殺人事件までに関が起こした2つの傷害事件 関はお金を工面しようと2月25日に市川浦安線で車を運転中にあおり運転をされたことに腹を立ててあおり運転をしてきた男性に「 安静加療約10日間を要する頭部挫創」を負わせた。 さらにその2日後には埼玉県岩槻市で運転中に当時21歳の大学生の乗用車に追い抜かれたことに腹を立てて男子学生を拉致監禁。 車内において持っていた 折り畳みナイフで20数か所を刺し全治約6週間も要する怪我を負わせた。 この時に男子学生の車から免許証などを窃盗し逃走した。 だがこれらの事件を引き起こしても慰謝料200万円には得られず、焦りから「パチンコ店に強盗」をしようと考えた挙句、 Aさんの一家に侵入して金品を盗むことを思いついた。 なぜこの時になっても車を売ろうと考えつかなかったのかは不明。 市川一家4人殺人事件の計画と当日の犯行の流れ 関はAさんの電話に何回か電話して在宅状況に探りを入れ、何回も下見にも行き「1階のエレベーターホールには監視カメラはない」「Aさんの家は806号室」など確認して犯行に及んだ。 事件当時は朝からパチンコやゲーセンで時間をつぶし、Aさんの自宅に侵入する決意を固める。 そしてこの時に「 ついでにAさんを強姦して暴力団のせいでみじめな生活を送らされた鬱憤を晴らそう」とさえ考えていた( マジで救いようのないくず) そして事件は3月5日の16時30分ごろにAさんの自宅に侵入した 16時30分ごろ Aさんの家に侵入した時、北川洋間でAさんの祖母がテレビをつけたまま寝ていた。 この時関は「年寄りなら負けない」と考え脅したが祖母は怯えることなく毅然とした態度で「8万だけならくれてやる」といってその場から逃げようとした。 そのことについて馬鹿にされたと逆上し近くの 電気コードで祖母を絞殺した。 さらにこの時もしもを考えてか関は祖母が布団で寝ている偽装工作をした。 祖母の殺害後、関はマンションの外にいったん出て「煙草と飲み物」を購入して「長期戦」になると思って飲み物を複数個購入していた。 19時ごろ この時間にAさんと母親が一緒に買い物から帰ってきた時,関は物色している最中であった。 関は非常に殺傷力の高い包丁などの刃物を隠し、二人が居間に向かっていた時、その刃物を持って二人の退路を断って脅した。 だが、Aさんの母親は「勝ち気」で関に対しても恐れることはなかった。 このことに対して「 女とはいえ2人相手には勝てないかもしれない。 どちらかに逃げられたら犯行がバレる」と考え二人を床にうつ伏せにした。 そして、この時関は「母親は頭が切れそうな感じ」という恐れからか無抵抗の 母親の背中に5回包丁を突き刺して殺害した。 21時ごろ この時Aさんの妹さんが保育園から帰宅してきた時関はAさんに命令してご飯を作らせてAさんと妹さんと3人で食事をした。 そして妹さんは亡くなった祖母が横たわっている部屋に追いやられ1人にされた。 この後関は「父親が帰ってくるまでの間気分転換の為にAさんを強姦しよう」と考え家族の死体が横たわるそばでAさんを強姦という常軌を逸した行動を行っている。 3月6日午前0時 関は予想よりも早く帰ってきた父親を包丁で刺して「暴力団だ。 お前の記事のせいで組が迷惑している」と騙して脅した。 現金にして目的の200万円以上を手に入れたがもっと手に入れようと考え、会社に「通帳を取りに行く」と電話させ、Aさんを連れて会社に行こうとした。 だが「父親を口封じに殺しておかないと警察に通報される」と危惧してAさんは知ることなく動けなくなっていた 父親を包丁で殺害。 Aさんを会社に連れて行った。 午前1時ごろ 会社に到着後、Aさんに通帳を取りに行かせ、従業員に不審に思われないためにAさんの名前を読んだりして親しげにしていたが不審に思われ警察に通報が入った。 派出所の警官と従業員は部屋のドアを叩いたり電話をかけたが「不在だ」と判断して帰ってしまった。 そしてそこでもAさんを強姦し、ホテルで一夜を過ごした。 「近所に犯行がバレる」と危惧した関は妹さんを柳刃包丁で殺害。 Aさんは包丁で刺された妹さんを前にして動けなかったが関は「 妹の首を絞めて楽にしてやれ」などふざけたことを言い放った。 想像を絶する出来事で動けなかったAさんだったので関は妹さんの 首を絞めて殺害。 そのことで激怒したAさんは関に食って掛かったが関は逆上しAさんの腕や背中に 全治2週間の怪我を負わせた。 午前8時ごろ Aさんの父親の会社の従業員がまた電話が掛かってきたので不審に思い色々とAさんに電話口で質問したことで誰かが家でAさんを脅していると確信。 警察官と共に部屋に来たが鍵がかかっていたのでベランダから侵入し、悲惨な光景を目にして事件が発覚。 関は玄関から逃げ出したが警察官と格闘の末逮捕された。 この時関は「 俺はやっていない!! 」とむなしく叫んだがナイフを所持していたので 銃刀法違反の容疑で逮捕されて事件は幕を閉じた。 [スポンサーリンク] 犯人は逮捕直前に被害者の女の子を犯人にしようとしていた 犯人の関光彦は警察が突入する直前に 被害者のAさんに包丁を持たせて「自分を襲っているようにしろ」と命令していた。 でもありとあらゆる出来事によって身も心も疲弊しきっており呆然として座り込んだまま動かなかった。 このことに苛立って怒鳴りつけた瞬間に警官隊が流れ込んできて彼はやっと現行犯で逮捕され、14時間による事件は終幕を迎えた• 祖母の順子さん• 母の照夜さん• 父の功二さん• 妹の宇海ちゃん の4名が惨殺されるという結果になってしまった。 ここからは逮捕後と死刑執行までのまとめです。
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関光彦は元々が相当なワルで、暴力・盗み・強姦などは当たり前で、ケンカ用にナイフや警棒などを持ち歩いているほどだった。 母や弟などは容赦なく殴り、祖父の金を盗んだ時には、そのことで怒った祖父に逆に腹を立て、祖父の顔面に蹴りを入れて眼球を破裂させ、祖父を失明させたこともある。 18歳の時(平成3年3月)千葉県船橋市内で一人暮らしを始める。 同年10月25日、市川市内のフィリピンパブでホステスをしていたエリザベスという女性とフィリピンで結婚する。 そして関光彦19歳の平成4年、凶行は実行された。 元々の事件の発端は、2月6日、光彦が市川市のフィリピンパブの顔なじみのホステスを連れ出し、自宅に二日間監禁したことに始まる。 翌々日の8日、二人のホステスは泣きながら店に戻り、光彦に監禁されたことを経営者に報告する。 怒ったパブの経営者は、知り合いのヤクザに光彦の落とし前をつけてくれるように頼んだ。 この日から光彦はヤクザに追われることとなる。 11日、光彦はイライラしての行動か、東京都中野区の路上を歩いていた24歳の女性を襲い、鼻の骨を折るなどの怪我を追わせ、車に連れ込んで自宅に監禁し、強姦する。 そしてその翌日の12日。 後に自分の家族四人を惨殺されてしまう「15歳の少女」はこの日、関光彦に出会ってしまう。 光彦は買い物帰りの少女の自転車にわざと車をぶつけ、車で病院に連れて行った後、自宅に送ってあげるふりをして自分の家に少女を連れ込み、監禁して強姦した。 その際、少女の生徒手帳から名前と住所を書き写し、誰にもしゃべるな、と脅しをかけた。 くしくもこの日の夜、光彦は暴力団組長から呼び出しをくらい、先の、ホステスを監禁した件で 売上損失分と慰謝料として200万円払うように強制された。 もちろん断ることも出来ないし、そのような金を持っているはずもない。 月は変わって3月5日。 連日ヤクザに激しい追い込みをかけられていた光彦は、すでに家に帰ることも出来なくなっていた。 ここで光彦は、先日住所を書き留めておいた少女の家に押し入り、金を強奪することを思いつく。 平成4年3月5日午後5時ごろ。 光彦はその少女一家が住むマンションに押し入る。 その時マンションにいたのは少女の祖母(83)一人だけであった。 光彦は通帳を出すように迫ったが、拒否されたため祖母の首を電気コードで絞めて殺害した。 光彦はそのままマンションに居座り、他の家族が帰って来るのを待った。 そして約二時間後、少女(15)と母親(36)が一緒に帰ってきた。 包丁をつきつけ「騒ぐと殺す」と脅し、母の首を後ろからつかみ、「黙ってうつぶせになれ」とうつぶせを強要。 母が背中を見せたところを容赦なく包丁でメッタ刺しにして殺害した。 光彦は床に流れた血を少女に掃除するように命じる。 恐怖で凍りつきながら少女は黙々と掃除を行った。 間もなく4歳の妹が保母さんに連れられて帰ってきた。 光彦はこの時点で二人殺しておきながら、少女に命じて食事を作らせ、光彦と少女と妹の三人で夕食を食べた。 間もなく妹は「おばあちゃんが寝てるから私も、もう寝る。 」と言っておばあちゃんの部屋に入った。 妹は、おばあちゃんが殺されているとも気づかず、遺体のそばで眠りについた。 通帳と印鑑の場所は父親しか分からない。 光彦は父親が帰ってくるのを待つ間、少女に襲いかかり、強姦を始めた。 間もなくして父親が帰ってきた。 いつもより早い帰宅だった。 強姦の途中ではあったが、光彦は包丁を持って父親を待ち伏せ、いきなり左肩の辺りに包丁を突き刺した。 悲鳴を上げて父親が床に倒れる。 「現金でも通帳でもいいから200万出せ!」 倒れた父親を足蹴にしながら光彦が叫ぶ。 父親は家族を守るため、通帳と印鑑の入った引き出しを教えた。 口座に入っていたのは、銀行と郵便局を合わせて約360万。 「もっとあるだろう!」欲にまみれた光彦は更に上を要求した。 「(会社の)事務所に通帳と印鑑がある・・。 」重症を負いながらも父親は答えた。 「取りに行くぞ! 親父の会社に電話しろ!」 もはや抵抗する気力の失せていた少女は、言われるままに父親の勤務先である編集プロダクションに電話し、これから通帳を取りに行くことを告げた。 会社に着くと父親の同僚たちが心配そうに事情を聞いてきたが、喋っては家に残っている父親と妹が殺されると思い、 「ヤクザがお父さんの記事が悪いと言ってお金を取りに来てるんです。 通帳と印鑑があれば何とかなるからって・・。 」とだけ言い、光彦のことは喋らなかった。 「大丈夫?」と聞かれたが「大丈夫です。 」と答え、通帳と印鑑を受け取って会社を出た。 しかし少女が家に帰ってみると、 無情にも父親はすでに殺されていた。 一足先に帰った光彦がとどめを刺していたのだ。 朝になり、少女の家の電話が鳴った。 昨日行った事務所の人が心配して電話をかけてきてくれたのだ。 電話にはいったん出たものの、光彦に強引に切られてしまった。 「余計なこと話すんじゃねえ!」と、少女を怒鳴る。 怖がった妹が泣き始めた。 「うるせえ!黙れ!」 光彦は、泣いている妹に腹を立て、身体をつかんで背中から包丁を突き刺した。 包丁は胸まで貫通した。 「痛い・・痛い・・」と苦しんでいる妹に対して、光彦は少女に「お前がとどめを刺してやれ!」と命令する。 しかし少女が硬直して動けないでいたため、光彦が首を絞めて殺した。 妹まで殺されて、少女はここで初めて光彦に抵抗したが、 「お前も殺されてーか!」と、逆に包丁で腕や背中を切りつけられてしまった。 「殺される・・」 そう思った瞬間、突然家のドアがバーンと開き、警官隊が突入してきた。 さっきの事務所からの電話が不自然に切られたこともあって、事務所のスタッフが「様子がおかしい」と感じ、警察に通報していたのだ。 現場に急行した警察官が外から様子を伺い、犯行を目撃した。 そして事件と判断し、一気に室内に突入したのだ。 平成4年3月6日午前7時ごろ、ついに関光彦は現行犯で逮捕された。 14時間における凶行は終わりを告げた。 少女には毛布がかけられ救出されたが、祖母・母・父・妹は惨殺された。 逮捕された後も光彦は、平成元年年の綾瀬女子高生コンクリート詰め事件で誰も死刑になっていないことを引き合いに出し、「俺なんか楽勝でしょ。 」などと語っていた。 「未成年が死刑になるはずがない。 」、「とうとう少年院行きか。 」ぐらいにしか思っていなかったというが、平成6年8月、 千葉地裁が下した判決は死刑であった。 「金銭を工面するための犯行で動機に酌量の余地はなく、四人の命を奪った結果は極めて重大。 犯行時、被告が少年だったことなどの事情を考慮しても死刑はやむを得ない。 」 高裁、最高裁ともに上訴を棄却し、平成13年12月、死刑判決が確定した。 「未成年であれば、どんな凶悪犯罪でも少年院で済む」と思っていた光彦の甘い考えは完全に覆(くつがえ)された。
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