紫式部は平安時代半ばに登場した女流作家であり、歌人です。 『源氏物語』の作者であり藤原彰子の女房でもありました。 彼女は学者の藤原為時の娘で3人兄弟。 当時の女性は漢文を読む必要はありませんでしたが、幼いころからすでに漢文を読むことができ、親の血筋を引いた利発な少女でした。 その後父親の転勤で越前国に同行し、約2年間滞在します。 藤原宣孝と結婚をしますが一女をもうけた後、宣孝とは死別。 『源氏物語』の執筆はこの頃からスタートし、その内容に感銘を受けた藤原道長により、中宮であった藤原彰子の女房として仕えるようになりました。 『源氏物語』の完結はさらにその後と考えられています。 性格はいたって内向的で、宮中でうまくやるためには自分の才能をひた隠すような謙虚な人でした。 中宮彰子の家庭教師をするときも、「自分が教えたことは内緒にしていてください」というほどの徹底ぶりだったのです。 紫式部の名前は当時としては特殊で、本来の女房名は藤式部でした。 『源氏物語』の登場人物「紫の上」から取られた呼び名と言われています。 1012年頃まで仕え、その後の消息はわかっていません。 1:清少納言が嫌いだった? 紫式部と清少納言は、それぞれ政治的ライバルの妃に仕えていた、ある意味表と裏のような存在でした。 清少納言は自分の才能を駆使しゴージャスな宮中文化を展開しましたが、一方の紫式部はおとなしくしているタイプです。 そんな彼女は『紫式部日記』の中で、「清少納言は漢字なんか書き散らしているけれど、大したことはない」と辛辣に記しています。 2:漢字が読めないふりをしていた 当時の女性は漢文を読まないという風潮でしたが、紫式部は幼少の頃からお兄さんの勉強をかたわらで聞いただけで漢文をマスターしたような才女で、漢文をマスターしていました。 しかし「目立ってもいいことない」と突出することを極端に怖れる性格の彼女は、「一」すら読めないというふりをしたのです。 屏風に書いてあることも読めない、とその才を隠すことに関しては徹底していました。 しかしそれはどう考えてもバレていたでしょう。 というのも源氏物語のあるセクションは昔の中国の漢文で書かれた話をモチーフにしており、漢文が読めなくては書けないような内容だからです。 愛読者だった一条天皇をはじめ、宮中の人もわかっていたと思われます。 中宮彰子にも漢文を教えていてその才能は高く評価されていました。 3:年の差婚をしていた 紫式部は藤原宣孝と結婚しますが、その年の差は相当離れていたようです。 2人ともいつ生まれたのかはっきりしていませんが、彼女の少女時代に宣孝はすでに蔵人として働いていましたので、20才近い歳の差があったと思われます。 4:ダンナを清少納言にけなされる 清少納言と紫式部はおそらく面識はありません。 しかし清少納言は、彼女の夫の藤原宣孝とは会ったことがあるようで、『枕草子』において「御嶽詣に行くのに派手な格好で来ていた」とチクリと記していました。 5:娘も彰子の女房になる 藤原宣孝と紫式部の子、大弐三位は面白い経歴をたどる人で、母親が退職した後に彰子の女房となります。 このころ非常にモテていたようで、様々な貴族と付き合っていたようです。 恋に引っ込み思案な母親とは逆のタイプでした。 母親同様、女房三十六歌仙のひとりであり、彼女とは違うタイプの歌を詠んでいます。 紫式部は何を考えていたのか まさに藤原氏がやりたい放題だった時代に、漢学者を父に持ち類まれなる才能を授かった紫式部はなぜ『源氏物語』を書いたのか。 彼女の生涯を描いた一大長編小説です。 文庫本で約1000ページあるため読む前に圧倒されてしまうかもれませんが、読み始めると会話の口調は軽妙で分かりやすく、すらすらと読み進めることができます。 また複雑な人物相関図も要所にはさまれているので、誰が誰なのかがわからなくなることもないよう配慮されています。 物語のメインストーリーは、藤原一族が牛耳る世の中での、女性の不条理な役割に違和感を持つ彼女の成長ですので、宣孝との結婚があまり楽しいものとは描かれていません。 あくまでも理知的な紫式部像が展開されています。 非常に重厚な内容ですが、史実に基づいて正確に叙述されており、歴史ものとしてもひとりの女性の物語としても楽しめます。 ところどころに史実とは違う描写も入れこまれ、古典ファンにはたまらない展開が用意されています。 花山天皇の出家を画策され受領階級である自分の家も没落するというやるせない展開や、気が進まない結婚など、つらい時期を経て文学に真の愛を見出そうとする彼女の心中がしみる作品です。 本作では、紫式部は目立つことを嫌い、社会に違和感を持っている人物として描かれています。 彼女が、この時代の権力者の横暴さに翻弄される女性たちの気持ちを代弁しているのか、あるいは唯一その不条理に気づいたのか、社会に違和感を持つ人にはぜひ読んでいただきたい一冊です。 本書は小迎の『本日もいとをかし!! 枕草子』の続編とも言えるもので、清少納言とは対象的にあまり派手ではない性格をしていた紫式部が主人公です。 歴史的な事項が満載で、古典の予備知識がない人が読んでも楽しめる内容となっています。 地味な人物をここまで面白いマンガにできるのは筆者の画力と筆力のたまものですが、特に見どころなのは、やはり彼女のたどった人生の過酷さです。 それが『源氏物語』に通底する「あはれ」に繋がっているのだということを認識させてくれます。 この作品を取っかかりにして『源氏物語』を読破することも可能といえるほど解説が丁寧なので、紫式部がどういう人なのかを知りたい人には、まずは本書をおすすめします。 本人が語る『源氏物語』執筆の理由 歌には現代語訳が付いており、話は分かりやすく展開されています。 一般的に彼女の歌は無常観があり、あっさりしているような印象を持たれていますが、その背景にある彼女の思いを汲み取ると、ここまで歌がいきいきとしてくるのかと驚かされる内容です。 『源氏物語』の光源氏をはじめとする登場人物を自分と同じ目に合わせる、というくだりなどは彼女の口から言及されるとはっとする生々しさをおぼえます。 女房になりたかったわけではない彼女の中宮彰子に対する気持ちは、清少納言の熱狂的な定子に対する心理とはまた別の、静かだけれど熱いものだったのだと確認でき、単なる研究本の枠を超えた読み応えのある作品となっています。 紫式部とその周辺の楽しい仲間たち 平安時代を現代に置き換える筆者の手腕は見事で、「小倉百人一首」をヒット曲をあつめたオムニバスアルバムと解釈したのはさすがです。 「牛車の車窓から」「長安ウルルン滞在記」「行列のできる律令法律相談所」などのテレビ番組のパロディは抱腹絶倒ものですが、圧巻は「特命係長 紀貫之」で、普段は窓際オネエ係長の紀貫之がギャル語を浸透させる……という内容になっています。 本書はこのようなパロディマンガの後に史実を詳しく解説し、人物紹介も行ない、さらにその登場人物が詠んだ歌を収録、現代語訳も添えるという徹底ぶりで、小倉百人一首を理解する力強い手助けになる構成です。 全首収録されているわけではありませんが、巻末にはすべて掲載されているので解説されていないものも自分なりに楽しむことができます。 かなりのドタバタぶりを見せる内裏商事の社員たちですが、その歌に秘められた思いや人間模様を考えると、人間はいつの時代も同じだということがわかります。 いかがでしたでしょうか。 紫式部という、才能に溢れてはいたものの生きることに不器用な愛すべき人物が分かる作品をご紹介しました。 ぜひ彼女の作品を堪能してみてください。 1965年神奈川県川崎市生まれ。 学習院大学文学部フランス文学科を卒業後つねに修行中の身です。 フォークからジャム、ジャズからテクノまで何でもやらないと気が済まない80年代ミュージシャンの生き残りです。 トラ&アッキー、フェリスボーイズ、ラチョイ、Uchoojean Tokyo、さめず食堂そしてJamゴージャスなんてバンドをやっています。 自分のバンド以外にもアニメやテレビ、CMなどの音楽を手がけています。 文学と音楽と野球と釣りに命をかける毎日を送っています。 一番売れたと思われるCDは『撲殺天使ドクロちゃん サウンドトラックだよ!ドクロちゃん』、一番ヒットしたシングルは伊藤かな恵『ストライプはシマシマ』(ともにジェネオン・ユニバーサル)です。
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父は藤原北家良門流の越後守であった 藤原為時、母は摂津守の 藤原為信の娘です。 母を早くに亡くし、漢学者であった 藤原為時の手で育てられたようです。 また、紫式部の 本名は不明です。 紫式部と夫の死別 紫式部は幼少の頃から、 当時の 女性に求められる以上の才能があり、 漢文を読みこなすなど 才女であったと伝わります。 藤原為時は越前国の受領となった為 紫式部も2年ほど越前で暮らします。 998年頃、紫式部は山城守の 藤原宣孝と結婚、 翌年に一女の 藤原賢子を儲けます。 しかしわずか2年後の1001年には 夫の藤原宣孝と 死別してしまいます。 紫式部は未亡人となってから 『源氏物語』の執筆を開始 したと推測されています。 紫式部と女房時代 その後1006年頃から紫式部は、 一条天皇の中宮の 彰子 の長女 に 女房兼家庭教師として仕えます。 また、と結婚した源倫子の 女房として仕えていたという説もあります。 紫式部の作品 ここでは簡単に 紫式部の作品について紹介します。 源氏物語• 紫式部日記 これらの作品について 以下で解説していきます。 紫式部の「源氏物語」 冒頭でも述べましたが、 紫式部の「 源氏物語」は 世界最古の長編小説です。 1004~1012年頃に作られたようで すべてが紫式部の執筆ではないです。 天皇の子である光源氏を主人公に、 貴族たちの恋愛と人生を描いた物語です。 紫式部が仕えていた彰子は、 この源氏物語を気に入って、 夫の一条天皇に披露します。 そして一条天皇も、 源氏物語を読みたいが為に 彰子の部屋へ通ったそうです。 紫式部の「紫式部日記」 『紫式部日記』は、紫式部が 中宮の彰子に仕えていた頃に 書いた日記です。 1008年7月から1010年1月の記録で 一条天皇の夫の中宮彰子の出産を中心に はなやかな後宮生活の様子と、 その間の紫式部の感想が書かれています。 また和泉式部、赤染衛門、 などへの批評や感想を細かく記しています。
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紫式部ってどんな人?小学生向けにわかりやすく解説! まずは 紫式部がどんな人だったのかを、小学生向けにわかりやすくご紹介します。 紫式部が生きたのは10世紀の終わりから11世紀の初めごろ。 平安時代の真ん中の時期なのですが、紫式部が生まれた年や亡くなった年は正確にはわかっていません。 紫式部の父・藤原為時は学者として有名な人で、紫式部も 子どものころから勉強好きでした。 父が紫式部の兄に漢文を教えていたところ、紫式部のほうがすぐに覚えてしまい「この子が男の子だったら将来、立派な学者になるのに……」と残念がったそうです。 その一方で、紫式部はとてもシャイな性格だったようです。 漢文の知識があることを周囲には見せず「一」をいう漢字すら書けないふりをしてたのだとか。 スポンサードリンク 紫式部は結婚、出産を経験し、夫に先立たれています。 『源氏物語』はこのころから書き始められたと考えられています。 この物語の評判が道長の耳に入り、道長の娘で一条天皇の妃である彰子に女房(身の回りの世話をする人)として仕えることになりました。 宮中では一条天皇をはじめとする人々が、執筆途中の『源氏物語』を読んでいたようで、道長も紫式部の部屋を訪ねては「続きを早く読みたい!」とリクエストをしていました。 やがて『源氏物語』は約10年の歳月をかけ、宮仕えをしている最中に完成したようです。 その後しばらくして、紫式部は宮中を去ります。 式部のその後の足取りはよくわかっていませんが、 娘で恋多き女として有名な大弐三位が、紫式部のあとを継いで彰子に仕えています。 生まれた年も亡くなった年もわからないのですが、40代で亡くなったようです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・970年ごろ 学者・藤原為時の娘として生まれる。 ・998年ごろ 藤原宣孝と結婚。 宣孝とは親子ほど年の差があった。 ・999年ごろ 藤原賢子(のちの歌人・大弐三位)を産む。 ・1001年 夫の藤原宣孝がなくなる。 このころから『源氏物語』を書き始めたと言われている。 ・1005年ごろ 一条天皇の妃である彰子 藤原道長の娘 に仕え始める。 ・1010年ごろ このころ『源氏物語』が完成したとされている。 ・1012年ごろ 彰子のもとを去る。 ・1014年ごろ このころ、紫式部は亡くなったと言われている。 スポンサードリンク できごとが起こった年も推測のものばかりですね。 また、「紫式部」という名前ですが、実は本名ではありません。 作成した物語『源氏物語』の登場人物である「紫の上」にちなんで、この名前で呼ばれるようになったそうです。 平安時代は、天皇の妃や子どものような女性でなければ、本名も生まれた年や亡くなった年もわからないことが多いのです。 『源氏物語』を小学生向けにわかりやすく解説! 最後に、『 源氏物語』を小学生の方に向けてご紹介します。 『源氏物語』はとても長い小説で、 400字詰原稿用紙で約2400枚という今の小説家もビックリする位の分量がありました。 全部で54の章に分かれ、それぞれの章ごとに「桐壷」「若紫」といった名前が付けられています。 主人公は天皇の皇子として生まれた光源氏 ひかるげんじ です。 母が低い身分だったため、宮中での跡継ぎ争いにはとても耐えられないだろうという天皇の配慮もあり、皇族の地位を離れます。 さまざまな女性との恋愛模様、友人たちとの語らいや出世競争が描かれます。 物語は光源氏とその子、孫の代まで70年間という長い時間におよび、登場人物は約500人。 約800首の和歌が紹介されています。 紫式部は彰子に仕える前から『源氏物語』を書き始めていて、すでに貴族の間で評判になっていたようです。 藤原道長は「一条天皇を娘・彰子のもとにひきつけるために、この物語は仕える!」と思ったのでしょうか。 紫式部を娘の世話係&家庭教師にスカウトしたのです。 道長のねらいは当たったようで、歌や漢文、物語を読むのが好きな一条天皇は『源氏物語』読みたさに彰子の部屋に来ることが多くなったそう。 また、紫式部が彰子の家庭教師になったことで、彰子も一条天皇の相手としてふさわしい教養を身に着けることができたのです。 宮中で仕事をするようになり、紫式部の創作意欲はますます高まったでしょう。 自分が実際に見たり聞いたりしたことを、そのまま物語に生かせるのですから。 それに、藤原道長からは、執筆のための紙や筆をたくさん与えられたはず。 当時、紙はとても貴重品だったので、道長からの援助がなければ、原稿用紙2400枚という大作を完成させるのは難しかったと思います。 紫式部の生涯は、あまり分かっていません。 また、なぜ『源氏物語』を書こうと思ったのかも分かっておらず、その研究はなかなか進んでいないのです。 さらに、紫式部は本当に『源氏物語』を書いたのかという疑問まで出ています。 今の本のように、『源氏物語』の表紙に作者名が書いてあるわけではありません。 そもそも『源氏物語』は紫式部が書いたものを、貴族が書き写し、それをまた誰かが書き写し……というかたちで現代まで残ってきた作品なのです。 この先、こうした謎を解く手がかりになるようなものが見つかると、教科書の内容も変わるかもしれませんね。 なお、以下の記事では紫式部と並ぶ 平安時代の女性作家である 清少納言について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
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