下崎 神崎 ランチ やんわり 味。 スイカ 西瓜 すいかの旬 時期

『食べれて良かったと思いました。』by 食道者 : 大八うどん (だいはちうどん)

下崎 神崎 ランチ やんわり 味

翻弄される価値観 翌週の日曜日。 開店時間に少し遅れて、ザ・リッツ・カールトン東京45階のへ訪れた紗枝は、窓際の席で1人コーヒーを飲む喜多川の姿を見つけた。 「あの…喜多川、さん?」 恐る恐る声をかけると、喜多川は振り向くやいなや素っ頓狂な声をあげる。 「本当に来たの?時計返しに?あなたも頑固だねぇ〜。 あげるって言ってるんだから、おとなしく貰っておけばいいのに!」 「だって、こんな高価なものいただけません…」 そう言おうとする紗枝の言葉を遮りながら、喜多川は店員を呼び止めた。 「ブランチのコースもうひとつね。 僕と同じの」 店員にそう告げるや否や、喜多川は紗枝に断る暇も与えずに「座って」と椅子を引く。 相変わらず、こちらの都合はお構い無しというわけだ。 「改めまして、喜多川幸成です。 投資家してます」 「高木…紗枝です」 「紗枝ちゃんね、ヨロシク!」 時計を返してサッサと立ち去るつもりだったのに、なぜか一緒にテーブルについてのんきに自己紹介をしている。 気付けば出会った時と同じように、いつのまにか喜多川のペースだ。 だが、慎吾に休日出勤を装って家を出てきた手前、こうして他の男性と密会していることに対しての罪悪感もある。 紗枝は早く用件を済ませるべく、腕時計の入った赤い袋をテーブルの上に置いた。 「同棲してる彼氏に見つからないか、この1週間ヒヤヒヤしてたんです。 お返しします」 タチの悪いナンパを牽制する意味でも、きっぱりと彼氏がいることを伝えよう。 そう思って言った言葉だったが、喜多川はそこには反応しない。 「なんで彼氏に見つかっちゃいけないの?着けてるアクセサリーからして、紗枝ちゃんバリキャリかお嬢様でしょ。 200万の時計持ってても別におかしくないじゃない」 バスケットから選んだパンにスクランブルエッグを乗せながら、呑気に会話を楽しもうとする喜多川。 やんわりとした理由では、きっとまた押し切られてしまう。 そう感じた紗枝は、正直に自分が今置かれている状況について説明することにした。 「カードが止まって…、彼に借金を頼んでしまって…」 この二ヶ月弱の出来事を口に出して説明する行為は、自らの愚かさを手のひらに乗せてまじまじと見つめ直しているかのようだ。 できれば目を背けてしまいたい。 呆れているであろう喜多川の顔が直視できない。 「それで、浪費はやめるべきだって彼氏も言うので…、その通りだなと思って…。 買い物、やめたんです…」 どうにか話し終えた紗枝は、俯きながら口をつぐんだ。 でも、これで喜多川さんも納得がいったはず。 しかしながら、喜多川のリアクションはまたしても予想外のものだった。 真剣な面持ちで紗枝の言葉に耳を傾けていた喜多川は、突然こらえきれないと言った様子で吹き出し、爆笑し始めたのだ。 そして、ひとしきり笑い終わると、いかにもバカにしたような言い方で吐き捨てた。 「ああ〜、馬っ鹿らしい。 なんだよソイツ」 「馬鹿らしいって…私じゃなくて、彼氏がですか?」 怪訝な顔をする紗枝に、喜多川は楽しげに持論を展開し始める。 「そうだよ。 紗枝ちゃん、買い物はね、どんな買い物でも浪費じゃない。 消費だよ。 紗枝ちゃんが使ったお金は、誰かの所得になり税収にもなる。 動かすお金に無駄なんてないでしょ」 「それは…堅実な範疇でできることならそうでしょうけど…」 「その考え!それがそもそも間違ってると思うんだよな〜」 喜多川の弁舌は、一層の熱を帯びた。 「節約と貯蓄が美徳になってしまうとどうなる?消費が減る。 消費が減るから生産が減る。 生産が減るから所得が減る。 つまりね、お金使わないからお金がなくなるの。 そんな人ばっかりだとさ、当然GDPは下がり、税収も減り、消費税を上げられて、より貧困化する。 これじゃ国民総自殺状態だよね」 ポカンとする紗枝を見留めた喜多川は、紗枝の目を覗き込んで言った。 「つまりさ、カードが止まるほど買い物する紗枝ちゃん、大いに結構じゃない。 日本経済の発展に貢献する素晴らしい女性だよ。 逆にさ、消費をバカにするその彼氏、小物だな〜と思うね。 なんでそんなのと付き合ってるの?」.

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『食べれて良かったと思いました。』by 食道者 : 大八うどん (だいはちうどん)

下崎 神崎 ランチ やんわり 味

今日は受洗記念日。 日記はココログのブログを使ってて、mixiからもそのブログへ外部リンクをしていた。 mixiの日記にしたらなにか変わるのか?ちょっとためしにmixi日記にしてみる。 内容はココログといっしょのもの。 二重登録をする手間がけっこうたいへんだと思う。 (以前、ブログへ移行前、CGIの日記とブログを同時にやったけど早々にブログに一本化してしまった。 ) ところで、私は職場の自衛消防隊の救急班に属しているらしい。 いつのまにか誰かがそう決めたようだ。 救急班っていうと、野戦病院みたいなところで、てきぱきと働いている看護婦さんとか町内会の婦人たちを思い浮かべるが(?)、実際のところ救急班ってなにをするのかまだ<指令>は受けていなくてわからなかった。 ・・しかし、ついに、来週「AEDの使用方法の講習」を受けるようにという指示が来た。 それもビデオ視聴による座学と、実技の二回。 本来業務とは何の関係もないけど、こういう指示がくるところが会社。 でもAEDの使い方を知っていること自体は悪いことではないだろう。 いざというときに人助けができるかもしれない。 もっとも、その場になったら習ってても動転してなにもできないかもしれない。 習っててもできないかもしれないけど、習ってなかったら、ほんとになにもできないだろうから、教えてもらえる機会はありがたいことだと思う。 ということで、来週になったら、わたしのことを、皆さん、ナイチンゲールと呼んでください(?!) 写真は先般行った松江の早朝の風景。 宍道湖に流れ込む川と、宍道湖。 ・・・それは半分真実で、半分そうでない。 信仰をどう捉えるか、救いをどう考えるかによる。 世界中どこでもそうだろうが、特に日本には信仰や救いに対して誤解をしている人が多い。 救いを、ただなにか平安な安らかな境地にいたることとか、悟りを開くとか、あるいは大きな何かに帰依して思考停止してしまうことと考えるような感覚があるのではないか。 しかし、むしろ信仰とはあらたな自己との戦いを招くものである。 フランクルのいう「苦しみを苦しみぬく」地平にでていくことである。 けっして平安でもなければ、思考停止でもない。 (関係ないけど、昨日の岡井隆歌集批評会での大方の、フランクルのfinisの理解はやや読み違えではなかったかと思う。 人間がトリックとしてつくったfinisなど生き抜く力にはなりはしないというのがフランクルの主旨だと思う。 『夜と霧』だけではわかりにくいけど、他のフランクルの本を読むとそのあたりはよくわかる。 ) 信仰を持つとは、よりドロドロした自己や世界と向き合うことである。 清らかな安らかな世界はむしろ消え果るのである。 その現実のなかで、心置きなく<苦しめる自由>を人は得ることができるのである。 その自由において人ははじめて解放されるのではないか。 でも、多くの人にとって、・・・特に優秀で創造的な人にとって、信仰とは愚かしいことである。 人間や世界の真実から目をそらす行為に見えるだろう。 パウロは、当時の先進国であり、文明都市アテネの知識人から冷笑をもって迎えられる。 「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と。 たしかにギリシア・ローマには高い文化があったわけで、すばらしい美もあった。 でも、それは<いずれまた>という言葉の先についに廃墟に至った美ではなかったのか。 もちろんキリスト教文化も人間が作り出したものである以上、永遠ではないのだが。 しかし、<いずれまた>と人間が言うとき、その先にあるものはなんなのか、私はよくよく考えてみたいと思っている。 午前中、京都の京大近くの教会で礼拝。 いま通っている教会の牧師先生から紹介されていったのだけど、「左岸の会」の歌会のとき何回も通っていたはずの道にその教会があってびっくりした。 あそこが教会だったとはしらなかった。 ちなみに京大近辺は教会密集区で徒歩圏内に4,5教会あるようだ。 わたしがこれまで所属した教会も、今日のように所属外教会へ一見さん的にいった先も、基本的に、同じ教団の教会だったのだけど、今日はじめて、教団外、つまり別教派の教会に行った。 でもやっぱり同じプロテスタントで、しかも牧師先生が紹介されたところでもあり、礼拝の進め方とか雰囲気は変わらなかった。 ただ、礼拝堂に十字架がなく、ちょっとびっくりした。 プロテスタントで十字架すら偶像崇拝ということでつけない教会があるとは聞いていたけど、実際にそういう教会を見たのは初めてだった。 私は首に十字架のネックレスをしていたのだけど、おもわず、ネックレスを隠してしまった・・・ 午後から京大会館で岡井隆歌集批評会。 『二〇〇六年水無月のころ』と『家常茶飯』の二歌集。 前半、『二〇〇六年水無月のころ』は吉川宏志さんと私が報告担当。 後半、『家常茶飯』は吉野亜矢さんと永田淳さんが報告担当。 『二〇〇六年水無月のころ』は吉川さんは「寂しい感じがする」といっておられたけど、たしかに過去や現在や死者の記憶が交錯する中で、なにか茫漠とした心象風景みたいなものが感じられる歌集であった。 歌集とは別に、休憩時間に信仰のことについて岡井さんに質問したりした会話が印象的だった。 祈りの始め、皆、どういう言葉ではじめるかというとプロテスタントの場合、さまざまで(教派、教団によっては定型的なものがあるのかもしれませんが)、ある人は「愛する天のお父様」と呼びかける。 またある人は、「愛し奉る御在天の御父」と呼びかける。 若い方がジーンズ姿で「愛する天のおとおさまー」というときはほんとにフランクで軽やか。 いっぽう、年配の方が、きっちりと姿勢を正し背広姿で「愛し奉る御在天の・・」というと粛然とした感じ。 「愛する天のおとおさまー」と「愛し奉る御在天の御父」では内容は一緒でも、ニュアンスというか文体が違う。 穂村弘と齋藤茂吉くらい違う。 違うからどうってこもないのだけど。 私自身はどう祈りを始めるかというと、どっちかというと固い<文体>。 「主イエスキリストの御父にして御在天の神様」。 もともとあまり決まっていなかったのが、加藤常昭の『祈り』という本を読んで、なんとなくこういう始まりがいいなあと思って最近はこうしている。 でももう少しフランクなほうがいいかもしれないとも感じる。 一方、祈りの終りはどうか、というと、これもさまざま。 「愛するイエス様のお名前によって祈ります」という方もあれば、「主イエスキリストの御名を通して祈ります」もある。 で、私自身の祈りの終わり方はどうかというと、これがまた固い<文体>。 「主イエスキリストの御名を通して あるいは「御名のもと」に)御前に捧げます」。 この終わり方をなぜするようになったかは私には記憶がない。 でも最近祈祷会などで他の方の祈りを聞いていたら、こういう風に祈る人はいないことに、はた、と気がついた。 自分で意図的に選択した記憶がない以上、おそらくどこかで聞くか習うかしたのであって、そもそもどう考えても、自分が編み出した<文体>ではない。 ごく自然に考えられるのは母教会もしくは母教会で当時の牧師先生からうけた聖書入門講座のときに教わったということである。 でも、受洗前、たしかに祈りの意味とか、罪ある人間は神様への仲介者・とりなし役のイエス様を通して祈りは神様に捧げるものなので、かならず、「イエス様を通して」とか「イエス様のお名前によって」みたいなことを祈りの最後につけないといけない、ということは習った記憶があるのだが、あの祈りの終りの言葉まで具体的に習ったかどうか定かではない。 いったいどこで習ったかなあ??? どうも気になりだすと気になってしょうがない。 現在、私の周りでは私以外にこういう風に祈りを終わる人はいないし・・。 で、思い切って、私に洗礼を授けてくださった、つまり聖書入門講座をしてくださったK牧師先生に質問メールを出した。 「主イエスキリストの御名を通して御前に捧げます、という祈りは習いましたでしょうか?」。 ) 返事、「主イエスキリストの・・・捧げます」は、牧師先生自身の祈りと母教会の方の祈りから来ているとのこと。 そうかそうかやはり最初の牧師先生や教会の人たちのなかでいつのまにか覚えていたのだ。 「知らず知らずのうちに身についていた」というのはなんだか嬉しい。 今は母教会を離れているのだけど、祈りという基本的なところで母教会の<文体>が身についていると考えると、なにかほっとする。 「神に期待する人は祈ります。 神に期待しない人は祈りません。 (頌栄教会説教メッセージより)」 一年半ほど前まで直属の上司だった方がご定年ということで、今日は感謝の会。 こじんまりとした良い会だった。 数年前まで感謝の会は盛大に行われていたようだけど、昨今の時流として、こじんまりとやるみたいだ。 (団塊の世代の大量定年時代を迎えたから?) 私自身は、長くソフト開発の部署にいたせいか、部署の構成年代が若く、実は直属だった上司が定年退職で送るという経験はなかった。 今回初めて。 で、余計感慨が深かった。 その会で何人かの方がスピーチをされて聞いていたら、急に司会者の方が「いつも 主賓と)いっしょに昼食に行ってまして、そのときよく名前が出てくる吉浦さん」とスピーチをふってこられてびっくり。 いくらこじんまりとはいえ、部門長も出席している会。 事前に聞いてないし・・あわわ、と思いつつ、どうにかスピーチをする。 Aさんのこれからの人生に豊かなめぐみと新しい輝きがありますように。 そのあれこれのなか、新大阪でふと用事を思い出し急遽、梅田に行くことに。 思い立ったものの、地下鉄の改札を入ったところでふと気づく。 新大阪は自宅から徒歩圏内なんで、格好が、「近所のスーパーに行く」ってな格好。 新大阪だって、駅近辺は、ビジネス街で、平日の昼間はそれなりの格好をしたサラリーマン・OLがいるというのに、私は、素足にサンダル。 それももちろん、おしゃれな素足+サンダルにあらず。 新大阪でもラフすぎる格好で、御堂筋線に乗って、大阪のキタの中心地へ~。 ま、いいかー。 誰にも会わなかったのが幸いだった。。。。。 批評会に備えて、参考文献として、『イエスとはなにか』を読み直したけど、このなかの岡井氏の茂吉の歌(「オリーブの油のごとき悲しみ・・・」)の解釈がどうかなあと感じた。 週末の慌しい松江行きの疲れのせいか体調いまひとつ。 体調がすぐれないと気分も低調。 その低調な気分で信仰に関して、あれこれと思う。 ちょっと嫌な感じ。 I牧師が大阪を去られる前に言われたこと。 「吉浦さんは、教会ではずっと孤独かもしれないよ。 」 「クリスチャンにはだれにでも神様から招かれた<理由>がひとりひとり個別にあって、吉浦さんの場合は、その<理由>がひょっとしたら 教会の)人と交わるようなことを要しないことかもしれない。 そうだとしたら、吉浦さんはどこの教会に行ってもおそらくずっと孤独だと思う。 でも孤独だったり理解されなかったとしても、<理由>に沿った信仰生活を送っていれば神様との関係は良好で自分自身もすごくハッピーだし、孤独であっても元気でいられる。 僕だってそう。 」 うーん、わかるんだけどねぇ。。。。。 もうすぐ受洗記念日。 受洗して三年になる。 ひさしぶりにお会いしたI牧師が「松江のみなさんはとても礼儀正しくて、道で会っても、きちんと立ち止まりきっちりととても丁寧に挨拶をされるんだよ」、と言われていた。 ふーんと聞いていたら、実際、松江の教会で体験。 松江の教会の御夫人が「ようこそいらっしゃいました」とお辞儀されるので、「あ、どうもこちらこそ、今日はありがとうございます」とわたしもそれなりに丁重にお辞儀をして、顔を上げると、まだ頭を下げておられる。 ちょっと待ってもまだその方は頭を上げられない。 たしかに丁重だ~。 『生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか?』 ハイデルベルグ信仰問答の問いの1番目である。 <慰め>というと、日本語の語感としてあまりよろしくない。 「なぐさめなんてよしてくれ」とか「そんなのはなぐさめに過ぎない」という感じで、気休めとか、みじめさを哀れんでなぐさめるというような感覚がある。 加藤常昭の『ハイデルベルグ信仰問答講話』には<慰め>の説明として、なぐさめの語源に、「和む」という言葉がある、ということから書きおこしてある。 苦しみや辛さでかじかんだ心、皺ばんだ心の皺が、伸びて、平和がある状態が「和む」、慰めがある、ということである、と。 語源はともかく、たしかに和む・・・<慰め>というのはあるのである。 和まない状態、苦しみや問題がある状態というのも、在るのも事実である。 そして人間から苦しみや問題が奇跡的に取り去られることは、ない。 (あったとしてもそれは例外的なこと) むしろ苦しみや問題が取り去られるのではなく、それらを通じてこそ、人は導かれる。 (これはフランクルの説でもある。 ) そのなかにおいて、やはり<慰め>というのはあるんだと思う。 生きている時も死ぬ時もただ一つの慰めが。 苦しみや問題のただなかにおいてもやはり人は慰められるのである。 『生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか?』 この問いそのものが深い慰めでもある。 ひと駅ほど歩いて、ミニ出張。 日傘をさして、20分弱歩く。 狭い道路沿いの雑駁な歩道をただひたすらてくてくと。 郵便局、葬儀会館、パチンコ屋などの前を通る。 社用の貸し出し自転車があるのだけど、貸し出し自転車は、背の低い足の短い私にはサドルを一番下まで下げても、ちょっと高い。 サドルを跨いだ状態で、ぎりぎり足は地に着くのだけど、ちょっと不安。 だから近隣へのミニ出張はだいたい徒歩。 ま、暑すぎず寒すぎない今頃は、よい散歩でもある。 打ち合わせが終わって、わたし以外の人たちは、まだ残件があるようで、私は「お先に~」と、出張先を出て、職場に向かう。 また日傘差して、てくてく。 パチンコ屋、葬儀会館、郵便局を過ぎ、そろそろ開店の焼き鳥屋の前も過ぎ、職場に近づいたころ、「あ、いたいた~」といって、残件で残っていた自転車組がやってきた。 「あ、どうもどうも」と答える私を「じゃあお先に~」と追い越していく。 社用自転車を使わず、いつも徒歩の私は、どうも職場では自転車に乗れない人、と思われているらしい。 乗れないことはないのだ。 なにわ自転車道を25分走って教会にも行っているのだし。 そういえば昨日、礼拝の帰り、鉄人ランナー牧師が、私の自転車姿をみて、「吉浦さん、もう少しサドル上げてもいいと思うんだけどねぇ・・・」と言っておられた。 「このくらい低くないと不安で・・」という私に「うーん」という感じ。 ま、きっと折をみて、いつか牧師先生がサドルの高さを高めに調節してくださるだろう。 そしたら高いサドルにも慣れて、そのうち職場でも自転車デビューできるかもしれない。 どうにか『短歌人』の例月作品を出し、『鱧と水仙』の推敲・清書着手。 午前中、礼拝。 先週は雨で、かつ礼拝後、歌会に行く予定があったので電車で行ったが、今週はできれば自転車でいきたいところ。 しかし、朝、起き抜けに空を見るとなんかどんより。 むむ、天気がやばいかな?ケータイの情報サービスの天気予報を見ると「晴れのち雨」。 行きは大丈夫そうだけど帰りは雨?雨の中、カッパ着て30分走る根性はまだ、ない。 新聞の天気欄には「晴れ」。 あれ?どっちや。 晴れるのか降るのか、はっきりしてほしい。 結局WEBの天気予報でも晴れっぽかったので、自転車でGO。 今日も神崎川沿いのなにわ自転車道を走る。 自転車道脇の道にシロツメクサの花が咲いている。 帰りは向かい風でサンバイザーが二回吹き飛ばされ、うち一回はサンバイザーを拾いに自転車を降りた間に自転車も転倒。 めげずにシロツメクサの写真を撮る。 行き25分、帰り27分(転倒復帰、写真撮影時間込み)。 鉄人ランナー牧師が、「ママチャリで25分」というタイムにどうにかおさまってきた。 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。 詩編139. 9-10 If I rise on the wings of the dawn, if I settle on the far side of the sea, even there your hand will guide me, your right hand will hold me fast. Psalms 139. (あんまり花見えない・・・? 「551の豚まん」も好き。 昨日、会社の帰り、自宅最寄駅で降りる直前、電車の中の「551の豚まん」の広告を見たら「551の豚まん」が食べたくなってしまった。 うー、食べたい食べたい。 しかし、うーむ、もう一つ前駅だったら「551の豚まん」が売ってあったのに・・・。 さすがに連休明けの仕事はじめで疲れているのに戻って買いに行く気にはならない。。。。 あー、しかし、「551の豚まん」食べたーい。 あの健康に悪そうなくらいじとーっと油が沁み出しているこってり感、なんとなくしつこい味。 それがたまにほんとに無性に食べたくなるのだ。 で、今日になって、すっかり「551の豚まん」のことは忘れていたが、帰りの電車で最寄駅の一つ手前の駅についたとき、急に「551の豚まん」のことを思い出した。 降りて買いにいこうかな?でも地下鉄から「551」の売り場まで結構遠いんだよなあ・・と一瞬迷ったけど、いややっぱり食べたい!と思って下車。 一路、「551」へ。 じとーと油の沁み出た、しつこい味の「551の豚まん」ゲット。 これでいっしょにビールを飲めば、カロリーも高く、健康にも悪そうだけど、やっぱり豚まんにはビールだよなあ、と思って、帰宅して、ビールと豚まんいただきました。 パラダイス~。 スーパーに置きある籠を抱へつつあゆむわたくし平凡のゆふぐれ 『薫樹』 森岡貞香 連休最終日は雨。 礼拝ののち、短歌人の歌会へ。 なんだか帰ってきたらすごーく疲れている。 なぜ???と考えたら、ゆうべ睡眠不足だったのだ。 普段は特に不眠症ではないのだが、数ヶ月にいっぺんくらい眠れないことがあって、ゆうべが、そう。 普段に比べあまり体力的な消耗がない一日で体がさほど疲れていないところに、いっきに本を読んで、頭が妙にぎんぎんに冴え渡ってしまった状態。 でも昼間はぜんぜん大丈夫で寝不足ということを忘れていたのだが、帰宅後、がっくり・・。 今日はきっとよく眠れるだろう。 ああ、明日から仕事。 夜深沈(イエシエンチェン)夜深沈(イエシエンチェン)と雨がふる とりのこされたふたりのために 『環状線のモンスター』 加藤治郎 今日は英語もキャンセルして(今月末TOEIC受ける予定なのにいいのか・・・ -"- )、本を読んだりゴロゴロして過ごす。 うち一冊が『夜と霧』(V. フランクル 池田香代子訳)。 『二〇〇六年 水無月のころ』にしばしば引用されているので読んでみた。 もっとも『二〇〇六年・・・』では霜山徳爾訳が引用されているが、読んだのは池田訳。 実は霜山訳版は昔々買ってて我が家のどこかにあるはずだが、失踪中 -"-。 仕方ないので、もったいないけどもう一冊買ってしまった。 せっかく買うなら、別の訳でということで新訳にしたのである。 批評会までにできれば霜山訳版が発掘できれば、と思う。 もっとも霜山訳は、昔、買ってはみたものの、挿入されていた収容所とかホロコースト現場の写真やら、後ろに方に載っていたガス室の描写があまりに怖くて、ほとんど本文は読まなかった。 ただV. フランクル自体は昨年、別の本を何冊か読んでいたので、むかしの恐怖感はなく、今回は『夜と霧』本文をすんなりと読めた。 明日は礼拝と短歌人の歌会で、もう<普通の週末>。 ひとまず元気で過ごせてよかった。 感謝感謝。 ある意味で老いとは強制収容所である齢(よはひ)とは即「ユダヤ」なのだ 『二〇〇六年 水無月のころ』 岡井隆 いかにも岡井的な「夜と霧」。 今日明日は家でゆっくり過ごす予定。 ひとまず『鱧と水仙』のエッセイと短歌を書いた。 エッセイは、ほぼこれで送るつもりで、短歌は数日寝かせてから数を絞って推敲予定。 いつも締め切りに遅れて迷惑をおかけしているので今回こそは急いで、というのもあるけど、テーマがテーマだけに一気に書き上げないとダメのようにも思う。 そうこうしているうちに短歌人の締め切り・・。 信仰上の(でもたぶん本質ではない)ことを書きたいのだけど、どう書いていいのかよくわからない。 私自身、締め切り遅れたり、とんでもなく人に迷惑かけているわけで、無茶苦茶な人間である。 わたしほどでないにしても、だれにだって多かれ少なかれ欠点やら心がけのよろしくないところがある。 ただ、そういう人間的な欠けの問題としてだけ捉えていいのかどうかわからないことがある。 ひとつには、あまりに教会内の政治的なことに意識を向けすぎる人。 もうひとつには、自己努力型信仰(つまり態度論)の人。 こういう人に対してはその人の信仰の本質がどうなのか?という思いが往々にして湧く。 前者に対しては、本人がそういうことに関心があるのなら本人だけで勝手にやってくれたらいいのだけど、往々にしてこういう人は人を巻き込む。 でもそういうことばかりに目が行っている人は、話をしていると、どことなく屈折していて、人の批判を多く言うし、なにより本人が救われていないなあと感じることが多い。 努力もされているようだ。 しかしそういう人はだいたい<自己努力型>、<心がけによる信仰>であることが多い。 心がけや態度は確かに大事だけど(特に私などは)、このタイプの人の場合、まずもって、<神との関係性において>、神から罪を指し示され、悔い改める、という点が欠落していることがある。 こういっては申し訳ないのだけど、こういうタイプの人はおそらくもっとも その人にとって)重要な罪に鈍感だったりすることがある。 もちろん、もっとも重要な罪に気がつかないのは、だれでもそうなのである。 神様との関係において、自己努力では気づかない罪の深さとそれに対する救いを知ることが一番大事と思うのだけど、自己努力の人は自分の努力ですでに充足している。 自分は日々100%悔い改めていると胸をはる。 確かに日々の悔い改めは自己努力・自己判断で行うものだけど、それだけで充足してそれ以上を求めないのは不幸だ。 充足したとき、神様との関係は実際のところ希薄になるのだろうと思う。 この両者のタイプいずれからも、けっこうわたしは意識的無意識的に揺さぶりをかけられたように感じる。 揺さぶられる私も揺さぶるほうも信仰的に不幸である。 ただ、神様はときに厳しい方ではあるけど、わたし自身に非があったとしても、けっしてわたしを暗い方向、否定的な方向へ向かわせるようなお方ではない。 だから揺さぶりがあったとして、一時的にはどうであれ、のちのちまで、なにか暗い思いや自分が否定されたような感じを持つようなときは、神様からきたものではない、と判断してとりあえず切り捨てていいのではないかと思う。 もちろんその判断が間違っていたら、すみやかに違う形で気づかせられるだろう。 わたしはあなたたちを造った。 わたしが担い、背負い、救い出す。 イザヤ46. 4 I have made you and I will carry you; I will sustain you and I will rescue you. Isaiah 46. 包丁の方言らしい。 茄子を切ったというだけの歌だけど、さくさくとした感じがいかにも、いい。 昨日行ったロダン展。 前の日のダリ展と違い、ほどよい人出。 美術の専門家ではないので、圧倒的な力感のあるヴィクトル・ユゴーなどに、ほぇーと単純に感嘆したりしたのみであるが。 この展示会は、「白と黒の新しい世界」というサブテーマをもつテーマ展だった。 よく知られているブロンズ作品<黒>に対して、石膏・大理石の作品、つまり<白>の作品にも焦点を当てたものである。 上記の圧倒的な力感のある<黒>の作品にもほぇーとは思ったのだけど、「パンセ」とか「眠り」といった白い静謐な作品にも心がひかれた。 ほとんど石の中に実体が埋もれているかのような「フナイユ夫人、手で支えられた頭部」もとてもよかった。 口あけて怒る<カレーの市民>達たをたをと倭のしめりは濡らす 『バルサの翼』 小池光 『ロダン展』の帰り道、つつじの花が道に落ちていました。 **** 今日は、J2のサッカー、セレッソ大阪対徳島ヴォルティスの試合見に行きました。 うーむ、これについては、なーんも書くことないなあ。 なかなか良い試合だったようで、サッカーが好きなら楽しめただろうと思う。 門外漢で、妙な年齢の、熱烈ファンというわけでもなさそうなおばさんが一人観戦してるって異様だろうなあ。 なんか修行のような90分だった。 長居第二競技場。 長居スタジアムでなくて、第二競技場というところがミソ。 本日の入場者数は6611人だったとか。 おととい『ダリ展』、昨日『ロダン展』&JRの喧嘩騒ぎ、自分にしては飛ばしている題詠マラソン、基調報告のために力瘤で読んでいる『二〇〇六年 水無月のころ』・・・・なんかそんなこんなで、ちょっと疲れているかもしれない。 ふぇー、サッカーなんてテレビでも観ないのになあ。 四年にいっぺんのオリンピックだってほとんど観ない。 それがなぜJ2?。 ま、『鱧と水仙』をお楽しみに。 あけぼのにはくスリッパの右左一色欠けし虹のあはれさ 『二〇〇六年 水無月のころ』岡井隆 今日は、灘まで『ロダン展』を見に行ったのだけど、そのことは別途書く。 ここで書きたいのはその帰りのこと。 灘駅から大阪駅までJRに乗ったのだけど、そのJR車内で乗客同士の喧嘩が勃発。 列車が遅れた。 私が降りた大阪駅のホームに6分遅れと表示されていたけど、途中はもっと遅れていたのではないか? 私は一両目の後ろのほうにいて、灘から何駅目かは忘れたけど、前方から男の怒鳴り声が響き出した。 「ケータイ、切らんかぃ!ATSが動かんくなるやろぅ」と執拗に繰り返す。 やや年配の男性が若い人に絡んでいる感じ。 しかも尋常ではなく、あきらかに暴力沙汰になっている感じ。 けっこう混んだ車内で前方は見えなかったのだけど、車両内全体緊迫した雰囲気。 殴り合っている感じ。 一両目のそれも前のほうで起こっていることで、運転手は把握しているのではないかと思ったが、一向に車掌さんが飛んでくる雰囲気でもない。 怒鳴り声ともみ合っている感じは伝わってきて、非常に怖かった。 それがしばらく続き、車掌さんを呼びに行ったほうがいいのかなあと私はおろおろどきどきするばかりで、どうしようもなく、とりあえず隣の席で、怒鳴り声に頓着せず、ケータイでキャッキャ喋っている女子高生らしき女の子の肩を叩いて、「ケータイのことで前のほうでもめているみたいだから、ケータイ切ったほうがいいよ」とお伝えしたのみ -"-。 次の駅に着いて、扉が開いたとき、・・・・まだ日本も捨てたもんではないというか、スーツ姿の50代とおぼしき男性の乗客二人が喧嘩している二人を引き離し、それぞれホームに引きずり出してくださった。 す、すごい。 電車内のトラブルに親切心で関わった人が命を落とすこともあるような昨今、この二人の壮年男性の振る舞いは素晴らしかった。 素晴らしくないのは、JR西日本で、乗客二人がせっかく他の乗客の安全確保のために力を出してくださったにも関わらず、ホームに、すぐ駅職員なり鉄道警察なりが駆けつけるかと思ったら、ぜんぜん来ない。 運転手か車掌さんか知らないけど、制服姿の一名と、喧嘩している二人だけがホームにいて、不穏な雰囲気。 しかも状況を知らされていないホームで待っていた数名の客もおろおろしている感じ。 で、あいかわらず年配の男性は怒鳴っているし、若者もなにか言っている。 案の定、またホームで殴りあいになってしまった。 しかも電車は扉を開いて止まったまま。 車内には「ただいま一両目のお客様同士でトラブルが発生し、発車が遅れてます」というアナウンスのみ。 隣の女子高生はホームで殴りあっている様子をみて「キャ、首と口が赤い~」とか騒いでいたけど、私は怖くてほとんどホームのほうを見れなかった。 ようやく数名の制服を着た人が駆けつけて、やれやれと思ったけど、しばらく実況検分?みたいな感じで、やっぱり電車は動かない。 車内にふたたびアナウンス。 「お客様同士のトラブルが発生し、只今、確認中で発車が遅れております」。 数分後、ようやく電車は発車したけど、どうにも納得がいかない。 結果的にはアルコールが入っていたらしいおっさんと短気な若者の揉め事にはすぎなかったようだし、遅れの時間もたいしたことではなかったが、JR西日本の対応には私はすごく不安を感じた。 二年前、まさにあの100名以上が亡くなる大事故を起こした路線での出来事だし。 車内でトラブルが起きたとき、なぜ車掌がすぐ駆けつけなかったのか?ホームに当事者が出されたとき、なぜすぐに職員もしくは鉄道警察が駆けつけなかったのか?(運転手がトラブルに気がつき次の停車駅に事前に連絡するとかできなかったのか?) 酔っ払いと若者の喧嘩にすぎないといっても、もしどちらかが刃物でも持っていたとしたらどうするつもりだったのか?そもそも刃物がなかったとしても、他の乗客にトラブルが及ばなかった保障はなかったはずだ。 勇気ある乗客がふたりをホームに引っ張り出してくださったからよかったものの、そうでなかったらどうなっていたのか? 結局、JR車内で、事件が起こっても、JRの対応は極めて悪く、乗客は自分で自分の身を守るしかないのである。 どの鉄道会社の列車内でも起こりうるトラブルであって、JRだけが対応が悪いわけではないのかもしれない。 だが、二年前のあの事故と重ね合わせるとき、少なくともJR西日本には乗客を守る意識とかリスクを回避する意欲はきわめて乏しいと感じた今日の出来事であった。 女性ばかり4人でランチ。 大阪港近くのトレードセンターへ。 あいにくの小雨模様だったが49Fからの眺めはなかなかよかった。 食事がすみ、解散後は、ひとりで天保山のサントリーミュージアムの「ダリ展」へ。 むっちゃくちゃ混んでて、ぜーんぜん前に進まない。 なんじゃこりゃあ、ダリってこんな人気があったわけ??わたしはあんまりダリは好きじゃないけど、まあ近くに来たからということで軽い気持ちで寄ったのだけど・・・。 こんな大混雑ならこなけりゃよかった、とちょっと後悔。 去年かおととし行った、ルーブル展もすごかったけど、あれより人の流れが悪くてほんとに観るのがしんどかった。 展示自体は、絵画、オブジェ、デザイン等々広範な活動の軌跡を一堂に展示してあって、たいへん充実したものだったように思う。 内容が充実しているのと、大混雑で、見終えるのにものすごく時間がかかって会場でるころには、クタクタ。 足がまさに棒状態。 自転車でがんがん一時間飛ばすより疲れたぞ -"-。 個人的には絵画よりむしろ広告とかのデザインのほうが好きだった。 49Fなのだけど、周りにあまり建物がないせいか、あまり高さを感じない。

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[湖]湖蓮日日(これんにちにち): 2007年5月

下崎 神崎 ランチ やんわり 味

翻弄される価値観 翌週の日曜日。 開店時間に少し遅れて、ザ・リッツ・カールトン東京45階のへ訪れた紗枝は、窓際の席で1人コーヒーを飲む喜多川の姿を見つけた。 「あの…喜多川、さん?」 恐る恐る声をかけると、喜多川は振り向くやいなや素っ頓狂な声をあげる。 「本当に来たの?時計返しに?あなたも頑固だねぇ〜。 あげるって言ってるんだから、おとなしく貰っておけばいいのに!」 「だって、こんな高価なものいただけません…」 そう言おうとする紗枝の言葉を遮りながら、喜多川は店員を呼び止めた。 「ブランチのコースもうひとつね。 僕と同じの」 店員にそう告げるや否や、喜多川は紗枝に断る暇も与えずに「座って」と椅子を引く。 相変わらず、こちらの都合はお構い無しというわけだ。 「改めまして、喜多川幸成です。 投資家してます」 「高木…紗枝です」 「紗枝ちゃんね、ヨロシク!」 時計を返してサッサと立ち去るつもりだったのに、なぜか一緒にテーブルについてのんきに自己紹介をしている。 気付けば出会った時と同じように、いつのまにか喜多川のペースだ。 だが、慎吾に休日出勤を装って家を出てきた手前、こうして他の男性と密会していることに対しての罪悪感もある。 紗枝は早く用件を済ませるべく、腕時計の入った赤い袋をテーブルの上に置いた。 「同棲してる彼氏に見つからないか、この1週間ヒヤヒヤしてたんです。 お返しします」 タチの悪いナンパを牽制する意味でも、きっぱりと彼氏がいることを伝えよう。 そう思って言った言葉だったが、喜多川はそこには反応しない。 「なんで彼氏に見つかっちゃいけないの?着けてるアクセサリーからして、紗枝ちゃんバリキャリかお嬢様でしょ。 200万の時計持ってても別におかしくないじゃない」 バスケットから選んだパンにスクランブルエッグを乗せながら、呑気に会話を楽しもうとする喜多川。 やんわりとした理由では、きっとまた押し切られてしまう。 そう感じた紗枝は、正直に自分が今置かれている状況について説明することにした。 「カードが止まって…、彼に借金を頼んでしまって…」 この二ヶ月弱の出来事を口に出して説明する行為は、自らの愚かさを手のひらに乗せてまじまじと見つめ直しているかのようだ。 できれば目を背けてしまいたい。 呆れているであろう喜多川の顔が直視できない。 「それで、浪費はやめるべきだって彼氏も言うので…、その通りだなと思って…。 買い物、やめたんです…」 どうにか話し終えた紗枝は、俯きながら口をつぐんだ。 でも、これで喜多川さんも納得がいったはず。 しかしながら、喜多川のリアクションはまたしても予想外のものだった。 真剣な面持ちで紗枝の言葉に耳を傾けていた喜多川は、突然こらえきれないと言った様子で吹き出し、爆笑し始めたのだ。 そして、ひとしきり笑い終わると、いかにもバカにしたような言い方で吐き捨てた。 「ああ〜、馬っ鹿らしい。 なんだよソイツ」 「馬鹿らしいって…私じゃなくて、彼氏がですか?」 怪訝な顔をする紗枝に、喜多川は楽しげに持論を展開し始める。 「そうだよ。 紗枝ちゃん、買い物はね、どんな買い物でも浪費じゃない。 消費だよ。 紗枝ちゃんが使ったお金は、誰かの所得になり税収にもなる。 動かすお金に無駄なんてないでしょ」 「それは…堅実な範疇でできることならそうでしょうけど…」 「その考え!それがそもそも間違ってると思うんだよな〜」 喜多川の弁舌は、一層の熱を帯びた。 「節約と貯蓄が美徳になってしまうとどうなる?消費が減る。 消費が減るから生産が減る。 生産が減るから所得が減る。 つまりね、お金使わないからお金がなくなるの。 そんな人ばっかりだとさ、当然GDPは下がり、税収も減り、消費税を上げられて、より貧困化する。 これじゃ国民総自殺状態だよね」 ポカンとする紗枝を見留めた喜多川は、紗枝の目を覗き込んで言った。 「つまりさ、カードが止まるほど買い物する紗枝ちゃん、大いに結構じゃない。 日本経済の発展に貢献する素晴らしい女性だよ。 逆にさ、消費をバカにするその彼氏、小物だな〜と思うね。 なんでそんなのと付き合ってるの?」.

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