なぜこのように詠われたのか、解説します。 織田信長の性格とエピソード 織田信長の業績 織田信長は 既存の概念に捉われず、新しい物好き です。 斬新な発想を、信長の独断で行動を起こし、 行政から軍事まで革新的な改革をしています。 能力があれば身分は関係ない。 織田信長は、 肩書き等、関係なく戦に強い、戦略がずば抜けているなど、能力が高ければ重臣に採用もします。 明智光秀や豊臣秀吉も織田信長と血縁も関係なよその者ですが、能力が高かった為、地位を与えられています。 経済改革に取り組む 織田信長は、 街道を整備して、一定の間隔で茶屋や休憩所を設置しました。 それにより、戦で長い距離を移動しやすくなるので兵力が落ちません。 また商人達も移動しやすく 商業も活性化します。 貨幣を統一し、更に城下内で、自由取引する場所 【楽市楽座】を実施したおかげで商業が発展します。 そして 通行税も廃止したので物品の流れが良くなり、税収入が大幅に増え、織田信長は 財政が豊かになります。 徴兵制度を改める 織田信長の軍隊が数が多くなり強くなり、天下統一まであと少しの所まできました。 その理由は、 【兵農分離】を行い、戦力が上がった為です。 兵農分離は農民は税を納める為、農作物や米を作ることに専念し、軍兵は戦にだけ集中するという政策を行います。 そうすることにより、 経済は安定し、戦にかかる費用や鉄砲などの新しい武器や防具の調達できます。 軍兵も戦が無い時には武力を学びレベルが上がります。 このように、織田信長は 概念に捉われない発想と行動力で、経済政策や軍事制度を改革 していきました。 こうして兵力を拡大し強くしていったので天下統一まで少しのところまできました。 織田信長の性格が残忍と言われた理由 比叡山の焼き討ち 織田信長は、 自分に逆らう物、裏切る者は徹底的に攻め、殺してしまいます。 残忍なエピソードで有名なのが 比叡山の焼き討ちです。 比叡山は、信長と対立していた浅井・朝倉連合軍をかくまりかばい続けたことがきっかけで比叡山の焼き討ちが起こります。 そして、織田信長は寺や霊社等全てを焼き払って比叡山が1日で灰になったと言われています。 浅井・朝倉の軍や僧侶以外の老若男女問わず全員を惨殺していきます。 「悪い僧侶だけを殺して私は助けてくれ」とお願いした高僧らの声も無視し、高僧らの首を討ち落としたとあります。 「比叡山の山麓には数千の屍があふれ、この世のものとは思えない光景で哀れだ」といった言葉があり、 これは比叡山の焼き討ちがいかに残忍で悲惨だったかが表わしています。 その他にも残忍な戦いがいくつもある 織田軍はとにかく、兵の数もおおく、武力も備わっています。 長島一向一揆攻めも、長島一向一揆勢は降伏をしましたが、やはり織田信長は許さずに、1000人を切り殺し、2000人を焼き殺すという悲惨な殺し方をします。 越前一揆勢は山に逃げ込みますが、誰一人男女問わず殺戮せよと命じ、隅から隅まで全員みつけて殺害します。 天正伊賀の乱や荒木一党惨殺も、信長の指示に背いたり逆らった者のいる場所の子供から老人、男女問わず全ての人々を殺戮します。 こうして、 信長の命令に背いたり、逆らった者はどんなに降伏しても許さず、敵の勢力は子供でも誰でも残忍に殺していきます。 なぜこのように詠われたのか解説します。 豊臣秀吉の性格とエピソード 豊臣秀吉の政策 豊臣秀吉は、 織田信長が政策はほぼ受け継ぎます。 豊臣秀吉が行ったのは、 【太閤検地】という 全国の検地で尺の統一を行います。 そして全国の税制を 石高に統一しました。 豊臣秀吉の時代の年貢は農民にとって過酷な二公一民(収穫の3分の2が年貢)とされていた為、農民が一揆を起こさないように 【刀狩り】をしました。 豊臣秀吉の性格や戦い方 豊臣秀吉は 「人たらし」 と言われ、 人を惹き付ける魅力があり、織田信長にも気に入られ、 農民の身分から天下統一する武将にまで昇っていきました。 農民から這い上がった豊臣秀吉の戦い方は 「戦わないで勝つのが最善」 という考えです。 兵の中には多くの農民が戦に出て亡くなってしまいます。 秀吉自身も戦により、貧困になったり命が危うくなったこともあった為、人が死なないように、無駄な戦いをしないように努めます。 また秀吉は 「斬るのが嫌い」 と刀で斬るのを嫌っていた為、敵を人質を取ったり、敵軍と政略結婚をさせたりと戦を回避するようにしたり、戦では、兵糧断ち作戦や秀吉の条件通りに降伏をさせていました。 なぜ、このように詠われたのかを解説します。 徳川家康の性格とエピソード 徳川家康の政策や戦い方 徳川家康は、豊臣秀吉の天下統一した 財はそのまま受け継ぎます。 そして、 政策も織田信長と豊臣秀吉の良い政策だけ引継ぎ、同じ失敗を犯さないようにします。 まず、徳川家康は 信頼を置いている家臣を居城である江戸城の近くの土地を渡し住まわせていきます。 逆に従わない者、信頼出来ない者は地方に飛ばし領地を与えます。 そしてこの 各諸大名が力を増す事がないように、土木工事などの普請をさせます。 裏切り行為がないようにと 秀吉の政策を真似て諸大名の妻子を江戸城下町に住まわせます。 家康は重臣の妻子までも住まわせ、下剋上対策をします。 豊臣秀頼が率いる巨大勢力は、いつ害が及ぶか解らないので、家康が70歳過ぎて力が残っているうちに 大阪の陣 で滅ぼします。 これにより、不安材料が無くなり江戸幕府が260年も続いたと言われています。 徳川家康は 農本思想です。 農本思想というのは、 食糧の確保は重要であり農業の保護を重視する政治のことです。 このことにより、農民から一揆が起こることもなく、諸大名達からの下剋上も無くします。 これにより 徳川家康が天下統一すると、戦いが亡くなり、戦国時代が終わった のです。 徳川家康が天下を取るまで 織田信長が亡くなった後、 豊臣秀吉が先に明智軍を倒した為、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げました。 徳川家康は野戦においては、1敗した以外全て勝利していますので、とても強い武将です。 豊臣秀吉が天下人になっている間に攻めても勝っていたかもしれませんが、家康は天下とる為といっても、 攻めることはしませんでした。 とにかく、 天下を取れる時期がくるのを待ちつづけ、豊臣秀吉が亡くなったら、そこから戦わずして天下統一を成し遂げます。 その様子から.
次の
鳴かぬなら殺してしまえホトトギスって織田信長の名言なの? 鳴かぬなら殺してしまえホトトギスって織田信長のことですけど、 他にもありますよね。 豊臣秀吉は、鳴かぬなら鳴かしてみせようホトトギス。 徳川家康は、鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス。 でも、この言葉って本人が言った名言なんでしょうか? 実は、このホトトギスの言葉は 後世の作り物です。 これらの川柳は、江戸時代後期に現在の長崎県の肥前(ひぜん)国。 平戸藩主の松浦静山の随筆「甲子夜話(こうしやわ)」に書かれているんです。 鳴かないホトトギスをどうするかで、 天下人の3人の武将たちの性格を表した川柳として有名なんですよ。 鳴かぬなら殺してしまえホトトギスは、 すぐに殺すことで織田信長の短気なところと気難しさを表しています。 鳴かぬなら鳴かしてみせようホトトギスは、 鳴かないホトトギスを鳴かせてみせる豊臣秀吉のひとたらしさ。 そして、好奇心旺盛なところを表しているんですね。 鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギスは、 徳川家康の耐えに耐えた忍耐強さを表現しているんだとか。 簡単で3人の性格がよく伝わりますよね。 とても分かりやすい表現だと思います。 でも、本当に織田信長は短気で気難しい性格だったのでしょうか? 織田信長の性格って?性格にまつわるエピソード 天下人の1人である、織田信長。 天下人である人が本当に短気で気難しい性格で天下が取れるんでしょうか? 織田信長にまつわるエピソードを見てちょっと性格を知ってみましょう! 〇織田信長は尾張の大うつけ! 織田信長の少年時代は尾張の大うつけと呼ばれていました。 常識がなかったり、バカげた行動をする人のことを「大うつけ」と呼んでいたんですね。 その行動は、確かにすごいものばかりで現代でもやったらかなり怒られるものも! 柿などを食べながら、だらしなく町を上半身裸格好で歩くいたり、 町の仲間達と狩りや相撲などをして遊んだそうです。 父の葬儀で遅刻した上に、いつものラフな格好で登場。 そして、焼香を位牌に投げつけ帰ってしまったとか。 信長がこんなんなので、母親は弟ばかりに愛を注いだそうです。 確かに当時の殿様の子供ですから、礼儀正しさは重要ですよね。 それができていなかった信長はの大うつけと呼ばれても仕方がないかと。 〇我慢強い努力家!?織田信長 そんな、大うつけと呼ばれた織田信長ですが、実は我慢強い努力家でもあります。 信長は、竹槍の訓練試合を見て周囲が驚く新しい戦法を発明していました。 それは槍をふつうの物より長いものを作ること。 戦国時代の槍の長さの常識は、一間半(約2. 7メートル)。 ですが、信長は三間半(約6. 4メートル)と言う長さに改めたそうです! 一見単純に見えますが、 信長の研究と努力の賜物なのだそうです。 また、織田信長が天下布武を出す前、 当時力があった武田信玄や上杉謙信に贈り物を送っていた時期があるんです! しかも、武田信玄に「兵馬の法、政治の道を教えてもらいたい!」。 そうやって武田信玄と戦う気がないこと伝えたんだとか。 新しい戦法を発明したり、強者に礼儀を見せることで戦闘を回避する等、 ただの大うつけでしたら絶対にしないでしょうね。 時期には強者に対し礼儀を尽くすことでことができた、とても慎重な戦国武将です。 〇人間らしい優しい面も もちろん、信長にも優しい面があります。 今の関ヶ原町山中に「山中の猿」の呼ばれている男が暮らしていたそうです。 彼は体に障害があり、物乞いをして生きていました。 その道を頻繁通っていた信長は、この男を見かけるたびに可哀想だなと思っていたみたいです。 ある時、信長は山中村の人々を集めて「山中の猿」に木綿20反を与えたそうです。 そして、一言。 「これを金に換えて、この者に小屋を建ててやれ。 それから、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、おれはとても嬉しい」 そしてその場に居合わせた人々は皆、涙を流しました。 織田信長イケメンじゃないですか!! どうですか?エピソードを聞いて印象が変わりましたか? また、比叡山焼き討ちも織田信長は理由もなしに焼討したのではなかったそうです。 当時の比叡山は、腐敗堕落した僧兵・僧達が多数いたが、 天皇ですら一歩引く権力を持っていたので誰も立ち向かえない状況だったから。 事前に延暦寺側に言っていた条件を、延暦寺側が破った制裁。 そもそも、焼き討ちなんてなかった。 様々な説がありますが、どうやら焼き討ちしたとしても何かしらの理由はあったみたいです。 今までのエピソードを見ても、ホトトギスのたとえのような短気で冷酷な人ではなさそうですよね。 どちらかというと個人的には、かなり合理的で時に人情に溢れた人間だったと思います。 短気で冷酷な人なら、そもそも部下がついてきませんしね。 何かしらの魅力が無ければ、とっくに暗殺されていたでしょう。 なので、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」な人間ではないと思います!!.
次の
『鳴かぬなら 放してしまえ ホトトギス』 とも言われているという。 この句はそれぞれの武将の性格を表すものだというが、どちらにせよ明智光秀にあったのは、『優しさ』という一面だったようだ。 私は基本的に、この明智光秀タイプだ。 決して織田信長というタイプではなく、むしろそういう人間を軽蔑視することろがある。 今までずっとそうだった。 逆に弱い人間に見えるのだ。 力に支配されているように見える。 時代次第ではカリスマ性を発揮するが、それが偶然だっただけのように見える。 少なくとも私だったら絶対にそれに屈することはない。 本気を出して、秀吉タイプに変わるイメージだ。 基本的に、 『鳴かぬなら 別に無視しろ ホトトギス』ということで、ちょっと冷たい人間のように見られてしまうかもしれない。 しかしそれは、『人目を気にしていない』からそうするのであって、以前、精神未熟な時、人からなんと言われるか、どう見られるかを気にしていた時代なら、違うことを言って、悦に入っていただろう。 だが、という人物がこういうことを言っている。 優しい人を演じる人は、その人と問題を解決し、ゲラゲラと笑っている時、 遠い地球の片隅で、人が理不尽に殺されていることをどう思っているだろうか。 まさか、『自分とは無関係だ。 だから今日も大笑いする。 』と言うわけではあるまい。 いや、別に言ってもいいが、私にはそういう人間があまり高潔な人には見えない。 人間、なるようにしかならない。 そしてそれは人間だけでなく、この世の一切の森羅万象がそなっているのだ。 それを無理やり、人為的に捻じ曲げようとする行為は、越権的である可能性がある。 私も、目の前で子供が明らかな迷子で泣いていたら、手を差し伸べる確率は100%だ。 だが、『ホトトギスが鳴いていない』からといって、それを無理やりどうにかするつもりはない。 越権的だからだ。
次の