歌舞伎は俳優の芸を中心として成り立つ演劇であった。 したがって、俳優が歌舞伎の構造の上に占める位置は極めて大きかった。 しかし、社会的には河原者・河原乞食などと呼ばれ、士農工商の四民以下に属させられていた。 彼らは一般には〈役者〉と呼ばれた。 社会的にいやしめられる身分であったが、大衆の側からは人気スター、市井の英雄として憧れられる存在であり、名優は破格の高給を得て、豪奢な生活をしていた。 そのぜいたくな生活ぶりが、しばしば幕府の弾圧を受けている。 実際には、千両を超す年給を得る役者もいた。 それでもなお、加役料・よない金などの名目で給金の上乗せが行われ、実質は七百両、八百両を取る役者が何人もあり、やがてもとのままに復してしまう。 役者は芸名のほかに、屋号と俳名を持っていた。 市川団十郎を成田屋 三升 さんじょう 、尾上菊五郎を音羽屋梅幸、沢村宗十郎を 紀伊国屋 きのくにや 訥子 とっし 、中村歌右衛門を成駒屋芝翫というように、通人は役者を屋号と俳名とで呼ぶこともあった。 屋号・俳名は、ともに社会的に不当に差別されていた役者たちが、一般町人や文人と対等の社交をするうえでの称号であったと考えることもできる。 現代の俳優は俳句を教養としてたしなむ人も少なくなり、その社会的地位も向上しているので、俳名の必要性はなくなった。 屋号は役者の〈家〉観念重視の象徴となり、家紋とともに現代にあっても強く意識されている。 〈大向う〉からの〈掛け声〉は観客が贔屓役者にかけた〈褒め詞〉の変型であろうが、この時に芸名を呼ばず、屋号を呼ぶ伝統はいまも生きている。 役者は〈家の芸〉の伝承と創造にかかわる家系・門閥を格別に重んじる。 芸名は幼名にはじまり、あたかも出世魚のごとく一定の段階を踏んで次々と改められていく例が多い。 そのほとんどの名前( 名跡 みょうせき )は世襲で、実子・養子・兄弟・実力のある高弟などによって襲名される。 役者は年齢的にも、芸の実力や人気の面でも成長したと認められたとき、あるいは父の急死によって後継者の成長が待望されるときなどに、一段上の芸名をつぐ。 これによって、周囲の見る目も変わってくるし、興行者の待遇もよくなる。 従来よりいい役が付くことにもなる。 むろん本人の自覚あってのことであるにしても、襲名は確実に役者を脱皮させ、大きく成長させる。 そこが歌舞伎役者の不思議なところである。 大幹部や花形役者の名前が並ぶだけで、おのずからはなやかなイメージが生じるのも、役者の名跡が持つ特別の魅力によっている。 一座の最高の地位にあり、座のメンバーを統率するとともに、その興行を成功させる責任をも持つのが〈 座頭 ざがしら 〉である。 一座の女方のうち最高位の役者を〈 立女方 たておやま 〉というが、女方は原則として座頭にはならなかった。 座頭に準ずる役者を〈 立者 たてもの 〉という。 一般の役者はこれに続くが、階層の区分は時代によって変遷があった。 もっとも古くは、〈立者〉と〈詰〉に分けられていたものが、のちに〈名題〉と〈 中通 ちゅうどお り〉〈 下立役 したたちやく 〉の三段階となった。 次にはその間に〈相中〉を作って〈名題〉〈相中〉〈中通り〉〈下立役〉の四段階に分けられた。 〈下立役〉は〈 稲荷町 いなりまち 〉とも呼ぶ。 次の段階になると〈相中〉の中の上中下三階級の 上分 かみぶん が独立して〈相中上分〉を作るため、〈名題〉〈相中上分〉〈相中〉〈中通り〉〈下立役〉の五段階となる。 さらには〈相中上分〉のうち、とくに名題昇進の近い者を〈名題下〉と称し、〈中通り〉と〈下立役〉を合わせて〈新相中〉を作ったため、〈名題〉〈名題下〉〈相中上分〉〈相中〉〈新相中〉の五段階が明治期における階級構成になっていた。 現代では、こうした複雑かつ厳格な何段階もの区別はなく、ただ〈名題〉(幹部を含む)と〈名題下〉とに大きく区分されているばかりである。 むろん両者は待遇面に大きな差があり、〈名題試験〉によって昇進の機会が与えられている。 江戸時代の役者は、楽屋の部屋の位置もはっきりと身分の差別をつけられていた。 江戸の例でいうと、三階には奥に座頭の部屋、その他の立者の部屋が席順に並び、名題下・相中などの下級の役者が雑居する大部屋が設けてあった。 いまも地位の低い俳優を総称して〈三階(さん)〉とか〈大部屋(さん)〉のように呼ぶ習慣が残っているのは、江戸時代の楽屋の位置にもとづいている。 もっとも、江戸時代には劇場の三階建が禁じられていたため、楽屋の実際の二階を〈中二階〉、三階を〈本二階〉と称して、表向き二階建築のように装った。 その二階には女方だけがいたことから、女方を〈中二階〉と呼ぶことも起こった。 一階には最下層の役者である下立役(〈稲荷町〉〈若い衆〉〈お 下 した 〉などともいう)が雑居する部屋があった。 〈稲荷町〉とも呼ばれたこの人たちは、劇場に付属していたため他座に移るということもなく、楽屋風呂にも入れてもらえず、近くの銭湯に行くといった差別的な待遇を受けていたが、年一度の楽屋行事である二月初午の日の〈稲荷祭〉は、彼らの手によってすべてが執り行われるならわしになっていた。 江戸時代中期以前には、〈立役〉〈若女方〉〈若衆方〉〈敵役〉〈実悪〉〈道外方〉〈親仁方〉〈花車方〉などの分業が確立しており、一人一役柄の原則が守られていた。 〈若衆方〉や〈若女方〉の役者の中で、年齢的に無理になったと判断して他の役柄に転ずる者もあったが、その転向には厳しい眼が向けられており、また二つの役柄に同時に属するといったことはありえなかった。 役者評判記は、まず役柄によって部を立て、それぞれの部の中で役者に位を付けて並べ、個々に批評を記す形式が確立していた。 中期以降しだいに一人一役柄の原則が崩れ、文化・文政のころになると、一人の役者がいくつもの役柄を兼ねて演じ分けることを良しとする風潮さえ生まれた。 三世中村歌右衛門から、〈兼ネル〉というのを名優の名誉ある称号であるとすることも始まった。 現在では、その俳優の芸風や 人柄 にん (容姿をもとにした芸域)、年齢などによっておのずから制約はされるものの、そのかぎりではいくつかの役柄を兼ねる例が多い。 女方の中で、女方以外の役柄は絶対に演じない俳優を、とくに〈真女方〉ともいう。 幕末期以降、若女方が若衆方や立役を兼ね、たとえば五世岩井半四郎のように、若衆の役や荒事師の役まで演じるといったことが行われるようになって後の称であるのはもちろんである。 なお、〈女方〉を〈女形〉、〈若衆方〉を〈若衆形〉とするように、〈方〉を〈形〉の文字でも表記するのは、すでに元禄ごろ以来の慣用であった。 元来は〈男方〉と〈女方〉とを区別するところから始まった用語のゆえに〈方〉の表記が原義を伝えている。 現在は、〈役柄〉という用語の概念が広義に使用されるようになり、〈役どころ〉というのに相当する役の類型を意味している。 現在、歌舞伎作品の様式の中にあり、独自の演技術(鬘・化粧・衣裳・せりふ術・演技などを含む)を必要とする〈役柄〉の種類の例は、別表のようになる。 歌舞伎の役柄の中で、とくに女方の存在は歌舞伎の特色の一つとして特筆に価する。 女方は、幕府による女性芸能者いっさい禁止の結果、やむを得ぬ手段として成立したのであるが、古代以来日本の芸能史では〈物真似〉の芸は男性が受け持つ伝統があったために、比較的すなおにこの特殊な役柄が定着したのであった。 元禄期の初世芳沢あやめ、享保期の初世瀬川菊之丞らの芸談や逸話を見ると、彼らが女性の物真似を徹底するために、日常を本当の女性の心で暮らすことなど、肉体を責める厳しい修業をみずからに課していたことを窺い知ることができる。
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つらね 「名のり」「言い立て」とも言われる。 美文調のまとまった長いセリフをとうとうと朗唱するように述べること。 渡りぜりふ 一列に並んで順々にセリフを言うもの。 「白浪五人男」の稲瀬川の場面が有名。 割りぜりふ 二人以上の人物が自分の心境を一節ずつ交互にしゃべり、最後は同じセリフで終わるもの。 「十六夜清心」など。 鸚鵡(おうむ) 同じセリフをオウム返しに繰り返すこと。 道化役が観客を笑わせるためにやることが多い。 歌舞伎の名セリフ・名言8選 歌舞伎の名セリフはたくさんあるので、ここでは歌舞伎の世界で 名言と呼ばれる8 つのセリフをご紹介します。 日常のちょっとしたときにさりげなく使うと、歌舞伎通っぽくなれますよ。 知らざあ言って聞かせやしょう 知らざあ言って聞かせやしょう、 浜の 真砂 まさごと五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ 七里ヶ浜 しちりがはま、その白波の夜働き、以前を言やあ江の島で、年季勤めの 児が淵 ちごがふち、 百味講 ひゃくみでちらす 撒銭 まきせんを、当に小皿の 一文子 いちもんこ、百が二百と賽銭の、くすね銭せえだんだんと、悪事はのぼる上の宮、岩本院で講中の、枕捜しも度重なり、 大長講 おてながこうと札附きに、とうとう島を追い出され、それから若衆の 美人局 つつもたせ、ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた音羽屋の、似ぬ声色で小ゆすりかたり、名さえ由縁の弁天小僧、菊之助たぁ俺がことだ。 「弁天小僧菊之助」 「 白浪五人男」で娘に化けていた 弁天小僧菊之助 べんてんこぞうきくのすけが鎌倉の呉服店「浜松屋」で、正体が男だとバレたときの有名なセリフ。 それまでいいところのお嬢さんだったのが、突然豹変して言葉遣いもがらっと変わるのがとても印象的で、その後に続くセリフも 七五調のリズムが美しく、 聞いていて惚れ惚れするような セリフ回しです。 後の場面「 稲瀬川勢揃いの場」で出てくる5人の盗賊が、それぞれの自己紹介をする「 つらね」と呼ばれる名のりの場面も、歌舞伎の名セリフの場面として有名です。 人に何かを教えるときに、「 知らざあ言って聞かせやしょう!」と一度使ってみたいセリフですね。 こいつぁ春から縁起がいいわぇ 月も 朧 おぼろに白魚の、 篝 かがりも霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに、心持よくうかうかと、浮かれ烏のたゞ一羽、 塒 ねぐらへ帰る川端で、 棹 さおの 雫 しずくか 濡れ手で泡 ぬれてであわ、思いがけなく手に入る百両、ほんに今夜は節分か、西の海より川のなか、落ちた 夜鷹 よたかは厄落とし、豆沢山に一文の、銭と違った金包み、 こいつぁ春から縁起がいいわぇ。 「お嬢吉三」 「 三人吉三巴白浪」 さんにんきちさともえのしらなみ(三人吉三 廓初買 くるわのはつがい)の「大川端の場」で、女装の盗賊 お嬢吉三 おじょうきちさが、通りがかった娘から百両を奪って川に突き落とした後に言うセリフの最後の部分です。 金を奪って殺しておいて「 縁起がいい」というのはどうかと思いますが、このセリフも 七五調のリズムが耳に心地よい名セリフとして人気があります。 また、「 厄払い」と呼ばれるこのセリフには、当時の節分での厄払いの風習が散りばめられていて、現代では忘れられた江戸時代の様子が伺えます。 今では正月や春先にセールのチラシなどで、「 こいつぁ春から縁起がいいわぇ」と使われたりすることもありますが、 何かいいことがあったときにぜひ使ってみたいセリフですね。 問われて名乗るもおこがましいが 問われて名乗るもおこがましいが、生まれは 遠州浜松在 えんしゅうはままつざい、十四の時に親に離れ、身の生業も白波の、沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々で、義賊と 噂高札 うわさたかふだの、廻る配布の 盥 たらい越し、危ねえその身の境涯も、最早四十に人間の、定めはわずか五十年、六十余州に隠れのねえ賊徒の 張本 ちょうぼん、日本駄右衛門。 「日本駄右衛門」 「 白浪五人男」の「 稲瀬川勢揃いの場」で、5人の盗賊が「 つらね」で名のりをあげるときの最初に、リーダーの 日本駄右衛門 にっぽんだえもんが語る有名なセリフです。 これも 七五調の美しいセリフ廻しが使われており、桜が咲き乱れる土手をバックに、5人が次々と名のりを上げる様子は壮観です。 今でも子どもたちに人気がある、 テレビの特撮ヒーロー戦隊の元祖「ゴレンジャー」の登場シーンと似ているとも言われる名場面ですが、それもそのはず、ゴレンジャーを作ったプロデューサーは、 登場シーンを「白浪五人男」をもとに考案したそうです! 人に名前を聞かれたときに、「 問われて名乗るもおこがましいが・・」と始めて自己紹介すると、とても印象に残ること請け合いです。 一生女郎に振られるということがねえ いかさま、この五丁町へ脛を踏ん込む野郎めらは、おれが名を聞いておけ。 まず第一おこりが落ちる。 まだよい事がある。 大門をずっと潜るときおれが名を手の平へ三遍書いて嘗めろ、 一生女郎に振られるということがねえ。 「助六」 助六由縁江戸桜 すけろくゆかりのえどざくらで主人公の 助六が言うセリフです。 助六は粋でいなせで喧嘩も強い色男、恋人の 揚巻 あげまきは吉原で一番の 花魁 おいらんという、いわば 江戸っ子が理想とする究極の伊達男です。 芝居の中では他にも、喧嘩っぱやい助六ならではの、セリフが満載です。 女郎たちにもらった煙管を意休に見せびらかして、 「 煙管の雨が降るようだ!」 通りがかった田舎侍に因縁をつけて、 「 股ぁくぐれ!」 新兵衛に喧嘩のやり方を教える時に、 「 鼻の穴に屋形船蹴こむぞ!」 ちょっと乱暴な言葉でも、助六が言うと聞いているだけでなんだかスカッとしてきます。 「 一生女郎に振られるということがねえ」とは、芝居の中では他の女郎にもモテモテぶりを発揮する助六だからこそ言えるセリフですが、 こういうセリフが言えるようなかっこいい男になりたいですね。 絶景かな、絶景かな 絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金とは小さなたとえ、この五右衛門が目から万両。 もはや日も西に傾き、誠に春の夕暮れの桜は、取りわけ 一入一入 ひとしおひとしお。 はて、 麗 うららかな眺めじゃなぁ・・・ 「石川五右衛門」 「 楼門五三桐」 さんもんごさんのきりで大泥棒・ 石川五右衛門が、京都の南禅寺山門で桜を眺めながら言うセリフです。 天下の大泥棒であり義賊とされ、豊臣政権の転覆を図って釜茹でにされたという逸話を持つ 石川五右衛門は歌舞伎にとっては格好の題材です。 このセリフが語られる楼門の場面は15分ほどしかありませんが、 歌舞伎らしい雰囲気のある場面と、石川五右衛門というキャラクターの人気で、何度も繰り返し上演されています。 現代でも 見事な風景を前に思わず、「 絶景かな」という言葉が出ますが、女湯や着替えを覗いたときのセリフとして悪用されることもあるとか。 せまじきものは宮仕えじゃなぁ 「 菅原伝授手習鑑」 すがわらでんじゅてならいかがみの「 寺子屋」での 武部源蔵のセリフ、 「 せまじきものは宮仕えじゃなぁ」 源蔵はかつて使えていた主君・ 菅丞相 かんじょうしょうの子供・ 菅秀才 かんしゅうさいを匿っていました。 しかし、そのことが敵方の 藤原時平 ふじわらのしへいにばれて、その首を差し出せと迫られた時に、「 せまじきものは宮仕えじゃなあ」と嘆きます。 寺子屋をやっている源蔵は 菅秀才をかばうために小太郎という別の子供を犠牲にしてその首を差し出すことにします。 そして藤原時平の命を受けて菅秀才の 首実検 くびじっけん(首が本物か確かめること)に来たのが、かつて菅丞相に恩義のあった 松王丸 まつおうまるでした。 首を確かめた松王丸は、「 菅秀才の首に間違いない」と言い切って帰りましたが、 実は犠牲になった小太郎は松王丸の息子だったのです。 源蔵が救おうとしている菅秀才は、松王丸にとっても恩義のある菅丞相の子供だったため、 身代わりとして犠牲にされることをわかっていながら、あえて源蔵の寺子屋に自分の息子・小太郎を行かせたのです。 なんとも悲痛な忠義のお話ですが、 歌舞伎の屈指の名作とされています。 現代では会社勤めのサラリーマンなどが、 会社や組織の命令に逆らえないときに、「 せまじきものは会社務め・・」などと、少しもじったセリフが出てくるようです。 雉子も啼かずば討たれまいに 命を取るのも殺生と、存じたなれどつけあがり、止事を得ず不適もの、刀の 穢 けがれと存ずれど、往き来の人のためにもと、よんどころなく 斯 かくの仕合せ、 雉子も啼かずば討たれまいに、益なき殺生致しました。 「白井権八」 「 浮世柄比翼稲妻 うきよづかひよくのいなづま」の「 鈴ヶ森」で、美少年の剣客・ 白井権八 しらいごんぱちの台詞です。 人を殺して逃げている権八が刑場で有名な鈴ヶ森に差し掛かったとき、権八を捕らえて褒美をもらおうと待ち構えていた追い剥ぎ達に襲われます。 しかし、権八は見事な剣さばきで次々と追い剥ぎたちを切り捨てていきます。 そこに現れたのが江戸の侠客として知られる 幡随長兵衛 ばんずいちょうべえです。 長兵衛は権八に「 お若えの、お待ちなせえやし」と声をかけます。 その長兵衛の呼びかけに答えて権八が言ったのが、前述の「 雉子も啼かずば討たれまいに」という一節がある台詞です。 無益な殺生を反省するというよりは、若者が自分の強さを得意がって言っているようですね。 この台詞は、「 余計なことを言ったばかりに、自ら災いを招くこと」という、ことわざとしても使われています。 近頃面目次第もございません 最後は歌舞伎十八番の演目の一つ、「 毛抜 けぬき」の 粂寺弾正 くめでらだんじょうが観客に向かって深々と頭を下げながら言うセリフ、「 近頃面目次第もございません」 弾正は歌舞伎のキャラクターの中でも ダントツにおもしろい存在です。 美しい若衆に言い寄っては振られたと思えば、こんどは腰元を口説こうとして足蹴にされるなど、 道化のようなユニークな様子かと思えば、誰もわからなかった姫の謎の病の原因を突き止め、ついでに悪人も退治してしまうという、目覚ましい活躍ぶりを発揮します。 「 近頃面目次第もございません」は弾正が若衆や腰元に言い寄って振られるたびに、はっと我に返って観客に向かって言うセリフですが、 なんともお茶目で愛嬌があります。 女性に振られたときの失敗談を、面白おかしく言うのにいいかもしれませんね。 まとめ 歌舞伎の有名なセリフを 7つ紹介してみましたが、いかがでしたでしょうか? 「 知らざあ言って聞かせやしょう」 白浪五人男の弁天小僧菊之助 「 こいつは春から縁起がいいわぇ」 三人吉三のお嬢吉三 「 問われて名乗るもおこがましいが」 白浪五人男の日本駄右衛門 「 一生女郎に振られることがねぇ」 助六由縁江戸桜の助六 「 絶景かな、絶景かな」 楼門五三の石川五右衛門 「 せまじきものは宮仕えじゃなぁ」 寺子屋の武部源蔵 「 近頃面目次第もございません」 毛抜の粂寺弾正 どれも歌舞伎ならではのセリフですが、私たちの身近に使われることもあります。 気に入ったセリフはぜひ覚えておいて、ここぞというときに使ってみてくださいね。
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日本の演劇の一つ。 せりふ,音楽,の各要素が混然一体となっている。 伎は「傾()き」(異常,放埒の意)のあて字。 江戸時代初期のの踊が始まりとされ,そのまねをした遊女たちが茶屋や風呂上がり風俗をミュージカル風に演じてみせた。 しかし風俗紊乱のかどでが禁止され,その二十数年後には少年たちによるも禁止された。 以後は「物真似尽」として男性俳優のみによる中心の舞台が展開し,その結果,の演技術が生まれた。 また『』という劇評書が毎年出版されて演技評が確立した。 享保期にはやによって女方舞踊が完成され,天明期には立役中心の浄瑠璃が江戸で発達。 以後,劇壇の趨勢は上方から江戸に移り,化政期にはによってが創始され,また舞踊にが生まれて爛熟期を迎えた。 7世,5世,5世らの名優が続出して演技術が極度に発達したが,同時に伎芸の固定化がみられ,演技,演出の型や家の芸が生まれた。 にはによる白浪物が生まれ,4世が活躍。 明治以降は一種の革新期を迎え 9世,5世を中心に,やが現れ,大正期には 2世を中心にという新しいをみせた。 第2次世界大戦後は,擬古典から古典を意識しないものまで種々の新作がされ,3世によるという新しいジャンルが出現する,国立劇場を中心に上演される復活狂言も一つの傾向を示している。 1965年国の重要無形文化財に指定。 2008年に登録された。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 江戸時代の庶民文化のもとに成立した演劇。 ・とともに日本の三大古典劇とされる。 1600年ごろ京都でが始めた〈かぶき踊〉が前身。 〈〉とは新奇・異様な行動の意で,〈歌舞伎〉は明治以後に当てられた字。 それ以前には〈歌舞妓〉と書かれたこともある。 爆発的な人気を呼んだかぶき踊は,諸国の遊女たちに模倣されての隆盛を招いたが,風紀を乱すとの理由で1629年に禁止。 代わって前髪の美少年ばかりによるが盛んになったが,これも同じ理由によって1652年に禁止され,その後は技芸と本位のとして興行を許された。 町人文化の興隆期となった元禄時代以後は,名作者・名優の輩出により本格的な演劇として急速に成長。 人形浄瑠璃の台本・演出を取り入れて,内容と様式が豊富になり,・節・清元節などの劇場音楽とともにが進歩し,の複雑化につれて各種の舞台機構が発達するなど,多彩な発展をとげた。 維新後は,急激に輸入された外国文化の影響を受け,また新派劇・の勃興 ぼっこう をはじめ各種の新しい演劇に刺激され,いろいろな改革や復興が試みられたが,大勢は次第に古典化して今日に及んでいる。 歴史が長いだけに,演劇として非常に多くの要素をもつが,もともと舞踊から出発し,人形浄瑠璃とも密接な関係をもち,また女優の禁止に伴う おんながた の出演などの理由により,総じて様式性の高い点が特色とされる舞台芸術である。 2005年ユネスコの〈人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言〉リストに登録された。 四〇〇年の歴史がある。 を中心とした音楽と物語性を加味した芝居。 男が女に扮するの存在、ストップモーション風な、立ち回り、しゃべり方、化粧法、舞台装置など独特の形式を持つ。 出雲国の おくに が一六〇三 慶長八 年、京都で女だけのを興行したのが始まり。 奇抜な服装をしたので「傾 かぶ き踊り」と呼ばれた 「歌舞伎」は。 女歌舞伎から若衆歌舞伎、へと。 現在、の数は約六〇〇人。 などで身体をに吊り上げるの演技、着重ねた衣装の糸を抜いて瞬間に衣装を替える引き抜き、一瞬で他人と入れ替わる早替わりなどのけれん芸 視覚的だが俗受けの演技 の導入で、若い人の人気も保っている。 出典 株 朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」 とっさの日本語便利帳について の解説 江戸時代に成立した日本独特の演劇 「かぶき」とは非常識で異様なふるまいや風俗を示す語「傾 かぶ く」が転じたもの。 おくに が京都で()を演じてから,女歌舞伎,ついで若衆歌舞伎が流行したが,いずれも風俗紊乱を理由に禁止された。 その後野郎歌舞伎が,それまでの容色中心から伎芸と脚本を中心とする演劇として発達し,元禄期(1688〜1704)にいちおう完成した。 以後人形浄瑠璃の脚本・演出や長唄・常磐津などの音曲をとり入れ,1800年ころまでに大成。 幕末に爛熟期を迎えたが,に入り古典化して現代に至る。 出典 旺文社日本史事典 三訂版 旺文社日本史事典 三訂版について 世界大百科事典 内の歌舞伎 の言及 【芸能】より … その間,諸寺院では僧侶たちによる(えんねん)の芸能が行われ,民間では(しらびようし),(くせまい),(こうわかまい)などの遊行芸能者による歌舞や,極楽往生を願う民衆が念仏を唱えつつ群舞する,さらには若い男女が華麗な衣装と小道具を誇示して踊る風流踊(ふりゆうおどり) などが流行した。 長い戦国の争乱ののち,徳川幕府が成立したのは1603年 慶長8 であったが,この年京の河原で名のりを挙げた出雲のお国の歌舞伎踊には,それら踊念仏や風流踊などの要素が多彩に取り込まれていた。 当初女性主体の歌舞伎踊は29年 寛永6 風俗紊乱(びんらん)のかどで少年主体の若衆(わかしゆ)歌舞伎に変わり,さらに52年 承応1 以後は成人男子中心の野郎(やろう)歌舞伎に変わって,以後演劇色を強めるに至る。 … 【歴史劇】より …20世紀に入って,ドイツのブレヒトも歴史劇に大いに関心を示していたし,今日では,イギリスのジョン・アーデンも歴史劇作家の一人に加えておかねばなるまい。 [日本] 日本では,能 《安宅》など や人形浄瑠璃にも広義の歴史劇が見いだされるが,特に,歌舞伎には,広義の歴史劇の典型が見られる。 王朝物や時代物の多くの作品がそれであり,例えば,《勧進帳》や《菅原伝授手習鑑(てならいかがみ)》などは偉大なるアナクロニズムの産物であり,弁慶や牛若丸といった登場人物たちは大いなる〈神話化〉を遂げているのである。 出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について.
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