松尾 芭蕉 弟子。 松尾芭蕉のお弟子たち

松尾芭蕉の人物像と人生年表まとめ!名言・俳句・死因も解説

松尾 芭蕉 弟子

松尾芭蕉とは? 奥の細道行脚之図 芭蕉 左 と曾良 森川許六作 出典 Wikipedia 松尾芭蕉は江戸初期に活躍した俳諧師です。 俳諧とは俳句の源流となったものです。 生涯に何度も旅に出かけ、歌枕(歌に読まれる名所)を訪ねました。 晩年の紀行文である奥の細道が特に有名ですね。 後に旅の滞在先の大阪で亡くなりました。 最期まで旅と俳諧に生きた人生でした。 俳諧とは 俳諧の正式名称は俳諧の連歌です。 元々の連歌は和歌に影響を受け、風流や美しさを表現していました。 連歌は使える言葉の制約も多く、庶民にも楽しめるよう制約を緩め、滑稽さや言葉遊びを意識した俳諧というジャンルが生まれます。 芭蕉は俳諧の中に自然への思い・人生への思いを込めた蕉風を確立。 芭蕉の句は俳諧界に衝撃と感動を与えたのです。 これが元となり、明治には正岡子規により俳句が生まれます。 芭蕉は日本人特有の感性を表現し、それを日本中に浸透させた、日本を代表する文化人でした。 芭蕉についての動画 こちらの動画では旅に生きた芭蕉の人生観について分かりやすく紹介してあります。 松尾芭蕉の生い立ちと生涯 俳諧との出会い 芭蕉翁生家 出典 Wikipedia 芭蕉は本名を松尾宗房と言い、忍者で有名な伊賀国で生まれます。 松尾家は平氏の末流で苗字を名乗る事は出来ましたが、身分は農民でした。 13歳の頃に父が亡くなり、兄が跡を継ぎますが、その生活は貧しかったようです。 農家の次男という立場から家を出て、10代の頃に藤堂家の料理人として働きます。 芭蕉は自分の2歳上の藤堂良忠に仕えます。 良忠は文化人であり北村季吟から俳諧を学んでおり、芭蕉も共に学んでいました。 25歳の時に藤堂良忠が27歳で死去し、同時に藤堂家から離れます。 悲しみと追慕の念から、ますます俳諧にのめり込んでいきました。 下積み時代 関口芭蕉庵 出典 Wikipedia 藤堂家から離れた後の動向はよく分かっていません。 29歳で初の撰集『貝おほひ』を伊賀天満に奉納します。 この頃は言葉の軽快さに重きを置いた作品であり、皆さんのイメージする俳諧ではありませんでした。 31歳の時に師匠の北村季吟から俳諧の腕を認められます。 それを機に江戸に移り、多くの俳人と関わります。 俳諧の指導料だけでは生活が厳しく、水戸藩邸「分水工事」の帳簿付けの仕事も行っていた記録があります。 俳諧師として名が売れてきた芭蕉でしたが、36歳の頃に突如江戸を去り、隅田川東岸の深川に草庵を結び隠棲します。 理由は諸説あり、金や名声に躍起になる俳諧界に絶望したとも、家事で焼け出されたから、内縁の妻との間に何かがあったとも言われます。 旅に想いを馳せる 古池やの句碑 出典 Wikipedia 深川に移ってからの俳諧は徐々に侘び寂びの傾向が出てきます。 旅に想いを馳せる事も増えていきました。 そして40歳の時に母が他界し、芭蕉は墓参りも兼ねて旅に出ます。 江戸か伊勢へ、その後奈良、京都、名古屋、木曽などを半年間巡ります。 この時の紀行文が有名な 野ざらし紀行でした。 野ざらし紀行から戻った後は感性も磨かれていたのか、有名な 古池や蛙飛び込む水の音 の句を詠み、芭蕉風の俳諧を象徴するものでした 旅に行きた人生 OLYMPUS DIGITAL CAMERA 河合 曾良 出典 Wikipedia その後は44歳の年明けに高野山、奈良、神戸を旅して 笈の小文を作成。 秋には長野県に行き 更級日記を表します。 翌年にはまた旅への思いが疼き、芭蕉は弟子の曾良を同行させ、 奥の細道の旅に出ました。 東北から北陸地方を巡り、岐阜に至る2400kmの旅であり、45歳の年齢では大変な困難が予想されていました。 しかし芭蕉はこれを成功させます。 旅の後は、京都嵯峨に滞在し嵯峨日記を完成させます。 その後、48歳で江戸に戻ります。 晩年 松尾芭蕉像(葛飾北斎画)出典 Wikipedia 芭蕉の旅の事は江戸の俳諧界に知られており、江戸に戻った芭蕉を待ち受けていたのは来客の嵐でした。 この頃に、私を捨てて自然の中に身を委ねるという軽みの境地に芭蕉は辿り着きました。 前後する頃に芭蕉の最高傑作である奥の細道の紀行文が完成したのです。 松尾芭蕉の死因・最期 俳聖殿 出典 Wikipedia 奥の細道を完成させた後、芭蕉は西国の弟子に軽みの極意を伝える為に旅に出ました。 5月に江戸を出て、9月には大阪に到着。 連日の句会で体力を消耗したのか、急に発熱、頭痛、下痢等の症状が出て体調を崩します。 一度回復はしたものの、再び症状は悪化して10月に芭蕉は亡くなりました。 死因は食中毒、赤痢とも言われていますが現在に至るまで不明です。 芭蕉は亡くなる4日前にも 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 旅先で病んでも、見る夢は枯野を駆け巡る時の事だ と詠んでいます。 辞世の句と思われがちですが、前詞に病中吟と書かれており、結果的に芭蕉が最期に読んだ詩になっただけですね。 芭蕉の死後8年後に奥の細道は出版されたのです。 松尾芭蕉の人生年表 伊賀国分寺跡 出典 Wikipedia 年齢 年 出来事 0歳 1644年 伊賀国で誕生 13歳 1656年 父が死去し、兄が家督を継ぐ 19歳 1662年 藤堂家に奉公し、この頃より俳諧の道に入る 29歳 1672年 初の撰集『貝おほひ』を伊賀天満宮に奉納 33歳 1677年 俳諧の免許皆伝となり、日本橋に住む 36歳 1680年 江戸を去り深川に隠棲する 40歳 1684年 母の死を受け、野ざらし紀行の旅に出る 45歳 1689年 西行500回忌に合わせて奥の細道の旅に出る 49歳 1694年 奥の細道が完成する 同年 旅先の大阪で死去 松尾芭蕉の性格と人物像エピソード 性格 芭蕉の師である北村季吟 出典 Wikipedia 芭蕉が俳諧を学び出したのは藤堂家に仕えた時ですが、当初はあまり興味がありませんでした。 歳の近い主人に真面目に仕え、趣味も同じなら士分に取り立てて貰えるのでは、と考えていたようで、強かな面もあったようです。 その後の芭蕉は俳諧にのめり込みます。 奥の細道の大変な旅路も成功させたように、 「一度決めたらとことんやり遂げる」と言う性格だったのですね。 エピソード 俳諧の指導者の収入は句会の出座料や、短冊や色紙の依頼、そして弟子への指導料でした。 しかし芭蕉は弟子からはお金を受け取らなかったようです。 収入は短冊や色紙の依頼や、句会の出座料が主だったようです。 奥の細道の旅は芭蕉も覚悟を決めており、深川の家を売って、旅費に当てています。 足りない分は各地の出座や添削で収入を得ていたそうです。 しかし旅は意外に過酷ではなく、行く先々で芭蕉は手厚く出迎えられています。 同行した曾良の旅日記では、芭蕉は各地の有力者の家に泊めてもらい、酒や蕎麦、うどんなどをよく食べていたそうです。 松尾芭蕉の名言 蕪村画 逸翁美術館 出典 Wikipedia 松のことは松に習え、竹のことは竹に習え 意味:万物にはそれぞれに特徴があり、それぞれに学ぶ天がある 場所は様々な言葉を俳諧に取り入れました。 旅や学びで得たものは俳諧となって生かされました。 古さと古人の跡をもとめず、古人の求たる所をもとめよ。 意味:古人の残したものを形だけ求めるのではなく、その精神を学べ 空海の言葉を芭蕉風にアレンジしたものです。 芭蕉は歌枕の場所を回りました。 これは何となく言葉を使うのではなく、実際にその場所に存在する精神を学ぶ為でした。 芭蕉の人生観を表す名言ですね。 松尾芭蕉の弟子や子孫 蕉門十哲 芭蕉は多くの弟子がおり、特に優れた10名を「蕉門十哲」と呼びます。 解釈により中の人物が多少入れ替わる事があります。 宝井其角…第一の門弟であり江戸座を開く。 芭蕉と異なり平明かつ口語調の洒落風を起こす。 宝井其角 出典 Wikipedia 服部嵐雪…其角と双璧をなす。 作風は柔和な温雅さを特徴とする。 内藤丈草…丈草発句集などを著書とする。 向井去来…芭蕉の代表作 猿蓑の編集に関わる。 この4人は常に十哲に選ばれており、芭蕉の有力な弟子だったようです。 森川許六…晩年になり入門し、芭蕉に絵を教える。 各務支考…美濃派の始祖。 多くの弟子を育成する。 杉山杉風…蕉門の代表的人物で、芭蕉の金銭的なサポートをする。 立花北枝…奥の細道の旅の途中で入門。 志太野坡…芭蕉の遺書を代筆する。 越智越人…更級日記の旅に同行。 が通説ですが、 河合曾良…奥の細道に同行 広瀬惟然…笈の小文の旅の後に入門。 擬態語や口語の句が特徴 服部土芳…芭蕉の同郷の後輩。 俳論を整理した三冊子の著書がある 天野桃隣…芭蕉の甥と言われている人物 芭蕉自身は俳論や句集を残した事は殆どありません。 弟子達が著書にしたり、更に弟子に教える等して芭蕉の俳論は現在に引き継がれていきました。 寿貞 内縁の妻 芭蕉は生涯独身でしたが、日本橋に住んでいた時に寿貞という女性と家庭を持っていました。 寿貞は出家した時の名前で、当時の名前は不明です。 出身地は同じく伊賀であり、日本橋で住む前から恋仲だったと言う説や、妾だったと言う説もあります。 その後芭蕉は深川に隠棲しますが、その時に寿貞とは住んでおらず、その期間に何かがあったと思われます。 元禄7年6月に死去し、芭蕉はその死を嘆き 数ならぬ身となおもいそ玉祭り と詠んでいます。 それから4ヶ月後に後を追うように亡くなっています。 次郎兵衛 寿貞には一男二女 次郎兵衛・まさ・ふう がいました。 通説では3人共芭蕉の子ではないという事ですが、次郎兵衛だけは芭蕉の子という説があります。 次郎兵衛は俳諧師ではないですが、芭蕉の最期の旅にも同行しており、芭蕉は次郎兵衛の腕の中で亡くなったエピソードもあり、他の子よりも関わりは深かったようです。 次郎兵衛のその後についての記録はありません。 3人の子も芭蕉の子でない事が通説なので、芭蕉の直系の子孫はいないと考えて良いでしょう。 芭蕉の意志は俳諧の中に生き続けています。 松尾芭蕉のゆかりの地 義仲寺 松尾芭蕉の墓 出典 Wikipedia JR膳所駅・京阪電鉄膳所駅の北約300mにある寺院。 こちらに芭蕉のお墓があります。 木曽義仲公の側に葬って欲しいと言う遺言通りに埋葬されました。 義仲寺はわびさびを感じられる雰囲気があり、旅の途中に何度も立ち寄っていました。 境内にある無名庵で句会も開きました。 義仲の優しさや忠義に好感を持っていたそうです。 円成院 こちらは芭蕉の遺書を代筆した志太野坡が1734年に建立しました。 風化が酷く1783年に再建していますが、こちらも風化しています。 四天宝寺 元々は志太野坡のお墓があった場所です。 芭蕉のお墓は志太野坡の20回忌に門弟が建てたものです。 隣同士に建てられています。 浄春寺 こちらの門前にも芭蕉のお墓があり、こちらは死後100回忌に建てられました。 円成院、四天宝寺、浄春寺の3つのお墓は全て大阪市天王寺区にあります。 大阪には芭蕉を慕う門人や後世、芭蕉の顕彰に努めた人達により、他にも多くの墓が建てられています。 芭蕉記念館 東京都江東区常盤にあります。 芭蕉が深川に隠棲し、新たに俳諧活動を始めた場所に作られました。 奥の細道の紀行文の展示等、貴重な資料がある他、定期的に俳句大会が開かれています。 松尾芭蕉の作品・俳句 足立区にある芭蕉像 出典 Wikipedia 野ざらし紀行 母の墓参りを目的に伊賀国に向かい、そこから関西方面を半年程回ります。 江戸橋の俳諧の論争に疲れていた芭蕉はこの旅を通じ、真の人間の生き方や自然の在りようを学ぼうとしていました。 野ざらしを心に風のしむ身かな と詠み残して旅だったように悲壮な決意で臨んだ旅でしたが、旅の目標が達成されたのか、 辛崎の松は花より朧にて 等に代表されるような侘び寂びの心境を反映したものとなります。 鹿島詣 筑波山の月見や禅の師匠に会う為に旅に出ます。 結局筑波山は雨で月見は果たせず、 月はやし梢は雨を持ちながら と残念がる歌を残しています。 笈の小文 高野山や和歌浦を経て、奈良や明石を旅しています。 この旅は父の33回忌の法要が目的でしたが、この頃は芭蕉の名は全国に売れており、各地の門人から招かれるようになります。 箱根こす人も有るらし今朝の雪 等の歌があります。 更科紀行 美濃にいた芭蕉が帰路の旅に出た時の紀行文です。 信州更科の姥捨山で月を展望するのが目的でした。 木曽街道は物理的にも危険も多く、山賊に会う危険もありましたが、旅を成功させます。 姥捨山で月見をした芭蕉は 俤 おもかげ や姥ひとり泣く月の友 と詠んでいます。 奥の細道 西行の500回忌に合わせて東北と北陸を回った旅の集大成です。 冒頭の月日は百代の過客にして…というフレーズは有名ですね。 夏草や兵どもが夢の跡 五月雨をあつめて早し最上川 等皆さんも知る句を残しています。 芭蕉は歌枕に使われる場所に実際に行き、変わらない本質と変わり行く変化の両面を実感し 不易流行という思考に至ります。 松尾芭蕉を題材にした作品 小説 高橋政光 松尾芭蕉 作者が14年もの年月をかけて執筆した小説 上中下巻の3部作という長編です。 芭蕉の生涯について詳しく書かれていますが、史実と異なり、ドラマティックに描かれている事も多いです。 アニメ アニメーション作家 川本喜八郎 出典 Wikipedia 連句アニメーション 冬の日 松尾芭蕉七部集 芭蕉の作品「冬の日」にかかれた連句を、国内外のアニメ作家35組が各々の解釈で手がけ、それをリレー形式で表現した中編アニメです。 ドラマ 隠密・奥の細道 松尾芭蕉が忍者だったという説を元に作られた時代劇です。 水戸黄門の命を受けた2人の隠密とくの一が、芭蕉一行を装いながら、芭蕉の道中を見守るストーリーです。 芭蕉一行は旅を続けているので、奥の細道で回った場所は史実資料に基づいています。 内容は勧善懲悪モノですね。 松尾芭蕉と服部半蔵は同一人物? 北斎漫画による忍者の図 出典 Wikipedia 結論から言うと皆さんがイメージしている服部半蔵とは時代が違うので別人です。 服部氏は徳川家康の祖父の代から仕えた忍者の一族です。 服部半蔵は服部氏の当主の事を指します。 有名なのは徳川家康に仕えた2代目服部半蔵です。 では何故芭蕉が服部半蔵であると噂されるかと言うと、芭蕉には忍者説があるからです。 芭蕉は奥の細道で2400kmもの距離を150日で旅しており、1日42km歩いた事になります。 忍者等の特別な訓練を受けていないと成し遂げられません。 奥の細道の旅は仙台藩の動向を探るように幕府から命をうけていたという事です。 怪しい点として… ・旅の際、各地の関所を通過出来ている 当時は関所を越えるには手形が必要だが、幕府の命を受けていれば可能である ・母は伊賀流忍術の祖とされる百地丹波の子孫という説がある。 ・奥の細道で楽しみにしていた松島は1泊しかせず句も残さなかった。 逆に仙台藩の軍事要塞等を執拗に見学していた。 ・奥の細道に随行した曾良は後には諸藩の政治状況や幕令の実施状況を調査する役人となった 等があります。 これらももし芭蕉が忍者であれば辻褄はあいますが、証拠はありません。 これらの噂が服部半蔵に結びついたものと思われます。 真実がどうであれ、芭蕉が日本を代表する文化人である事に違いありません。 sakura. intweb. city. koto. ict. html.

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松尾芭蕉とはどんな人?生涯や年表まとめ【俳句や名言、性格についても紹介】

松尾 芭蕉 弟子

概要 [ ] 森川許六の「師ノ説」(『風俗文選』所収)に「其道を継ぐ十哲の門人」 とあるのをはじめ、各務支考らもこれを説いているが、10人が誰に当たるかについては諸説ある。 なお、蕉門十哲を表す語としては、「蕉門十哲」のほか、のにならう「十大弟子」という語もある。 この種の語の初見は、許六の「宝永元年記」の「去来誄」で、これに「猶生き残りたる十大弟子の中にも」とあるため、この種のものは、元年以前、末ころに発唱されていたのではないかと推測する見解がある。 一般的な蕉門十哲 [ ] 一般には、竹内青々編『続俳家奇人談 』(3年())の筆とされる賛画に描かれた、次の10名とされることが多い。 このうち、其角、嵐雪、去来、丈草は,江戸期の諸書を通じて十哲に挙げられている。 許六、杉風が挙げられることも多い。 (たからい きかく) 元年() - 4年() 蕉門第一の高弟。 江戸座を開く。 (はっとり らんせつ) 3年() - 宝永4年(1707年) 其角とならんで蕉門の双璧をなす。 (むかい きょらい) 4年() - 宝永元年() 嵯峨野に別荘「落柿舎」を所有。 芭蕉よりとともに「」の編者に抜擢される。 (ないとう じょうそう) 寛文2年() - 宝永元年(1704年) (もりかわ きょりく) 2年() - 5年() 晩年になって入門。 画の名人で芭蕉に画を教える。 (すぎやま さんぷう) 4年() - 享保17年() 本名は杉山市兵衛。 蕉門の代表的人物で芭蕉の経済的支援者。 のの近くに庵があり、「採荼庵」(さいだあん、さいとあん)と云った。 (かがみ しこう) 寛文5年() - 16年() (たちばな ほくし) 生年不詳 - 享保3年() 「」の道中の芭蕉と出会い入門。 (しだ やば) 寛文2年(1662年) - 5年() 芭蕉の遺書を代筆。 (おち えつじん) 2年() - 没年不詳 蕉門の門人。 「」の旅に同行。 その他の蕉門十哲 [ ] 以下のような人選をしたものも見られる。 出典 [ ]• 『風俗文選・和漢文操・鶉衣』(『風俗文選』巻之四)• 『蕉門十哲』7頁• 『』(『俳人逸話紀行集』に収録)• 『蕉門十哲』5頁• 『蕉門十哲』5-6頁• 『鮫洲抄』• 『俳人百家撰』• 『蕉門十哲』6頁 参考文献 [ ]• 春秋楼編『鮫洲抄』12年序• 緑亭川柳ほか編『俳人百家撰』博文館,1894• 森川許六編『風俗文選・和漢文操・鶉衣』有朋堂,1922• ,『俳人逸話紀行集』,1915• 『』岩波書店,1932• ほか編『俳諧大辞典』,1957• ほか編『総合芭蕉事典』,1982• ほか監修,尾形仂ほか編『俳文学大辞典』,1995.

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近江を愛した松尾芭蕉~「幻住庵」で俳句の世界へGO

松尾 芭蕉 弟子

出生の頃の伊賀上野 芭蕉が生まれた伊賀上野は、関ヶ原の合戦で戦功をあげた藤堂高虎の支城であった。 当時の伊賀上野は人口1万人余りの城下町。 藤堂高虎は、はじめは浅井長政に仕え、のち豊臣秀吉に仕えて伊予宇和島7万石を経て、伊予国の石高半分にあたる今治城主(20万石)ののち、伊勢中部と伊賀一国を与えられた。 高虎は徳川家康の命を受け、大坂豊臣方との決戦に備えて伊賀上野に戦国最末期の城砦都市を築いた。 芭蕉が生まれたとき、城代として上野を治めていたのは藤堂姓を与えられた藤堂采女(うねめ)であった。 出生・生い立ち 松尾芭蕉は、寛永21年(1644)に現在の三重県伊賀市に生まれる。 松尾与左衛門の次男として生まれる。 長兄・半左衛門、姉1人、妹3人の6人兄弟であった。 父・与左衛門は上柘植村の松尾氏の出。 青年期に別家し赤坂町に移住した。 母は、伊予宇和島から伊賀名張に移住した桃地(百地)氏の出と伝えられる。 幼名は「金作」で、成長して藤七郎・忠右衛門・甚七郎などと名乗った。 本名は松尾忠右衛門宗房(むねふさ)。 俳号は、最初は宗房(そうぼう:本名を音読したもの)、後に桃青(とうせい)。 芭蕉(署名は「はせを」)という俳号は庵号(芭蕉庵)に由来するもので、日常的にはよく使用していたが、「芭蕉桃青」などと署名した。 藤堂家との関係 芭蕉と良忠 伊賀上野でも窪田政好・保川一笑らと共に熱心に活動していた芭蕉は、これの親交が縁で、藤堂新七郎家の良忠(藤堂良精の三男、俳号:蝉吟)に若くして(18〜19歳頃)料理人として仕えるようになったといわれている。 2歳年上の良忠とともに、京都の北村季吟に師事して本格的に俳諧の道へ。 良忠とは俳諧の仲間でもあった。 良忠の死 芭蕉23歳のとき、良忠が25歳で亡くなる。 主君であり文学仲間でもあった良忠の死は、青年・芭蕉に大きなショックを与えた。 この後、藤堂家の奉公を辞める。 (藤堂家を出た時期は定かでない。 その上、上野にしばらくとどまったという説と、京都へ遊学したという説がある。 ) そして、29歳のときに芭蕉の最初の出版物、三十番発句合『貝おほひ』を著わし、伊賀上野の天満宮に奉納し、文運の隆盛を祈った。 江戸出立・伊賀と江戸の往還 芭蕉江戸へ出る 寛文12年(1672/29歳)、芭蕉は、俳諧師を夢見て江戸に下った。 そこで、磐城平7万石の城主「内藤義概(よしむね)」こと「風虎」の文学サロンに参加、様々な俳人と交わることになる。 当時の彼の収入源は神田上水の水道工事の書記と俳句の会合での採点をする時の点料と指導料であったとも言われている。 延宝3年(1675/32歳)5月、江戸本所の大徳院蹤画(しょうかく)亭において、東下中の西山宗因歓迎の連句が興行された。 そこに参加したメンバーが後の芭蕉の人生に大きく関わることになる。 参加メンバーについて• 宗因:江戸初期から俳諧を席巻してきた「貞門派」に対し、延宝期から流行した「談林派」の中心人物。 芭蕉は宗因流の新しい波に大いに賛同し、心酔していった。 幽山:本名高野直重。 芭蕉は、彼の句会の書記役を勤めたともいう。 信章:後に山口素堂と称し、芭蕉とは一生の友として関わっていくことになる。 他 蹤画(大徳院住職)、木也、吟市、少才、似春、又吟、そして桃青(芭蕉) 芭蕉「俳諧師」に 延宝6年頃(1678/35歳)に「宗匠」となり、いわば職業的な俳諧師となった。 宗匠立机(そうしょうりっき=俳句の師匠として一門を率いる手続き)をした。 延宝8年(1680年/37歳)には江戸深川隅田川畔に「草庵」を結ぶ。 門人李下(りか)より芭蕉の株を贈られ、この木が大いに茂ったことから、この庵が「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、俳号としても「芭蕉」を好んで用いるようになる。 すでにこの頃芭蕉には、20人ほどの門弟がいた。 天和2年(1682)の大火によって芭蕉庵を失うも、9か月後弟子達の援助により再建される。 野ざらし紀行へ 貞享元年(1684/41歳)8月、門人千里(ちり)を伴い、伊勢神宮に詣で、伊賀上野に帰郷、前年亡くなった母の墓参もし、そののち大和・吉野・美濃を巡り、翌年4月江戸に戻った。 このときの紀行文を『野ざらし紀行』と言う。 この頃、今までの貞門・談林派の言葉遊びの滑稽趣味から離れ、自然や庶民生活の詩情を余韻豊かに表現して、新たに蕉風俳諧を打ち立て、俳諧を和歌と対等の地位に引き上げた。 再び芭蕉庵を・・・第二次芭蕉庵 貞享2年(1685/42歳)、弟子たちの力添えによって再び芭蕉庵が作られ、約2年間文学活動にいそしむ。 貞享4年(1687/44歳)〜元禄4年(1691/48歳)・・・旅の時代 貞享4年(1687/44歳)10月に江戸を旅立ち、尾張・伊勢桑名を経て、年の暮れに伊賀上野に帰郷し、実家で新年を迎える。 元禄5年(1692/49歳)・・・第3次芭蕉庵 芭蕉の考え方が大きく変化し、門弟の中には離反するものも出てきた。 この後も何度か伊賀上野に帰郷している。

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