ドガ が 描い た 女性。 「ドガ」はどんな画家?絵画の特徴・描かれた踊り子の意味も解説

印象派の女性画家・モリゾ。色の名手と謳われた彼女の代表作をご紹介

ドガ が 描い た 女性

エドガー・ドガ(1834年7月19日-1917年9月27日)はフランスの画家、彫刻家、版画家。 バレエ を主題とした作品でよく知られており、実際にドガの作品の半分以上はバレエの絵である。 アングルの弟子ルイ・ラモットに師事したドガは、アングル同様にデッサンに非常に優れた画家だった。 また、バレエダンサーや競馬場の馬や騎手などの 「動き」を描写するのが得意で、肖像画では心理的な複雑さや人間の孤独性の描写に秀でていた。 ドガは の創設者の一人とみなされており、印象派展の企画に携わっていたが、ドガ自身は印象派と呼ばれることを嫌い、であると主張していた。 印象派のなかでは最も強く古典主義の系譜を受け継いだ作家である。 幼少の頃からドガは、歴史的古典絵画を描きたいと思っていたため、厳格なアカデミック訓練を受け、古典芸術の熱心な研究を行う。 しかし、30代前半からの影響を受けて、スタイルをやや変更し、 歴史的巨匠の伝統的な技術で現代の主題を描くようになり、モダニズム生活の古典画家と呼ばれるようになった。 ドガはフランスのパリのほどよく裕福な家庭で生まれた。 フランス領ルイジアナ州ニューオーリンズ時代のクレオール(混血児)の母セレスティン・ムッソン・ドガと、銀行員の父オーギュスティン・ドガの間に生まれた5人兄弟の長男だった。 母方の祖父ジェルマン・ムッソンはフランス領ハイチ時代に生まれ、1810年にニューオーリンズに定住した。 ドガは11歳のときにフランスのパリにある中学校リセ・ルイ=ル=グランに入学する。 13歳のときに母が死去。 その後、父と祖父がドガの少年時代に対して、強い心理的影響を与えるようになった。 ドガは幼少期から絵を描きはじめた。 1853年に文学のバカロレア(中等教育レベル認証の国家資格)を取得して、リセ・ルイ=ル=グランを卒業する。 18歳でドガは自宅へ戻り、自室をアトリエにして絵を描きはじめた。 卒業後、ルーブル美術館に写学生として登録したが、父は法律学校へ進むことを希望していた。 1853年11月、パリ大学法学部に入学したが、彼はほとんど勉強する気はなかったという。 1855年にドミニク・アングルに出会い、ドガは彼を尊敬し、彼からのアドバイスを生涯忘れることはなかったという。 「線を描きなさい、若者よ、とにかくたくさん線を描こう、そうすれば人生と記憶の両方で良い芸術家になれるだろう」とアングルはドガにアドバイスをした。 その年の4月、ドガはエコール・デ・ボザールへ入学。 ドガは学校で、アングルの弟子ルイ・ラモットからドローイングやデッサンを学び、また尊敬しているアングルのスタイルを学び、腕を鍛えた。 1856年7月、ドガはイタリアを旅行し、そこで3年間滞在することを決める。 1858年にナポリにいる叔母の家族のもとに滞在して、最初のマスターピース《ベレッリ一家》の習作を制作。 このころに、ミケランジェロ、ラファエロ、ティッツァーノなどのルネサンスの巨匠たちの作品を膨大に模倣した。 1873年にパリへ戻ると、翌年に父が死去。 このときにドガは兄のルネが巨額の事業債務を抱えていることを知る。 家族の評判を守るため、ドガは受け継いだ家や所蔵していた美術品を売り払い、兄の借金債務の処理に充てた。 その後、ドガは生涯で初めて、作品販売での収入に頼ることになり、1874年から数十年にわたって多くの素晴らしい作品群を制作することになった。 また、1870年に入ると、バレエを主題とする絵画がかなり増える。 バレエの絵が増えた理由として、兄が債務で破産したあと、ドガは借金を返済するために売れる絵を描く必要があり、そうしたなかでバレエの絵がよく売れたという部分もある。 ドガは特に踊り子たちの姿勢やポーズに着目したが、それは「動き」を捉えるためである。 《ダンス教室》では、斜め奥に向かう空間を螺旋階段が重層化し、多種多様な動きや身振りをした踊り子たちが分散して置かれている。 主題の変化とともに、技術も変化した。 オランダ絵画の影響を受けた暗めのパレットから、鮮やかな色と大胆な筆使いをもちいる方法を得る。 1876年の《コンコルド広場》のような作品での、大体な筆致は、人が動いているところを瞬時に凍結させたかのような「動き」を感じさせる。 のちの スナップ写真の特徴を持つ作品をドガは描いていた。 また、1874年の《舞台での踊り子のリサーハル》や1876年の《バレエ教師》のモノクロトーンの色調は、このころに登場した写真への関心が伺われる。 ドガのパレット、筆使い、構成感覚の変化の根底には、 当時の印象派運動と現代的な写真技術の両方から影響を受けていると思われる。 1880年以降にドガは自身で写真撮影も始めている。 サロンに幻滅したドガは、サロンからの独立展示会を企画している若手画家のグループに参加する。 このグループがのちに印象派と呼ばれるようになった。 1874年から1886年の間に、印象派の作家たちは、「印象派展」として知られる独立した展示会を8回開催した。 ドガは印象派展を企画するリーダー的な役割を担い、1度をのぞいてすべての展示会に参加した。 ドガはよく印象派の作家として扱われるが、実際はそうでもなかった。 印象派は1860年代から1870年代を起源として発展したが、ギュスターブ・クールベやカミーユ・コローなどの写実主義の画家も部分的に混じっていた。 しかし、 ドガはグループ内でほかのメンバーと衝突することが多かった。 そもそもドガは、グループ内のほかの風景画家やマネと共通したものがほとんどなく、戸外制作をからかってもいた。 ドガは基本的に保守的であり、印象派画家たちが起こした展示によるスキャンダラスな騒動を嫌っていた。 また、ドガはメディアから展示会や参加したメンバーたちに 「印象派」とレッテルを貼られ、俗化した言葉をあてがわれるのを嫌っていた。 展示会には、ジャン=ルイ・フォランやジャン=フランソワ・ラファエリのような印象派とは無関係の作家も展示していたからである。 こうした内部衝突があり、結果として1886年に印象派展と印象派グループは解散することになった。 美術史家のキャロル・アームストロングによれば、ドガは 「私がしていることは、偉大な芸術家たちの研究と研究の結果である。 インスピレーションや自発性や気心というのは私にはない」と自身の芸術思想を主張していた。 それにもかかわらず、彼は他のどの印象派の作家たちよりも、印象派としてよく紹介されている。 1880年代後半になると、ドガは写真へ関心を持ちはじめる。 ドガはランプライトを使って、多くの友人の写真撮影を行った。 ほかに踊り子、ヌード写真も多数撮影しており、それらの写真は、ドガのドローイングや絵画の下敷きともなった。 晩年になるにつれて、ドガは個人的な人生を持つことができないという画家の信念のために、孤立していった。 1894年に起きたドレフェス事件論争で、ドガの反ユダヤ主義的な思想に走ったため、ドガの友人だったユダヤ人たちが皆離れていった。 ドガの理屈っぽい性格はルノワールに非難され、ルノワールはドガに関して、「ドガはどんな人間だったか!彼と友人になった人はすべて、彼と喧嘩別れしなければいけなかった。 私は最後まで彼の友人だった一人だが、最後まで残ることはできなかった」と話している。 1907年の終わりころからドガは、パステルで版画作品を制作するようなり、1910年後半には視力の低下にともなっておもに彫刻で制作をおこなう。 1912年に作品制作をやめる。 ドガは生涯独身で、1917年9月に亡くなる前はパリの通りを彷徨い歩いていたという。

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なぜ怖い? 華麗なバレエの本当の舞台裏を描いた、孤独な画家ドガ

ドガ が 描い た 女性

メアリー・スティーブンソン・カサット(1844年5月22日-1926年6月14日)は、アメリカの画家、版画家。 ペンシルバニアで生まれたが、人生の大半をフランスで過ごし、そこでと親しくなり、印象派のメンバーと展示活動を行う。 カサットはよく 社会風景やプライベートな女性の生活、特に母子間の親しい絆を強調する絵画制作を行なった。 カサットはフェミニズム運動の熱心な推進者だった。 女性の平等の権利への率直な支持者であり、1860年代には友人らと学生のための旅行奨学金の平等運動や1910年代には女性の選挙権の運動などをおこなった。 女性の視点から19世紀の「ニュー・ウーマン」の1人として挙げられた。 カサットは、1894年にギュスターヴ・ジェフロワによって 「、マリー・ブラックモンと並ぶ3大女性印象派画家の1人」と描かれている。 メアリー・カサットは、ペンシルバニア州のアレゲニー郡に住む中産階級の上流の家庭で生まれた。 父のロバート・シンプソン・カサットは投資家で、不動産投機で成功した人物だった。 父は1662年にニュー・アムステルダムへ移民としてやってきたフランス系ユグノー教徒ジャック・コサールの子孫だった。 母のキャサリン・ケルソー・ジョンストンの親は銀行員だった。 キャサリン・カサットは教養が高く読書家であり、娘のカサットの人格形成に大きな影響を与えた。 カサットの生涯の友人となるルイジーン・ヘイブマイヤーはこのように記録している。 「メアリー・カサットの母を知っている人ならだれでもすぐに、カサットは母親の才能受け継いでいると思うでしょう」。 カサットには遠い親戚に画家のロバート・ヘンライがいる。 カサットは7人兄弟だった。 兄弟のうち2人は幼少期に亡くなっている。 なお、兄のアレクサンダー・ジョンストン・カサットは、のちにペンシルバニア鉄道の社長となった。 カサット一家は、ペンシルバニア州のランカスターに移り、次いでフィラデルフィアへ移る。 カサットは6歳で学校に入学する。 両親は海外旅行が子どもの教育に大事と考えていたので、カサット一家はロンドン、パリ、ベルリンなど多くのヨーロッパの主要都市を5年間、移動しながら生活をしていた。 なお、ドイツやフランスで学んでいる間に、ドローイングや音楽を学びはじめた。 1955年の パリ万博でフランス芸術家のドミニク・アングルや、、らの作品を見て、フランス絵画に影響を受ける。 この展覧会ではやなど、のちに画家仲間やメンターとなる画家も参加していた。 カサットの両親は、彼女が画家の道へ進むことに反対したが、カサットは15歳のときにフィラデルフィアにあるペンシルバニア美術大学に入学し、本格的に絵画を学びはじめる。 カサットに対する両親が持っていた不安の1つに、 フェミニズム思想への関心や男性生徒たちからのボヘミアン生活勧誘があった。 こうした学友の影響で、カサットや彼女のネットワークは生涯フェミニズム関係だったという。 在学生の20%は女性だったが、その多くは商業芸術の方向を目指しており、プロの画家を目指している女学生はほとんどいなかった。 カサットは1861年から1865年まで学校に通った。 当時、カサットと学友だったトマス・エイキンズは、のちにペンシルベニア美術アカデミーの教師となった。 カサットは学校の授業スピードの遅さや、男性生徒や教師の態度に不満を持つようになり、独自に巨匠芸術家を手本にした勉強を始める。 彼女はのちに 「大学で得られたものは何もなかった。 女性は生身のモデルを使ってデッサンすることが許されず、石膏モデルでデッサンをおこなっていた」と話している。 カサットは学校をやめたので、学位を取得していない。 その後、父親の反対を押し切り母親とシャペロン(付き添いの女性)とともにアメリカからパリへ移る。 カサットが移住した当時のパリでは、女性はまだエコール・デ・ボザールに入学できなかったので、プライベートでジャン=レオン・ジェロームのもとで絵を学ぶ。 また、毎日ルーブル美術館に通い、巨匠作品の模写をして技術を高めた。 ルーブル美術館は技術訓練をする場所だけでなく、アヴァンギャルドな社交がおこなわれるカフェへ出入りできない、カサットのような外国人女性やフランス本国人たちの社交場としても機能していた。 カサットはこの時期に、友人で画家のエリザベス・ジェーン・ガードナーや、学者でのちに伴侶となるウィリアム・アドルフ・ブーグローと出会っている。 1866年の終わりまでに、カサットは風俗画のシャルル・シャプランの教室で絵画を学ぶ。 1868年にカサットは、トマ・クチュールのもとで学ぶ。 クチュール教室では、生徒たちは田舎を旅行して現地で農業体験などもおこなったという。 1868年に制作した 《マンドリン演奏者》が パリ・サロンに初入選する。 また、その年は友人画家のエリザベス・ジェーン・ガートナーもパリ・サロンに入選する。 2人はサロンで展示された最初のアメリカ人女性画家となった。 《マンドリン演奏者》はやのようなロマン主義風のスタイルで描かれたもので、彼女の芸術家としてキャリアにおいて、最初の10年間で制作した代表的な作品の1つである。 普仏戦争が勃発したため、1870年の夏の終わりにアメリカへ戻ると、カサットはペンシルバニア州のアルトゥーナの家族のもとで過ごす。 小さな町だったので画材やモデルを探すのが難しかった。 父親は芸術活動にあいかわらず反対し、基本的な生活支援はしてくれたものの、画材や美術に関する援助をしてくれることはなかった。 その後、カサットはニューヨークのギャラリーで2回展示する。 多くの人から評判が得られたが、絵を購入する人はいなかった。 カサットは手紙で「私はアトリエをあきらめ、父親のポートレイトを引きさきました。 私は6週間も筆にさわっていません。 まだヨーロッパへ戻る見通しが立ちません」と書いている。 秋には西へ出て、仕事を探すつもりですが、あてもなく不安です」と書いている。 1871年にカサットは気晴らしにシカゴを旅するが、運悪く1871年にシカゴ大火に遭遇して、初期作品の一部を消失する。 その後、彼女の作品はピッツバーグの大司教の目に留まり、パルマにあるアントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ作品の模造作品の制作依頼を受ける。 これがきっかけで、カサットはヨーロッパの旅費と滞在費を工面することが可能となり、再びヨーロッパにわたることになった。 カサットは1871年の秋にヨーロッパに戻り、美術活動を再開する。 彼女の絵画《カーニバルに花を投げる二人の女性》は、1872年のサロンで審査に受かり、購入されるが、評価はあまりよくなかったという。 一方、カサットは イタリアのパルマから非常に好意的な待遇を受けるようになり、その美術コミュニティから制作が支援されるようになった。 大司教から発注された絵画制作を完成させると、スペインのマドリードやセビリアを旅し、そこでスペイン人を主題として絵画制作を行う。 代表作は1873年の 《レース・マンティラを着たスペインの踊り子》である。 1874年にカサットはフランスへ移る。 姉のリンダとアパートを借りてシェア暮らしすることにし、アトリエも用意した。 このころからカサットはサロンの政治性や保守的な絵画を批判するようになる。 カサットはレオン・ボナやアレクサンドル・カバネルなど画家たちが尊敬していたサロンの絵画を見下し、すべての近代美術を厳しく批判した。 サロンに出品した女性画家の作品は、審査員に友人や保護者がいないかぎり、多くは侮辱されて落選することにカサットは気がつくようになる。 カサットの皮肉主義は、1875年に提出した2つの絵画の1つが却下されたのを機に高まった。 1877年、サロンに出品した2枚の絵が落選する。 7年間出品し続けて1枚も審査に受からなかったのは初めてだった。 カサットはに招待されて印象派の展示会に1879年から参加している。 印象派展で作品を展示し、多くの出席者から称賛を得た。 たちは、形式的な「宣言」や美術理論はなく、主題や技法においてそれぞれかなり異なる。 ただし、共通して戸外での制作、混色と原色の絵の具による短い断続的なストロークとそれによって網膜の上で起こる視覚効果、いわゆる「印象技法」を好んだ。 カサットの友人であるヘンリー・ベーコンは、「印象派は非常に過激であり、彼らは、未だ知られていない目の病気に苦しんでいる」と思ったという。 印象派にはカサットのほかにも女性のメンバーが1人いた。 ベルト・モリゾで彼女はカサットの友人となり同僚となった。 カサットは1875年、画商のウインドウで見たドガのパステル画作品に強く感動する。 「私は窓越しに鼻を押し付け、彼の絵をできるだけ吸収しようとしたものよ。 ドガの作品は私の人生を変えた。 私は作品を見たあと、私が見たかった芸術はこれだと感じた」と話している。 そして、ドガもサロンでカサットの作品に注目しており、1977年にドガの訪問を受ける。 そしてドガの熱心な招待で彼女は印象派展に参加する決意をし、1878年に計画を建て、1879年4月10日の第4回印象派展で11点の作品を展示した。 このとき展示した代表作は、1878年に制作した 《青いアームチェアに座る少女》や《「ル・フィガロ」の読書》である。 彼女は1880年と1881年の印象派展にも参加し、1886年まで印象派サークルのメンバーとして活動した。 その後、2年間で彼女は自発的に新しい表現スタイルを取り入れる。 以前はアトリエ内で描いていたが、スケッチブックを持って屋外や劇場で絵の練習を始めるようになり、彼女が実際に見た景色を記録するようになった。 ドガはカサットに最も影響を与えた人物である。 2人とも絵画制作において、泥絵具やメタリック塗料など、さまざまなマテリアルを実験的に使用した。 メタリック塗料を使用した作品の代表作は《扇子を手に持ち立つ女性》である。 ドガの影響もあって、カサットはパステルの使い方が上達し、結果として彼女の最も重要な作品の多くは、メディウムにパステルを利用したものとなった。 また、ドガはカサットにエッチングも教えた。 カサットの絵画はドガの指導のおかげで格段に上達していった。 1877年、カサットはパリに移ってきた父や母、また姉らとともにドリュテーヌ通りにある13階建ての大きなアパートで居住する。 カサットも姉も生涯結婚しなかったので、彼女らは交友に価値を置いていた。 カサットは画業と結婚生活は両立できないと早めに気づいていた。 姉リディアは腎炎の病気の悪化に苦しみ、1882年に45歳で死去。 ショックでカサットは一時的に制作できなくなった。 1886年、カサットは画商の ポール・デュラン・リュエルが企画したアメリカの最初の印象派展覧会に参加し、2枚の作品を展示する。 彼女の友人のルイジーン・ヘイブマイヤーは1883年に、カサットのアドバイザーだったヘンリー・ヘイブマイヤーと結婚する。 二人は膨大な数の印象派作品を蒐集した。 二人が集めたコレクションの多くは、現在、ニューヨークのメトロポリタン美術館にある。 カサットと彼女の友人たちは、 1840年代から発生したフェミニズム運動を盛り上げていった。 この時代のフェミニズム運動はミシガン大学やオーバリン大学といった当時新設された大学で女性の学生を受け入れるきっかけにもなった。 また同様にヴァッサー大学、スミス大学、ウェルズリー大学といった女子大の設立も促した。 カサットは女性の平等の権利への率直な支持者であり、1860年代に友人らと学生のための旅行奨学金の平等運動や1910年代には女性の選挙権の運動などをおこなった。 メアリー・カサットは、女性の視点から19世紀の 「ニュー・ウーマン」をの姿を表現した。 エレン・デイ・ヘール、エリザベス・コフィン、エリザベス・ナース、セシリア・ボーらと並んで、カサットは未婚で高度な美術訓練を積んで成功した「ニュー・ウーマン」としてメディアで紹介されるようになった。 彼女の知性や活動的な面は、母親キャサリン・カサットの影響である部分が大きく、母親は知識豊かで社会参加に活発な女性の教育を願っていた。 《「ル・フィガロ」の読書》で描かれている女性モデルはメアリーの母親である。 カサットは作品内においてははっきりと女性の権利に関する政治的主張を明示していないが、彼女の女性描写は一貫して、対象にたいする尊厳とより深い意味のある内なる人生の提案があった。 カサットは 「女性芸術家」としてステレオタイプ化されることに反対した。 彼女は女性の参政権を支持し、1915年にはフェミニストのルイジーン・ヘイブマイヤーが主催する運動を支える展覧会で18の作品を展示した。 カサットとドガは長い間コラボレーション活動を行なった。 2人のアトリエは近く、歩いて5分ほどの距離にあった。 ドガはカセットのアトリエをのぞき見て中に入ることがよくあり、彼女に絵のアドバイスをしたり、絵のモデルになってもらったりしていた。 2人は多くの共通点を持っていた。 たとえば、芸術や文学などで同じ趣味を共有したり、ともに上流階級出身であったり、イタリアで絵画の学んでいたり、二人とも独立精神があり、未婚だった。 手紙のやり取りが残ってないため、2人の親密性はどのていどだったのかわからないが、彼らの保守的な背景と強い道徳的原則から恋愛関係があったとは考えにくい。 フィンセント・ファン・ゴッホの手紙の中には、ドガの性的抑制を証言しているものがある。 ドガはカサットにパステル技法や彫刻を教え、カサットは両方の技法をすぐに身につけ、一方カサットはドガの作品をアメリカで販売したり、アメリカでのプロモーション活動をサポートした。 ドガ、カサットともに自身を画家とみなしており、美術史家のジョルジュ・シャッケルフォードは、2人は批評家のルイス・エドモンド・デュランティの人物画の向上を促す小冊子『ニュー・ペインティング』内の彼の呼びかけに影響を受けていると話している。 それは、「定型化された人間の身体から離れよう。 それは花瓶のように扱われる。 わたしたちが必要としているのは、社会的環境内や屋内や町の通りにいる着衣姿が近代人の姿である」というものである。 カサットが両親や妹のリディアらと1877年にパリで一緒に暮らすことになったあと、ドガ、カサット、リディアら3人は、よくルーブル美術館でともに美術を学んだ。 ドガはルーブル美術館で芸術作品を鑑賞しているメアリーとガイドブックリディアの絵を制作している。 この絵は、ドガが企画したプリント・ジャーナル紙(メアリー・カサットやカミーユ・ピサロなども参加)に掲載するためのものだったが、結局出版は実現しなかった。 紳士的な装いで、同じ上流階級出身の45歳のドガは、カサット一家らによくディナーゲストとして迎えられた。 カサットとドガは製版技術を習得しており、1879年から1880年の冬にかけて彼らは製版器具を使った作業をしている。 ドガは小さな印刷機を所有しており、日中はカサットのアトリエの印刷機で印刷作業をしていた。 夜になるとカサットは、翌日に印刷するための版画を制作していた。 しかしながら、1880年冬に、ドガは進行中のプリント・ジャーナル誌の企画から突然降りたため、企画は頓挫した。 ドガのプリント・ジャーナル誌の撤退は真剣に印刷作業に取り組んでいたカサットを悩ませた。 カサットが寛容であったため、ドガとの関係はその後も死ぬまで悪化することはなかったものの、この一連の理不尽なドガの行動のため、以後、彼と共同作業をすることはなくなった。 カサットはドガから多くの美術様式を学んで画家としては尊敬していたが、このような実行中の計画を途中で捨て去る気まぐれで、浮気性な性質には心良く思っていなかったという。 1890年代はカサットにとって最も多忙な時期だった。 彼女の絵画は成熟し、より社交的になり、自身の主張はほとんどなくなりはじめた。 また、カサットはルーシー・ベーコンなどアメリカの若手女性芸術家たちのロールモデルとなり、彼女らにアドバイスを与える側になりはじめた。 印象派は解散し、印象派展覧会もすでに終了していたが、カサットはルノワール、モネ、ピサロを含む旧印象派メンバーたちと交流を続けた。 1891年、カサットはドライポイントやアクアチントを利用した版画作品の制作をはじめる。 代表的な作品は《女浴》や《髪型》である。 これらの版画作品は当時、パリではジャポニズム・ブームで浮世絵が流行していたこともあり、 浮世絵の影響がかなり大きい。 カサットは2年間でこの壁画制作プロジェクトを完成させた。 この壁画は三連画形式で制作された。 中央の絵画の主題は 《知識や科学の果実を奪い取る若い女性たち》である。 左側のパネルは 《名声を追求する若い女性たち》で、右側のパネルは 《芸術、音楽、ダンス》である。 三連壁画全体として、 女性の権利を確立し、男性との関係を離れた女性のコミュニティを表現している。 しかし、残念なことにこの壁画は博覧会終了後、建物が壊されたときに、保存されず消失してしまい、現存していない。 20世紀を迎えるとカサットは、 数人の美術コレクターのアドバイザーを勤めることになった。 コレクターたちが購入したものはアメリカの美術館に寄付することをすすめた。 アメリカのコレクターたちはカサットのアドバイスが購入の助けになったが、そのせいでカサットの絵の評価がアメリカでは遅れることになった。 カサット一家がアメリカへ帰ったあとでも、彼女はほとんど評価されず、全体的にペンシルバニア鉄道の社長をつとめて有名だった兄のため、影を薄めていた。 兄アレクサンダーは、1899年から1906年に死去するまで、ペンシルバニア鉄道の社長をつとめた。 1904年に、フランス政府はカサットにレジオンドヌール勲章を贈った。 1906年、カサットの兄アレクサンダーが亡くなる。 兄の死にショックを受けて制作の心が揺らいだが、1910年まで制作し続けた。 1900年代のカサット作品は以前よりも感情的になりはじめていた。 彼女の作品は一般庶民と批評家に人気が高かったが、もはや新しい芸術シーンで活躍する気力はなかった。 かつての仲間で刺激を与え、批評をしてくれた同僚、印象派のメンバーたちもほとんど亡くなっていた。 また、カサットは新しく出現した後期印象派、フォービスム、キュビスムといった前衛芸術に対して批判的だった。 1910年のエジプト旅行はカサットに古代の絵の美しさを印象づけた。 1911年、カサットは糖尿病、リウマチ、神経痛、白内障と診断された。 カサットは挫けはしなかったが、1914年以降、カサットは絵をやめた。 目がほとんど見えなくなったのだ。 1913年のアーモリー・ショーで彼女の作品が2点展示された。 両方とも母子を主題としたものだった。 このころには、絵は描けなくなったが、カサットは女性参政権(婦人参政権)の理想に向けて前進した。 1915年には、その運動を支援する展覧会に18作品を出品した。 カサットはパリに近いChateau de Beaufresneで、1926年6月14日に亡くなった。

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EXITりんたろー。衝撃告白!漏らさないように「女性用のやつを着けて…」収録中に着用した“あるもの”

ドガ が 描い た 女性

さんは、現在37歳の男性。 ビジュアルの美しさは、スタジオで目撃した若林が絶賛するほどだ。 ところが、中学3年生のころの写真を公開すると、これまたビックリ。 そんな彼が超人気V(ビジュアル)系バンドのメンバーを経て、予約がなかなか取れないカリスマエステティシャンになるまでの軌跡を見ていく。 それまでは小学5年生のころから引きこもり生活を送り、1日中ネットゲームとお菓子三昧。 そればかりか、風呂にも入らず、鏡すらめったに見ないという、いまとは180度違う日々だった。 ところが 深夜のテレビ番組で、伝説的V系バンド・を目撃し、自分のなかの価値観が崩壊する。 心のどこかで自分が生まれ変わるきっかけを探していたヒィロ少年は、「僕もこんな風に美しくなりたい!」という願望を抱いたのだ。 半年後の高校1年の夏には約25キロやせるほどのダイエットを行い、痩せたことで内面もポジティブに変化する。 音楽性でなく、とにかくビジュアル! 20代半ばでやっと、理想のメンバーを集めてのちに売れっ子となるバンドを結成したヒィロさん。 は、美を追求するヒィロさんの姿勢に共感しきり。 ヒィロさんが飲んでいたというサプリメントの話題になると、「僕、あのサプリ飲んだことあります」と明かす。 なんでもそのサプリは、「 摂取した油が全部おしりからでていく」そうで、無意識にパンツが汚れてしまうほどなのだとか。 そのため、 りんたろー。 はそのサプリを飲んだ際は、漏らさないように「女性用のやつとかを着けて、収録に臨んでいました」という。 この衝撃の告白にスタジオでは悲鳴が上がり、アナウンサーも目を丸くする。 さらに、りんたろー。 は美容通ならではのエピソードを明かし、オードリー若林に「もうすぐさんじゃん!」とツッコまれる。

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