ベトナム 戦争 枯葉 剤。 枯葉剤とは? ベトナム戦争でアメリカによって撒かれた有害化学物質

枯葉剤とは? ベトナム戦争でアメリカによって撒かれた有害化学物質

ベトナム 戦争 枯葉 剤

はじめに RYOです 今回は「ベトナム戦争」についてみていきたいと思います。 漫画ゴルゴ13でもよく出てくるワードの一つ、 「ベトナム戦争」です。 ベトコンとか 枯葉剤とか 北爆なんて言葉も出てくるのでまさにゴルゴ13の話を思い出しながら書いていきます。 ベトナムの位置 まずはベトナムの位置を確認しましょう ベトナムはインドと中国の間にある半島(インドシナ半島)に位置し、割と日本と近めですね。 こんな感じです。 ではベトナム戦争の概要をみていきましょう ベトナムのざっくり歴史 まずはベトナム戦争に入るまでのお話を軽く確認しておきます。 中国による支配 ベトナムは1000年以上もの間、中国の属国として支配されていました。 しかし11世紀初めに宗主国中国との友好関係は維持しながらもベトナムとして自立しました。 フランスによる支配 そんな中、19世紀中頃にアジア進出を企てるフランスとの戦争 フランス=ベトナム戦争 に負け、ベトナム南部がフランスの直轄領になりました。 その後、ベトナム南部だけでなく中部と北部も支配しようとしたフランスに対して宗主国中国 当時は清 が抗議し、1884年に清仏戦争が起きました。 結局この戦いで清は破れてベトナムへの宗主権を放棄し、ベトナムはフランスの植民地になってしまいました。 日本による支配 1940年9月、本国フランスがドイツ軍に占領されたことを受け、ドイツの同盟国の日本は ドイツを応援する意味でも 北部ベトナムに進駐し、さらに41年7月に南部ベトナムを占領して植民地支配を始めました。 ベトナム民主共和国とインドシナ戦争 日本が第二次世界大戦で敗れた直後に、ベトナム人社会主義者ホーチミンが 「ベトナム民主共和国」の独立宣言を行いました。 これからも俺らの植民地としてやってくよな?」 とベトナムに舞い戻ってきました。 これに反抗し、 ベトナムとフランス軍の間でインドシナ戦争が起きました。 中国成立とアメリカ参戦 1949年、共産主義国家「中華人民共和国」が成立しました。 この中国成立に触発されてアジアが共産主義化するのを恐れたアメリカがインドシナ戦争でベトナムと戦っているフランス軍を応援し、共産主義を広めたい中国・ソ連がベトナム側を応援し ベトミン(+ソ連・中国) VS フランス・アメリカ というベトナムを戦場にして大国同士が争う構図になりました。 フランス軍降伏とジュネーブ協定 1954年 こうして、大国同士の代理戦争になったのですが ディエンビエンフーの戦いでベトナム人ゲリラがまさかの アメリカの武器援助を受けていたフランス軍を破ってフランス兵10000人を捕虜にしてフランスを完全降伏させました。 これによりジュネーブ休戦協定が結ばれ北緯17度を軍事境界線としてインドシナ戦争の休戦が成立しました。 北側はホー=チ=ミンを指導者とした社会主義体制、南側はアメリカに支持された親米派のゴ=ディン=ジェムを指導者とした自由主義体制になりました。 北側はソ連や中国が支持するベトナム民主共和国 北ベトナム 、南側はアメリカが支持するベトナム共和国 南ベトナム が成立しました。 これから、南北のベトナムの抗争に米ソの対立がからんできます。 南ベトナム解放戦線結成 1960年12月 アメリカが擁立したゴ=ディン=ジェム政権は独裁政治を行い、瞬く間に国民の支持を失って弱体化しました。 ゴ=ディン=ジェムに愛想をつかしたアメリカが裏でクーデターを画策し、ゴ=ディン=ジェムを暗殺。 次いでグエン=パン=チューが大統領となりましたが 再び国民を弾圧し政権は安定しなかったので、またまたアメリカが内々にクーデターを起こし大統領を変更する、ということを繰り返していました。 そんな中、1960年12月に 南ベトナム解放戦線(いわゆる ベトコン)という 反米を掲げる統一戦線が結成しました。 この南ベトナム解放戦線がベトナム戦争中にゲリラ戦を展開し、アメリカ側から ベトコンと呼ばれて恐れられました。 ここから ホー=チ=ミン率いる 北ベトナム軍及び 南ベトナム解放戦線 VS アメリカが支援する 南ベトナム政府軍及び アメリカ軍 の戦いになっていきます。 これ以降アメリカ軍は、悪名高き枯れ葉剤作戦を行っていきます。 ベトナム戦争開始 1965年 1964年 アメリカ海軍の艦船が北ベトナムの砲撃を受けたというトンキン湾事件をでっち上げて 勘違いして? 、翌年1965年にアメリカ軍が北ベトナムを空爆しました。 当時の空軍参謀総長のカーチス・ルメイは 北ベトナムを石器時代に戻してやる! と豪語して北爆を開始しました。 これがベトナム戦争の始まりです。 ベトナム戦争は 宣戦布告が無かったので、いつ始まったかは諸説ありますが基本的には 1964年8月のトンキン湾事件からか1965年2月の北爆開始からとされています。 アメリカ軍はベトナムがどういう国なのか、どういう文化を持っているのか、どういう国民性なのかを一切知らずに戦争を始めたのです。 枯葉剤作戦 アメリカ軍は1961年から1971年までの10年間、ベトナムのゲリラ達が隠れる場所『ジャングル』を枯らす 枯葉剤作戦を行いました。 アメリカ軍、仲間もジャングルに大勢いるのに、むごすぎるやろ・・・ テト攻勢 1968年1月30日 テトとはベトナムの旧正月のことで、1968年1月31日未明に北ベトナム軍の支援を受けた南ベトナム解放戦線がベトナム全土で一気に蜂起して 主要都市を一斉攻撃しました。 最終的にはアメリカ軍が勝ったものの、首都サイゴンにあったアメリカ大使館も奇襲によって一時的に占拠されたり、アメリカ軍と南ベトナム政府軍は大打撃を受けました。 これがきっかけとなってアメリカ国内でも反戦運動が巻き起こり 北爆の中止とベトナム和平会談の開催が決定付けられました ソンミ村虐殺事件 1968年3月 1965年の北爆開始以来、アメリカ軍は1968年までで 約223万トンの爆弾を投下し、 約50万人の地上軍を派遣しましたが成果はあまり上がりませんでした。 ベトコン達は地下に作ったトンネルでジャングルの中を自由自在に動き回り、至る所に地雷を仕掛けたり神出鬼没に現れてアメリカ兵を殺していきました。 ゴルゴ13でも良くある描写 また、 昼間は農民として仕事をして 夜は南ベトナム解放戦線のゲリラとしてアメリカ兵を奇襲する者もおり、アメリカ兵たちは 誰がベトコンで誰が一般人かが分からなくなっていきました。 ジャングルにいたアメリカ兵はベトコン達を極度に恐れて 精神障害をきたす者も大勢おり、一般の農民を見て「こいつらもベトコンだ」という強迫観念に駆られて次々に殺していく、という事が起き 怪しいと思えば女子供も関係なく殺していきました。 そして翌年1969年にアメリカ兵の ソンミ村虐殺事件が明るみに出て、世界的にベトナム反戦運動が盛り上がりました。 アメリカ軍、ベトナムからの撤退決定 ホーチミンルートの壊滅と有利な停戦交渉 という事で、アメリカ軍がベトナムを侵攻する正当な理由はあまりないんです。 なのでアメリカ側としては 「アメリカ軍の被害が大きくなってきたのでベトナムから撤退しまーす」 とは言えないんです。 なにか 正当な理由がなければならないんです。 そんな中、アメリカはある情報を掴みます。 それが 北ベトナムが、南ベトナム解放戦線にホーチミンルートを使って武器や物資を援助している という事です。 ホーチミンルートとは 北ベトナムからラオスやカンボジアを通って南ベトナムに武器や物資を届ける道 のことで、地図の方がわかりやすいので下に示します。 あえて色分けはしていません つまり、北ベトナムはソ連や中国から得た武器弾薬や食糧を ラオスやカンボジアを通って南ベトナムに運んでいました。 それを知ったアメリカ軍は1970年カンボジアに侵攻し、1971年にラオスを空爆します。 全ては ベトナムとの停戦交渉を有利に進めるためだったと言われています。 しかし結局成果は上がらず、軍事費の増大から深刻な経済悪化に苦しめられて1971年にドル危機が起こりました。 ラオスに残る不発弾 ラオスは別名 「人口1人あたり世界で最も爆撃を受けた国」とも言われています。 この爆撃がアメリカ軍の「ラオス空爆」であることは明らかですが、アメリカ軍が投下した爆弾のうち 約3割が不発弾として今もラオスに残っており、国土面積の3割以上が現在も危険地区となっているようです。 現在ではオスロ条約によって開発禁止になっている クラスター爆弾の不発弾が今もラオスには残っており、子供が森や畑で不発弾に触れて爆発する事故も頻繁に起き 毎日一人が死傷しているとも言われています。 丸い池 また、ラオス上空を飛行機で飛んでいるときに窓の外を見ると、 真ん丸の池が無数に見えるらしいのですが、それらはこのベトナム戦争時代に アメリカ軍によって落とされた爆弾の跡に水が溜まって池になった場所と言われています。 そう言えば、ぼくも日本からカタールに向かっているときにちょうどラオスとかベトナム上空くらいで 生い茂った緑の森の至る所にポカンと真ん丸な池がいっぱいあるのを見ました。 そん時は「へー、ほー」と思いましたが、今思うとそういう事やったんですね ニクソン大統領がベトナム戦争終結を宣言 1973年3月29日 そしてボロボロになったアメリカ軍は遂に1973年1月15日に、北ベトナムへの 全敵対行為中止を表明し、 ベトナム和平協定本調印を経てニクソン大統領が ベトナム戦争終結宣言を発表しました。 これによって南ベトナムに駐留していたアメリカ軍が完全に撤退しました。 「ベトナム戦争終結」を聞いて一番喜んだのは現地のアメリカ兵で、 個々人は本当は戦争など望んでいなかったと思わされるシーンでした。 南北ベトナム統一 1975年4月30日 その後もベトナム政府軍と南ベトナム解放戦線との 内戦は継続されますが、アメリカ軍の支援を失った南ベトナム政府軍は急速に弱体化し、1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は 完全に終結しました。 ベトナムではこの4月30日を独立記念日としています。 そして翌年1976年に「ベトナム社会主義共和国」が成立しました。 また、アメリカではベトナム帰還兵の社会復帰の困難さが深刻で「ベトナム症候群」とも言われています。 おわりに 以上がベトナム戦争の歴史でしたが、いかがでしたか? 色々と調べていて思ったのは、アメリカ合衆国という国自体はとんでもなく卑怯で非難されるべき行いも非常に多く腹立たしい限りですが、ベトナムという現地で戦っていた個々人たちは本当は戦争を望んでいない人がほとんどだったんだなと感じました。 それにより、帰国後癌でばたばた亡くなったり子供が産めなくなったりと今でも後遺症に苦しんでいる人がアメリカ人にもベトナム人にも大勢いるようです。 1992年11月生まれ 京都在住 旅する空手家 大好物は「旅」「自然」「カメラ」「空手」 そして「鶏天」と「麻婆豆腐」も... 顔に似合わずロマンチスト 関連する記事• 目次 1. はじめに2. クラーク絶滅計画3. 農業の集団化3. コルホーズ 集団農場 3. ソ フ ホーズ 国営農場 3. ウクライナの[…]• 目次 1. はじめに2. オットー一世とは3. 東フランク王国とキリスト教4. 政教分離の原則を破った「帝国教会政策」5. おわりに はじめに RYO[…]• 目次 1. はじめに2. 朝鮮半島の位置3. 第二次世界大戦終結 1945年8月15日4. 朝鮮半島分割5. 北朝鮮は社会主義、南朝鮮は資本主義に6. 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“3世代”にわたり奇形児が生まれ続けるベトナム戦争「枯葉剤」の悲劇写真10選! のっぺらぼう、顔面崩壊… 米国の残酷な戦争犯罪とは?

ベトナム 戦争 枯葉 剤

村山 康文 むらやま やすふみ フォトジャーナリスト 1975年4月30日、ベトナム・ホーチミン市 旧サイゴン にある統一会堂 旧南ベトナム政権の大統領官邸 に南ベトナム解放民族戦線の戦車が無血入城を果たし、ベトナム戦争は終結した。 54年、第1次インドシナ戦争終結後、ジュネーブ協定により、北緯17度線を軍事境界線としてホー・チ・ミン率いる北ベトナムとゴ・ディン・ジエム大統領率いる南ベトナムに分断される。 2年後に行われるはずだった全国選挙を南ベトナムが拒否し、ジエムはアメリカの軍事・経済援助を後ろ盾にファシズム的支配を強めていった。 弾圧された農民や仏教徒らは、反ジエムの姿勢を打ち出し、60年には南ベトナム解放民族戦線がうまれ、ベトナム戦争へと突入していく。 アメリカは61年から南ベトナムを援助し、南ベトナムが負ければ、東南アジア諸国から日本に至るまで次々と共産主義に支配されるというドミノ理論を擁してベトナムへの軍事介入を正当化する。 64年8月、のちにでっち上げだったことが判明したトン・キン湾事件 米軍の駆逐艦が北ベトナム軍の攻撃を受けたとデマを発表 を口実に、アメリカは報復爆撃を行った。 そして、翌年から本格的な北爆を開始した。 米軍は、ベトナム戦争の間に785万トンの爆弾を使用した。 物量の規模でいえば、第2次世界大戦をしのぐ史上最大の戦争だった。 米軍が北ベトナムに落とした爆砲弾は、病院や学校などの各施設を壊滅した。 なかでも長期にわたり人びとを苦しめているもののひとつに枯れ葉剤がある。 米軍が枯れ葉剤を使用したそもそもの目的は、解放戦線の隠れ家であるジャングルを絶滅させ、解放区で作られる農作物を汚染し、食糧を奪うためだった。 戦争当時、赤十字総裁だったレ・カオ・ダイ医師の著書「ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ 歴史と影響」によると、61年から10年の間に約7,200万リットルの枯れ葉剤を米軍は散布した。 その中に少なくとも170キロの催奇性や発がん性を持つ猛毒のダイオキシンが含まれていた。 現在も2世、3世への枯れ葉剤の影響が指摘され、ベトナム全土で8,000万人超の人口の中の100万人以上の人びとが枯れ葉剤による外形的障害、遺伝疾患やがんなどの後遺障害に苦しんでいるといわれている。 また、ベトナム戦争終結後に生まれた子どもたち15万人以上に重篤な疾患をもたらしている。 ホーチミン市にベトちゃん・ドクちゃんが分離手術を受けたツーヅー産婦人科病院がある。 中に障害者の発達をサポートするための「平和の村」と呼ばれる病棟があり、現在、生後間もない子から25歳くらいまでの約60人が生活をしている。 ツーヅー病院の04年の調査報告書によると、年間44,000人の出産のうち枯れ葉剤によると思われる先天性障害の子どもの出産は約700件、1. 障害を持った人びとが必ずしも施設に入れるわけではない。 重篤な疾患があっても入所できない場合も多い。 ドー・トゥイ・ユンさん、17歳。 ベトナム戦争終結から13年後、南部の大都市ホーチミン市から南西約200キロに位置するソクチャン省ミースエン県で生まれた。 のどかな田園風景が広がる田舎町。 ユンさんは、父親の浴びた枯れ葉剤が原因で、きれいな左の顔とは対照的に右半分が茶色く変色し、崩れ落ちている。 「娘が生まれたときには顔に障害はなかった。 小学校に上がるころに顔の崩れが始まったんです」、とユンさんの父ファットさん 61 は話す。 同じ国の人びとが殺しあった悲劇の戦争。 時には家族で敵味方に分かれて戦った。 300万人近くのベトナム人が死亡し、400万人のベトナム人が負傷。 米兵は58,000人が死亡したといわれている。 ファットさんは20代半ば、自然の恵み豊かな南部のメコンデルタで農業を営んでいた。 次第にファットさんにもベトナム戦争の足音が近づき、メコンデルタのドンタップ省にいた70年、政府軍の徴兵から逃れるため、右足の指を2本、自ら切り落とした。 それでもファットさんは結局解放戦線に入隊せざるを得なかった。 だが、戦闘に参加するのがいやで、兵士の食事を作ったり、村人の世話をする役をした。 ドンタップ省も戦闘が激化し、追われるようにベトナム最南端のカマウ省・ウーミンの森に移住した。 ウーミンの森は解放戦線の一大拠点で最も多くの枯れ葉剤が撒かれた場所のひとつだった。 ファットさんの頭上を飛び交う米軍機は、容赦なく大量の枯れ葉剤を撒いた。 ファットさんは、枯れ葉剤のしずくで濡れるジャングルに身をひそめ、川で魚を獲り、その水で育った米を食べて生き延びた。 「当時、人間に影響はなかった。 それがまさかこんな後になって影響が出てくるなんて・・・」。 ユンさんは、ベトナム政府から枯れ葉剤被害者に認定され、わずかばかりの援助を受けている。 しかし、枯れ葉剤を撒いたアメリカは、何の補償もしていない。 ベトナムでは、04年に「枯れ葉剤被害者協会」が設立された。 被害者協会と家族の27人が米製薬会社37社に賠償などを求める初の集団訴訟を起こした。 しかし、05年3月、ニューヨーク州のブルックリン地裁は、84年に米軍のベトナム帰還兵の枯れ葉剤集団訴訟に対しては1億8,000万ドルの補償金を支払ったにもかかわらず、ベトナムの枯れ葉剤被害者に対しては、ベトナムでの枯れ葉剤の使用が戦争終結直前の時点では国際法に反しておらず、また原告側が奇形などの症状と枯れ葉剤の因果関係を証明できていないと訴えを棄却した。 06年、ベトナム戦争終結からまもなく31年が経とうとしている。 現在も引きずり続けるベトナム戦争の傷跡。 アメリカは、再びイラクでベトナムと同じことを繰り返そうとしている。 米軍が使用する劣化ウラン弾は、障害を持った子どもがたくさん生まれる可能性が高い。 被爆したイラクの子どもたちが、ベトナムでの枯れ葉剤の影響で苦しむ子どもたちの二の舞になるのではないかと危惧する。 近年、ホーチミン市はみるみる華やかになり、世界中からの観光客があとを絶たない。 表向きには戦争の痕跡は見えにくくなっているが、ベトナム戦争が残した傷が癒せない人びとも数多くいる。 戦争は多くの人びとの身体だけではなく心に傷を残す。 枯れ葉剤被害者たちが私たちに訴えかけるものとはいったい何なのだろうか。 jp Asia-Pacific Human Rights Information Center HURIGHTS OSAKA 8F, CE Nishihonmachi Bldg. , 1-7-7 Nishihonmachi, Nishi-ku,Osaka 550-0005 Japan Phone: 816 6543-7002; Fax: 816 6543-7004; webmail [a] hurights. jp Copyright 1998-2018 HURIGHTS OSAKA. All Rights Reserved.

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ベトナム戦争で使われた「枯葉剤」とはどんな成分だったのですか?

ベトナム 戦争 枯葉 剤

はじめに RYOです 今回は「ベトナム戦争」についてみていきたいと思います。 漫画ゴルゴ13でもよく出てくるワードの一つ、 「ベトナム戦争」です。 ベトコンとか 枯葉剤とか 北爆なんて言葉も出てくるのでまさにゴルゴ13の話を思い出しながら書いていきます。 ベトナムの位置 まずはベトナムの位置を確認しましょう ベトナムはインドと中国の間にある半島(インドシナ半島)に位置し、割と日本と近めですね。 こんな感じです。 ではベトナム戦争の概要をみていきましょう ベトナムのざっくり歴史 まずはベトナム戦争に入るまでのお話を軽く確認しておきます。 中国による支配 ベトナムは1000年以上もの間、中国の属国として支配されていました。 しかし11世紀初めに宗主国中国との友好関係は維持しながらもベトナムとして自立しました。 フランスによる支配 そんな中、19世紀中頃にアジア進出を企てるフランスとの戦争 フランス=ベトナム戦争 に負け、ベトナム南部がフランスの直轄領になりました。 その後、ベトナム南部だけでなく中部と北部も支配しようとしたフランスに対して宗主国中国 当時は清 が抗議し、1884年に清仏戦争が起きました。 結局この戦いで清は破れてベトナムへの宗主権を放棄し、ベトナムはフランスの植民地になってしまいました。 日本による支配 1940年9月、本国フランスがドイツ軍に占領されたことを受け、ドイツの同盟国の日本は ドイツを応援する意味でも 北部ベトナムに進駐し、さらに41年7月に南部ベトナムを占領して植民地支配を始めました。 ベトナム民主共和国とインドシナ戦争 日本が第二次世界大戦で敗れた直後に、ベトナム人社会主義者ホーチミンが 「ベトナム民主共和国」の独立宣言を行いました。 これからも俺らの植民地としてやってくよな?」 とベトナムに舞い戻ってきました。 これに反抗し、 ベトナムとフランス軍の間でインドシナ戦争が起きました。 中国成立とアメリカ参戦 1949年、共産主義国家「中華人民共和国」が成立しました。 この中国成立に触発されてアジアが共産主義化するのを恐れたアメリカがインドシナ戦争でベトナムと戦っているフランス軍を応援し、共産主義を広めたい中国・ソ連がベトナム側を応援し ベトミン(+ソ連・中国) VS フランス・アメリカ というベトナムを戦場にして大国同士が争う構図になりました。 フランス軍降伏とジュネーブ協定 1954年 こうして、大国同士の代理戦争になったのですが ディエンビエンフーの戦いでベトナム人ゲリラがまさかの アメリカの武器援助を受けていたフランス軍を破ってフランス兵10000人を捕虜にしてフランスを完全降伏させました。 これによりジュネーブ休戦協定が結ばれ北緯17度を軍事境界線としてインドシナ戦争の休戦が成立しました。 北側はホー=チ=ミンを指導者とした社会主義体制、南側はアメリカに支持された親米派のゴ=ディン=ジェムを指導者とした自由主義体制になりました。 北側はソ連や中国が支持するベトナム民主共和国 北ベトナム 、南側はアメリカが支持するベトナム共和国 南ベトナム が成立しました。 これから、南北のベトナムの抗争に米ソの対立がからんできます。 南ベトナム解放戦線結成 1960年12月 アメリカが擁立したゴ=ディン=ジェム政権は独裁政治を行い、瞬く間に国民の支持を失って弱体化しました。 ゴ=ディン=ジェムに愛想をつかしたアメリカが裏でクーデターを画策し、ゴ=ディン=ジェムを暗殺。 次いでグエン=パン=チューが大統領となりましたが 再び国民を弾圧し政権は安定しなかったので、またまたアメリカが内々にクーデターを起こし大統領を変更する、ということを繰り返していました。 そんな中、1960年12月に 南ベトナム解放戦線(いわゆる ベトコン)という 反米を掲げる統一戦線が結成しました。 この南ベトナム解放戦線がベトナム戦争中にゲリラ戦を展開し、アメリカ側から ベトコンと呼ばれて恐れられました。 ここから ホー=チ=ミン率いる 北ベトナム軍及び 南ベトナム解放戦線 VS アメリカが支援する 南ベトナム政府軍及び アメリカ軍 の戦いになっていきます。 これ以降アメリカ軍は、悪名高き枯れ葉剤作戦を行っていきます。 ベトナム戦争開始 1965年 1964年 アメリカ海軍の艦船が北ベトナムの砲撃を受けたというトンキン湾事件をでっち上げて 勘違いして? 、翌年1965年にアメリカ軍が北ベトナムを空爆しました。 当時の空軍参謀総長のカーチス・ルメイは 北ベトナムを石器時代に戻してやる! と豪語して北爆を開始しました。 これがベトナム戦争の始まりです。 ベトナム戦争は 宣戦布告が無かったので、いつ始まったかは諸説ありますが基本的には 1964年8月のトンキン湾事件からか1965年2月の北爆開始からとされています。 アメリカ軍はベトナムがどういう国なのか、どういう文化を持っているのか、どういう国民性なのかを一切知らずに戦争を始めたのです。 枯葉剤作戦 アメリカ軍は1961年から1971年までの10年間、ベトナムのゲリラ達が隠れる場所『ジャングル』を枯らす 枯葉剤作戦を行いました。 アメリカ軍、仲間もジャングルに大勢いるのに、むごすぎるやろ・・・ テト攻勢 1968年1月30日 テトとはベトナムの旧正月のことで、1968年1月31日未明に北ベトナム軍の支援を受けた南ベトナム解放戦線がベトナム全土で一気に蜂起して 主要都市を一斉攻撃しました。 最終的にはアメリカ軍が勝ったものの、首都サイゴンにあったアメリカ大使館も奇襲によって一時的に占拠されたり、アメリカ軍と南ベトナム政府軍は大打撃を受けました。 これがきっかけとなってアメリカ国内でも反戦運動が巻き起こり 北爆の中止とベトナム和平会談の開催が決定付けられました ソンミ村虐殺事件 1968年3月 1965年の北爆開始以来、アメリカ軍は1968年までで 約223万トンの爆弾を投下し、 約50万人の地上軍を派遣しましたが成果はあまり上がりませんでした。 ベトコン達は地下に作ったトンネルでジャングルの中を自由自在に動き回り、至る所に地雷を仕掛けたり神出鬼没に現れてアメリカ兵を殺していきました。 ゴルゴ13でも良くある描写 また、 昼間は農民として仕事をして 夜は南ベトナム解放戦線のゲリラとしてアメリカ兵を奇襲する者もおり、アメリカ兵たちは 誰がベトコンで誰が一般人かが分からなくなっていきました。 ジャングルにいたアメリカ兵はベトコン達を極度に恐れて 精神障害をきたす者も大勢おり、一般の農民を見て「こいつらもベトコンだ」という強迫観念に駆られて次々に殺していく、という事が起き 怪しいと思えば女子供も関係なく殺していきました。 そして翌年1969年にアメリカ兵の ソンミ村虐殺事件が明るみに出て、世界的にベトナム反戦運動が盛り上がりました。 アメリカ軍、ベトナムからの撤退決定 ホーチミンルートの壊滅と有利な停戦交渉 という事で、アメリカ軍がベトナムを侵攻する正当な理由はあまりないんです。 なのでアメリカ側としては 「アメリカ軍の被害が大きくなってきたのでベトナムから撤退しまーす」 とは言えないんです。 なにか 正当な理由がなければならないんです。 そんな中、アメリカはある情報を掴みます。 それが 北ベトナムが、南ベトナム解放戦線にホーチミンルートを使って武器や物資を援助している という事です。 ホーチミンルートとは 北ベトナムからラオスやカンボジアを通って南ベトナムに武器や物資を届ける道 のことで、地図の方がわかりやすいので下に示します。 あえて色分けはしていません つまり、北ベトナムはソ連や中国から得た武器弾薬や食糧を ラオスやカンボジアを通って南ベトナムに運んでいました。 それを知ったアメリカ軍は1970年カンボジアに侵攻し、1971年にラオスを空爆します。 全ては ベトナムとの停戦交渉を有利に進めるためだったと言われています。 しかし結局成果は上がらず、軍事費の増大から深刻な経済悪化に苦しめられて1971年にドル危機が起こりました。 ラオスに残る不発弾 ラオスは別名 「人口1人あたり世界で最も爆撃を受けた国」とも言われています。 この爆撃がアメリカ軍の「ラオス空爆」であることは明らかですが、アメリカ軍が投下した爆弾のうち 約3割が不発弾として今もラオスに残っており、国土面積の3割以上が現在も危険地区となっているようです。 現在ではオスロ条約によって開発禁止になっている クラスター爆弾の不発弾が今もラオスには残っており、子供が森や畑で不発弾に触れて爆発する事故も頻繁に起き 毎日一人が死傷しているとも言われています。 丸い池 また、ラオス上空を飛行機で飛んでいるときに窓の外を見ると、 真ん丸の池が無数に見えるらしいのですが、それらはこのベトナム戦争時代に アメリカ軍によって落とされた爆弾の跡に水が溜まって池になった場所と言われています。 そう言えば、ぼくも日本からカタールに向かっているときにちょうどラオスとかベトナム上空くらいで 生い茂った緑の森の至る所にポカンと真ん丸な池がいっぱいあるのを見ました。 そん時は「へー、ほー」と思いましたが、今思うとそういう事やったんですね ニクソン大統領がベトナム戦争終結を宣言 1973年3月29日 そしてボロボロになったアメリカ軍は遂に1973年1月15日に、北ベトナムへの 全敵対行為中止を表明し、 ベトナム和平協定本調印を経てニクソン大統領が ベトナム戦争終結宣言を発表しました。 これによって南ベトナムに駐留していたアメリカ軍が完全に撤退しました。 「ベトナム戦争終結」を聞いて一番喜んだのは現地のアメリカ兵で、 個々人は本当は戦争など望んでいなかったと思わされるシーンでした。 南北ベトナム統一 1975年4月30日 その後もベトナム政府軍と南ベトナム解放戦線との 内戦は継続されますが、アメリカ軍の支援を失った南ベトナム政府軍は急速に弱体化し、1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は 完全に終結しました。 ベトナムではこの4月30日を独立記念日としています。 そして翌年1976年に「ベトナム社会主義共和国」が成立しました。 また、アメリカではベトナム帰還兵の社会復帰の困難さが深刻で「ベトナム症候群」とも言われています。 おわりに 以上がベトナム戦争の歴史でしたが、いかがでしたか? 色々と調べていて思ったのは、アメリカ合衆国という国自体はとんでもなく卑怯で非難されるべき行いも非常に多く腹立たしい限りですが、ベトナムという現地で戦っていた個々人たちは本当は戦争を望んでいない人がほとんどだったんだなと感じました。 それにより、帰国後癌でばたばた亡くなったり子供が産めなくなったりと今でも後遺症に苦しんでいる人がアメリカ人にもベトナム人にも大勢いるようです。 1992年11月生まれ 京都在住 旅する空手家 大好物は「旅」「自然」「カメラ」「空手」 そして「鶏天」と「麻婆豆腐」も... 顔に似合わずロマンチスト 関連する記事• 目次 1. はじめに2. クラーク絶滅計画3. 農業の集団化3. コルホーズ 集団農場 3. ソ フ ホーズ 国営農場 3. ウクライナの[…]• 目次 1. はじめに2. オットー一世とは3. 東フランク王国とキリスト教4. 政教分離の原則を破った「帝国教会政策」5. おわりに はじめに RYO[…]• 目次 1. はじめに2. 朝鮮半島の位置3. 第二次世界大戦終結 1945年8月15日4. 朝鮮半島分割5. 北朝鮮は社会主義、南朝鮮は資本主義に6. 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