あまたたび=副詞、何度も、たびたび あまた(数多)=副詞、たくさん、大勢 つゆばかり=副詞、「つゆばかり」の後に打消語(否定語)を伴って、「まったく~ない・少しも~ない」となる。 ここでは「なし」が打消語 たる=存続の助動詞「たり」の連体形、接続は連用形 気色(けしき)=名詞、様子、状態。 ありさま、態度、そぶり。 このように、何度もあれやこれやとするが、少しもあわてる様子がない。 希有 けう の人 かなと思ひて、十余町 ばかり 具して行く。 かな=詠嘆の終助詞 ばかり=副助詞、(程度)~ほど・ぐらい。 (限定)~だけ。 具し=サ変動詞「具す(ぐす)」の連用形、引き連れる、一緒に行く、伴う。 持っている。 珍しい人であるなあと(袴垂は)思って、十町あまりほど後をつけて行く。 さりとて あら ん や はと思ひて、刀を抜きて走りかかり たる時に、 さりとて(然りとて)=接続詞、そうかといって、だからといって、それにしても ん=意志の助動詞「む」の終止形が音便化したもの、接続は未然形。 ㋜推量・㋑意志・㋕勧誘・㋕仮定・㋓婉曲の五つの意味があるが、文末に来ると「㋜推量・㋑意志・㋕勧誘」のどれかである。 や=反語の係助詞、結びは連体形となる。 係り結び。 は=強調の係助詞。 現代語でもそうだが、疑問文を強調していうと反語となる。 「~か!(いや、そうじゃないだろう。 なので、「~やは・~かは」とあれば反語の可能性が高い。 たる=完了の助動詞「たり」の連体形、接続は連用形 そうかといってこのままでいられようかと思って、刀を抜いて走りかかった時に、 そのたび笛を吹きやみて、立ち返りて、「こは、何者 ぞ。 」と問ふに、心も失せて、我 にもあら で、ついゐ られ ぬ。 ぞ=強調の係助詞、あるいは終助詞 に=断定の助動詞「なり」の連用形、接続は体言・連体形 で=打消の接続助詞、接続は未然形。 られ=自発の助動詞「らる」の連用形、接続は未然形。 「る・らる」は「受身・尊敬・自発・可能」の四つの意味があり、「自発」の意味になるときはたいてい直前に「心情動詞(思う、笑う、嘆くなど)・知覚動詞(見る・知るなど)」があるので、それが識別のポイントである。 自発:「~せずにはいられない、自然と~される」 ぬ=完了の助動詞「ぬ」の終止形、接続は連用形 その時は笛を吹くのをやめて、振り返って、「お前は何者だ。 」と問うので、(袴垂は)呆然として、正気も失って、膝をついて座ってしまった。 また、「 いかなる者 ぞ。 」と問へ ば、今は逃ぐとも よも逃がさ じと おぼえ けれ ば、 いかなる=ナリ活用の形容動詞「いかなり」の連体形。 よも=副詞、下に打消推量の助動詞「じ」を伴って、「まさか~、よもや~、いくらなんでも~」。 じ=打消推量の助動詞「じ」の終止形、接続は未然形 おぼえ=ヤ行下二段動詞「思ゆ/覚ゆ(おぼゆ)」の連用形。 「ゆ」には受身・自発・可能の意味が含まれており、ここでは「自発」の意味で使われている。 また、「どういう者だ。 」と問うと、今は逃げようともよもや逃がしはするまいと思われたので、 「 引 ひ 剥 は ぎ に 候ふ。 」と言へ ば、「何者ぞ。 「追いはぎでございます。 」と言うと、「何者だ。 」と問うので、 「 字 あざな 、 袴 はかま 垂 だれ と なん言は れ 候ふ。 」と 答ふれ ば、 なん(なむ)=強調の係助詞、結びは連体形となる。 係り結び。 れ=受身の助動詞「る」の連用形、接続は未然形。 「る・らる」には「受身・尊敬・自発・可能」の四つの意味があるがここは文脈判断。 候ふ=補助動詞ハ行四段「候ふ(さうらふ)」の連体形、丁寧語。 係助詞「なん(なむ)」を受けて連体形となっている。 係り結び。 「通称は、袴垂と言われております。 」と答えると、 「 さ いふ者ありと聞くぞ。 あやふげに、 希有 けう のやつ かな。 」と言ひて、 さ=副詞、そう、その通りに、そのように。 いふ=ハ行四段動詞「言ふ」の連体形 かな=詠嘆の終助詞 「そういう者がいると聞いているぞ。 物騒で、とんでもない奴だなあ。 」と言って、 「ともに まうで来。 」と ばかり言ひかけて、また同じやうに笛吹きて行く。 まうで来(こ)=カ変動詞「参で来・詣で来(まうでく)」の命令形、「来」の謙譲語 ばかり=副助詞、(程度)~ほど・ぐらい。 (限定)~だけ。 「一緒について参れ。 」とだけ声をかけて、また同じように笛を吹いて行く。 この人の けしき、今は逃ぐとも よも逃がさ じと おぼえ けれ ば、 気色(けしき)=名詞、様子、状態。 ありさま、態度、そぶり。 よも=副詞、下に打消推量の助動詞「じ」を伴って、「まさか~、よもや~、いくらなんでも~」。 じ=打消推量の助動詞「じ」の終止形、接続は未然形 おぼえ=ヤ行下二段動詞「思ゆ/覚ゆ(おぼゆ)」の連用形。 「ゆ」には受身・自発・可能の意味が含まれており、ここでは「自発」の意味で使われている。 この人の様子は、今は逃げようともよもや逃がしはするまいと思われたので、 鬼に神取ら れ たるやうにて、ともに行くほどに、家に行き着き ぬ。 れ=受身の助動詞「る」の連用形、接続は未然形。 「る・らる」には「受身・尊敬・自発・可能」の四つの意味があるがここは文脈判断。 たる=完了の助動詞「たり」の連体形、接続は連用形 ぬ=完了の助動詞「ぬ」の終止形、接続は連用形 鬼に魂を取られたようになって、一緒に行くうちに、家に行き着いた。 いづこぞと思へ ば、摂津前司保昌といふ人 なり けり。 なり=断定の助動詞「なり」の連用形、接続は体言・連体形 けり=過去の助動詞「けり」の終止形、接続は連用形 どこかと思うと、摂津の前の国司であった 藤原保昌 ふじわらのやすまさ という人であった。 家のうちに呼び入れて、綿厚き衣一つを 給はりて、「衣の用あら ん時は、 参りて 申せ。 給はり=ラ行四段動詞「給はる・賜はる(たまはる)」の連用形、「与ふ」の尊敬語、お与えになる、くださる。 「受く・貰ふ」の謙譲語、いただく、頂戴する。 ん=仮定の助動詞「む」の連体形が音便化したもの、接続は未然形。 ㋜推量・㋑意志・㋕勧誘・㋕仮定・㋓婉曲の五つの意味があるが、文中に来ると「㋕仮定・㋓婉曲」のどちらかである。 訳: 「(もしも)着物が必要な時は、」 参り=ラ行四段動詞「参る」の連用形、「行く」の謙譲語 申せ=サ行四段動詞「申す」の命令形、「言ふ」の謙譲語 家の中に呼び入れて、綿の厚い着物一着をお与えになって、「着物が必要な時は、(ここに)参って申せ。 心も知ら ざら ん人に取りかかりて、 汝、あやまち す な。 」とあり し こそ、 あさましく、 むくつけく、恐ろしかり しか。 ざら=打消の助動詞「ず」の未然形、接続は未然形 ん=婉曲の助動詞「む」の連体形が音便化したもの、接続は未然形。 この「む」は、㋜推量・㋑意志・㋕勧誘・㋕仮定・㋓婉曲の五つの意味があるが、文中に来ると「㋕仮定・㋓婉曲」のどれかである。 直後に体言があると婉曲になりがち。 訳:「分からない (ような)人」 汝(な・なんぢ・なんじ)=名詞、おまえ す=サ変動詞「す」の終止形、する。 な=禁止の終助詞 し=過去の助動詞「き」の連体形、接続は連用形 こそ=強調の係助詞、結びは已然形となる。 係り結び。 あさましく=シク活用の形容詞「あさまし」の連用形、驚きあきれる、意外でびっくりすることだ。 あまりのことにあきれる。 なさけない。 むくつけく=ク活用の形容詞「むくつけし」の連用形、気味が悪い、不気味だ。 しか=過去の助動詞「き」の已然形、接続は連用形。 係助詞「こそ」を受けて已然形となっている。 係り結び。 気心も分からないような人に襲いかかって、おまえ、しくじるな。 」とあったのは、驚きあきれ、気味が悪く、恐ろしかった。 「 いみじかり し人のありさま なり。 」と、 捕 と らへ られて後、語り ける。 いみじかり=シク活用の形容詞「いみじ」の連用形、(いい意味でも悪い意味でも)程度がひどい、甚だしい、とても。 し=過去の助動詞「き」の連体形、接続は連用形 なり=断定の助動詞「なり」の終止形、接続は体言・連体形 られ=受身の助動詞「らる」の連用形、接続は未然形。 「る・らる」には「受身・尊敬・自発・可能」の四つの意味があるがここは文脈判断。 ける=過去の助動詞「けり」の連体形、接続は連用形 「とても立派な人の様子であった。 」と、捕らえられた後、(袴垂は)語ったということだ。
次の袴垂、保昌に会ふこと(「宇治拾遺物語」) 問題 袴垂、保昌に会ふこと(「宇治拾遺物語」) 問題 昔、袴垂とていみじき盗人の大将軍ありけり。 a 十月ばかりに衣の用ありければ、衣すこしまうけんとて、さるべき所々うかがひありきけるに、夜中ばかりに、人みなしづまりはててのち、月の朧なるに、衣あまた着たりける主の、指貫のそばはさみて、絹の狩衣めきたる着て、ただひとり笛吹きて、 b 行きもやらず、ねりゆけば、「あはれ、これ【 c 】、我に衣えさせんとて、出でたる人なめれ」と思ひて、走りかかりて衣をはがんと思ふに、あやしく物のおそろしく覚えければ、そひて二三町ばかりいけども、我に人こそつきたれと思ひたるけしきなし。 かやうにあまたたび、とざまかうざまするに、つゆばかりも騒ぎたる気色なし。 「希有の人かな」と思ひて、十余町ばかり具して行く。 「さりとてあらんやは」と思ひて、刀を抜きて走りかかりたる時に、そのたび笛を吹きやみて、立ち帰りて、「こは、何者ぞ」ととふに、心も失せて、 d 我にもあらで、ついゐられぬ。 又「いかなる者ぞ」ととへば、「今は逃ぐとも、よも逃がさじ」と覚えければ、「ひはぎに候ふ」といへば、「何者ぞ」ととへば、「あざな袴垂となん言はれ候ふ」と答ふれば、「さいふ者ありと聞くぞ。 あやふげに、希有のやつかな」と言ひて、「ともにまうで来」とばかり言ひかけて、又同じやうに笛吹きて行く。 この人の気色、今は逃ぐともよも逃がさじと覚えければ、鬼に神とられたるやうにて、ともに行く程に、家に行きつきぬ。 いづこぞと思へば、摂津前司保昌といふ人なりけり。 aQ1 家のうちに呼び入れて、綿あつき衣一つを給はりて、「衣の用あらん時は、参りて申せ。 心も知らざらん人にとりかかりて、汝あやまちすな」とありしこそ、あさましくむくつけく恐ろしかりしか。 aQ2 いみじかりし人のありさまなりと、とらへられて後、語りける。 問1 文中で撥音便化していて撥音が表記されていない語はどれか、その本来の形を記して答えなさい。 問2 a 十月の読み(異名)を現代仮名遣いのひらがなで記しなさい b 行きもやらず・d 我にもあらでを口語訳しなさい。 cの空欄に2字の助詞を記しなさい。 advanced Q. 1 aQ1 家のうちに呼び入れて、綿あつき衣一つを給はりて、「衣の用あらん時は、参りて申せ。 心も知らざらん人にとりかかりて、汝あやまちすな」とありしについて、保昌がそうしたのはなぜか説明しなさい。 advanced Q. 2 aQ2 いみじかりし人のありさまなりとは、ここでは具体的にはどういうさまを言うものか、15字程度で記しなさい。
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後編です!ゴールデンウィーク中に前・後編をお届けできて良かったです!連休はそんな感じで終わりました! 〈本文〉 走りかかりたる時に、そのたび笛を吹きやみて、立帰りて、「こは、なにものぞ。 」ととふに、心もうせて、我にもあらで、ついゐられぬ。 また「いかなる者ぞ。 」ととへば、今は、にぐとも、よもにがさじと覚えければ、「ひはぎにさぶらふ。 」といへば、「何ものぞ。 」ととへば、「あざな袴垂(はかまだれ)となんいはれさぶらふ。 」と答ふれば、「さいふ者ありときくぞ。 あやふげに、稀有(けう)のやつかな。 」といひて、「ともにまうでこ。 」とばかりいひかけて、またおなじやうに笛吹きてゆく。 この人のけしき、今はにぐともよもにがさじと覚えければ、鬼に神とられたるやうにて、ともに行程(いくほど)に、家に行きつきぬ。 いづこぞと思へば、攝津前司保昌(せっつぜんじやすまさ)といふ人なりけり。 家のうちによび入れて、綿あつき衣一(ひとつ)を給はりて、「きぬの用あらん時は、まゐりて申せ。 心もしらざらん人にとりかかりて、汝あやまちすな。 」とありしこそ、あさましくむくつけくおそろしかりしか。 いみじかりし人のありさまなりと、とらへられてのち、かたりける。 〈juppo〉前回の記事を投稿した際、大事なことを書こうと思っていて忘れていました。 町田市とその近隣にお住いの皆さんにお知らせです。 小田急線町田駅前にある、久美堂本店さんに私の本「高校古文こういう話」と「高校古文もっとこういう話」を置いていただけることになりました。 「どこで売ってるの?」と今までさんざん聞かれましたが、やっと適切な返答ができるようになりました。 久美堂さん、ありがとうございます! さて、満を持して強奪行為の実践に繰り出した袴垂ですが、結果的に襲えなかったと思ったら結果的に目的のものは手に入れ、結果的に結局その後は捕まってるんですね。 保昌に説得されて、その後無用な犯罪はしなくなったとかいうオチではないところが妙に現実的ですよね。 その後も懲りずに罪を犯し続けたのか、それまでにしていた罪を問われたのか、はこのお話からはわからないですけど。 そもそもが盗賊というキャラですから、そういう人がのうのうと世間を大手を振って生き延びることは出来ないのだ、という戒めも含んだ話なんでしょうか。 「鬼に神とられたる」の「鬼に神」は「鬼神」としている文もあるそうで、それだと鬼神に捕われたようになったということなので、鬼神とかいうクリーチャーを想像しなければならないところでした。 助かりました。 どっちにしても、鬼も神も今回絵にしていませんが。 新学期を迎えた皆さんこんにちは!ゴールデンウィークですね!! リクエストにお応えします。 〈本文〉 昔、袴垂(はかまだれ)とていみじき盗人の大将軍ありけり。 十月ばかりにきぬの用ありければ、衣(きぬ)すこしまうけんとて、さるべき所々うかがひありきケルに、夜中ばかりに、人みなしづまりはててのち、月の朧(おぼろ)なるに、きぬあまたきたりけるぬしの、指貫(さしぬき)のそばはさみて、きぬの狩衣(かりぎぬ)めきたるきて、ただひとり笛吹きて、ゆきもやらず、ねりゆけば、「あはれ、これこそ、我にきぬえさせんとて、出でたる人なめれ」と思ひて、走りかかりて衣をはがんと思ふに、あやしく物のおそろしく覚えければ、そひて二、三町ばかりいけども、我に人こそ付きたれと思ひたるけしきもなし。 いよいよ笛を吹きていけば、心みんと思ひて、足をたかくして走りよりたるに、笛を吹きながら見かへりたる気しき、取りかかるべくもおぼえざりければ走りのきぬ。 かやうにあまたたび、とざまかうざまにするに、露ばかりもさわぎたるけしきなし。 「稀有(けう)の人かな」と思ひて、十餘(よ)町ばかりぐして行く。 「さりとてあらんやは」と思ひて、刀をぬきて 〈juppo〉久しぶりに宇治拾遺物語です。 今回はネットでテキストを探すことなく、手元にあった角川文庫ソフィア『宇治拾遺物語』を参考にしました。 これです。 訳は載っていませんが、なんとなくで読めます。 今回は漫画にするのでいろいろ調べて訳しましたが。 袴垂という盗賊は、「袴垂保輔」とされることもあるそうですが、文庫の注釈には「別人」だとあります。 保輔はここに登場する保昌の弟だそうです。 保昌はまだ名乗られてないですね。 でもタイトルにあるので、当然この笛を吹いてる人が保昌ですよね。 「指貫のそば」を「指貫の股立」と訳してありますが、「股立って何さ」と思いながら訳してました。 袴に詳しい人なら現代でも常識な言葉なのかもしれません。 袴の腰の、脇のすき間が空いた部分のことなんですね。 そこを帯に挟んで裾を上げているということらしいです。 なぜそんなことをしているのかは、ナゾです。 多分歩きやすくするためでしょう。 夜道なので。 夜道を笛を吹きながら歩いている理由もナゾなんですよね。 風流な人はただ帰宅するのにも楽器を奏でながら歩いたんでしょうか。 今でいう鼻歌くらいな感じで。 そうやってゆるゆる歩いているだけなのに、襲おうとしても襲えない、身にまとう物のおそろしさがあるというんですね。 その、おいそれと手が出せない雰囲気が漫画に描ききれているとは到底思えないのですが、とてもそう思えないのに手が出せない恐ろしさ、なんてものがあるのだろうなと思ってください。 とは言え、このままただついて行くだけでは、と意を決した袴垂であります。 続きます。 そんなわけでゴールデンウィークに突入しましたね。 最近、平日が人並みに忙しいので、休みになったらあれこれしようと思いつつ、休みになると何にもしたくない症状に陥りそうです。 夕方の「カーネーション」の再放送を見ているうちに、沸々とミシン踏みたい気持ちにもなってくるのですけど。 宇治拾遺物語です。 〈本文〉 今は昔、小野篁(おののたかむら)といふ人おはしけり。 嵯峨(さが)の帝(みかど)の御時(おほんとき)に、内裏(だいり)に札を立てたりけるに、「無悪善」と書きたりけり。 帝、篁に、 「読め。 」と仰(おほ)せられたりければ、 「読みは読み候ひなん。 されどおそれにて候へば、え申し候はじ。 」と奏しければ、 「ただ申せ。 」とたびたび仰せられければ、 「さがなくてよからんと申して候ふぞ。 されば君を呪ひまいらせて候ふなり。 」と申しければ、 「おのれはなちては、たれか書かん。 」と仰せられければ、 「さればこそ、申し候はじとは申して候ひつれ。 」と申すに、帝、 「さて何も書きたらんものは、読みてんや。 」と仰せられければ、 「何にても読み候ひなん。 」と申しければ、片仮名の子(ね)文字を、十二書かせてたまひて、 「読め。 」と仰せられければ、 「ねこの子のこねこ、ししの子のこじし。 」と読みたりければ、帝ほほえませたまひて、ことなくてやみにけり。 〈juppo〉「仰せられければ」とタイプする度に、左手の小指と薬指がつりそうになります。 古文ではよく見ますが、〜と言ったので〜と言うと〜と言うので〜と言うと・・・と、ひたすら一文が続いています。 「子ってカタカナじゃないじゃん!」と思われたあなた、そうなんです。 皆さんご存じのように、ひらがな・カタカナは漢字をもとに作られた文字で、片仮名は漢文の送り仮名などに使うために作られました。 今私たちが使っている五十音のひらがな・カタカナは、明治時代に整理されたものなのですが、その中に「子」から出来た文字は入っていません。 整理されるまでには、他にもいろいろな漢字が仮名として使われていて、「子」もそのひとつなんです。 これを「変体仮名」といいます。 変態ではありません。 「子」は「こ・ね・し」と読むので、十二文字で「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読めるという、ナゾナゾです。 ちょっと待て、それって十二文字じゃないじゃん!と思われたあなた、計算が早いですね。 十二文字に「の」は含まれていないんです。 小野篁を「おののたかむら」と読むように、「の」は読む時に入ってくる音なんですね。 その小野篁と言う人は、平安時代の漢学者で歌人で書家だった人だそうです。 何でも良く分かってしまうと、あらぬ疑いをかけられてしまう、というお話でした。 あと1日で「子年」がやって来ます。 このブログの更新も、今年はこれで最後です。 始めてからまだ1年経っていませんが、とりあえず今日まで続けてこられて、ほっとしています。 立ち寄ってくれた皆さん、ブックマークしてくださった方、ありがとうございました。 来年も少しでも皆さんのお役にたてるよう、頑張って続けます。 来るべき子年が、皆さんにとって素晴らしい年でありますように。 それでは、良いお年を。 宇治拾遺物語、巻第三の六です。 〈本文〉 これも今は昔、絵仏師良秀といふありけり。 家の隣より火出できて、風おしおほひて責めければ、逃げ出でて大路(おほぢ)へ出でにけり。 人のかかする仏もおはしけり。 また衣(きぬ)着ぬ妻子(めこ)なども、さながら内にありけり。 それも知らず、ただ逃げ出でたるをことにして、向かひのつらに立てり。 見れば、すでに我が家に移りて、煙(けぶり)・炎くゆりけるまで、おほかた向かひのつらに立ちて眺めければ、「あさましきこと」とて、人ども来とぶらひけれど、騒がず。 「いかに」と人言ひければ、向かひに立ちて、家の焼くるを見て、うちうなづきて、時々笑ひけり。 「あはれ、しつるせうとくかな。 年ごろはわろくかきけるものかな」と言ふ時に、とぶらひに来たる者ども、「こはいかに、かくては立ち給へるぞ。 あさましきことかな。 物のつき給へるか」と言ひければ、「なんで物のつくべきぞ。 年ごろ不動尊の火炎をあしくかきけるなり。 今見れば、かうこそ燃えけれと、心得つるなり。 これこそせうとくよ。 この道をたてて世にあらんには、仏だによくかき奉(たてまつ)らば、百千(ももち)の家も出できなん。 わたうたちこそ、させる能もおはせねば、物をも惜しみ給へ」と言ひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。 その後にや、良秀がよぢり不動とて、今に人々めで合へり。 〈juppo〉ただ家が燃えてるだけの場面なので、ムリヤリ1ページに納めたら字だらけになってしまいました。 見ずらいですよね。 すみません。 天才というのは技巧を開眼するためには財産どころか家族も惜しまないという、いささか極端な話ですが、いつの時代も天才というのはちょっと変わった人のことだったりしますよね。 私もこうして絵を描くので、手本となる資料は必需品です。 動物とか魚の写真集も手元にありますが、職場が塾なので、結構教科書を見て描いていたりします。 ホントに最近の教科書って絵心があるんですよ。 カラーで写真も満載。 手元にないものは、以前は買ってしまったり図書館で借りたりしましたが、最近はもっぱらネットで検索!ですね。 キーワードを入力するだけでたいていの画像は捜し出せるのですから、便利な世の中になったものです。 良秀君もこの時代に生きていたら、家族を犠牲にすることはなかったのに。 いや、本当の芸術、本当の画というものはいつでも、何かを犠牲にしなければ残せないものなのかも知れませんが。 犠牲にしないまでも、それほどの覚悟がなければ。 宇治拾遺物語です。 〈本文〉 これも今は昔、比叡の山に児ありけり。 僧たち、宵(よひ)のつれづれに、「いざ、かいもちひせむ」と言ひけるを、この児、心寄せに聞きけり。 さりとて、しいださむを待ちて寝ざらむもわろかりなむと思ひて、片方(かたかた)に寄りて、寝たるよしにて、いでくるを待ちけるに、既にしいだしたるさまにて、ひしめき合ひたり。 この児、さだめておどろかさむずらむと、待ちいたるに、僧の、「もの申し候(さぶら)はむ。 おどろかせ給へ」と言ふを、うれしとは思へども、ただ一度にいらへむも、待ちけるかともぞ思ふとて、いま一声呼ばれていらへむと、念じて寝たるほどに、「や、な起こし奉(たてまつ)りそ。 幼き人は、寝入り給ひにけり」と言ふ声のしければ、あな、わびしと思ひて、いま一度起こせかしと、思ひ寝に聞けば、ひしひしと、ただ食ひに食ふ音のしければ、すべなくて、無期(むご)の後に、「えい」といらへたりければ、僧たち笑ふこと限りなし。 〈juppo〉ご無沙汰してしまいました。 今回は古文の教科書の一番最初に載っていることも多いのではないかと思われる、これまた基本中の基本的な作品です。 それなのに、なぜこれをさっさと描かなかったのかというと、ただ一言「面白くない」からです。 ぼたもちを食べたいのに、食べたい気持ちを悟られるのが恥ずかしくていろいろ苦悩した挙げ句、結局タイミングをはずして返事せざるを得なくなった児の奮闘ぶりが面白いわけですが、リアクション芸が当たり前の現代に、こうしたニュアンスで笑う話は微妙すぎて、どこで笑えばいいのか、正直わからない人が多いと思います。 「つまり、このオチのどこが面白いのかというと・・」と教壇で説明している全国の古文の先生方には、同情を禁じ得ないのであります。 「鎌倉時代にはこんなネタでどっかんどっかん来てたんだな」なんてことだけでもご理解いただければ、多少古文に近付いたということで、ご了承下さい。 あ、ところで「そら寝」とは寝たふりのことで、「そら」は「空」なのですが「何もないのにそんな気がする・それらしく振舞う」という意味があるんです。 要するに、「空耳〜」の「空」です。 宇治拾遺物語です。 〈本文〉 これも今は昔、いなかの児の比叡の山へ登りたりけるが、桜のめでたく咲きたりけるに、風のはげしく吹きけるを見て、この児のさめざめと泣きけるを見て、僧のやはら寄りて、「などかうは泣かせたまふぞ。 この花の散るを惜しう覚えさせたまふか。 桜ははかなきものにて、かく程なくうつろひさぶらふなり。 されども、さのみぞさぶらふ。 」と慰めければ、「桜の散らんは、あながちにいかがせん、苦しからず。 わが父(てて)の作りたる麦の花の散りて、実のいらざらん、思ふがわびしき。 」と言ひて、さくり上げてよよと泣きければ、うたてしやな。 〈juppo〉桜の季節ですし、新学期も近いので易しい作品にしました。 子供なのに風流な、と思って聞いてみたら予想外に現実的なことを言われてしまった、という話です。 「今は昔!」って定番のフレーズですよね。 『今昔物語』(平安時代)でもおなじみです。 『宇治拾遺物語』(鎌倉時代)ともども、伝承されていた説話を収めたもので、両者には重複している話もあるんですよ。 『宇治拾遺』は時代も下ってきて平易な文で読み易いので、興味のある方は他の話も読んでみて下さい。 読んでみると、およそ人の口を介して語り継がれ残っていく話というのは、「怖い話」「オチのある話」「下ネタ」に大別されるな、ということが分かります。 そういう訳で、今回のお話は略して「オチばな〜」でした。
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