この項目では、カルタゴの将軍について説明しています。 その他の用法については「」をご覧ください。 の長子。 ハンニバルは「の恵み」や「慈悲深きバアル」、「バアルは我が主」を意味すると考えられ、 バルカとは「光」という意味である。 を開始した人物とされており、連戦連勝を重ねた戦歴から、カルタゴが滅びた後もローマ史上最強のとして後世まで語り伝えられていた。 2000年以上経た現在でも、そのは研究対象として各国の組織から参考にされるなど、としての評価は非常に高い。 で流通している5紙幣に肖像が使用されている。 詳細は「」を参照 にハシュドゥルバルがされると、ハンニバルはまだ26歳ながらも、軍隊にとして指名され、カルタゴから承認を受ける。 そしてイベリア半島のを取り、エブロ川南方の制圧に着手した。 当時カルタゴはローマとを境界として相互を結んでいたが、ハンニバルの力を恐れたローマはエブロ川南方にある都市サグントゥム(現)と関係を結び、彼の侵出を阻止しようとする。 しかし、ハンニバルはサグントゥムを攻撃し、八ヶ月後にさせた。 ローマはハンニバルの行動を違反としてカルタゴ政府にを要求したが、ハンニバルの絶大な人気の前に、カルタゴ政府は彼に対して何の手も打てなかった。 、ハンニバルはカルタゴ・ノウァを出発。 はじめハンニバルの軍勢は 90,000人(リビア兵 60,000、スペイン兵 30,000)、 12,000(ヌミディア兵主体)、 37 頭、カルタゴの通り多数のが含まれていた。 ハンニバルはエブロ川を渡ったところで、歩兵 10,000 人、騎兵 1,000 人をからエブロ川までの守りに残し、また遠征に不安を抱いたスペイン兵は帰還させた。 ハンニバルの軍勢は歩兵 50,000 、騎兵 9,000 、戦象 37 頭となった。 これを率い、ハンニバルはピレネー山脈を越えに入った。 ローマはハンニバルのガリア侵入に気付いたが、深いのためにすぐに彼の軍勢の所在が分からなくなった。 ハンニバルはを渡るにあたり、騎兵を上流から先発させて対岸のガリア人を掃討し、妨害を排除したが、渡河は危険であり、多くの犠牲が出た。 ここでハンニバルの軍勢は歩兵・騎兵あわせて 46,000 まで減った。 戦象も 30 頭は健在だったようである。 この渡河の際、ローヌの下流を巡回していたハンニバルの騎兵 500 が、ハンニバル軍を探索するローマ騎兵 300 と戦闘になった。 索敵していたローマの、が現地に駆けつけたが、彼の到着の3日も前にハンニバルは渡河を終え、に向かっていた。 このハンニバルのアルプス山脈越えのルートは詳しくは分かってはおらず、現在でもの間で意見が異なっている。 ともあれ、ハンニバルは山中のガリア人を驚かせるために、戦象を先頭にしてをはじめた。 途中で遭遇したには「敵はローマ人だ」と伝え、基本的には金品を贈って懐柔した。 が降るほどのや、狭い山道となど、行軍は困難をきわめたが、彼らはアルプスを越えた。 イタリアに到着した時点で、ハンニバルの軍勢は歩兵 20000 、騎兵 6000 にまで減った。 ついにハンニバルはへ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。 (別名、ハンニバル戦争、 - )の始まりであった。 トレビアの戦い [ ] 詳細は「」を参照 こうしてに勢力基盤を築き上げると、ハンニバルはさらに勢力を拡大すべくの春に南下を開始し、に侵入する。 これに対し、ローマでは新たな執政官グナエウス・セルウィリウスとが再びハンニバルの進路を阻もうと進軍するが、で敗北、2人の執政官は戦死した。 この勢いに乗じてローマのに離反を促すため、ハンニバルは()へ向かった。 ハンニバルは「戦勝を材料として同盟都市を離反させ、その上でローマを滅ぼす」というを立てていた。 戦勝の中でローマ本軍とそのには厳しく接する一方、同盟都市の捕虜は丁重に遇してローマからの離反を促すメッセージを託して即時するなど、を重ねていたのである。 そうした戦いの中、不衛生な沼沢地の行軍などにより、疫病で左目の視力を失った。 ここに至ってローマは非常事態宣言を発令し、をに任命する。 ファビウスはハンニバルと対峙しつつ直接の戦闘は避けるという方針で臨んだ。 ハンニバルはアプーリア(現在の)を荒し回りへ進軍したが、ファビウスはハンニバル軍に接近するものの、ハンニバルが戦いの火蓋を切ろうとすると退くということを繰り返す。 カンナエの戦い [ ] カンナエの戦いの図 、ローマの執政官にとが当選した。 このうち、ファビウスの戦法に不満を持つウァッロはハンニバルに対して果敢に立ち向かってゆく。 ウァッロはローマ軍を増強し、同盟都市からも兵を募って、ハンニバルのいるアプーリアへ南進した。 しかしハンニバルはウァッロの性急さを利用して決戦に持ち込み、史上有名なでローマ軍を完膚なきまでに叩き潰す。 この戦いでは 50,000 から 70,000 人のローマ兵士が戦死あるいは捕虜になったという。 これ以降、ローマはハンニバルに対して消極的な戦法に徹することになる。 勝利したカルタゴ側では余勢を駆って一気にローマを攻略すべきだという意見があり、特に騎兵隊長のが強く進言したが、ハンニバルはやの不足という戦略上の理由から、首都への進軍を選択せずにローマ同盟都市の離反を図ることを決定する。 この時、マハルバルはハンニバルに対し「あなたは勝利を得ることができるが、それを活用することは知らない」と言ったという。 ハンニバルは紀元前216年にを、にを離反させ、島の都市を反乱させるなど成果を挙げたが、それらを除いては目立った成果を上げられず、以後イタリア半島では一進一退の膠着状態が続く。 上記の戦勝を背景にした工作にもローマと同盟都市の結束は崩れず、このことがハンニバルの戦略的誤算として祟っていく。 のと同盟したハンニバルは本国にを要求したが、カルタゴ政府はこの戦争に対して初めはを取っており、をローマに握られているせいもあって、ハンニバルは本国とうまく連携することができなかった。 ローマ側の反撃、スキピオ登場 [ ] ファビウスの消極戦法は次第に効果を発揮し、ハンニバルの行動は領内に封じ込められるようになってきた。 これに対してハンニバルはにのとも同盟を結び、ローマを内外から圧迫してゆく。 スキピオの胸像 だがローマはハンニバルをイタリア半島に封じ込めながら、国外の敵対勢力を各個に・無力化して行く。 にがハンニバルの本拠地であるイベリア半島をし、またギリシアのと結託することで東方のの押さえとしている。 ハンニバルは、に進撃するが、同年にタレントゥムを失ってしまう。 またにはを攻略するローマ軍を蹴散らし、執政官を戦死させるものの、タレントゥムの損失は大きく、補給のおぼつかない彼の行動地域は制限を受けてしまう。 さらにローマが地方、地方を取り戻すと、南イタリアでのハンニバルの戦略的な主導権は奪われてしまう。 、ハンニバルは再度北上してアプリア地方を制圧、ここでイベリア半島から西進する弟・の支援を待ったが、ハスドルバルはその途上にで戦死してしまう。 さらにハンニバルと行動を共にしていた弟・の攻略失敗、またピリッポス5世との連携の失敗などによって、南イタリアでの主導権回復の術を失う。 このようにローマはハンニバルの指揮下にない敵対勢力を徐々に削り取っていった。 ハンニバルがアプリア地方に封じ込まれる中、ローマではヒスパニアで功績を挙げたスキピオが攻勢に転じようとしていた。 島を占拠した後、彼はそこを拠点にしてを募り養成していたが、カンナエの戦いの失敗から攻勢への転換に踏み切れない元老院は、当初スキピオに渡航許可を与えなかった。 曲折を経てようやく元老院の許可(実際は黙認であり、スキピオへの援助・援軍は約束されなかった)が出たスキピオは、軍勢とともにアフリカに渡航する。 いきなりハンニバルを無視して本土に現れた敵にカルタゴ政府は驚き、王国の率いる騎兵を援軍として戦うが敗北した。 このに狼狽したカルタゴ政府は、態度を一変してローマとの交渉とハンニバルの召還を画策、休戦交渉は成立するか見えたが、ハンニバル召還の露見によって休戦交渉は反故となった。 ともあれ、ハンニバルは十数年ぶりに故国カルタゴに戻る事となった。 ザマの戦い [ ] 詳細は「」を参照 スキピオは先の会戦で王を追撃して王位から引きずり下ろし、ローマ側についていたをヌミディア王に即位させていた。 これによって、今まで重要な騎兵兵力をヌミディアに依存していたカルタゴ軍は、ローマに対する騎兵の優位を失った。 このような状況の中、ハンニバルはスキピオに直接交渉を打診し、、ハンニバルは対峙する両軍の前でスキピオと会見した。 ハンニバルはスキピオに対して、ローマとカルタゴは相互不可侵とし、を境に北をローマ領とし、南をカルタゴ領とするという休戦条件を提案する。 しかしスキピオはこのたびの戦争はハンニバルのザグントゥム侵略が発端だと指摘、ローマ人はカルタゴ人を信用できないと拒否する。 個人的には互いの才能を高く評価していた2人であったが、交渉は決裂した。 ザマの戦いはそれまでのハンニバルの戦いと異なり、歩兵ではカルタゴ有利なものの騎兵ではローマ軍に劣るという状況であった。 この劣勢を覆すためにハンニバルは先頭にを配備した。 敵に戦象がいる事を知ったスキピオは、で編成されているを広い間隔で配置し、直進しかできない戦象を回避させ、無力化する事に成功した。 大集団の密集したを基幹とするカルタゴ軍は機動力に勝るローマ軍の騎兵に後方から攻撃され、また前面からはローマ歩兵に包囲されて大敗した。 これによってカルタゴの地中海での優位性は完全に失われ、第二次ポエニ戦争はカルタゴの敗北に終わった。 戦後 [ ] カルタゴ再建 [ ] 第二次ポエニ戦争後、カルタゴはの同盟国になることを強要され、膨大なを課せられ、国の前途も危ぶまれた。 しかしそれまでカルタゴの政治を牛耳っていた貴族たちが権勢を失い、敗軍の将であるハンニバルの返り咲きが可能になった。 彼は先頭に立って母国の経済建て直しを図る。 ハンニバルは行政の長であるに選ばれ、改革の陣頭指揮を取る。 まず名誉職に過ぎなくなっていたスッフェトの権限を回復し、自分に権限を集中させた。 次いでカルタゴの行政母体である「104人委員会」の改革に着手する。 によって議員を任命することとし、またの支持を背景に議員のを終身から2年へと変更した。 ハンニバルのは効果を挙げた。 そして改革の結果返済を完遂し、彼はとしてのみならずとしての手腕の高さも証明した。 シリアへ亡命 [ ] 詳細は「」を参照 続いてハンニバルはの回復を目指すが、不可能と思われた賠償金の返済をやり遂げた事が、逆にを始めとするローマの反カルタゴ派の危機感を募らせる事にも繋がってしまった。 また、ハンニバルの改革は効果的ではあったが、かなり強引なものでもあり、カルタゴ国内に反ハンニバル派の台頭を許してしまう。 反ハンニバル派は「ハンニバルがシリア()と内通している」とローマに讒言し、ローマは事実関係を究明するために調査団の派遣を決定した。 身の危険を感じたハンニバルはカルタゴを脱出し、のためシリア王の許へ走った。 セレウコス朝ではアンティオコス3世のとして意見を具申したともされ、シリアがに突入した際、ハンニバルはシリア軍のの一人としてローマと対峙するが、若いや王に疎まれて意見は採用されず、でシリア軍将軍との連携不足のために敗北する。 そしてセレウコス朝自体もまたで大敗を喫して、アンティオコスはを余儀なくされた。 確かにハンニバルはローマを滅亡の渕まで追い込むことに成功した。 しかしローマはハンニバルと戦うことで、ハンニバルの包囲殲滅戦術を身につけ、マケドニア戦争やにも完勝する程の強大な存在となっていた。 最期 [ ] シリア戦争の後、ハンニバルはローマの追っ手から逃れる為に、さらに沿岸の王国へと亡命した。 暫くはローマ側もハンニバルがビテュニアへ留まっていたのを知っていたが、元老院の使者としてビテュニアを訪れたはビテュニア王()に対し、ハンニバルの身柄の引渡しを迫った。 これを察知したハンニバルは逃亡を図ったが、果たせずに自害した。 に首を絞めさせたとも、毒薬を仰いだとも伝わっている。 なお、没年はかとされるが、ハンニバルのかつての好敵手スキピオ・アフリカヌスもローマ元老院のを受けて政界を退き、ローマを離れた地で紀元前183年に没している。 死後の評価、エピソード等 [ ] ローマ人の評価 [ ] ハンニバルはローマ史上最強の敵としてローマ人の記憶に残った。 ハンニバルにまつわる記述のほとんどは後世のローマ人によるものであるため、当然ながらローマの敵として彼の能力は高く評価されつつも、人間味のない恐るべき将軍として書かれている。 多くの記録には決まり文句のように「彼は残虐きわまりなかった」と書かれており、ティトゥス・リウィウス、さらにでさえもそのような表現を使っている。 後世のローマ人は彼を、偉大なるローマに立ち向かった同じぐらい偉大な畏敬すべき強敵として認識していたようで、このカルタゴ人の像を街の中心地に建立するというようなこともあった。 エピソード [ ] ザマの戦いから数年後、に亡命していたハンニバルは、使節として同地を訪れたスキピオと再会し、しばし言葉を交わしたというエピソードがによって伝えられている。 スキピオが史上もっとも偉大な指揮官は誰かと問いかけると、ハンニバルは「第一に、第二に(王)、そして第三に自分だ」と答えた。 スキピオが重ねて「であなたが私を破っていたら」と問うと、「アレクサンドロスを越えてわたしが史上第一の指揮官になっていた」と率直に答えたという。 とは言え、ハンニバルの用いた包囲殲滅戦術は現代の陸軍士官学校でも必ず教材として使われるほど完成度の高いものである。 またリウィウスの『ローマ史』によればハンニバルはこう語ったという。 「いかなる超大国といえども、長期にわたって安泰であり続けることは出来ない。 国外に敵を持たなくなっても、国内に敵を持つようになる。 外からの敵は寄せ付けない頑健そのものの肉体でも、身体の内部の疾患に苦しまされることがあるのと似ている。 」のちにローマではポエニ戦争の勝利に伴う社会構造の変化にうまく適応できず、と呼ばれる混乱の時代が訪れることとなる。 その他 [ ] ラテン語には「戸口にハンニバルがいた Hannibal erat ad portas 」、「危険が迫っていた」という意味の格言がある。 ここから転じ、イタリアでは今でも子供が悪いことをすると「ハンニバルが来てあなたを連れて行ってしまうよ」と叱ることがあるなど、ハンニバルが未だに恐怖の代名詞となっていることがうかがわれる。 他方、に制圧されてきた国では、彼らがカルタゴの後裔であると否とを問わず、ハンニバルを英雄として称える場合がある。 登場作品 [ ]• 『カルタゴの運命』1998年• 『』2009年 連載• ハンス・バウマン『ハンニバルの象つかい』• 『』 連載• 映画『』(1959年、イタリア、演:)• 8ヶ月もかかっているという事から、ハンニバルはは得意だったがは不得意だった、という評価がある。 逆に、ハンニバルはわざと戦いを長引かせ、ローマ側からさせることを狙った、という説もある。 こうすることで不可侵条約を無効にし、エブロ川の北へ進出することを狙っていた、というものである。 , pp. 305-306。 彼ら二人が参考にしたのはハンニバルの教師シレヌスの記録と、の記録だが、これらは現存していない。 この記録は現代の学者によっても踏襲されている。 例えば, p. 314• 「英雄伝」ティトゥス・フラミニウス20• 「ローマ建国史」39. 「英雄伝」ティトゥス・フラミニウス21• 参考文献 [ ]• 著『ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて』 ISBN:4-06-159720-5• 、長谷川博隆訳 ローマ歴史 モムゼン• 『歴史1』2004年 京都大学学術出版会• 『カルタゴ興亡史 ある国家の一生』1999年• ・監修、著『叢書アレクサンドリア図書館第三巻 英雄伝』1995年• アラン・ロイド(木本彰子訳)『カルタゴ 古代貿易大国の滅亡』 1992年• 、ムハンマド・ファンタール、登誠一郎特別座談会「カルタゴの興亡と現代日本」正論 1998年• 、『通商国家カルタゴ』、2009年9月。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ドイツ語: Barkas - 旧の商用車メーカー。 社名はハンニバルの姓「バルカ」に由来する。
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リーダーシップ、戦術・戦略眼、実績など、どこに注目して評価するかで変わってくると思います。 征服した面積で言えばチンギスハーン、アレクサンドロス、ティムールが三強なのですが、人口密度の低い地域が相当程度を占めていたりして難しいところです。 もともと遊牧民が自分の活動領域で強いのはある意味当然なので、その点割り引いて考えるべきかもしれません。 戦術能力という意味ではアレクサンドロスやハンニバルが卓越しているように見えます。 また、二人とも長期の戦役を個人のリーダーシップだけで持続させており(アレクサンドロスは最後限界になりますが、まあギリシャからインドまで行ったら普通そうなるよなという感じですよね)、この点でもすごいです。 その他の候補としてはカエサルとかフリードリヒ大王とかナポレオンとかでしょうか。 ナポレオンが最終的に参謀本部に負けてしまうことで、「個人」でなんとかなる時代はここで終わったと考えるべきであり、以降は個人としての強さとは分離して考えるべきだという気もします。 まあ南北戦争時のネイサン・フォレスト(軍事教育受けてないのに自分で兵力を集めて戦い、常に最良の策を提出するが無能な上司に阻まれる。 それでも単独で活躍を続け、シャーマンをして「あの悪魔のフォレストは、10,000名の損失と国庫の破滅を招いても追い詰めて殺さねばならない」と言わしめた怪物)みたいなのが居るから困りますが。 個人的にはハンニバルを推します。 アレクサンドロスは父親が完成させたマケドニア流のファランクスを受け継ぎ、もともと王であり、ペルシアへの報復という理由でギリシャを束ねて遠征に出るという有利な点がありました。 これに対してハンニバルは国家からの援助をほとんど受けず、私兵とアテにならないガリアなどからの援兵だけで10年以上にわたって完全な敵地で戦役を遂行し、複数回、兵力に勝る敵野戦軍を撃滅しています。 相手がローマでなければ余裕で勝てていたと思います。
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ハンニバル・バルカは紀元前247年、カルタゴに生まれました。 当時はローマとカルタゴの戦争、第一次ポエニ戦争の末期で、カルタゴ側の将軍ハミルカル・バルカが、ハンニバルの父です。 彼が20歳頃のときにハミルカルが亡くなり、その意志は娘婿のハスドルバルに引き継がれました。 ハンニバルも義理の兄であるハスドルバルのもとで過ごします。 紀元前221年、ハスドルバルが暗殺され、ハンニバルが後継者となりました。 このとき、弱冠26歳です。 そして紀元前219年、ローマの同盟都市サグントゥムを陥落させました。 ハンニバル戦争ともいわれる、第二次ポエニ戦争の始まりです。 ローマを屈服させるため、彼はイタリア本土を直接攻撃しようと考えます。 しかし制海権はローマが握っており、またカルタゴの侵入に備え、ローマはイタリア西部、南部の守りを固めていました。 そこで彼はアルプス山脈を越えて、北方から侵攻するという前代未聞の発想に至るのです。 紀元前218年5月、彼はスペインのカルタゴ・ノヴァを出発します。 そして9月、兵士約4万名と象およそ30頭を率いてアルプス越えに挑みました。 イタリアに到着したときには、兵士は2万6千名、象はわずか3頭に減っていたという、過酷な行軍でした。 ローマは、まさかアルプス側から侵攻してくるとは思っておらず、ただちに軍を出動させるも撃破されます。 彼はその後の戦いでも勝利を収め、北イタリアに勢力基盤を築くことに成功するのです。 そして南下を開始し、216年のカンナエの戦いでローマの大軍を包囲殲滅するなど次々と勝利を上げ、並行して同盟都市の離反も図っていきます。 しかし、多くの同盟都市とローマの結束は崩れず、膠着状態に入りました。 ローマ側の消極的戦法や、ローマ側の軍師プブリウス・スキピオの作戦により、ハンニバルはアプリア地方に封じ込められてしまいました。 そんななかスキピオはアフリカに渡航し、カルタゴ本土で戦いを開始します。 狼狽したカルタゴ政府はハンニバルを召喚し、紀元前203年、彼ははおよそ15年ぶりに故国に戻りました。 紀元前202年、スキピオと会見し休戦を提案しましたが、スキピオは拒否。 交渉は決裂しました。 第二次ポエニ戦争の最後の戦い、ザマの戦いの火ぶたが切って落とされたのです。 ハンニバルとスキピオ、2人の天才戦略家の戦いは、スキピオに軍配があがりました。 戦後、彼は先頭に立ってカルタゴの復興を図りました。 政治家としての手腕も高く、行政改革は確実な効果を上げ、不可能と思われた賠償金返済も完遂します。 しかしそのことが逆にローマ側の危機感をあおってしまいました。 また強引な改革に国内から反対の声もあがり、シリアへ亡命します。 ローマ・シリアの戦争ではシリア側の参謀の1人となりますが、意見は採用されず、敗北。 その後は逃亡生活を続けますが、追い詰められ、自ら命を絶ちました。 没年ははっきりしませんが紀元前183年~181年といわれています。 軍人であり、政治家であった天才はこうして世を去りました。 1:少年時代、「ローマに好意を抱かない」という誓いをたてた 紀元前237年、彼が9歳のとき、父mpハミルカルはカルタゴを離れスペインに向かいました。 そこにハンニバルを同行させるとき、父は息子にある誓いをたてさせます。 それは、ローマとの友好関係を否定するという誓いでした。 のちにシリアに亡命した際、ローマとの仲を疑われると彼自身がこのことを語り、幼いころからローマは敵であると主張したといわれています。 2:ギリシア的教養があった 父のもとにギリシア人の側近層が形成されていたこともあり、彼もギリシア的な教養を身につけていました。 ソシュロスからスパルタの王制などについて知識を得て、ギリシア・ヘレニズム世界の軍事関係の書物にも大きな影響を受けたのです。 特に、彼のアルプス越えをはじめとした遠征に深い影響を与えたのは、アレクサンドロス大王の偉業だといわれています。 3: 捕虜の扱いを通してローマと同盟都市の切り崩しを図った 彼は戦いに勝利するだけではなく、同盟都市を離反させることでローマの弱体化を図りました。 そのため、捕虜の扱いに大きな差をつけています。 ローマ本軍の捕虜には厳しく接する一方で、同盟都市の捕虜は丁寧に扱い、故郷に戻したのです。 「自分は彼らの独立のために戦うのだ」と示したこの心理作戦の効果は、戦場での勝利以上のものがありました。 彼にとって軍事的な勝利は、政治的な勝利の第1歩にすぎなかったのです。 4:牛を利用して退路を開いた 彼はユニークな戦略でローマ軍に圧勝を重ねましたが、戦場以外でも将軍として、彼のアイデアは光りました。 ローマ側がハンニバルの退路を遮断しようとした時のことです。 彼は2千頭の牛の角に松明を結びつけ、火を付けました。 夜陰に乗じて、大人数の軍隊が撤退していくようにみせたのです。 これを見たローマ軍は、道をふさいでも無駄だと考え撤収し、ガラ空きとなった道をハンニバル軍はゆうゆうと立ち去ったのでした。 5:ハンニバルはおじけづく味方を冗談で勇気づけた カンナエの戦いで、カルタゴ兵はあまりのローマ軍の数の多さにおじけづきました。 彼の近くにいたギスコが「なんと、敵の数の多いことか」と言ったところ、ハンニバルは「君は大事なことを見逃しているぞ。 あれほど沢山の人がいたって、あのなかにはギスコという人はいないのだ」と語り、皆を笑わせたのです。 この冗談は口から口へ広まり、兵士たちも心のしこりがとれ、勇気が湧いたと伝えられています。 そしてこの戦いは、カルタゴ軍の大勝利に終わりました。 6:味方の意見を退け、ローマへ進軍しなかった カンナエの戦いで大勝利をおさめたあと、彼の部下たちはローマに進軍すべきであると強く主張します。 しかし彼はそれを退けました。 騎兵隊長のマハルバルは次のように言ったといわれています。 「ハンニバルよ。 貴方は勝つすべは知っている。 だが、勝利の果実を刈り取ることはできないのだ」と。 しかし彼は冷静でした。 ローマは奇襲で落ちるような都市ではないし、攻囲戦の見通しも立ちません。 補給路も完全に確保できていないカルタゴ軍に勝ち目はないと、現実的に判断したのです。 そして彼はマケドニアのフィリッポス5世と通じ、国外から圧力をかけることを考えたのでした。 知られざるハンニバル像に挑む.
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