石井 琢朗 プロスピ。 【プロスピA】中継ぎ最強ランキング【5/27更新】|ゲームエイト

石井琢朗

石井 琢朗 プロスピ

経歴 [ ] プロ入り前 [ ] 小学校3年生の秋から野球を始め、クラス文集に「にドラフト一位で入りたい。 」と記す。 プロへ進むには強豪高に入って甲子園に出場することが近道と考え 、に進学。 1年時から背番号1を背負い 、2年時ににとして出場した。 高校2年時、の投手を見に来ていたスカウトのが、練習試合の相手投手であった石井の投球を見て、球の切れと速さに惚れ込んだ。 高校3年時のドラフト会議ではへの進学が決まっていたため どの球団からも指名されなかったが、半ば強引な形でオフ、でに入団。 大洋・横浜時代 [ ] 高卒1年目の、戦で一軍初登板。 同年の戦で初初を挙げる。 首脳陣からは「桑田二世」などと評価され、投手として将来を嘱望されたが 、二軍では好投するものの一軍で結果を残せず、また本人もにあこがれるなどプロ入り当初から野手志望であり、3年目のオフに監督に転向を申し出る。 もともと須藤も石井を野手として評価しており、投手不足という事情さえなければ最初から野手転向させたい意向を持っていた。 しかしこの時に石井は「(投手は) もう限界です」と発言。 その言葉が気に入らなかった須藤に「何が限界だ、その程度で限界ならもう野球をやめろ! 」と一度は拒絶されたものの最終的には認められた。 後のインタビューで須藤は、「一度は突っぱねたがしぶとく食い下がってきたので、彼が本気だということがわかった。 それがなかったら認めなかった。 」と語っている。 からとして登録され、同時に登録名を本名の石井忠徳から 石井琢朗に変更。 シーズン後半には野手転向1年目にしてからの定位置を奪った。 、チーム名が横浜ベイスターズに変更されたのを機に背番号を 0に変更。 当初はと遊撃手のポジションを争っていたがやがて遊撃は進藤に固定され、自身は三塁を守っていたを一塁に追いやる形で「2番・三塁手」としてレギュラーを獲得し、初めて規定打席に到達。 また、数試合ながらとしても出場した。 と三塁手部門のタイトルを獲得した。 ゴールデングラブ賞は以後、まで3年連続で受賞することとなる。 には背番号を 5に変更。 主に2番打者として出場し、フル出場を果たす。 は日替わりで1、2番を打ち、初の打率三割を記録した。 同年のに初出場。 、新監督に就任したの意向により、に転向した。 慣れない守備に意識を奪われたためか前年より打撃成績を落とすも、中盤より1番打者に定着。 タイトルこそ獲得できなかったが生涯唯一の40盗塁越えを記録した。 は2番打者・との1、2番コンビが定着。 2度目のオールスター出場を果たし、この年以降オールスターには5年連続して出場することになった。 自身二度目の打率三割を記録し、初めてを遊撃手部門で獲得する。 、選手会長に就任。 の1番打者としてチーム38年ぶりのリーグ優勝、に貢献した。 初のと2度目の盗塁王のタイトルを獲得し、遊撃手としては自身初めてとなる、通算では4度目のゴールデングラブ賞を受賞。 では優秀選手に選ばれた。 103を記録し、と並んで球団創設以来初となる最多得点を獲得する。 には通算1000本、1000達成、200達成。 このうち、の戦で記録した1000本安打は、勝利投手の経験がある選手として史上10人目の記録であった。 が1試合10打点を記録したのヤクルト戦で、1試合最多得点の新記録となる6得点を記録。 自身初の一試合2本塁打も記録した。 は盗塁王を獲得した。 には2度目の最多安打を記録するなど安定した成績を残し、遊撃手としてから5年連続でベストナインを受賞した。 は140試合に出場したもののは8年ぶりに2割8分を下回った。 は1992年以来の100安打未達を記録。 231は野手転向後では最悪の数字となった。 から外された際には、野手転向時のようにゼロからやり直すつもりで自ら二軍落ちを志願した。 は2001年と同じ打率. 295の成績を残し、3度目の2桁も達成するなど復活を果たした。 だがは、全146試合に1番ショートでスタメン起用されフルイニング出場を果たすものの、打率は. 255に落ち込むなど再び低迷した。 、戦(横浜スタジアム、)の1回裏第1打席でから中前打を放ち、史上34人目の2000本安打を達成した。 栃木県出身では初の入りを果たす。 横浜球団では・以来3人目(生え抜きでは松原以来2人目)の2000安打達成で、投手として勝ち星を挙げた選手としては以来史上2人目 、またドラフト外での入団選手としては以来2人目であり 、現在ではドラフト外入団選手で最多安打記録保持者となっている。 その後、のヤクルト戦で、から安打を放ち、の持つ球団安打記録2081本を塗り替えた。 この年は打順こそ2番、3番打者として起用された試合もあったが、2年連続で全146試合フルイニングに出場。 最終的には自己最多タイの174安打を放ち、打率も2割8分台に乗せるなど再び復調を果たした。 は前年オフに膝を手術したこともあり、この年監督に復帰した大矢明彦は石井を無理せず休ませると公言。 の巨人戦の6回の守備でと交代し、連続フルイニング出場記録が当時の現役選手ではに続く2位の339試合で途切れた。 また、巨人から移籍したが1番打者に入ったことで、石井は2番打者を打つことが多くなる。 、阪神戦()の第一打席で死球を受け、右手首を骨折。 中に戦列復帰を果たすが安打数は99安打に止まり、4年連続・通算14度目のシーズン100安打達成はならなかった。 は開幕戦から再び1番打者で起用されたが、成績が芳しくなかったため頃からは7番~9番打者で起用されることが多くなった。 同年夏に開催されたのにチームの正三塁手だったが選出。 村田がいない間、若手の石川雄洋が三塁手に定着したが、最下位を独走するチーム状況を鑑みた大矢監督の若手起用の方針もあり、村田復帰後も石川は遊撃手にコンバートされ、石井はスタメンでの出場が激減した。 そして同年シーズン終了間近に球団から引退勧告を受ける。 石井は勧告を拒否し、現役続行を希望して球団にを申し出た。 国内外を問わず移籍先を探していたが、、広島が石井獲得を発表した。 2008年、自費でを借り切り、ファンへの感謝を表すイベントを開催した。 主催者発表によるとファン3500人が参加し、オークションではユニフォームが20万円以上の値で落札された。 石井は「これを区切りにして、広島で優勝できるよう頑張りたい」とコメントした。 広島時代 [ ] 広島1年目のは開幕一軍でスタート。 本職の遊撃手の他に守備固めでの三塁手起用もされる。 横浜時代の応援歌が親しみやすく人気があったため、横浜応援団の計らいもありカープへの移籍後も広島応援団が引き続き使用した。 の横浜戦にて、横浜スタジアムで通算100本塁打達成。 2202試合目での達成は出場試合数で史上最遅の記録であった(従来の記録は・の1773試合。 またプロ在籍年数ではヤクルト・と並ぶ21年目で、最遅タイ)。 移籍後の横浜スタジアムでの試合では、石井が打席に立つ際に横浜ファンも応援に参加し、球場全体から大声援が送られるという光景が見られ、100号本塁打達成時は両スタンドから賞賛の拍手と歓声が送られた。 の横浜戦では、(阪神)を抜き日本歴代最多となる遊撃手としての通算1731試合出場を達成。 シーズン前半は、後半はと併用され出場試合数と打撃成績は前年を下回ったが、一年を通して一軍でプレーした。 広島選手時代 (2009年9月19日 にて) も年間を通して一軍に定着。 スタメン出場は少ないものの打率は3割を超えた。 この年の契約更改では200万円アップの年俸2700万円(推定)で契約し、広島移籍後は2年連続で年俸アップを勝ち取った。 シーズンオフに右膝のクリーニング手術を受ける。 から一軍野手コーチ兼任となってまで代打を中心に試合に出場。 同年に選手登録を抹消され、コーチ専任となって一軍に帯同していたが、記者会見を開き、シーズン限りでの現役引退を表明した。 同年シーズン本拠地最終戦のの対阪神戦()、引退試合として1番・遊撃手で先発出場。 現役最後の安打を含む2安打を放つ。 その後も一軍登録は抹消されずにの対ヤクルト戦(神宮)では9回に代打で出場(結果は右飛)。 翌、シーズン最終戦となった古巣の対戦(横浜スタジアム)では試合前に引退セレモニーが行われ、かつてのチームメイトのとから花束を受け取り、両チームのファンによる応援歌の合唱が行われた。 試合では1番・遊撃手として先発フル出場し、現役最終打席はセンターフライとなった。 石井を最後にドラフト外で入団した選手はすべて姿を消した。 現役引退後 [ ] シーズンより広島の一軍内野守備・走塁コーチに就任し 、2012年秋季キャンプから指導を開始。 2年間一塁ベースコーチを務め、シーズンは三塁ベースコーチを担当した。 シーズンより一軍打撃コーチとなり広島のリーグ優勝に貢献、シーズン終了をもって広島を退団した。 シーズンより東京ヤクルトの一軍打撃コーチを務める。 同年からが7年ぶりに復帰、春季キャンプ前から「とにかく得点にこだわりたい」と話し前年はチーム打率は前年はリーグワーストの. 234だったが2018年は同トップの. 266、総得点は658(1試合平均4. 6)も昨年よりも200点近い上積みに成功した。 は高卒2年目のを一軍に定着させるなど尽力したが、チーム打率が. 244とリーグワーストに低迷し最下位逆戻りの一因になった。 同年9月29日に契約満了に伴い退団が発表された。 2019年10月29日、の一軍野手総合コーチ就任が発表された。 選手としての特徴 [ ] 打撃 [ ] 憧れの選手は。 通算2432安打は日本人プロ野球選手の通算安打数で歴代14位の記録である。 横浜球団史上最多の2306安打を放っている(2008年10月9日時点)。 守備・走塁 [ ] 三塁手としては3度ゴールデングラブ賞に輝き、遊撃手としても1度受賞している。 「送球までの速さと安定感は12球団1」と評されたこともある。 での史上最多試合出場記録(1765試合)を持つ(2012年時点)。 また、通算358盗塁を記録しており、4度盗塁王を獲得している。 人物 [ ] 一言居士で、横浜時代は監督やチームの方針に納得がいかないと、臆することなく意見することが多かった。 また熱い性格から、試合中も退場処分こそないものの、審判の判定に納得がいかないと、激昂するシーンも多く見られた。 登録名の 琢朗は、野手に転向する際、大成する字画の名前として高校時代の先輩のアドバイスから付けられたもの。 1997年には同姓のがベイスターズに入団してきたため背ネーム表記が T. ISHII、報道やスコアボードでの表記も 石井琢に変更され、球場アナウンスもフルネームで呼称されるようになった。 2002年に横浜に在籍したが同年限りで引退、2003年には石井義人も移籍したため、報道などでは「石井」表記に戻ったが、その他の表記等は以前のままとしており、これは広島移籍後も続いた。 ヒット1本につき1万円を積み立て、シーズン後に福祉関連先に寄付したり、横浜市内のこども医療センターに絵本を毎月寄贈したり、横浜スタジアムの石井琢朗シートを市へ寄付したりするなど、チャリティー活動にも積極的であった。 また、道具を大切に扱うことで有名であり、とアドバイザリー契約を結んでいた。 2008年3月9日付『』に、出身地である栃木県佐野市のの生徒がを使って町おこしに取り組んでるとの記事が紹介された。 これに石井本人も一役買おうと意気込み、球団に働きかけた結果内レストランにて5月14日より販売が実現した。 シーズン終了後にこのいもフライの売上金の一部が佐野市に寄付された。 広島に移籍後の2009年にもの売店にて石井琢朗プロデュースとして販売され人気を博した。 1996年にのと結婚したが、2000年に離婚。 その後当時アナウンサーのと再婚し、2002年7月に長女、2005年8月に二女、2013年7月に長男が誕生した。 前妻瀬能との間に子供はいない。 広島での選手生活はホテル、選手寮などでの単身赴任状態であった。 詳細情報 [ ] 年度別投手成績 [ ] 17 2 0 0 0 1 1 0 --. 500 142 30. 1 34 2 19 1 0 19 0 0 14 12 3. 56 1. 75 2 1 0 0 0 0 1 0 --. 000 19 4. 0 6 0 2 0 1 0 0 0 5 4 9. 00 2. 00 9 2 0 0 0 0 2 0 --. 000 77 14. 2 23 3 8 1 3 4 0 0 16 15 9. 20 2. 11 :3年 28 5 0 0 0 1 4 0 --. 200 238 49. 0 63 5 29 2 4 23 0 0 35 31 5. 69 1. 「-」は記録なし 年度別打撃成績 [ ] 17 5 5 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0. 400. 400. 400. 800 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0. 000. 000. 000. 000 10 2 2 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0. 500. 500. 500 1. 000 69 250 219 26 59 3 3 3 77 23 4 1 16 1 12 0 2 33 4. 269. 312. 352. 664 121 503 414 53 110 19 5 5 154 36 24 16 39 2 42 0 6 64 5. 266. 341. 372. 712 130 559 451 68 113 21 2 3 147 40 10 6 39 0 69 0 0 66 6. 251. 350. 326. 676 124 546 444 69 137 22 2 2 169 41 23 11 23 2 69 1 7 63 4. 309. 407. 381. 789 129 604 496 94 140 19 3 1 168 29 45 21 25 1 75 1 7 76 3. 282. 383. 339. 722 132 612 521 95 166 23 1 10 221 44 23 18 23 4 57 1 7 58 5. 319. 390. 424. 815 135 630 555 103 174 34 5 7 239 48 39 10 2 2 63 0 7 69 4. 314. 389. 431. 820 131 622 537 108 157 24 3 8 211 58 39 11 2 3 73 0 7 81 4. 292. 382. 393. 775 134 619 546 91 165 19 5 10 224 50 35 11 5 3 61 3 4 83 5. 302. 375. 410. 785 140 647 580 81 171 34 4 8 237 36 26 8 7 1 54 3 5 81 3. 295. 359. 409. 768 140 636 569 78 156 29 2 8 213 49 19 11 12 2 48 1 5 95 2. 274. 335. 374. 709 115 483 415 49 96 12 1 6 128 26 20 10 21 0 46 0 1 53 3. 231. 310. 308. 618 131 590 535 80 158 26 6 10 226 43 11 10 6 2 45 1 2 85 3. 295. 351. 422. 773 146 688 612 95 156 22 2 8 206 40 18 7 7 1 61 1 7 77 6. 255. 329. 337. 666 146 675 604 91 174 30 0 6 222 32 12 11 5 1 63 0 2 99 4. 288. 357. 368. 724 108 412 360 35 99 11 0 2 116 13 6 5 27 0 21 1 4 39 5. 275. 322. 322. 644 98 319 279 26 73 7 0 2 86 18 1 1 12 0 23 0 4 47 2. 262. 327. 308. 635 89 246 211 27 48 10 3 2 70 18 2 0 11 0 20 0 4 33 4. 227. 306. 332. 638 74 165 148 15 47 5 1 0 54 20 1 1 5 0 11 0 1 20 2. 318. 369. 365. 734 61 106 92 11 23 2 2 1 32 4 0 0 2 0 12 1 0 13 1. 250. 337. 348. 685 31 47 42 2 7 1 0 0 8 2 0 0 0 0 5 0 0 4 1. 167. 255. 190. 446 :24年 2413 9967 8638 1298 2432 373 50 102 3211 670 358 169 289 25 930 14 82 1241 76. 282. 356. 372. 728• 各年度の 太字はリーグ最高• 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更 年度別守備成績 [ ] 試 合 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 1992 42 22 63 5 9. 944 32 37 76 5 19. 958 - - 1993 107 71 203 6 24. 979 11 16 24 1 7. 976 - 7 4 0 0 0 1. 000 1994 128 75 251 8 25. 976 8 8 16 0 3 1. 000 - 1 0 0 0 0 - 1995 123 96 253 5 33. 986 - - - 1996 - 129 207 382 11 76. 982 - - 1997 - 130 198 392 15 76. 975 - - 1998 1 0 1 0 0 1. 000 135 204 423 17 80. 974 - - 1999 - 129 211 356 11 71. 981 - - 2000 - 134 210 386 10 81. 983 - - 2001 - 140 252 417 12 100. 982 - - 2002 - 140 219 394 9 69. 986 - - 2003 - 114 168 366 7 77. 987 - - 2004 - 130 194 413 10 97. 984 - - 2005 - 146 229 444 8 95. 988 - - 2006 2 0 0 0 0 - 146 204 473 10 91. 985 - - 2007 - 105 126 317 5 71. 989 - - 2008 - 79 118 211 4 41. 988 - - 2009 21 13 21 1 0. 971 52 69 141 6 24. 972 - - 2010 48 18 72 3 10. 968 2 1 2 0 0 1. 000 4 0 2 0 1 1. 000 - 2011 26 11 32 0 4 1. 000 3 2 4 1 1. 857 1 2 4 0 0 1. 000 - 2012 1 0 1 0 0 1. 000 2 4 6 0 2 1. 000 - - 通算 499 306 897 28 105. 977 1767 2677 5243 142 1081. 982 5 2 6 0 1 1. 000 8 4 0 0 0 1. 000• 太字年は受賞年 タイトル [ ]• :4回(1993年、1998年、1999年、2000年)• :2回(1998年、 2001年) 表彰 [ ]• 優秀選手賞:1回 ()• 最優秀選手:1回 (2002年)• 特別功労賞(2012年)• 県民栄誉賞 (2006年)• スポーツ特別賞 (2006年)• (2008年) 記録 [ ] 投手記録• 初登板:1989年4月13日、対3回戦()、4回表に救援登板、1回1失点• 初奪三振:同上、4回表にから• 初出場:投手記録の初登板の項を参照• 初先発出場:投手記録の初先発の項を参照• 初安打:1989年10月10日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、3回表にから中前安打• 初得点:1989年10月16日、対26回戦()、3回表に記録• 初打点:1992年4月18日、対ヤクルトスワローズ2回戦(横浜スタジアム)、4回裏にから• 初盗塁:1992年5月10日、対読売ジャイアンツ8回戦(横浜スタジアム)、1回裏に二盗(投手:、捕手:)• 初本塁打:1992年7月26日、対広島東洋カープ18回戦(横浜スタジアム)、1回裏にから 節目の記録• 300盗塁:2003年8月6日、対読売ジャイアンツ22回戦(東京ドーム)、7回表に二盗(投手:、捕手:)• シーズン150安打以上9回:1997年 - 2002年、2004年 - 2006年(歴代2位タイ)• 6年連続シーズン150安打以上:1997年 - 2002年(歴代2位タイ、セ・リーグタイ記録)• 遊撃手通算最多試合出場:1767試合• 出場:6回 (1995年、1997年 - 2001年) 背番号 [ ]• 66 (1989年 - 1992年)• 0 (1993年)• 5 (1994年 - 2008年)• 25 (2009年 - 2012年)• 75 (2013年 - 2017年)• 81 (2018年 - 2019年)• 89 (2020年 - ) 登録名 [ ]• 石井 忠徳(いしい ただのり、1989年 - 1991年)• 石井 琢朗(いしい たくろう、1992年 - ) 関連情報 [ ] 著書 [ ]• 『疾走! 琢朗主義』(ベースボールマガジン社:2002年4月)• 『心の伸びしろ』(ベストセラーズ:2013年3月) 脚注 [ ]• 同ゲームで先発バッテリーを組んだのが同級生のだった。 投手としては150キロ近い直球と落差の大きいカーブが持ち味で、当時の監督であるに「ボールをもてあそぶことができる。 それに全力投球してもコントロールが乱れない。 運動神経の偏差値が高い投手。 近いうちのライバルになる。 今の石井にないのは経験だけ」と絶賛されていた。 責任編集 SPORTS COMMUNICATIONS. 2014年5月10日閲覧。 2000 ベースボール・レコード・ブック。 ベースボールマガジン社 52頁「1999年度の主な記録と出来事」より。 NPB. 2019年12月11日時点のよりアーカイブ。 2019年12月11日閲覧。 『中日新聞』2006年5月12日朝刊第二運動スポーツ面24頁「プロ野球 交流戦 11日 楽天が横浜戦初勝利 楽天8-4横浜」(中日新聞社)• なお横浜は前年(2005年)に楽天戦では6勝0敗で交流戦を終えており 、それまで8連勝を挙げていたが、9回目の試合となるこの試合にて初めて敗戦した。 記録達成の際には冗談で、「投手時代の(打者として打ったヒット)3本はカウントして欲しくない」とコメントしている。 中国新聞. 2010年4月11日閲覧。 日刊スポーツ 2012年8月27日閲覧• スポーツニッポン 2012年10月9日閲覧• ヤクルト球団公式サイト• ニッカンスポーツ 2012年10月9日閲覧• スポーツニッポン 2012年10月9日閲覧• - サンケイスポーツ 2012年10月22日 [ ]• - 中国新聞 2012年10月30日• - スポーツニッポン 2012年10月29日• スポーツナビ• 2019年9月29日. プレスリリース , 読売巨人軍公式サイト, 2019年10月29日 , 2019年11月3日閲覧。 『野球小僧 世界野球選手名鑑2006』白夜書房、2006年、101頁。。 2014年11月5日閲覧• 字画を整えるため本来は正字の琢(部分に点が打たれている)を使うのが正しいが、パソコン等で表示されないため新字で代用されることが多い。 ただし広島入団会見時は背ネーム表記が「ISHII」だった。 - デイリースポーツ 2012年10月23日• 魅力たっぷり THIS IS 栃木. 2017年12月4日閲覧。 広報さの 2006年7月1日号. 2017年12月4日閲覧。 2011年12月14日. 2017年12月13日閲覧。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - NPB. jp 日本野球機構• 選手の各国通算成績 、.

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【プロスピA】TS第2弾(2020) 当たりランキングと選手評価リスト【タイムスリップ】|プロスピA攻略ブログ 球宴ナイン

石井 琢朗 プロスピ

そこには「家族の絆」があった 「実は広島をやめようとしたのは、今回が初めてではありませんでした。 2016年、一軍打撃コーチとして、広島カープを25年ぶりのリーグ優勝に導いた石井琢朗さん。 再びリーグ優勝を果たした2017年10月5日に、同じく打撃コーチだった河田雄祐さんとともにカープ退団を発表。 広島ファンのみならず多くの人に大きな衝撃をもたらした。 11月にはヤクルトスワローズに移籍することが発表され、すでにコーチとしてその存在感を表している。 「移籍の理由」については「家族のため」とだけ報じられたが、それは急に決まったことではなかった。 2001年に石井さんと結婚した、元フジテレビアナウンサーの詩織さんが語ってくれた、「家族の絆」とは。 自由契約で広島入り そもそも石井が広島に最初に行ったのは2009年のこと。 前年に横浜から引退を打診された、38歳のときです。 石井は現役選手としての続行を希望し、自由契約での広島入りでした。 このとき、私たちには女の子が二人いて、長女がちょうど4月から1年生に入るところでした。 広島に同行するかどうかと考えましたが、なにしろ自由契約の選手です。 1年後、そのまま広島にいられるとはまったくわかりません。 さらに当時私は大学に戻って臨床心理の勉強をしており、「来年帰ってこざるを得ない可能性もあるなら、生活を大きく変えない方がいいね」と、石井単身で広島に行くことになりました。 幸い、契約を更新していただけて、もう1年選手を続けられることになりました。 でも翌年もどうなるかわからない。 もう少し単身にして様子を見ようということになりました。 このときはまだ、FacetimeやLINEビデオ電話もありませんでしたから、子どもたちは毎日毎日パパに手紙を書いていましたね。 ちょうど長女が1年生になってひらがなを覚えたところだったので、日課になっていました。 今でも石井はとってあるのではないでしょうか。 2012年にも退団を考えた 2012年になってから、じつは長女が体調を崩し、学校に行けない時期がありました。 私自身も学校に通いつつ、幼稚園に通う次女の世話をしながら、長女の体調のことで動いていたので、フラフラでした。 石井は、長女のことも私のことも心配して、何回も広島から東京に帰ってきてくれていました。 2012年に、石井は現役からの引退を決意しました。 「選手を引退する時が広島をやめるタイミングだろう」と前から話していたこともあって、初めて広島退団を真剣に考えました。 家族が一緒に暮らす必要性を感じていたからです。 ただ、同時に、石井の本心では野球人としてもっと広島でやりたい、という気持ちがあることも、私はわかっていました。 石井も家族のことが心配で一緒に住みたいと思っている。 そのとき先生から、長女の環境を変えたほうが体調も良くなるのではと言われたことが、私の背中を押してくれました。 石井は野球を愛していて、私たちも生活があります。 なにより、一緒にやりたいと思える球団にいられることは素晴らしいことです。 それなら今度は家族が広島に行こう! ということになりました。 長女が4年生、次女が1年生の3学期のときでした。 そこで私たち家族3人が合流して、晴れて家族4人での暮らしがはじまったんです。 石井の故郷は栃木で、私は徳島。 お互いに田舎で生まれ育ったので、広島は私たちが子供のころに育った環境に似ていました。 自然に囲まれて、空気がきれいで、なんでも美味しくて。 周りの方も親切で、本当にいいところでした。 2013年7月には長男も授かりました。 長女も体調がよくなり、学校に通うようになっていました。 次女は素晴らしいテニスのコーチに出会うことができ、東京のときから姉と一緒に習っていたテニスに、一層のめりこむようになっていました。 私たちは広島で、いろんな恩恵を授かりました。 初めての「退団願い」 次に真剣に、石井が退団を考えたのは2014年のことです。 長女が「東京の中学に行きたい」という決意を固めたことがきっかけでした。 東京では中学につながっている附属の小学校に通っていたので、中学に行くのであれば6年生の2学期、つまり2014年の9月1日には小学校に戻らなければなりませんでした。 やっぱり附属の中学に進みたい。 だから戻りたい、と言うのです。 彼女にとって広島は大好きなところだけれど、東京には昔からのお友だちがいる。 ベースは東京にあったんです。 夫婦で話し合い、長女の希望を聞いてあげようということになりました。 しかしここで問題が起きました。 次女は、まだ帰りたくないと言ったのです。 理由はテニスでした。 年中から習い事の一環で始めたテニスですが、広島にきて素晴らしいコーチに出会い、見違えるほどに上達していました。 家の隣に偶然テニスコートがあり、いつでも練習できるという恵まれた環境もありました。 ただ、私がその年の1月に虫垂の腫瘍摘出の手術をして、体も弱っている中で0歳児の長男がおりましたから、姉や義姉に広島まで来てもらって手伝ってもらっていました。 そんな中、子供が東京と広島に分かれて暮らすには不安がありました。 そこで、まずは9月に私が長女と長男を連れて先に帰り、石井が2014年の秋でコーチをやめて年末まで次女と暮らし、それまでに東京でのテニス環境を探してから帰るようにしようと話しました。 「10月でパパはやめるから、生活もなんとかなるよ」と次女に言っていましたし、最後になってしまうからと長男を連れて広島の試合を一緒に見に行きましたね。 早速、石井は球団に「東京に戻りたい」と打診をしました。 ですが、球団本部長に「できれば残ってほしい」と言っていただいたんです。 この年、カープは初めてクライマックスシリーズに出ることができた年でした。 石井も「もっと強くなれる!」という手ごたえを感じていただけに、部長のお言葉はよくわかったそうです。 何度も考えた末、石井は「やっぱりカープは今が面白い。 絶対に強くなるから、もう少しやりたい」と私に言ってきました。 選手でも田中君や菊池君、丸君など、多くの若手が伸び盛り。 これから間違いなく育つ選手が多いと感じたのだそうです。 そんな環境でコーチができるのは幸せなことですよね。 結局、次女だけが帰ってくることになり、石井はまた寮生活に戻りました。 それから2016年に打撃コーチとなり、25年ぶりの優勝を祝うことができました。 多くの方に石井の功績もたたえていただき、2009年には想像もしないことでした。 本当に嬉しかったです。 家族が一緒に住めるのは今だけ そして今年の4月、長女は中学3年生、次女は小学6年生になりました。 来年からは長女は高校生。 それまで次女と一緒に週5回習っていたテニスをやめ、将来やりたいことができたと、大学に向けて勉強も頑張っています。 大学に入ったとしたら、きっと家を出ていくのでしょう。 次女は、小学校1年生のころから「プロのテニス選手になりたい」と言っていました。 その希望を聞いたコーチのご指導のもと、12歳以下のテニスランキングでは関東トップ、全国でも上位に入賞することもできました。 しかし次女が「プロのテニス選手になりたい」となると、トレーニングにしろ、スポーツ選手のメンタリティにしろ、私だけではどうしても理解できないことが増えてきていました。 例えば、母親としては、テニスがうまくいかなかったときのために、受験をしなくても進学のできる附属中学に行かせた方がいいのではと思っていました。 しかし石井は「楽な道を残すな。 退路を断て」と言います。 次女本人もそれを望んでいます。 そこまでしてやらなくてもいいのでは……とつい思ってもしまうのですが、プロの世界は甘くありません。 ストイックに努力し続け、プロのスポーツ選手として成功した石井の言葉は、とても説得力があります。 結果、姉と同じ附属中学ではなく、公立の中学に転校し、テニスに集中することにしました。 これからプロになるために挑戦し続けるでしょうし、海外に出る可能性もあるでしょう。 さらに、4歳になる長男のこともありました。 どうしても運動が得意ではない私とだと、外遊びに出ることも少なく、電車ごっこなどのインドア遊びが多くなります。 石井自身も長男と一緒に遊ぶことができる時間が限られていることもわかってきたようです。 「家族5人で一緒に住めるのは今だけではないか」 「今は家族5人で一緒にいたほうがいいタイミングではないか」 石井も私もそう思ったのです。 そこで、今度は固い決意で、球団に「今年で退団させてください」と相談をしたのでした。 就職活動を意識した発表時期 9年在籍していたので、球団は2回目の優勝をした今年やめると言ったことに、ずいぶん驚かれたようです。 でも3年前にやめると言っていたのをやめないでいたことに対して、感謝してくださったとか。 河田雄祐さんとは2年間一緒にコーチをしていたので、石井は一番に報告をしたそうですが、そこで河田さんもやめることを聞かされました。 河田さんもご家庭の事情があって、東京に戻らなければならなかったようです。 二人一緒にやめられるのだろうかと懸念しましたが、球団が事情を汲み取り、受け入れてくださいました。 退団の発表は河田さんと一緒に、クライマックスシリーズの直前でしたね。 あれは、球団が就職活動をしやすいように早く発表してくださったのだと思います。 シリーズが終わったあとでは、どの球団も秋のキャンプに向けて人事はすでに決まっています。 こちらの気持ちを汲んでくださり、しかも転職しやすいように早めに発表させてくださった。 広島には心から感謝しています。 それでもまさかすぐにヤクルトからお声をかけていただけるとは思ってもいなかったので、本当に恵まれているんですね。 広島のファンの方々からも温かい声をたくさんいただいて、心から幸せだと思います。 石井と河田さんと二人のコーチが同時にやめることになってしまうので、ファンの方が寂しがってくださっているのに申し訳ないねと話したとき、石井はこう言いました。 「大丈夫だよ、もう強いから」 自分が教えることは教えた、カープはさらにもっと強くなれると確信できているのかもしれません。 幸せな広島での生活に、私たち家族は感謝の思いしかありません。 石井琢朗(いしい たくろう):1970年生まれ。 1988年ドラフト外で横浜大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)入団。 名遊撃手として、ベストナインはじめ多くの賞を受賞し、1998年には選手会長として横浜の38年ぶり日本一に貢献。 2009年より広島カープに移籍、2012年に現役選手を引退し、走塁・守備コーチを経て一軍打撃コーチ。 2016年には広島カープを25年ぶりの優勝に導いた。 2017年秋、ヤクルトスワローズの打撃コーチに就任。

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【プロスピA】TS第6弾(2019) 当たりランキングと選手評価リスト|プロスピA攻略ブログ 球宴ナイン

石井 琢朗 プロスピ

2020年シリーズ1 TS第2弾がスカウトに登場!! 2020年シリーズ1のTS第2弾出ましたね!! 緊急事態宣言明けなので豪華なラインナップになるのではないかと考えていた管理人達の予想は的中。 (なんとでも言える) 前回に引き続きアツモリッ!! それでは早速今回登場した12選手の評価を見ていきましょう!! 当たりは誰だ!?2020シリーズ1TS第2弾選手評価一覧 パ・リーグの選手から順番で見ていくぞ~!! ついて来いよ! 一番下にTS第2弾でどの選手がほしいかアンケートの結果発表をしてるので合わせてご覧ください! 西武 西口文也 総合評価 9. 5点なのか・・・リアタイやってる人はお分かりかと思います。 そう西口選手は変化量の違う2種類のスライダーを操るとっても厄介な投手なのです!!特殊能力にキレもあるので発動したらなかなか見極めが難しくなりますね。 ちなみにリアタイだけでなく、スタミナがあるのでリーグオーダーでもその力を発揮してくれるでしょう。 絶対的守護神サファテ選手。 称号次第で球威はSに乗ります。 強すぎですね。 制球も低くなく扱いづらさもないでしょう。 特徴はやはりストレートとSFF。 ガンガン三振の取れる選手です。 そして特殊能力には、「超存在感」が有り、3点差以内のリリーフ登板回のみ有効で打者のミートとパワーを大DOWNさせる悪魔的な強さを発揮します。 首位打者をとった時の状態で登場しましたね!Aに乗っているミートだけでなく走力も高く、そして守備もなかなか行けるというのがポイント。 パワーも低すぎるわけではなく、弾道も中弾道あるので使いづらさはそこまでないでしょう。 やはり特筆すべきはミートの高さですね。 特殊能力にもチャンスと流し打ちというミートをUPさせるものが2つあるので、使いやすい選手です!パワーも称号次第でBに乗せることもできます。 そしてサード守備が良い!適性Bなだけではなく守備3値も良いです。 肩に関しては特守でBになりますね。 ロッテのサードにはレアード選手がいますが、個人的には今江選手の方がおすすめです。 日ハム 吉川光夫 総合評価 9. 変化量の大きいカーブとスラーブ、そして力のあるストレートが持ち味。 球威Aは普通に素晴らしいです。 制球はまあしょうがないとして、スタミナは若干ですが、もう少し欲しかった感は否めないですね。 ただ、超対ピンチという王道に強い特殊能力も持っているのでなかなか活躍してくれそうです。 今後も登場することが予想できるので日ハム純正の方は間違いなく取りにいくべきでしょう。 懐かしいユニフォーム。 ブレーブス、オリックス、西武、横浜、日ハムと渡り歩き結構最近まで現役だった人。 ステータスはオールCながら中弾道で有り、捕手を全体的に見ると打力はそこそこですね。 ただ、捕手というポジションで捕球がEであること、スローイングがDであることがちょっと傷ですね。 肩が強いだけにもったいない・・・。 オリックス純正向けの選手になりますが、適性を見ても捕手は若月選手でも良さそうです。 監督のご登場。 ミート78、パワー81は圧巻ですね。 称号次第でミートパワーの同値も可能。 そして何より弾道がアーチスト。 間違いなく最強サードの一人です。 守備も安定していて悪くなく、一応セカンドも守れます(笑)特殊能力はチャンスか広角がプルヒッターの代わりに欲しかった感も有りますが、充分でしょう。 巨人純正はオカモンテを使うか原監督を使うか、とかいう贅沢な選択が可能。 絶対に取りにいきましょう。 横浜 石井琢朗 総合評価 9. ミート走力がAはさすが。 走力型ですが、称号次第で同値も狙えます。 同値にできなくても、ミート型にしたいですね。 そしてなんと言っても遊撃守備A。 素晴らしい。 肩は特守で80になります!特殊能力の盗塁も持っているので、リアタイでも代走からそのまま守備につかせるという使い方もできますね。 横浜純正民には必須の選手ではないでしょうか。 阪神 大和 総合評価 8. 守備最強モードの宇宙戦艦大和。 正直打力に関して言うと物足りませんが、守備は凄すぎて開いた口が塞がりません。 センターラインをこのレベルで守れるって・・・。 そして捕球Sとか言う化物。 さらに、レフトライトも特守でBになります。 実は大和選手、色々な守備位置を高水準で守ことができるのでリアタイの控え選手として超有能。 阪神純正の方も、それ以外の方も持っておいて損はない選手です! 広島 横山竜士 総合評価 8. 球威が高く、称号次第でAにも乗りますね。 横山選手は変化量の大きなカーブ、SFFを持っていて、自操作でも使いやすいでしょう。 また、対ピンチ、打たれ強さを持っているのでリーグオーダーでも安定感のある働きをしてくれるのではないでしょうか。 そして抑え適性も持っていて、配置しやすいので広島純正の方は欲しい選手ですね。 肩幅が分かりづらい画像でショック・・・。 ステータスは球威が高いですがB制球Cと抑えとしては若干物足りない感も否めないです。 が!抑えにあると暴力的な特殊能力である存在感を持っています。 金特ではないのが若干痛いですが、それでもあるのとないのとでは全然違いますね。 中日純正の方、肩幅フェチの方は是非取りに行きましょう。 あと娘さんのファンの方も。 勘違いしそうな方のために一応言っておきますが、某GMじゃないよ!石井弘寿さんは、ステータスエグい中継ぎって感じですね。 球種はストレート以外はそんなにって感じですが、ステータスが高い分、そりゃ強いわって感じ。 特殊能力に対ピンチを持っているのも相まって、リーグオーダーではなかなか活躍してくれそうです。 2020シリーズ1 TS第2弾の当たりランキング早見表 今回の超絶当たりランキング早見表は以下の通り! 1位 サファテ 5. 0 2位 原辰徳 5. 0 3位 石井弘寿 5. 0 4位 西口文也 4. 5 5位 吉川光夫 4. 5 6位 石井琢朗 4. 5 7位 今江敏晃 4. 0 8位 鉄平 4. 0 9位 与田剛 4. 0 10位 大和 4. 0 11位 横山竜士 3. 5 12位 中嶋聡 3. 今回はパ・リーグ、セ・リーグ共にガチって来てますね。 途中で諦めることにもなりかねないので、走るかどうかは早めに見切りつけましょうね! まとめさせてもらうぞ TS第2弾来ましたね! 第1弾と比べると見劣りしてしまう感は否めないですが、第2弾もアツモリ選手が登場!! 特にサファテ選手、原辰徳選手を初め、西口選手や大和選手はリアタイでも便利。 なかなか良いところをついてくるメンツでした。

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